2013年8月19日月曜日

矢吹 晋 毛沢東や周恩来の戦略的対日政策の精神は忘れられた。:日中相互誤解の濫觴――闇に消えた田中角栄・毛沢東会談の真実

日中相互誤解の濫觴――闇に消えた田中角栄・毛沢東会談の真実

矢吹 晋

http://www25.big.jp/~yabuki/koen/tanaka72.pdf

PDF 1~13p

2002年は日中国交正常化30周年の記念すべき年であった。遺憾なことに、この年両国首脳の相互訪問が実現できないほどに日中政治関係は不正常であった。

小稿は田中・毛沢東会談の核心を追求し、日中相互理解と相互誤解の原点を剔抉しようとするものである。田中は「メイワク」という日本語で「誠心誠意の謝罪」を語り、その真意は中国側によって当時正しく理解された。毛沢東は田中の「万感の思い」に対して『楚辞集註』の贈物で応えた。しかし、正常化以後30年、田中の謝罪は歴史の闇に消され、毛沢東の贈物の意味も闇に消えた。いま暗闇に新たな光が届く。

第1節田中角栄の「万感の思い」による謝罪は、どこに消えたか
1.田中角栄のキーワードは「迷惑」と「反省」
1972年9月25日、田中角栄首相が北京を訪れ、同日夜の歓迎宴において、日中戦争について次のように述べたことはよく知られている。曰く、「わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて,私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と。これは「我国給中国国民添了很大的麻煩,我対此再次表示深切的反省之意」と訳され、謝罪の言葉としていかにも軽すぎると大きな波紋を呼んだ1。ここで田中は日中戦争について「多大なご迷惑をおかけした」と事実を確認し、この事実について「深い反省の念を表明」したのであるから、田中スピーチのキーワードは「迷惑、反省」の四文字である。

ちなみに日中共同声明においては「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と書かれた。この箇所の中国語テキストは「日本方面痛感・・・重大損害的責任、表示深刻的反省」である。日本語の「反省はんせい」はそのまま中国語の「反省fanxing」と訳された。この共同声明の正文は日本語と中国語だが、参考のために訳された英訳は、The Japanese side is keenly conscious of the responsibility for the serious damage that Japan caused in the past to the Chinese people through war, and deeply reproaches itself.である。

反省はみずからを省みて行うものであるから、reproaches itselfと訳されている。日本語の「ハンセイ」は、regret (遺憾)か、それともapology(謝罪、お詫び)か、と英語世界の記者が質問した由だが、そのいずれでもなく、 reproaches itselfと訳された。こうして、田中の歓迎宴でのスピーチは「迷惑、反省」であるが、共同声明においては「迷惑」は消えて、「反省」だけに落ち着いた。したがって共同声明を尊重する立場からすれば、交渉の帰結としての「反省」の二文字を論ずべきなのだが、国交正常化以後30年の現実は、「反省」を放置して、ただ「迷惑」に焦点をしぼり、その軽さをあげつらうことが日中双方において広範に行われてきた。

2.第2回首脳会談日本側記録から何が削除されたか
日本外務省の日中国交正常化交渉記録(アジア局中国課編)によると、田中総理と周恩来総理の会談は1972年9月25日から28日にかけて、四回行われている。すなわち、第一回会談9月25日、第二回会談9月26日、第三回会談9月27日、第四回会談9月28日である。双方の出席者は、日本側は、田中総理大臣、大平外務大臣、二階堂官房長官、橋本中国課長である。中国側は周恩来総理大臣、姫鵬飛外交部長、廖承志外交部顧問、韓念
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龍外交部副部長である。周恩来の「添麻煩」批判は、第二回首脳会談(9月26日)の冒頭で行われた。

日本側記録によれば、周恩来は前夜に行われた田中のスピーチについて、冒頭こう述べた2。
――日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。戦争のため幾百万の中国人が犠牲になった。日本の損害も大きかった。我々のこのような歴史の教訓を忘れてはならぬ。田中首相が述べた「過去の不幸なことを反省する」という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の「中国人民に迷惑(添了麻煩)をかけた」との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では添了麻煩(迷惑)とは小さなことにしか使われないからである」。

この周恩来発言を受けた田中の発言は、日本側記録では、以下のごとくである3。
田中総理:大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならぬ問題が沢山ある。しかし、訪中の第一目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。従って、これにすべての重点をおいて考えるべきだと思う。自民党のなかにも、国民のなかにも、現在ある問題を具体的に解決することを、国交正常化の条件とする向きもあるが、私も大平外相も、すべてに優先して国交正常化をはかるべきであると国民に説いている。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である。

以上の引用で「大筋において」の一文に下線を付し強調した。ここに大きなナゾがある。それは、周恩来の「添麻煩」批判が、以上のような形で行われたのに対して、田中は「周恩来の誤解」を解く努力を行わなかったのであろうかという疑問である。

田中の帰国後の発言から推して、このような周恩来の受け取りかたは田中の真意を誤解したものであり、ここで当然反駁があってしかるべきである。百歩譲って、ここで議論すべき課題はいくつも予定されていたので、周恩来のこの批判には直接的に反論せず、「いちおう聞いておく」という態度をとったとも解釈できる。しかし、そのような解釈を行った場合に、後掲の中国側、たとえば姫鵬飛外相証言や呉学文記者の回想録における「田中は誠心誠意の謝罪の意である、と釈明した」という記述したことと矛盾する。

そこで生ずる疑問は、姫鵬飛証言のような発言を田中が行ったにもかかわらず、日本側の記録から「この部分が削除されたのではないか」という疑念である。

3 自民党両院議員総会における田中帰国報告
この記録の文面からは、「メイワク」ということばについて、第2回会談では田中の説明あるいは釈明が行われていないことになっているが、それは不可解なのだ。なぜなら、田中は帰国後、9月30日、自民党本部において両院議員総会が開かれた際に、つぎのように経過を報告しているのだ4。
一日目[の会談で]は[問題は]何もなかったが、その晩の宴会で、日本政府の態度表明として、六五〇名から七〇〇名を前にして「戦前大変ご迷惑をかけて、深く反省している」と言った。これに対し中国側は、「ご迷惑とは何だ、ご迷惑をかけたとは、婦人のスカートに水がかかったのがご迷惑というのだ」と言った。中国は文字の国で本家だが、日本にはそう伝わっていない[迷惑というコトバの本家は中国だが、日本語のメイワクは中国の用法とは異なる、の意]。こちらは東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない([ ]内の補足および下線による強調は矢吹によるもの)。

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この田中発言の核心は二つである。一つは、「迷惑」の日本語の意味が中国語と異なる点を指摘したこと、もう一つは、日本語の「メイワク」とは、「非常に強い気持ちで反省しているときにも使う」という田中の日本語感覚の披瀝である5。

田中は、翌9月30日午後総理官邸における記者会見で、まずこう説明した――。
私は、千数百万人に迷惑をかけたという事実に対しては「ご迷惑をかけました」と言った。「ご迷惑」という言葉は婦人のスカートに水がかかったときに使うのだそうだが、そういう迷惑という感じを、そういうことをお互いにみんなブチまけあった。両国には長い歴史がある。日本が戦争をしたということで大変迷惑をかけたが、中国が日本を攻めてきたことはないかと研究してみたら、実際にあった。三万人くらいが南シナ海から押し渡ってきた。しかし台風に遭って(笑い)日本に至らず、本土に帰ったのは四五〇〇人であったとこう書物は教えている(笑い)[文永の役のことか]。また、クビライの元寇というのがあった。日中間にはいろいろなことがあった。過去というよりも、みんな新しいスタートに一点をしぼろうということだった。

下線部分に注目されたい。田中は帰国第一声で「戦争をしたということで大変迷惑をかけた」「そういう迷惑という感じを、そういうことをお互いにみんなブチまけあった」と述べている。
ここでは「迷惑という感じ、そういうこと」と迷惑と言い切ることに留保がおかれ、さらに「お互いにみんなブチまけあった」と述べるにとどめているが、記者会見後直ちに開かれた自民党両院議員総会(於自民党本部)での報告においては、次のように強調している。
「ご迷惑」とは、「東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない」。

この田中発言は、北京での交渉経過を報告する会議で行われたものだ。それゆえ、この釈明はまず北京で行われ、その経過を説明したものと考えるのが自然であろう。北京で述べなかったことをここで初めて語ることはありえないとみてよい。

では、この釈明は北京でいつどのような場で行われたのか。一連の田中・周恩来会談の経緯から見て、やはり(1)第2回会談の冒頭発言の部分、および(2)田中・毛沢東会談以外の場面は想定しにくい。筆者の推定によれば、第2回会談の冒頭発言の部分で最初の釈明が行われ、次いで毛沢東の書斎でもう一度繰り返されたものと考えられる。

4 田中角栄・毛沢東会談の核心部分
いわゆる田中・毛沢東会談(毛沢東による接見)は、9月27日夜8時半から1時間行われた。毛沢東は書斎に田中首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官を招いたが、これには日本側からは通訳も書記も出席していない。それゆえ日本側には詳細な記録はない6。

日本側の出席者3名のうち二階堂長官が記者会見を行った。すなわち9月27日午後10時すぎに、北京で記者会見した記録がある。なお二階堂長官は記者会見後に次のような補足発言を行っている。すなわち田中首相の「ご迷惑をおかけしました」ということばについて、田中・毛会見の席でも「次のようなやりとりがあった」と各紙特派員が報じている。すなわち、二階堂長官によれば、毛沢東・田中の会話は次のように行われた7。

毛主席:若い人たちが、ご迷惑をかけたという表現は不十分だといってきかないのですよ。中国では女性のスカートに水をかけたときに使うことばですから。

田中首相:日本ではことばは中国からはいったとはいえ、これは万感の思いをこめておわびするときに

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も使うのです。

毛主席:わかりました。迷惑のことばの使い方は、あなたの方が上手なようです。
念のために、この部分の中国語訳を『周恩来的決断』から引用しておく8。
毛沢東:不能譲年軽人説“添了麻煩”,這様的話不(句+多)分量。在中国,不留意把水濺到婦女的裙子上,才用這個詞。田中:日本話雖然是従中国伝来的,可是在百感交集道歉時也可以使用。毛沢東:明白了。“麻煩”這個詞你們用得好。

以上の資料から判断すると、田中が帰国後に自民党の同僚議員たちに説明したように、「迷惑ということばを万感の思いをこめてお詫びする」ために用いたことは明らかである。決して「添了麻煩」と中国語訳されたように軽いニュアンスで語ったものではなかったはずである。

では田中のこの真意は中国側にどのように伝えられたであろうか。

5姫鵬飛回顧録「飲水不忘掘井人」の証言
姫鵬飛外相の回顧録「飲水不忘掘井人」に、次の証言がある9。
周総理直率地説,田中首相表示対過去的不幸過程感到遺憾,併表示要深深的反省,這是我們能接受的。但是, “添了很大的麻煩”這一句話引起了中国人民強烈的反感。因為普通的事情也可以説“添了麻煩”。這可能是日文和中文的含意不一様。田中解釈説:従日文来説“添了麻煩”是誠心誠意地表示謝罪之意,而且包含着保証以後不重犯,請求原諒的意思。如果你們有更適当的詞匯,可以按你們習慣改。道歉的問題解決了。

この姫鵬飛証言は重要であろう。周恩来は「メイワク」という「日本語の含意」と「添了麻煩」という「中国語の含意」が異なると説明したうえで、田中がメイワク[添了麻煩の原意]とは、「誠心誠意謝罪する意味」であり、しかも「以後同じ過ちを繰り返さない、どうか許してほしい」という意味だ、と解説している。これを敷衍して田中はさらに次のように補足したと紹介している。すなわちもし中国側にもっと適当な語彙があるならば、「中国の習慣にしたがって改めてもよい」と田中が述べたというのである。これはいかにも豪放磊落な田中らしい発言だ。姫鵬飛は「こうして謝罪の問題が解決した」と証言している。田中が「誠心誠意の謝罪」を意図して「メイワク」という日本語で詫び反省を表明したと、田中の真意を周恩来が正確に受け止めていた事実を姫鵬飛が確認したことを示す文書である。

ここでこの資料の性質について、確認しておきたいことがある。それは、この回想録が「姫鵬飛談、李海文整理」とされていることの含意である。率然と読むと、「姫鵬飛が語ったものを李海文が単に整理したもの」と受け取られかねないが、実はそうではない。李海文は周恩来研究で著名な党史研究者(中共中央党史研究室主弁の『中共党史研究』前副主編を経て退休)である。2003年9月19日午後、筆者が村田忠禧とともに中共中央文献研究室に同氏を訪ねて確かめた結果、次の事情が確認された。

同氏は外交部档案室の関係文書をすべて閲覧し、記録を整理したうえで、姫鵬飛外相の確認を求めて執筆したのがこの論文なのであった。この意味では、この文章の実質は、「姫鵬飛回想録の形をとった李海文論文」といってよいもので、信憑性において折り紙つきである。ついでながら、外交部档案室が関連資料をすみやかに情報公開されるよう願ってやまない。
6 田中・周恩来第2回会談の中国側記録

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第2回会談における田中と周恩来の応酬は、中国側記録には次のように書かれていることが中共中央文献研究室陳晋研究員によって、2003年9月24日に確認された10。

田中: 可能是日文和中文的表達不一様。
周恩来: 可能是訳文不好、這句話訳成英文就是 make trouble。
田中: 「添麻煩」是誠心誠意表示謝罪了------這様表達、従漢語来看是否合適、我没有把握、語言起源於中国。

この部分を仮に訳してみよう。
田中: 日本語と中国語と言い方が違うのかもしれない。
周恩来: 訳文が好くないかもしれない。この箇所の英訳は「make trouble」です。
田中: メイワクとは、[「誠心誠意謝罪」と中訳された部分の田中の原語は、次のようなものであったと推定される。すなわち自民党での報告によれば≒東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない、と語ったはずである。あるいは二階堂長官のブリーフィングから推測すれば≒万感の思いをこめておわびするときにも使うのです、と説明したはずである]。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない。[メイワクという]ことばの起源は中国だが。[自民党での報告で田中はこう表現している。「中国は文字の国で本家だが、日本にはそう伝わっていない」]

なお、この姫鵬飛証言と同一の文言は、呉学文『風雨陰晴』にも引用されている11。
張香山『日中関係の管見と見証』には、「日本語の迷惑をかけたということばの意味が中国語で軽いなら、中国の習慣に沿って表現し直してもよいと述べた」とあるが、「誠心誠意的謝罪」の意味だとする釈明の部分はない12。ただし、張香山はここで重要な証言を一つしている。それは毛沢東が「迷惑をかけたという問題はどう解決しましたか」(添了麻煩的問題怎麼解決了)と尋ねたのに対して田中が「中国の習慣にしたがって直すつもりだ」と述べたという記述である13。この箇所は共同声明にどのような文言として表現するかの意だが、「第2回会談」の結論を踏まえて「共同声明に盛られた文言」がどのように選ばれたかをつなぐ一環として重要な証言であろう。

さて、田中・周恩来会談(9月26日)および田中・毛沢東会談(9月27日)において行われた「メイワク」論議を回顧すると、次の問題が浮かびあがる。

田中釈明の部分が第2回会談記録から削除されたのではないかという疑念がその一つである。中国側の会談記録には、姫鵬飛証言として李海文によって描かれ、その後陳晋研究員も確認したように記録されている。この部分に相当する記述が日本側の記録にはみられないことが問題である。この食い違いは、日本側記録からこの部分が削除されたことを意味すると考えるほかはない。日本側がなぜ記録を改竄したのか。関係者の証言を待ちたいところである。田中自身は前述のように、記者会見で語り、さらに自民党の会議で真意を披瀝しているのであるから、この削除が田中の指示によるものとは、解釈しにくいことを付加しておきたい。

第1節注
注1.ちなみに周恩来首相の歓迎の辞は「1894年以来半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって,中国人民はきわめてひどい災難をこうむり日本人民も大きな損害をこうむりました」(自从1894年以来的半个世紀中,由于日本軍国主義者侵略中国,使得中国人民遭受重大災難,日本人民也深受其害)というものであった(『人民日報』72年9月26日)。

注2.周恩来の冒頭発言は以下のように続く。「双方の外交関係樹立の問題に、日台条約や桑港条約を入れると、問題が解決できなくなる。これを認めると、蒋介石が正統で我々が非合法になるからだ。そこで、中国の「三原則」を十分理

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解することを基礎に、日本政府が直面する困難に配慮を加えることとしたい。日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという外務省の考え方を聞いて驚いた。蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。田中・大平両首脳の考え方を尊重するが日本外務省の発言は両首脳の考えに背くものではないか。日米安保条約について言えば、私たちが台湾を武力で解放することはないと思う。1969年の佐藤・ニクソン共同声明はあなた方には責任がない。米側も、この共同声明を、もはやとりあげないと言った。佐藤が引退したので、我々の側はこれを問題にするつもりはない。したがって日米関係については、何ら問題はないと思う。我々は日米安保条約に不満をもっている。しかし、日米安保条約はそのまま続ければよい。国交正常化に際しては日米安保条約にふれる必要はない。日米関係はそのまま続ければよい。我々はアメリカをも困らせるつもりはない。日中友好は排他的なものでない。国交正常化は第三国に向けたものではない。日米安保条約にふれぬことは結構である。米国を困らせるつもりはなく、日中国交正常化は米国に向けたものでない。ソ連に対しては、日中双方に意見があるが、条約やコミュニケには書きたくない。日ソ平和条約交渉の問題につき、日本も困難に遭遇すると思うが同情する。北方領土問題につき、毛は千島全体が日本の領土であると言った。だからソ連は怒った。茅台がウォッカよりよいとか、ウィスキーがよいとか、コニャックがよいとか、そのような新聞記者が言うような問題は中国側には存在しない。日中両国人民が世々代々つきあっていけるようにすること、過去半世紀の歴史を繰り返さぬようにすることが、両国人民の利益であり、アジア・世界の平和に役立つ」。
注3.田中の冒頭発言は、以下のように続く。「賠償放棄についての発言を大変ありがたく拝聴した。これに感謝する。中国側の立場は恩讐を越えてという立場であることに感銘を覚えた。中国側の態度にはお礼を言うが、日本側には、国会とか与党の内部とかに問題がある。しかし、あらゆる問題を乗り越えて、国交正常化するのであるから、日本国民大多数の理解と支持がえられて、将来の日中関係にプラスとなるようにしたい。共同声明という歴史的な大事業は両大臣の間で話して貰えば、必ず結論に達すると思う。具体的問題については小異を捨てて、大同につくという周総理の考えに同調する。日本側の困難は中国と政体が違うこと、日本が社会主義でないところから来る。つまり、この相異から、国交正常化に反対する議論も出る。しかし、国交正常化は政体の相異を乗り越えた問題であるから、この問題で自民党の分裂を避けたいと考えている」。

注4. 文責は時事通信社政治部、資料は、時事通信社政治部編『ドキュメント日中復交』時事通信社、1972年12月)。なお、この会議の模様は「自民党両院議員総会、背景説明と質疑応答」のタイトルで、『朝日新聞』1972年10月1日付3面で要旨が報道されている。

注5.外務省中国課資料「田中総理大臣記者会見詳録1972年9月30日午後3時より4時まで、中国より帰国後、総理官邸において。大平外務大臣、二階堂官房長官同席」。竹内実編『日中国交基本文献集』下巻、蒼蒼社、1993年、211ページ。なお要旨は『朝日新聞』1972年10月1日付2面にもある。

注6中国側は、毛沢東、周恩来のほか、姫鵬飛[1910~2000、当時外相]、廖承志[1908~1983、当時外交部顧問]、通訳および記録係として在席した王效賢[1930~]、林麗韞[1933~]、そして唐聞生(英語通訳)であった。

注7『ドキュメント日中復交』51頁。

注8『周恩来的決断』中国青年出版社、1994年8月122~23頁。

注9姫鵬飛談、李海文整理「飲水不忘掘井人」『周恩来的決断』中国青年出版社、1994年8月157~168頁。ここでこの資料について若干の事情を説明しておきたい。この本の主たる部分は、NHK取材班著『周恩来の決断』NHK出版、1993年の翻訳だが、中文版171ページの「編後記」に明らかなように、姫鵬飛談、李海文整理「飲水不忘掘井人」は独自

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に追加されたものである。

注10. 2003年9月24日午前、筆者は村田忠禧とともに再度文献研究室に陳晋研究員(毛沢東著作を編集する担当部門たる第1編集委員会副主任)を訪ねて、中国側記録の該当個所を点検してもらったところ、上記のように記述されていることが判明した。

注11世界知識出版社、2002年90ページ。

注12日本語訳、三和書籍、2002年30ページ。この証言の原載は『瞭望』1992年40期であり、20年後の記録である事実に注目しておきたい。

注13日本語訳、三和書籍、2002年31ページ。

第2節毛沢東『楚辞集註』贈呈のナゾ
1 「メイワク」問題をどのように処理されるおつもりか
会談記録の改竄問題に付随してもう一つの疑問が浮かびあがる。「迷惑問題」をどのように処理されるおつもりか、と毛沢東が田中に問うたことに対して、田中が「中国の習慣にしたがって直すつもりだ」と毛沢東の書斎で述べたという張香山証言の意味である。これは二階堂長官のブリーフィングによれば前述のごとくだが、中国側の記録と照合するために再度掲げておく1。

毛主席:若い人たちが、ご迷惑をかけたという表現は不十分だといってきかないのですよ。中国では女性のスカートに水をかけたときに使うことばですから。
田中首相:日本ではことばは中国からはいったとはいえ、これは万感の思いをこめておわびするときにも使うのです。
毛主席:わかりました。迷惑のことばの使い方は、あなたの方が上手なようです。
陳晋研究員が外交部档案に直接当たったところ、中国側記録は次のようであった。

毛沢東 你們那個「添麻煩」的問題怎麼解決了?
田中我們準備按中国的習慣来改。
毛沢東 一些女同志就不満意啊、特別是這個「美国人(指唐聞生)」、她是代表尼克松説話的。

仮に訳してみると、こうなる。
毛沢東: あなたがたは、あの「添麻煩」問題は、どのように解決しましたか。
田中 われわれは中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています[いうまでもなく共同声明に盛り込む文言を指している]。
毛沢東: 一部の女性の同志が不満なのですよ。とわりけ、あの「アメリカ人(英語通訳唐聞生を指して)は、ニクソンを代表してモノを言うのです。

最後の発言は毛沢東一流のジョークであろう。毛沢東の見るところ、「添麻煩」に文句をつけるのは、ニクソンの声を伝えたアメリカかぶれの女性同志なのであった。ここには毛沢東自身はすでに田中のメイワク釈明を了解しているニュアンスが読み取れる。すなわち「怎麼解決了?」と過去形で聞いている。毛沢東にとって問題はすでに解決済みなのであり、彼が問うたのは、解決に至る経緯なのであった。

2 中国の習慣にしたがって改めるよう準備する
これに対して、田中は「中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています」と、「準備」ということばで答えている。すなわち田中にとっては、問題はまだ決着しておらず、中国

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の習慣のしたがうという解決の方針を述べたわけだ。しかし、この田中説明を毛沢東が了解した時点、すなわちこの田中発言が終わった時点で日中国交正常化の根本問題が決着したのであった。実は毛沢東が田中一行を書斎に招いたという事実そのものが会談妥結へ向けての儀式にほかならないものであった。そしてその儀式の核心がこの田中発言であったと理解してよいのである。
この和解を裏付ける証拠として毛沢東が選んだ書物が『楚辞集註』なのであった。毛沢東は次のように説明しながら、土産を手渡した。

陳晋研究員の手書きメモによれば、次の通りである。
毛沢東: 我是中了書毒了、離不了書、你看(指周囲書架及桌上的書)這是『稼軒』、那是『楚辞』。(田中、大平、二階堂都站起来、看毛的各種書)、没有什麼礼物、把這個(『楚辞集註』6冊)送給你。(出来後、二階堂問周恩来、是否可以対記者説送「楚辞」事、周答可以、并告訴他標題是近代書法家沈尹黙写的字)

仮に訳してみよう。
毛沢東: 私は書毒に当てられ、書物を手放せない。ほら(周囲の書架とテーブルの本を指して) これは『稼軒(辛棄疾)』、あれが『楚辞』です。(田中、大平、二階堂が立ち上がって毛の各種書物を見る)、なにも贈り物がないので、これ(『楚辞集註』6冊を指す)を差し上げましょう。(書斎を出た後、二階堂が周恩来に「楚辞のことは記者に話してもよいか」と尋ねたところ、周は「よろしいと答え、本のタイトルは近代の書法家沈尹黙が書いたものです」と告げた。

3 なぜ『楚辞集註』が選ばれたか
ここからもう一つの問題が浮かびあがる。毛沢東はなぜ数多くの書物のなかから『楚辞集註』を選んで田中への贈り物としたのか、その理由の追求である。これまでにいくつかの解釈が行われてきたが、いずれも単なる思いつきの範囲を出ていない2。

以上の考察から、田中が「誠心誠意の謝罪」の意を「迷惑」と「反省」の4文字で表現したこと、田中の真意は中国側によって正しく理解されたからこそ、中国側が「賠償の放棄」などの政策で応えた経緯が明らかになった。

この間の一連の交渉経過を経て、日本語の「メイワク」と中国語の「迷惑」の意味がいかに異なったものであるかが明らかになった。第2回会談で田中と周恩来がともに、日本語と中国語の意味の違いに言及していることは、今回の陳晋研究員の確認によって明らかになった。

このように見てくると、毛沢東が『楚辞集註』を贈物としたことの意味は、おのずから浮かびあがる。この本には、「迷惑」という2文字の中国における古典的な使用法が示されている。中国語「迷惑」の意味は、現代においても変わっていない。毛沢東は、日中両国の文化がかくも異なったものであることに興味を感じたからこそ、中国文化における「迷惑」の使い方の一つの証拠として、この本を贈り物に選んだのではないか。これがここで提起したい筆者の新解釈である。

慷慨絕兮不得,中瞀亂兮迷惑

『楚辞集註』に出てくる「迷惑」の文字。資料:『毛沢東蔵書』全24巻(張玉鳳主編、1998年刊行、山西人民出版社)第9巻「楚辞・九辯」6282ページ左段、下から3行目。

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4 日本通・廖承志の役割と沈尹黙による書名揮毫の意味
ここで二つの注釈が必要であろう。二階堂長官が紹介した会談における廖承志についての言及である3。

毛沢東: もうケンカは済みましたか。ケンカをしないとダメですよ。
田中: 周首相と円満に話し合いました。
毛沢東: ケンカをしてこそ、初めて仲良くなれます。(廖承志氏を指しながら)かれは日本で生まれたので、こんど帰るとき、ぜひ連れてかえってください。
田中: 廖承志先生は日本でも有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬すれば、必ず当選されるでしょう。

ここでいきなり廖承志(中日友好協会会長)が話題になるのはなぜか。毛沢東の指摘のように、廖承志は日本生まれであり、当時の中国で最高の日本通であった。「江戸っ子」を誇る中国人であり、そのベランメエ調はかなり有名であった。日本語「メイワク」の含意の鑑定役をつとめたのが廖承志ではないかというのがここでの想定である。第2回会談の冒頭で周恩来が「メイワクは軽すぎる」と問題を提起したのに対して、田中は「万感の思いを込めておわびする」ときにも使うと反論した。田中のこの反論をどのように理解するのか。生半可な日本語通訳には荷が重すぎる課題であったはずだ。察するに日本の風俗習慣を深く理解する廖承志にとっては、難しい問題ではなかった。周恩来からこの解釈問題の経緯を知らされた毛沢東はさっそく廖承志を呼び寄せて、廖承志の判断を問うた可能性が強い。廖承志がどのような判断を示したかを直接的に知る資料はないが、田中がメイワクを用いたのは、「誠心誠意的謝罪」の意味だと毛沢東に説明したはずである。「廖承志は日本生まれだから、日本に連れ帰ってほしい」という発言はいかにも唐突であり、毛沢東の真意を理解しにくいが、もし廖承志が毛沢東と田中の間の「真の通訳」を果たしたことに対する毛沢東の評価を意味するものと解すれば、ケンカの話がいきなり廖承志を日本に連れ帰る話につながるのは、きわめて自然だ。つまり毛沢東は、日本人と同じように深く日本文化を理解する廖承志が「私とあなたの間の心の通訳を果たしたのですよ」と示唆していると読むのである。

5 優雅な作法
もうひとつの課題は、「楚辞集註のタイトルは近代の書法家沈尹黙4が書いたもの」と説明したことの意味である。書法家沈尹黙の書は著名であり、周恩来も自宅と事務室の双方にその書を掲げていたほどであるから、その場で『楚辞集註』の文字を見ただけでも、沈尹黙の書であることを識別できたはずだ。しかし、二階堂の問い合わせに対して、即座にこの贈物の件を記者に話してよいと答えていることからして、毛沢東が田中への贈物をこの書物に決めたことをあらかじめ知らされていたことを示すものと解してよいであろう。これはなかば推測の領域に属するが、廖承志から「メイワク」と「迷惑mihuo」の差を聞いて『楚辞集註』を贈物とすることを思いついた毛沢東が、その意向をあらかじめ周恩来に伝えておいたとみるのが自然であろう。周恩来がさりげなく沈尹黙の名に言及していることも意味深長である。沈尹黙は青少年時代に2度も日本に遊学しており、さらに抗日戦争期における行動も含めて、この人物もまた中日文化交流の深さを体現する人物の一人であるからだ。こうして『楚辞集註』という贈物は、日中両国の文化交流と摩擦を象徴するものとし

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て選ばれたのではないかというのが筆者の新解釈である。これだけの深い意味を込めた贈物の意味をなにも説明せずに手渡したことは不可解だ。筆者の新解釈への不満の声が聞こえてきそうだが、筆者の感触によれば、これこそが「文明の作法」なのだ。あえて説明を加えるのは野暮というもの、日中双方がいずれは気づくことを期して黙って手渡したものと解すべきであり、まことに「東洋的」な優雅な作風というべきである。これは田中が「東洋的に」を強調したことに対するお返しなのだ。

6 日中和解の核心はなぜ消えたか
田中・毛沢東会談を頂点とする一連の日中会談において、日中戦争に対する日本側の謝罪の意図は田中によって明瞭に述べられ、中国側は田中の真意を正確に理解した。こうして「メイワク」「迷惑mihuo」問題および日本の謝罪の問題について日中双方は共通認識に到達したのであった。すなわち「メイワク」と「反省」から出発した田中の謝罪が、「メイワク」は「添麻煩」と訳されるべきものではなく、「誠心誠意的謝罪」と翻訳し直されたことが一つである。その趣旨を体して日中共同声明においては、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのであった。

しかしながら、国交正常化以後30年の歴史のなかで、田中の真意、すなわち「万感の思いを込めておわびをするときにも使うのです」(中国語訳「在百感交集道歉時也可以使用」)と強調した事実は歴史の闇に消された。田中がその後ロッキードスキャンダルによって失脚したことが一つの要素である。さらに大平正芳の急逝も生き証人を失うことを意味した。もう一つの要素は外交当局の作為であろう。この側面は第2回会談記録が中国側記録と異なる事実に典型的に現れているが、これにとどまらない。玉虫色の決着部分について、積極的な説明を加えることを一貫して怠ってきたことの行政責任はきわめて重い。

他方、中国側にもそれなりの事情が生まれた。ポスト毛沢東・周恩来時代になると、毛沢東や周恩来が日本に対して譲歩しすぎたのではないかとする見方が台頭した。特に80年代を通じて鄧小平の改革開放路線が定着する過程で、日本の経済力が過大に中国の経済力が過少に評価される潮流のなかで、賠償放棄について毛沢東や周恩来の考え方とは異なる見方が生まれた。ここで教科書問題や歴史認識問題が新たに登場し、中国側の不満を助長した。彼らの不満は、日中交渉の過程で乗り越えられたはずの「添麻煩」に回帰し、恰好の口実を発見した。そこで「添麻煩」という謝罪にならぬ謝罪こそ国交正常化の原点であるかのごとき虚像をつくり出し、これをひたすら非難し、狭隘な愛国主義の感情に溺れた。毛沢東や周恩来の戦略的対日政策の精神は忘れられた。
中国側の誤解・曲解に対して日本の外交当局がどのように誤解を解く努力を行ったのか疑わしいところがある。和解の精神を以心伝心で伝える『楚辞集註』の意味は一顧だにされなかったことがその一例である。

つまり国交正常化以後の歴史過程で消されたのは田中の謝罪だけではない。田中の熱意に応えた毛沢東、周恩来の思惑も闇に消えたわけだ。『楚辞集註』の意味は、中国側でも忘れたことになる。狭い愛国主義に身をゆだねるには、「添麻煩」のほうが都合がよかったわけだ。
日本側は謝罪の事実をあいまいに扱い、他方中国側は、日本側は謝罪をしていない、あるいは軽微な謝罪しかしていないとして、日本非難をくりかえした。中国側のこの偏向ス

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タンスは、国交正常化20年がすぎた90年代から一段と激しくなり、ついに2002年には国交正常化30周年の記念行事が行われたにもかかわらず、両国首脳の相互訪問が実現しない事態さえ生まれた。「窮則思変」という。近頃、中国では対日関係の新思考についての議論が活発になりつつあると聞く。いまこそ日中30年にわたる誤解を解きほぐし、新たな日中関係を構築する努力が日中双方に求められている。

第2節注
注 1 『ドキュメント日中復交』51頁

注2 たとえば横堀克己はこの会談に同席した王效賢、林麗韞をインタビューして書いた「毛・田中会談を再現する」(『人民中国』2002年9月号)でこう書いている。

――なぜ『楚辞集註』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよく分からない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王さんはみている――。
毛沢東は由来「有的放矢」の作風で知られている。『楚辞集註』が「大好き」であったことは事実だが、「大好き」な本は枚挙にいとまのないほどであった。肝心なことは、数多くの「大好きな」本の群のなかから、『楚辞集註』が選ばれた理由である。その理由は30年後の今日なお「真相はよく分からない」状況にあるとされる。
王泰平『大河奔流』(奈良日日新聞社、2002年)は、当時の日本マスメディアの論評を「三つの意味」に整理している。すなわち一つは、田中首相の愛国精神を褒めたたえるため、二つは田中が訪中期間に漢詩を書いたことを評価するため、三つはキッシンジャー補佐官に対して「中国と日本の関係は、アメリカと日本の関係よりずっと長い」と語ったことを称賛するためであった。同書177頁。いずれも要領を得ない解釈であり、牽強付会であろう。

注3『ドキュメント日中復交』51頁。

注4 沈尹默は学者、詩人、書法家である。青年時代に2度日本に遊学し、帰国後北京大学、北京女子師範大学で教え、陳独秀、李大釗、魯迅、胡適らと『新青年』につどい、新文化運動の戦士となった。􀀒􀀚􀀓􀀖年,女師大闘争に際しては魯迅、銭玄同らと連名で宣言を発表し学生の闘争を支持した。その後蔡元培、李石曾の推薦で河北教育庁長,北平大学学長などを歴任した。1932年,政府の学生運動弾圧に抗議して辞職し上海に南下、中仏文化交換出版委員会主任を務めた。抗日戦争が始まると,監察院院長于右任の求めに応じて重慶に行き、監察院委員となり,孔祥熙を弾劾しようとしたが果たせなかった。抗日戦勝利後は、上海で書を売ってなりわいとし、清貧に甘んじた生活を送った。沈尹默は陳毅が上海市長として赴任した時、最初に訪問した民主人士である。総理周恩来は中央文史館副館長に任命した。􀀒􀀚49年後,新中国初めての書法組織・上海市中国書法篆刻研究会を創立し、中国書法芸術理論に卓越した貢献を行った。毛沢東は彼を接見したことがあり、その芸術を高く評価した。『中南海収蔵書画集』の第1頁は沈尹默が毛沢東のために書いたものである。周恩来の自宅と事務室には沈尹默の書が掲げてあったと伝えられる。
謝辞。

本稿を執筆する過程で、李海文、陳晋、劉志明の3氏および村田忠禧氏の協力を得た。記して感謝の意を表する。なお、本稿は、「国交正常化30年前夜の小考――誤解はメイワクに始まる」と題して、日中コミュニケーション研究会北京シンポジウムにおいて2001年11月23日に口頭発表され、日中コミュニケーション研究会編『日中相互理解とメディアの役割』(日本僑報社、2002年7月)に収められた。ただし、この旧稿においては、中国側資料による裏付けが不十分であった。この点で本稿は旧稿とは著しく異なるが、基本的な主張に変わりはない。

[補論1]石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光編『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結考証』(岩波書店、2003年8月)についてのコメント
同書には、田中・毛沢東会談についての記述が少なくとも3篇みられるが、いずれも問題の解明には役だ

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たない。①田中・毛沢東会談についての記録がなるものがあるが(125-31ページ)、これは王泰平『新中国外交50年』(邦訳『大河奔流』奈良新聞社、2003年)という2次資料を用いており、ここからは、迷惑問題および『楚辞集註』の意味を考察する示唆はまるで得られない。②横堀克己「毛・田中会談を再現する」という文章も証言編に収められているが(256-65ページ)、ここでは、迷惑についての毛沢東の問いに大平外相が答えたと、王效賢、林麗韞が証言したとされている(263ページ)。この証言はおそらく誤りであろう。当然田中が答えたはずだ。そうでなければ「田中の迷惑解釈を毛沢東がほめる」話につながらないし、また『楚辞集註』贈呈の意味も分からない。③田畑光永記者の回想文も当該箇所は勝手な憶測にすぎない。「この周発言に田中首相がどう答えたのか、あるいは沈黙したままだったのか。どこにも記録がないところをみると、後者だったのではないかと思われる」(245ページ)。「記録がない」から「沈黙したまま」と書くのは乱暴である。この問題について田中自身は帰国後に雄弁に語っているではないか。「記録がない」のではなく、この部分が削除された可能性を疑うべきである。④この資料集には第2回会談にも出席した当時の橋本中国課長のインタビューが収められているが、会談記録削除問題には触れていない。⑤この資料集には、呉学文新華社記者の記録も収められているが、時期は田中訪中以前に限られている。⑥この資料集には、張香山(当時、中連部副部長)の回顧録も収められているが、時期は平和友好条約交渉である。総じてこの資料集からは、田中の謝罪問題の行方を追求する手がかりは得られない。

[補論2]鄧小平を迎えた天皇のことばも「メイワク」
1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換式のために来日した鄧小平は皇居を訪問して天皇・皇后と会見し、天皇主催の午餐会に臨んだ。天皇が鄧小平を接見した経緯はいくつかの間接報道によって知ることができる。

ある報道はこう伝えた。「鄧小平の顔をみるなり、昭和天皇の方から「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう」と謝罪の気持ちをこめて語りかけたという。瞬間、鄧小平は立ちつくしていた。一部始終をみていた入江相まさ政たか侍従長は「鄧小平さんはとたんに電気をかけられたようになって、言葉がでなかった」と、のちに何人かに話している。しばらくして鄧小平は、「お言葉のとおり、中日の親交に尽くしていきたいと思います」と応じた。少なくともこの冒頭場面は、なごやか、というようなものではなく、緊迫のシーンだった1」。

注1これは『毎日新聞』(1991年6月9日朝刊)の記事である。なお、引用の文面の前に、次の文があり、天皇の発言は鄧小平のあいさつを受けての発言と報道されたケースが多いことを示している。「湯川宮内庁式部官長が鄧小平の「過去」発言にこだわるのは理由があった。事前に外務省、宮内庁、在日中国大使館の三者が話し合い、(1)天皇陛下と外国要人の会見は通常あいさつ程度、(2)天皇は政治の外にある、(3)戦争などに関し天皇が発言されると政治問題化し、日中友好関係に影響が出る----という日本側の立場を中国側は了解していたからだ。日本側はこの時も、長年の慣例に従って、簡単な「あいさつ」のシナリオを用意していた。ところが、鄧小平が「過去」発言をしたために、それに触発されるような形で、昭和天皇の「不幸な出来事」発言がとびだしたわけで、予定にないハプニング、と湯川は言いたかったのである。しかし、実際の会見の模様は逆だったらしい」。当時、天皇のことばがどのような中国語に訳されたのか。関係者の証言が欲しいところである。おそらくここでは、天皇のことばは的確に中国語訳されたのであろう。

会見から13年後の解説記事であり、当時の報道を修正する意図で書かれている。入江証言は、『入江相政日記』にも、類似の記述が見られる。「鄧小平氏の時に、陛下が全く不意に「長い間ご迷惑をかけました」と仰有り、それをうかがった鄧氏が非常に衝撃を受けたことを忘れることはできない2」。

注2.『入江相政日記』第6巻390ページ。

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またしても「迷惑」の一語である。田中の「迷惑」発言は1972年9月、昭和天皇の「迷惑」発言は1978年10月である。天皇は田中発言を模倣したのか。否、であろう。おそらくは天皇自身のことばとして「迷惑」の一語が選ばれたと思われる。なぜなら、それが自然な日本語の表現だからである。

[補論3]財界人小山五郎のことばも「メイワク」
もう一つ「迷惑」の例を挙げたい。アジア留学生協力会会長小山五郎(元三井銀行取締役・相談役)が、こう発言している。「経済大国としてのわが国は何をしたかというと、『大東亜戦争で大変なご迷惑をかけてしまい、申しわけなかった。一億総懺悔という形で皆さんにお詫びするとともに、いかなる経済協力もいたしましょう』という誓いを立てて、できるだけのことをやってきたわけです3」。
注3『経団連月報』1986年5月号座談会「アジアとの関係を考える」。

田中だけでなく、天皇も、そして80年代半ばの財界人有力者の発言も「迷惑」の一語であることが注目される。「迷惑をかけた」には、「申しわけない」「詫びる」ということばを後に添えたほうが、謝罪の意味はより明確になるが、田中は「多大なご迷惑をかけた」に加えて「深い反省の念」を表明しているのであるから、田中の謝罪の意図は明らかであろう。これは日本語の使い方として、必ずしも不適切とはいえない。田中がいみじくも語ったように「万感の思いを込めて」語るかどうかが肝心である。

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1972年"北京の五日間"こうして中国は日本と握手した  

http://youtu.be/HjUYwQ_NVXE



公開日: 2012/12/01
1972年に「日中共同声明」が締結されて今年で40年になる。北京での5日間の交渉­で、田中角栄、大平正芳、毛沢東、周恩来という"名優"が、いかに困難を乗り越え調印­に至ったのか。米中和解と日中国交正常化を中国が相次いで求めた動機は何だったのか。­番組では中国側当事者と共産党中央党史研究室へのインタビュー、残された回顧録の朗読­を通じ、なぜ「8億6千万人の握手(周恩来)」に中国が応じたのか解き明かしていく。

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周恩来総理記念詩碑  

http://youtu.be/8l4YqrXTVLs



公開日: 2012/03/16
これは京都の嵐山公園にある「周恩来総理記念詩碑」を撮影してきた映像です。 
この詩碑は1978年に日中平和友好条約調印を記念しその翌年に建立されました。 

『雨中嵐山』

雨中二次遊嵐山,
兩岸蒼松,
夾着幾株櫻。
到盡處突見一山高,
流出泉水綠如許,
繞石照人。
瀟瀟雨,
霧濛濃,
一綫陽光穿雲出,
愈見嬌妍。

人間的萬象眞理,
愈求愈模糊,
模糊中偶然見着一點光明,
眞愈覺嬌妍。


所在地:日本国京都府京都市右京区嵯峨亀ノ尾町「嵐山公園」

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E6%89%BF%E5%BF%97

廖承志

廖 承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、1908年9月25日 - 1983年6月10日)は中華人民共和国政治家

人物
1949年の中華人民共和国の建国以降中国共産党の対外活動の責任者を務め、日本との関係では特に1962年高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づくLT貿易を開始した人物として知られる。中日友好協会では1963年の設立時から死去まで会長の任にあった。
日本生まれの日本育ちで、廖の話す日本語は「江戸っ子」なみのベランメエ調も話すことができるほどであり、1972年日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活動[1][2]、中国共産党史上最高の知日家として中国外交陣における対日専門家育成の基礎を作った。

経歴
1908年中国国民党の幹部であり孫文の盟友であった父の廖仲愷[3]と、同じく中国国民党の幹部であり後に中国国民党革命委員会中央執行委常務委員となった母の何香凝[4]の間に東京で生まれる。別名に母方の姓を用いた何柳華。

1919年に帰国し嶺南大学に入学。1925年の父の暗殺後、再来日し早稲田大学に入学。1928年済南事件をきっかけに帰国、中国共産党に入党。1928年から1932年の間に渡欧してヨーロッパの中国人船員のオルグ工作を担当した。1930年には、モスクワ中山大学に学ぶ。そこでのちに台湾総統になる蒋経国と机をならべた。
1932年に帰国し中華全国総工会宣伝部部長に就任。一時逮捕されたり反革命の嫌疑で党籍を剥奪される時期もあったが、党の宣伝関係などの要職を歴任。1937年より香港において抗日戦争を戦う華僑の組織化の責任者となる。
1942年国民党政府に逮捕され1946年まで入獄。1946年に米国の仲介で成立した国共両党間の捕虜交換により出獄し、1949年の中華人民共和国建国まで、新華社社長、党南方局委員、党宣伝部副部長などを歴任。建国後は政府の華僑事務委員会副主任、党中央統一戦線工作部主任など対外工作の要職に就いた。
建国後日本との国交のなかった1950年代に訪日し、対日関係の窓口として活動を行った。
1962年11月9日、責任者の名前のイニシャル、廖(LIAO)の「L」と高碕(TAKASAKI)の「T」をとってLT貿易協定と言われる「中日長期総合貿易覚書」に調印し、友好商社による細々とした民間友好貿易から半官半民のLT貿易へと拡大、1964年4月20日には「中日両国の貿易事務所の設置と常駐記者の交換に関する覚書」(詳しくは日中記者交換協定を参照。)に調印し、後の国交正常化に至るまでの日中交流の道を開いた。
1963年には中日友好協会が設立されて会長に就任、その後一貫して対日交渉の最高責任者の地位にあった。文化大革命中に先頭にたって文革推進の立場から日本共産党攻撃を行い、北京駐在日本共産党員を「足蹴にしてしまえ」と叫んだという記録が残っている。しかし結局本人も「親日派」であると批判され一時失脚し、後に復活。1972年の日中国交正常化に際しては毛沢東周恩来の通訳を務める[1]などして尽力した。通訳にあたっては同席する他の中国人通訳のちょっとした訳の間違いなどが、日中間の漢字表現の違いから誤解を招かぬよう、そばでやさしく訂正したりもして進行を円滑にしていた[2]
1979年中米国交回復後、1982年には台湾の当時の総統であった蒋経国に対し祖国統一を呼びかけた。党中央委員・第5期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた。
なお、息子の廖暉(りょう き)も父の後を継いで1984年から1997年の間は華僑事務委員会主任、その後は香港・マカオ事務委員会主任を務めている。現在、第17期中国共産党中央委員(第12期以降、連続当選)も務める。

最終更新 2013年3月21日 (木)

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2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信  

http://youtu.be/XOgDdBrw8yM



公開日: 2013/06/08
2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信 2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信 2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信 2013 06 08我的中国心 廖承志的致蒋信

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