2013年3月27日水曜日

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Maputo The Beautiful Capital of Mozambique.wmv 



アップロード日: 2011/04/16
Maputo means in local language, Sea of the Portuguese,until 1975 was been called Lorenço Marques and his inhabitants nicknamed as Coca Colas.

カテゴリ 旅行とイベント
 
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Landscapes of Mozambique • Moçambique




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In Mozambique, Signs of Growth Seen Amid Rampant Poverty 



アップロード日: 2010/11/22
Read the Transcript: http://to.pbs.org/hAbaAE

In the first report of a three-part series, Ray Suarez reports on the southern African nation Mozambique, which has a growing economy but still remains one of the poorest nations in the world.

カテゴリ ニュースと政治

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UNCDF: Local Development in Mozambique 


アップロード日: 2007/01/29 Widespread poverty and a lack of functioning infrastructure present formidable challenges to Mozambique on its path to sustainable development. The country emerged from nearly 500 years of colonial rule and plunged straight into a devastating civil war that debilitated much of the infrastructure and undermined development efforts. This short video presents an overview of the UN Capital Development Fund's work to support development efforts in Mozambique, working from the bottom up and top down to empower local authorities to make their own decisions and set their own priorities. Filmed, edited and produced by Adam Rogers, UNCDF Head of Communications and Public Information.

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Mozambique 



アップロード日: 2011/06/10
説明はありません。

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Mozambique 2011.wmv 



アップロード日: 2011/06/15
Mozambique Maputo Xai-Xai Tofo Inhambane Vilankulos Magaruque Island slideshow

カテゴリ 旅行とイベント

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Misioneros por el Mundo, Misión Mozambique 



アップロード日: 2012/02/03
Programa Misioneros por el Mundo, Misión Mozambique, elaborado por Sandra Várez

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CALLEJEROS VIAJEROS en MOZAMBIQUE



アップロード日: 2011/03/19
説明はありません。

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Tourism in Mozambique.VOB



アップロード日: 2011/05/24
説明はありません。

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Safari in Mozambique

 

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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 1 - Mega Projects and Mining



アップロード日: 2009/10/22
When Mozambique emerged from a 17 year civil war in 1992, its economy was in tatters, infrastructure had been destroyed and there was no industry to speak of.
A peace deal between Frelimo and Renamo, put an end to the conflict. At the same time there were some important developments going on next door. The release of Nelson Mandela from 27 years of imprisonment and the ensuing democracy provided the impetus for further regional stability. And it set the stage for sound macroeconomic reform and rapid growth Mozambique would experience over the next decade.

カテゴリ  ニュースと政治

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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 2 - Bio-fuel and Diversifying the Economy



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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 3 - Financial Sector and Accessing



アップロード日: 2009/10/21
Mozambiques growth has been driven by political stability, foreign direct investment and aid inflows. But to make a d
omestic growth base for businesses there needs to be a sound and active financial industry. At the moment, Mozambiques financial sector is still decidedly small and dominated by foreign banks.

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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 4 - Tourism and Property



アップロード日: 2009/10/21
Since the end of the civil war, Mozambique has increasingly become a popular holiday destination, in particular, for South Africans. Its just a 6 hour drive from Johannesburg, just close enough for a long-weekend away. This in turn has prompted growth in property development.

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 Mozambique's president, Armando Guebuza


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF

モザンビーク

以下抜粋

モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家である。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバブエ、北西にザンビアマラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルコモロが存在する。首都マプト
ポルトガル植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1977年から1992年までモザンビーク内戦英語版が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV/AIDSの蔓延が問題となっている。ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国である。隣接国が全て英語圏の国家であるため、1995年からイギリス連邦に加盟している。

国名

正式名称は、ポルトガル語でRepública de MoçambiqueIPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ プーブリカ・デ・ムサンビー)。通称、Moçambiqueムサンビー)。
公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambiqueモウザンビー)。
日本語の表記は、モザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。

歴史


1683年のソファラ
この地域には約300万年前から人類が居住し生活していた。紀元前後には、サン(ブッシュマン)が居住していたが、バントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人・ローマ人が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。 この地域での歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称した、モノモタパ王国にさかのぼる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は現在のモザンビーク領のソファラを拠点にアラブ商人と香辛料象牙などの交易を行っており、中国陶磁器インド綿製品も手に入れていた。

ポルトガル植民地時代

1498年ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ英語版ポルトガル語: Estado da África Oriental、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)の首都モザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。
19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により事実上の奴隷労働制度が続いた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図ポルトガル語版」計画を発表したが、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルはザンビアジンバブエマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された[2]。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク英語版総督はイギリスフランス資本の勅許会社モザンビーク会社英語版ニアサ会社英語版ザンベジア会社ポルトガル語版に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも関わらず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対し、1894年ロウレンソ・マルケス襲撃など先住民による抵抗運動が頻発したが、それらは全てポルトガル軍により鎮圧された。1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。


モザンビーク解放戦線(FRELIMO)に対するポルトガルのプロパガンダ。
その後、第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は1951年にモザンビーク等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3,800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められたが、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。
しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連の援助を受けていたFRELIMOは冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以て解放軍に対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたが、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続し、約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。

独立と内戦

独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って白人国家ローデシアの国境を封鎖したが、この措置はモザンビークとローデシア双方の経済に大打撃を与えた。1977年にポルトガル領時代の元秘密警察PIDE英語版を母体としてローデシア諜報機関によって結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)は政府軍と衝突し、モザンビーク内戦英語版が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず[3]、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。
1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家ジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共の砦を自認していた南アフリカ共和国はローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を発動した。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは農村部で略奪、暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定英語版が締結され、南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはANCに対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた[4]。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死した。
内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、1989年東側諸国の勢力低下と合わせてモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年複数政党制自由市場経済を規定した新憲法を制定した。さらに、1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年ローマ和平協定英語版ローマで締結され、内戦は終結した。

内戦終結以降

内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。内戦終結に至ったのは、シサノ大統領の現実的外交(西側寄りに転換し、南アフリカとの交渉を進展させた)と経済政策の転換によって和平の道が開けたことが要因のひとつである。
1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結びつきを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結びつきを深めるためにポルトガル語諸国共同体に加盟した。内戦終結後のモザンビークはシサノ大統領の下で、1998年に南アフリカと日本の主要な投資で誕生したモザール社が経済発展の原動力となり、同時期に和平協定締結後も内戦が再燃したアンゴラのような失敗には陥らず、安定した政治と年率8%に及ぶ高度な経済成長を実現した。シサノの温厚な調整力や、モザンビークを安定に導いたリーダーシップは国際社会からも認められ、2003年にシサノはアフリカ連合の第2代総会議長に選出された。他方、HIV/AIDSの蔓延や、慢性的な医師不足の改善は進まず、国民の教育水準も低いままに留まった。
2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。

政治

大統領国家元首とする共和制国家である。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。
立法府たる共和国議会一院制であり、全250議席はすべて直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。
主要政党としては、モザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、モザンビーク民主運動(MDM)の名が挙げられる。

司法権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。

これまでの選挙
  • 1998年6月、地方選挙が実施された。投票率はきわめて低く、33自治体の平均投票率が15%に満たなかった。この背景には、教育水準の低位と環境の不整備などが挙げられる。
国際関係

独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシア南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。
ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルブラジルカーボ・ヴェルデアンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。
周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。
隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため[6]、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。

地方行政区画
モザンビークは、10の(província,プロヴィンシア)、及び、州と同格の1つの(cidade,シダーデ)に分かれる。北から順に、

ザンベジア州グルエー付近ののプランテーション。
通貨は新メティカルであり(2009年現在、1USドルはほぼ27メティカルである)、1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行によって償還される見込みである。USドル南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。
第一次産品の生産が主だが、鉄鉱石マンガンチタン(重砂)などの鉱産資源も多い。日本向け輸出はエビが多い。1980年代は内政の失敗に加え、内戦旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した[7]
日本三菱商事も出資したアルミ精錬事業のモザール社(主たる出資は南アフリカのBHPビリトン)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアアルミナを原料として輸入した上で、南アから供給される豊富・安価な電力のもとに精錬の後にアルミニウムとして輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダム水力発電(植民地時代にポルトガルが建設。つい最近までポルトガル所有であった)が、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。
2010年9月1日、首都マプトで、パンの値段が30%引き揚げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子ども2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府は、デモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVは、10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している。因みに、この国は国民の70%が貧困ライン以下で、世界で最も貧しい国の一つであるといわれており、失業率も54%に達している。[8]

鉱業

石炭や天然ガスなど有機鉱物資源には比較的に恵まれている。石炭の埋蔵量は約7億トンでモザンビークの主要鉱産物の一つである。2003年には南アフリカ企業による陸上ガス田が生産開始し、南アと輸出用ガスパイプラインで結ばれるなど、同国からの投資が近年増えている。

言語
公用語ポルトガル語である。その他、バントゥー諸語マクア語ツォンガ語ニュングウェ語英語版チェワ語ショナ語ロムウェ語マコンデ語等)やスワヒリ語も使われる。
モザンビークの言語状況は複雑である。1997年のセンサスによれば公用語のポルトガル語を第一言語とする人々は国民の8.8%であり[5]、第二言語とする人々の27%[5]を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず[5]、諸言語が混在する状態にある。

教育

ナンプーラの学校の生徒たち。
1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦英語版(1977-1992)の後、戦後の就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質は煽りを受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年には、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学率は2002年に300万人だったのが2006年には410万人に増加し、一方修了率は31,000人から90,000人に増加し、修了率の著しい低さを証明した[11]。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受けねばならず、中等学校は8年から10年までである[要出典]。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強を進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に開ける準大学である。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は47.8%(男性:63.5% 女性:32.7%)である[5]。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった[5]
主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。

保健

出生率は女性一人につき、約5.5人である[12]。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった[12]。2004年の一人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった[12]。2000年代初頭には、人口100,000人に対して医者が3人だった[12]。2005年の乳幼児死亡率は新生児1,000人に対して100人だった[12]。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える[12]
モザンビークのHIV感染率は高く、2007年のHIV感染者は約150万人であり[5]、感染率は12.5%である[5]

文化

モザンビーク島 - (1991年、文化遺産)。
イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響にもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られたアートの様式としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と、言語的影響を今も強く受けている。

著名な出身者

最終更新 2013年3月23日

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8A%A9

弥助

以下抜粋

生涯
黒人男性で、現在のモザンビーク出身とされる[2]天正9年2月23日1581年3月27日)に、イタリア人の宣教師(伴天連アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れてこられた[3]
信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26~27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される[4]
天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重症者が出るほどで、初めて黒人を見た信長は肌に墨を塗っているのではとなかなか信用せず、着物を脱がせて洗わせたという[5][6]
本当に肌が黒いことに納得がいくと信長はこの黒人を珍重し、自身に譲ってもらい「弥助」と名づけて士分に取り立てて身近に置くことにした。天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの『松平家忠日記』には、「名は弥助、身の丈六尺二寸(約187cm)、黒人男性、身は炭のごとく」とその容貌が詳細に記述されている。信長の甲州征伐の完了に伴う帰国途上での出来事で、弥助も従軍した。
天正10年6月2日1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと二条御所に行って戦った末、明智軍に捕縛された[3]。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、南蛮寺に送った[5]。この処遇は光秀のこの黒人に対する蔑視を現していると考えられる一方、弥助を殺すことが忍びないと思った光秀が生かすための方便であったとの意見もあるが[6]、真実は不明である。弥助の以後の消息は不明[3]

最終更新 2013年3月24日 (日)

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