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Marco Polo - An Amazing Tale |
Marco Polo was an adventurer and merchant from Italy who eventually left Italy and served under the Chinese ruler Kubla Khan for 20 years. When he returned to his homeland, Marco Polo brought the first taste of Asian culture to Europe.
marco polo
公開日: 2012/06/06
ΥΠΟΘΕΣΗ: Βενετία 13ος Αιώνας. Ο έμπορος Μάρκο Πόλο πρόκειται συνοδέψει τους ιερείς στο παλάτι του Μογγόλου Κουμπλάι Χαν στην Ανατολή. Η αποστολή τους είναι να εκχριστιανίσουν την Ανατολή. Μόνο που κανείς τους δεν πιστεύει ότι η Κίνα υπάρχει. Οι ιερείς εγκαταλείπουν την προσπάθεια στη μέση, εκείνος ονειροπόλος προχωρά μέσα από αντίξοες συνθήκες και ανακαλύπτει έναν κόσμο που μέχρι τότε δεν είχε δει κανείς. Εντυπωσιάζεται από το χάρτινο χρήμα, που βλέπουν για πρώτη φορά, το ταχυδρομικό σύστημα αλλά και το παγωτό και τα μακαρόνια και γίνεται μάρτυρας μιας καταπληκτικής πολεμικής στρατηγικής και τεχνολογίας. Ό,τι ο Μάρκο Πόλο γνώριζε για τον κόσμο, ανατρέπεται σε μια στιγμή. Αυτή είναι η ζωή του, μια ζωή συνώνυμη με την Ιστορία...
Πρωταγωνιστές:
Ιαν Σομερχόλντερ, Μπράιαν Ντενέχι, Κεϊ Λιμ, Κρίστιαν Λη
Σκηνοθεσία:
Κέβιν Κόνορ
Έτος:
2007
Πρωταγωνιστές:
Ιαν Σομερχόλντερ, Μπράιαν Ντενέχι, Κεϊ Λιμ, Κρίστιαν Λη
Σκηνοθεσία:
Κέβιν Κόνορ
Έτος:
2007
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Marco Polo 1 . Película en español . Buena calidad
公開日: 2013/10/03
Marco Polo. Primera parte.
MARCO POLO. CD2. PELICULA EN ESPAÑOL COMPLETA
公開日: 2013/10/04
Segunda parte de Marco Polo en español
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AD
Marco Polo
マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo、1254年9月15日 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Divisement dou monde)』)[1] [2]を口述した冒険家でもある。
マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ
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Marco Polo
マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo、1254年9月15日 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Divisement dou monde)』)[1] [2]を口述した冒険家でもある。
概略
商取引を父と叔父であるニコーロとマフェオ・ポーロ (英語: Niccolò and Maffeo Polo)に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが[3]、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して[4]3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会 (ベネツィア) (イタリア語: Chiesa di San Lorenzo (Venezia))に埋葬された。
彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブス[5]など多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジ (英語: Marco Polo sheep)にも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。
生涯
幼少時
マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである[注 2]。 生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている[6][注 3]。 生家は代々続く商家で[7]、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった[8][9]。 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し[9]、コンスタンティノープルに住み着いた[10]。 政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ[8]、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった[10]。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという[11]。 この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された[9]。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わった[9]が、ラテン語を履修する機会は持てなかった[8]。
旅
1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半[2]に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった[9]。
彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた[3][12]。 数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった[2][9]。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (The Travels of Marco Polo) として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした[13]。 マルコは1299年8月に釈放され[9]、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はベネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し[14]、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた[15]。
1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半[2]に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった[9]。
彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた[3][12]。 数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった[2][9]。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (The Travels of Marco Polo) として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした[13]。 マルコは1299年8月に釈放され[9]、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はベネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し[14]、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた[15]。
死去
1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となった。遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された[16]。 また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人の奴隷を解放するよう指示されていた[17]。
マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士 (en) のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた[16]。マルコの署名は無かったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため[18]、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある[16]。
マルコ・ポーロの旅
「東方見聞録」を参照
マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ[7]、140種類を超える[1][7]写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された[12]。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い[19]。 このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている[1]。印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い[20]。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている[2]。
内容
本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール (en)[10]へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケク (en) に行き[21]、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた[22]。 これは1266年に大都(現在の北京)で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ[23]、またローマの教皇や教会についても聞いた[24]。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油[25])も持ってくるよう求めた[26]。
ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった[27]。
次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した[28]。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた[28]。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう[28]。
タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ
マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える[12]陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した[9]。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされている[注 4]。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した[8]。
一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として[12]帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)[28]など各所を訪れ、それを記録した[29]。 マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語[注 5]の4言語に通じ[30]、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない[9]。
17年間中国に滞在した[31] マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった[4]。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していた。1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた[4][31]。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航した[31]。彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし[32]、セイロン島を経由して[12]インド南岸を通過し、マラバールや[7] アラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った[32]。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った[12][33]。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かった[注 6]。 マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間の旅を終えた[4]。
マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ
評価
このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがある[34]。
大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測している[34][35]。
日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけている。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していない。(杉山正明「世界史を変貌させたモンゴル」、「クビライの挑戦」など参照)
2010年1月イランのハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べた。これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものである[36]。
影響
黄金の国ジパング
マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介した。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している[3]。1274年、1281年の元寇についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都[30]まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある[2]。
「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話[37]や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事[34]によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる[2]。
日本の習俗についても、偶像崇拝や食人の風習に触れているが[30]、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及ぶ。また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられる[2]。
ユーラシア情報
マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝える[38]。 それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学や民俗学的観察に比される[39]。 その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えた。世界最大の海港と称賛した泉州[40]や杭州[41]の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評した[42]。 なお、彼は元の成立をプレスター・ジョンと関連づけた記述を残している[43]。
往路ではシルクロードを通り、伝えた中央アジアの情報について探険家のスヴェン・ヘディンは、その正確さに感嘆した[34]。1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しており[注 7]、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついた[44]。
復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え[32]、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記した[45]。 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記している[46]。 また、イスラムの楽器についても記録した[47]。
マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせた。セイロン島では良質なルビーやサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記した[48]。
当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていた。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像される。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付ける。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高い[2]。
世界観への影響
『東方見聞録』は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である普遍史はエルサレムを世界の中心とするマッパ・ムンディで図案化されてきたが、マルコ・ポーロの報告はパクス・モンゴリカの成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られた。イシドールスの『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」[2- 1]の誤りを数多く指摘した[49]。
マルコの報告が大航海時代を開く端緒のひとつになったという考えもある[53]。1453年に作成されたフラ・マウロの地図en:Fra Mauro mapに対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ(en)は以下のコメントを寄せている[53]。
That fine illuminated world map on parchment, which can still be seen in a large cabinet alongside the choir of their monastery (the Camaldolese monastery of San Michele di Murano) was by one of the brothers of the monastery, who took great delight in the study of cosmography, diligently drawn and copied from a most beautiful and very old nautical map and a world map that had been brought from Cathay by the most honourable Messer Marco Polo and his father.
この羊皮紙に描かれたすばらしい世界地図は、宇宙誌を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院の聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える海図と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。— ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ
持ち帰ったもの
マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見た。この料理の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達してパスタになったという説がある。この説によると、「スパゲッティ」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だという[54]。
別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある[54]。
ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる[55]。
別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある[54]。
ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる[55]。
陶磁器も持ち帰った。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかった[56]。
中国を目指した他の人々
「大航海時代」も参照
マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている[5]。ベント・デ・ゴイス(en)も「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した[58]。
関連項目
外部リンク
ナショナル・ジオグラフィック:マルコ・ポーロ ヴェネツィアから中国への旅
最終更新 2013年7月15日
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The Travels of Marco Polo
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Travels_of_Marco_Polo
Book of the Marvels of the World (French: Livre des merveilles du monde) or Description of the World (Divisament dou monde), in Italian Il Milione ("The Million") or Oriente Poliano and in English commonly called The Travels of Marco Polo, is a 13th-century travelogue written down by Rustichello da Pisa from stories told by Marco Polo, describing Polo's travels through Asia, Persia, China, and Indonesia between 1276 and 1291 and his experiences at the court of the Mongol leader Kublai Khan.[1][2]
The book was written in Old French by Rustichello da Pisa, a romance who worked from accounts which he had heard from Marco Polo when they were imprisoned together in Genoa.[3] There has been incredulity over Polo's sometimes fabulous stories from the beginning and scholarly debate in recent times. Some questioned whether Marco had actually traveled to China or was just repeating stories that he had heard from other travelers.[4] Supporters of the book's basic accuracy have replied in even greater force. Economic historian Mark Elvin concludes that recent work "demonstrates by specific example after specific example the ultimately overwhelming probability of the broad authenticity" of Polo's account. The book is, "in essence, authentic, and, when used with care, in broad terms to be trusted as a serious though obviously not always final, witness." [5]
History
The source of the title Il Milione is debated. One view is that it comes from the Polo family's use of the name Emilione to distinguish themselves from the numerous other Venetian families bearing the name Polo.[6] A more common view is that the name refers to medieval reception of the travelog, namely that it was full of 'a million' lies.[7]
Modern assessments of the text usually consider it to be the record of an observant rather than imaginative or analytical traveler. Marco Polo emerges as being curious and tolerant, and devoted to Kublai Khan and the dynasty that he served for two decades. The book is Polo's account of his travels to China, which he calls Cathay (north China) and Manji (south China). The Polo party left Venice in 1271. They left China in late 1290 or early 1291[8] and were back in Venice in 1295. The tradition is that Polo dictated the book to a romance writer, Rustichello da Pisa, while in prison in Genoa between 1298–1299; Rustichello may have worked up his first Franco-Italian version from Marco's notes.
The book was then named Devisament dou monde and Livres des merveilles du monde in French, and De mirabilibus mundi in Latin.[9]
Contents
The Travels is divided into four books. Book One describes the lands of the Middle East and Central Asia that Marco encountered on his way to China. Book Two describes China and the court of Kublai Khan. Book Three describes some of the coastal regions of the East: Japan, India, Sri Lanka, Southeast Asia, and the east coast of Africa. Finally, Book Four describes some of the recent wars among the Mongols and some of the regions of the far north, like Russia.
Portrayal of religion
Nicolo and Maffeo Polo with Pope Gregory X in this 14th-century miniature
Marco Polo, a Christian himself, is often considered to have been flawed by his contemporary bias against some of the religions he encounters along the way. Most notable of these is his depiction of Buddhism as "Idol-worship", partaking in both sexual indulgence and the taking of multiple wives. Often reported is a comment regarding a Muslim, which, by a simple read, is clearly not regarding his religion but rather his personal behaviour. In Book II Polo wrote: "Among these [advisors] was a Saracen called Ahmad, a man of great energy and ability, who surpassed all the rest in his authority and influence over the Great Khan... this Ahmedd used to bewitch the Emperor by his black arts to such purpose that he won a ready hearing and acceptance.",[11] any cultural bias attributed to Polo, seems unjustified in the light of the person's notoriety. The named Ahmad was a multiple rapist and murderer who was regarded as evil-doer by a large number of the populace. Most scholars would not credit the revisionist suggestion that Polo's unfavorable description of this advisor, though superstitious, had anything to do with his religion, especially seeing as how he depicts other followers of Islam in a very positive light.[12]
One of the many instances in which Polo demonstrates his respect and admiration towards followers of other religions occurs in his description of the "Bramins", whom he claimed were "the best and most honourable merchants that can be found. No consideration whatever can induce them to speak an untruth, even though their lives should depend upon it. They have also an abhorrence of robbery or of purloining the goods of other persons. They are likewise remarkable for the virtue of continence..."[13]
Legacy
The impact of Polo's book on cartography was delayed: the first map in which some names mentioned by Polo appear was in the Catalan Atlas of Charles V (1375), which included thirty names in China and a number of other Asian toponyms.[14] In the mid-fifteenth century the cartographer of Murano, Fra Mauro, meticulously included all of Polo's toponyms in his map of the world. Marco Polo's description of the Far East and its riches inspired Christopher Columbus's decision to try to reach Asia by sea[citation needed], in a westward route. A heavily annotated copy of Polo's book was among the belongings of Columbus. Polo's writings included descriptions of cannibals and spice growers.
Subsequent versions
Marco Polo was accompanied on his trips by his father and uncle (both of whom had been to China previously), though neither of them published any known works about their journeys. The book was translated into many European languages in Marco Polo's own lifetime, but the original manuscripts are now lost.
A. C. Moule and Paul Pelliot published a translation under the title Description of the World that uses manuscript F as its base and attempts to combine the several versions of the text into one continuous narrative while at the same time indicating the source for each section (London, 1938).
An introduction to Marco Polo is Leonard Olschki, Marco Polo's Asia: An Introduction to His "Description of the World" Called "Il Milione", translated by John A. Scott (Berkeley: University of California) 1960; it had its origins in the celebrations of the seven hundredth anniversary of Marco Polo's birth.
Other travellers
Although Marco Polo was certainly the most famous, he was not the only nor the first European traveller to the Mongol Empire that subsequently wrote an account of his experiences. Other thirteenth-century European travellers who journeyed to the court of the Great Khan were André de Longjumeau, William of Rubruck and Giovanni da Pian del Carpine with Benedykt Polak. None of them visited China except Marco Polo. The Moroccan merchant Ibn Battuta travelled through the Golden Horde and China subsequently in the early-to-mid-14th century. The 14th-century English author John de Mandeville wrote an account of journeys in the East, but this was probably based on second-hand information and contains much apocryphal information.
Further reading
Translations
Polo, Marco; Latham, Ronald (1958-09-30). The Travels. London: Penguin Classics. p. 384. ISBN 978-0-14-044057-7.
The oldest surviving Polo manuscript is in Old French heavily flavoured with Italian;[15] for Luigi Foscolo Benedetto, this "F" text is the basic original text, which he corrected by comparing it with the somewhat more detailed Latin of Ramusio, together with a Latin manuscript in the Biblioteca Ambrosiana. Other early important are R (an Italian translation first published in the sixteenth century), and Z (a fifteenth-century Latin manuscript kept at Toledo, Spain). A total of about 150 copies in various languages are known to exist. However during copying and translating many errors were made, so there are many differences between the various copies.[16] The first English translation is the Elizabethan version by John Frampton, The most noble and famous travels of Marco Polo.
The first attempt to collate manuscripts and provide a critical edition was in a volume of collected travel narratives printed at Venice in 1559.[17]
The editor, Giovan Battista Ramusio, collated manuscripts from the first part of the fourteenth century,[18] which he considered to be "perfettamente corretto" ("perfectly correct"). He was of the opinion, not shared by modern scholars, that Marco had first written in Latin, quickly translated into Italian: he had apparently been able to use a Latin version "of marvelous antiquity" lent him by a friend in the Ghisi family of Venice.
The edition of Benedetto, Marco Polo, Il Milione, under the patronage of the Comitato Geografico Nazionale Italiano (Florence: Olschki, 1928), collated sixty additional manuscript sources, in addition to some eighty that had been collected by Henry Yule, for his 1871 edition. It was Benedetto who identified Rustichello da Pisa,[19] as the original compiler or amanuensis, and his established text has provided the basis for many modern translations: his own in Italian (1932), and Aldo Ricci's The Travels of Marco Polo (London, 1931).
Other travellers
Although Marco Polo was certainly the most famous, he was not the only nor the first European traveller to the Mongol Empire that subsequently wrote an account of his experiences. Other thirteenth-century European travellers who journeyed to the court of the Great Khan were André de Longjumeau, William of Rubruck and Giovanni da Pian del Carpine with Benedykt Polak. None of them visited China except Marco Polo. The Moroccan merchant Ibn Battuta travelled through the Golden Horde and China subsequently in the early-to-mid-14th century. The 14th-century English author John de Mandeville wrote an account of journeys in the East, but this was probably based on second-hand information and contains much apocryphal information.
Further reading
Translations
Polo, Marco; Smethurst, Paul (2005-07-16). The Travels Of Marco Polo. Barnes & Noble Publishing, Inc. p. 676. ISBN 0-7607-6589-8.
Yule, Henry (1871), The Book of Ser Marco Polo, the Venetian (Volume 1), London: John Murray.
Yule, Henry (1871), The Book of Ser Marco Polo, the Venetian (Volume 2), London: John Murray. + Index
Yule, Henry (1903), The Book of Ser Marco Polo, the Venetian Concerning the Kingdoms and Marvels of the East (Volume 1) (3rd ed.), London: John Murray.
Yule, Henry (1903), The Book of Ser Marco Polo, the Venetian Concerning the Kingdoms and Marvels of the East (Volume 2) (3rd ed.), London: John Murray. + Index
External links
Project Gutenberg's texts of The Travels of Marco Polo, Volume 1 Including the unabridged third edition (1903) of Henry Yule's annotated translation, as revised by Henri Cordier; together with Cordier's later volume of notes and addenda (1920).
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クビライ
クビライ( Qubilai, Khubilai)は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写ではХубилай хаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。
大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では Хубилай хаан (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも非常に多い。
その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心を中国の華北に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した
フビライハン肖像画(国立故宮博物院所蔵)
生涯
即位以前
1215年にチンギス・カンの四男トルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。
1251年に兄モンケがカアンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。
雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノールに幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。
しかし、南宋を早急に併合することを望むモンケはクビライの慎重策に不満を持ち、1256年に南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭した。1258年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケは、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死した。
カアン位をめぐる争い
詳細は「モンゴル帝国帝位継承戦争」を参照
モンケの急死により、その年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。
アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。一方のクビライはモンケが死んだとき長江の中流域で転戦していたので、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。
1260年、クビライの本拠地ドロン・ノールでクビライ支持派によるクリルタイが開かれ、クビライのカアン即位を一方的に宣言した。アリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。
この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦のシトム・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国を押さえるクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。
新国家の形成
1260年に即位したクビライは、モンゴル王朝で初めての中国風の元号(中統)を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。中書省には六部が置かれて旧来の尚書省の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政を司る枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備された。
アリクブケとの内紛の最中の中統3年(1262年)には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライは反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。これによりモンゴル皇帝であるカアンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。
このような一連の改革から、クビライの改革はモンゴル王朝の中国王朝化であり、クビライとアリクブケの対立は、中国文化に理解を示し帝国の中心を中国に移そうとする派と、あくまでモンゴル高原を中心と考える守旧派の対立として説明されることが多い。しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。中書省の高官はクビライの夫人チャブイの甥にあたるアントンらモンゴル貴族の支配下にあり、州県の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。
そこで、クビライは夫人チャブイとの間に設けた3人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。安西王マンガラはクビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、クビライは3子率いる3大軍団の上に君臨した。
至元13年(1276年)には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都臨安を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(モンゴル・南宋戦争)。この前後にクビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらした。これにともなって東西交通が盛んになり、クビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。
中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧した後、13世紀末には事実上滅亡させ、傀儡政権として王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させた王太子王賰の王統を立て朝鮮半島支配を確立した。また至元24年(1287年)にはビルマのパガン王朝を事実上滅亡させ、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。しかし、日本への2度の遠征(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国、ジャワ島のマジャパヒト王国などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。
モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、至元12年(1275年)にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、翌年モンケの遺児シリギをはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こした。司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの諸王家を統合して公然とクビライに対抗し始めた。
クビライの狩猟図(劉貫道『元世祖出猟図軸』より、国立故宮博物院蔵
クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせたが、至元24年(1287年)には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛いた。老齢のクビライ自身がキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。クビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えた。カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。カチウン家の王族カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を劫掠したが、至元29年(1292年)に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した(ナヤン・カダアンの乱)。
クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせたが、至元24年(1287年)には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛いた。老齢のクビライ自身がキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。クビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えた。カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。カチウン家の王族カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を劫掠したが、至元29年(1292年)に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した(ナヤン・カダアンの乱)。
晩年
クビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、至元10年(1273年)に皇太子に冊立された。一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。
対立が頂点に達した至元19年(1282年)、アフマドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。この事件の後アフマドの遺族も失脚し、政争はチンキム派が最終的な勝利を収めた。これにより皇太子チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、クビライに対してチンキムへの譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは至元22年(1285年)に病死してしまった。
一方、カイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねた。外征を支えるためにクビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。至元24年(1287年)に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚サンガも至元28年(1291年)には失脚させられ、クビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかった。
至元30年(1293年)、クビライは高原の総司令官バヤンを召還し、チンキムの子である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、それからまもなく翌至元31年(1294年)2月18日に大都宮城の紫檀殿で病没した。遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所であるモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テムルが上都で即位するが、その治下でカイドゥの乱は収まり、クビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになる。
テムルが即位した1294年6月3日には、聖德神功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・カアン(薛禪皇帝)と追贈された。
宗室
父母・兄弟
父 トルイ
母 ソルコクタニ・ベキ
后妃
第一オルド
帖古倫大皇后
[3]
第二オルド
ナムブイ(南必皇后)
[5]
第三オルド
塔剌海皇后
奴罕皇后
第四オルド
伯要兀真皇后(バヤウチン、鎮南王 脱歡の生母)
闊闊倫皇后
その他の后妃・側室
八八罕妃子
速哥答(思)[里]皇后[6] 撒不忽妃子
阿速真可敦
トルキジン・ハトゥン
ドルベジン・ハトゥン 子女
クビライの子女については、『集史』クビライ・カアン紀の后妃・嗣子表と『元史』の宗室世系表のそれぞれに記載されているが、『集史』では子息は12人、『元史』では10人としており、また両者で子息の順序にも異同が見られる。そのため、人数の多い『集史』での記載順を載せ、『元史』宗室世系表の記述を併せて載せる事にする。
男子
長男 ドルジ(朶而只 王)[7] 母 チャブイ
次男 チンキム(燕王・皇太子 真金) 母 チャブイ
三男 マンガラ(安西王 忙哥剌) 母 チャブイ アナンダの父
四男 ノムガン(北安王 那木罕) 母 チャブイ
五男 コリダイ[8]
六男 フゲチ(雲南王 忽哥赤)[9]
七男 アウルクチ(西平王 奧魯赤)[10]
八男 アバチ(アヤチ、愛牙赤 大王)
九男 ココチュ(寧王 闊闊出)[12]
十男 クトゥルク・テムル(忽都魯帖木兒 王)[13]
十一男 トガン(鎮南王 脱歡)[14] 十二男 名前不詳(一部写本ではウグルクチ اوغروغجی Ūghrūghjī)[15]
「十子:長 朶而只王;次 二皇太子真金、即裕宗也;次三 安西王忙哥剌;次四 北安王那木罕、無後;次五 雲南王忽哥赤;次六 愛牙赤大王;次七 西平王 奧魯赤;次八 寧王闊闊出;次九 鎮南王脱歡;次十 忽都魯帖木兒王」(『元史』巻107 宗室世系表)
女子
吾魯真公主(昌國公主位)
最終更新 2013年11月4日
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