2013年8月18日日曜日

1972年"北京の五日間"こうして中国は日本と握手した

1972年"北京の五日間"こうして中国は日本と握手した



公開日: 2012/12/01
1972年に「日中共同声明」が締結されて今年で40年になる。北京での5日間の交渉­で、田中角栄、大平正芳、毛沢東、周恩来という"名優"が、いかに困難を乗り越え調印­に至ったのか。米中和解と日中国交正常化を中国が相次いで求めた動機は何だったのか。­番組では中国側当事者と共産党中央党史研究室へのインタビュー、残された回顧録の朗読­を通じ、なぜ「8億6千万人の握手(周恩来)」に中国が応じたのか解き明かしていく。

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http://www.21ccs.jp/china_quarterly/China_Quarterly_01.html

 田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑


矢吹 晋
日中双方双方の思惑によって、歴史の闇に消された国交回復のミステリアスな「秘部」をあぶりだす

田中角栄、食欲を失うほどの大問題
いまからおよそ三〇年前の話である。一九七二年九月二五日午後六時半(日本時間七時半)、北京の天安門広場に面した人民大会堂で周恩来首相主催の晩餐会が開かれた。数時間前に初めての直行便で到着したばかりの田中首相を歓迎するためであった。翌二六日の『朝日新聞』はこう伝えている。

       <周恩来は「日本軍国主義者の中国侵略によって、中日両国人民がひどい災難をこうむった」と述べた。 (中略) このあと、日本国歌「君が代」が人民解放軍軍歌部隊によって演奏され、乾杯した。約二〇分後、今度は田中首相があいさつに立った。首相は盛大な歓迎を謝したうえで「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べた。これは事実上、中国侵略に対する“おわび”と受取られるものであった>。

       これは『朝日』一面だが、二面には次のような記事が見える。<田中首相のあいさつの途中、一区切りごとに拍手を送っていた中国側が、拍手をすっぽかすくだりがいくつかあった。中国国民に「迷惑」をかけたといったときがそうだった。同じことを周首相のあいさつは「災難」と表現した。それを、軽々しく「迷惑」くらいのことではすまされない、という不満の意思表示ではなかったろうか>----これは同行した西村秀俊社会部員の観察だ。演説の途中でこの微妙な雰囲気をとらえた記者感覚は鋭い。

       翌二六日午前一〇時一五分、人民大会堂では大平・姫鵬飛による外相会談が始まった。同じころ、田中は宿舎の迎賓館で同行記者団代表を招いて懇談した。『毎日新聞』がこの時点での雰囲気をよく伝えている。

       <北京の迎賓館で一夜を過ごした田中首相は、歴史的な第一回の日中首脳会談がトントン拍子に進んでいるためか、すこぶるごきげん。朝七時に目が覚めた田中首相のこの朝の食事は、ご持参のノリ、つけもの、梅ぼしなども並び、和中折衷の献立て。首相も外相もせっせとたいらげ、二階堂官房長官にいわせると「きのう夜の夕食会でもずいぶん食べたり、飲んだりしたが今朝もまた・・・。二人ともとにかく元気すぎるくらいだ」という。外相のけんたんぶりには首相も驚いたふうで、これを冷やかすと外相は「持ち来るものみな腹に納めてなお従容」と漢詩まがいの文句で応じたとか。首相はそれを聞いて「おれは学はないが・・・」と自室にとって返し、さらさらと筆でしたためたのが北京二日目の感想を歌った、次の漢詩。

       国交途絶幾星霜、修好再開秋将到、隣人眼温吾人迎、北京空晴秋気深 越山 田中角栄
首相は午前一〇時半、同行記者団と懇談した>(二六日付夕刊)。

       『毎日』はこの説明と合わせて、田中の漢詩を共同電の図版を用いて掲載している。田中の毛筆はなかなかの達筆と思われる。

       前夜のメイワク発言が中国側にどのような波紋を巻き起こしたかを田中はまだ知らない。佐渡おけさや金比羅船船の演奏とマオタイにまだ酔っているのかもしれない。

実はこの日、すなわち二六日午後に田中は食欲を失うほどの問題に直面する。
日本外務省記録(国交正常化当時の記録を改めて昭和六三年九月に執務資料としてタイプしたもの。なおその後情報公開法に基づいて公開されたものも内容は同一) によれば、周恩来は前夜に行われた田中のスピーチについて、冒頭こう述べた。

       <日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。戦争のため幾百万の中国人が犠牲になった。日本の損害も大きかった。われわれのこのような歴史の教訓を忘れてはならぬ。田中首相が述べた「過去の不幸なことを反省する」という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の「中国人民に迷惑(添了麻煩)をかけた」との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では添了麻煩(迷惑)とは小さなことにしか使われないからである>

この周恩来発言を受けた田中の発言は、日本側記録では、こう書かれている。
<大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならぬ問題が沢山ある。しかし、訪中の第一目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。従って、これにすべての重点をおいて考えるべきだと思う。自民党のなかにも、国民のなかにも、現在ある問題を具体的に解決することを、国交正常化の条件とする向きもあるが、私も大平外相も、すべてに優先して国交正常化をはかるべきであると国民に説いている。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である>(『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光編、岩波書店、2003年、57~58ページ、以下『岩波』と略称)。

       この引用で「大筋において」の一文に私は傍線を付し強調した。ここに大きなナゾがある。それは、周恩来の「添麻煩」批判が、以上のような形で行われたのに対して、田中は「周恩来の誤解」を解く努力を行わなかったのであろうかという疑問である。田中の帰国後の発言から推して、このような周恩来の受け取りかたは田中の真意を誤解したものであり、ここで当然反駁があってしかるべきなのだ。

       なぜ誤解なのか。田中が帰国当日に行なった報告と食い違うからだ。当日田中一行は三〇日午後一時まえに羽田着の日航特別機で帰国した。空港を出たあと皇居で帰国の記帳をすませ、自民党本部で椎名副総裁、橋本幹事長ら党執行部と懇談、引き続き午後二時二〇分から官邸で臨時閣議を開き、国交正常化交渉の経過と成果を報告し、午後三時すぎから首相官邸でテレビ中継の記者会見に臨んだ。そして午後四時すぎから自民党両院議員総会に出席し、共同声明について党の最終的了承を求め、台湾派の野次と怒号のなかで自民党は田中報告を了承した。

改竄された外務省の記録
まず記者会見で田中は迷惑問題について、こう述べた。外務省の記録(アジア局中国課が昭和六三年九月に執務資料としてタイプしたもの)には次のように書かれている。

       <私は、千数百万人に迷惑をかけたという事実に対しては「ご迷惑をかけました」と言った。「ご迷惑」という言葉は婦人のスカートに水がかかったときに使うのだそうだが、そういう迷惑という感じを、そういうことをお互いにみんなブチまけあった。(中略)「両国には長い歴史がある。日本が戦争をしたということで大変迷惑をかけたが、中国が日本を攻めてきたことはないかと研究してみたら、実際にあった。三万人くらいが南シナ海から押し渡ってきた。しかし台風に遭って(笑い)日本に至らず、本土に帰ったのは四五〇〇人であったとこう書物は教えている(笑い)。また、クビライの元寇というのがあった。日中間にはいろいろなことがあった。過去というよりも、みんな新しいスタートに一点をしぼろうということだった>(竹内実編『日中国交基本文献集』下巻、蒼蒼社、1993年211~224ページ)。

       記者会見の行なわれた自民党両院議員総会では迷惑問題は次のように報告された。
<一日目の会談では問題は何もなかったが、その晩の宴会で、日本政府の態度表明として、六五〇名から七〇〇名を前にして「戦前大変ご迷惑をかけて、深く反省している」と言った。これに対し中国側は、「ご迷惑とは何だ、ご迷惑をかけたとは、婦人のスカートに水がかかったのがご迷惑というのだ」と言った。中国は文字の国で本家だが、日本にはそう伝わっていない。こちらは東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない。これについては毛主席との会談でも、(主席は)「ご迷惑の解釈は田中首相の方がうまいそうですね」と言っていた>(傍線による強調は筆者によるもの。時事通信政治部編『ドキュメント日中復交』時事通信社1972年201ページ)。

       この田中報告の核心は二つである。一つは、「迷惑」の日本語の意味が中国語と異なる点を指摘したこと、もう一つは、日本語の「メイワク」とは、「非常に強い気持ちで反省しているときにも使う」という田中の日本語感覚の披瀝である。

       改めて指摘するまでもなく、この田中発言は、帰国第一声として、北京での交渉経過を報告するために行なわれた記者会見および与党議員に対する報告として行われたものだ。それゆえ、この種の釈明はまず北京で行われ、その経過を説明したものと考えるのが自然であろう。北京で述べなかったことをここで初めて語ることはありえないとみてよい。

       では、この釈明は北京でいつどのような場で行われたのか。
まず日中交渉全体の流れを押さえよう。日本外務省の日中国交正常化交渉記録(アジア局中国課編)によると、田中総理と周恩来総理の会談は一九七二年九月二五日から二八日にかけて、四回行われている。すなわち、第一回会談九月二五日、第二回会談九月二六日、第三回会談九月二七日、第四回会談九月二八日である。双方の出席者は、日本側は、田中総理大臣、大平外務大臣、二階堂官房長官、橋本中国課長である。中国側は周恩来総理大臣、姫鵬飛外交部長、廖承志外交部顧問、韓念龍外交部副部長である。

       周恩来の「添麻煩」批判は、第二回首脳会談(九月二六日)の冒頭で行われたことからして、田中の釈明はこのとき、すなわち第二回会談の冒頭発言の部分において行なわれたであろうと推測するのが自然だ。もう一つ、毛沢東がこの問題に触れたとき、すなわち田中・毛沢東会談の場でも田中は同じ考え方を繰り返したはずだ。

       ところが外務省記録を見ると、前述のごとくなのだ。ちなみに、三〇年後に「記録と考証」を行なったとする『岩波』(57ページ)をみても「大筋において周総理の話はよく理解できる」と発言したことになっている。不可解千万ではないか。この外務省記録が正しいものと仮定すれば、田中は二枚舌である。周恩来に対して釈明しなかった話を帰国後に得々と説明したことになる。

       この点について、当時田中訪中をテレビ記者として随行取材した田畑光永記者(当時TBS)は三〇年後にこう分析している。

       <この周発言に田中首相がどう答えたのか、あるいは沈黙したままだったのか。どこにも記録がないところを見ると、後者だったのではないかと思われる>(『岩波』245ページ)。田畑記者は敏腕記者として知られており、現在は神奈川大学教授として活躍中だ。随行記者として現場体験をもち、その後も中国問題に取り組んでいる田畑教授にしてこの分析なのだ。田中がここで「沈黙したまま」というのは、ありえない。それゆえ、記録が改竄されたと見るべきではないか。

       私がこの疑問にとりつかれたのは、近年のことだ。国交正常化交渉が行なわれた一九七二年当時、私はアジア経済研究所の海外派遣員としてシンガポール南洋大学での一年間の研究生活を終えて、香港に拠点を移したところであった。遊学先の香港大学ではランゲージセンターで広東語を学んだり、アジア研究センターに出向いて金思愷研究員と毛沢東哲学を論じたりしていた(金思愷著『思想の積木---毛沢東思想の内容と形式』龍渓書舎、一九七七年の邦訳はここから生れた)。香港時代には邦字紙はほとんど読まず、華字紙あるいは英字紙の情報に限られていたし、そのうえ、当時は日中交渉の細部にはほとんど関心がなかった。そこで近年になって実に新鮮な気分で資料を読み返したわけだ。読み進めると、「記録と考証」をうたう『岩波』版も、日本側の記録の不十分さに対する疑問を深めるばかりであった。

       二〇〇〇年秋に日中コミュニケーション研究会の北京シンポジウムで報告の機会を与えられ、私は「世論、コミュニケーション、相互理解」と題して報告した(劉志明編『中日伝播与世論』EPIC刊、2001年11月、中国語訳、所収)。

このシンポジウムは二〇〇一年秋にも続けて開かれ、私は「日中誤解は迷惑に始まる----日中国交正常化三〇周年前夜の小考」を報告した(劉志明、高井潔司編『中日相互意識与伝媒的作用』NICCS刊2002年11月、中国語訳、所収)。

       当時は翌二〇〇二年の日中国交正常化三〇周年に向けたさまざまの企画が計画されていた状況を踏まえて、私は日中のギクシャクした関係、行き違いの原点を探ろうとしたわけだ。二〇〇一年の秋に中国北京の某大学で日中関係について一カ月の連続講義を依頼されたことも一つの要素であった。

       外務省の記録を読み進めているうちに、どうにも解せない箇所、すなわち第二回会談の冒頭部分にぶつかったことは、すでに記した。この箇所は記録が改竄されているのではないかという疑念は私の脳裏で次第に膨らんだ。こうして私は中国側の資料にナゾを解くためのカギがあるのではないか、と見当をつけて北京の友人たちに依頼して、関連資料の収集を始めた。
このとき私の脳裏にはもう一つの疑問が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。それは、毛沢東が田中に対して土産として『楚辞集註』を贈呈したのはなぜかという疑問であった。ちなみに田中の毛沢東に対する贈物は、東山魁夷画伯の「春暁」(二〇号)であり、周恩来に対する贈物は杉山寧画伯の「韵」(二〇号)であった。

 毛沢東はなぜ贈物に『楚辞集註』を選んだか
九月二七日夜八時、夜型人間毛沢東が突然、書斎に田中角栄一行、すなわち大平正芳外相および二階堂進官房長官ら三人を招いた。およそ一時間、両国首脳たちの書斎における会談が続いた。別れ際、毛沢東は卓上にあらかじめ用意してあった線装本をとりあげて直接田中に手渡した。その本こそ『楚辞集註』全六冊である。毛沢東はなぜこの本を贈物に選んだのか。

       当時の新聞は次のように解説した。
<北京の日中関係筋によれば、二七日、毛主席が田中首相に『楚辞集註』六巻を贈ったことには、三つの意味があるとみられている。一つは、中国古代の憂国詩人屈原の作品『楚辞』ちなんだことで、日本国民のために決然として訪中した田中首相の愛国心をたたえた。

       次には、田中首相が訪中にあたって漢詩を作ったことをきき、中国の作法として客人の関心があることに答えた。もう一つは、キッシンジャー米大統領補佐官が訪日して「なぜ、そんなに訪中を急ぐのか」と言ったのに対して、田中首相が「日本と中国の関係は、米中の付き合いよりはるかに古い」と答えたことを中国側もよく知っている。そこで「その通りである。再び古い時代から深かった友情を復活しましょう」という気持ちをこめたと解釈されている>(『朝日』9月28日)。

       日中関係筋なる筋がどのような筋なのかその詮索はさておき、以上の三説はいずれもほとんど説得力を欠いたこじつけではないかと思われた。三説を仮に(1)田中の「愛国心称賛」説、(2)中国流の「作法」説、(3)日中関係説と略称しよう。

       それらの解釈は正鵠を射たものか。まず(1)田中の「愛国心称賛」説だが、『楚辞』は中国の戦国時代、楚国の政治家・詩人屈原(紀元前340年ごろ~278年ごろ)の作品とその後継者宋玉らが屈原にならって作った作品を集めた辞や賦からなる。漢代の劉向が編集したといわれる。『楚辞集註』は宋代の儒者朱子が注釈を加えたものだ。毛沢東が田中の愛国心を評価したのは事実であるとしても、それを評価するのになぜ『楚辞集註』でなければならないのか。その根拠が薄弱ではないか。

       (2)中国流「作法」説もおかしい。和歌を贈られた場合に「返歌」があるように、漢詩を贈られたならば、漢詩(あるいはそれに類するもの)をつくって返礼とするのが中国文人の作法であるはずだ。田中の漢詩に対して、古人の「辞賦」を贈るとは奇怪な返礼ではないか。

       もしお手本ならば『唐詩三百首』に如くはない。つまり、作法説も説得力を欠いている。
(3)日中関係と米中関係の「古さの比較」説も説明にならない。日中両国の文化交流が近代の移民国家米国との交流よりもはるかに古いことは、『楚辞集註』を引合いに出さずとも自明であろう。この変種はソ連「脅威」説である。たとえば『毎日』夕刊のコラム「近事片々」は言う。<楚辞集註六巻。田中首相への「屈原のような愛国者」という賛辞を意味するだけのものだろうか。屈原は、大国秦の脅威に楚と斉の合従を唱えた忠臣。毛主席は現代の秦を暗示したのかもしれぬ>(9月28日)。コラム氏によれば、「大国秦」とは「米国」ではなく、「ソ連」である。毛沢東、周恩来が「ソ連の脅威」を意識してニクソンや田中を招聘したことは、確かな事実である。しかしソ連を示唆するために『楚辞集註』とは、やはり迂遠ではないのか。

       要するに、これら三つの説は、いずれもただちに反証の挙げられそうな憶測にすぎない。にもかかわらず三〇年後の今日、いまなお広く行なわれているようだ。たとえばこれらの憶測を踏まえて、中国の元大阪総領事王泰平は『大河奔流』(奈良日日新聞社、2002年177頁)を書いて、前記の朝日と同じ三つの説を披瀝している。

       さらに田中訪中三〇年を期して、横堀克己(元朝日新聞論説委員)は、この会談に通訳あるいは書記として同席した王效賢、林麗?をインタビューして、こう書いた。

       <なぜ『楚辞集註』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよく分からない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王[效賢]さんはみている>(「毛・田中会談を再現する」『人民中国』二〇〇二年九月号、その後『岩波』所収)。

       毛沢東が『楚辞集註』を愛読していたのは事実だが、書物中毒を自称する毛沢東にとって愛読書は枚挙にいとまのないほど多いことは、田中・毛沢東会談を写した書斎風景から一目瞭然だ。これら汗牛充棟の「愛読書群」のなかから、『楚辞集註』が選ばれた理由の説明が必要ではないか。インタビューを終えて横堀はその理由は三〇年後の今日なお「真相はよく分からない」と記した。この説を仮に(4)毛沢東の愛読書説と名付けておこう。

安岡正篤の「角栄はなめられた」説
以上のほかに、(5)田中は「なめられた」説を的場順三著『座して待つのか、日本人』(ワック株式会社、2000年)が説いている。的場は、元大蔵省官僚、のち大和総研理事長である。この本に曰く<田中総理と同行した大平外務大臣が毛沢東に会ったとき、『楚辞 』という本をもらったものの、これは正義を主張したあまり、国を追われて汨羅の淵に身投げして死んだ楚の屈原をモデルにしたものだ><一国の首相にそんな本を渡すのはたいへん失礼な話で完全になめられていたのである>。
的場の本は誤りだらけだ。まず贈物は『楚辞』ではなく、朱子が編集した『楚辞集註』である。この贈物を受けたのは大平外相ではなく田中その人である。問題はその解釈だが、「一国の首相にそんな本を渡すのはたいへん失礼な話で完全になめられていたのである」と的場は憤るが、読者にはなぜこの贈物が「失礼な話」になるのか、まるで分からない。実は的場はもう一つの話と取り違えているのだ。

       四日間にわたる日中首脳会談の締めくくりになる第四回会談で周恩来が「言必信、行必果」の六文字を毛筆で書いて田中に手渡した。「言は必ず信じ、行は必ず果断」、すなわち言ったことは必ず信じて、果断に実行する、の意味だ。周恩来は田中に対して、中華民国との断交など一連の約束を誠実に実行されたいと念を押したわけだ。これに対して田中は「信は万事の元」と墨書して返礼した(『朝日』9月29日ほか各紙)。「なめられた説」は、この六文字の出典が『論語・子路』であり、この句に続く文字は「然小人哉」であることに由来する。後続の六文字について安岡の加えたコメントが政財界で広く流布された。すなわち周恩来が日本側に対してこの揮毫を示したのは、「石をカチンカチンたたくような、堅苦しくつまらない小人」と周恩来が田中、大平を見下したとする解釈だ。安岡は一八九八年大阪市生まれ。東京帝大法学部卒。東洋政治哲学・人間学の権威とされる。二〇代後半から陽明学者として政財界、陸海軍関係者に知られ、財団法人金鶏学院、日本農士学校を創立、東洋思想の研究と後進の教育に従事。戦後、師友会を設立。一九八三年一二月一三日逝去。平成の年号の考案者といわれた。台湾ロビーの理論的指導者安岡にとって日中国交正常化は間違った選択であり、揶揄の対象にすぎなかった。周恩来にとって日中国交正常化とは、日本が中華民国政府と断交し中華人民共和国との国交を樹立することであったから、この点を念を押したのは当然だ。まさにこれに反対する観点から安岡ら台湾ロビーの反対活動が行なわれた。その際の児戯にも似た揚げ足とりを元大蔵省高官が得々と説いているのは、一知半解の見本だ。

       その後、中国側はしばしば「言必信、行必果」を繰り返したが、そのたびに日本の台湾ロビーたちは、「日本が「小人」と見下された」と反発した。さすがの周恩来も日本の台湾ロビーが『論語』の片言隻語をもって周恩来外交に逆襲しようとは予想していなかったようだ。的場順三のしったかぶりは安岡説の亜流にすぎないが、この俗説を信ずる者が政財界で意外に多く、中国コンプレックスを裏書きしているように思われる。

       以上、五つの憶測を紹介したが、そのどれをみてもまるで説得力に欠けるというのが私の実感だ。私自身は過去四〇数年毛沢東の書いたもの、話したものを折に触れて読む研究生活を続け、今春勤務先を定年になった。私の毛沢東イメージからすると、この人物は由来、目的の曖昧な行動をとった試しがない。「有的放矢」(すなわち的を定めて矢を放つ)――これが毛沢東のやり方なのだ。田中に『楚辞集註』を贈るからには、もっと明確なメッセージが含まれているはずに違いない。これが私の直感であった。

       問題を整理しておきたい。一九七二年九月二五日、田中角栄は北京を訪れ、同日夜の歓迎宴において、日中戦争について「わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて,私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と述べた。これは「我国給中国国民添了很大的麻煩,我対此再次表示深切的反省之意」と訳され、謝罪の言葉としていかにも軽すぎると中国内外で大きな波紋を呼んだ。ここで田中は日中戦争について「多大なご迷惑をおかけした」と事実を確認し、この事実について「深い反省の念を表明」したのであるから、田中スピーチのキーワードは「迷惑、反省」の四文字である。

       この晩餐会が夜八時半に終わったあと、中国の関係者たちは緊急の会議を開いたといわれる。その会議で「迷惑」問題が議論になった。これは謝罪として認めがたいと声高に主張したのは、文化大革命から復活したばかりの中日友好協会名誉会長兼全人代副委員長郭沫若であったと聞いた記者がいる(当時『読売新聞』北京特派員だった釜井卓三の回想)。

       このとき、最も当惑したのは周恩来その人であった可能性が強い。なぜか。周恩来はこれまでの水面下のやりとりを通じて、田中のキーワード「迷惑」の真意を納得し、それで納めようともくろんでいたフシが見えるからだ。たとえば田中は訪中を前にして九月二一日午後首相官邸で内閣記者会と懇談したが、翌日の各紙はいずれも一面トップでこれを報じている。たとえば『朝日新聞』(9月22日付)一面トップの見出しは<互譲の精神で合意へ、過去の関係率直に「迷惑かけた」>である。『毎日』の見出しは<田中首相決意を語る、戦争終結政治的に、過去素直に「迷惑かけた」>である。『読売新聞』の一面トップは<日中復交、共同声明で発効、互譲で合意確信、過去、素直にわびる、首相表明>である。この記者会見は訪中四日前に、訪中に臨む気構えを語ったものであり、中国側も注視していたはずのものだ。

       ただし、さすがの周恩来もこの「迷惑」が「麻煩」と訳されて人民大会堂にひびきわたったときの反応までは予想できなかった。この意味では、誤解の原因は実に些細なところから起こったとも言える。田中スピーチの中国語訳文をあらかじめ周恩来に見せて、すり合わせをやれば済むことなのだ。現在の外交交渉ならば、日常茶飯事的に行なわれている意見交換が齟齬を来したのは、やはり初体験で不慣れのためであろう。

対日工作者が注目した田中通産省の発言
私が調べた限りでは、田中が最初に「迷惑」を用いて中国との国交正常化を語ったのは、実は半年前の三月二一日のことだ。九月訪中のおよそ半年前、すなわち一九七二年三月二一日衆議院商工委員会において、田中は通産大臣としてこう答弁している。

       <私も昭和十四年から十六年の末まで、満州に兵隊として勤務をいたしておりました。しかし、私は人を殺傷したりすることをしたようなことがなかったことは喜んでおります。しかし、私自身も第二次戦争で友人をたくさん失っておりますから、その実態を承知をいたしております。また報道せられたいろいろな事象に対しても、中国大陸にたいへんな御迷惑をかけたということはほんとうにすなおにそう感じております。日中の国交が復交せられるときの第一のことばは、やはり、たいへん御迷惑をかけましたと、心からこうべをたれることが必要だと思います。再びかかることを両国の間には永久に起こしてはならない。少なくとも、日本は過去のようなことは断じて行なわないという強い姿勢を明らかにすべきだと思います。それはもう憲法に定めるとおり、どんな紛争でも武力をもって解決をしないという明文がございますし、この明文どおりわれわれはそれを貫くという姿勢は明らかにすべきだと思います>(http://kokkai.ndl.go.jp/国会会議録検索システムによる検索)。

  翌々日の三月二三日、田中通産大臣は、今度は衆議院予算委員会第四分科会においてこう答弁した。第四分科会とは、通産省関係の議事を扱う分科会だ。

       答弁に曰く<私も昭和十四年から昭和十五年一ぱい[三月二一日答弁によれば一六年末とされているが、一年余ならば、一五年末であろう]、一年有半にわたって満ソ国境へ一兵隊として行って勤務したことがございます。しかしその中で、私は人を傷つけたり殺傷することがなかったことは、それなりに心の底でかすかに喜んでおるわけでございますが、しかし私は、中国大陸に対してはやはり大きな迷惑をかけたという表現を絶えずしております。これは公の席でも公の文章にもそう表現をしております。迷惑をかけたことは事実である、やはり日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびをしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならないという気持ちは、いまも将来も変わらないと思います。日中間二千年の歴史、もっともっと古いかもしれません。しかも日本文化は中国文化によって育ったということでありますし、同じ基盤に立つ東洋民族でもございますし、恩讐を越えて、新しい視野と立場と角度から日中間の国交の正常化というものをはかっていかなければならないのだ、そういううしろ向きなものに対してはやはり明確なピリオドを打って、そこで新しいスタートということを考えていかなければならないだろう、私はすなおにそう理解しておりますし、これが中国問題に対する一つの信念でもあります>(国会検索)。この田中発言は中国新華社通信の『参考資料』(1972年3月24日付)に翻訳された。これは普通の外電を翻訳して紹介する『参考消息』と区別して「大参考」と俗称される。1日2回、高級幹部だけに配布される情報資料だ。

  後継首相として有力視されていた田中通産相が三月二一日および二三日、相次いでこのように語った事実が『参考資料』に訳載されて以後、ポスト佐藤栄作内閣の政局がらみの動向が新華社通信東京特派員を通じてしばしば送られるようになる。

 中国側の対日工作者たちは、極度の関心をもってこれらのニュースをおいかけるようになる。たとえば日本陸軍士官学校卒の経歴をもち、新華社通信記者として東京特派員をつとめたことのある呉学文(一九二三年生まれ、その後中国現代国際関係研究所教授を経て、一九九三年退職)の回想録『風雨陰晴』(世界知識出版社、2002年)にはこう書かれている。

<[一九七二年]三月二三日、通産大臣田中角栄は衆議院予算委員会[実は第四分科会]で、初めて彼の対中政策を公開の場で述べた。私はいつも中国大陸にはたいへん迷惑をかけたと言っている。日中国交正常化を実現するには、まずたいへんご迷惑をかけたことを表明しなければならない。現在であれ将来であれ、国交正常化の前提が誠心誠意お詫びすることにあるという気持ちに変わりはない>(同書、79ページ)。呉学文の回想記は続けて、田中がその後、公明党副委員長二宮文造に周恩来への親書を託したこと、周恩来が五月一五日、二宮訪中団と会見し、日中関係などについて長時間語ったことを記している。

 二つの国会答弁および訪中直前の記者会見を改めて読み直してみると、田中が「迷惑」をもって詫びることは、七二年三月以来の一貫したスタンスであることが確認できよう。周恩来ら中国側の対日関係者は、田中がこのような考え方の持ち主であることを繰り返し、さまざまのチャネルを通じて確認したあとで、招請状を出したことになる。

周恩来が角栄を交渉相手に選んだわけ
迷惑」ということばでわびようとしていたのは、田中だけではなかった。実は田中のライバル福田赳夫もまたほとんど同じキーワード、すなわち「迷惑」でわびている。たとえば当時、福田赳夫外相は一九七二年六月二日衆議院外務委員会でこう答弁している。

<そこで日中間の問題もそういう種類の考慮をすることも必要であるということを考えております。わが国は、両国の戦争状態はこれが終結した、日華平和条約においてこれは解決済みである、こういう立場であります。しかしながら中国側において政府間折衝においてどういう立場をとってくるか、これは場合において妥当な結論を得たらいい問題だろう、こういうふうに考えております。ただそれとは別に、中国の国民に対しまして、日中戦争におきましてわが国が大陸をじゅうりんし、たいへん御迷惑をかけた、これにつきましては私は深甚な謝意を表さなければならない、陳謝の気持ちを持たなければならない。また、ざんげの気持ちで日中政府間接触というものは始めなければならぬ、こういうふうに考えているわけであります。私もごちごちの法律論、条約論ばかり言っているわけじゃない、そういう気持ちであるということをとくと御理解願います>(国会検索)

ポスト佐藤の後継レースを注視する中国側にとって日本側が田中も福田もいずれも「迷惑」でわびようとしていることは、あまりにも明らかな事実であり、ここに「迷惑」問題の処理方針を検討するカギがある。周恩来は「迷惑」ということばで詫びる田中を交渉相手として選ぶ決断を固めていったのだ。

 中国人関係者の間で「迷惑」の中国語訳としての「麻煩」の軽さが問題になっていたとき、その騒ぎを増幅したのは、英訳問題であったようだ。当時『ワシントンポスト』や『ニューヨークタイムス』は北京に特派員がおらず、カナダのジョン・バーンズ記者の北京電を掲載した。田中演説のテキストは英文では配布されず、このため外人記者団の間で混乱が生じた。中国外務省筋は「深い後悔deep repentance」の意味であるとの非公式見解を明らかにした。これに対し、日本外務省筋は「それほど強い意味をもっていない。深い反省deep reflection and self-examinationということである」と反論したという(『読売新聞』ワシントン湊特派員電、9月27日夕刊)。田中の迷惑とツイになっている「反省」を中国外務省がdeep repentanceと訳したにもかかわらず、日本外務省がdeep reflection and self-examinationと訳し直し、しかも「古典的な謝罪の表現方法である」と説明したのは、象徴的だ。AP通信のジョン・ロデリック記者は「田中首相は率直な謝罪をさけ、日本の過去の非行について、「遺憾である」と表現した」「田中首相がこのように警戒的な謝罪の表現をとったのは、中国との和解、台湾との断交に反対する自民党右翼勢力への配慮からと思われる」と報じた(『読売』同上)。
『毎日』はこう書いた。<北京の田中首相は歓迎夕食会のあいさつで、過去数十年間、中国国民に「多大なご迷惑をおかけした」ことについて深い反省の念を表明した。「迷惑をかけた」とは、過去をわびる言葉として「東洋的なもっとも素直な表現」と田中首相がみずから選び抜いたものだった(中略)それだけに、これを中国語にどう訳すか、外務省の専門家は練りに練ったにちがいない。そして「添了麻煩」(ティエンラマーファン)と通訳された。ところが、これだと中国語で「めんどうをかけた」の意味になり、首相の真意を十分に伝えない、まずい訳だったという批判もきく」「日本語は漢字をとり入れて発達したから、中国語の文字には親しみ深いものが多い。しかし同じ文字が全くちがう意味に使われる場合も少なくない。同文に甘えていると、とんでもない失敗をする>(九月二七日付「余録」)。

 日中首脳会談の結論として、最後の日中共同声明においては「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表現された。

この箇所の中国語は「日本方面痛感・・・重大損害的責任、表示深刻的反省」である。日本語の「」はそのまま中国語「」に、「」はそのまま中国語の「」と訳された。

この共同声明の正文は日本語と中国語のみだが、参考のために訳された英訳は、
The Japanese side is keenly conscious of the responsibility for the serious damage that Japan caused in the past to the Chinese people through war, and deeply reproaches itself.
である。反省はみずからを省みて行うものであるから、reproaches itselfと訳されている。日本語の「ハンセイ」は、regret (遺憾)か、それともapology(謝罪、おわび)か、と英語世界の記者が質問した由だが、そのいずれでもなく、 reproaches itselfと訳された。

 田中の歓迎宴スピーチの中国語訳には「遺憾」の二文字があるし、田中も福田も「おわび」や「謝罪」を国会で答弁していたのであるから、「迷惑」と「反省」の英訳として、regretやapologyを当てたとしても必ずしも不適当ではないと考えられるが、当時の外務省は、なぜか柔軟性を欠いていたように思われる。

この間の事情を考える識者のコメントを『毎日』九月二六日付から紹介しよう。
京大教授会田雄次は言う。<私はあの程度でよかったと思う。(中略)問題はどのように翻訳されたか、であろう>。日本語としては「迷惑」でよいが、それがどのように翻訳されたのかについては、問題として残るというものだ。実は、その訳語にこそ問題があるにもかかわらず、記者も会田も日本語の語彙しか論じていない。

 作家金達寿は言う。<(前略)私が朝鮮人として、この言葉を聞いたら腹を立てるだろう。庶民のことばでごまかした感じがするからだ。田中首相はご迷惑を東洋的にいったらしいが、東洋的どころか日本的でもない。むしろ独特の政治的ないいまわしといえるのではないか>。金は周恩来スピーチは「正確な表現」であるとし、これと対照的に田中の「あいまいな言い方」を批判している。金もまた在日朝鮮人として、日本語の「迷惑」を論じており、翻訳上の問題には触れていない。

 外交評論家加瀬俊一は<外交の原則からみた場合、いう必要がなかったと思う。外交というのはあくまで論理だ。(中略)悪いことをした、反省しているというのは「それなら具体的に責任をとれ」と相手に突っ込まれることになる>。被害者から責任を追及されないためには、反省していると言うな、という論理のようだが、どうやら論理が逆さまではないのか。加瀬は米国に対して広島や長崎の被爆者に謝罪するなとアドバイスするのであろうか。元国連大使であったこの外交官は、そもそも謝罪不要論であるから、訳語は問題にならない。

 『毎日』が識者のコメントを求めて検討したのは見識だが、三人とも日本語の「迷惑」しか論じていないのは特徴的だ。日中の対話あるいは交渉なのだから、中国側がどう受取るか、これがカギであるにもかかわらず、誰もが「迷惑」ばかり論じて「麻煩」を意識していない。事柄は中国でも同じなのだ。中国では「麻煩」については、大議論になったが、その原語が 日本語の「迷惑」であることは誰も論じなかったように見える。ただ一人の男を除いて。
弁明する角栄、納得する周恩来
さて私のナゾは、中国側記録を調べることによって解けるのではないかという思いが強くなった。そこで二〇〇一年秋、北京訪問の機会を利用して旧知の周恩来研究家の李海文女史に尋ねてみた。彼女は私が『周恩来十九歳の東京日記』(小学館文庫)の解説を書いた縁で知り合いになった。もともとは彼女と交流の深い村田忠禧教授(横浜国立大学、中共党史研究)の紹介による。われわれは周恩来の読みにくい毛筆日記のなかで中国語版の編集者たちが誤読して活字化した箇所をいくつか訂正した。この縁で、彼女たちはわれわれの仕事を高く評価してくれた。たとえば中国語版では、「大手町」が「大草町」に、「三越」百貨店が「玉越」百貨店に誤記されていた。東京に住む者にとってこれは容易に発見できるものだ。しかし青年周恩来が歩き回った大正時代の東京の地理に不案内な中国の党史研究者にとっては調べにくい。こうした縁で結ばれたルートに乗って、私の疑問を提起したわけだ。

まもなく李海文女史は『周恩来的決断』(NHK採訪組著、肖紅訳、中国青年出版社、1994年)に付された姫鵬飛回顧録「飲水不忘掘井人」のコピーを届けてくれた。そこにこう書かれているのを発見して、私は飛び上がるほど驚いた。

<周総理は率直にこう述べた。田中首相が過去の不幸な過程に遺憾を感じて、深い反省を表明されたことはわれわれとして受け入れることができる。しかし「迷惑をかけた」という一句は中国人民の強い反感を招いた。というのは普通の事柄に「麻煩」を使うからだ。これは日本語の含意と中国語の含意が異なるかもしれない。田中はこう弁明した。日本語で迷惑をかけたとは、誠心誠意謝罪する意味であり、今後は同じ過ちを繰り返さない、どうか許してほしいという意味なのだ。もしあなたがたにもっと適当な語彙があれば、あなたがたの習慣にしたがって改めてもよい。こうしておわびの問題は解決された>

 (周総理直率地説,田中首相表示対過去的不幸過程感到遺憾,併表示要深深的反省,這是我們能接受的。但是, "添了很大的麻煩”這一句話引起了中国人民強烈的反感。因為普通的事情也可以説“添了麻煩”。這可能是日文和中文的含意不一様。田中解釈説:従日文来説“添了麻煩”是誠心誠意地表示謝罪之意,而且包含着保証以後不重犯,請求原諒的意思。如果?們有更適当的詞匯,可以按?們習慣改。道歉的問題解決了。167頁)。

これは田中が「誠心誠意の謝罪」を意図して「メイワク」という日本語でわびて反省を表明した、と田中の真意を周恩来が正確に受け止めていた事実を姫鵬飛が確認したことを示す文書である。ここで念のために記しておくが、オリジナルの日本語版『周恩来の決断』(NHK取材班著、日本放送出版協会、1993年)には「姫鵬飛回顧録」は付されていない。この部分は中国語版にのみ付されたものだ。

この回想録には「姫鵬飛談、李海文整理」と注記されている。率然と読むと、「姫鵬飛外相が語った談話を研究者李海文が単に整理したもの」と受け取られかねないが、実はそうではない。李海文女史は周恩来研究で著名な党史研究者である。彼女は中共中央党史研究室の雑誌『中共党史研究』副主編を務めたあと定年退職し、現在は中共党史研究会の雑誌『百年潮』副編集長である。同女史は外交部档案室の関係文書をすべて閲覧し、記録を整理したうえで、姫鵬飛外相の確認を求めて執筆したのがこの文章なのだ。この文章の実質は、「姫鵬飛回想録の形をとった李海文論文」といってよいほどものだ。典拠資料の信憑性において折り紙つきである。

この事実を確認できたのは、コピーを受取ってから二年後のことであった。二〇〇三年九月一九日午後、私は村田忠禧教授とともに北京を訪問する機会があり、中共中央文献研究室を訪ねたときのことだ。このとき、念のために第二回会談の正式記録および田中毛沢東会談の記録の有無を尋ねた。彼女はすでに退職しており、未公開の資料を閲覧できる立場にはない。そこで現役の陳晋研究員を紹介してくれたので、この資料を調べてほしいと依頼した。翌週月曜に早速連絡があり、「矢吹教授の予想されたことが書いてありますよ」と伝えられた。私は期待に胸を躍らせながら、村田さんに同行してもらい二四日に再度中共中央文献研究室の陳晋研究員を訪ねた。その結果、第二回会談における田中と周恩来の応酬は、中国側記録には次のように書かれていることが確認された。

<田中: 可能是日文和中文的表達不一様。
周恩来: 可能是訳文不好、這句話訳成英文就是 make trouble。
田中: 「添麻煩」是誠心誠意表示謝罪了------這様表達、従漢語来看是否合適、我没有把握、語言起源於中国>

この部分を仮に訳してみよう。
<田中: 日本語と中国語と言い方が違うのかもしれない。
周恩来: 訳文が好くないかもしれない。この箇所の英訳は「make trouble」です。
田中: メイワクとは、誠心誠意の謝罪*を表します。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない。メイワクということばの起源**は中国だが>[*「誠心誠意謝罪」と中訳された部分の田中の原語は、次のようなものであったと推定される。すなわち自民党での報告によれば≒東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない、と語ったはずである。あるいは二階堂長官のブリーフィングから推測すれば≒万感の思いをこめておわびするときにも使うのです、と説明したはずである]。 [**自民党での報告で田中はこう表現している。「中国は文字の国で本家だが、日本にはそう伝わっていない」]

田中が周恩来の前で釈明したという私の予想は、確かに証明されたわけだ。これは研究者冥利に尽きる発見ではないか。私は小躍りした。こうして周恩来の迷惑批判に対して、田中が弁明し、これを周恩来が納得した経緯が確認された。

 翌二七日夜に毛沢東が田中、大平、二階堂の三人を書斎に招いたことは、日中交渉が事実上すべてを終えたことを内外に示すものであった。その会見はどのようなものあったか。日本側は通訳も書記も招かれていない。それゆえ日本側の記録として出ているのは、二階堂記者会見と田中帰国報告だけである。それだけでも迷惑問題についての核心は理解できるのだが、やはり中国側の記録による裏付けがほしい。

 大著『毛沢東伝1893~1949』(編者中共中央文献研究室、?先知、金冲及主編、中央文献出版社、1996年)の執筆者の一人である陳晋研究員は即座にこの要望にも解答を用意してくれた。

角栄釈明を了解した毛沢東
陳晋研究員が外交部档案を調べたところ、中国側記録は次のように書かれていた。
<毛沢東:?們那個「添麻煩」的問題怎麼解決了?
田中: 我們準備按中国的習慣来改。
毛沢東:一些女同志就不満意?、特別是這個「美国人(指唐聞生)」、?是代表尼克松説話的>
仮に訳してみると、こうなる。
<毛沢東:あなたがたは、あの「添麻煩」問題は、どのように解決しましたか。
田中: われわれは中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています[いうまでもなく共同声明に盛り込む文言を指している]。
 毛沢東「一部の女性の同志が不満なのですよ。とわりけ、あの「アメリカ人(英語通訳唐聞生を指して)は、ニクソンを代表してモノを言うのです>
最後の発言は毛沢東一流のジョークであろう。毛沢東の見るところ、「添麻煩」に文句をつけるのは、ニクソンの通訳としてその声を伝えたアメリカかぶれの女性同志なのであった。ここには毛沢東自身はすでに田中のメイワク釈明を了解しているニュアンスが読み取れる。すなわち「怎麼解決了?」と過去形で聞いている。毛沢東にとって問題はすでに解決済みであり、彼が問うたのは、解決に至った経緯なのだ。

これに対して、田中は「中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています」と、「準備」ということばで答えている。すなわち田中にとっては、問題はまだ決着していない。そこで田中は中国の習慣のしたがって共同声明を起草する意向だと「解決の方針」を述べたわけだ。しかし、この田中釈明を毛沢東が了解した時点、いいかえればこの田中発言が終わった時点で日中国交正常化の根本問題、すなわち日中戦争の終結問題が決着したのであった。実は毛沢東が田中一行を書斎に招いたという事実そのものが会談妥結へ向けての儀式にほかならないものであった。そしてその儀式の核心がこの田中発言であったと理解してよいのである。

 田中帰国報告を『読売』は一面トップで「日中会談エピソード」のなかの「迷惑論争」としてこう紹介している。「第二回会談では、私が夕食会で「ご迷惑をかけ深く反省している」といったことが問題になった。中国では「迷惑」ということは、スカートに水をかけられた、といった程度のことだという。そこで、私は「日本では悪かったとあやまる場合はこういういい方をするんだ」と説明した。(中略)毛主席は周首相ら中国側の「ここにいる人たちは、あれでは不十分だといってきかないんです。しかし迷惑をかけたという言葉の使い方は、日本の首相の方がうまいようですね」ということで毛主席がケリをつけた。これでも分かるように、最終的には毛主席の判断で決まっているようだ」 (10月1日)。

 『毎日』は田中報告をこう報じた。「交渉では、二日目の会談で、問題が起こった。招宴で、戦前はご迷惑をかけ、深く反省していると話したが、これが「ご迷惑をかけたとは何だ」と問題になった。迷惑をかけたとは、婦人のスカートに水をかけた時に使う言葉というわけだ。日本では「迷惑をかけた、以後やらない」というように使っている。それをスカートに水では交渉はまとまらない---と強い態度をとった。毛主席は「迷惑をかけたという言葉は日本の方がうまい、うまい言葉だ」といっていた。共同声明で中国側の最終判断は毛沢東主席がした。最後は復交を行なうかどうかで判断しようということで合意ができた」(10月1日)。『毎日』と『読売』が書いたように、田中は毛沢東によって最終的決裁が行なわれたことを見届けている。形式からいえば、九月二八日午後五時過ぎに政治局会議が開かれ、そこで共同声明などを承認した形だが、これは手続きにすぎず、毛沢東が最終判断を決断した時点で実質的には日中関係が正常化したわけだ。

この和解を裏付ける証拠として毛沢東が選んだ書物が『楚辞集註』なのだ。毛沢東は次のように説明しながら、土産を手渡した。中国側の未公開文献を陳晋研究員が手書きでメモし、さらにワープロ化してくれたものには、こう書かれていた。

<毛沢東: 我是中了書毒了、離不了書、?看(指周囲書架及?上的書)這是『稼軒』、那是『楚辞』。(田中、大平、二階堂都站起来、看毛的各種書)、没有什麼礼物、把這個(『楚辞集註』六冊)送給?。(出来後、二階堂問周恩来、是否可以対記者説送「楚辞」事、周答可以、并告訴他標題是近代書法家沈尹黙写的字)>

仮に訳してみよう。
<毛沢東: 私は書物の中毒になり、書物を手放せない。ほら(周囲の書架とテーブルの本を指して) これは『稼軒(辛棄疾)』、あれが『楚辞』です。(田中、大平、二階堂が立ち上がって毛の各種書物を見る)、なにも贈り物がないので、これ(『楚辞集註』六冊を指す)を差し上げましょう。(書斎を出た後、二階堂が周恩来に「楚辞のことは記者に話してもよいか」と尋ねたところ、周は「よろしいと答え、本のタイトルは近代の書法家沈尹黙が書いたものです」と告げた)>

ここで挙げられたのはどんな人々か。
「稼軒」は辛棄疾(1140~1207)の号だ。南宋の大詞人。山東の人、二一歳の時、金に抵抗する義勇軍に参加。一生を金との戦いに献身した官僚である。武人にして詞人とは、いかにも毛沢東好みだ。

 『楚辞集註の標題を書いた沈尹默(1883~1971)は、著名な書法家、詩人だ。浙江省呉興の人。青年時代に日本に留学し、帰国後北京大学文学系教授となり、さらに学長を務めた。?迅、胡適らと『新青年』につどい、新文化運動の戦士となった。解放後、上海市人民委員会委員、全国人民代表などを務めた。沈尹默は陳毅が上海市長として赴任した時、最初に訪問した民主人士でもある。周恩来は総理として、この先達を中央文史館副館長に任命した。新中国初めての書法組織・上海市中国書法篆刻研究会を創立し、中国書法芸術理論に卓越した貢献を行い、毛沢東はその芸術を高く評価した。『中南海収蔵書画集』の扉は沈尹默が毛沢東のために書いたもの。周恩来の自宅と事務室には沈尹默の書が掲げてあったと伝えられる。

楚辞集註』に込められたメッセージ
こうして田中毛沢東会談の終わりに、毛沢東が田中からの土産・東山魁夷の日本画を忘れず、贈物に対する返礼として取り出したのが、この『楚辞集註』にほかならない。では、この全六冊の線装本に込められたメッセージとは何か。

この本のなかに「迷惑」の二文字が書かれているからではないのか。毛沢東は、田中の用いた「迷惑」を中国語の文脈ではこのように使う。その証拠を示すために『楚辞集註』を差し出したのではないか。

 『楚辞集註』をめくってみよう。手元に『毛沢東蔵書』全二四巻(張玉鳳主編、1998年刊行、山西人民出版社)がある。第九巻「楚辞・九辯」6282ページを開くと、左段下から三行目に次の二句が見える。

慷慨絶兮不得
中?乱兮迷惑

この部分は宋玉のものだ。宋玉は戦国時代、楚国の辞賦家。屈原の子孫とも弟子ともいう。「九辯」には政治上志をえられなかった悲傷と不満の情緒があらわれている。「登徒子好色賦」は宋玉の作ではないとする説もある。読みくだしてみよう。
慷慨、絶ゆる(あるいは「絶つ」)を得ず、
心中?乱して迷惑す。
この二句を星川清孝『楚辞』(新釈漢文大系、明治書院)は「慷慨して絶たんとして得ず、中?乱して迷惑す」と読み、「いきどおり慨して君(主)と絶とうかと思ってもできず、心の中は暗み乱れて迷い惑うのである」と解している。また花房英樹『文選(詩騒編)四』(全釈漢文大系、集英社)は、「慷慨して絶えんとして得ず、はく乱れて迷ひ惑ふ」と読み、「憤ふしく嘆かれて、胸もつぶされる思いで、落ち着くすべもない。心の中は暗くかき乱されて、あれこれと惑い惑う」と訳す。中国語では、自動詞なら迷惑とは自ら迷い、惑うこと、他動詞なら他人を迷わせ、惑わせること、双方を指す。自動詞と他動詞いずれにも使う。ちなみに『魏志倭人伝』に卑弥呼が「鬼道にえ、衆を惑わす」と評されていることを想起したい。中国語の「迷惑mihuo」は、『楚辞』や『魏志倭人伝』の時代から意味が変化していない。現代中国語においても、『楚辞』と同じ意味で用いられている。これが田中のいう「メイワク」とどれだけかけ離れたものであるかは容易に理解できよう。毛沢東は、田中の用いた「迷惑」を中国語の文脈ではこのように使う、その証拠を示すために『楚辞集註』を差し出したのではないか。


ちなみに現代中国語の文脈で「迷惑」がどう使われているかを考えるために、ある友人が『人民日報』のDVD(1946~49年)を調べたところ、「迷惑敵人」(敵を惑わす)、「迷惑群衆」(大衆を惑わす)といった使い方が散見された。ゲリラ戦争において、敵を惑わして成功した話や敵側が味方の大衆を惑わした、といった使い方がこの時期には目立った。

 田中毛沢東会談の雰囲気を物語る資料として、訪中直後に二階堂官房長官が語った記者会見の「補足発言」を念のためここに引いておきたい。
<毛: ところで、田中総理が、中国国民に「迷惑」をかけましたといったので、迷惑ということばがいろいろ問題になっているようですね。彼女はじめ若いものがうるさいんですよ(前に坐っていた毛主席の通訳でニューヨーク生まれの女性をさして)。周総理: 彼女は英語が分かるから、二階堂さんがお得意の英語で説明なさったら・・・・。田中: 日本では迷惑をかけたということは、二度とふたたびやりませんということです。心から詫びていることなんです。毛: 私はわかりましたから、あとは外務大臣同士で、いいものをつくってください。(私はまた迷惑論議がはじまるのかと思っていたら、それだけでした。ここでは田中総理も毛主席にていねいに説明していました)>(「毛沢東主席とわが総理の会話全録音」『週刊現代』1972年10月19日号)。

ここで二つの注釈が必要であろう。二階堂長官が紹介した会談における廖承志についての言及である。

<毛沢東: もうケンカは済みましたか。ケンカをしないとダメですよ。
田中: 周首相と円満に話し合いました。
毛沢東: ケンカをしてこそ、初めて仲良くなれます。(廖承志氏を指しながら)かれは日本で生まれたので、こんど帰るとき、ぜひ連れてかえってください。
田中: 廖承志先生は日本でも有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬すれば、必ず当選されるでしょう>(『ドキュメント日中復交』)

ここでいきなり廖承志(中日友好協会会長)が話題になるのはなぜか。毛沢東の指摘のように、廖承志は日本生まれであり、当時の中国で最高の日本通であった。「江戸っ子」を誇る中国人であり、そのベランメエ調はかなり有名であった。

 日本語「メイワク」の含意の鑑定役をつとめたのが廖承志ではないかというのが私の推測である。第二回会談の冒頭で周恩来が「メイワクは軽すぎる」という中国側関係者の不満を体して問題を提起したのに対して、田中は「万感の思いを込めておわびする」ときにも迷惑を使うと反論した。田中のこの反論をどのように理解するのか。生半可な日本語通訳には荷が重すぎる課題であったはずだ。いわんや日本通の大学者郭沫若が「迷惑」に疑問を呈している。

しかしこの問題は、日本で生まれ、日本の風俗習慣を深く理解する廖承志にとっては、難しい問題ではなかった。周恩来から迷惑をめぐるトラブルの経緯を知らされた毛沢東はさっそく廖承志を呼び寄せて、廖承志の判断を求めたのではないか。廖承志がどのような判断を示したかを直接的に知る資料はないが、田中がメイワクを用いたのは、「誠心誠意的謝罪」の意味だと毛沢東に説明したはずである。「廖承志は日本生まれだから、日本に連れ帰ってほしい」という発言はいかにも唐突だ。しかし、日本通をもってなる「大学者」郭沫若流の権威を否定できるほとんど唯一の証人が廖承志なのだ。

 大胆な推測と非難されかねないが、もし廖承志が毛沢東と田中の間の「真の通訳」を果たしたことに対する毛沢東の評価を意味するものと解すれば、ケンカの話がいきなり廖承志を日本に連れ帰る話につながるのは、きわめて自然だ。つまり毛沢東は、日本人と同じように深く日本文化を理解する廖承志という男が「私とあなたの間の心の通訳を果たしたのですよ」と示唆したのではないか。
もうひとつの課題は、「『楚辞集註』のタイトルは近代の書法家沈尹黙が書いたもの」と説明したことの意味である。名書家沈尹黙の書は著名であり、周恩来も自宅と事務室の双方にその書を掲げていたほどであるから、その場で『楚辞集註』の文字を見ただけでも、沈尹黙の書であることを識別できたはずだ。しかし、二階堂の問い合わせに対して、周恩来が即座に「この贈物の件を記者に話してよい」と答えていることは何を物語るのか。毛沢東が田中への贈物をこの書物に決めていたことを周恩来はあらかじめ知らされていたことを示すものと解してよいであろう。

 重ねて大胆に推測するが、廖承志から「メイワク」と「迷惑mihuo」の差を聞いて『楚辞集註』を贈物とすることを思いついた毛沢東が、その意向をあらかじめ周恩来に伝えておいたとみるのが自然であろう。周恩来がさりげなく沈尹黙の名に言及していることも意味深長である。沈尹黙は青少年時代に二度も日本に遊学しており、さらに抗日戦争期における行動も含めて、この人物もまた中日文化交流の深さを体現する人物の一人であるからだ。こうして『楚辞集註』という贈物は、日中両国文化の交流と摩擦を象徴するものとして選ばれたのではないかというのが筆者の新解釈である。

それだけの深い意味を込めた贈物の意味をなにも説明せずに手渡すとは不可解だ、筆者の新解釈への不満の声が聞こえてきそうだ。だが、これこそが「文明の作法」なのだ。あえて説明を加えるのは野暮というもの、日中双方がいずれは気づくことを期して黙って手渡したものと解してよい。まことに「東洋的」な優雅な作風ではないか。これは田中が「東洋的に」を強調したことに対するお返しなのだ。

歴史の闇に消えた田中角栄の肉声
田中・毛沢東会談を頂点とする一連の日中会談において、日中戦争に対する日本側の謝罪の意図は田中によって明瞭に述べられ、中国側は田中の真意を正確に理解した。こうして「メイワク」「迷惑mihuo」問題および日本の謝罪の問題について日中双方は共通認識に到達したのであった。すなわち「メイワク」と「反省」から出発した田中の謝罪が、「メイワク」は「添麻煩」と訳されるべきものではなく、「誠心誠意的謝罪」と翻訳し直されたことが一つである。その趣旨を体して日中共同声明においては、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのであった。

 田中周恩来会談と田中毛沢東会談の核心をこのように読み直す私の読み方からすると、当時の時点でこの流れを最も正確に理解しつつ、適切なコメントを発表したのは、歴史家萩原延寿の解釈であった。
<二五日の人民大会堂での招宴のさい、田中首相が述べた「御迷惑をおかけした」という表現は、おそらく日本のある種の国内事情を考慮、ないし反映しての作文なのであろうし、その上に「多大の」という形容詞が附せられていることもたしかだが、やはりあいまいという印象はいなめず(中国語になおすとあいまいさは増加するらしい)、むしろあそこで率直かつ簡潔に、ひとこと「謝罪する」とはっきり述べたほうがよかったように思う」。ここまでは普通の論者と異なるところがない。萩原の洞察力が冴えるのは、次のコメントである。「「謝罪する」ということは、公表されない交渉の過程で日本側の口からから出たことなのかもしれない。いや、おそらく出たものと考えたい>(『中央公論』1972年11月号)。
萩原が願望を込めて、このように記したことを田中は実行していたわけだ。それを田中は帰国後報告している。この声が台湾派の野次と怒号に消されたにすぎない。

こうして国交正常化以後三〇年の歴史のなかで、田中の真意、すなわち「万感の思いを込めておわびをするときにも使うのです」(中国語訳「在百感交集道歉時也可以使用」)と強調した事実が顧みられることはなかった。田中の肉声は歴史の闇に消えた。

 田中がその後ロッキードスキャンダルによって失脚したことが一つの要素である。さらに大平正芳の急逝も生き証人を失うことを意味した。もう一つの要素は外交当局の作為であろう。この側面は第二回会談記録が中国側記録と異なる事実に典型的に現れているが、これにとどまらない。玉虫色の決着部分について積極的な説明を加えることを外務省が一貫して怠ってきたことの責任はきわめて重いのではないか。

 実は外務省の担当者には、そのような認識がまるでなかったように見える。国交正常化20年を記念して、NHKがインタビューしたとき、訪中当時中国課長として同行した橋本恕(のち中国大使)はこう証言している(1992年9月27日放映、のち『周恩来の決断』所収)。

迷惑」を「麻煩」と訳したのは、誤訳ではなかったかという記者の問いかけに対して、橋本はこう答えている。「決して翻訳上の問題ではなく、当時の日本国内世論に配慮したギリギリの文章であったと述べている。<私は何日も何日も考え、何回も何回も推敲しました。大げさに言えば、精魂を傾けて書いた文章でした。もちろん大平外務大臣にも田中総理にも事前に何度も見せて、「これでいこう」ということになったんです>(152ページ)。

 日本語の「迷惑」を用いることについて橋本が精魂を傾けた事情は理解できることだ。だがここで問われているのは、日本語の原文そのものではなく、それをどのように訳したかなのだ。にもかかわらず、橋本の回想は田中のゴーストライターとして歓迎宴スピーチの原稿を書いた原文の言い回しにむかってしまう。橋本がもし原文の推敲に費やしたエネルギーの一割でも、中国語訳文の推敲に費やしていたならば、歴史的誤解は避け得たのだ。この意味では中国語を解しない中国課長の限界というほかない。

 問題は橋本が自信をもって「決して誤訳ではない」と保証したことの悪影響であろう。誤訳のゆえに「麻煩」と訳したのならば、酌量の余地はある。しかし確信をもって「麻煩」と訳したのならば許せない。おそらくこれが大方の中国人の気持ちではないか。
こうしてさらなる誤解がもたらされることになるのは火を見るよりも明らかだ。この橋本証言のようなすれ違いは、日中交流における誤解の氷山の一角にすぎない。

謝罪」をむしかえす江沢民
他方、中国側にもそれなりの事情が生まれた。ポスト毛沢東・周恩来時代になると、毛沢東や周恩来が日本に対して譲歩しすぎたのではないかとする見方が台頭した。特に八〇年代を通じて鄧小平の改革開放路線が定着する過程で、日本の経済力が過大に中国の経済力が過少に評価される潮流のなかで、賠償放棄について毛沢東や周恩来の考え方とは異なる見方が生まれた。ここで教科書問題や歴史認識問題が新たに登場し、中国側の不満を助長した。彼らの不満は、日中交渉の過程で乗り越えられたはずの「添麻煩」に回帰し、恰好の口実を発見した。そこで「添麻煩」という謝罪にならぬ謝罪こそ国交正常化の原点であるかのごとき虚像をつくり出し、これをひたすら非難し、狭隘な民族主義の感情に溺れた。毛沢東や周恩来の戦略的対日政策の精神は忘れられた。

 中国側の誤解・曲解に対して日本の外交当局がどのように誤解を解く努力を行ったのか疑わしいところがある。和解の精神を以心伝心で伝える『楚辞集註』の意味が一顧だにされなかったことはその一例である。こうして国交正常化以後の歴史過程で消されたのは田中の謝罪だけではない。田中の熱意に応えた毛沢東、周恩来の思惑も闇に消えたわけだ。『楚辞集註』の意味は、中国側でも忘れられた。狭い愛国主義、民族主義感情に身をゆだねて日本批判の口実とするには、「麻煩」のほうが都合がよかったわけだ。

 日本側は謝罪を行なった事実をあいまいに扱った。他方中国側は、日本は謝罪していない、あるいは口頭による謝罪しかしていないとする日本非難がひときわ高くなったのは、九〇年代後半であり、特に一九九八年の江沢民訪日以後である。
一一月二六日、日中首脳会談でこう述べた。<率直に言って、列強の中で日本は中国に対して最も重大な被害を与えた国だった」、「日本ではしばしば歴史の事実を否定、わい曲するような動きがあり、中日関係の発展を阻害してきた。軍国主義は両国人民の共通の敵だ>(『読売』1998年11月28日)。
一一月二七日、首相主催の晩餐会ではこう述べた。<前世紀末から日本軍国主義がい く度も中国を侵略する戦争を起こし中国人民に巨大な損害をもたらした。歴史を教訓とし悲劇の再発を防止してこそ、友好を発展させることができる>(『読売』11月28日)。
一一月二八日、早稲田大学での講演で江沢民は戦争を体験した生き証人と自らを位置づけたうえで、<日本軍国主義は対中侵略戦争を起こし、中国の軍民三千五百万人が死傷し、六千億ドル以上の経済的損失を受けた」と日本の「侵略の歴史」を指摘した>(『産経』11月28日)。
「うんざりだ」「これだけ言われては、未来志向という気もなくなる」(『産経』12月4日)という政府や自民党議員の感想も、多くの国民の共有する所であろう。
江沢民が日本訪問に際してこのような態度に終始したのは、日本の対中政策への不満を示すものだが、ここでは紙幅の都合で立ち入らないことにする。こうした反日的スタンスはその後、日本の対中世論を劇的に悪化させることに貢献した。

 小泉首相の靖国参拝には、この対日政策に対する反発の要素もあろう。こうした相互不信の末、ついに二〇〇二年には国交正常化三〇周年の記念行事が行われたにもかかわらず、両国首脳の相互訪問が実現しない事態さえ生まれた。
とはいえ、「メイワク」に始まる誤解がここまで深まったのではない。江沢民が三つの公式文書において、日本は謝罪していないとして、七二年の共同声明、七八年の平和友好条約、そしてみずからが関わる九八年の日中共同宣言に、謝罪がないというとき、それは九八年の共同宣言が希望通りには書かれなかったと不満を述べているにすぎないのだ。
ところで、田中が「迷惑」を選んだのは、橋本恕証言のように青嵐会に象徴される台湾派の反発を考慮してという理由からなのか。必ずしもそうではあるまい。
一つの例を挙げよう。財界人良識派として知られたアジア留学生協力会会長小山五郎(元三井銀行取締役・相談役)が、こう発言している。<経済大国としてのわが国は何をしたかというと、『大東亜戦争で大変なご迷惑をかけてしまい、申しわけなかった。一億総懺悔という形で皆さんにお詫びするとともに、いかなる経済協力もいたしましょう』という誓いを立てて、できるだけのことをやってきたわけです>(『経団連月報』1986年5月号座談会「アジアとの関係を考える」)。小山は財界人である。「台湾派の反発」を顧慮して迷惑を用いたのではあるまい。

昭和天皇の一言に感動した鄧小平
実はここにもっと重要な「迷惑」の例がある。一九七八年に鄧小平を迎えた天皇のことばも「メイワク」であった。話が少し入り組んでいるので、丁寧に説明したい。

 一九七八年一〇月二三日、日中平和友好条約の批准書交換式のために来日した鄧小平は皇居を訪問して昭和天皇・皇后と会見し、天皇主催の午餐会に臨んだ。天皇が鄧小平を接見した経緯を『人民日報』はこう報じた。
<会見中に天皇陛下は、つぎのようにいった。「日中両国には長い友好的な歴史があり、一時は不幸なできごとがありましたが、すでに過ぎ去りました」(中略)鄧小平副総理は、以下のように述べた。「われわれもこの条約は深遠な意義をもっていると考えております。過去のできごとは、すでに過ぎ去りました。今後、われわれは前向きの態度で両国の平和な関係を樹立しなければならなりません>(1978年10月24日)。

 『人民日報』の報道では、天皇の「不幸なできごとが過ぎ去りました」という発言を受けて、鄧小平が「過去のできごとは、すでに過ぎ去りました」と応じた、と伝えている。
ところが日本の報道はこの先後関係が入れ代わっている。たとえば『朝日』はこう解説した。<天皇陛下が「一時、不幸な出来事」と短い言葉ながら、日中関係の過去について中国の指導者に語られたのは初めてのことである。(中略)天皇陛下のこの発言は、鄧副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの・・・」と述べたことに対しなされた>。そのうえ、「宮内庁の見解」をこう伝えている。<会見に同席した湯川宮内庁式部官長は次のように語っている。陛下が会見で述べられたことは、「これからは長く両国の親善が進むのを期待します」ということが主眼で、「不幸な出来事」という過去を強調されていたものではない。鄧副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの」と述べられたのに答えたもので、きわめて自然な雰囲気だった>(10月24日)。

 『人民日報』と『朝日』など邦字紙の報道を比較すると、明らかに発言の順序が入れ代わっている。事実はどうであったのか。
会見の十三年後、すなわち一九九一年に出版された『入江日記』にはこう書かれている。まず一九七八年一〇月二三日、会見当日の日記である。<鄧小平来日をめぐって昨日から今日にかけて右翼のデモ盛ん。馬鹿なことである。[湯川]官長、鄧氏につき申上げる。零時一〇分より半まで竹の間。(中略)あと午餐。二時過ぎ終る。竹の間で「不幸な時代もありましたが」と御発言。鄧氏は「今のお言葉には感動しました」と。これは一種のハプニング>(『入江相政日記』1984年223~24ページ)。

この記述から会見の時間が約二〇分であること、天皇の「御発言」が先であり、鄧小平はこれに感動したという因果関係が分かる。しかも入江は「ハプニングが起こった」とコメントしている。六年後、すなわち一九八四年の「年末所感」にはハプニングの内容が次のように記されている。

<鄧小平氏の時に、陛下が全く不意に「長い間ご迷惑をかけました」と仰有り、それをうかがった鄧氏が非常に衝撃を受けたことを忘れることはできない>(『入江』241ページ)。天皇は外務省と宮内庁が打ち合わせたシナリオを無視して「全く不意に」、「迷惑」でわびたのである。天皇の突然の「御発言」に鄧小平が驚いたであろうことは容易に推測できよう。このエピソードは入江にとっても驚きであった。

 入江は六年後に「年末所感」として「ご迷惑」を記す前に、一~二年のうちに田中清玄に漏らしている。それを耳にした田中は八〇年の訪中時に鄧小平と会見した際に、鄧小平の印象を尋ねている。田中の回想録からその箇所を引用しておこう。

<あれは聞いていてこっちも体が震えたよ。私はその前に、当時の入江侍従長から、鄧小平さんのご会見のとき、真っ先に天皇陛下の方から、「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をおかけし、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう」と言われたと聞いていたので、そのことを尋ねたんです。答えは「その通りだ」ということだった。鄧小平さんは陛下のこのご発言を聞いて「電気にかけられたようだった」と表現していました。ややあって鄧小平さんは「お言葉の通り中日の親交に尽くしていきたいと思います」と答えられたそうです>(『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、288~289ページ)。

 『毎日新聞』記者大須賀瑞夫が田中への聞き取りを行なったのは、一九九一年春のことだ。この取材記録をもとに同紙編集委員岩見隆夫が「新編戦後政治10」で<昭和天皇は・・・突然の謝罪に言葉失う>を書いて、田中が入江から話を聞き、その真偽を鄧小平自身に直接確かめたエピソードを記事にした(『毎日』1991年6月9日)。その後に『田中清玄自伝』が出版されたわけだ。

こうした曲折を経て、明らかになったのは、やはり「長い間ご迷惑をかけました」であった。
もし、天皇の「迷惑」が田中訪中の晩餐会と同じように「添麻煩」と訳されたのならば、ゲリラ戦争を生き抜いてきた百戦錬磨の鄧小平を呆然とさせることはありえなかったのではないか。当時の通訳は各紙の写真で見ると外務省田島高志中国課長である。田島課長がこの「迷惑」をどのように中国語訳したのか、関係者の証言を待ちたい。

 実は、種明かしのような話になるが、中国の辞典は「迷惑」が古語であるとともに現代語であるから、以下のような説明が行なわれている。たとえば、『辞海』は「迷惑」の説明として、『荘子・盗拓』から「矯言偽行,以迷惑天下之主」および『楚辞・九辯』から「中?乱兮迷」を引用している(上海辞書出版社、1979年版、中巻2406ページ)。

 『辞海』はまた「?乱」の説明として、『楚辞・九辯』から同じ箇所「中?乱兮迷惑」を引用している(上海辞書出版社、1979年版、下巻3820ページ)。要するに、『辞海』をひもどけば、「迷惑」と「?乱」、どちらを引いても『楚辞・九辯』にたどり着く。

 他の辞書はどうか。『漢語詞典』(商務印書館、1947年重版)で「?乱」を引くと、「中?乱兮迷惑」のごとし、『楚辞』を見よ、とある。この場合は、「迷惑」ではなく「?乱」からのみ、『楚辞』にたどりつける。『現代漢語詞典』(商務印書館、修訂本)には「迷惑」と「?乱」の意味は説明されているが、語例は掲げられていない。

では、日本の漢和辞典にはどう書かれているだろうか。諸橋轍次『大漢和辞典』で「迷惑」を引くと、『楚辞』の語例は見当たらない。しかし、「?乱」を引くと、『楚辞・九辯』から「中?乱兮迷惑」が引用される。日本の漢和辞典はほとんどがこの諸橋流を継承する。それゆえ、漢和辞典をひいて、そこから「迷惑」の典拠を得ることはできない。日本の学者たちが『楚辞』から「迷惑」の二文字を連想しなかったのは、このためではないか。実は諸橋も中国の辞書に習って、『楚辞・九辯』を引用しているのだが、それは「?乱」の説明としての引用したものだ。こうして「迷惑」の意味を探るために、「?乱」を想起する日本人はほとんどなかったようだ(白川静のように『楚辞』をそらんじているほどの研究者は別であろうが)。
私はいま一つのタネ明しをやり、『辞海』から「迷惑」の典拠を探せることを示唆した。では私は『辞海』からたどりついたのか。否だ。『辞海』の説明を私は、『楚辞集註』のなかに「迷惑」を確認したあとで開いて、ナーンダと苦笑したのである。

宋玉と毛沢東----イケメン、好色、口達者
話は一九七五年に遡る。私は『毛沢東思想万歳』なる紅衛兵文書に熱中して、その一部を『毛沢東、政治経済学を語る』『毛沢東、社会主義を語る』(ともに現代評論社)に訳した。後者に毛沢東が一九五九年七月二三日に行なった「廬山会議講話」を訳出して収めた。

 毛沢東は当時、人民公社の食堂が失敗した問題で窮地に陥っていた。毛沢東はこう反撃した。
<(科学院昌黎調査組報告は)人民公社の食堂にはメリットがない、という。その一点を攻め、その余に及ばず、の書き方だ。『登徒子好色賦』をまねたものだ。登徒子は、宋玉のことを<イケメンで好色で口達者だから危険であり、後宮へ入れてはならない>、と攻撃した。宋玉はこう反論した。<イケメンは両親のせい、口達者は教師のせいだが、好色とはデタラメだ。天下の佳人は楚国にしかず、楚国の佳人はわが村にしかず。わが村の美人は東隣の娘にしかず。背は高からず低からず・・・>。登徒子は大夫だった。大夫というのは、いまの部長(閣僚、大臣)だ。冶金工業部長、石炭工業部長、あるいは農業部長といったところか。科学院調査組(報告)は、その一点を攻め、その余に及ばず、だ。その一点を攻めるやり方だと、豚肉がない。ヘアピンがない、といった話になる。誰にも欠点はある。孔子にも過ちがあった。レーニンの手稿を読んだが、わけがわからないほど直してあった>(拙訳129ページ。ただし一部を改訳。原文は『毛沢東思想万歳』301-302ページ)。
人民公社の食堂作りは、毛沢東の掛け声「人民公社はすばらしい」によって全国に広まったが、廬山会議の開かれた一九五九年夏には、各地で人民公社食堂の是非は大問題になっていた。河北省昌黎県を現地調査した科学院チームの報告は人民公社食堂に否定的な評価を下した。毛沢東はこの報告が宋玉(=毛沢東)を攻撃する『登徒子好色賦』の亜流だという。報告書によって痛いところを突かれた毛沢東は、宋玉を攻撃した登徒子に仮託して必死に反撃した。毛沢東が直接的に反論した対象は、科学院昌黎調査組報告だが、ここで毛沢東の声高な弁明を聞いている中央工作会議の出席者にとって、毛沢東の反撃の対象が彭徳懐国防部長が十日前の七月十四日に提出した「意見書」であることは明らかであった。彭徳懐が毛沢東個人に宛てた意見書を秘書を通じて届けたのに対して、これを「直ちに印刷し、出席者全員に配布せよ」と指示したのは、ほかならぬ毛沢東その人であった。毛沢東はこうして彭徳懐意見書を全員に読ませたうえで、大反撃に転じた。政治的文脈をこのように見てくると、毛沢東がみずからを宋玉に、彭徳懐ら人民公社批判派を登徒子になぞらえていたことは明らかだ。
登徒子は架空の人物であり、『登徒子好色賦』は宋玉の作と伝えられる。私は毛沢東の廬山会議講話の翻訳を通じて、宋玉の「好色賦」を毛沢東がそらんじており、みずからを宋玉に、彭徳懐を登徒子に仮託していることを知ったのである。毛沢東の人生は波瀾万丈だが、なかでも廬山会議前後の攻防は最も劇的なシーンの一齣だ。のちの文化大革命はここに源流がある。
三〇年前に読んだものが突然脳裏にひらめいたのは、偶然にすぎない。『楚辞集註』という贈物の意味を解説する識者の説明がすべて説得力を欠いたこじつけではないかと感じたとき、ほとんど同時に毛沢東がそらんじていた宋玉の「好色賦」を想起し、そこから「九辯」にたどりついたわけだ。
とはいえ、そこからの過程もジグザグであった。私は現代中国語には慣れているが、古典は読んだことがない。学生時代に『魯迅選集』で『彷徨』冒頭の屈原「離騒」を訳文で読み、シンガポール遊学時代に南洋大学中文系の授業をひまつぶしに傍聴した程度だから、たかがしれている。『楚辞』がくさいぞ、と見当はつけたものの、それを開いても読めるはずはないから、めくることはしなかった。やはり試験が迫らないと勉強しない学生と同じく、北京での初めての講義に迫られてようやく『楚辞集註』を開くことになった。

 狭い書斎の書棚の一角を陣取る『毛沢東蔵書』(全24巻、山西人民出版社、1998年、セット定価5000元)の第9巻を開く。まず「離騒」になし。ついで「九歌」になし。「天問」になし。「九章」になし。「遠游」になし。「卜居」になし。「漁父」になし。「九辯」---ありましたね。「迷惑」が二回出てきた。次の「招魂」になし。「大招」になし。

 中国の古典もいまではデジタル化されたものが多く、語彙の検索はこの分野のプロにとっては朝飯前だ。だからこの分野に詳しい知人に問い合わせれば、容易に答えが返ってくにことは分かっていた。ただ当時としては、単なる思いつきであるから、素人の思いつきにすぎぬ、とからかわれ恥をかくのもいまいましい。というわけで私は意味の分からない本を開いて、ただ二つの文字を探す作業を始めたわけだ。なかなか出てこないので、くたびれてやめようかと思ったころ、疲れた老眼に飛び込んできたのが「迷惑」の文字であった。

 余談だが、毛沢東の廬山会議講話はまだ公表されていない。李鋭『廬山会議実録』には、この講話の「全文」が収められているが、私がいま引いた部分は欠如している。
中国において「迷惑」の意味が『楚辞』の時代から現代に至るまで変化していないことはすでに繰り返し指摘した。日本では、たとえば『平家物語』(鎌倉前期)あたりまでは、中国から輸入した意味で用いていた。『岩波古語辞典』(1262ページ)には、「迷うこと、とまどうこと」の意味で用いた例として、『平家物語巻5咸陽宮』から「皇居に馴れざるが故に心迷惑す」を引いている。『他阿上人法語2』には、「生死迷惑の種子は、淫貪の一念なれば」が見える。なお、後者は院政期(1086~1185)の『色葉字類抄』にも見える。
しかし『御伽草子・富士の人穴の草子』(鎌倉末期)には「何と迷惑なりとも、子を売り、捨つる事なかれ」とあり、「困ること、困惑すること」という現代語の源流も見える。また『虎明本狂言・武悪』には「肴がなうて、何とも迷惑なさるる」とある。
田中角栄が必死に弁明したのは日中の意味の違いであった。以上の例文調べから「迷惑」は日本でも『平家物語・巻5』の例文が示すように、鎌倉前期あたりまでは中国と同じ意味で用いていたこと、しかし鎌倉末期にはすでに含意が現代日本語のそれと似たものに転化していたことが知られる。むろんこれは「日本語のなかの漢語」としての意味の変化である。日本文化に特有ないわゆる漢文訓読、すなわち中国語の古典を「部分的にひっくり返してあたかも日本語であるかのように読む」世界では、中国語「迷惑mihuo」と同じ意味で読み続けたことはいうまでもない。

万感の思い」を込められた「迷惑」はすでに死んだ
鎌倉時代あたりを転機として生じた「迷惑」の語義の転化の理由を私は次のように考えたい。武士の社会が成立する以前、すなわち平安期の貴族社会においては、「迷い、惑わす」行為は、広く行なわれていた(たとえば陰陽道はその一例)。しかし、鎌倉時代になり、「いざ鎌倉へ」、常時馳せ参じて一命を主君のために捧げることを最高の美徳と観念する武士道の時代になると、「迷い、惑わす」行為は、むしろ忌むべき行為とみなされるようになったのではないか。「迷い、惑わす」のではなく、「決断」こそが美徳になった。この決断を支える哲学として新興仏教・禅宗が大きな役割を果たしたことは、朝河貫一「武士道とはなにか」(拙訳『横浜市立大学論叢』人文系列、第54巻合併号、2003年)の教える通りであろう。「迷い、惑わす」感情から訣別して、生死を賭けた決断へと意志決定を迫られた武士にとって、「迷い、惑わす」ものは、「迷惑」のタネに転じたのではないか。そのとき武士は心の迷いを「迷惑千万」「迷惑至極」とばかりに切り捨てた。こうして中国から導入された日本漢語が意味を変えた。すなわち日本漢語としての「迷惑」の意味を変えたのは、武士道ではないか、と思われる。

ただし、ここで急いで付け加える必要があるが、ちかごろ流行している武士道解釈の軽薄さとご都合主義によっては、日本文化はますます誤解されるばかりであろう。朝河貫一は「もののあわれを知る」(物事のパトスを敏感に感じ取る)ことは、京都の宮廷で発展し、封建時代を通じて育成されてきたものだが、これは「心の陶冶」を意味するものであり、人間的共感への素早く快活な反応への能力であり、ここには打倒された敵の武勇を称賛し同情することをも含むと説いた。「迷惑」の意味が外来中国語の原意から離れて、やまとことばに転化したとき、同時に「もののあわれを知る」感性も陶冶される道が開け、日本人の心の自省心を深め洗練する道につながったはずなのだ。

ここで「迷惑」の両義性あるいは多義性に触れておきたい。武士社会、農民社会の形成期にあって、共同体の美徳は「世間に迷惑をかけない」ことであった。この場合、迷惑とは、隣家の猫を紙袋に押し込んで蹴飛ばす小坊主のいたずらから、放火あるいは失火して村中を焼き尽くす大犯罪までを含む。これらは「世間に迷惑をかける」という点ですべて同質であり、そこでは被害の程度ではなく、「迷惑をかけること」自体について責任が問われた。日本では「立派な大人になって社会に貢献せよ」という倫理で教育された時代よりも、「世間に迷惑をかけてはならない」という共同体の内向きの倫理で教育された時代が長かった。この文脈で「迷惑」の内容は、必ずしも軽い失敗とは限らないのだ。重大な失敗をもまた迷惑として謝罪したのであり、この文脈では被害の大小にかかわらない。

しかしながら、田中「迷惑」騒動を契機として、過去三〇年間にその意味は、決定的に軽くなり、「迷惑< おわび<謝罪」という「わび言葉の序列」が固まってきたように思われる。田中が一九七二年三月二一日に国会で初めて、<たいへん御迷惑をかけましたと、心からこうべをたれることが必要だと思います。再びかかることを両国の間には永久に起こしてはならない。少なくとも、日本は過去のようなことは断じて行なわないという強い姿勢を明らかにすべきだと思います>と述べた時、謝罪を曖昧にしようとしたものでないことは明らかだ。ここで田中の「迷惑」とは、「心からこうべをたれる」ものであった。

ところがこの「迷惑」は、ひとたび政治の場にもちこまれた途端にもみくちゃにされた。挙句の果ては、田中が中国との信義を守るために必死に弁明し、外交を担当すべき外務当局が「国内」の政治バランスを口実として、「法匪」もどきの論理を展開するという逆転現象さえ生れた。

 顧みると、田中角栄が自民党幹事長から通産大臣に就任したのは、一九七一年七月五日に発足した第三次佐藤内閣においてであり、その一〇日後にニクソン訪中が発表された。機を見るに敏な田中通産相は中国問題に取り組む意向を固めた。そのような田中にひそかに接触してリポートを届けたのが橋本中国課長であり、七一年の晩秋あるいは初冬のことだ。田中が商工委員会、そして予算委員会で中国問題に取り組む意欲を示した背後には、この橋本リポートがあった(『周恩来の決断』67ページ)。

 七二年七月五日自民党の総裁選挙で田中が福田を破り、七日に田中内閣が成立した。外相には盟友大平正芳が指名された。田中は初閣議後の記者会見で「中華人民共和国との国交正常化を急ぐ」方針を語った。あとは九月訪中まで一瀉千里だ。

 田中角栄、福田赳夫にはじまり、小山五郎から昭和天皇にいたるまで、すべて「迷惑をかけた」という表現で、日中戦争の被害者にわびていることの意味を日本文化の問題として改めて再考すべきではないか、という思いから私の探求が始まった。しかしたどりついた地点は「迷惑」ということばがもはや修復できないほどに致命傷を受けた姿である。いまや私の学生でさえ、「迷惑」をうさん臭い眼で見ている。「万感の思い」を込められた「迷惑」はすでに死んだ。これが国交正常化以後三〇年の現実だ。「迷惑」ということばにとっては、まことに「迷惑千万」な成行きである。
(本稿は今年1月26日に行なわれた横浜市立大学最終講義「日中誤解はメイワクに始まる」に大幅加筆したものである。なお最終講義草稿の中国語訳は「田中角栄与毛沢東談判的真相」のタイトルで『百年潮』2004年2月号に発表された)
Yabuki Susumu 26

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E6%89%BF%E5%BF%97

廖承志

廖 承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、1908年9月25日 - 1983年6月10日)は中華人民共和国政治家

人物
1949年の中華人民共和国の建国以降中国共産党の対外活動の責任者を務め、日本との関係では特に1962年高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づくLT貿易を開始した人物として知られる。中日友好協会では1963年の設立時から死去まで会長の任にあった。
日本生まれの日本育ちで、廖の話す日本語は「江戸っ子」なみのベランメエ調も話すことができるほどであり、1972年日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活動[1][2]、中国共産党史上最高の知日家として中国外交陣における対日専門家育成の基礎を作った。

経歴
1908年中国国民党の幹部であり孫文の盟友であった父の廖仲愷[3]と、同じく中国国民党の幹部であり後に中国国民党革命委員会中央執行委常務委員となった母の何香凝[4]の間に東京で生まれる。別名に母方の姓を用いた何柳華。

1919年に帰国し嶺南大学に入学。1925年の父の暗殺後、再来日し早稲田大学に入学。1928年済南事件をきっかけに帰国、中国共産党に入党。1928年から1932年の間に渡欧してヨーロッパの中国人船員のオルグ工作を担当した。1930年には、モスクワ中山大学に学ぶ。そこでのちに台湾総統になる蒋経国と机をならべた。
1932年に帰国し中華全国総工会宣伝部部長に就任。一時逮捕されたり反革命の嫌疑で党籍を剥奪される時期もあったが、党の宣伝関係などの要職を歴任。1937年より香港において抗日戦争を戦う華僑の組織化の責任者となる。
1942年国民党政府に逮捕され1946年まで入獄。1946年に米国の仲介で成立した国共両党間の捕虜交換により出獄し、1949年の中華人民共和国建国まで、新華社社長、党南方局委員、党宣伝部副部長などを歴任。建国後は政府の華僑事務委員会副主任、党中央統一戦線工作部主任など対外工作の要職に就いた。
建国後日本との国交のなかった1950年代に訪日し、対日関係の窓口として活動を行った。
1962年11月9日、責任者の名前のイニシャル、廖(LIAO)の「L」と高碕(TAKASAKI)の「T」をとってLT貿易協定と言われる「中日長期総合貿易覚書」に調印し、友好商社による細々とした民間友好貿易から半官半民のLT貿易へと拡大、1964年4月20日には「中日両国の貿易事務所の設置と常駐記者の交換に関する覚書」(詳しくは日中記者交換協定を参照。)に調印し、後の国交正常化に至るまでの日中交流の道を開いた。
1963年には中日友好協会が設立されて会長に就任、その後一貫して対日交渉の最高責任者の地位にあった。文化大革命中に先頭にたって文革推進の立場から日本共産党攻撃を行い、北京駐在日本共産党員を「足蹴にしてしまえ」と叫んだという記録が残っている。しかし結局本人も「親日派」であると批判され一時失脚し、後に復活。1972年の日中国交正常化に際しては毛沢東周恩来の通訳を務める[1]などして尽力した。通訳にあたっては同席する他の中国人通訳のちょっとした訳の間違いなどが、日中間の漢字表現の違いから誤解を招かぬよう、そばでやさしく訂正したりもして進行を円滑にしていた[2]
1979年中米国交回復後、1982年には台湾の当時の総統であった蒋経国に対し祖国統一を呼びかけた。党中央委員・第5期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた。
なお、息子の廖暉(りょう き)も父の後を継いで1984年から1997年の間は華僑事務委員会主任、その後は香港・マカオ事務委員会主任を務めている。現在、第17期中国共産党中央委員(第12期以降、連続当選)も務める。

最終更新 2013年3月21日 (木)

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2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信

http://youtu.be/XOgDdBrw8yM



公開日: 2013/06/08
2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信 2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信 2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信 2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信
 
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http://ctext.org/chu-ci/jiu-bian/zh?searchu=%E6%85%B7%E6%85%A8%E7%B5%95%E5%85%AE%E4%B8%8D%E5%BE%97%EF%BC%8C%E4%B8%AD%E7%9E%80%E4%BA%82%E5%85%AE%E8%BF%B7%E6%83%91%E3%80%82

楚辭
九辯:
悲憂窮戚兮獨處廓,有美一人兮心不繹;
去鄉離家兮徠遠客,超逍遙兮今焉薄!
專思君兮不可化,君不知兮可柰何!
蓄怨兮積思,心煩憺兮忘食事。
願一見兮道余意,君之心兮與余異。
車既駕兮朅而歸,不得見兮心傷悲。
倚結軨兮長太息,涕潺湲兮下霑軾。
慷慨絕兮不得,中瞀亂兮迷惑
私自憐兮何極?心怦怦兮諒直。
皇天平分四時兮,竊獨悲此廩秋。
白露既下百草兮,奄離披此梧楸。
去白日之昭昭兮,襲長夜之悠悠。
離芳藹之方壯兮,余萎約而悲愁。
秋既先戒以白露兮,冬又申之以嚴霜。
收恢台之孟夏兮,然欿傺而沈藏。
葉菸邑而無色兮,枝煩挐而交橫。
顏淫溢而將罷兮,柯彷彿而萎黃。
萷櫹槮之可哀兮,形銷鑠而瘀傷。
惟其紛糅而將落兮,恨其失時而無當。
攬騑轡而下節兮,聊逍遙以相佯。
歲忽忽而遒盡兮,恐余壽之弗將。
悼余生之不時兮,逢此世之俇攘。
澹容與而獨倚兮,蟋蟀鳴此西堂。
心怵惕而震盪兮,何所憂之多方。
卬明月而太息兮,步列星而極明。
 

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http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6395871.html

『九辯』第二段 現代語訳と訳註
(本文)
#2
願一見兮道余意,君之心兮與余異。
車既駕兮朅而歸,不得見兮心傷悲。
倚結軨兮長太息,涕潺湲兮下霑軾。
慷慨絕兮不得,中瞀亂兮迷惑。
私自憐兮何極?心怦怦兮諒直。

(下し文)
願一見して 余が意を道はんと,君の心は余と異なり。
車 既にし、朅【さ】りて歸らんと,見ゆるを得ずして心 傷悲【しょうひ】す。
結軨【けつれいに倚りて 長く太息し,涕 潺湲として下り軾を霑す。
慷慨【こうがい】絕たんとして得ず,中瞀亂【ぼうさん】して迷惑す。
私【ひそ】かに自ら憐れみて何ぞ極まらん?心 怦怦【ひょうひょう】として諒直【りょうちょく】なり。

(現代語訳)
一たび君王にあうことができれば自分の心に思うことを言いたいと願うけれど、君王の心は私とちがっているのである。
その車には既に馬がつけられて、去って帰えるように用意されていた、これでは君王に会えないので、心は傷み悲しむのだった。
車の前の横木によりかかり、長く溜息をつく。涙がはらはらと車台の横木などをぬらすほどに落ちてきた。
たかぶる胸の思いで君王と断絶しょうかと思ってもできない、心の中はしずみ、暗み、乱れて迷い惑うのである。
私は心中自ら憐れに思うのだが、いつはてることがあろう。心は忠謹にまじめであり、正直であるのだ。

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章百家

http://baike.baidu.com/view/621460.htm

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http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_69.html

礼賓司外交官の礼儀作法

今年は田中訪中40周年である。私は国交正常化以後40年の日中関係を回顧して、小著『チャイメリカ』(花伝社、2012年5月)第3部に「日中相互不信の原点を探る」と題した文章を二つ書いた。一つは、大佛次郎賞・服部龍二著『日中国交正常化』の読み方であり、もう一つは外務省高官は、いかなる国益を守ったのか、である。
その過程で、改めて田中角栄首相や大平正

芳外相の政治家としての見識、決断力をレビューして、彼らの勇気と努力に敬意を感じると共に、和解の精神を踏みにじってきた外務省高官たちへの憤りを感じて批判を書き留めた。これが私なりに40年を記念する作業であったが、5月のあるとき、毛沢東がなぜ田中に『楚辞集注』を贈呈したか、その理由を書いた記事が『人民日報』(海外版、2011年07月19日)に出ていたよ、と教えてくれる人があった。さっそくネットで探して見ると、その趣旨は以下のごとくである。



毛沢東が田中に『楚辞集注』を贈呈したのは、田中が用いた「迷惑」という語彙と関係があるように思われる。日本語の「めいわく」は、中国語の「添了麻烦」の意味だ。これに対して毛沢東は、中国語の「迷惑mihuo」は、『楚辞•九辩』の「慷慨绝兮不得,中瞀乱兮迷惑」に見られるような使い方をするから、日本語とは異なると指摘し、正式文件では「重大な損害をもたらした責任を痛感し、深刻な反省を表明する」と書いて、国交正常化が実現した---これがこの一文の趣旨である。この文の筆者は、馬保奉氏であり、中国外交部礼賓司の外交官で、2005年以来、外交学院の兼職教授でもあるという(下記の資料参照) 。



私は2003~04年に「戦争を謝罪しない日本」という、中国側のいわゆる愛国主義教育、すなわち「反日キャンペーン」に接して、田中は「誠心誠意的謝罪」を表明したことを、①田中の帰国直後のスピーチと、②中国側記録を併せ読み解くことによって論証したつもりである。この趣旨を記した一文は、この問題を研究していた李海文さん(元中共中央党史研究室)の紹介で『百年潮』(2004年2月号)に掲載され、さらに『新華文摘』(半月刊、2004年10期)にも転載された。『新華文摘』は、重要な文章の「摘要」を紹介する雑誌であり、ここで紹介されたことは、書かれた内容について、中国当局によって肯定的評価が行なわれたことを意味すると教えてくれたのは、むろん中国の友人たちである。
7年後の今日、この毛沢東と田中角栄のエピソードを紹介する人が現れ、改めて「迷惑」という一語の日中異同に関心が向けられることは意味があるとは思うが、最初にこのテーマに対して一つの答を提示した拙文を無視することは、礼儀にかなったことといえるであろうか。



資料1 矢吹晋「田中角栄与毛沢東的談判真相」『新華文摘』2004年10期。



資料2 馬保奉「毛泽东为啥送田中角荣《楚辞集注》」
『人民日報』海外版2011年07月19日


資料3 馬保奉氏の経歴



毛泽东为啥送田中角荣《楚辞集注》来源: 人民日报海外版2011年07月19日
田中访华 毛主席则向田中首相赠送《楚辞集注》,似与田中在中方欢迎宴会上就日侵华战争谢罪使用“迷惑”一词有关。中文、日文都有“迷惑”一词,可意思不一样。日文中“迷惑”めいわく,(汉语拼音读meiwaku),汉语意思是“添了麻烦”。田中说:“遗憾的是,过去几十年间,日中关系经历了不幸的过程。其间,我国给中国国民添了很大的麻烦,我对此再次表示深切的反省之意。”其中“添麻烦”就是用的日语“迷惑”一词。毛泽东指出:“年轻人坚持说‘添了麻烦’这样的话不够分量。因为在中国,只有像出现不留意把水溅到妇女的裙子上,表示道歉时才用这个词。”在《楚辞•九辩》中有“慷慨绝兮不得,中瞀乱兮迷惑”,那是“迷惑”一词的源头。日方接受了中方意见,在双方发表的正式文件中改为:“日本方面痛感日本过去由于战争给中国人民造成的重大损害的责任,表示深刻的反省。”田中来访不久,实现了中日邦交正常化。
马保奉,山东冠县人。1965年北京外国语学院毕业入外交部礼宾司。长期参与驻华使馆管理、国宾接待、我国家领导人出国访问礼宾工作。其间,还曾在驻捷克斯洛伐克使馆、驻列宁格勒总领事馆、驻塔吉克斯坦使馆供职。历任秘书、副处长、领事、政务参赞。2005年被聘为外交学院兼职教授。 近年来主要从事外交礼宾教材编写和培训工作。著有《外交礼仪漫谈》及相关丛书数种,此外发表有关外交礼宾、礼仪等数篇文章:在中央各部委及各省市外事部门、大学、企业讲座多场。
以上 

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http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_71.html

第71号 2012.10.02発行by 矢吹 晋

尖閣騒動――頂門の一針

 あるジャーナリストの話である――今の日本のメディア特に民放は、桜井よしことか中西輝政とか渡辺利夫のようなシロウトに中国を語らせますが、無節操もはなはだしい。今回の尖閣国有化をめぐっては、7月の段階ですでにCCTV4の「中国新聞」で、 「非法」(不法)、「購島」(島の政府買い上げ)、「閙劇」(茶番劇)」をキーワードに連日日本批判を繰り返していました。
9月13日の昼ニュースは、最初から30分間、尖閣問題のオンパレード。小生はこのままでは済まないと思っていたのですが、同日夜NHKの「ニュース9」と、翌14日の「おはよう日本」7時~7時45分のニュースには「尖閣なし」。あまりにも大きなギャップに絶句――
このジャーナリストの絶句に近い体験を私はこの半年、数回味わった。
3月16日、国際善隣協会で講演した際には、2月16日夜、北京での日本友好7団体の胡錦涛会見拒否に触れつつ、「40周年記念イベントの幕開け」がこの体たらくでは「本番の秋は更に凄まじいことになりそうだ」と警告した(『善隣』4月号  http://www25.big.jp/~yabuki/2012/mitsugetsu.pdf)。
私の予想というか、危惧は、遺憾ながら的中した。
問題は、このような形で日中の矛盾が爆発したにもかかわらず、依然として何事が起こったのかを大方の日本人が自覚できていないことだ。
尖閣は日本固有の領土だ、と金切り声をあげる政治家を英雄扱いし、「中国は事実上、尖閣諸島の領有権を放棄した」と明々白々の事実誤認を書いた御用学者(服部龍二『日中国交正常化』)を繰り返しマスコミに登用させている(毎日、朝日、NHKなど)。私はこの本が史実を隠蔽し、改竄する本であり、田中角栄・周恩来会談の真相をゆがめるものだと批判してきたが、私の批判は無視されている。
http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_65.html この本は、外務省高官の自画自賛にすぎず、「鳥なき里の蝙蝠の饒舌」ではないかと批判してきた。田中角栄、大平正芳、園田直ら、国交正常化を真に担った人々の没後に、その精神をゆがめる解釈ではないかと批判してきた。http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_66.html
40年来の史実をこのようにゆがめることがいかなる自体を招くかを、深く憂慮してきた。というのは、これらはすべて中国から見ると、「日本右翼の挑戦」、尖閣についての「黙契と共識」(暗黙の了解と共通認識)の無視と受け止められることを危惧したからだ。果たして、誠に遺憾ながら、そのような結果になった。 しかしながら、事ここに及んでも、まるで事の成り行きに無頓着というか、事態がどのように進展しつつあるかを認知できていない。日本社会の「尖閣カルト」はもはや、カルトと呼ぶほかないような錯乱ぶりではないか。


実は、「領土問題は存在しない」という民主党政権=外務省の強弁は、すでに破産したのだ。この問題が登場して以来識者たちが指摘してきた、周知の事柄ではあるが、中国の『尖閣白書』(9月25日)がついに、この論点を明確に据えて、日本の「無主地先占」論の弱点を鋭く衝いてきた。日本側が「固有の領土とする原点」が大きく揺らいでいる。


 1885年9月22日、沖縄県令が釣魚島を秘密調査した後、山県有朋内務卿に提出した秘密報告では、これらの無人島は「『中山伝信録』に記載された釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼などと同一の島嶼であり」、すでに清朝の冊封使船によってよく知られ、かつ琉球に向かう航海の目印として、それぞれ名称が付けられている。したがって、国の標杭を立てるべきかどうか懸念があり、それについて上の指示を仰ぐ、としている。 同85年10月9日、山県有朋内務卿井上馨外務卿に書簡を送り、意見を求めた。10月21日、井上馨から山県有朋宛ての回答書簡では、「この時機に公然と国の標杭を立てれば、必ずや清国の猜疑心を招くゆえに当面は実地調査およびその港湾の形状、後日開発が期待できるような土地や物産などを詳細に報告するにとどめるべきである。国の標識設置や開発着手などは、後ほど機会を見て行えばよい」としている。井上馨はまた、「今回の調査の件は、おそらくいずれも官報や新聞に掲載しないほうがいい」ことをとくに強調した。そのため、日本政府は沖縄県が国の標杭を立てる要求に同意しなかった。1890年1月13日、沖縄県知事はまた内務大臣に、釣魚島などの島嶼は「無人島であり、今までその所轄がまだ定められていない」、「それを本県管轄下の八重山役所の所轄にしてほしい」との伺いを出した。1893年11月2日、沖縄県知事は国の標杭を立て、版図に組み入れることをふたたび上申したが、日本政府はやはり回答を示さなかった。
以上で指摘された諸事実は、『日本外交文書』に基づくものであり、中国が偽造したものではない(ただし、念のために書くが、これらの史料を私自身は、確認していない。信頼できる内外の歴史家の分析に依拠している)。
以上の事実は、すべて日本政府が「無主地先占」を主張して以後の事柄だ。もし尖閣がほんとうに「無主地」ならば、なぜ山県有朋や井上馨がこのような態度をとったのか、それを説明しなければならないのだ。この「史実」をどこまで無視できるか。それが問われているのだ。
なお、「棚上げの黙契」の有無を疑う人々は、以下の史料を読んだ上で発言してほしい。



尖閣問題の交渉経緯の真相
以下の資料1.から分かるように、第三回首脳会談で田中が尖閣を提起し、周恩来が「今、これを話すのはよくない」と棚上げ案を返答しています。外務省会談記録は、その趣旨を次のように記録しています。

資料1. 外務省が公表した「田中角栄首相、周恩来総理会談」記録によれば、第三回首脳会談1972年9月27日午後4時10分から、国際問題を語り、そのなかで尖閣を話した。
田中総理 「尖閣諸島についてどう思うか?  私のところに、いろいろ言ってくる人がいる」。
周総理 「尖閣諸島問題については、今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」。
――『記録と考証、日中国交正常化』岩波書店、2003年、68ページ。
もう少し詳細な記録が欲しいところですが、この簡潔な要旨記録から明らかなように、田中は第三回首脳会談で尖閣を提起して、周恩来は、以上のように答えています。


その後、橋本恕中国課長は、次のような証言を行いました。
資料2.橋本恕の第4回[実は第3回]首脳会談1972年9月28日[実は27日]の回想。
「台湾問題が結着したあと」、周首相が「いよいよこれですべて終わりましたね」と言った。ところが「イヤ、まだ残っている」と田中首相が持ち出したのが尖閣列島問題だった。周首相「これを言い出したら、双方とも言うことがいっぱいあって、首脳会談はとてもじゃないが終わりませんよ。だから今回はこれは触れないでおきましょう」と言ったので、田中首相の方も「それはそうだ、じゃ、これは別の機会に」、ということで交渉はすべて終わったのです。
――橋本恕の2000年4月4日清水幹夫への証言、大平正芳記念財団編『去華就実 聞き書き大平正芳』2000年。『記録と考証、日中国交正常化』岩波書店、2003年、223-4ページに再録。

ここで橋本が、外務省記録にある27日の尖閣発言の翌日、再度問題を提起したと証言しているのは、記憶違いのように思われる。周恩来が「双方とも言うことがいっぱいあって、首脳会談はとてもじゃないが終わらない」という理由で、棚上げを提案し、田中が同意したのは、話の内容が27日の対話と同じだ。27日の田中・周恩来会談のやりとりを最も詳しく証言しているのは、中国外交部顧問張香山の回想記である。

資料3. 中国外交部顧問として、日中会談に同席した張香山の回想記はもっとも詳しくやりとりを記録している。これは中国側会談記録に基づくものと矢吹は推測する。
張香山曰く、この問題に関しては、第3回首脳会談[9月27日]がまもなく終わろうという時に話が始まったが、双方は態度を表明しただけで議論はしなかった――
田中首相1――「私はやはり一言言いたい。私はあなたの側の寛大な態度に感謝しつつ、この場を借りて、中国側の尖閣列島(=釣魚島)に対する態度如何を伺いたい」。
周総理1――「この問題について私は今回は話したくない。今話しても利益がない」。
田中首相2――「私が北京に来た以上、提起もしないで帰ると困難に遭遇する。いま私がちょっと提起しておけば、彼らに申し開きできる」[申し開きの中国語=交待]。
周総理2――「もっともだ! そこは海底に石油が発見されたから、台湾はそれを取り上げて問題にする。現在アメリカもこれをあげつらおうとし、この問題を大きくしている。
田中3――「よし!これ以上話す必要はなくなった。またにしよう」。
総理3――「またにしよう。今回我々は解決できる基本問題、たとえば両国関係の正常化問題を先に解決する。これは最も差し迫った問題だ。いくつかの問題は時の推移を待ってから話そう」。
田中4――「一旦国交が正常化すれば、私はその他の問題は解決できると信じる」。
出所:《日本学刊》1998年第1期

以上から分かるように、「田中が4回、周恩来が3回」発言した。ちなみに日本外務省の会談記録では、「田中1回、周恩来1回」だけの応答であったように記録されている。
在第三次首脑会谈快要结束的时候谈起的,双方只是表个态就不谈了。当时
a田中首相说:我还想说一句话,我对贵方的宽大态度很感谢,借这个机会我想问一下贵方对“尖阁列岛”(即我钓鱼岛)的态度如何?
b周总理说:这个问题我这次不想谈,现在谈没有好处。
c田中首相说:既然我到了北京,不提一下,回去会遇到一些困难。现在我提了一下,就可以向他们交待了。
d周总理说:对!就因为那里海底发现了石油,台湾拿它大作文章,现在美国也要作这个文章,把这个问题搞得很大。
e田中说:好!不需要再谈了,以后再说。
f总理也说:以后再说,这次我们把能解决的基本问题,比如两国关系正常化问题先解决。这是最迫切的问题。有些问题要等到时间转移后来谈。
g田中说:一旦邦交正常化,我相信其他问题是能够解决的。
张香山中日复交谈判回顾《日本学刊》 1998年第1期
  ちなみに、もう一つのキーワード「共同開発」について、張香山は次のように記録している。
釣魚島の「共同開発」問題に関して、私[張香山]の知るところでは、1979年5月鄧小平副総理が訪中した鈴木善幸氏と会談した時に提起されたものである。鈴木善幸氏は聞いた後、この意見を持ち帰り、大平正芳首相に知らせると表明した。
关于钓鱼岛共同开发问题,据我所知是在1979年5月邓小平副总理同来华访问的铃木善幸先生会谈时提出来的。铃木先生听后表示要把这个意见带回去,告诉大平首相。
反霸条款问题,总理向竹入提出的八条三项方案里就有这一条。总理告诉竹入说,这是基辛格的发明,已写入中美公报中,现在中日联合声明也用上了,这样中国、美国、日本三国都同意了。竹入听了以后说,这一条可能会产生一些影响。总理说:如果日苏会谈,苏联也讲这一句不是很好吗!总理还说因为这个东西是美国搞的,估计美国是不会反对的。当然,如果这个问题田中首相觉得有问题,可以商量。竹入表示很感谢,说要去说服他们两位。结果,在古井先生带来的日本对案中,已写入这一条,倒是到签订中日和平友好条约时却发生了问题。
出所:《日本学刊》1998年第1期
このやりとりを指して、中国側は「黙契」(暗黙の了解)・「共識」(共通認識の意)と呼んでいます。 「黙契や共通認識はなかった」とする日本政府の主張は、田中・周恩来会談の真相をゆがめるものです。中国はいま、日本政府の認識と尖閣国有化は、田中・周恩来会談における棚上げを反故にしたものと非難しています。
改竄された外務省記録をもとに戻すことが必要です。当事者の橋本恕中国課長(のち中国大使)は「1972年の真実」を28年後の2000年になってようやく告白した経緯を知らない日本人は、「尖閣問題の棚上げ」「尖閣問題についての共通認識」はなかったと受け取り、「尖閣は日本固有の領土だ」とする一方的理解だけが刷り込まれてしまったのですが、これを是正することが必要です。
以下に三つの関連資料を挙げます。一つは、いわゆる竹入メモの筆者竹入義勝の回顧録。もう一つは、国交正常化6年後の1978年に来日した鄧小平記者会見の尖閣についての発言です。周恩来の認識と鄧小平の認識は、基本的に同じです。「尖閣は日本固有の領土だ」とする日本側主張に対して、「釣魚島は中国固有の領土だ」と主張しています。そして両者の立場表明を前提としつつ、棚上げで合意しているのです。この合意を日本政府が否定したことによって、国交正常化当時の約束が反故にされたと中国は主張しているわけです。田中・周恩来会談において、「中国側は領有権主張を行わなかった」とする解釈は、明らかに間違いであり、そのような記述を行った服部龍二『日中国交正常化』(中公新書、2011年)に、アジア・太平洋賞特別賞を与えた『毎日新聞』や、大佛次郎論壇賞を与えた『朝日新聞』は、日本世論をミスリードした責任を免れないのです。最後に2年前の国会論議を一つ。大平も園田も、野田政権みたいな独善的態度ではなかったことは明らかです。

資料4.当時公明党委員長として田中訪中へのメッセンジャー役を務めた竹入義勝は、次のような証言を残している。
 尖閣列島の帰属は、周首相との会談で、どうしても言わざるを得なかった。「歴史上も文献からしても日本の固有の領土だ」と言うと周首相は笑いながら答えた。「竹入さん、われわれも同じことを言いますよ。釣魚島は昔から中国の領土で、わが方も見解を変えるわけにはいかない」。さらに「この問題を取り上げれば、際限ない。ぶつかりあうだけで何も出てこない。棚上げして、後の賢い人たちに任せしょう」と強調した。

――『記録と考証、日中国交正常化』岩波書店、2003年、204ページ。

1978年の尖閣合意(コンセンサス、共識)について。
資料5. 1978年8月10日、園田外相が訪中して北京で、鄧小平・園田会談が行なわれた。尖閣についてのやりとりは、張香山著『中日関系管窺与見証』によると、以下の通り。なお、日本外務省の会談記録は、尖閣の箇所を削除したものしか発表していない。
  • 中日両国間には若干の懸案がないわけではない。たとえば、日本は尖閣列島と呼び、中国は釣魚島と呼ぶ、この問題もあるし、大陸棚の問題もある(我們両国併不是不存在一些問題的。比如你們説的尖閣列島,我們叫釣魚台問題,還有大陸架問題)。
  • 日本では一部の人がこの問題を利用して『友好条約』の調印を妨害したではありませんか。わが国にも調印を妨害した人がいないわけではない。たとえばアメリカに留学し、アメリカ国籍をとった者、一部の華僑たち、彼らの中に「保釣」運動がある。台湾にも「保釣」運動がありますよ(但在你們国内不是有一些人企図挑起這様的事情来妨礙和平友好条約的簽訂嗎?我們中国人也不是没有這種人,比如説,我們留美的,加入美国籍的,有些還是華僑,不是有一個保釣島嗎? 在台湾也有"保釣"呢!)。
  • この種の問題は、今引っ張りだしてはいけない。『平和友好条約』の精神がありさえすれば、何年か放って置いておいて構わない。何十年か経って協議整わずでもかまわない。まさか解決できなければ、仲違いでもないでしょう(這様的問題現在不要牽進去, 本着「和平友好条約」的精神, 放幾年不要緊, 很可能這様的問題,幾十年也達不成協議。達不成,我們就不友好了嗎?)
  • 釣魚島問題は片方に置いてゆっくりゆうゆうと考えればよい。中日両国間には確かに懸案はある(要把釣魚台問題放在一辺,慢慢来,従容考慮。我們両国之間是有問題的)。
  • 両国は政治体制も置かれている立場も異なる。いかなる問題でも同じ言い方になるのは不可能だ。とはいえ、同時に両国は共通点も多い。要するに、『小異を残して大同に就く』ことが重要だ(我們両国政治体制不同,処境不同,不可能任何問題上都是同様語言。但是我們間共同点很多,凡是都可以「求大同,存小異」)。
  • われわれは多くの共通点を探し、相互協力、相互援助、相呼応する道を探るべきです。『友好条約』の性格はつまりこのような方向を定めている。まさに園田先生のいう新たな起点です(我們要更多的尋求共同点,尋求相互合作,相互幫助,相互配合的途径)条約的性質就是規定了這方向,正是你説的一個新的起点)。
    これを受けて、園田は次のように応じた――鄧小平閣下がこの問題に言及されたので、日本外相として私も一言発言しないわけにはいきません。もし発言しないとすれば、帰国してから申し開きできない。尖閣に対する日本の立場は閣下がご存じの通りです。今後二度とあのような偶然[張香山注、中国漁船隊が尖閣海域に侵入したこと]が起こらないよう希望したい。私はこの一言を申し上げたい(你談了這個問題,我作為日本外相,也不能不説一点。如果不説,回去就不好交代。関于日本対尖閣的立場,閣下是知道的,希望不再発生那様的偶然事情 指中国捕魚船隊,一度進入釣魚島海域,我講這麽一句)。
    これを受けて、鄧小平は次のように応じた――この種の事柄を並べると、われわれの世代の者には、解決方法が見出せない。次の世代は、その次の世代は、解決方法を探し当てることができるでしょう(把這様的事情擺開, 我們這一代人, 没有找到辦法, 我們的下一代,再下一代総会找到辦法解決的)。
    ――張香山著『中日関系管窺与見証』当代世界出版社、1998年

    園田外相の訪中を踏まえて友好条約が調印されたので、その批准書交換のために鄧小平の訪日が行なわれた。鄧小平は1978年10月25日日本記者クラブで、記者会見を行った。その発言趣旨は、資料5.と酷似している。つまり、北京における園田・鄧小平会談を踏まえて、資料6があることは明らかだ。
    資料6. 鄧小平副首相 尖閣列島は、我々は釣魚諸島と言います。だから名前も呼び方も違っております。だから、確かにこの点については、双方に食い違った見方があります。中日国交正常化の際も、双方はこの問題に触れないということを約束しました。今回、中日平和友好条約を交渉した際もやはり同じく、この問題に触れないということで一致しました。中国人の知恵からして、こういう方法しか考え出せません。というのは、その問題に触れますと、それははっきり言えなくなってしまいます。そこで、確かに一部のものはこういう問題を借りて、中日両国の関係に水を差したがっております。ですから、両国政府が交渉する際、この問題を避けるということが良いと思います。こういう問題は、一時棚上げにしてもかまわないと思います。十年棚上げにしてもかまいません。我々の、この世代の人間は知恵が足りません。この問題は話がまとまりません。次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。そのときは必ずや、お互いに皆が受け入れられる良い方法を見つけることができるでしょう。――鄧小平記者会見「未来に目を向けた友好関係を」1978年10月25日日本記者クラブホームページhttp://www.jnpc.or.jp/files/opdf/117.pdf

    資料5.と資料6.で得られた「合意、共識、コンセンサス」は、その後、国会でどのように認識されていたかを示す資料を一つだけ掲げる。
    資料7.衆院安保特別委(2010年10月21日)の議事録。
    船長逮捕事件における前原誠司発言が出た際の、民主党議員の質問です。「棚上げ」を園田直外相も大平正芳首相も認めていたと紹介しています。
    ○神風英男委員(民主)=(野田内閣・野田改造の防衛大臣政務官)
    日本としては、(棚上げ)合意がないという立場であろうと思います。ただ、当時大平内閣のもとで、当時の沖縄開発庁が調査団を尖閣諸島に派遣した、この調査に関して、中国が、鄧小平副首相との合意に反するという抗議があったわけであります。これを受けて、衆議院の外務委員会において、当時の園田直外務大臣がこのように述べられている。
    「日本の国益ということを考えた場合に、じっとして今の状態を続けていった方が国益なのか、あるいはここに問題をいろいろ起こした方が国益なのか、私は、じっとして、鄧小平副主席が言われた、二十年、三十年、今のままでいいじゃないかというような状態で通すことが日本独自の利益からいってもありがたいことではないかと考えます。」
    こういうように述べられているわけでありまして、いわば棚上げ状態にしておくことが日本の国益にも合致するんだというような趣旨のことを当時の園田外務大臣が述べられ、また、いろいろその当時の議事録を拝見しますと、大平総理も同じような立場に立っているようであります。

     
    資料8.尖閣問題を紛争のタネにするな--『読売新聞』1979年5月31日付社説





以上



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領土紛争―日本の対中外交責任を問う 西部ゼミ2013年5月4日放送

http://youtu.be/ml2TigzcV3Y



公開日: 2013/05/12
尖閣問題の核心―日中関係はどうなる ゲスト矢吹晋〔横浜市立大学名誉教授〕
http://www.mxtv.co.jp/nishibe/
 
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米中連携が東アジアの近未来西部ゼミ2013年5月11日放送  

http://youtu.be/PbZs7EEXeJI



公開日: 2013/05/19
チャイメリカの著者が語る米中結託・ゲスト矢吹晋〔横浜市立大学名誉教授〕
http://www.mxtv.co.jp/nishibe/


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