2013年5月8日水曜日

梅原猛「『草木国土悉皆成仏』という思想」

梅原猛「『草木国土悉皆成仏』という思想」



公開日: 2012/08/03
比叡山宗教サミット25周年記念
世界宗教者平和の祈りの集い(第1日目)
テーマ「自然災害の猛威と宗教者の役割──3・11大震災と原発事故への反省と実践」
国立京都国際会館、2012年8月3日

Katsuhiro KOHARA
梅原哲学の到達点、といってよいかもしれません。草木国土悉皆成­仏そのままの形では現代人にはピンときませんので、それをどのよ­うに解釈して、実際に適用していくのかが、これから求められるの­だと思います。

=================================

http://www.aibisoft.co.jp/yume/no01.htm

次頁


 次頁



=================================

http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/23sansensoumoku.htm

宗教のときめき

23「山川草木悉皆成仏」と梅原猛

やすい ゆたか
草も木も山も川さえ御仏の現身なるや明けの明星



梅原猛最新講演集の編集についてやすいゆたかと打ち合わせする梅原先生


最近、梅原猛先生にはどうも世阿弥の霊が乗り移ったらしく、能の世界にのめり込んでおられます。

能楽全集の監修もされているということで、家の中には能楽関係の資料で溢れかえっていて、たくさん能をごらんになられているようです。

元々能というのは、怨霊鎮魂劇としてできているのですから、怨霊研究家として第一人者の梅原先生が、能にのめりこまれるは十分必然性がある話ですね。

それに梅原先生は仏教思想に関心をお持ちです。仏教思想からみても能には天台本覚思想が表現されていて、その意味から興味をそそられるようです。梅原先生が仏教に惹かれるのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教的な一神教では独善的になりすぎて寛容をなくしたり、人間中心主義が行過ぎて自然破壊がすすみ、人類や地上生物の存続が危うくなる恐れがあるからです。

梅原先生は、唯一絶対の神という一元的な価値に統合するより、さまざまな原理や価値観を尊重し合い、共存できるような多元的な調和を目指す多神教的な宗教を好まられるのです。

その意味で大乗仏教はバラエティに富んでいますし、神道とも習合しています。しかも人間だけでなく、一切衆生に仏になる性質つまり仏性が備わっているとするのです。これを『大般涅槃経』では「一切衆生悉有仏性」と表現しています。つまり生きとし生けるものはことごとく仏になる性質があるということです。

ところがインドでは有情のものは動物までで、植物は感覚がないので無情の存在です。それで衆生には含まれないと考えていたらしいのです。それは肉食は禁じても、菜食は禁じられないので、植物は衆生に含まないということで食べてよいことにしたからだという解釈もあります。


しかしそれでは不徹底です。生きているものは大切にというのなら、植物も衆生に含めるべきではないかと思いますね。その上で食べたり食べられたりする命のつながりに大いなる生命の原理を見出すべきでしょう。

それで中国の天台宗湛然は『金剛錍』で非情の物も成仏するという非情成仏説を唱えたといいます。それは王陽明にも受け継がれました。『伝習録』には「草木土石は悉く良知をもつ、禽獣草木山川土石は人ともともと一体でしかないのだ」とあります。。

日本天台宗は密教化するにつれて土着の神道の自然信仰と習合したのか、動物だけではなく植物にも、さらには国土にまで仏性を認め「草木国土悉皆成仏」という言葉を生みました。それが現存する文献では最古のものとしては869~885年に書かれたと思われる安然の『斟成草木成仏私記』です。

鎌倉時代の禅宗では釈迦が明星を見て成道したとき、つまり仏になったとき、同時に有情非情草木国土も成道したという解釈を打ち出し、その時に「草木国土悉皆成仏」と釈迦が叫ばれたことになっていますが、その経典からの出典は明らかではありません。

この「草木国土悉皆成仏」は、室町時代に始まる能では良く使われているのです。『鵺』『墨染桜』『芭蕉』『杜若』『六浦』『現在七面』『西行桜』『高砂』『定家』などに出てきます。人間だけではなく、怪獣や桜、芭蕉、杜若といった植物や雪なども怨霊となって現われ、鎮魂されて成仏するという設定でなのです。

この語句は『中陰経』より引用とされていますが、現存する『中陰経』にはこの語句は存在しないということです。

ところでよく考えれば、人間は人間だけにひどいことをして怨みをいだかれているのではなく、動物や植物や大地に対しても、大虐殺、大伐採、砂漠化、コンクリート化とかまあえげつない破壊を文明の進歩の名の下に当然のごとくやってきました。怨みに思っているのは梅原先生の掌で息絶えたムツゴロウだけでないでしょう。人間中心主義の身勝手な発想を無反省に続けていたら駄目だと梅原先生は心底から思っておられます。

ところで「一切衆生悉有仏性」と「草木国土悉皆成仏」という言葉とならんで、「山川草木悉有仏性」や「山川草木悉皆成仏」という言葉があります。これらの言葉は、天台本覚思想を再評価し、草木や山川も含めて仏性を持ち、成仏するとして尊重しようということで、仏教的な環境思想として1970年代からさかんに使われるようになったらしいのです。

岡田真美子さんの「東アジア環境思想としての悉有仏性論」によりますと、その用例を仏典や平安、鎌倉、室町の文献に求めても一つも出ていないというのです。

1986年に中曽根首相が「山川草木悉皆成仏」という言葉を施政方針演説で使って有名になったらしいのです。批判仏教で知られる袴谷憲昭さんによれば、その言葉は梅原猛先生が良く使われていたので、その影響ではないかという。それで岡田真美子さんは、ひょっとして梅原猛先生の造語ではないかという仮説を立てたのです。

そのことを夫の岡田行弘さんが新幹線で同乗した梅原先生に確かめたところ、先生は肯定したらしいのです。「山川草木悉有仏性」より「山川草木悉皆成仏」の方が訴える力が強いからという事情です。もっとも「山川草木悉有仏性」は誰がいつから使い始めたかは分からないらしいのですが。

草木国土悉皆成仏」は国という語があるために環境用語としては相応しくないでしょう、その点「山川草木悉皆成仏」という言葉は日本の風土にぴったりの表現のような気がしますね。もちろん言い出したら切がありません、清澄な空気や美しい海や湖、産土(うぶすな)の大地というものをもっとしっかり含んだ表現にできないかという注文もあるでしょう。

とも覚思想を現代の環境思想として蘇生させる用語として「山川草木悉皆成仏」という用語は大変いいですね。それがいつの間にか広がって、誰が言い始めたか分からなくなっていたというのは面白いですね。それが梅原猛先生だということでなるほどと思います、そこでじゃあ梅原先生のどの文献や講演が最初かは、梅原研究者が確定しなければならないのかもしれないですね。

☆岡田真美子さんの「東アジア環境思想としての悉有仏性論」の感想として書いたものです。
http://www.indranet.jp/products/2002.11.16shituubussyouron.pdf

22に戻る

24に進む


=================================

「自然災害の猛威と宗教者の役割~3.11大震災と原発事故への反省と実践~」

http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a28ece05dab3cb3e15d906be644b76cc

2012-08-27 09:17:04

比叡山宗教サミット25周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」(2012年8月3日~4日)

「自然災害の猛威と宗教者の役割~3.11大震災と原発事故への反省と実践~」

マイケル・イップグレイブ(英国教会ウーリッジ教区主教)

今日、私は三つのことをお話しします。昨年の東日本大震災と津波、及びその後の福島第一原子力発電所の危機が引き起こした人々の反応について話します。そして、このような状況で求められている宗教的リーダーシップの諸相について話します。しかしまず、その前提となる世界理解について手短にお話ししましょう。

私は、クリスチャンとして、世界は全ての人々を育み、安心して住める家として神さまによって創造されていると信じています。私たちは創造の秩序を尊重する責任ある生き方をすることで繁栄することができます。このビジョンが私たちの前に置かれた理想であり、私たちが目指すべきゴールです。それは現在私たちが生きている世界では実現されていません。しかし、イエス・キリストにおいて、平和と正義と調和の御国が訪れ、そこで全ての人々が真に我が家と感じられるようになるという確かな約束があります。キリスト教的な言葉遣いをしましたが、安全に生きることのできる全ての人のための家という世界のビジョンは、他の宗教の教えとも響き合うものです。俳人松尾芭蕉が津波に遭った地域のただ中にある松島湾を描写するのに用いた言葉が思い出されます。「松島湾には無数の島々がある。…まるで子や孫を可愛がっているかように、他の島々を背負っている島があり、他の島々を腕にかき抱いている島がある」と。芭蕉は、自然環境を育み守る家として、人間を語るようにして語っています。

※「島々の数をつくして欹つものは天を指し、ふすものは波にはらばふ。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり、抱けるあり児孫を愛するがごとし。」(『奥の細道』)

人々はこの自然災害とエネルギー危機にどのように応じてきたでしょうか。それは三重のもの、苦しみの経験、反省の動き、そして家を失ったという根底にある感覚から成るものでした。

人々は苦しんできました。現在もその苦しみは続いています。住んでいた場所を破壊されたことによって直接的に。また原発事故によって間接的に。過剰に放射能を被爆することで被った身体的な被害の程度を私たちはまだ知りません。さらに、私たちは、今回の災害や、将来また起こるかもしれない災害がもたらす、相当な精神的な苦痛や心の痛みのことも考えなければなりません。今回の災害は、自然災害と人的災害が結びついた恐ろしいものでした。将来が見えないことや専門的な知識が不足していることで、被害はさらに大きくなっています。この凄まじい状況下に置かれながら普通の日本人が示した勇気、品位それに団結力は、世界中の人々に深く感銘を与えてきました。

第二に、今回の災害の原因とその重大性を反省する動きがあり、それは次第に大きくなっています。これは、心に大きな傷を残す出来事に対して自然にわき起こる反応であって、それぞれのケースで異なった形をとるものです。「純粋なる自然の」災害が発生すると、西欧では「神はどうしてこのようなことが起こることをお許しになられたのか?」という神学的ないしは哲学的な問いが問われます。しかし、今回の場合は、自然災害と人為災害の区別をつけることは容易ではありません。そのため、反省のプロセスは抗議や追及の様相を帯びてきました。会社側の不十分な対応について、原子力発電所を設置した場所について、原子力の利用そのものに対して、私たちの社会におけるエネルギー消費の程度に対して、疑問が投げかけられるようになりました。福島第一原子力発電所の事故がこうした疑問を引き起こしているのは、日本においてだけではありません。

苦痛と不安の経験や追及と抗議の動きの根底には、家を奪われたという感覚が深いところにあると、私は思います。松尾芭蕉の詩的な描写とは対照的に、被害に遭った人たちは、もはや環境を心から「我が家」と呼ぶことができるものとは感じられなくなっています。私たちを喜んで迎え入れ、育んでくれる場所、安心感と意味を与えてくれる場所とは感じられなくなっています。自分を自分の場所と編み合わせる所属の絆を引き裂いたのは人間の行いだと考えられています。この家の喪失の感覚が、洋の東西を問わず、今、私たちの文化の中で増大しています。それは、殊に原子力の問題について、また広くエネルギー利用の諸問題について、関心を集中させています。

人々がこのように応答している中、宗教指導者の役割は何でしょうか。キリスト教の指導者は、イエス・キリストを手本とします。イエスの働きは、伝統的に、預言者、祭司、そして王の「三重の職務」として説明されます。イエスは、祭司として、悩み苦しむ人々に手を差し伸べます。預言者として、社会に真実を伝えます。そして、王として、この世界が神の御国に作りかえられることを示します。このことから、福島に見ているような危機に取り組む全ての宗教指導者に意味を持つ三重の責任を考えることができるでしょう。

苦しんでいる人たちに手を差し伸べ、住む場所を失った人々に住まいを提供し、亡くなられた方々のために祈り、不安を抱える人々を力づけ、社会で最も弱い立場に置かれている人々~例えば、高齢者、精神的な問題を抱えている方、少数者~を特別に気遣う、祭司的役割があります。エネルギー問題が重大なものになるほど、社会の周縁にいる人々の苦しみはますます大きくなるでしょう。彼らを助け、慰めることは我々の仕事です。宗教団体の役割は、昨年の大災害に対する諸宗教団体の数多の働きの内に大いに示されました。

次に、預言者的な役割があります。自然界に於ける人間の立場を我々の社会に思い起こさせ、それを通してエネルギー政策を問うことです。こうした問題は、場所が異なれば、異なるものです。日本での原子力の問題は、イギリスでの問題とは異なります。しかし、どんな状況でも、私たちは、普段何気なく想定していること、期待していること、そして生活の仕方に対して疑問を投げかける必要があります。そうした問いかけをすることは、社会にとっても私たち自身にとっても心地よいものではないでしょう。

クリスチャンにとって神の国の約束は未来への希望を語るものです。どんな宗教も希望を与える力を持っており、それを分かち合うことができます。自然災害や人為災害に揺さぶられ、地球規模のエネルギー危機に直面し、人々はこの世界で家を失ったと感じています。宗教指導者として、私たちには人々に希望のビジョンを示す役割があります。世界は、私たち全てを育み、守る、本当の意味での家なのです。

真野 玄範 今夏、カンタベリー大主教の名代として比叡山宗教サミットに来られたマイケル・イップグレイブ師父のスピーチです。教区(管区?)から英文と和訳が送られてきたのですが、訳にいろいろと問題があったので、長坂聖マリヤ教会で配布するにあたってほとんど訳し直すことになってしまいました。

基本的で、かつ洞察と示唆に富む言葉で簡潔に語られています。是非お読みください。


=================================

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/2012_0803.htm

比叡山宗教サミット25周年
8/3~4

  2012年8月3・4両日、京都洛北宝ヶ池の国立京都国際会館と比叡山頂の延暦寺根本中堂前広場を会場に、比叡山宗教サミット25周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」が、内外から千名余の宗教者を集めて開催された。

開会式でスピーチを行う三宅善信代表
サウジアラビア宗教大臣のメッセージを代読する
同国宗教省大臣顧問のアブドル・アルヒーダン博士
 
1986年10月、時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の呼びかけにより実現した「アッシジ世界平和祈りの集会」の精神を受けて、翌1987年8月、山田恵諦天台座主(当時)の提唱で第1回の比叡山宗教サミットが開催された。爾来、年を重ねて昨年10月「アッシジ世界平和祈りの集会25周年記念行事」がイタリアで開催されたのと同様、今夏、「比叡山宗教サミット25周年記念行事」として開催された。

旧知のアルヒーダン博士と意見を交換する三宅善信代表
旧知のアルヒーダン博士と意見を交換する三宅善信代表
 
8月3日、国立京都国際会館で開催された今回の比叡山宗教サミット25周年記念行事は、世界仏教徒連盟会長(代読)やローマ教皇(代読)やサウジアラビア宗教大臣(代読)らがそれぞれメッセージを寄せた「式典」に引き続き、昨年3月11日、未曾有の被害を出した東日本大震災を受けて、『自然災害の猛威と宗教者の役割――3.11大震災と原発事故への反省と実践――』と題して、哲学者の梅原猛氏が基調講演を行い、各国の宗教指導者がそれぞれの教義に基づいて、自然観や救済観について議論を交えた。なお、アサド独裁政権に対する国民の反発から内戦状態になっているシリア正教会のアレッポ大主教のマール・グレゴリオス・イブラヒム師から「緊急声明」が発表された。
シリア正教会のイブラヒム大主教と三宅善信代表は、昨年もボルドーのG8宗教指導者サミットやアッシジの祈りで同席している
シリア正教会のイブラヒム大主教と三宅善信代表は、
昨年もボルドーのG8宗教指導者サミットやアッシジの祈りで同席している
 
同日の晩には、国際会館に隣接するグランドプリンスホテル京都を会場に歓迎レセプションが開催された。また、翌4日の午前中にも、国際会館を会場に『原発事故が提起したエネルギー問題と宗教者の立場』をテーマにフォーラムが開催された。

内外の宗教指導者を代表して、神習教教主の芳村正徳日本宗教連盟理事長が『比叡山メッセージ2012』を発表した
内外の宗教指導者を代表して、
神習教教主の芳村正徳日本宗教連盟理事長が
『比叡山メッセージ2012』を発表した
 
4日の午後には、会場を滋賀県大津市の比叡山頂の延暦寺根本中堂前広場に移し、特設ステージ上での少年少女たちによる献花に続いて、内外の宗教代表者が登壇して「平和の祈り」が行われ、全山に「平和の鐘」の音が響き渡たり、『比叡山メッセージ2012』が発表された。なお、三宅善信代表は、第1回比叡山宗教サミット以来、日本にいる限りほぼ毎年、この行事に列席している。


=================================

0 件のコメント: