公開日: 2012/12/12
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宋家の三姉妹
『宋家の三姉妹』(そうけのさんしまい、原題:宋家皇朝、英語題:The Soong Sisters)は1997年制作の香港・日本合作映画。近代中国史に大きな影響を与えた宋靄齢・宋慶齢・宋美齢の三姉妹を描いた伝記映画である。
ストーリー
中国の名士チャーリー宋の娘として生まれた三姉妹。長女の宋靄齢は大財閥の当主孔祥熙と、次女の宋慶齢は中国革命の父孫文と、三女の宋美齢は後の中華民国総統蒋介石と結婚し、「一人は金と、一人は権力と、一人は国家と結婚した」と言われた。彼女たちは辛亥革命・満州事変・西安事件・日中戦争・国共内戦と続いていく激動の中国近現代史を動かす存在となっていく……。
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宋慶齢
宋 慶齢(そう けいれい、1893年1月27日 - 1981年5月29日)は中華民国、中華人民共和国の政治家。孫文の妻。中華人民共和国副主席を務め、死の直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号を授けられた。姉の宋靄齢、妹で蒋介石夫人の宋美齢と共に総称される「宋氏(家)三姉妹」の一人である。また、弟に中華民国の政治家・実業家の宋子文がいる。
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長征
長征(ちょうせい)は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう[1]。「西遷」(せいせん)、「大西遷」ともいう。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。
共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、蒋介石率いる国民党政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。
国民政府は1930年代、「中華ソビエト共和国」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。「囲剿」戦は一般的には、第一次から第五次まで区分されることが多い[2]。但し、各次ごとの時期区分については、研究により相違がある[3]。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠く離れた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。
当時の共産党正規軍は中国工農紅軍紅一方面軍(中央紅軍)と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約10万、民兵を含めても15万に満たない兵力であったという。
1930年12月から始まった第1次 - 第4次囲剿では、国民革命軍が兵力を小出しにしたこと、また紅軍側が山岳地帯でのゲリラ戦を展開したことで、これを打ち破った。
国民革命軍の第1次囲剿は魯滌平指揮下の4個師約10万の兵力で望んだが2個師全滅、1師長を捕虜とされる惨敗、第2次囲剿は1931年4月に国民革命軍政治部長何応欽を総司令として行われたが1師長戦死、1師長捕虜となる敗北であった[4]。第3次囲剿は1931年6月中旬30万の大軍が動員され、南昌に司令部を置き、そこで蒋介石自ら督戦したものの左翼の陳銘枢麾下の第五路軍の崩壊、さらに孫連仲麾下の第26軍総参謀長趙博生以下2万が紅軍に投降するという敗北に終わり、第4次囲剿は1932年7月、15個師100万の大軍が動員されて開始されたが中共軍は東路の第1、第5両軍団と西路の第3軍団とを合わせ、初めに江西省南部に進出して陳済棠麾下の広東軍を撃破してから直ちに北上し、国民革命軍3個師を壊滅させた[5]。
瑞金の中央ソビエト区では紅軍の防衛が成功していた一方、地方のソビエト区も国民革命軍の攻撃に晒されていた。1932年9月には湖北省、河南省、安徽省にまだがる鄂豫皖ソビエト区が陥落し、張国燾の指導する紅四方面軍(総指揮官徐向前)は四川省への後退を余儀なくされた[6]。
蒋介石は第1次 - 第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の装備が貧弱であることから軍隊としての能力そのものも低いであろうと見くびっていたことにあると判断した。1933年春の第5次囲剿ではトーチカ群と経済封鎖を利用した軍事三分、政治七分の戦術を展開し、同年夏からその効果を示し、1934年初頭から投入された中央軍、広東軍、湖南軍135万に紅軍は耐えられず、同年11月から江西中央ソビエト区を放棄して「長征」を開始した[5]。
国民革命軍の包囲網に対し、当時共産党の実質的最高指導者であった秦邦憲はコミンテルンより派遣された軍事顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。周恩来・鄧小平・毛沢東らは、圧倒的優位な包囲軍に対して塹壕戦を展開するのはあまりに無謀であると反対したものの、党中央の決定は覆らず、ここに中国史上初めての中国人同士による近代的塹壕戦が展開されることとなった。
秦邦憲の考えは、「この戦いは国民党と共産党の最終決戦であり、また瑞金中華ソビエト地区の経済基盤は脆弱そのもので、戦闘を繰り返せば疲弊し、戦わずして根拠地を喪失する、よって短期に決戦を挑む、ここで勝利できなければ革命そのものが敗北する」というものであった。また、ブラウンは第一次世界大戦・ロシア革命を戦ったソ連の陸戦を模範にした軍事顧問であり、ゲリラ戦を展開する紅軍に苛立ちを覚えていたという。当時の国民党軍は中独合作に基き[7]ドイツの軍事顧問を迎えており、対抗意識も多分にあったろう。
しかし、兵力・装備とも圧倒的に不利な紅軍は順次防衛線を後退させ、ついに防衛線は首都瑞金の北辺まで後退した。1934年4月の広昌失陥に際しては1万以上の兵力を失う大敗を喫し、瑞金の陥落は避けられない情勢となった。
1934年7月、まず方志敏の率いる部隊が福建省方面へと脱出を図ったが、この隊は浙江省、安徽省を転戦した末に壊滅した。また、8月には井岡山から蕭克、王震、任弼時らの隊が脱出し、貴州省へと逃れた[8]。1934年10月、ついに共産党中央は残存の紅一方面軍8万の兵力の撤退・南下して包囲網の突破と、併せて中央指導部の移転を決定した。後に残されたのは項英・陳毅など僅かな部隊で、ゲリラ戦を展開、根拠地維持を託された。
南下を開始した紅一方面軍は、明確な目的地を示すことができなかった。ただただ逃げ惑う軍団は、それでも10月21日には国民党軍の第一次防衛線を突破、11月15日には第2・第3の防衛線を突破した。しかし、12月に湘江を渡河した紅一方面軍は3万あまりの兵力に激減していた。
ここに至り、共産党中央は湖南省西部に転進し、紅二方面軍(総指揮官賀龍)との合流を企図した。しかし、この目論見は蒋介石も見通しており、兵力を湖南省に集中させた。蒋介石は経済基盤の強い大都市の失陥を恐れ、重点的に都市を防衛したのである。
国民党軍の動きにより再び進路を失った紅軍部隊は貴州省方面へ転進した。1935年1月、長征途上唯一といっても良い都市・遵義に入城する。
(遵義会議を記した当時の文書は存在せず、また共産党からも公開されていない。以下は1949年以降共産党が出した文書を元に通説を記す)
ここまでの行軍で疲弊しきった紅軍及び党中央は遵義で10日あまりの休養を得る。この休養期間中、1935年1月15日から1月17日、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、この中で従来の共産党指導者であった秦邦憲、オットー、周恩来が批判の対象となった。周恩来は自らの過ちを認めて朱徳らと共に毛沢東を支持し、毛沢東が政治局員のリーダーに選出された[9]。しかし、海外留学経験のない毛沢東はまだ単独で共産党を指導できる立場に無く、周恩来、王稼祥との三頭政治となった。また、瑞金第5次囲剿に際して戦略的にも戦術的にも致命的ミスを起こしたオットーは更迭された。この遵義会議が中国共産党における一大転換点となっている。
遵義に中華ソビエト地区を設定した紅軍・中国共産党は、まず貴州から四川省に向かう。紅一方面軍は張国燾の指導する紅四方面軍(総指揮官徐向前)との合流を企図して貴州省から四川省北東部に入ろうとした。紅四方面軍も同様に長征中であったが、彼らの敵は国民党軍ではなく四川軍閥であった。1935年1月末、紅一方面軍は赤水河(長江の南の支流)を渡ったものの、四川軍閥に退けられ退却し、1935年3月には再度赤水河を渡ったがまたも撃退され退却し、結局赤水河を4度渡河する羽目になった(四渡赤水)。党史では、「四渡赤水」は、無目的に転戦していた紅軍が「農村から都市を包囲する」目的のための転戦へと移る転換点になったとしている。
ここでさらに西進し雲南省に入った紅一方面軍だったが、引き続き行く手には、国民党の受け入れも共産党の受け入れも拒否する少数民族と、横断山脈の急峻な山々が待ち受け、国民党軍も必死に追いすがっていた。紅一方面軍は四川盆地を迂回してその西方の山岳地帯に回り、1935年5月末には長江上流の大渡河の瀘定橋を渡った。瀘定橋を22名の決死隊が奪取した戦闘は「飛奪瀘定橋」と呼ばれ、党により長征の中の勝利の一つとして喧伝されるにいたった。西康省(チベットのカム地方、現在の四川省西部)に入り大雪山を踏破した紅一方面軍は、1935年6月、懋功県(現在の小金県)で念願の紅軍別働隊との合流を果たすが、これは当初目指していた紅二方面軍ではなく紅四方面軍との邂逅であった。この過程で国民党軍は紅軍の捕捉が不可能となり、追尾を放棄した。
紅一方面軍はカム地方各地で自治を行っていたチベット人貴族の資産を強制没収し農民を解放するなどして自治国家を築かせようとしたが、国民党政府からの要請も受けたチベットのガンデンポタン政府が紅軍に攻撃を行い、紅一方面軍はこれを逃れて北の甘粛省方面にたどり着いた。カムでの農民の見聞とガンデンポタン軍による攻撃は、その後の共産党のチベット観に暗い影響を与える。また途中で紅四方面軍の一部は党中央の北上路線を拒否し南下に転じたが、その過程で大きな損害を被った。
甘粛省では回族の軍閥・馬家軍による攻撃を受けたが、馬家軍内の親ソ派に助けられ陝西省方面へ逃れた。かくして、江西省・湖南省・貴州省・雲南省・四川省・甘粛省・陝西省と転戦、大自然・軍閥・国民党軍を相手に戦った紅一方面軍は1935年10月に忽然と陝西ソビエト区に姿を現し、1935年10月19日に呉起県(現在は延安市に属する)にたどり着き、ここで紅一方面軍の長征の完了を宣言した。一部の部隊は甘粛省から西進し、新疆まで達してソビエト連邦との連絡に成功している。
貴州省にいた紅二方面軍も1935年11月19日、紅一方面軍の後を追うように長征を開始して雲南省に入り、金沙江と玉龍雪山を越え、そこから北上して横断山脈を越えた。1936年7月始め、紅二方面軍は途中の甘孜県で当地に留まっていた紅四方面軍と合流した。1936年10月22日、静寧県将台堡で紅二方面軍と紅四方面軍は紅一方面軍に合流し(三軍会師)、これにより長征は完了した。
この過程で8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。
長征の過程で内部粛清もあり共産党軍が延安に着いた時は壊滅状態になった。コミンテルンの資金援助で何とか食いつないでいる状態であった。共産党はこの逃避行を英雄叙事詩に仕上げて、「長征の過程で多くの革命根拠地を設営し、数千万の共産党シンパを獲得した。そもそもが戦略の失敗で始まった長征であったが、巨大な革命の種まき期であった。物資の調達などで略奪を厳禁したので、このことにより中国共産党に対する人民の信頼を勝ち得た」と宣伝しているが、実際は人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収、そして小作人からの「革命税」徴収によって食いつないだというのが実態であり、一概に「信頼を得た」とは言い難い。なお、この手法は後のセンデロ・ルミノソなどの共産ゲリラによって引き継がれた。
壊滅状態から復活し得たのは、コミンテルンの指示で国民党との協力に抗日統一戦線結成の呼掛けて方針を転換したのと、西安事件と盧溝橋事件の発生により、国民党蒋介石政府が剿共政策から抗日の為に国内統一政策に優先順位を切り替えざるを得ない状況に追い込まれた為である。
最終更新 2013年5月4日 (土)
エドガー・スノー
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http://en.wikipedia.org/wiki/Edgar_Snow
エドガー・スノー(Edgar Snow、1905年7月17日 - 1972年2月15日)はアメリカのジャーナリスト。中国大陸の近代事情、特に親しかった中国共産党に関する作品により著名である。
エドガー・スノーはミズーリ州カンザスシティで生まれた。ミズーリ大学コロンビア校でジャーナリズムを専攻したが、父の学費負担を苦痛に感じて1年で退学、ニューヨークの兄のもとに移り、コロンビア大学に入学した。その後、広告代理店勤務を経てルーズベルト汽船(セオドア・ルーズベルトの息子が経営)の船のデッキボーイになり、1928年から世界一周の旅に出かけ、日本に密航したりした。同年、世界恐慌前の中華民国へ渡り、蒋介石ら国民党幹部らに会って記事を書く。
1929年には「コンソリデーティッド・プレス・アソシエーション (Consolidated Press Association) 」の上海記者となってアジア各国を精力的に取材して回った。1932年にはジャーナリスト志望のアメリカ人女性ヘレン・フォスターと東京のアメリカ大使館で結婚した。彼女はのちに、スノーが考えたニム・ウェールズというペンネームで『アリランの歌』を著している。アジアへの新婚旅行の最中にハーバート・ジョージ・ウェルズやジョージ・バーナード・ショーらのフェビアン主義に触れ、欧米の帝国主義および日本の帝国主義・軍国主義に反感を抱く。
1933年には北京に行き、パール・バックやジョン・フェアバンクと交流。1935年の日本による中華民国北部侵攻に反感を抱き、「抗日戦線の鍵は中国共産党にあり」、と考えて党本部への取材を求める。1936年にスノーは宋慶齢から紹介状をもらい、長征後の共産党が本拠としていた延安に向かった。長征により兵力の大半を失い、抗日戦線のための中国人の団結を訴えたかった毛沢東との利害とが一致し、スノーはついに毛沢東ら幹部と出会う。--Tokyoballetomane(会話) 2013年9月30日 (月) 03:18 (UTC)--Tokyoballetomane(会話) 2013年9月30日 (月) 03:18 (UTC)
1941年に中華民国を離れるまで、ジャーナリストとして数多くの記事を書き、本を執筆している。この間、北京の中華民国政府にも仕え、燕京大学(後に北京大学に吸収)で教鞭を執ったりした。1937年に彼は後に有名となる作品『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』を出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。
日中戦争が激しさを増した1941年にスノーはアメリカへ帰国し、『アジアの戦争 (The Battle for Asia) 』を出版。『赤い星』の愛読者だったフランクリン・ルーズベルトは、1942年に面会した後にスノーを非公式な情報提供者に任命。しかし、『赤い星』はソ連・コミンテルン、中華民国にいた共産党シンパの欧米人やスターリニストだった宋慶齢らから非難を浴びた。
戦後になり、1949年に離婚して女優ロイス・ウィーラーと再婚。マッカーシズムが盛んな1950年代には、ロイスの女優業が挫折したこともありアメリカを出国し、スイスに移り住んだ。その後1960年に、国共内戦の結果1949年に中国共産党により設立された中華人民共和国へと渡り毛沢東、周恩来と会談した。そのときの記録『今日の赤い中国 (Red China Today) 』では、大躍進による大飢饉を否定するなど、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批判され、スノー自身も自らの無知を認めている。
その後1964年から1965年にも訪中したが、そのとき毛沢東は「ベトナム戦争へのアメリカ介入が国内の団結に役立っている」と評価し、中国大陸における中国共産党による赤化革命成功には、「(彼らの敵であった)蒋介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。
1970年から1971年、妻を伴った最後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述べている。しかしこの時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇帝崇拝の伝統がある」と言った)や、革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・拷問された(周恩来の介入で彼は生還できた)ことなどにより、中国共産党率いる中華人民共和国に対して幻滅の感を持つにいたる。
一方で、唐聞生(ナンシー・タン)を通訳とした毛沢東との会談(1970年12月18日)で、毛沢東が自分のことを「和尚打傘(=無髪無天wú fā wú tiān≒無法無天wú fǎ wú tiān=「やりたい放題」というシャレ)」と言ったのを、文字通りの「傘を手に歩む孤独な行脚僧」と誤解して、毛沢東の意外な一面としてアメリカの雑誌ライフに紹介している[1]。
スノーは1972年にジュネーヴで癌で死亡した。その62時間後にリチャード・ニクソン大統領の中華人民共和国訪問が行われている。遺灰の一部はアメリカ、そしてかつて教鞭を執った北京大学に埋葬された。
当時中国における小勢力にすぎなかった共産党に注目し、その詳細なレポートを行ったスノーの著作は現代中国史における古典的な作品とされている。
スノーは共産主義者ではなかったが、中国共産党を紹介する彼の著作物は、彼の死後も中国政府によってプロパガンダとして利用されている。中国では「スメドレー・ストロング・スノー協会」が組織されており、プロパガンダ映画も作られている。また、共産党に都合よく改竄した『赤い星』が出版されている。夫人ロイス・ホイーラー・スノーは2006年のインタビューで、「彼は今日の中国の姿を決して是認しなかったでしょう」と語り、中国政府のやり方を批判している[2]。
スノーは中国共産党に出合う前から、満州事変などに直面して日本に反感を持っており、1934年の処女作『極東戦線 (Far Eastern Front) 』では、「田中メモランダム」[3]という名で田中上奏文に触れて、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造したことを紹介したのち、次のように満州事変頃の日本の侵略性について述べている。
- 「もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである[4]」
この『アジアの戦争』は、のち『東京裁判』における検察側冒頭陳述や「南京大虐殺」、更にGHQの占領方針と占領政策の基盤となった。米国の日本政策の根拠ともなったこの本について、鈴木明らは錯覚と誤解の上に築かれているとして批判している[6]。
主な著作と伝記
松岡洋子訳 『中国の赤い星』(筑摩叢書、1975年/ちくま学芸文庫 上下巻、1995年)、ISBN 4480081925、ISBN 4480081933
松岡洋子訳 『目ざめへの旅—エドガー・スノー自伝』(筑摩叢書、1988年)ISBN 4480013229
他に筑摩叢書版は『アジアの戦争-日中戦争の記録』と、『極東戦線 一九三一~三四 満州事変・上海事変から満州国まで』
1972~74年に、筑摩書房で「著作集 全7巻」が出版された。書目は上記と『今日の中国-もう一つの世界』(上下)、『革命はつづく』。
ロイス・ホイーラー・スノー編 『抗日解放の中国 : エドガー・スノーの革命アルバム』 (サイマル出版会、1996年)
ニム・ウェールズの回想記 『中国に賭けた青春 エドガー・スノウとともに』 (春名徹・入江曜子訳、岩波書店、1991年)
最終更新 2013年11月27日
http://1000ya.isis.ne.jp/0188.html
中国の赤い星
筑摩書房 1952・1964・1995
ISBN:4480081925
Edgar P.Snow
Red Star Over China 1938・1944
[訳]松岡洋子
毛沢東。この名は魔術的である。20世紀最大の謎の指導者でもある。アンディ・ウォーホルが毛沢東とマリリン・モンローを派手な色づかいのシルクスクリーンに真っ先にしたのは、そうした毛沢東の社会的本質を暗に言い当てていた。
ウォーホルという男はそういうカンだけはやたらに冴えている。ただし、そこには色と形があるだけで、毛沢東を解くどんな目もない。ウォーホルの目は死んでいる。
毛沢東は中国共産党を同志とともにおこして国共合作を工作し、巧みに中国を共産主義革命に導いた。中華人民共和国を樹立し、その指導者として長きにわたって君臨したまま、1966年には林彪とともに文化大革命を提唱して全土に紅衛兵をめぐらし、世界にマオイズムの教条を喧伝した。にもかかわらず、1976年の死の直後から根強い毛沢東批判がくすぶりはじめ、ついに1981年にはその思想と運動が公式に「誤り」とされた。
虐殺のかぎりをつくしたとか、侵略のかぎりをつくしたというのではない。つねに人民の圧倒的支持をえていた指導者なのに、その生涯のエピローグは黒々と塗り潰されたのだ。毛沢東が「公式に誤り」だったとは何事か。
もともと毛沢東にはものすごい細部がある。のちの歴史を動かす人物との出会いと確執がある。これは時代を動かした人物なら誰にもおこっていることであるが、その大半が秘密裏に進捗していたという例はあまりない。最後の最後まで失脚しなかったという例もあまりない。
天才的な革命家だった。また天才的な軍事戦略家だった。農民哲学者であってマルクス主義者であり、むろん最高のポリシーを心得た実践的政治家であった。
おそらくどんな20世紀の革命家とも政治家とも支配者とも、似ていない。チャーチルやルーズベルトやケネディとは似ても似つかないし、ガンジーやチトーやナセルともちがう。言わずもがなとはおもうが、ヒトラーとはまったく逆である。カストロやホーチーミンとも似ていない。わずかにスターリンと比較されてもよいが、スターリンは毛沢東ほど人民に愛されてはいなかった。
しかし、誰もがその本心を覗けなかったのだ。国外からはむろんのこと国内においても、同志にさえ、毛沢東は本心をあかさなかったようだ。
たとえば、1918年、毛沢東は25歳で湖南第一師範学校を卒業して北京大学の図書館主任になっているのだが、そこで毛沢東を助手にしたのは李大釘で、その李とマルクス主義研究会を組織したのは陳独秀だった。1920年に毛沢東が湖南に社会主義青年団を組織したとき、その団員の中に劉少奇がいた。しかし、このような人物との交差について毛沢東はその“意味”をあかしてこなかった。またたとえば、1929年に江西省瑞金地域にソヴィエト政府が樹立された。これをなしたのは毛沢東と朱徳である。このあと毛沢東の地域ソヴィエト運動と都市暴動派とのあいだに激しい軋轢がおこる。そこで彭徳懐が指導する紅軍が長沙を攻撃して蒋介石がこれを逆襲するのだが、このとき毛沢東の最初の妻と妹が死んでいる経緯を、毛沢東は話してこなかった。
歴史が歴史にならないのである。いや、操りつづけたのかもしれない。そうでないのかもしれない。
そこすらわからないのだが、すべてのドラマが毛沢東という人物に集約されるとは、最初のうちは少なくとも誰も考えてはいなかったのである。毛沢東は脇役ではないが、主役の一人だとおもわれていた程度であって、たった一人の主役ではなかった。そうでないとすれば、誰がいったい毛沢東がマルクス主義者や共産主義者なのではなく、“毛沢東主義者”だと思えたろうか。
その毛沢東に外国人のジャーナリスト、エドガー・スノーだけが親しく近づいた。そして、当時は誰もがスノーが本書で伝えた毛沢東の言葉を、毛沢東の本心にいちばん近いものと受けとった。それだけの説得力があった。
スノーは1936年に最初に会見し、39年、60年、65年、70年と会見を続けている。これは申し分ない関係である。ほかにこんなことができのは、世界に一人もいないのだから。
だからこそ、本書はむさぼるように世界中で読まれ、世界中でそのドキュメントの全体が“信用”されたのである。スノーの誠実な人柄やジャーナリストとしての有能な観察力がそうさせるだけのものを放っていた。
スノーは1936年に最初に会見し、39年、60年、65年、70年と会見を続けている。これは申し分ない関係である。ほかにこんなことができのは、世界に一人もいないのだから。
だからこそ、本書はむさぼるように世界中で読まれ、世界中でそのドキュメントの全体が“信用”されたのである。スノーの誠実な人柄やジャーナリストとしての有能な観察力がそうさせるだけのものを放っていた。
しかしそうであるだけに、いまになって毛沢東の謎が深まれば深まるほど、スノーが毛沢東を見た目と、毛沢東がスノーに語り託した事実との関係が、いま現代史の最も難解な交点として異様に浮かび上がるのである。
もうひとつ、本書には重要な交点が重なっている。中国における日本の容赦ない蹂躙の軌跡だ。
毛沢東が抗日統一戦線の勇者でればあるほど、本書は日本の侵略をいきいきと描き出すことになっている。このことを西側がどう読むかは、スノー自身が1968年版の序文に適確に説明している。中国が日本を叩いてくれるのか、西側はそこだけに関心をもっていたとき、本書が欧米の読者の前に躍り出たわけだった。
毛沢東が抗日統一戦線の勇者でればあるほど、本書は日本の侵略をいきいきと描き出すことになっている。このことを西側がどう読むかは、スノー自身が1968年版の序文に適確に説明している。中国が日本を叩いてくれるのか、西側はそこだけに関心をもっていたとき、本書が欧米の読者の前に躍り出たわけだった。
本書が好意的な注目をあびたのは、西欧列強がおのれの利益のために中国に奇跡がおこることを求めていた時期に、おそらく合致したからでもあろう。
西欧列強は、中国に新生のナショナリズムが台頭して、日本を窮地におとしいれ、日本がその真の狙いである西欧列強の各植民地に手出しできなくなることを夢想していたからである。
本書に描かれた出来事は、その年代だけを特定すれば1936年から翌年までの2年間のことだけである。この1936年はどういう年だったかというと、中国共産党がそれまでの内戦を停止し、抗日統一戦線に切り替える方針を出した年であり、12月には蒋介石が張学良に逮捕されるという西安事件がおきた年だった。
けれどもそれが決定的だった。この年に中日戦争(日中戦争)の大規模な戦火が発端し、そのまま8年にわたって戦場が血まみれに拡大し、そのまま第二次世界大戦となっていったからである。そうなってから毛沢東に会うことは不可能だったろう。スノーは最もギリギリの時点で毛沢東に会い、中国共産党の台頭期の経緯の詳細を知り、それを初めて世界に伝えたのだった。
もっとも本書は毛沢東を中心に描かれたドキュメントではない。むろん評伝ではない。そこはまちがわないでほしい。
本書は、西側にまったく知られていなかった「赤い星の土地と人民」を見聞した記録なのである。登場人物もそうとうな数にのぼるし、その大半が1970年前後まで、中国の全体を牛耳る指導者群だった。本書には100名近い主要人物の略伝がスノー自身の鋭い目で付録されている。
ぼくに本書を勧めたのは父である。ときどきそういうことをする父だった。ただし、父は孫文と周恩来が好きだったようだ。
その本は手元にないが、筑摩叢書に入る前の翻訳書『新版・中国の赤い星』といった書名だったとおもう。読む気はまったくなかったのだが、岩波新書の『中国現代史』を読んだのがおもしろく、ついつい読みはじめた。
ずいぶん奇妙な興奮に陥ったおぼえがある。必ずしも高揚したのではない。興奮したが、そこに落ちていった。いわば興奮をともなう落下感があったのだ。ともかく日本の侵略のやりくちに驚いた。ついで、農民という力をいやというほど見せつけられた。それでもなんだか爽快なものもある。三国志を現在的に書けばこうなるのかなというような、次から次におこる事態の進展が説得力に富んでいたせいでもあった。
なかで、やっぱり毛沢東が異様だったのである。それは毛沢東がぽつぽつと自分の生い立ちを語りはじめるのが第4部になってからのことだったからかもしれない。しかし、結局は途中で放棄した。全部を読んだのは、筑摩叢書に入ってからのことで、それも文化大革命がおこってからのことだった。あまりにも毛沢東の話題がぼくの周辺に満ちていたからである。
その本は手元にないが、筑摩叢書に入る前の翻訳書『新版・中国の赤い星』といった書名だったとおもう。読む気はまったくなかったのだが、岩波新書の『中国現代史』を読んだのがおもしろく、ついつい読みはじめた。
ずいぶん奇妙な興奮に陥ったおぼえがある。必ずしも高揚したのではない。興奮したが、そこに落ちていった。いわば興奮をともなう落下感があったのだ。ともかく日本の侵略のやりくちに驚いた。ついで、農民という力をいやというほど見せつけられた。それでもなんだか爽快なものもある。三国志を現在的に書けばこうなるのかなというような、次から次におこる事態の進展が説得力に富んでいたせいでもあった。
なかで、やっぱり毛沢東が異様だったのである。それは毛沢東がぽつぽつと自分の生い立ちを語りはじめるのが第4部になってからのことだったからかもしれない。しかし、結局は途中で放棄した。全部を読んだのは、筑摩叢書に入ってからのことで、それも文化大革命がおこってからのことだった。あまりにも毛沢東の話題がぼくの周辺に満ちていたからである。
今宵、ぼくは「ちくま学芸文庫版」の上下2冊をかたわらにおいて、これを綴っている。
手の中に入る文庫本で『中国の赤い星』を読むのは変な感覚である。2冊に分かれているのも、年表や略伝が上下に分かれているのも、なんだか客観的な気分になってしまう。読書というものがそうしたアフォーダンスをもっていることは、これまでもむろんしばしば体験してきたことだが、それがスノーのようなある意味ではピュアなジャーナリストの本にさえおこることは、いまのぼくには新鮮だ。しかし、「そうだ、ひょっとしたら」とおもってページを繰っていたのだが、残念ながらここには新たな毛沢東像は見えてはこなかった。
そのかわり、かつて世界が毛沢東を見ていた目がどういうものであったか、ようするにウォーホルが毛沢東をシルクスクリーンにした理由は、やはりこの本から出発したものだということがはっきりと伝わってきた。そういう意味で、本書はノンフィクションの正真正銘の古典なのである。
手の中に入る文庫本で『中国の赤い星』を読むのは変な感覚である。2冊に分かれているのも、年表や略伝が上下に分かれているのも、なんだか客観的な気分になってしまう。読書というものがそうしたアフォーダンスをもっていることは、これまでもむろんしばしば体験してきたことだが、それがスノーのようなある意味ではピュアなジャーナリストの本にさえおこることは、いまのぼくには新鮮だ。しかし、「そうだ、ひょっとしたら」とおもってページを繰っていたのだが、残念ながらここには新たな毛沢東像は見えてはこなかった。
そのかわり、かつて世界が毛沢東を見ていた目がどういうものであったか、ようするにウォーホルが毛沢東をシルクスクリーンにした理由は、やはりこの本から出発したものだということがはっきりと伝わってきた。そういう意味で、本書はノンフィクションの正真正銘の古典なのである。
参考¶エドガー・スノーにはすばらしい著作がいっぱいある。処女作は日本の満州・モンゴル侵略を現地でルポルタージュした『極東戦線』で、本書の後編にあたる中日戦争のドキュメントは『アジアの戦争』になっている。本書の注にあたる『中共雑記』という本もある。自伝もあって『目ざめへの旅』としてまとまっている。そこにはスノーが中国を理解するきっかけになったのは宋慶齢との出会いからだったということが淡々と告白されている。孫文夫人のことである。ちなみにスノーの最初の夫人は『アリランの歌』で有名なニム・ウェールズ、次の夫人は女優で中国演劇の紹介者でもあるローイス・ホイーラーだった。なお翻訳者の松岡洋子さんは、この手の翻訳者の最高峰の人。
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