http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98
『仏説無量寿経』のサンスクリット原典[2]である『スカーバティービューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
- 第一願
- 願名 - 無三悪趣の願
原文 - 設我得佛 國有地獄餓鬼畜生者 不取正覺 - 願名 - 不更悪趣の願
原文 - 設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺 - 願名 - 悉皆金色の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不悉眞金色者 不取正覺 - 願名 - 無有好醜の願
原文 - 設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺 - 願名 - 宿命智通の願・令識宿命の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺 - 願名 - 令得天眼の願・天眼智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得天眼 下至不見百千億那由他 諸佛國者 不取正覺 - 願名 - 天耳遥聞の願・天耳智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得天耳 下至聞百千億那由他 諸佛所説 不悉受持者 不取正覺 - 願名 - 他心悉知の願・他心智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得見他心智 下至不知百千億那由他 諸佛國中 聚生心念者 不取正覺 - 願名 - 神足如意の願・神足智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得神足 於一念頃 下至不能超過百千億那由他 諸佛國者 不取正覺 - 願名 - 不貪計心の願・漏尽智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 若起想念 貪計身者 不取正覺 - 願名 - 必至滅度の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覺 - 願名 - 光明無量の願[3]
原文 - 設我得佛 光明有能限量 下至不照百千億那由他 諸佛國者 不取正覺 - 願名 - 寿命無量の願
原文 - 設我得佛 壽命有能限量 下至百千億那由他劫者 不取正覺 - 願名 - 声聞無量の願
原文 - 設我得佛 國中聲聞 有能計量 下至三千大千世界 聲聞縁覺 於百千劫 悉共計挍 知其數者 不取正覺 - 願名 - 眷属長寿の願
原文 - 設我得佛 國中人天 壽命無能限量 除其本願 脩短自在 若不爾者 不取正覺 - 願名 - 離諸不善の願
原文 - 設我得佛 國中人天 乃至聞有 不善名者 不取正覺 - 願名 - 諸仏称名の願・諸仏称揚の願・諸仏称讃の願・諸仏咨嗟の願・往相廻向の願・選択称名願・往相正業(略文類)
原文 - 設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者 不取正覺
称讃・称名・咨嗟はともに讃歎の意味であり、名前を称える称名ではない。 - 願名 - 念仏往生の願・選択本願・本願三心の願至心信楽の願・往相信心の願
- 原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
- 訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。 / たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようとと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)[4]わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国[5] に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。[6]
法然はこの願を最も重要な願ととらえ、『選択本願念仏集』において、「故知 四十八願之中 既以念仏往生之願[7] 而為本願中之王也」と解釈したことから、「王本願」とも呼ばれる。
親鸞は『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」の真意を、「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。としている。
派生…歌舞伎などで「得意とする部分」の意味で用いられる「十八番」(おはこ)は、十八願から出来た言葉との説がある。[8]
唯除の文
第二願
第三願
第四願
第五願
第六願
第七願
第八願
第九願
第十願
第十一願
第十二願
第十三願
第十四願
第十五願
第十六願
第十七願
第十八願
親鸞は『教行信証』「信巻」や『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」についての了解を述べている。第十八願の願文のうち、「唯除五逆誹謗正法」の文言を「唯除の文」と呼ぶ。 「信巻」では「唯除の文」について、曇鸞の『浄土論註』と善導の『観無量寿経疏』から引用している。
それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今『大経』には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人」[10]と言えり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。
報えて道わく、『論の註』に曰わく、問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。
(中略)
問うて曰わく、かくのごときらの計は、ただこれ己が事なり、衆生において何の苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんや。答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。[11]
(中略)
光明寺の和尚云わく[12]、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。今この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。[13]
報えて道わく、『論の註』に曰わく、問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。
(中略)
問うて曰わく、かくのごときらの計は、ただこれ己が事なり、衆生において何の苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんや。答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。[11]
(中略)
光明寺の和尚云わく[12]、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。今この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。[13]
—『教行信証』「信巻」
『尊号真像銘文』
「大無量寿経言」というは、如来の四十八願をときたまえる経なり。「設我得仏」というは、もしわれ仏をえたらんときという御ことばなり。「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえとなり。「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。
—『尊号真像銘文』
第十九願
願名 - 至心発願の願・修諸功徳の願・臨終現前の願・現前導生の願・来迎引接の願・至心発願の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺
第二十願
願名 - 至心廻向の願・植諸徳本の願・係念定生の願・不果遂者の願・欲生果遂の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心回向 欲生我國 不果遂者 不取正覺
果遂について、親鸞は一生果遂の義。この果遂の願のままに、第十九願の仮門から第二十願の真門に入り、第十八願の弘願に転入する三願転入を説く。
第二十一願
願名 - 具足諸相の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不悉成滿 三十二大人相者 不取正覺
第二十二願
願名 - 還相廻向の願・必至補処の願・一生補処の願
原文 - 設我得佛 他方佛土 諸菩薩衆 來生我國 究竟必至 一生補處 除其本願 自在所化 爲衆生故 被弘誓鎧 積累德本 度脱一切 遊諸佛國 修菩薩行 供養十方 諸佛如來 開化恆沙 無量衆生 使立無上正眞之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之德 若不爾者 不取正覺
第二十三願
願名 - 供養諸仏の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 承佛神力 供養諸佛 一食之頃 不能徧至 無數無量那由他 諸佛國者 不取正覺
第二十四願
願名 - 供養如意の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 在諸佛前 現其德本 諸所欲求 供養之具 若不如意者 不取正覺
第二十五願
願名 - 説一切智の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 不能演説 一切智者 不取正覺
一切智によって諸法を演説する。
第二十六願
願名 - 得金剛身の願・那羅延身の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 不得金剛那羅延身者 不取正覺
第二十七願
願名 - 万物厳浄の願・所須延身の願
原文 - 設我得佛 國中人天 一切万物 嚴淨光麗 形色殊特 窮微極妙 無能稱量 其諸衆生 乃至逮得天眼 有能明了 辯其名數者 不取正覺
第二十八願
願名 - 道場樹の願・見道場樹の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 乃至少功德者 不能知見 其道場樹 無量光色 高四百万里者 不取正覺
第二十九願
願名 - 得弁才智の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 若受讀經法 諷誦持説 而不得辯才智慧者 不取正覺
第三十願
願名 - 弁才無尽の願・智辯無窮の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 智慧辯才 若可限量者 不取正覺
第三十一願[編集]願名 - 国土清浄の願
原文 - 設我得佛 國土清淨 皆悉照見 十方一切 無量無數 不可思議 諸佛世界 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺
第三十二願[編集]願名 - 妙香合成の願・宝香合成の願
原文 - 設我得佛 自地已上 至于虚空 宮殿樓觀 池流華樹 國土所有 一切万物 皆以無量雜寶 百千種香 而共合成 嚴飾奇妙 超諸人天 其香普薫 十方世界 菩薩聞者 皆修佛行 若不如是者 不取正覺
第三十三願
願名 - 触光柔軟の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 蒙我光明 觸其身者 身心柔輭 超過人天 若不爾者 不取正覺
第三十四願
願名 - 聞名得忍の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 聞我名字 不得菩薩 無生法忍 諸深總持者 不取正覺
第三十五願
願名 - 女人成仏の願・女人往生の願(法然・大経釈)・変成男子の願(親鸞『浄土和讃』)・転女成男の願、聞名転女の願(存覚『女人往生聞書』)
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 其有女人 聞我名字 歡喜信樂 發菩提心 厭惡女身 壽終之後 復爲女像者 不取正覺
第18願の別願。
第三十六願
願名 - 聞名梵行の願・常修梵行の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 常修梵行 至成佛道 若不爾者 不取正覺
第三十七願
願名 - 作礼致敬の願・人天致敬の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸天人民 聞我名字 五體投地 稽首作禮 歡喜信樂 修菩薩行 諸天世人 莫不致敬 若不爾者 不取正覺
第三十八願
願名 - 衣服随念の願
原文 - 設我得佛 國中人天 欲得衣服 隨念即至 如佛所讚 應法妙服 自然在身 若有裁縫 擣染浣濯者 不取正覺
第三十九願
願名 - 常受快楽の願・受楽無染の願
原文 - 設我得佛 國中人天 所受快樂 不如漏盡比丘者 不取正覺
第四十願
願名 - 見諸仏土の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨意欲見 十方無量 嚴淨佛土 應時如願 於寶樹中 皆悉照見 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺
第四十一願
願名 - 聞名具根の願・諸根具足の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 至于得佛 諸根闕陋 不具足者 不取正覺
第四十二願
願名 - 聞名得定の願・住定供仏の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 清淨解脱三昧 住是三昧 一發意頃 供養無量 不可思議 諸佛世尊 而不失定意 若不爾者 不取正覺
第四十三願
願名 - 聞名生貴の願・生尊貴家の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覺
第四十四願
願名 - 聞名具徳の願・具足徳本の願
原文…設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 歡喜踊躍 修菩薩行 具足德本 若不爾者 不取正覺
第四十五願
願名 - 聞名見仏の願・住定見仏の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 普等三昧 住是三昧 至于成佛 常見無量 不可思議 一切諸佛 若不爾者 不取正覺
第四十六願
願名 - 随意聞法の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨其志願 所欲聞法 自然得聞 若不爾者 不取正覺
第四十七願
願名 - 聞名不退の願・得不退転の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 不退轉者 不取正覺
第四十八願
願名 - 得三法忍の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 第一第二第三法忍 於諸佛法 不能即得 不退轉者 不取正覺
分類
慧遠・憬興
中国の慧遠と憬興(きょうごう)は3つに分類している。其々の名と分類は以下の通り。
親鸞は、「浄土三部経」と七高僧の論釈章疏に依り『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著し、「真実」と「方便」を顕かにしている。また、『教行信証』を注釈した存覚の『六要鈔』では「真実というのは、これ仮権に対す」としている。仮権はすなわち「権仮」(ごんけ)である。
最終更新 2013年11月15日
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如来の本願
親鸞聖人は、『教行信証』の中に、
「如来の本願を説きて経の宗致とす。」と説かれています。
「如来の本願を説きて経の宗致とす。」と説かれています。
阿弥陀仏(如来)の本願を説いているのが、『無量寿経』であり、
この経を浄土真宗はかなめとしています。
この経を浄土真宗はかなめとしています。
『無量寿経』には、
如来の本願をお釈迦様が48個の願として説き明かしています。
如来の本願をお釈迦様が48個の願として説き明かしています。
(代弁して解るように解き明かしています。)
当山住職の研修を兼ねて、諸師の解説を参考にして、
上記の願を味わった結果をまとめてみました。
上記の願を味わった結果をまとめてみました。
第1願
|
無三悪趣の願
|
第26願
|
得金剛身の願
| ||
第2願
|
不更悪趣の願
|
第27願
|
万物厳浄の願
| ||
第3願
|
悉皆金色の願
|
第28願
|
道場樹の願
| ||
第4願
|
無有好醜の願
|
第29願
|
得弁才智の願
| ||
第5願
|
令識宿命の願
|
第30願
|
弁才無尽の願
| ||
第6願
|
令得天眼の願
|
第31願
|
国土清浄の願
| ||
第7願
|
天耳遙聞の願
|
第32願
|
妙香合成の願
| ||
第8願
|
他心悉知の願
|
第33願
|
触光柔軟の願
| ||
第9願
|
神足如意の願
|
第34願
|
聞名得忍の願
| ||
第10願
|
不貪計心の願
|
第35願
|
女人往生の願
| ||
第11願
|
必至滅度の願
|
第36願
|
聞名梵行の願
| ||
第12願
|
光明無量の願
|
第37願
|
作礼致敬の願
| ||
第13願
|
寿命無量の願
|
第38願
|
衣服随念の願
| ||
第14願
|
声聞無量の願
|
第39願
|
常受快楽の願
| ||
第15願
|
眷属長寿の願
|
第40願
|
見諸仏土の願
| ||
第16願
|
離諸不善の願
|
第41願
|
聞名具根の願
| ||
第17願
|
諸仏称名の願
|
第42願
|
聞名得定の願
| ||
第18願
|
至心信楽の願
|
第43願
|
聞名生貴の願
| ||
第19願
|
至心発願の願
|
第44願
|
聞名具徳の願
| ||
第20願
|
至心廻向の願
|
第45願
|
聞名見仏の願
| ||
第21願
|
具足諸相の願
|
第46願
|
随意聞法の願
| ||
第22願
|
還相回向の願
|
第47願
|
聞名不退の願
| ||
第23願
|
供養諸仏の願
|
第48願
|
得三法忍の願
| ||
第24願
|
供養如意の願
| ||||
第25願
|
説一切智の願
|
如来の本願
(NO.3)
(NO.3)
経の漢文 | 現代語和文内容 | 住職の味わい |
■第11願:必至滅度の願 | ||
設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚 | わたしの国の天人や人々は正定聚に入り、必ずさとりを得ることができる。 | 自らの人格を高め、人生を創造することができる人が正定聚であり、人生の目標でしょう。この人はもう後退することなく、必ず必至滅度(涅槃)の境地に到達できるのです。 |
■第12願:光明無量の願 | ||
設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚 | 光明に限りなく、数限りない仏がたの国々を照らすことができる。 | ここからは、阿弥陀仏自身の決意表明の願です。一切衆生の上に諸仏を見出して、一人ひとりの世界を理解する。また、身放の光明を働きかけて、その徳に帰依させ、感化させる。十方衆生を助けたいという願です。 |
■第13願:寿命無量の願 | ||
設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚 | 寿命に限りなく、はかり知れない遠い未来にまで尽きることがない。 | 現在は常に未来から過去に流れている。この現在は、無限の過去をもち無限の未来をもっている。どこまでさかのぼればいいのかわからない罪悪とどこまでいけば尽きるかわからない執念の私達を、阿弥陀如来は一貫して見護り、抱きしめつづけてくださるのです。 |
■第14願:声聞無量の願 | ||
設我得仏国中声聞有能計量下至三千大千世界声聞縁覚於百千劫悉共計校知其数者不取正覚 | わたしの国の声聞の数に限りがない。世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算しても、その数を知ることができない。 | たった一つの能力や経験だけで、人間を選別することのない世界、みんなが一つの場で、如来のみ教えを聞くことのできる世界を実現しよう。そして、自己本来の仏性に眼ざめさせよう。声聞とは、如来の声を聞く人です。すべての人を選別することなしに受け入れる世界を実現しようという願です。 |
■第15願:眷属長寿の願 | ||
設我得仏国中人天寿命無能限量除其本願修短自在若不爾者不取正覚 | わたしの国の天人や人々の寿命には限りがない。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、除く。 | 信心そのものが長生の法であり、不死の法である。信心の人になれば、年齢や此の世の命ということに頓着なくなって、自分の心持ちは、長生不死の身の上になったと喜ぶことができるのです。 |
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- 浄土教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99
また「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰をいう。「浄土信仰」とも。
- 阿弥陀信仰について
- 日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つが、ともすれば偶像崇拝や、阿弥陀如来のみを尊び、他の仏を排する一神教的信仰思想に陥りやすい側面もある。
- 浄土について
- 「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原義であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし中国・日本においては、浄土教の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。
関連経典
日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。
『仏説無量寿経』
『無量寿経』の漢訳のひとつである『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)には、法蔵菩薩という名で修行していた時に「世自在王仏」の教えを受け、ほとんど無限とも言える間、思惟して四十八願を誓い、その後、修行を積み誓願を完成させ仏(阿弥陀如来)となったと説かれる。
日本において、単に『無量寿経』といえば『仏説無量寿経』を指す。
法華経には阿弥陀如来の名前が出てくるほか、『薬王菩薩本地品』には、この経典をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろうと書かれている。
歴史
インド
浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代である。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。
なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。
中国
やがて山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。 その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。
こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。
その後慧日(680年 - 748年)、善導の浄土教を基盤に、「浄土」と「禅」を並行して修法することを主張する。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。
日本
飛鳥時代・奈良時代
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。
平安時代
平安時代初期
円仁
承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧[3]に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
平安時代中期
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
空也
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。 また、空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。
源信
源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。 『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。 986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。 源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行し
慶滋保胤
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。 後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。 この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。 こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。 平安時代末期「末法」の到来 「
末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある[4]
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。
鎌倉時代
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)
また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新興宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。[5]
法然
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
親鸞
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
[6]
1181年に比叡山に登る。
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。
一遍
一遍は(1239年-1289年)は、時宗
また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新興宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。[5]
法然
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
親鸞
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
[6]
1181年に比叡山に登る。
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。
一遍
一遍は(1239年-1289年)は、時宗
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
蓮如
寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)
その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。)
阿弥陀三尊
最終更新 2013年9月24日
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仏説無量寿経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E4.BB.8F.E8.AA.AC.E7.84.A1.E9.87.8F.E5.AF.BF.E7.B5.8C
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大乗仏教
大乗仏教(だいじょうぶっきょう、マハーヤーナ, 梵: महायान, 英: Mahāyāna Buddhism)は、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。
概要
大乗(Mahā(偉大な) yāna(乗り物))という語は、『般若経』で初めて見られ、摩訶衍(まかえん)と音写され、一般に大乗仏教運動は『般若経』を編纂護持する教団が中心となって興起したものと考えられている。般若経典の内容から、声聞の教え、すなわち部派仏教の中でも当時勢力を誇った説一切有部を指して大乗仏教側から小乗仏教と呼んだと考えられているが、必ずしもはっきりしたことは分かっていない。なお思想的には、大乗の教えは釈迦死去の約700年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって理論付けされたとされる。
一方、釈迦の教えを忠実に実行し、涅槃(輪廻からの解脱)に到ることを旨とした上座部仏教に対し、それが究極においてみずからはどこまでも釈迦の教えの信奉者というにととどまるもので、自身が「ブッダ」(如来)として真理を認識できる境地に到達できないのではないかという批判的見地から起こった仏教における一大思想運動という側面もある。釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。この傾向は『般若経』には希薄だが、明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。
自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは大乗以前の仏教界で行われていたものではない。紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応えることができなくなっていたとされるが、出家者ではない俗世間の凡夫でもこの利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において成仏できる(ブッダに成れる)と宣言したのが大乗仏教運動の特色である。声聞や縁覚は人間的な生活を否定して涅槃を得てはいるが、自身はブッダとして新しい教えを告げ衆生の悩みを救える、というわけではない。が、大乗の求道者は俗世間で生活しながらしかも最終的にはブッダに成れると主張し、自らを菩薩摩訶薩と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創りだしていった。
発展の諸相
ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えはすでに大乗以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは時空間を別にしたそれぞれの世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の薬師如来などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。
この思想運動が古代から続くタントリズムと結びつき、ブッダとは非歴史的な「物自爾」ともいうべき存在(法身)の自己表現であるという視点が生まれ、その存在を大日如来と想定した。それ以前の、歴史としておもてに表れた部分(顕教)の背後に視座を置くことからこの仏教を顕教から区別して「密教」という。密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされる。心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ三密加持を行じ、みずからこの非歴史的存在を象徴することで成道できるとする「即身成仏」を唱えた。
そのほか、釈迦が入滅してから1500年が経過すると仏教はその有効性を失うとする末法思想を背景に、末法の世において娑婆世界で成道すること(自力聖道門)の困難を主張し、それを放棄することでいったん阿弥陀仏の極楽浄土へ往生してから成道すること(他力浄土門)を提唱する浄土教も起こった。
上座部仏教と大乗仏教、顕教と密教、自力門と他力門など互いに相容れないように見える教義がひとつの宗教にあることは不思議なようであるが、もちろんすべての宗派に共通しているのは仏教の証しとされる三法印である。
伝播
紀元前後より、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・朝鮮・日本・ベトナムに伝わっている(北伝仏教)。またチベットは8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアにまで拡大されていった(チベット仏教)。
7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教(Tantra または Tantrism)と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。
考古学的には、スリランカ、そして東南アジアなど、現在の上座部仏教圏への伝播も確認されている。スリランカでは東南部において遺跡が確認されており、上座部仏教と併存した後に12世紀までには消滅したようである。また、東南アジアではシュリーヴィジャヤなどが大乗仏教を受入れ、その遺跡は王国の領域であったタイ南部からスマトラ、ジャワなどに広がっている。インドネシアのシャイレーンドラ朝のボロブドゥール遺跡なども著名である。東南アジアにおいてはインドと不可分の歴史的経過を辿り、すなわちインド本土と同様にヒンドゥー教へと吸収されていった。
紀元前5世紀頃 : インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
紀元前3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
紀元後1世紀 : 中国に伝わる(中国の仏教)
4世紀 : 朝鮮半島に伝わる(朝鮮の仏教)
538年 : 日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半 : チベットに伝わる(チベット仏教)
13世紀 : タイに伝わる(東南アジアの仏教)
13-16世紀 : モンゴルに伝わる(チベット仏教)
17世紀 : カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
18世紀 : 南シベリアに伝わる(チベット仏教)
唯識
六波羅蜜
最終更新 2013年3月7日
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阿弥陀如来
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5
阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。梵名は「アミターバ」(अमिताभ Amitābha)、あるいは「アミターユス」 (अमितायुस् Amitāyus)といい、それを「阿弥陀」と音写する。「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。
典拠と信仰
浄土三部経
『観無量寿経』については、サンスクリット原典が2011年現在発見されていない。中央アジアで作成されたと考えられる。
- 『佛説無量寿経』
- 一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五劫思惟[1]し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。
- 特に浄土教諸宗においては、「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。
- 特に浄土教諸宗においては、「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。
- 『佛説阿弥陀経』
- 「極楽」のありさまと、阿弥陀仏の徳が説かれる。東方・西方・南方・北方・下方・上方世界のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されていると説かれる。そして「極楽」に生まれる方法[2]が説かれる。
浄土真宗
浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力[3]にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。
釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。
チベット仏教
チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。また、ゲルク派第二位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされる。チベット死者の書によれば、(大日如来、阿閦如来、宝生如来に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされる。
その他の経典における阿弥陀如来
浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。 法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されている。 仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されている。 大乗離文字普光明蔵経[6]においても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれている。
成立年代
阿弥陀仏信仰の成立年代とその地域については、仏像にせよ、文献にせよ、特定の手がかりとなるものが少ない。しかし、浄土系経典に用いられる仏教用語は部派仏教のそれを下敷きとしており、少なくとも部派仏教確立より以後の成立と考えられる。また浄土系経典の漢訳者の出身地は西域および北インドが多いことから、これらの地域で阿弥陀仏信仰が盛んであったことがうかがえる。
また、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア系のインド・グリーク朝やイラン系のクシャーナ朝などの支配のもと、北インドと西方世界の交流があったことを背景に、ゾロアスター教やミトラ教、あるいはキリスト教などが阿弥陀仏信仰の成立に影響したとの説も一部で見られるが、いまだ客観的根拠に乏しい。
碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。記銘によると、クシャーナ朝のフヴィシカ王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。
阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。
西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。
日本語への影響
鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。
- 十八番(おはこ)
- 前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指す。(市川家の家の芸歌舞伎十八番の台本を箱入りで保存したことからともいう。)
- あみだくじ
- あみだくじの形は元々線を中心から周りに放射状に引いたものであり、それが阿弥陀如来像の光背に似ていたことから[7]。
- あみだ被り
- 帽子やヘルメットを後頭部にひっかけるように浅く被ること。上記と同じく見た目が光背に似ていることから。
- 他力本願
- 前述のとおり努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意味を誤解・誤用した語である。
真言・陀羅尼
小咒は、オン・アミリタ・テイセイ(新義真言宗等一部宗派では『テイゼイ』と読む)・カラ・ウン。
大咒(無量寿如来根本陀羅尼)は、ノウボウ・アラタンノウトラヤーヤ・ノウマク・アリヤーミターバーヤ・タタギャタヤアラカテイ・サンミャクサンボダヤー・タニャタ・オン・アミリテイ・アミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイ・アミリタギャラベイ・アミリタシッテイ・アミリタテイセイ・アミリタビキランデイ・アミリタビキランダギャミネイ・アミリタギャギャノウキチキャレイ・アミリタドンドビソワレイ・サラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウキャレイ・ソワカ。
垂迹神
最終更新 2013年12月3日
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上座部仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99
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