注記:福島飯館村からの避難・愛農学園(三重県伊賀市)村上真平:1h22m
内村鑑三と新渡戸稲造
公開日: 2012/07/16
説明はありません。
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松岡正剛の千夜千冊
内村鑑三
代表的日本人
http://1000ya.isis.ne.jp/0250.html
1900年すなわち明治33年を挟んで約5年ごとに、明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。こんな時期はその後の日本の近現代史に、まったくない。
その3冊とは、内村鑑三の“Japan and The Japanese”、新渡戸稲造の“Bushido“、岡倉天心の”The Book of Tea”である。
内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で、内村が長らく極貧に喘いでいた34歳のときに書いた。この時期の内村は憑かれたように英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき“How I Become a Christian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。
新渡戸の『武士道』は1900年ちょうどのこと、漱石がロンドンに、栖鳳がパリに、川上音二郎と貞奴がニューヨークに向かっていた年である。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただしそこには「愛」だけが欠けていると結論づけた。天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中である。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書だった。
いずれもさまざまな意味で、今日の誰も書きえない名著であり、このうち二人が、明治のみならず近現代を通じての日本のキリスト者を代表していることが、注目される。
なかでも内村鑑三のキリスト教は激越なもので、他の追随を許さない。それは、“Jesus”と“Japan”という「2つのJ」にまたがる異様な日本キリスト教というものであり、かつその著作は内村の代表作ともいうべき『羅馬書の研究』を頂点に、生涯の半分におよんだ個人雑誌「聖書之研究」などにも再三言及されたように、「日本人の生活信条の中にはキリスト教に匹敵するものがある」という基本モチーフを秘めたものだった。
本書の書名を、内村自身は最初は『日本及び日本人』と訳していた。それがいろいろの変節をへて『代表的日本人』となった。その変節は近代史や日本キリスト教史を研究する者には重要だが、ここでは省く。
また、なぜこの時期に国際的に話題をよんだ3冊が日本人によって英文で書かれたかということも、言い出せばいろいろ書きたいことがあるのだが、ふれないことにする。ただひとつだけ言っておけば、ぼくはこの2年ほどのあいだ、この時期のこの3人について、少なくとも7、8回にわたって講義をし、4、5回にわたってこのことをいろいろな場で綴ってきた。3人3冊をめぐる話をしたのはもっと多かったろう。それほどこの3冊をめぐる日本ならびに日本人の思索と行動については、最近のぼくを激しく揺さぶっているのである。
ついでに言えば、この「千夜千冊」の、この今日のぶんを書いているのは2001年3月15日なのだが、この時点で、ぼくにとっての内村鑑三は最も気になる日本人である。実はあまりに内村鑑三を感じすぎて、内村や新渡戸や植村正久や海老名弾正や、また有島武郎や志賀直哉や小山内薫や矢内原忠雄をぐらぐら動かした明治キリスト教というものそのものに、感染しつつある。この感染があまりに過度になれば、あるいはキリスト者を辞さない時がくるかもしれないと、本気でそう思うときもある。
さて、本書に扱われているのは5人の日本人である。キリスト教に埋没しつづけた内村がこの5人を選んだことは、今日の読者には意外な人選であろう。時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛となる。これを内村は逆に並べて一冊とした。
なぜこの5人が代表的日本人なのかということは、それを述べようとするだけで、結局は内村の思想と行動のすべてを議論することになる。それは適わないので、エッセンシャルなところだけをつまむことにするが、まず一言でいうと、この5人は内村にとってはキリスト者なのである。このことについては、本書のドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。
私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります。
何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります。もっともこれだけでは、この5人の日本人がキリスト者であるとは言っていない。5人を自分の宗教的先駆者だと見ているにすぎない。ところが『キリスト伝研究』(先駆者ヨハネの章)では、次のような説明があって、かれらとキリスト教とが深い絆でつなげられている。
其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である。内村にとっては、仁斎・宣長・篤胤も中江藤樹と同様のヨハネなのである。おそらくいまどきこんなことを言えば、暴論あるいは無知として笑われるに決まっている。
しかし、内村はこの見方を生涯にわたって捨てようとはしなかった。頑固といえば頑固すぎるほどの男、まさにその通りだが、しかし内村にはひとつのJ(イエス)を、もうひとつのJ(日本)に重ねる使命が滾(たぎ)っていた。「私は2つのJを愛する。第3のものはない。私はすべての友を失なうとも、イエスと日本を失なうことはない」という有名な宣言にあるように、内村は自分自身のためにも日蓮や藤樹や西郷をキリスト者の魂をもつ日本人に見立てる必要があったのである。
では、そのような見方をして、内村は何をしたかったのか。西洋に育ったキリスト教を非制度化したかった。キリスト教に真の自由をもたらしたかった。そのうえで日本的キリスト教を打ち立て、非武装日本をつくりたかった。つまりは、日本人の魂が解放される国をつくりたかったのだ。
内村鑑三は国粋主義者だったのか。たしかに、そう見える。つねに武士の魂を褒め称えた。『代表的日本人』で西郷を称揚するにあたって、朝鮮との関係を見誤っているのも、そのひとつのあらわれである。けれども、内村はこうも書いた。
「武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その道徳はスパルタの道徳、またはストア派の信仰と同じものです。武士道では、人を回心させ、その人を新しい被造者、赦された罪人とすることは決してできないのであります」。
内村鑑三は世界主義者だったのか。たしかに、そうも見える。内村はつねに日本を世界の動向とともに見た。そこには「太平洋の両岸の中国とカリフォルニアがほとんど同時に開かれて、ここに世界の両端を結ぶために日本を開く必要が生じた」という見方を原点にもっていた。
しかし一方で、内村はサムライの精神をもって世界に対峙しつづけようとした。『代表的日本人』の「あとがき」にはこんな文章がある。「たとえ、この世の全キリスト教信徒が反対側に立ち、バール・マモンこれぞわが神と唱えようとも、神の恩恵により真のサムライの子である私は、こちら側に立ち言い張るでありましょう。いな、主なる神のみわが神なり、と」。
これでは内村は矛盾していると言われても仕方がない。実際にも、内村にはナショナリズムとグローバリズムが混じっている。混じっているだけではなく、それが交互に出て、交互に闘っている。それは明治キリスト教に共通する特質でもあるが、内村においてはそれが激しく露出した。
ところが、内村は晩年になるにしたがって、この矛盾を葛藤のままに強靭な意志で濃縮していった。そしてついには「小国主義」を唱えるにいたったのである。これが内村の凄いところだった。愛国者・内村は日本を「小さな政府」にしたかったのだ。そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼んだ。
そう、境界国である。かくて「日本の天職は」と内村は書いた、「日本が日本を境界国としての小国にすることなのである」と。これは日本という国の天職なのである、と。
こんな発想は、内村鑑三を除いては、なかなか生まれない。今日の日本人にもちょっとやそっとでは言えない発想である。さらに内村はそのためには日本が世界史上の宗教改革の「やりなおし」を引き受けるべきなのではないかとさえ、考えた。
むろんここには、日本を世界の舞台の主人公として活躍させたいという愛国の情がある。それはそうなのだが、そのためにむしろ小国となって、境界者としての勤めをはたすべきであると考えたその道筋には、われわれがすっかり忘れてきた方針というものが芽生えていたのでもある。
代表的日本人とは、内村鑑三だったのである。
参考¶内村鑑三を読むには岩波書店の『全集』12巻および『著作集』40巻がある。最近、ぼくはこの40巻を入手した。が、岩波文庫には、本書のほかに『余は如何に基督教信徒となりしか』『後世への最大遺物デンマルク国の話』『基督信徒のなぐさめ』『内村鑑三所感集』などがあり、最初に入るならこのあたりが最適。評伝としては、小原信の『評伝内村鑑三』(中公叢書)がまあまあの評判だったが、これは前半生のみでおわったため、これをさらに充実させた『内村鑑三の生涯』(PHP研究所)が全生涯を描いた。読みやすい。「日本の名著」第38巻(中央公論社)、「近代日本思想大系」第6巻(筑摩書房)、「現代日本思想大系」第5巻(筑摩書房)にも、内村鑑三集と長い解説がある。後者の解説は亀井勝一郎。そのほか、ぼくには意外におもしろかったのが正宗白鳥の『内村鑑三』(講談社文芸文庫)である。また、小山内薫の『背教者』は師の内村に対する敬愛を背教者と堕した自分の身から綴った長編小説で、アンドレ・ジッドの同名小説に匹敵するものがある。このあたりの日本人は、いずれも「抱いて普遍、離して普遍」を知っていた。
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内村鑑三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
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新渡戸稲造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
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愛農学園農業高等学校
http://www.ainou.or.jp/gakuen/aikou1/08rekisi.htm
創立者
小谷純一
1910年(明治43年)3月21日生。京都帝国大学農学部卒業後、全国各地の農民道場の創設に参与し、肺結核に倒れ、医師からあと2ヶ月の生命と言われたが、玄米正食療法によって起死回生。大阪府立農学校教諭、和歌山県青年師範学校教授を歴任。敗戦と同時に教職を辞し、念願の百姓になり、水田90a・畑50aの自家経営をしながら、自宅を開放して愛農塾を開設。これが発展して全国愛農会となり、三重県青山町に愛農根本道場(愛農高校の前身)が創立される。機関誌「愛農」、「聖霊」誌などを創刊。愛農短期大学講座、聖霊信仰大会、聖書研究短期大学、を開催。1964年から12年間、愛農学園農業高等学校初代校長をつとめたのち、同学園長に。2004年10月1日昇天。
小谷純一書籍
『愛農救国の書』全国愛農会発行、1950年
『愛農救人類の書』全国愛農会発行、1958年
『小谷純一信仰著作集(上)』聖霊社発行、1997年
『小谷純一信仰著作集(中)』聖霊社発行、1998年
『小谷純一信仰著作集(下)』聖霊社発行、1999年
沿革
1945年 12月 和歌山市の小谷純一宅にて愛農塾(後の愛農会)開設 1954年 4月 現在地にて、男子中学卒業生のための全寮制2年間の愛農根本道場(長期)を開設
1958年 4月 愛農根本道場を愛農学園と改称し、高等部とする
1959年 4月 高等部を3年制とする
1963年 1月 愛農会総会において、私立愛農学園農業高等学校の設置が可決される
1963年 12月 高等学校として認可される
1964年 4月 開校式 第1期生入学
1967年 3月 本校第4学年が農業専攻科として認可される
1968年 4月 スイス東アジアミッションの招聘により、スイス農家実習生送り出し開始
1971年 4月 男女共学化
1972年 4月 愛農米十字バングラデシュ奉仕隊出発
1973年 12月 創立10周年
1974年 5月 ノルウェー伝道会の招聘により、ノルウェー農家実習生送り出し開始
1983年 12月 創立20周年
1988年 12月 「愛農の教育」研究発表大会を実施
1993年 12月 創立30周年記念式典
1994年 4月 農業専攻科を選択制へ移行
1997年 5月 韓国への修学旅行を開始
1998年 4月 文部省の特色教育モデル事業校の指定を受ける
1998年 6月 キリスト教学校教育同盟加入
2003年 4月 留学生受け入れ開始
2003年 9月 大講堂大改修(創立40周年記念事業)
2004年 10月 創立者・小谷純一昇天
2005年 4月 第6回明日への環境賞(朝日新聞社)受賞
2007年 4月 第5回日本環境経営大賞(三重県)受賞
2010年 3月 本館再生工事着工
2010年 3月 環境保全型農業コンクール・全国有機農業推進委員会会長賞受賞
<学校概要>教育理念
教育方針
教育課程
歴史
Copyright (C) 愛農学園農業高等学校
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ウィリアム・スミス・クラーク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF
ウィリアム・スミス・クラーク
William Smith Clark
ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。いわゆるお雇い外国人のひとりである。日本ではクラーク博士として知られる。
専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。[1]
略歴
米マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。父アサートン・クラークは医師であった。アマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学にて博士号取得後、アマースト大学教授となる(当時在学していた新島襄がアマースト初の日本人学生)。南北戦争には北軍少佐として従軍。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。
専攻は園芸学、植物学、鉱物学。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では President と表記することが開拓使によって許可され、殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。その後心臓病が発生して寝たり起きたりの生活。1886年3月9日、心臓病により59歳でこの世を去った。
人物
妻ハリエット・ウィリストンとの間に11人の子どもがある。ただし、うち3人は生後1年以内に死亡している。
息子のアサートン・クラークは、後年マサチューセッツ農科大学の理事になった。
息子のヒューバート・クラーク (Hubert Lyman Clark) は、ハーバード大学で動物学を研究した。
ヒューバートの息子のウィリアム・クラークは、シンシナティ大学の英文科科長となった。
内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたが、米国に渡ってみるとある学者に「クラークが植物学で口を利くなど不思議だ」と笑われたほどで、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」。しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価している。
札幌農学校の校則について、開拓使長官の黒田清隆(後の内閣総理大臣)に「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われている。それまで士族の子弟が雁字搦めの徳目に縛られていたのと比べると、これはいかにも簡潔なことであった。しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、自由でありながら厳しいものとなっている。ただし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多い。これは、クラークの前任者であるホーレス・ケプロンの素案をそのまま使ったためとも言われている。
離日後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けた。現在も多くの手紙が残っている。
イエスを信ずる者の契約
ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主に愛と感謝を捧げるためにキリスト者としてのすべての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光のため、および主が代わって死にたもうた人々の救いのために、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを、神に対し、また相互に対して、厳粛に誓約する。さらに、ふさわしい機会があればいつでも、試験、洗礼、入会のため福音的教会に出向くことを約束する。
我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。
我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。
我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。
我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。
あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。
あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。
あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。
安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。
あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。
あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。
あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。
絶えず祈りなさい。
我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。
— 1877年3月5日 札幌にて ウィリアム・スミス・クラーク
最終更新 2013年4月7日 (日)
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William S. Clark
http://en.wikipedia.org/wiki/William_S._Clark
William Smith Clark (July 31, 1826 – March 9, 1886) was a professor of chemistry, botany and zoology, a colonel during the American Civil War, and a leader in agricultural education. Raised and schooled in Easthampton, Massachusetts, Clark spent most of his adult life in Amherst, Massachusetts. He graduated from Amherst College in 1848 and obtained a doctorate in chemistry from Georgia Augusta University in Göttingen in 1852. He then served as professor of chemistry at Amherst College from 1852 to 1867. During the Civil War, he was granted leave from Amherst to serve with the 21st Regiment Massachusetts Volunteer Infantry, eventually achieving the rank of colonel and the command of that unit.[1]
In 1867, Clark became the third president of the Massachusetts Agricultural College (MAC), now the University of Massachusetts Amherst. He was the first to appoint a faculty and admit a class of students. Although initially successful, MAC was criticized by politicians and newspaper editors who felt it was a waste of funding in a state that was growing increasingly industrial. Farmers of western Massachusetts were slow to support the college. Despite these obstacles, Clark's success in organizing an innovative academic institution earned him international attention. Japanese officials, striving to achieve rapid modernization of that country in the wake of the Meiji Restoration, were especially intrigued by Clark's work.[2]
In 1876, the Japanese government hired Clark as a foreign advisor to establish the Sapporo Agricultural College (SAC), now Hokkaido University. During his eight months in Sapporo, Clark successfully organized SAC, had a significant impact on the scientific and economic development of the island of Hokkaido, and made a lasting imprint on Japanese culture. Clark's visage overlooks Sapporo from several statues and his parting words to his Japanese students, "Boys, be ambitious!" have become a nationally known motto in Japan.[3]
After resigning the presidency of MAC in 1879, Clark left academia to become the president of a mining company, Clark & Bothwell. The company, in operation from 1881 to 1882, purchased several silver mines, mostly in Utah and California. Clark's partner, John R. Bothwell, proved to be corrupt and the company quickly folded, destroying Clark's reputation, his own finances and the fortunes of many of his friends and family. The subsequent scandal ruined Clark's health. He died of heart disease at his home in Amherst in 1886.[4]
The Sapporo Clock Tower, of Western architectural design, was formerly the drill hall of the Sapporo Agricultural College. Built in 1878 and now a museum, it is one of the city's best known historic landmarks.
Japan
In 1876, Clark was invited by the government of Japan to establish the Sapporo Agricultural College, now Hokkaido University. Following the Meiji Restoration in 1867, the new Imperial government of Japan set out upon a path of rapid modernization and recruited many European and American academics and military experts to help expedite the process. These men were referred to by the Japanese government as oyatoi gaikokujin or "hired foreigners".[35]
Seeking a model agricultural college, Mori Arinori, the Japanese Minister to the United States, asked Horace Capron, Commissioner of the U.S. Department of Agriculture, for a recommendation. Capron recommended MAC. After visiting the college, Minister Mori later recommended Clark to the Japanese government as the ideal candidate to establish SAC.[36]
Clark signed his contract with the Japanese government on March 3, 1876, in Washington, DC.[37] Due to inconsistencies in translation, discrepancies exist to this day as to what Clark’s official title was. According to biographer John Maki, the Japanese and English versions of Clark’s contract differed on this point. The Japanese version named Clark, "head teacher (namely, assistant director)."[38] Because of this, in Japan, Clark has been referred to as "assistant director" or sometimes "vice-president" of SAC. However, in the English version of the contract, "the word ‘President’ was inserted into the text and initialed by Yoshida Kiyonari (the Japanese Minister to the United States at the time)."[38] Regardless of title, Clark enjoyed the complete support of the Japanese government in organizing SAC and he exerted principal authority over the college while he was in Japan.[39]
Clark spent eight months in Sapporo from 1876 to 1877. After enduring negative press in Massachusetts, he was pleased with the enthusiastic cooperation he received from the Japanese government. SAC was organized in just one month. Clark wrote to his wife, "I am actually rebuilding MAC ... on the other side of the earth."[40] In establishing SAC, Clark introduced the first American model farm and barn in Japan and the first college military unit in the country. He also introduced new crops and new techniques in agriculture, fishing, and animal husbandry.[41]
Clark’s direct superior while working at SAC was the Governor of Hokkaido (and future Prime Minister of Japan) Kuroda Kiyotaka. The two men greatly respected one another and shared a bond in that they both had past military experience. Their positive relationship facilitated Clark’s many accomplishments while in Sapporo and accounted for the wide latitude Clark was given in implementing not just SAC programs, but also his influence on the colonial development of Hokkaido.[42]
Hokkaido represented the Japanese frontier at that time and with so much work to be done in colonizing the island, Kuroda welcomed and frequently implemented Clark’s advice.[39] Clark submitted recommendations to the governor on such diverse subjects as converting migratory fisherman into permanent colonists and establishing a textiles industry.[43] In fact, Clark himself was taken aback by the apparent scope of his influence on colonial affairs, writing to his wife, “Governor Kuroda consults me constantly and always follows my advice.”[44] He later wrote, “I tremble to think how much confidence is reposed in me and what responsibilities I am daily assuming.”[44]
Clark not only had a significant impact on colonial development, but also had a powerful personal effect on the first students of SAC. The same rhetoric of ambition and personal elevation he had employed at MAC resonated more deeply with his Japanese students and, further, with a Japanese nation just emerging from a rigid feudal caste system.[45] During classroom lectures, informal evening talks, and outings to collect botanical specimens, Clark discussed morality and urged his students to, "Be gentlemen."[46]
Legacy
Although the Japanese government prohibited the teaching of the Bible in government schools, Clark managed, after considerable effort, to secure approval from Kuroda to make use of the Bible during ethics instruction.[47] In doing so, Clark introduced Christian principles to the first entering class of the college. They, in turn, influenced the students in the second class who enrolled after Clark's departure. In 1877, 31 students of SAC converted to Christianity, signing a document drafted by Clark titled, "The Covenant of Believers in Jesus." Some of them later played important roles in the fields of Christianity, education, and international relations during Japan's continuing modernization in the early 20th century. Alumni such as Uchimura Kanzō (founder of the non-church movement, a Japanese Christian society) and Nitobe Inazō (Quaker, educator and diplomat), still known nationwide in Japan, were from the second entering class of the College.[48][49]
During his stay in Hokkaido, Clark examined the local flora and introduced new species of plants and trees from Japan to the United States. He sent to Massachusetts a large assortment of seeds, many of which proved of special value to his own state, on account of the high latitude from which they were selected. In Teine-ku, Sapporo, he discovered a new lichen on the side of Mt. Teine, at an elevation of 3,200 feet (980 m), which was named Cetraria clarkii, in his honor, by Edward Tuckerman.[8]
On the day of Clark's departure, April 16, 1877, students and faculty of SAC rode with him as far as the village of Shimamatsu, then 13 miles (21 km) outside of Sapporo. As recalled by one of the students, Masatake Oshima, after saying his farewells, Clark shouted, "Boys, be ambitious!"[50] Several differing versions of Clark's parting words persist today including, "Boys, be ambitious, like this old man!" and, "Boys, be ambitious for Christ!"[50] A painting of Clark's departure, rendered in 1971, hangs in the Prefectural Capitol building in Sapporo and includes a lengthier version of his parting words, "Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for that attainment of all that a man ought to be."[50]
See also
Nitobe Inazō Author of Bushido
Uchimura Kanzō the founder of the Nonchurch Movement
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Special Collections & University Archives University of Massachusetts Amherst Libraries
http://www.library.umass.edu/spcoll/umarmot/?p=444
Home > Clark, William Smith, 1826-1886
Clark, William Smith, 1826-1886
William Smith Clark Papers, 1814-2003 (Bulk: 1844-1886)
(14.75 linear feet).
Born in Ashfield, Massachusetts, in 1826, William Smith Clark graduated from Amherst College in 1848 and went on to teach the natural sciences at Williston Seminary until 1850, when he continued his education abroad, studying chemistry and botany at the University of Goettingen, earning his Ph.D in 1852. From 1852 to 1867 he was a member of Amherst College’s faculty as a Professor of Chemistry, Botany, and Zoology. As a leading citizen of Amherst, Clark was a strong advocate for the establishment of the new agricultural college, becoming one of the founding members of the college’s faculty and in 1867, the year the college welcomed its first class of 56 students, its President. During his presidency, he pressured the state government to increase funding for the new college and provide scholarships to enable poor students, including women, to attend. The college faced economic hardship early in its existence: enrollment dropped in the 1870s, and the college fell into debt. He is noted as well for helping to establish an agricultural college at Sapporo, Japan, and building strong ties between the Massachusetts Agricultural College and Hokkaido. After Clark was denied a leave of absence in 1879 to establish a “floating college” — a ship which would carry students and faculty around the world — he resigned.
The Clark Papers include materials from throughout his life, including correspondence with fellow professors and scientists, students in Japan, and family; materials relating to his Civil War service in the 21st Massachusetts Infantry; photographs and personal items; official correspondence and memoranda; published articles; books, articles, television, and radio materials relating to Clark, in Japanese and English; and materials regarding Hokkaido University and its continuing relationship with the University of Massachusetts.
Biographical Note
William Smith Clark was born in Ashfield, Massachusetts, July 31, 1826. He attended Williston Academy in Easthampton, Massachusetts, in the first class, that of 1844. He graduated from Amherst College in 1848 as a member of Phi Beta Kappa. As a boy, he became interested in collecting birds and plants; at Amherst College, under the influence of the professors, he became greatly interested in science, especially mineralogy. As a result, he went to study in Germany, where he obtained his Ph.D. at Georgia Augusta University in Goettingen in 1852.
He returned to Amherst College to an appointment as a professor. For the next fifteen years, from 1852 to 1867, he was a member of the Amherst faculty, where he became known as an educational innovator, a fine and inspiring teacher, and a fund raiser for the college. His teaching at Amherst College was interrupted only by the Civil War, during which he served the Union Army with distinction from 1861 to 1863. Soon after his return from the war, he became the leader in the successful efforts by the town of Amherst to become the seat of a new agricultural college just authorized by the Massachusetts General Court under the provision of the Morrill Act, the “Land Grant Act” that established state agricultural and mechanical colleges throughout the United States. Just before the new Massachusetts Agricultural College opened its doors in September 1867, he was appointed president, the third to hold the title, the first two having no school over which to preside. He held the presidency of MAC for twelve years, until 1879.
Clark taught and administered the affairs of the struggling college. He insisted on making his school into a general liberal arts school, not simply a training school for farmers-to-be. Early in 1876, he obtained a leave of absence from MAC and accepted the appointment by the Japanese government to open a new agricultural college on the model of MAC. He went to Japan in the late spring and arrived on his fiftieth birthday in Sapporo, where he opened the Sapporo Agricultural College in mid-August. He remained there for eight and a half months, during which he established the school, taught four hours a day, served as the technical advisor to the island of Hokkaido, and paved the way for the conversion to Christianity of all the members of the first class. At SAC, he demonstrated anew his qualities as a fine teacher that had been revealed at both AC and MAC. He was a great inspiration to his students, all of whom became leaders in Hokkaido or nationally in Japan. As a result of his highly successful mission, his name remained well-known in Japan more than a century after his brief stay there. All Japanese school children since his time have learned as a motto his farewell statement, “Boys, be ambitious, (B.B.A.)”, since extended to students of both sexes.
On returning to MAC in 1877 he found that the school’s existence had become even more precarious than before. He resigned as president early in 1879 and accepted the presidency of an innovative “floating college” which was to circumnavigate the globe. However, the unfortunate premature death of the promoter brought that venture to an end shortly before the intended date of departure. Clark then became involved with a shady character with whom he founded the firm of Clark and Bothwell, a mining venture. Within a year Clark made and lost a considerable fortune. The collapse of the firm, with the disappearance of his partner, resulted in losses to the investors in the mines operated by the firm, including many citizens of Amherst.
Clark’s health failed immediately after the firm’s collapse in 1882 and he remained a semi-invalid until his death on March 9, 1886. Although he was a leading citizen of Amherst and prominent in the affairs of the Commonwealth, his fame has endured primarily in Japan.
Scope and Contents of the Collection
He returned to Amherst College to an appointment as a professor. For the next fifteen years, from 1852 to 1867, he was a member of the Amherst faculty, where he became known as an educational innovator, a fine and inspiring teacher, and a fund raiser for the college. His teaching at Amherst College was interrupted only by the Civil War, during which he served the Union Army with distinction from 1861 to 1863. Soon after his return from the war, he became the leader in the successful efforts by the town of Amherst to become the seat of a new agricultural college just authorized by the Massachusetts General Court under the provision of the Morrill Act, the “Land Grant Act” that established state agricultural and mechanical colleges throughout the United States. Just before the new Massachusetts Agricultural College opened its doors in September 1867, he was appointed president, the third to hold the title, the first two having no school over which to preside. He held the presidency of MAC for twelve years, until 1879.
Clark taught and administered the affairs of the struggling college. He insisted on making his school into a general liberal arts school, not simply a training school for farmers-to-be. Early in 1876, he obtained a leave of absence from MAC and accepted the appointment by the Japanese government to open a new agricultural college on the model of MAC. He went to Japan in the late spring and arrived on his fiftieth birthday in Sapporo, where he opened the Sapporo Agricultural College in mid-August. He remained there for eight and a half months, during which he established the school, taught four hours a day, served as the technical advisor to the island of Hokkaido, and paved the way for the conversion to Christianity of all the members of the first class. At SAC, he demonstrated anew his qualities as a fine teacher that had been revealed at both AC and MAC. He was a great inspiration to his students, all of whom became leaders in Hokkaido or nationally in Japan. As a result of his highly successful mission, his name remained well-known in Japan more than a century after his brief stay there. All Japanese school children since his time have learned as a motto his farewell statement, “Boys, be ambitious, (B.B.A.)”, since extended to students of both sexes.
On returning to MAC in 1877 he found that the school’s existence had become even more precarious than before. He resigned as president early in 1879 and accepted the presidency of an innovative “floating college” which was to circumnavigate the globe. However, the unfortunate premature death of the promoter brought that venture to an end shortly before the intended date of departure. Clark then became involved with a shady character with whom he founded the firm of Clark and Bothwell, a mining venture. Within a year Clark made and lost a considerable fortune. The collapse of the firm, with the disappearance of his partner, resulted in losses to the investors in the mines operated by the firm, including many citizens of Amherst.
Clark’s health failed immediately after the firm’s collapse in 1882 and he remained a semi-invalid until his death on March 9, 1886. Although he was a leading citizen of Amherst and prominent in the affairs of the Commonwealth, his fame has endured primarily in Japan.
Scope and Contents of the Collection
The papers of William Smith Clark, 1814-2001 (bulk 1844-1886, 1956-1976), include correspondence with fellow professors and scientists, students in Japan, and family; photographs and personal items; official correspondence and memoranda; published articles; books, articles, television, and radio materials relating to Dr. Clark, in Japanese and English; and materials regarding Hokkaido University and its continuing relationship with the University of Massachusetts.
The papers reveal many details about the early days of MAC, student life at AC, the Civil War, the island of Hokkaido in the late nineteenth century, and the role of WSC in the founding of SAC, as well as his interactions with colleagues, officials, students, and family. As to full documentation of his life, however, the papers are an uneven representation. The correspondence, for example, adequately covers his undergraduate years at AC, his two years of graduate school in Germany, his less than two years at the front in the Civil War, and his year in Japan. Virtually nothing in the correspondence, however, deals with his years as a professor at AC, his presidency of MAC, his disastrous mining venture, or the final four years of his life.
Clark was not a prolific writer. Apart from his MAC and SAC presidential reports, his writings consisted largely of printed versions of lectures on botanical experiments carried out at MAC during his presidency, and articles on educational issues related to MAC.
Because of his AC career, his MAC presidency, and his prominence as a leading citizen of his town and state, his activities were given a fairly extensive coverage in the local press. A considerable number of newspaper clippings is included in the papers, but his political activities are not represented in other ways. The clippings are generally photocopies, often of poor legibility, especially those in oversize Box 27.
The photographs in Series 1 are numerous enough to be of significance in documenting the life of WSC.
As compared with the number of documents written or received by Clark, there is a disproportionately large amount of material written about him in both English and Japanese. This is a reflection of the breadth of the impact that Clark had on the island of Hokkaido, on SAC (which became Tohoku Imperial University, then Hokkaido Imperial University, and finally Hokkaido University), and on his Japanese students who became leaders in Hokkaido and Japan itself. Clark’s fame has long remained green in Japan, as indicated by the long television documentary on his life shown on a Japanese national network in 1981.
Because of WSC’s involvement with the establishment of SAC and the constant presence of MAC personnel on its campus in the early years, a close relationship between the two agricultural schools was established long ago. This relationship continued in both formal and informal ways through the years and is documented in the papers, particularly in Series 5.
The Clark papers include copies of a few items of correspondence and other materials at AC, and copies of WSC’s official memoranda in the Hokudai Library. The latter also has reproductions of all the original personal correspondence in the Clark papers at the University of Massachusetts.
Additional materials relating to WSC or HU is to be found in the University Archives in the official minutes of the MAC Board of Trustees (RG-2/1), in the published Annual Reports of MAC (RG-1/00/2) (reports for 1864-1932/33 available online), in the papers of William Wheeler (RG-2/3), Horace Stockbridge (RG-40/11), David P. Penhallow (RG-50/6-1873), William P. Brooks (RG-3/1-1905), Jean Paul Mather (RG-3/1-1954), the Center for International Agriculture (RG-15/4), International Programs (RG-6/4/9), Student Union (RG-36/100), John Lederle (RG-3/1-1960), and Charles Goessman (RG-40/11).
The papers reveal many details about the early days of MAC, student life at AC, the Civil War, the island of Hokkaido in the late nineteenth century, and the role of WSC in the founding of SAC, as well as his interactions with colleagues, officials, students, and family. As to full documentation of his life, however, the papers are an uneven representation. The correspondence, for example, adequately covers his undergraduate years at AC, his two years of graduate school in Germany, his less than two years at the front in the Civil War, and his year in Japan. Virtually nothing in the correspondence, however, deals with his years as a professor at AC, his presidency of MAC, his disastrous mining venture, or the final four years of his life.
Clark was not a prolific writer. Apart from his MAC and SAC presidential reports, his writings consisted largely of printed versions of lectures on botanical experiments carried out at MAC during his presidency, and articles on educational issues related to MAC.
Because of his AC career, his MAC presidency, and his prominence as a leading citizen of his town and state, his activities were given a fairly extensive coverage in the local press. A considerable number of newspaper clippings is included in the papers, but his political activities are not represented in other ways. The clippings are generally photocopies, often of poor legibility, especially those in oversize Box 27.
The photographs in Series 1 are numerous enough to be of significance in documenting the life of WSC.
As compared with the number of documents written or received by Clark, there is a disproportionately large amount of material written about him in both English and Japanese. This is a reflection of the breadth of the impact that Clark had on the island of Hokkaido, on SAC (which became Tohoku Imperial University, then Hokkaido Imperial University, and finally Hokkaido University), and on his Japanese students who became leaders in Hokkaido and Japan itself. Clark’s fame has long remained green in Japan, as indicated by the long television documentary on his life shown on a Japanese national network in 1981.
Because of WSC’s involvement with the establishment of SAC and the constant presence of MAC personnel on its campus in the early years, a close relationship between the two agricultural schools was established long ago. This relationship continued in both formal and informal ways through the years and is documented in the papers, particularly in Series 5.
The Clark papers include copies of a few items of correspondence and other materials at AC, and copies of WSC’s official memoranda in the Hokudai Library. The latter also has reproductions of all the original personal correspondence in the Clark papers at the University of Massachusetts.
Additional materials relating to WSC or HU is to be found in the University Archives in the official minutes of the MAC Board of Trustees (RG-2/1), in the published Annual Reports of MAC (RG-1/00/2) (reports for 1864-1932/33 available online), in the papers of William Wheeler (RG-2/3), Horace Stockbridge (RG-40/11), David P. Penhallow (RG-50/6-1873), William P. Brooks (RG-3/1-1905), Jean Paul Mather (RG-3/1-1954), the Center for International Agriculture (RG-15/4), International Programs (RG-6/4/9), Student Union (RG-36/100), John Lederle (RG-3/1-1960), and Charles Goessman (RG-40/11).
This collection is organized into eight series:
Series 1. Biographical Materials, 1850-1986, n.d.
Series 2. Correspondence, 1814-1930 (bulk 1844-1885), n.d.
Series 3. Writings, 1848-1879, 1993
Series 4. Materials about William Smith Clark, 1858-1996, n.d.
Series 5. Hokkaido Univ. / UMass relations, 1877-2003 (bulk 1956-1976), n.d.
Series 6. Duplicates, 1852-1976 (bulk 1852-1879)
Series 7. Artifacts, 1973-1974, n.d.
Series 8. Oversized boxes, 1851-1975
Information on Use
Terms of Access and Use
Restrictions on access:
The collection is available for research. Some fragile originals have been copied for use.
Preferred Citation
Cite as: William Smith Clark Papers (RG 3/1-1867). Special Collections and University Archives, W.E.B. Du Bois Library, University of Massachusetts Amherst.
History of the Collection
The papers of William Smith Clark (b. 1826, d. 1886), botanist, chemist, mineralogist, and educator, were acquired in part by the Library of the University of Massachusetts Amherst in 1974 by gift of the widow of Dr. Clark’s grandson, Mrs. William S. (Gladys) Clark II. Copies of original documents in the Amherst College Library and the Hokkaido University Library were acquired mainly in 1974-77. Materials about Dr. Clark and the Hokkaido University / University of Massachusetts relationship were acquired from Professors John Maki, Richard Woodbury, H. Leland Varley, and others. Some materials had long been in the University of Massachusetts Library.
Processing Information
Processed by John Maki and SCUA staff, 1983, 2004.
Additional Information
(医科大学は、医学専門大学院として存在している。)
大学院
次の大学院が設置されている。
孫命順 (大韓民国の第14代大統領金泳三の妻で、元ファーストレディ)
金潤玉 (大韓民国の第17代大統領李明博の妻で、現ファーストレディ)
玄貞恩 (大韓民国の実業家、現代グループ会長)
洪羅玲 (サムスングループ文化財団常務)
李明熙 (サムスングループ創設者李秉喆の娘で、サムスングループ会長李健熙の妹、新世界百貨店会長)
辛英子 (ロッテグループ重光武雄会長の娘、ロッテ財団の理事長)
孫智愛 (韓国国際放送交流財団社長、元CNNのソウル支局長)
韓明淑 (大韓民国の37代国務総理、元民主統合党代表)
金璟蘭 (韓国放送公社アナウンサー)
金柱夏 (元MBCニュースデスクアンカー)
徐弦珍 (文化放送アナウンサー、2001年第45会ミス・コリア選抜大会ミス・コリア善)
金恩慧 (元文化放送記者、李明博政権で大統領府の元副報道担当者(スポークスマン))
郭珉整 (大韓民国の女性フィギュアスケート選手(女子シングル))
金麗珍 (大韓民国の女優)
外部リンク
梨花女子大学校公式サイト(朝鮮語、英語)
最終更新 2013年4月8日 (月) 09:57
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梨花女子大学校
[Walk With Me] - Ewha Woman's University (Seoul, Korea)
Additional Information
Sponsor
Encoding funded by the Andrew W. Mellon Foundation.
Language
English and
Japanese
Japanese
- 自然科学大学
- 数理物理科学部
- 数学科 統計学科 物理学科
- 分子生命科学部
- 化学・ナノ化学科 生命科学科
- 工科大学
- コンピューター・電子工学部
- コンピューター工学科 電子工学科
- 建築学部
- 建築学科(4年) 建築学科(5年)
- 環境・食品工学部
- 環境工学科 食品工学科
- 音楽大学
- 造形芸術大学
- 音楽学部
- 鍵盤楽科 管絃楽科 声楽科 作曲科 韓国音楽科 舞踊科
- 造形芸術学部
- 東洋画科 西洋画科 彫塑科 繊維芸術学科 陶磁芸術学科
- デザイン学部
- 空間デザイン学科 視覚デザイン学科 産業デザイン学科 ファッションデザイン学科 映像デザイン学科 衣類学科
師範大学
- 教育学科 幼児教育学科 初等教育学科 教育工学科 特殊教育学科 英語教育学科 社会教育学科 国語教育学科 科学教育学科 数学教育学科
- 法科大学(法学専門大学院設立に伴い募集停止)
- 法学科
- 経営大学
- 経営学部
- 経営学科
- 健康科学大学
- 看護科学部
- 看護学科
- 体育科学科
- 薬科大学
- 薬学科
- スクラントン大学
- スクラントン学部 国際学部
(医科大学は、医学専門大学院として存在している。)
大学院
次の大学院が設置されている。
- 一般大学院
- 国語国文学科 中語中文学科 英語英文学科 仏語仏文学科 独語独文学科 キリスト教科 哲学科 史学科 美術史学科 政治外交学科 行政学科 経済学科 文献情報学科 社会学科 心理学科 消費者学科 言論・弘報・映像学科 女性学科 児童学科 教育学科 幼児教育学科 初等教育学科 教育工学科 特殊教育学科 英語教育学科 社会教育学科 国語教育学科 科学教育学科 数学教育学科 言語病理学科 経営学科 国際事務学科 数学科 統計学科 物理学科 化学・ナノ化学科 生命・薬学部 保健管理学科 看護科学科 食品栄養学科 エコ科学部 バイオ融合科学科 脳認知科学科 コンピューター工学科 電子工学科 建築学科 環境工学科 食品工学科 大気科学工学科 デジタルメディア学部 音楽学部 造形芸術学部 デザイン学部 衣類学科 舞踊科 体育科学科 地域研究協同課程 北韓学協同課程 生命倫理政策協同課程 東アジア学研究協同課程
- 英才教育協同課程
- 専門大学院
- 国際大学院 通訳翻訳大学院 社会福祉専門大学院 経営専門大学院 医学専門大学院
- 法学専門大学院
- 特殊大学院
- 教育大学院 デザイン大学院 神学大学院 政策科学大学院 公演芸術大学院 臨床保健科学大学院 臨床歯医学大学院
- 外国語特殊大学院
孫命順 (大韓民国の第14代大統領金泳三の妻で、元ファーストレディ)
金潤玉 (大韓民国の第17代大統領李明博の妻で、現ファーストレディ)
玄貞恩 (大韓民国の実業家、現代グループ会長)
洪羅玲 (サムスングループ文化財団常務)
李明熙 (サムスングループ創設者李秉喆の娘で、サムスングループ会長李健熙の妹、新世界百貨店会長)
辛英子 (ロッテグループ重光武雄会長の娘、ロッテ財団の理事長)
孫智愛 (韓国国際放送交流財団社長、元CNNのソウル支局長)
韓明淑 (大韓民国の37代国務総理、元民主統合党代表)
金璟蘭 (韓国放送公社アナウンサー)
金柱夏 (元MBCニュースデスクアンカー)
徐弦珍 (文化放送アナウンサー、2001年第45会ミス・コリア選抜大会ミス・コリア善)
金恩慧 (元文化放送記者、李明博政権で大統領府の元副報道担当者(スポークスマン))
郭珉整 (大韓民国の女性フィギュアスケート選手(女子シングル))
金麗珍 (大韓民国の女優)
外部リンク
梨花女子大学校公式サイト(朝鮮語、英語)
最終更新 2013年4月8日 (月) 09:57
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梨花女子大学校
[Walk With Me] - Ewha Woman's University (Seoul, Korea)
公開日: 2012/03/01
Share this video: http://clicktotweet.com/eQ7Ee
Yay! Here's another episode of "Walk With Me" : ) This time, I went to Ewha Woman's University with Mikyung and Clara : ) Hope you enjoy walking around 이화여자대학교 with us!
Mikyung
http://twitter.com/mikyungcho
Clara
http://twitter.com/atypicalclara
Hyunwoo
http://twitter.com/ever4one
http://hyunwoosun.com
Thanks for watching!
Learn Korean from me at http://TalkToMeInKorean.com
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小原克博「近代日本における政治と宗教──無教会主義を視野に入れて」
公開日: 2012/07/07
2012年7月7日、立命館大学 びわこ・くさつキャンパス
講演「近代日本における政治と宗教──無教会主義を視野に入れて」
※金丸裕一教授(立命館大学 経済学部)「教養ゼミナール(51)」の一環として行われた公開講義
講演「近代日本における政治と宗教──無教会主義を視野に入れて」
※金丸裕一教授(立命館大学 経済学部)「教養ゼミナール(51)」の一環として行われた公開講義
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メソジスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88
メソジスト(Methodist)とは、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム(Methodism)に生きた人々、および、その運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々を指す。日本では美以教会とも言った。
特色
特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。メソジストという名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まった。規則正しい生活が実践できているかどうか、互いに報告し合う少人数の組会、また、信仰のレベル別のバンド・ミーティングを重視した。このため軍隊や学校と相性がよく、ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心である。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える日曜学校(教会学校としてキリスト教教育を施すように時代とともに変化した)や、当時の流行歌に歌詞をつけ、口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジスト教徒が中心であった。概して上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れた。
メソジスト運動の原動力となったのは、「確証の教理」で、この「信仰の確証」はメソジスト運動を特徴づけるものとなった。当時の形骸化したイングランド国教会からすれば、メソジストのこの「聖霊の証し」の強調は狂信主義とも思えたので、彼らはメソジスト運動を、他の理由と相俟って、妨害しようとした。
教会自体に軍隊組織を採用した救世軍や「聖潔」(きよめ)を強調するホーリネス運動、聖霊の働きを強調するペンテコステ派などもこのウェスレアン・メソジスト運動の流れである。
イングランド
メソジスト運動のそもそもの始まりは、イングランド国教会の教職であったジョン・ウェスレーが、モラビア派のクリスチャンと接触し、それまでの形式的な信仰から、いのちの溢れる信仰に導かれたことにある。人々は、輝いて生きるようになったウェスレーに魅せられて、指導を求めてきた。ウェスレーは木曜日の夜を定めて、これらの人々との交わりの時、指導の時を持った。これが人数が増し加わるにつれて、メソジスト・ソサエティが作られ、その組会のために信徒伝道者が立てられ、彼らの巡回によって、大英帝国全体に感化を及ぼしたメソジスト運動へと展開していった。
このように実際の運動を支えたのは、信徒の立場にあって労した説教者たちであった。植民地アメリカでのメソジストの働きも信徒によって始められた。それで18世紀の英国で始まった信仰覚醒運動から生じたメソジスト系の諸教会は、もともと信徒運動という性質の強い教会であった。
当初はジョン・ウェスレーをはじめとするごく少数のイングランド国教会の司祭たちによって指導され、聖職者がほとんど参加していなかったため、信徒の説教者を用いたことから、これを認めない国教会と対立し、激しく迫害された。神学的には国教会と同じくローマ神学を継いでいるが、上記の信徒による自立的な宗教活動を教義的に支えるため、プロテスタント諸派の中でも特異な聖霊論をもつ。
イギリスにおけるメソジスト運動は、主に中下層階級の市民や軍人を対象とした大衆運動として展開されながらも、ウェスレーという強烈な個性の存在によって、禁酒禁煙や几帳面な生活様式を要求するなど、爆発的な信徒数に結びつくにはほど遠い、厳格なピューリタン的な要素を含んだ運動であった。
アメリカでの歴史
メソジスト運動は、本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、メソジスト教団は、現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団である。ちなみに、一番多いのはバプテスト教会である。信条としてはルター派に近く、悔い改めによる救済を強調する。カルヴァンの説いた予定説的な考え方はとらない。
これゆえ、ヨーロッパ大陸におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と改革派教会は、イングランドと米国ではメソジスト派と長老派にほぼ重なる。
プロテスタント諸教派(聖公会、アナバプテストを含む)の系統概略
これが新大陸アメリカに宣教され、まだ開拓時代の西部へと急速に広がっていく過程において、その性質をかなり変貌させていく。教派の通称にもなっていたメソッド(謹厳な生活方式)は二の次にされ、ウェスレーの説いた教義のある部分と大衆運動という側面が強調されていった。すなわち、救いは罪の自覚とともにすでにあるものとして体験されるというスピリチュアルな喜びと、その喜びに基づいて、この現世において神の国を実現しようという強烈な社会変革意欲であった。こうして、開拓時代のアメリカで宣教に当たった説教者たちの多くは、専門教育こそ充分に受けてはいないが、熱烈な信仰心をもち、社会事業へのバイタリティにあふれた人たちであった。 1828年米国メソジスト監督教会より、教会政治の意見の相違によりメソジスト・プロテスタントが分離独立した。 1843年奴隷問題を巡って、ウェスレアン・メソジスト教会が分裂した。ウエスレアン・メソジスト教会は、その後、他の教会と合同し、現在はウエスレアン教会となっている。米国の南北戦争では教会自体も南北にわかれて戦った。メソジスト監督教会は1854年南北に分裂し、北部にはメソジスト監督教会、南部には南メソジスト監督教会が組織された。1939年再合同し、1968年Evangelical United Brethrenとも合同し、現在の合同メソジスト教会(United Methodist Church)となった。ジョージ・W・ブッシュ元大統領夫妻が熱心な信者である。1860年アメリカ北メソジスト監督教会から、アメリカ自由メソジスト教会が分離した。
日本での歴史
日本ではカナダ・北米教会による宣教から青山学院、南メソジスト監督教会による宣教から関西学院が生じた。日本メソヂスト教会は、日本基督教団設立と同時にこれに参加した。他には日本自由メソヂスト教団、日本フリーメソジスト教団、東京フリー・メソジスト教会などが存在する。これらは米国系のウェスレアン・メソジストである。
1873年米国メソジスト監督教会が宣教師を派遣し、横浜、東京、長崎、函館、を伝道の拠点とした(美以教会)。本多庸一が弘前でメソジストに改宗し、やがて本多を中心として1884年 日本年会を組織した。神戸を中心として西日本に伝道していたアメリカ南メソヂスト監督教会(南美以教会)と静岡を中心に伝道していたカナダ・メソジスト教会が1907年に合同して、日本メソヂスト教会が誕生した。
1881年に米国メソジスト・プロテスタント教会本部が日本における教育及び伝道事業を開始した。その結果、横浜英和女学校と名古屋英和学校、それから横浜第一、第二、第三美普教会、その後平塚、茅ヶ崎、伊勢原に会堂を建設した。横浜に続き、名古屋に伝道事業を開始し、1897年名古屋第一(広路)教会、第二(中京)第三(熱田)、続いて静岡、浜松と東海道沿いに伝道事業が進められた。その後日本美普(みふ)教会になり、1939年管理が米国本部より邦人に引き継がれた。
1895年アメリカ自由メソジスト教会が柿原正次を日本自由メソジスト教会日本初代監督に任命して日本に派遣した。続いて、1896年河辺貞吉がアメリカ自由メソジストから日本伝道の責任者に任命されて日本に派遣された。河辺貞吉らが淡路島で伝道活動を始めた。8年間淡路島で伝道活動をして、大阪や兵庫でも活動した。1903年アメリカ自由メソジスト教会は最初の宣教師として、マチウソン夫妻、ヤングレン夫妻を日本に派遣した。1908年伝道者の育成のために大阪伝道館(現在、大阪キリスト教短期大学)を設立した。
1940年自由メソジスト教会、日本ナザレン教会、日本同盟基督協会、世界宣教団が日本聖化基督教団を結成する。総理に土山鉄次が就任した。1941年日本基督教団の成立に伴い、日本聖化基督教団が第8部に、日本メソヂスト教会と日本美普教会が第2部になる。戦後8部の構成団体は日本基督教団を離脱したが、第2部の多くは日本基督教団に留まっている。
戦後に、日本自由メソヂスト教団が日本基督教団から独立し(1952年創立)、1970年以降のいわゆる「教団問題」により1984年そこから日本フリーメソジスト教団が分離する。また、戦後来日した北米自由メソジスト教会引退教師の伝道により、東京フリー・メソジスト教会が誕生した。
また、本多庸一によって改宗しメソジスト教会の伝道師になった中田重治によってホーリネス運動が起こり、その結果ホーリネス派の諸教会が誕生した。日本ホーリネス教会の教職であった蔦田二雄を中心にして生まれたリバイバル・リーグと呼ばれる超教派運動は、18世紀のメソジスト運動を日本において再現しようとするものであったが、1943年に始まった軍閥政府の教会弾圧によって中断を余儀なくされた。1945年に創設されたイムマヌエル綜合伝道団は、その流れを継承する教派の一つで、神学的にはメソジストの系列にある。
また、英国メソジストから生まれた救世軍が、ライト大佐によって1895年から日本で始まった。日本での働きが開始されてまもなく、山室軍平が入隊し、後に日本人最初の士官として任命された。日本救世軍の自立を成長のために貢献した。日本では、災害の義捐金募金活動、出獄人保護事業などの社会事業を行った。
最終更新 2013年3月9日 (土) 16:38
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