モンゴル帝国
モンゴル民族 |
モンゴル民族は、その昔にゲルマン民族大移動を引き起こし、西ローマ帝国崩壊のきっかけを作ったフン族(Hun)が有名である。フィンランド(Finland)やハンガリ(Hungary)の国名はフンからきたという説もある。また、アメリカ原住民インディアンも、アジアからベーリング海峡を渡ったモンゴル民族である。
| チンギスハンが登場する以前のモンゴル高原。西のペルシアには、セルジュク朝から分離したホラズム朝が、その西にはセルジューク朝が栄えていた。 | ||||||||||||
建国 | チンギス・ハン |
1167年、モンゴルのビョルジン族にテムジンが誕生する。彼が9歳の時、父イェスゲイはタタール族に毒殺される。父の仇を討つため苦労しながら育ったテムジンは、次第に優れた指導者として一目置かれるようになり、昔の仲間が集まってきた。そして、ネストリウス派キリスト教徒のケレイトと組んでモンゴル高原の統一に動き出した。
まず、対立関係にあったメルキトと戦ってこれを破り、次いでアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。そしてその他多くの部族を服従させ、ついに1200年に父の仇タタールを滅ぼした。その後同盟関係にあったケレイトと対立してこれを滅ぼし、彼に敵対する部族はいなくなった。1206年、部族の指導者を集めたクリルタイでモンゴルの統治者大ハーン(チンギス・ハン:Genghis Khan)に選ばれ、モンゴル帝国が築かれた。
1207年、チンギス・ハンは西夏を攻めて属国化し、翌年には中国遠征に乗り出す。金の領土に入ったチンギス・ハンは、北京の北東で金の大軍団に遭遇する。モンゴル騎兵は破壊的な力を見せ、数時問で7万の金軍を破った。その後モンゴル軍は撤退・侵攻を繰り返し、金の領内を荒らしまくった。
1214年、金が勝手に首都を中都から開封に移転したため、4回目の軍を起こし中郡を占領した。この時、遼の王族だった耶律楚材がチンギス・ハンの幕僚に加わった。耶律楚材は、広大な領土を支配する国家体制を整えた。 1215年、チンギスハンは金の攻略を部下に任せ、北に引き返した。
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カスピ海へ 年表に戻る | チンギスハンの系図 |
モンゴルに戻ったチンギスハンの関心は西に向けられた。イランには、ホラズム・シャー・ウッディーン・ムハンマド2世が治めるホラズム王国が控えていた。1219年、10万を超すモンゴル軍は4軍団に分かれてホラズムに侵攻した。ブハラ、首都サマルカンドを攻略し、町を破壊、住民を虐殺した。
ホラズム・シャーは西に逃げた。モンゴル軍は執拗に追いかけ、インダス川を越えカスピ海沿岸に達した。その後、ホラズム・シャーは病死したが、モンゴル軍はアゼルバイジャンからグルジア王国に入り、ロシアへと侵攻した。コーカサス北部の平原でアラン族、チュルケ族、キプチャック族の連合軍を破り、カルカ河畔の戦いでロシア連合軍を撃破した。
1225年、山のような戦利品と多くの奴隷を連れてチンギスハンは故国に戻った。ロシアや金に侵攻していた部隊も戻ってきた。1226年、チンギスハンは西夏を攻めた。これが最後の戦いとなった。落馬による負傷が原因で60歳の生涯を閉じた。
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ロシア侵攻 |
チンギス・ハンの後には3男のオゴタイが継いだ。彼は1234年に金を滅ぼし、首都を外モンゴルのカラコルムに定めた。1236年、甥のバトゥにロシア・東ヨーロッパ遠征を指示した。バトゥはまず、ヴォルガ川の東側にあるブルガールを攻めた。ブルガール族は遊牧民だったが、キャンプ生活を捨て毛皮交易で豊かな都市を作っていた。部族の大半はイスラム教に改宗し、改宗しなかったブルガールがヨーロッパに移住してブルガリアを作った。モンゴル軍の襲撃でブルガールは破壊され、二度と再建されなかった。
【ロシア侵攻】
1237年、12万のモンゴル軍は凍てついたヴォルガ川を越え、ロシアに侵入した。最初にリャザン公国を攻め、みせしめに君主とその一族を虐殺した。続いてモスクワを落とし、迎えうったスズダリ軍を破り、ロシア平原を縦横無尽に駆けめぐった。抵抗するロシアの公国はことごとく殲滅された。そして、キエフに「雲霞のごときタタールの大群」が押し寄せ、町は徹底的に破壊された。
おびただしい避難民がロシアからポーランドやハンガリーに逃げ込んだ。モンゴル軍は、軍を二手に分け、主力はハンガリーに、2万の別働隊はポーランドに侵攻した。
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ポーランド侵攻 | クラクフの聖マリア教会 |
モンゴル軍はビスワ川を越えクラクフに迫る。教会の塔の上から来襲を告げるトランペットが鳴り響く。突然ラッパの音が鳴り止み、ラッパ手はモンゴル軍の放った矢で喉を射抜かれていた。このことを悼んで今でもクラクフの聖マリア教会では、1時間ごとに塔の上からラッパが吹き鳴らされている。迎撃体制を敷く間もなく、モンゴル軍はクラクフに突入、町は炎上した。
更に西に向かうモンゴル軍を、ポーランド軍とドイツ騎士団がポーランドのレグニツァ付近で迎え撃った。モンゴル騎兵は突進し、小競り合いの後、突然馬首を返して逃げた。おとり作戦に引っかかったヨーロッパ軍は追撃する。いつの間にかヨーロッパ軍は部隊がばらばらになり、個別に包囲されて叩き潰された。これが、ワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い:1241年)で、ポーランド王ヘンリク2世は戦死、ヨーロッパ騎士団は壊滅した。ワールシュタットとはドイツ語で「死体の山」の意味。
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ハンガリー侵攻 | ブダとペストを結ぶくさり橋、対岸がペスト |
ハンガリーに侵攻したバトゥは、首都ペスト付近で国王ベーラ4世率いるハンバリー軍10万と対峙した。ヨーロッパ最強のハンガリー騎兵は勇敢に戦い、モンゴル軍を圧倒した。勝利を確信したその時、ポーランド遠征軍が突入してきた。ハンガリー軍は総崩れとなり、ペストは陥落した(モヒの戦い)。
モンゴル軍はイタリア侵攻の準備を始めた。しかし、オゴタイハン急死の報を受け突然撤退した。ヨーロッパはモンゴルに征服される危機を脱した。バトゥはモンゴルには帰らず、ロシアにサライを首都とするキプチャク・ハン国を建国する。オゴタイハンの後は息子のグユクが第3代ハーンに就くが2年後に亡くなり、フビライの兄モンケが即位した。
【タタール(Tatar)】 ロシア人が呼んだモンゴル人のこと、中国語では韃靼(だったん)。ヨーロッパでは、ギリシャ語の地獄の住民を意味するタルタロスに重ねてタルタル人(Tartar)と呼んだ。
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中東侵攻 | スルタン・ハッサン・モスク (カイロ) | モンケは弟フビライに南宋攻略を、その下の弟フラグにイラン方面攻撃を命じた。 【ペルシア侵攻】 1256年、フラグはペルシアに進軍した。チンギス・ハンのもとで鍛えぬかれた兵士とカタパルトや火薬などを装備した軍団の前に、ほとんどのイスラム太守は帰順した。しかし、エルブールズ山脈に潜む暗殺教団は200もの要塞を築き抵抗した。モンゴル軍は2年がかりで要塞を一つ一つ潰し、暗殺教団を抹殺した。 【バグダード陥落】 フラグはバグダードに迫った。第37代カリフのムスターシムは迎え撃ったが敗れ、500年続いたアッバース朝は滅んだ(1258年)。バグダードでの虐殺はすざましく、80~200万人が殺された。この破壊の先頭に立ったのはグルジアのキリスト教軍だった。バグダードの陥落はイスラム世界に大きな衝撃を与えた。 【シリア・パレスチナへ】 フラグはチグリス川を越え、シリアに侵攻した。もはやモンゴル軍に立ち向かう君主はなく、アレッポ、ダマスカスが次々と陥落していった。残るイスラム国家はエジプトのマムルーク朝のみとなった。 | ||||||||||||
中国侵攻 | アッコンの十字軍要塞(イスラエルのアッコ) | 【一息ついた十字軍】 地中海沿岸の要塞には、まだ十字軍が身をひそめていた。イスラム軍の崩壊で息を吹き返した十字軍は、モンゴルと組んでエルサレムに進軍すべきか迷っていた。しかし、ロシア、リトアニアの反乱に対するモンゴル軍のポーランド再侵攻を知って断念した。ルブリンやクラクフの町は、前回以上の破壊を受けたのである。 【中国侵攻】 フビライの南宋攻略は手こずっていた。これを見てモンケは、自ら軍を率いて南宋に攻め入った。遠征は順調に進んでいたが、重慶を攻略後に突然モンケは病死した(1259年)。この時、フビライは揚子江北岸に布陣していた。フビライは兄の訃報を聞いても引き上げず、揚子江を渡り南宋の奥深く進軍を続けた | ||||||||||||
不敗神話の崩壊 年表に戻る | 戦うマムルーク戦士 |
フラグ゙はエルサレム攻撃の準備中だった。モンゴル軍があと一回攻めればイスラム勢力は消滅する。その時飛び込んできたモンケの訃報、フラグ゙は一部の守備隊をダマスカスに残して撤退した。軍事情勢は一変した。まず、シドンとベイルートの十字軍が反旗を翻した。反乱はあっさり鎮圧されるが、モンゴル軍ががら空きになっていることが知れ渡った。
このチャンスに降伏寸前のマムルークは北上を開始し、フラグのいないモンゴル軍とパレスチナのアイン・ジャールート渓谷で激突した。ここはその昔、ダビデがゴリアテを倒した渓谷である。一進一退の激闘の末、モンゴル軍は破れた。イスラム軍は、ダマスカス、アレッポを奪回し、イスラム世界は窮地を脱した。
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元 | フビライ(台北・故宮博物館) |
フビライはなおも宋と戦っていた。大軍を握っていたフビライは、1260年に自らクリルタイを開き、強引にハンの座に就いた。このクリルタイにはモンゴル一門は誰も参加しておらず、オゴタイの孫ハイドゥが起こしたハイドゥの乱などハン位をめぐる争いが続いた。実力者フビライに逆らう者はいなくなったが、後の帝国分裂の火種が残った。
フビライの治世の時がモンゴル帝国の絶頂期であった。彼の威令は中国を始め、中央アジア、西アジア、ロシアなど帝国の全てに行き渡った。陸上/海上の貿易は盛んになり、東西の製品が流通した。首都はカラコルムから大都(北京)に移した。
1279年、懸案の南宋を滅ぼし大元を建国した。続いてベトナムへ侵攻、ミャンマーのパガン朝、雲南のタイ人の国:大理国を滅ぼす。しかし、ベトナムの陳朝大越国(チャン朝ダイヴェト国)は、首都ハノイを明け渡し、その後町を包囲、補給路を断つという戦法で3度にわたって元の侵攻を撃退した。
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元寇 | 博多湾に残る元寇防塁(生の松原) |
東アジアでは、朝鮮半島の高麗は服属したが、日本は若き執権北条時宗が使者の首をはねて服従を拒否した。
【文永の役】 1274年、3万の大軍が押し寄せ、対馬、壱岐、平戸を襲い博多湾沿岸に上陸した。元軍は火薬を使い、集団戦法で日本軍を苦しめた。しかし日本軍も激しく抵抗したため前進できず、博多市街に火をかけて船に引き上げた。翌日、元の大船団は姿を消していた。
【弘安の役】 1281年、南宋を制圧した元は、元・高麗の東路軍4万と旧南宋の江南軍10万の二手に分かれて侵攻して来た。日本側は博多湾沿岸に防塁を築き、関東の武士も駆けつけて迎え討った。まず、東路軍が上陸しようとするが激しい抵抗にあって海に追い落とされた。1ヶ月遅れて江南軍が到着し総攻撃の準備にとりかかった。しかし神風が発生し4000隻の軍船は壊滅した。
この年、妻のチャブンが、数年後には息子のチンキムが死んだ。
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帝国の分裂 |
フビライの後継に孫のテムルが大ハンに就くが、各ハン国は独自の道を歩み始め、大ハンが世界に君臨する時代は二度と来なかった。モンゴル帝国は、元、オゴタイ・ハン国、イル・ハン国、キプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国に分裂する。
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プレスタージョンの伝説 | マルコポーロが生まれたヴェネツィア | 「東方にはプレスタージョンの教国がある。その国には黄金の河が流れている。東方のどこかにアトランティス大陸がある」中世ヨーロッパで実際に信じられていた話である。教会は絶大な力を持ち、エルサレム奪回の十字軍を起こした。敵イスラムを粉砕するチンギスハンを東方のキリスト教国の王プレスタージョンと思い込んだ。 一方で、黄金の国ジパングを発見することが、莫大な富を得る道であった。それが冒険家たちの情熱を掻き立て、マルコポーロをはじめ命がけで未知の世界に飛び出していった。それは一部の人間だけでなく、ヨーロッパ全体が狂気のごとく動き出し、略奪の大航海時代を迎えた。 | ||||||||||||
帝国のその後 |
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年表に戻る | <参考資料> モンゴル帝国の戦い 東洋書林 詳説世界史 山川出版 http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu14.html |
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