http://movie.geocities.jp/tom_kasa55/column181.html
一連のこのコラムの文章を読むと、読者の皆さんは果たして僕が本来は左寄りの人間なのか、はたまた右寄りの人間なのか、にわかには判りづらいと思われるかも知れない。「ある世界観」では偏狭な右翼的思想(と呼べるほど立派なものではないが)を徹底的に揶揄しているかと思うと、最近の「ちょっとおかしいよ」や「コドモ噺二題」の第一部「コドモノクニ」では右寄りだと判断されてもおかしくない議論を展開してもいる。それも道理で、僕はもともと自分が右翼だとか左翼だとか規定した覚えはないし、そもそも「ウヨク」「サヨク」という分類が実はそれほど意味を持つものだとさえ思っていない。右翼、左翼という言葉は革命当時のフランス国会で、穏健な共和主義者のジロンド党が右側、後に恐怖政治を行い打倒される急進派のジャコバン党が左側に座っていたところから生まれたといわれている。いずれも現在の右翼、左翼のイメージとは大幅に異なる党派であった。現在では、左翼といえば共産党を最左翼とする社会民主主義政党を指し、右翼は保守・自由民主主義から最右翼の国粋主義にいたる政党を指すことになっている。僕自身は、選挙の時には一貫して左翼政党に票を入れてきたが、もちろん彼らの主張に全面的に賛同していたわけではない(全面的に賛同しなければ投票できないのでは、支持政党のない者は政治参加もできなくなる)日本の政治風土では長い間、野党=左翼政党であったのだからしかたがない。そもそも「政党」それ自体にさほど信頼を置いているわけでもなかったのだ。大切なのはバランスであり、国会に提出された法案をより多角的に吟味するためにも、強力な野党は不可欠である。野党に票を入れる理由はそれだけで十分だ。昔よくいわれた「何でも反対社会党」という言葉は、実は野党のもっとも重要な存在理由を言い表していたのである。
僕は自分に左翼のレッテルを貼られようが、右翼のレッテルを貼られようがそれは全然構わない。ただひとつ、貼られては困るのが「民族主義者」のレッテルである。まさかとは思うが、「コドモノクニ」の発言のみを取り上げてそうしたレッテル貼りを行おうとする輩が現れないとも限らない。「民族主義」という言葉にはけっこう広い意味があり、そのすべてを否定するわけではないが、少なくとも「~~主義者」と呼ばれるほど僕が民族主義に入れあげているわけではないことは確かだ。
「主義」という言葉を辞書で引くと、「堅く守る考え方」とか「常に守る行動上の方針」などといった意味が載っている。たとえば「民主主義」は「民主」つまり「権力を専制君主にではなく人民一般におくこと」が「政治運営の常に守られる方針」であるわけだし、「共産主義」は「生産手段を共有するプロレタリア革命を推し進めること」を「行動上の方針」とする考え方である。さて、では「民族主義」とは何だろう。これまで見てきた「~~主義」の「~~」はみな、動詞を名詞にした概念や理念である。つまり、ある理想を行動で実現しようとするのが「~~主義」ということになる。しかしながら、「民族主義」の場合の「民族」は動詞ではなく、始めから名詞である。ある行動をもって得られるものではなく、最初から「状態」として存在している。この文章を読んでいるあなたが日本人なら、帰化したり、結婚して後天的に日本国籍を得た場合を除けば、生まれながらに日本民族だったはずだし、在日朝鮮人ならやはり前述のような状態を除き、朝鮮民族として生を受けたはずである。こうした「であるべきこと」ではなく、はじめから「であること」につける「主義」という言葉は、おのずから本来の意味とは微妙にずれているのではあるまいか。ちなみに辞書によると、「民族主義」とは(1)同じ民族で国家を形作ろうとする主義(2)自分の属する民族の自立と発展を政治的、文化的な最高の目標とする主義、ということになっている。どちらの意味においても、「民族主義」とはなによりも「民族自決」(各民族は、他民族の干渉・支配を受けず、その民族自身によって政治その他を行うべきであるという考え方)を実現するための「行動上の指針」として機能してきたということができるだろう。
「民族主義」はナショナリズムとも言い換えることができるが、英語には似たような意味の言葉としてNationalismとは別にRacismという単語があり、日本語訳としては「人種差別」「民族的優越感」という否定的イメージのある言葉となる。しかし、日本語で用いられる「民族主義」のなかには、Nationalismより限りなくRacismに近い思想もありそうな気がするのだ。たとえば民族主義を旨とする政治結社は、ほとんどがいわゆる右翼団体そのものなのだが、彼らの外国人排斥思想などは明らかにNationalismの範疇を超え、Racismと断じても過言ではない。あるいは明治維新前夜の尊王攘夷思想に範をとっているつもりなのかも知れないが、尊王攘夷があくまでも辞書にある通り「民族自決」を実現するための「民族主義」思想そのものと言えるのに対し、右翼団体の考え方ははっきり差別主義的であり、「民族的優越感」そのものとすら言い切ってもいい。ちなみに右翼と民族主義がほぼ同義語なのはここが日本だからに過ぎず、たとえばロシアでは、共産主義と民族主義とが結びついた新しい形の極左暴力主義なども生まれている。思えばレーニンが一国革命論をぶち上げた当初から、ウヨク、サヨクという区別と民族主義とはまったく別のベクトルに存在していたのかもしれない。
「民主主義」も「共産主義」もともに完成形のない、より高い次元を目指さなければならない点で、「民族自決」を目指さなければならない状態に置かれた国民に似ている。しかし、前二者がいわばゴールのない戦いを強いられる「主義」なのに対して、「民族主義」にははっきりとしたゴールがある。他民族の支配を離れ、自らの手で政治を担うことができるようになるという、「民族自決」が達成された時点で、彼らの「民族主義」は完成してしまうのだ。逆に言えば、他国の干渉を受けない独立国をすでに手にしている民族にはもはや「民族主義」なる思想は、厳密には不必要なのだ。その状態においてまだ「民族主義」を主張することは、すでにNationalismの範疇を超え、Racismの領域に入りかけているといってもいい。NationalismとRacismの間のどこに線を引くかはなかなか難しい問題だが、たとえば強硬な民族主義者として知られているミロシェビッチ元セルビア大統領など、コソボ紛争の後に明らかになったアルバニア系住民に対する虐殺をみると、Nationalistというよりは、限りなくRacistに近い人物だったと思われる。結局のところ、その「民族主義」がどちらなのかを判断するには、個別に彼らが行った行為の結果を見るよりないのだろう。
海外に目を転じると、現在「民族主義」教育に熱心なのはなんといってもおとなり、中華人民共和国である。基本的に多民族国家である中国が民族主義教育に熱心なのはちょっと変な気がするが、「中華人民共和国」国民があたかも一つの民族であるかのような幻想を与えつつ「国家」としての統一を図ろうという、Racismの色彩が極めて濃いNationalismなのだといえるだろう。ここであえてRacismという言い方をしたのはもちろんわけがあって、ことの発端はいうまでもなく天安門事件である。急激な民主化に体制崩壊への危機感を募らせた中国共産党政権は、強硬な保守化路線へと政策を転換し、同時に大衆の目を国内から海外へと逸らすべく、愛国教育を一段と強化する。その時いちばんお手軽だったのが、教科書問題や靖国問題で何かとごたごたしがちな日本をやり玉に挙げることだった。日華事変や南京大虐殺などに関する90年代以降の「歴史」教育は、明らかに政治主導の強いRacism色を帯びたもので、こうした初等教育を受けて育った現在の若年層は日本に対して極端な敵意を抱いたまま成年し、最近多発している反日デモで投石を繰り返したりしている。実際のところ、2008年の北京オリンピックに影響を与えそうなこうした傾向に、中国政府としては戦々恐々な筈だが、民衆のエネルギーがみずからに向くことの方が遥かに恐ろしいので、結局のところ傍観するよりないのだろう。いずれにしろ、こうしたばかげた行動で損をするのは中国自身だということに、政府が気付いていないはずはない(短期的には観光収入の激減、不買運動による経済成長の鈍化、長期的には国家・政権そのものへの信頼度の低下や資本引きあげなどによる国際競争力の著しい低下などなど、悪影響は計り知れない)世界各国は中国のこうした官製紛争劇の内幕をすでに知り尽くしており、アメリカでは新聞の社説などでも「偏向した愛国主義教育の当然の結果」と書かれたりしているのだ。何も判っていないのは、騒いでいる当の若者たちだけだということだ。まあ、デモ参加者の様子をよく見ると、デート気分としか思えない様子の若者などもいてさほど切実さは感じられず、あれなら「打倒米帝」を叫んでデモに明け暮れたわれわれの世代の方が、遥かに危険だったような気もするが^^;一人っ子政策で甘やかされ放題に育った若者たちが、自らのアイデンティティーを隣国へのRacismに満ちた偏向教育からしか得られないとしたら、どのみちこの国に将来はないだろう。僕たちはただ座って彼らが自滅していくのを見ていればいいだけだ。
話がだいぶ逸れてしまったが、要するに「サヨク」「ウヨク」という言葉は相対的なものでしかなく、そこに絶対的な意味はない。しかるに「民族主義」にはしっかりと定義できる意味があり、少なくとも現状の「民族自決」を実現してしまっている日本には、わざわざ「主義」としてことさら強調する必要はないと僕は思っているわけだ。もちろんそうはいっても日本人をやめるわけには行かないから、身に付いたナショナリズムを否定することはできないし、その必要もない。ただ、戦前の日本人や現代のお隣さんたちを反面教師にして、Racismとの境界を越えないよう、常に意識しながら生きて行こうと思っている('05.04.10 記)
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