2013年11月19日火曜日

安倍宗任

安倍宗任

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AE%97%E4%BB%BB

安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期の武将。陸奥国俘囚の長とされる豪族、安倍氏安倍頼時の子。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察されている[1]

前九年の役
奥州奥六郡岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)

配流
四国伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。

子供・子孫の行方
 
長男・安倍宗良

宗良は大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕え、剣術流派・安倍立剣道を開いた。

次男・安倍仲任
仲任は、薩摩国に行ったとされる。
三男・安倍季任
季任は肥前国松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。

子孫
松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗った。その子孫とされる著名人に政治家の安倍晋太郎安倍晋三親子がいる。安倍晋三内閣総理大臣にまでなった。

故事
岩手県盛岡市出身の貴族院議員で第18・22代東京府知事阿部浩は、平家物語にある「安倍宗任と梅の故事」にならい、安倍氏ゆかりの盛岡市安倍館町に別邸を建て、吾郷楳荘(現・一ノ倉庭園)と名づけた。これは、「吾が故郷の梅(楳)の荘」の意である。扁額の揮毫は伊藤博文で、現在は盛岡市原敬記念館が所蔵。厨川柵で潰えた安倍氏を偲び、同様の故事から盛岡市立厨川中学校の校章は「梅」を象る。
 
「わが国の梅の花とは見つれとも 大宮人は如何か言ふらむ」 安倍宗任

最終更新 2013年8月22日


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http://www.kajika.net/furusawa/20060709-2.htm
 
安倍宗任と安倍晋三

古沢 襄

安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。山口県と岩手県が、どう結びつくのか、晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。

それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。石至下史談会の「原姓安倍氏 豊間根家の栞」がそれだ。

そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪、宗任は後、宗像郡大島で生涯を閉じ、地元安昌院に眠る。(天仁元年 1108)。七十七歳であったという。
宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長の要職にあった安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。

裏付けをとるために「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏を調べてみた。そこには「肥筑の安倍氏」の項目に、鎮西要略に「奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され、則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称す」と載せたり。宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず、とあった。

さらに「筑前の安倍氏」の項目には、筑前国宗像郡大嶋に安倍宗任の墓と称するものあり。伝えて云う。「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」旧志略に見ゆ、とあった。旧志略の方が鎮西要略よりも詳しい。しかしいずれも配流された蝦夷の頭目という扱いになっている。

それが平家物語になるとガラリと変わる。その剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とある。平家は西国の水軍と密接な関係があった。松浦党はまさしく水軍で、後に博多湾に来襲した蒙古の軍船と壮絶な戦いを演じて、勇名を轟かせた。

また宗任の墓がある筑前国宗像郡大嶋は、水軍の根拠地となっている。この松浦党は壇ノ浦の海戦で平家方についた。だが、源氏との恩顧も忘れていない。平家物語は「源義家の請によりて、宗任を松浦に下して領地を給う」としている。

安倍貞任は猪突猛進型の武将だったが、宗任は知略に優れた名将といわれた。安倍一族を滅ぼした源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受けている。そして頼義の領地・伊予国に連れてきた。配流とは名ばかりで、間もなく松浦の領地を与えた。

さて安倍家が松浦姓を名乗らずに安倍の本姓を名乗ってきたのは何故であろうか。安倍家は山口県大津郡油谷町の名門で、晋太郎の父親は安倍寛、戦前の衆院議員である。晋太郎は自らを安倍宗任と末裔といったが、その根拠はいわなかった。

私は宗任の長男が祖となった松浦党の系譜ではなく、水軍の根拠地・大嶋に残った三男の末裔でないかと思っている。それなら安倍の本姓を名乗ってきたことの説明がつく。安倍家には、その言い伝えが残ったのであろう。

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前九年の役

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の奥州東北地方)を舞台とした戦役である。この戦いの結果、安倍氏が滅び、清原氏が東北の覇者となった。

この戦役は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説がある。また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。
さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。

陸奥国の土着の有力な豪族安倍氏[1]は、陸奥国の奥六郡岩手県北上川流域)に城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為、1051年(永承6年)、陸奥守藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、両者の間に戦闘が勃発した。この戦闘は、舞台となった玉造郡鬼切部(おにきりべ)の地名から「鬼切部の戦い」と呼ばれている。この戦闘では秋田城介平繁成も国司軍に加勢したが、結果は安倍氏の圧勝であり、敗れた登任は更迭され都へ帰った。

そこで朝廷は河内源氏源頼義を陸奥守とし、事態の収拾を図る。ところが頼義が陸奥に赴任した翌1052年(永承7年)、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。安倍頼良は陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。また1053年天喜元年)には頼義は鎮守府将軍となった。

頼義の陸奥守としての任期が終わる1056年(天喜4年)2月、阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生する。『陸奥話記』によると、事件の経緯はこうである。ある時、頼義が鎮守府から国府に戻る為に阿久利川の河畔[2]に野営していると、密かに頼義の元に密使が来て、「(頼義配下の在庁官人)藤原光貞元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た。」との情報が伝えられた。頼義が光貞を呼び出して事情を聞いたところ、光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と語った。そこで怒った頼義が貞任を呼び出したところ、頼時は貞任の出頭を拒否した為、再び安倍氏と朝廷は戦いに突入したとされる。
『陸奥話記』によると、このとき衣川の南にいた平永衡藤原経清(亘理権大夫)は頼義に従い配下の将となっていたが頼時の女婿であり、いつ裏切るかも知れないと疑われる微妙な立場にあった。この時点で永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を粛清した。同じ女婿という立場で将軍に従っていた経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を発し頼義軍が多賀城に急行している間に安倍軍に帰属した。経清の安倍氏帰属は前九年の役が長引く一因ともなった。
この事件については、頼義による謀略説の他、藤原説貞(光貞、元貞の父)など反安倍氏の在庁官人による謀略説がある。

1057年(天喜5年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司金為時を使者として、安倍富忠津軽俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功する。これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵胆沢郡金ケ崎町)にて横死してしまう。頼時の跡を継いだのは貞任である。

頼義は同年9月朝廷に頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来なかった。11月、頼義は再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃し、貞任に決戦を挑んだ。この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。
貞任は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)にて頼義軍を迎撃した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた頼義軍は大敗を喫し、頼義は長男の義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱する、という有様であった(黄海の戦い)。この敗戦で頼義は麾下の佐伯経範藤原景季和気致輔紀為清ら有力な武士を失う大打撃を受けた。

頼義が自軍の勢力回復を待つ間、1059年康平2年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく経清の白札で税金を徴するほどでありその勢いは衰えなかった。とくに、国衙の兵は鬼切部、黄海の二度の敗戦で補充が思うに任せなかった。そのため、頼義は関東、東海、畿内の武士に働きかけを行い麾下の兵力の増強に努めた。
1062年(康平5年)春、任期の切れた頼義の後任の陸奥守として高階経重が着任したが、郡司らは頼義に従い、経重には従わなかったため、経重は帰洛して解任され、再び頼義が陸奥守に任ぜられた。
苦戦を強いられていた頼義は中立を保っていた出羽国仙北秋田県)の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に「奇珍の贈物」を続け参戦を依頼したとも、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請したともいう。いずれにせよ、これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将として軍勢を派遣した。

この時の頼義・清原氏連合軍の陣立ては以下の通り。
第一陣、武則の子である荒川太郎武貞率いる総大将軍。
第二陣、武則の甥で秋田郡男鹿(現男鹿市)(山本郡島、現大仙市強首との説もある)の豪族志万太郎橘貞頼率いる軍。
第三陣、武則の甥で娘婿である山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍。
第四陣、貞頼の弟新方次郎橘頼貞率いる軍。
第五陣、将軍頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将武則率いる軍。
第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍。
第七陣、雄勝郡貝沢(現羽後町)の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。

朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義率いる軍は3千人ほどであった。
清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから頼義軍の優勢は続き、同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首された。こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。
清原氏参戦後、わずか1ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏と清原氏の間に密約が成立し、清衡の助命と引き替えの早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある[3]

12月17日頼義は騒乱鎮定を上奏。しかし1063年(康平6年)2月7日の除目では頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となった。貞任の弟宗任らは伊予国のちに筑前国宗像に流された。このことは『平家物語』にも記述が見える。武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任されて奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。経清の妻であった頼時の息女は敵の武貞の妻となり、経清の遺児(亘理権太郎。後の藤原清衡奥州藤原氏の祖)共々清原氏に引き取られたが、このことが、後の後三年の役の伏線となる。

陸奥話記』は数々の挿話を交えて本合戦の様子を記しているが、テクストによる異同も多く、その内容を検討するには史料批判が必要である。また既存の漢籍から引き写されたとおぼしき部分も散見される。
なお、本役の性格について、『今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」等を踏まえ、蝦夷の反乱に同調しようとしたとの嫌疑を頼義から受けたことに伴うものとの蝦夷側に立った見解が近年出されている。

「前九年の役」における頼義・義家の戦勝は、河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となったこの戦役がある[4]。頼朝は源義経及び奥州藤原氏の征討に際し、自身が「前九年の役」を意識し、平泉滅亡後もさらに北上して、父祖戦勝の地「厨川(厨川柵)」へ赴き、義家が同地で行なった鉄釘の故事を再現したと記されている。
また、後世、前九年の役の聖地とも言える「斯波郡」を領有した足利氏の分家は斯波氏を名乗り、室町幕府三管領家の筆頭格となった。なお、江戸幕府を開いた徳川家康は河内源氏の新田氏の傍流である得川氏を自称した。
また『宇治拾遺物語』の「白河院おそはれ給事」に見られるように、義家の武芸が人智を超えたものであったとの神話化も行われた。

最終更新 2013年9月25日

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