2013年12月5日木曜日

東トルキスタン East Turkistan 新疆ウイグル自治区Xinjiang

東トルキスタン独立運動

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E8%A7%A3%E6%94%BE%E7%B5%84%E7%B9%94

東トルキスタン独立運動(ひがしとるきすたんどくりつうんどう)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区における、ウイグル人、カザフ人、キルギス人等のテュルク系民族の独立運動

概要
元々、東トルキスタンが新疆と呼称されたのは、大清帝国の時代に遡る。 その後、幾多の民族同士の摩擦を経験しながら、1912年の辛亥革命により建国された中華民国に置いて、新疆省が置かれていた。

1949年、中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京政治協商会議に招いた。しかし、8月27日北京に向かったイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内で消息を断ち(現在も原因不明)、首脳を失ったイリ政府は混乱に陥った。残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが、急遽政治協商会議に赴き、共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。12月までに人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された[1]( ウイグル侵攻)。1955年には民族区域自治の適用を受けて新疆ウイグル自治区となった。

また中華民国政府は、現在も新疆省を呼称しており、共産党の統治を認めておらず、中共の政策を批判している。

こうした不満を背景に、中国内外の運動組織が、テュルク系住民の中国からの分離独立を主張しており、中国統治の枠内での民族自治の拡大や、人権状況の改善を目指す活動と合わせて広義の独立運動として言及されることが多い。

これに対して、中国政府は、 西部大開発に象徴される大規模な経済的梃入れを新疆に実施し、住民の生活水準を向上させることで独立機運の沈静化を図る一方、分離主義に結びつくものとして、民族主義を鼓吹する動向に対しては過剰ともとれる厳しい取締りを実施している。
 
歴史

東トルキスタン共和国

満洲人による大清帝国漢民族による辛亥革命などにより崩壊すると、ウイグル民族もチベット民族やモンゴル民族と同様に独立国家設立を目指した。中華民国を建国した漢民族は中国本土から勢力を広げて東トルキスタン、満洲、モンゴル、チベットなどの旧大清帝国の統治下にあった各民族の居住地域の支配を目指した。これに対して、ウイグル民族は2度にわたり東トルキスタン共和国を建国したが、漢民族を主体とする中華民国中華人民共和国の侵攻により瓦解した。
 
1950年代以降
1955年に成立した新疆ウイグル自治区では、1957年反右派闘争により、少数民族出身の党幹部の多くが粛清された。1958年から開始された大躍進政策の失敗は、住民から多くの餓死者を出すこととなった。1966年には、新疆にも文化大革命が波及し、中国本土から派遣された紅衛兵により、旧文化の象徴と目されたモスクや、宗教指導者に対する迫害が行われた。1967年には、紅衛兵同士の武装闘争に少数民族が動員され、多くの死傷者を出すなど、新疆の社会情勢は大混乱に陥った。
1980年代
文化大革命における様々な弾圧を経て、東トルキスタンでは反漢感情が高まった[2]。1981年10月には「反キタイ(反漢)」「イスラーム共和国万歳」というスローガンが出た[2]
1982年4月、事態を重く見た中国政府は新疆における宗教問題と民族主義の問題を集中的に議論し、民族政策の転換を図った。1980年代には、言論統制が緩和され、中国政府により、文革中に破壊されたモスクの修復や、アラビア文字を使ったウイグル語正書法の策定などの民族文化の振興が行われた。また、イスラームに対する禁圧も解除され、文革中に迫害された宗教指導者が復権した。こうした状況を受け、ウイグル人住民の中からも、民族文化の振興だけでなく、民族自治の拡大や、中華人民共和国からの独立を主張する動きが現れた。
1980年代には、新疆省での紛争は漢族の大量入植や、中国政府による核実験への抗議を行った1985年の12・12事件、1988年の6・15事件、北京での民主化デモが波及したものとされる1989年の5・19事件などが、頻発した[3]
天安門事件が起きる直前の1989年5月には、ウルムチ市内でウイグル人、回族の数千人のデモ隊が政府庁舎に乱入する事件が発生した[2]。きっかけはイスラームを侮辱する内容の書物『性風俗』が上海で発行されたことだった(『性風俗』発行問題[2])。
 
1990年代
バリン郷事件

天安門事件の翌年の1990年4月5日から6日にかけて、カシュガルから30kmほどに位置する新疆西部クズルス・キルギス自治州アクト県バリン郷においてバリン郷事件が発生した。4月5日未明、郷政府を襲撃したウイグル人住民230名余りが、コーランを唱えデモを行った。「聖戦による漢人駆逐」というスローガンも出された[2]
説得に応じなかったデモ隊に対して郷政府所属中国人民武装警察部隊が出動、銃撃を行い、銃撃戦となった。デモを指導したツェディン・ユスプら15名が射殺された[4]。国際人権救援機構(アムネスティ・インターナショナル)は死者50名、6000名が「反革命罪」で訴追されたと報告している[5][6]
デモの中心になったのはキルギス人で、「われわれはトルキスタン人だ」と主張し、入植した漢民族の追放、新疆省での核実験や産児制限への反対、自治の拡大が求められた[7]
前年6月の天安門事件を踏まえて中国政府および現地郷政府当局は「反革命武装暴乱」「東トルキスタン共和国の樹立を目指す分離主義による暴動」と認定しているが、毛里和子は中国政府らによる認定について「数頭の馬、斧、少将の手榴弾で“武装”したたった200人余りの“暴徒”が共産党の支配を覆し新疆を独立させることができるは、誰が考えても現実的ではない」と指摘している[6]。バリン郷事件以降、自治区党顧問委員会主任の王恩茂は「新疆は古代から中国の領土だった」と各地で演説した。王恩茂は1949年8月に新疆に入った中国人民解放軍司令官で、新疆生産建設兵団を設立した人物である。

作家トルグン・アルマス逮捕
1991年ソ連邦の崩壊による中央アジア諸国の独立は、ウイグル人の政治的な独立を求める機運を高めた[8][9]。それにともない、危機感を強めた中国政府による知識人や民族エリートに対する引き締めが強化された。
1991年にはウイグル人作家トルグン・アルマスの著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であると公的に批判され、著作が発禁処分となったほか、著者も軟禁状態に置かれた。
同1991年には、北新疆や南新疆の各都市で反政府デモが発生し、武力衝突にいたった[10]
1993年には、反政府とみられる爆破事件が発生している[10]
キルギスタン・カザフスタンの人物による批判
1994年にキルギスタン国会議員ヌルムハメド・ケンジェフカザフスタンのウイグル協会会長アシール・ワヒジは、新疆のトルコ系住民のほとんどは強い反漢主義を持つが、中国共産党政府による支配が巧みで統一運動が組織できないこと、また、ロシアと異なり中国は文化的違いを認めないため、民族文化が消滅するとして批判している[11]。また両者はロプノルでの核実験を批判している。1964年以来、新疆ウイグル自治区ロプノール湖は核実験場として使われ、1996年までに核実験が45回に渡り実施され、1980年までに行なわれた核実験は、地下核実験ではなく地上で爆発させた。物理学者高田純は、核実験によって東トルキスタン)の広範囲の土地が放射能で汚染され、現地ウイグル人ら19万人が急死、急性の放射線障害などによる被害者が129万人に達するとしている[12]ウイグル人医師のアニワル・トフティは、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が他の地域に住む漢民族と比べて35%も高く、漢民族であっても新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいるものは、悪性腫瘍の発生率がウイグル人と同程度としている[13]
 
ワッハーブ派による抗議
1995年7月には南疆ホータン市で、イスラーム原理主義(復興主義)の立場にあるワッハーブ派が、イスラーム共和国樹立を訴えた[10]。当局はこのモスク管理者を解任したが、これに際して「中国共産党は宗教に干渉するな」と抗議デモを行い、警察に鎮圧されている。
 
アルンハン・ハジ暗殺未遂事件
1996年2月から5月にかけて、アクス、カシュガル、クチャで反体制勢力によるテロ事件や爆破事件が発生し、死者も出ている[10]。同年4月にはカシュガルやクチャで紛争が発生し、またカシュガル最大のモスクであるマイティガル寺院の最高責任者アルンハン・ハジ暗殺未遂事件が起こっている。ハジは中国政府寄りの人物で、一部で銃撃戦となり、9名が死亡、1700名が「新疆分裂主義者」として逮捕拘禁された。
 
中国政府による大規模な経済投資計画
1996年8月、中国政府は、新疆ウイグル自治区への大規模な経済投資を発表する[10]。同地区における石油・天然ガス資源開発の促進のみならず、経済発展によって社会不満を解消すること、そして独立運動を含めたウイグル問題への対処も戦略のなかにあるともいわれる[10]
 
グルジャ事件
1997年2月5日にはイリ・カザフ自治州グルジャ(イニン、伊寧)市内にて、大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出したグルジャ事件が発生した(イニン事件とも)[14]
中国側は「共産党政権の転覆を目的として民族分裂主義者の破壊活動」とした。4月24日にはイリ中級法院伊寧市人民法院は公開裁判をひらき、暴動の首謀者ユスプ・トルソンら3名を死刑に処した。
中国当局は、東トルキスタンの民族運動の高揚を分離主義に繋がるものとして警戒し、「厳打」と呼ばれる厳しい取締りを実施している。アムネスティ・インターナショナルが「非公式の情報源」として伝えるところによれば、グルジャ事件(イニン事件)では事件後1,000名以上が逮捕され、30名が処刑されたとされる[15]。なお香港では600名が負傷、不明者150名、逮捕者1500名と報道され[16]、カザフスタンの東トルキスタン統一革命民族戦線は、漢族住民55名、ウイグル人20名が死亡したと発表している。
 
ラビア・カーディルの逮捕
1999年には全国政治協商会議の場で中国政府の民族政策を批判した実業家のラビア・カーディルが国家機密漏洩罪で逮捕、投獄された。ラビアは新疆におけるウイグル人の人権状況改善を党・政府に対して積極的に訴えていた共産党員であり、1996年の政治協商会議では、漢民族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行っていた。公安当局は、ラビアの夫シディク・ハジ・ロウジによる翻訳(グレイヴァー「中ソ関係」[注 1])とともにラビアの演説を問題視し、ラビアは1997年に全ての公的役職から解任された。1999年8月13日、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。
ラビアの逮捕は、中国内外のウイグル人社会に大きな衝撃を与え、国外のウイグル人を中心に、中国政府にラビアの釈放と、ウイグル人への人権侵害の停止を要求する運動が展開された。こうした運動は、欧米社会の関心を集め、アムネスティ・インターナショナルヒューマン・ライツ・ウォッチなどの人権団体による支援も行われるようになった。
 
2000年代
中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、1996年には上海ファイブ2001年には上海協力機構を設立し、国内のイスラム原理主義勢力の伸張を警戒するロシアや中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。また、2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降、中国政府はブッシュ政権の唱える「対テロ戦争」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。米国のアフガニスタン侵攻では、アフガニスタンで拘束され、グァンタナモ米軍基地に収監されたウイグル人捕虜の中国への送還を米国に要請している。
2003年には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語の使用が中国政府によって義務付けられた。
2005年ライス米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。ラビアは米国に亡命し、のち世界ウイグル会議議長に選出され、2006年にはノーベル平和賞候補にもなった。
2006年から2009年にかけて14歳から25歳までの未婚ウイグル女性30万人が就業の名目のもとで強制的に中国各地に送致された[17]。これを拒むものは分裂主義者、テロリストのレッテルが貼られてしまうため、ウイグル人は民族同化を行うためのものであるとして中国政府の政策を非難している[17]
 
2008年3月には、新疆南部のホータン市で、600名を超える当局への抗議デモが発生した[18]

2009年ウイグル騒乱
2009年6月には、広東省韶関市の玩具工場で漢民族従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出したと報じられ[19][20]、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と武装警察が、ウルムチ市内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した[21]
2009年7月5日ウルムチ事件では、中国当局は死者は197人でありほとんどが漢民族としているが、事件以降、ウイグル人1万人が行方不明となっている[17]2010年1月30日には博訊新聞網によって事件発生日の状況が報じられた[22]7月5日、ウルムチでは事前に情報をつかみデモに備えていた武装警察隊によってデモは包囲され無差別に一斉射撃が行われ、事件当日だけでも1,500人のウイグル人男女が射殺されて、遺体は軍のトラックで運び出されたとしている[22]。また騒乱直後の2009年7月にラビア・カーディルが二度目の来日を果たしたが、中国外交部の武大偉副部長は宮本雄二駐中国大使を呼び、「日本政府が即刻、カーディルの日本での反中国的な分裂活動を制止することを求める」と述べ中国政府の強い不満を表明した[23]。中国政府は、カーディルが騒乱の黒幕だと断定している[23]
 
運動組織
中国国外の活動
東トルキスタンにおけるテュルク系民族の運動組織は、初期の抵抗運動を除き、中国国外に運動拠点を置くものが多い。1949年に行われた中国人民解放軍の新疆進駐直後には、アルタイ地区ゲリラ活動を続けたカザフ人軍人のオスマンや、クムル市で武装闘争を続けたウイグル人の中国国民党幹部ヨルバルスらの活動がみられたが、オスマンは1951年に処刑され、ヨルバルスは台湾に亡命するなど、いずれも早期に鎮圧された[24]
中国国外における初期の運動組織は、人民解放軍の新疆進駐直後に新疆を脱出した亡命者によって組織された。初期の亡命者が集中したトルコでは、元新疆省政府幹部のエイサ・ユスプ・アルプテキン東トルキスタン難民協会を組織した他、サウジアラビア台湾に亡命する者も少なくなかった。
大躍進政策の失敗により、多くの餓死者が出た1962年4月から6月には、当時中国と対立していたソ連の工作により、約6万人のイリ・カザフ自治州ウイグル人、カザフ人らがソ連側に亡命する事件が発生した(カザフの新疆脱出を参照)。彼らの子孫は、現在でもカザフスタンキルギスウズベキスタン等の中央アジア諸国にコミュニティを形成しており、中国からの亡命者の受け皿となっている。特に中央アジア諸国で最大のウイグル人コミュニティを抱えるカザフスタンでは、1991年のソ連邦の解体以降、ウイグル民族主義の機運が高まり、武装闘争も辞さない過激派組織も組織された。
近年では、在外亡命者社会でも、中国統治下で教育を受けた若い世代の亡命者が増えつつあり、トルコ中央アジア諸国だけでなく、ドイツスウェーデンアメリカ合衆国カナダ等の欧米諸国に亡命後の生活拠点を置く者も多い。ヨーロッパにおけるウイグル人社会の中心地となったドイツでは、各国のウイグル人亡命者組織の上部機関である世界ウイグル会議や、東トルキスタンに関する広報活動を行っている東トルキスタン情報センターミュンヘンに本部を置いて活動している。また、米国では、ワシントンD.C.に本部を置く在米ウイグル人協会が、ウイグル人の人権状況改善のための広報活動を積極的に実施しているほか、米国議会の支援で運営されているRFA(自由アジア放送)がウイグル語短波放送を行っている[25]
中国国外で活動するこうした団体は、アムネスティ・インターナショナルや、ヒューマン・ライツ・ウォッチに代表される国際的な人権団体と連携を取り、中国国内における人権侵害の状況を国際世論に訴えている。
中国政府は、こうした中国国外における運動団体の動向を注視しており、2009年6月4日、亡命ウイグル人に対する違法なスパイ活動にかかわったとして、スウェーデン政府が駐在の中国外交官を追放する事件も起きた[26]

キルギス・ウイグル人協会
5万人のウイグル民族が住む[27]キルギスで1989年にはキルギス・ウイグル人協会(Ittipak)が創設された[27]


キルギスは2001年に上海協力機構に加盟した。上海協力機構は中華人民共和国ロシアカザフスタン・キルギス・タジキスタンウズベキスタンの6か国による国家連合であるが、これによって、キルギスは中国政府からのウイグル民族主義(東トルキスタン独立運動)の取締を強化した[27]
 
 ウイグル解放組織
 この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。2012年7月

ウイグル人のアシル・ワヒディ(アシル・ワヒドフ)は、1950年代に中国新疆ウイグル自治区中国共産主義青年団第一書記だったが、文化大革命後、ソ連に移住し、1994年ウイグル解放組織(ウイグルスタン・アザト・キリシュ,Uyghur Liberation Organization[28])をカザフスタンで創設した。同組織は東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の中国からの分離独立を目指し、1995年の時点で構成員7-8千人がいたとされる。活動拠点は南カザフスタン領域のアルマ・アタと旧タルトゥイ・クルガン州とされる。

1996年1月、アルマ・アタにおいて、アシル・ワヒディは襲撃を受けて重傷を負い、1997年に死去した。ワヒディ死後、ウイグル解放組織は地下に潜った。また、中華人民共和国からの要請でカザフスタン政府は、ウイグル解放組織が出版する新聞紙「ウイグルスタン」を閉鎖した。

2000年5月28日キルギス共和国の首都ビシュケクで、キルギスウイグル人協会(Ittipak)のリーダーであったニグマット・バザホフ(Nigmat Bazakov)が自宅近くで銃撃され殺害された[28]。バザホフはウイグル解放組織に協力しなかったため、同組織に殺害されたとキルギスの調査機関は発表している[28]。しかし、多くの現地のウイグル人は、中国政府による暗殺とみており[29]、またスイスの人権団体SOSトーチャーによれば、犯人とされて逮捕された4人は無実としている[30]。ビシュケクの人権団体「デモクラシー」会長チュルスン・イスラムは、キルギス共和国と中国は分離独立主義テロリストの取締に関する協定を複数結んでいるとしている[30]。またキルギス内務省はウイグル解放組織のメンバー10名を収監している[28]
 
世界ウイグル会議
ウイグル人の民族運動は、ダライ・ラマに指導されたチベット独立運動のケースと比較して、カリスマ性のある指導者を欠くと批判される場合が多い。こうした批判を受けて、1990年代には、各国でそれぞれ設立されていた運動組織を統合する機運が高まった。1992年には、イスタンブルで「東トルキスタン民族会議」が開催され、世界各国の民族運動組織や個人が集まった。2004年には、1996年にドイツで設立された世界ウイグル青年会議が「民族会議」と合流し、世界ウイグル会議に再編された。世界ウイグル会議の初代議長にはエイサ・ユスプ・アルプテキンの子、エルキン・アルプテキンが選出された。2006年に、世界ウイグル会議は、ノーベル平和賞候補にも選ばれたラビア・カーディルを第2代議長に選出し、国際社会に対してウイグル人問題のアピールを強めている。2012年には東京で世界ウイグル会議代表大会が開催された[31]。ラビア・カーディル議長等は靖国神社に参拝し、第二次世界大戦の戦没者を称えるとともに靖国神社参拝の歴史的意義を訴えている[31]
 
東トルキスタン亡命政府
世界ウイグル会議の結成に対して、アルプテキン派以外の独立を目指す諸団体は、2004年ワシントンD.C.「東トルキスタン共和国亡命政府」を設立している(詳細は「東トルキスタン共和国亡命政府」の項を参照)[32]
 
中国国内の活動
近年、国際世論へのアピールを強めている在外運動組織の活動と比較して、中国国内における民族運動の動向については、信頼できる情報源が限られているため、その実態は明確でないといわれる。
1968年ごろに「東トルキスタン人民革命党」の活動があったとされる[33]が、中国国内における民族運動が顕在化するようになるのは、1990年代以降である。2002年1月12日に中国国務院新聞弁公室が発表した文書によれば、1990年から2001年までに、国内外の「東トルキスタン・テロ勢力」が、新疆で爆弾テロ、要人暗殺、暴動煽動など200件余りのテロ事件を起こし、162人を殺害、440人以上を負傷させたとしている[34]。しかし、文書で指摘されている「テロ事件」がいずれも小規模なものであることから、中国政府の指定する「テロ事件」には一般刑法犯が大幅に含まれるのではないかとの指摘もある[35]
2001年の同時多発テロ事件以降、中国政府は、こうした事件と国際テロ組織の活動との関連性を強調している。中国政府は、中央アジアに拠点を置く「東トルキスタンイスラム運動」が、中国国内にテロ拠点を建設し、テロリストを養成しているとして批判をしており、同組織がアルカーイダと結びつきのあるテロ組織であると断定している。2002年9月には、中国、米国等の働きかけにより、同団体は国際連合からテロ組織認定を受けることとなった[36][37]
北京オリンピック 開催直前の2008年7月には、雲南省昆明市で起きたバス連続爆破事件に対して「トルキスタン・イスラム党」を名乗る組織が犯行声明を出した[38]ほか、8月には、カシュガル市クチャ県で、警察施設を狙った爆破事件が相次いだ[39][40]
 
関連項目
 
外部リンク
East Turkistan Government in Exile(東トルキスタン共和国亡命政府)(ウイグル語)(トルコ語)(英語)(中国語)(日本語)
East Turkistan Information(東トルキスタン情報研究所)(英語)(ウイグル語)(トルコ語)(日本語)(英語)(中国語)
World Uyghur Congress(世界ウイグル会議)(ウイグル語)(英語)(ドイツ語)(中国語)(日本語)
East Turkistan Information Center(東トルキスタン情報センター)(ウイグル語)(英語)(ドイツ語)(トルコ語)(中国語)(アラビア語)(日本語)
The Government-in-Exile of East Turkistan Republic(東トルキスタン共和国亡命政府)(ウイグル語)(トルコ語)(英語)(日本語)
Swedish Uygur Committe(スウェーデンウイグル委員会)(ウイグル語)(英語)(スウェーデン語)(ノルウェー語)(ロシア語)(中国語)(トルコ語)
East Turkistan Information(東トルキスタン情報)(ウイグル語)(英語)(トルコ語)(中国語)(日本語)
東トルキスタンに平和と自由を(日本語)(英語)(マレー語)

最終更新 2013年9月1日

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東トルキスタン共和国
亡命政府

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Tel: (571)344-3886 - Fax: (703)591-4257
www.eastturkistan-gov.org
www.eastturkistan.net

政府声明

2004年9月17日

Hokumet-ilani-sherqiy-turkistan

2004年9月14日ワシントンで、「東トルキスタン亡命政府」の成立が世界に公表され、東トルキスタン国民に大きな喜びを与えた。

  東トルキスタン亡命政府の成立について、メディアで不正確な情報が流れたり、それに基づく論評がなされたりした。東トルキスタン政府では、今後文書や写真などで情報を公開し、折に触れて公式声明を発表していく予定である。
私たちの公式声明を報道や研究などにご利用になる場合は、ソースとして、東トルキスタン共和国政府と明記していただけるようお願いする。

  世界各地で亡命生活をしてきた東トルキスタン国民は、60名の代表を選出した。これが「東トルキスタン民族会議」である。東トルキスタン民族会議は、ワシントンに集まり、全員一致のうえ、「東トルキスタン亡命政府」設立を宣言した。この設立式典には、海外に住んでいる東トルキスタン国民および組織が招待された。

  ただ、一部の組織はこの場に来ることはできなかった。その組織の人たちが現在居住している国は、中国と関係の深い国である。その国からこの式典に参加すれば、彼らはのちのち政治的な困難を背負うことになる。そのような事情があったことを私たちは理解しているし、また皆さまがたにもご理解いただきたいと思う。
  さまざまな国家に散っている東トルキスタン国民の中には、独立への活動方針の不一致や不協和音も存在する。そのことも包み隠さず皆さまに申し上げる次第である。

   2004年9月13、14日、世界各国から選ばれたウイグル、カザフ、キルギス族の「東トルキスタン民族会議」は、まず、民族会議長を選出した。それから「東トルキスタン憲法議案」が会議を通過した。
  そして、この「東トルキスタン憲法」の第一条により、「国会」および「政府代表会議」のメンバーの選挙が行なわれた。政府代表会議は9月14日代表全員の同意により、「東トルキスタン政府」のメンバーを決定した。

  エフメット・イゲムベルディ(Ehmet Igemberdi)が大統領に、アブドゥウェリ・ジャン(Abduweli Jan)が副大統領に選ばれた。政府のほかのメンバーは下記の通りである。

エニウェル・ユスップ(Eniwer Yusup):総理大臣、兼外務大臣

ヒズルベグ・ゲイリトゥッラ(Hizirbeg Gheyritulla、カザフ族):副総理

ダイマン・レヒメット(Daiman Rehmet):副総理、兼文部大臣

カフリマン・ゴジャムベルディ(Qehriman Ghojamberdi):防衛大臣

アザット・マフムット(Azat Mahmut):財務大臣

アイドガン・クビライ(Aydoghan Qubilay、カザフ族):経済大臣

アブドゥジェリリ・カラカシ(Abdujelil Qaraqash):内務大臣、兼広報大臣

サウット・マフムット(Sawut Mahmut):交通大臣

ヘニペ・ケテネ・エルバシ(Henipe Ketene Erbash、女性、カザフ族):司法大臣

スルタン・マフムット(Sultan Mahmut):文化大臣

アブドゥケリム.ラフマン(Abdulkerim Rahman):建設大臣

レシデ・ゲンジェル(Reshide Genjer、女性、カザフ族):厚生大臣

ネフィセ・オズゲン(Nefise Ozgen、女性、キルギス族):農業大臣

イスマーイル・センギズ(Ismail Jen’giz):観光大臣、兼政府スポークスマン

   アメリカ大衆国 “キャピタル ヒル” の会議ホールが、東トルキスタンの空色の地に三日月と星をあしらった国旗で飾られ、「東トルキスタン亡命政府」の成立が正式に世界に発表された。メディアに政府メンバーが公表されたのである。

  国会を通過した「憲法議案」および「政府プログラム」の審議は今年11月12日「政府代表会議」および「部長会議」で行なわれる。

どんな国家にも属さず、圧力を受けることもない独立した我が国会と我が政府は、主権を持つ政府であり、国家としての権利、自由と民主を有する。我が政府は国連の法律や規定に従い、これを尊重する。我が政府は1933年11月12日に成立した「東トルキスタンイスラム共和国」、および1944年11月12日に成立した「東トルキスタン共和国」の政権を正統に承継する政府である。
  国旗も東トルキスタン共和国の白い三日月と白い星をあしらったキョック.バイラック(Kok Bayraq青い旗)である。

東トルキスタン民族会議は国際組織と連携しやすく、支持も得やすいアメリカ合衆国を亡命政権の場として自ら選択しました。東トルキスタン亡命政府は民主、自由を望む東トルキスタン国民の承認のもと成立したのです。私たちの独立への闘争は、人権を尊重し、誰にも恥じない名誉あるものであります。私たちをご支持くださる全ての国家の公式な、また民間団体や個人の方々の私的なご支援を、物質的なものであれ、精神的なものであれ、歓迎いたします。

  1949年以来侵略者中国の支配下に置かれた東トルキスタン共和国の独立は、私たちの最後の目標です。この目標を民主的な方法で、国際社会の支持と援助を受けて達成する所存であります。

  東トルキスタン亡命政府が無事設立されるまで、アメリカ、サウジアラビア、トルコをはじめ、我々を支持してくださったアジア、ヨーロッパ、アフリカおよびオーストラリアの全ての政府、団体、人権組織などに心より感謝の意を表します。

   今後は「東トルキスタンナショナルフリーダムセンター」(http://www.etnfc.org)および「東トルキスタン情報センター」(http://www.uygur.org)で、東トルキスタン亡命政府および東トルキスタンに関する情報、ニュースを発表していきます。
  今後ともご理解とご協力、ご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。

イスマーイル・ジェンギズ

東トルキスタン共和国
政府スポークスマン、観光大臣

2004年9月17日

ウイグル太郎 翻訳


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East Turkestan National Day Protest  

http://www.youtube.com/watch?v=Ou3UmJjYN4o&feature=share

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Documentary about East Turkistan by Michael Dillon  

http://www.youtube.com/watch?v=21k3x_Xnhtk&feature=share

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Road Begin of East Turkistan ( So- called Xinjiang)  



アップロード日: 2011/12/06
East Turkistan, also known as the Xinjiang Uyghur Autonomous Region of China, lies in the heart of Asia. The current territorial size of East Turkistan is 1,626,000 square kilometers (635,000 square miles), which is 4 times the size of California. According to official records in 1949, East Turkistan's original territories contained 1,820,000 square kilometers of land. The Qinghai and Gansu provinces of China annexed part of the territory as a result of the Chinese communist invasion of 1949.

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East Turkistan is a lost Country



アップロード日: 2011/12/06
East Turkistan, also known as the Xinjiang Uyghur Autonomous Region of China, lies in the heart of Asia. The current territorial size of East Turkistan is 1,626,000 square kilometers (635,000 square miles), which is 4 times the size of California. According to official records in 1949, East Turkistan's original territories contained 1,820,000 square kilometers of land. The Qinghai and Gansu provinces of China annexed part of the territory as a result of the Chinese communist invasion of 1949.


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東トルキスタン

現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3

東トルキスタンひがしとるきすたん, ウイグル語Sharqiy Turkistan)は、トルキスタン東部地域のことで、現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区を指し、「中国領トルキスタン」とも言う。南にチベット高原西蔵自治区)、東に甘粛省青海省、北東にモンゴル高原モンゴル国)、北西にカザフ草原カザフスタン)と接し、西は西トルキスタンである。

東トルキスタンは地域概念であるが、特にウイグル人の中国からの独立派の人々が、中国視点の地名である「新疆」を嫌い、ウイグルの居住地域の地域名として好んで用いる。

地理


アジア大陸の内陸部に位置する影響から、年平均降水量はわずか145mmと乾燥した気候となっている。そのために一日の中でも気温の変化が激しく、「朝に綿入れ、昼に半袖、夜に火鉢をかこんでスイカメロンを食べる」との喩え話がある程である。 東トルキスタンのほぼ中央にそびえる天山山脈を背骨とし、天山山脈と北のアルタイ山脈モンゴル国境)の間にジュンガル盆地、天山山脈と南のクンルン山脈チベット自治区との境)の間にタリム盆地が広がる。そのために中国では、天山山脈を境として、ジュンガル盆地のある北側を北疆、タリム盆地のある南側を南疆として分けている。 タリム盆地の中心はタクラマカン砂漠で、天山山脈南麓とクンルン山脈北麓に沿ってオアシス都市がほぼ連なって点在している。 クンルン山脈や天山山脈などからは、氷河などを主要水源とする河川が570本ほど流れているが、そのほとんどは海まで流れない内陸河川である。なお、東トルキスタン最長の内陸河川は、全長2137kmのタリム川である。 タリム盆地の西は旧ソ連領の西トルキスタン地域であり、天山山脈北麓は、イリ川の渓谷を経てイリ川の注ぐカザフスタンバルハシ湖や天山山脈北西麓のキルギスタンに繋がっている。 なお、かつての主要な東西交易路(いわゆるシルクロード)は、中国敦煌付近(甘粛省)から天山山脈南麓を通り、パミール高原などを越えてフェルガナ盆地ウズベキスタン)に至る経路を辿っていた。 東トルキスタンの住民の約45%はウイグル族が占めているが、他にも漢族、カザフ族回族モンゴル族満族など多くの民族が居住している。特に、中華人民共和国成立以後は漢族の流入が著しい。北西部には漢族と回族が多く、南西部にウイグル族が多い。

主な都市
ウルムチ (Urumchi) - 新疆ウイグル自治区の首府。
カシュガル (Kashgar)
コルラ (Korla)
アクス (Aqsu)
クチャ (Kucha)
クムル (Qumul)
トルファン (Turpan)
グルジャ (Ghulja)
アルタイ(Altay)
チョチェック (Chochek)
ボレタラ (Boretala)
カラマイ (Qaramay)
ホータン (Hoten)
ヤルカンド (Yarkent)

歴史
東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。モンゴル高原に栄えた遊牧ウイグル帝国840年に崩壊すると、逃亡してきたウイグル人が天山山脈北麓に天山ウイグル王国を建国し、同時期に別のチュルク系民族がタリム盆地カラ・ハン朝を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にチュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教改宗すると、イスラム化が進んだ。

1759年が辺境の地の東トルキスタンを征服し支配下に入れ、新疆(「新しい領土」の意)と命名する。清の崩壊後は中華民国が清の領土を継承すると宣言し新疆省とした。

しかし、実際は第二次世界大戦末期に一時的に独立した時期があり、また1944年 - 1946年には東トルキスタン共和国が建国されていた。だが、中華人民共和国に再征服されて、新疆ウイグル自治区とされた。

東トルキスタン独立運動

東トルキスタン地域の中国帰属を拒否する人々は、中華人民共和国の東トルキスタン編入の過程に国際法上の問題がある為、現在の中国共産党政府による東トルキスタン支配は無効であると主張し、

ウイグル人国際連盟
ウイグル解放組織
東トルキスタンイスラム運動(ETIM)※
東トルキスタン解放組織
東トルキスタン解放陣線
東トルキスタン国際委員会
東トルキスタン・イスラム党
東トルキスタン・イスラム真主党
イスラム改革者党突撃隊

など、多種の東トルキスタンの独立運動組織を結成している。

これらの組織は基本的に中央アジア、中東、欧米に拠点を置いて活動しており、2004年には各組織が結束して東トルキスタン共和国亡命政府を樹立している。ただし、同じく中国からの独立運動を展開しているチベットのケースとは異なり、ダライ・ラマのようなカリスマ性のある指導者がおらず、統一的な行動が取られていない。

※主要な東トルキスタン独立運動組織の内でも、ETIMに関しては中国政府がアルカーイダと関係があるテロリストグループと宣伝し、アメリカ政府も関係を認めている。ただし、ETIM側はアルカーイダとの関係を否定している。

外部リンク
東トルキスタン情報センター 日本語のページがある。
新疆研究サイト ウイグル歴史文化研究会
旅行案内

最終更新 2013年11月27日 (水)

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新疆ウイグル自治区

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%96%86%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA

新疆ウイグル自治区
新疆维吾尔自治区
شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونى
Shinjang Uyghur aptonom rayoni
簡称: 新 (拼音: Xīn )


http://en.wikipedia.org/wiki/Xinjiang

Xinjiang (Uyghur: شىنجاڭ‎, ULY: Shinjang; Mandarin pronunciation: [ɕíntɕjɑ́ŋ]; Chinese: 新疆; pinyin: Xīnjiāng; Wade–Giles: Hsin1-chiang1; postal map spelling: Sinkiang), officially Xinjiang Uyghur Autonomous Region,[3] is an autonomous region of the People's Republic of China in the northwest of the country. It is the largest Chinese administrative division and spans over 1.6 million km2. Xinjiang borders Russia, Mongolia, Kazakhstan, Kyrgyzstan, Tajikistan, Afghanistan, Pakistan and India. It has abundant oil reserves and is China's largest natural gas-producing region.

It is home to a number of ethnic groups including the Uyghur, Han, Kazakh, Tajiks, Hui, Kyrgyz, and Mongol, with a majority of the population adhering to Islam.[4] More than a dozen autonomous prefectures and counties for minorities are in Xinjiang. Older English-language reference works often refer to the area as Chinese Turkestan.[5] Xinjiang is divided into the Dzungarian Basin in the north and the Tarim Basin in the south by a mountain range. Only about 4.3% of Xinjiang's land area is fit for human habitation.[6]

With a documented history of at least 2,500 years, a succession of peoples and empires has vied for control over all or parts of this territory. Before the 21st century, all or part of the region has been ruled or controlled by the Tocharians, Yuezhi, Xiongnu Empire, Xianbei state, Kushan Empire, Rouran Khaganate, Han Empire, Former Liang, Former Qin, Later Liang, Western Liáng, Rouran Khaganate, Tang Dynasty, Tibetan Empire, Uyghur Khaganate, Kara-Khitan Khanate, Mongol Empire, Yuan Dynasty, Chagatai Khanate, Moghulistan, Northern Yuan, Yarkent Khanate, Dzungar Khanate, Qing Dynasty, the Republic of China and, since 1950, the People's Republic of China.
 
新疆ウイグル自治区
 
新疆ウイグル自治区(しんきょうウイグルじちく)は中華人民共和国の西端にある自治区ウイグル族の民族自治区であり、その領域は、一般に、東アジアの一部として定義されるが、場合によっては中央アジアのトルキスタン地域東部(東トルキスタン)とみなされることもある。
ウイグル族のほか、漢族カザフ族キルギス族モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分が置かれていた。
本来中国には時差が設定されていないが、新疆では非公式に北京時間UTC+8)より2時間遅れの新疆時間(UTC+6)が使われている[1]
 
歴史
テュルク系民族が多いことから、伝統的にはペルシア語で「テュルク人(トルコ人)の土地」を意味するトルキスタンと呼ばれ、現在の国境を越えた幅広い地域の一角として、中央アジアの文化圏に属してきた。その一方で、中国から西域と呼ばれたこの地域は中国との政治的・経済的な繋がりも古くから有しており、代と代には、中国の直接支配下に置かれた時期もあった。 唐代後期、ウイグル帝国の支配下に入り、9世紀、ウイグル帝国が瓦解したのちも、ウイグル人の残存勢力による支配が続いた。13世紀、モンゴル帝国の勃興によりその支配下に組み込まれ、チャガタイとその子孫による支配が行われた。16世紀に至りヤルカンド汗国が地域を統一したが、17世紀末ジュンガルに征服された。
18世紀ジュンガル征服にともなってその支配下に入るに至り、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、「(新)しい(領)土」を意味する「新疆」などと清朝側から呼ばれた。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は崩れたが、左宗棠により再征服され、1884年中国内地並の省制がひかれて新疆省となった。
辛亥革命の後、清朝の版図を引き継いだ中華民国に属しながらも、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われた。これに対して1933年1944年の二度にわたって土着のムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国の建国がはかられたが、国共内戦後の1949年に再び共産党支配下の中国に統一され、1955年新疆ウイグル自治区が設置された。
 
大躍進政策・文化大革命以後
しかし、直後に開始された大躍進政策とその影響による飢饉のため、中国全土で数千万人ともいわれる、大規模な死者を生み出した。自治区の経済及び住民生活も大打撃を受けた。1962年には、中国共産党による支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上がソ連領内に逃亡した。また、1966年には自治区内に文化大革命が波及し、モスクの破壊や紅衛兵同士の武装闘争により、混乱に拍車がかかった。
文化大革命が終結し、言論統制の緩和がなされた1980年代には、ウイグル族住民の中で、新疆ウイグル自治区における民族自治の拡大を求める動きが見られた。また、海外の汎トルコ主義者が独立を主張する動きも見られた。しかし、このような動きを中国政府は厳しく取り締まっている。
中国共産党政府はウイグル人の暮らすウイグル地区のロプノールで、1964年から1996年にかけて、地表、空中、地下で延べ46回[2]、総爆発エネルギー20メガトンの核爆発実験を行っている。
 
中華民国の主張
中華民国は、ウイグル自治区を新疆省と呼称しており、自国領土だと主張している。 新疆という呼称は清朝時代に付けられた。
 
2009年のウイグル騒乱
 
2009年にはウイグル人漢民族の対立が激化し、ウイグル騒乱が発生。武装警察の介入もあって、世界ウイグル会議によると死者800人、中国当局によると死者156人となる惨事となった[3][4]。これにより中国は報道規制をし、また主要国首脳会議(ラクイラ・サミット)に参加するためにイタリアを訪問していた胡錦濤(中国国家主席)が「新疆ウイグル自治区の情勢」を理由にサミットをキャンセルして三日後に急遽帰国するにまでに至った[5]
 
 ウイグルの独立運動
中国政府による取り締まりに対し、新疆における民族自治の拡大や人権状況の改善を目指す運動が中国内外で続いている。中国政府に不満を持つ新疆人民が必ずしも独立を目指しているとは限らないが、一部の運動組織は新疆の中国からの分離独立を主張しており、新疆はチベットと並んで、中国の抱える民族問題のホットスポットの一つとなっている。

ウイグルでは、ウイグル人は3等市民、4等市民、あるいは人間以下の扱いを受けている状況とされる[6]

中国内での漢民族とウィグル族との民族間反目は他中国少数民族と比較しても強いとされるが、9.11同時多発テロ事件以降は中国当局の治安体制強化もあって中国国内では目立った騒擾事件は発生していないようである。しかし2013年10月末には、ウィグル族家族がガソリンを積んだ自動車で北京の天安門に突入し自爆する事件も起こった。国外の民族運動組織は、中国政府によるウィグル族などに対する人権侵害事案をたびたび取り上げている。また東トルキスタンイスラム運動などといった組織が独立運動を唱えている(詳細はリンク先を参照)。
 
地理

新疆ウイグル自治区の面積165万km²は中国の省・自治区の中で最大であり、中国全土の約1/6を占める。(日本の約4.5倍)ただし、面積の約4分の1は砂漠が占めており、これは中国の砂漠総面積の約3分の2に相当する。総人口は約1,900万人で、その3分の2は漢族以外の少数民族である。省都は烏魯木斉(ウルムチ)。
新疆ウイグル自治区は中国の最西部に位置しており、東部から南部にかけて、それぞれ甘粛省青海省西蔵自治区と省界を接している。また、インドパキスタンアフガニスタンタジキスタンキルギスカザフスタンロシア連邦モンゴル国の8カ国と国境を接し、国境線の総延長は約5,700kmに達する。国境を接する国の数は、中国の行政区分で最大である。
1931年8月11日、新疆ウイグル自治区北部でM8の地震が発生。地震研究のための貴重な資料として、当時の地震断層や地形の変化がそのままの状態で残されている。2007年4月19日、断層の保護作業が終了した

 
核実験場

新疆ウイグル自治区ではロプノール核実験場の付近を中心に、1964年から46回の中国による核実験が行われており、放射能汚染による地域住民の健康状態や、農作物への被害が指摘されている。高田純は同地域の調査をし、19万人が死亡しており、健康被害者は129万人と推計している[7][8]。また、ウイグル人の医師は、中国政府はこの地域における放射能汚染や後遺症の存在を認めないどころか、海外の医療団体などの調査を立ち入ることも規制しており、すべてが隠蔽されていると訴えている[9]
ロプノールでの核実験は、総爆発出力20メガトン、広島の原爆の約1,250発分に相当するといわれる[10]

行政区域地級市(地区クラスの市)
ウルムチ市(烏魯木斉市) - 省都
カラマイ市(克拉瑪依市)
地区
トゥルファン地区(吐魯番地区) - 主要都市:トゥルファン市(吐魯番市)
クムル地区(哈密地区) - 主要都市:クムル市(哈密市)
アクス地区(阿克蘇地区) - 首府:アクス市(阿克蘇市)
カシュガル地区(喀什地区) - 主要都市:カシュガル市(喀什市)、ヤルカンド県(莎車県)
ホータン地区(和田地区) - 主要都市:ホータン市(和田市)
自治州
ボルタラ・モンゴル(本来はオイラト族)自治州(博爾塔拉蒙古自治州) - 州都:ボルタラ市(博楽市)
クズルス・キルギス自治州(克孜勒蘇柯爾克孜自治州) - 州都:アルトゥシュ市(阿図什市)
バインゴリン・モンゴル(本来はオイラト族)自治州(巴音郭楞蒙古自治州) - 州都:コルラ市(庫爾勒市)
昌吉回族自治州 - 州都:昌吉市
副省級自治州
イリ・カザフ自治州(伊犁哈薩克自治州) - 州都:グルジャ市(伊寧市)、主要都市:クイトゥン市(奎屯市)
アルタイ地区(阿勒泰地区) - 首府:アルタイ市(阿勒泰市)
タルバガタイ地区(塔城地区) - 首府:チョチェク市(塔城市)
自治区直轄県級市
石河子市
アラル市(阿拉爾市)
トムシュク市(図木舒克市)
五家渠市

教育
新疆大学 - 211重点大学
石河子大学 - 211重点大学
新疆師範大学
新疆医科大学
新疆農業大学

住民
自治区内の住民は、ウイグル族漢族のほか、カザフ族回族キルギス族オイラト族(カルムイク族)(民族区分ではモンゴル族)などの様々な民族で構成される。また、カザフ族キルギス族タジク族ウズベク族など、隣接する旧ソ連領中央アジア諸国と国境を跨って居住する民族も少なくない。

漢族の大量入植
自治区の北部、東部を中心に居住する漢族は、1954年に設立された新疆生産建設兵団を中心に、1950年代以降に入植した住民が大半を占め、急速にその数を増やしている。中国政府の公表する人口統計には、軍人の数が含まれていないことから、実際の人口比では、漢族の人口はウイグル族を上回っていると推測されている。2003年の兵団総人口は257.9万人である[11]
1990年時点で新疆ウイグル自治区の総数が1499万人のうち、漢族が565万人[12]。1995年には、総人口1661万人のうち漢族が632万人と、5年間で漢族人口は67万人も増加している[12]。2000年には、漢族人口は約749万人となっており[13]、5年間で117万人も増加しており、10年間で184万人の漢族が新疆ウイグル自治区において増加している。

住民構成表

人民解放軍武装警察に所属する軍人、および新疆生産建設兵団は含まない。
 
民族構成(2000年)
民族 人口 割合(%)
ウイグル族 8,345,622 45.21
漢族 7,489,919 40.58
カザフ族 1,245,023 6.74
回族 839,837 4.55
キルギス族 158,775 0.86
モンゴル族オイラト族 149,857 0.81
東郷族 55,841 0.30
タジク族 39,493 0.21
シボ族 34,566 0.19
満族 19,493 0.11
土家族 15,787 0.086
ウズベク族 12,096 0.066
オロス族ロシア人 8,935 0.048
ミャオ族 7,006 0.038
蔵族 6,153 0.033
チワン族 5,642 0.031
達斡爾族 5,541 0.030
タタール族 4,501 0.024
撒拉族 3,762 0.020



経済
中華人民共和国の成立後、新疆では1954年設立の新疆生産建設兵団などによって、ダム・用水路の建設、防風・防砂林の造成などが行われ、新しい耕地が開拓されてきた。
第一次産業としては、小麦綿花テンサイブドウハミウリヒツジ、イリなどが主要な生産物となっている。特にこの地域で生産される新疆綿といわれる綿は、エジプト綿(ギザ綿)、スーピマ綿と並んで世界三大高級コットンと呼ばれ、繊維が長く、光沢があり高級品とされており、日米欧に輸出され高級シャツ、高級シーツなどに利用される。また、中国四大宝石の中で最高とされる和田玉ホータン市で産出される。この他、石油と天然ガスなどのエネルギー資源産業をはじめ、鉄鋼、化学、機械、毛織物、皮革工業が発達している。主要な工業地域として烏魯木斉、克拉瑪依、石河子(シーホーツ)、伊寧(イーニン)、喀什(カシュガル)が挙げられる。
2005年発表の政府工作報告によれば、新疆の2004年の全省生産総額(GDP)は、対前年比11.4%増の2,203億人民元である。また同年の外資導入額は2億米ドルとされている。エネルギー資源の影響でウルムチは一人当たりのGDPが43221元という内陸部の割にはGDPが高く、2020年には10000ドル以上は超える可能性がある。

経済特区計画
2009年に起きた暴動は、ウイグル族の生活水準が低いことによる不満が爆発したことが原因であったという反省を基に、2010年以内に経済特区を新疆ウイグル自治区に設置する予定である。これにより、経済発展、雇用創出を実現し、ウイグル族の不満を和らげることを目指している[14]

資源

新疆は石油天然ガスの埋蔵量が豊富で、これまでに38カ所の油田、天然ガス田が発見されている。新疆の油田としては塔里木(タリム)油田、準葛爾(ジュンガル)油田、吐哈(トゥハ)油田が3大油田とされ、独山子(トゥーシャンツー)、烏魯木斉(ウルムチ)、克拉瑪依(クラマイ)、庫車(クチャ)、塔里木の5大精油工場で原油精製も行われている。
新疆の石油と天然ガスの埋蔵量は、それぞれ中国全体の埋蔵量の28%と33%を占めており、今日では油田開発が新疆の経済発展の中心となっている。特に、西部大開発政策開始以降は、パイプライン敷設や送電線建設などが活発化している。これには、中国国内最大の油田であった黒竜江省大慶油田の生産量が近年では減少してきたために、新疆の油田の重要性が相対的に増していることも関連している。
  
交通
工業化の進展は、新疆に道路を中心とする交通網の整備をもたらし、烏魯木斉などを拠点とした道路が新疆のほとんど全ての郷・鎮を結び、更には青海省西蔵自治区カザフスタンなどとも道路で結ばれるまでになった。

鉄道
更には、面積が広大なことから航空への依存度が高まり、烏魯木斉の空港を中心として十数の自治区内の主要地を結ぶ航空網が整備されていった。その為、今日の烏魯木斉空港は、北京上海広州の空港とともに、中国5大空港の一つに数えられる程の拠点空港となっている。また西アジアアフリカヨーロッパとの国際線が発着することから、中国西北地域の玄関口としての役割をはたしている。
 
環境問題
砂漠化
新疆ウイグル自治区には、タクラマカン砂漠があるが、近年、過放牧によって草原が荒れて、砂漠化が進行している[15]。その理由は、タリム盆地周縁のオアシス人口の急激な人口増加によるとされる[15]。漢族の急激な入植による人口増加が主な原因とされる[15]
タクラマカン砂漠やゴビ砂漠(中国北部 内モンゴル・甘粛・寧夏・陝西)、黄土高原などにおける砂漠などは、黄砂の発生地でもあり、黄砂は日本を含む東アジアの広い範囲に飛来している。
 

関連項目

北京の新疆村(甘家口魏公村

 
外部リンク

 
 

最終更新 2013年11月22日

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