2013年12月5日木曜日

Yalta Conference ヤルタ会談

Yalta Conference

"The Big Three" : Churchill, Stalin and Roosevelt Meet (1945)



アップロード日: 2011/08/30
The Big Three Meet - Churchill, Stalin and Roosevelt -at The Yalta Conference 1945. The three heads of state of the USA, Russia and Great Britian meet to discuss the reorginisation of Post-War Europe.

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Original film ID:1045.27

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ヤルタ会談

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87


会談に臨むチャーチルルーズベルトスターリン(中央ソファー左から)
左端奥はソ連外相モロトフ

ヤルタ会談(ヤルタかいだん、:Yalta Conference)は、1945年2月4日11日クリミア半島ヤルタ近郊で行われたアメリカイギリスソビエト連邦による首脳会談。

第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。
 
 
概要

1945年1月にポーランドを占領したソ連軍赤軍)がベルリン付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢のもと、連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた。会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治やポーランドの国境策定、エストニアラトビアリトアニアバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められた。
併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となった。
また、戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国(後の国際連合常任理事国メンバー)の拒否権を認めたのもこの会談であった。
会談が行われたクリミア半島は、当時はソ連構成国であるロシア共和国の領土であり(現ウクライナ領)、ヤルタは半島の南端、黒海を臨むソ連随一のリゾート地であった。会場となったリヴァディア宮殿はロシア皇帝ニコライ2世の別荘(離宮)として建造されたものである。
なお、この会議に先だつ同年1月30日から2月3日にかけ、ルーズベルト大統領とチャーチル首相はマルタ島において会談を行っている(マルタ会談 (1945年))。
 
ポーランド問題
ヤルタ会談の半分以上の日程は、このポーランド問題について話し合われた。
 
1939年、ドイツとソ連はともにポーランドに侵攻し、西半分及び東半分をそれぞれ分割占領したが、1941年、ドイツは独ソ不可侵条約を破りポーランド東部に侵攻、全域を占領するに至った。その後ソ連は再び東半分をドイツから奪還し、1944年ルブリンにおいてポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権)を樹立した。
同年7月から8月にかけてソ連軍は首都ワルシャワに迫り、その際国内軍(ポーランド国民による反ナチス抵抗組織)に対しモスクワ放送を通じて蜂起を呼びかけた。国内軍はこれに呼応して蜂起し(ワルシャワ蜂起)、ワルシャワを占領するが、ソ連軍は進軍を停止してこれを支援せず、結局ドイツ軍により蜂起は鎮圧された。このときアメリカとイギリスは、ソ連に国内軍への支援を要求したが、スターリンはこれを無視した。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者が出たといわれる。
当時ロンドンにはポーランド亡命政府が存在し、イギリスはこれをポーランドの正式な政権として承認していたが、1943年にソ連軍に連行されたポーランド人捕虜の大量虐殺事件(カティンの森事件)が発覚すると、亡命政権とソ連は関係を断絶していた。ソ連はルブリン共産党政権こそポーランドの正式な政権だと各国に認めさせるため、彼らによる国内統治の障害となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたとみられる。
ヤルタ会談では、この両政権のどちらが正式な政権であるかを巡ってイギリスとソ連が対立した。ソ連にとってポーランドは自国の安全保障上の重要地域であり、一方イギリスにとっては、社会主義の拡大への懸念から共産党政権を認めることはできなかった。会談では結局アメリカの仲介により、ポーランドにおいて総選挙を実施し国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの国自体を西へ移動させることで決着した。
ところが、スターリンは帰国した亡命政権の指導者を逮捕し、ルブリン共産党政権によるポーランドの社会主義国化が決定的となった。後のアメリカ大統領、トルーマンはこれを知って激怒し、米ソの対立が深まった。
 
ドイツ問題
ドイツは現在のオーデル・ナイセ線以東にあるシレジアポメラニア東プロイセンの領土をすべて失い、これらの領土はポーランド領となることが決定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時のドイツ国土の四分の一にあたり、ドイツにとってはプロイセンの故地である東プロイセンを含めた広大な領土を失うこととなり、きわめて喪失感の大きい内容となった。
なお、ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく西へずれ、若干の領土縮小につながった。また、ガリツィア等旧東部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となった。
一方、戦後ドイツの処遇について、東側陣営西側陣営で共同管理することが決められた。

極東密約(ヤルタ協定)
主に日本に関して、アメリカルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており[1]、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。
ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[2] 。この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴルモンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと[3]満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。
アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている[4]。このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた[4]。しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した[4]。スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言している[5][6]。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった[7]
ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島等を占領した。しかし、ソ連参戦の翌日(1945年8月10日)に日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告したため、戦争末期(9月2日の降伏文書調印まで)のきわめて短期間のソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。
なお、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている[8]

その他の国について
台湾について、米ソ両国はカイロ会談で決定していた中華民国への返還を改めて確認した。また、朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとした。しかし、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。
 
会談の意義
本会談の意義については、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国による戦後世界の枠組みに関する利害調整の場であったとする指摘が多い。中でも、領土に関するさまざまな取決めについては、当事国抜きで行われたにもかかわらず、中・東欧の政治体制、外交問題等、戦後世界に非常に広範で多岐にわたる影響を及ぼしている。

この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われている。フルブライトは「1945年2月の米英ソのヤルタでの誓いは1947年3月12日のトルーマン宣言で崩壊し、これがイデオロギーの戦争としての冷戦の始まりであった」[9]と述べている。
2005年5月、アメリカのブッシュ大統領は、対独戦勝60周年記念式典への出席のためのヨーロッパ歴訪中、訪問先のラトビアで冷戦下のヨーロッパをめぐる歴史認識に関する演説を行い、ヤルタ協定を東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難している。またヨーロッパの分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。

関連項目
二次世界大戦中の連合国による主な首脳会談
大西洋会談(1941年8月9日 - 12日) 
カサブランカ会談(1943年1月14日 - 23日) 
カイロ会談(1943年11月22日 - 26日) 
テヘラン会談(1943年11月28日 - 12月1日) 
ポツダム会談(1945年7月17日 - 8月2日)
 
最終更新 2013年8月9日

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ポツダム会談

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E4%BC%9A%E8%AB%87

ポツダム会談(ポツダムかいだん)は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日8月2日ドイツベルリン郊外のポツダムに、米国英国ソ連の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。会議の最後にはポツダム協定が策定された。また7月26日には日本政府に対して日本軍無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたことで知られているが、会議の公式日程において対日問題は協議されなかった。

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R67561, Potsdamer Konferenz, Konferenztisch.jpg
ポツダム会談の様子。1945年7月
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Bundesarchiv_Bild_183-R67561%2C_Potsdamer_Konferenz%2C_Konferenztisch.jpg

前史
第二次世界大戦の連合国は戦争中からたびたび戦争方針や戦後構想を話し合う会議を持っていた。1943年のテヘラン会談は三大国の首脳が一堂に会する最初の会議となり、1945年ヤルタ会談ではヨーロッパ戦後構想の大枠が決定された。ところがソ連がヤルタ協定に反してルーマニアポーランドにおいて共産主義政権を樹立したことや、北イタリアにおけるドイツ軍の降伏問題にソ連が反発したことなど、三大国の間には懸案事項が重なっていた[1]。このためドイツ降伏の直前には、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「事態はこれ以上、通信によって殆ど事を運び得ず、できるだけ早く三人の政府の首脳の会合があるべきである」と発表する事態となり、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンもこれに同意した[1]。トルーマンはハリー・ホプキンスをモスクワに派遣し、ヨシフ・スターリンの同意を得て7月半ばに会議が開催されることとなった[1]

イギリスは国内経済が破綻しつつあったことと、アメリカ軍がヨーロッパから早くも撤退を始めていたこと、さらにソビエト軍のヨーロッパにおける勢力拡大が主たる関心事項であった[1]。このためイギリスはアメリカからの武器貸与・占領軍援助、さらにソ連占領地域からの食糧供給を要求していた。しかしチャーチルをはじめとする反共思想を持つ関係者は、ソ連との協定が無意味であるとも考えていた[2]。ソ連の主たる関心は自国の安全保障であり、傀儡となる共産主義政権を東欧に設置することで自国を守ろうとしていた(衛星国)。さらにドイツからの賠償獲得と、中東からアフリカへの進出も要求していた[3]。アメリカが望んでいたのは対日戦(太平洋戦争)へのソ連参戦であり、早い段階のヨーロッパ駐屯アメリカ軍の本国帰還であった[3]。トルーマンはこの会議が難航することを予想しており、会議には気乗りしていなかった[4]
 

ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左からアトリー、トルーマン、スターリン。後列左からリーヒ参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員

会議
主要な出席者

最高司令官付参謀長:ウィリアム・リーヒ
陸軍参謀総長:ジョージ・マーシャル
陸軍航空隊司令官:ヘンリー・アーノルド

前副首相、首相(7月27日以降):クレメント・アトリー
外相アンソニー・イーデン(7月26日まで)
前雇用担当相、外相(7月27日以降):アーネスト・ベヴィン英語版

外務人民委員代理(次官):アンドレイ・ヴィシンスキー

国防相:ミハウ・ロラ=ジミェルスキ

会議の流れ
7月17日ベルリン郊外ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿に三大国の首脳、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が集まった。会議が始まったのは午後五時だった[5]。トルーマンは会議の冒頭でアメリカ側提案として「平和条約を締結するための外相会議の設立」、「ドイツ占領統治政策の決定」、「イタリア・ギリシャ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアの選挙を監督する共同行動」、「イタリア王国の休戦条約緩和と国際連合への加入」を挙げた。チャーチルはアメリカ提案を検討する前に研究が必要であると述べたが、イギリスとしては提案は特に存在しないとした[3]。スターリンは会議で取り上げるべき議題として「ドイツ船舶の処分」、「賠償」、「イタリア植民地のソ連による信託統治」、「ルーマニア、ポーランド(ポーランド国民解放委員会、ルブリン政権)、ハンガリー(ハンガリー臨時国民政府ハンガリー語版)の親ソ連政権の米英による承認」、「スペインフランシスコ・フランコ政権問題と、タンジェ問題」、「シリアレバノン問題」、「ロンドンにあるポーランド亡命政府の消滅」をあげた[6]

特に紛糾した三つの問題、ポーランド問題、賠償問題、旧枢軸国に成立した各政府の扱いをめぐってイギリスとソ連は強く対立した。またチャーチルはブルガリアによるギリシャ攻撃計画をあげ、ソ連を批判した。スターリンはその議題は会議の予定に無く、非公式に討議するべきだと回答した[7]。さらにチャーチルはユーゴスラビアヨシップ・ブロズ・チトーが民主主義者と協力しない姿勢を明確にしていることも批判したが、スターリンはユーゴスラビア代表が参加していないとして討議を拒否した。さらにルーマニアにある英米資本の石油施設をソ連が接収したこと、ソ連が占領するウィーンに英米の士官が入れないことなど次々に批判した[8]。会議の最中、イギリスの総選挙では保守党が大敗し、チャーチルにかわって労働党クレメント・アトリーが首相となった。チャーチルは7月26日に帰国し、アトリーが首相として残りの会議に参加したが、イギリスの主張は変わらず、英ソの対立は頂点に達した。決裂を予期したトルーマンは協定が成立しなくても帰国しようとすら考えていた[4]。7月30日、ジェームズ・F・バーンズ国務長官は協定を成立させるため、英ソの外相に働きかけてアメリカ側の三条件を策定し、これに合意が見られない場合にはアメリカが8月1日に会議を離脱すると通告した[4]。この文書では「ポーランド国境」「ドイツの賠償」「イタリア・ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー各政府の状態」について触れられている。この「バーンズ提案」を三国が受け入れたことにより会議は決裂を免れ、占領下ドイツの経済問題に討議の主題は移った[9]
 
外相理事会
対枢軸国への平和条約策定のための外相会議案は前もってアメリカから英ソに通告されており、「米・英・ソ・フランス中華民国」の五大国の外相による小会議が行われることが前もって合意されていた。ポツダムの会議においてはこの外相理事会英語版が9月1日から平和条約の策定にあたることが早々と合意された[10]
 
ドイツ占領統治問題
続いて討議されたのはドイツの占領政策であった。すでにヤルタ会談で米・英・ソ・仏による分割占領と、非ナチ化、武装解除、戦犯処罰、現物による賠償が合意されていたが、占領にあたって統一的な命令は策定されず、それぞれの占領地域でばらばらの政策が実行されていた[11]。占領政策についてもすでに欧州諮問委員会英語版において討議が行われていたこともあり、各占領地域に統一的な行政制度を敷くことで合意された[11]。その後政治的・経済的な政策の原則が合意され、8月2日に「ポツダム協定」として明文化された。
 
ポーランド問題
しかしポーランド問題についてはチャーチルとスターリンが激しく衝突することになった。ヤルタ会談ではおおむねカーゾン線にそった線をポーランド東部国境とし、西ウクライナウクライナ語版喪失の代償として広範なドイツ領をポーランドに与えるという合意がなされていた。ところがソ連は米英との協議なしに、オーデル川ナイセ川の西の支流地域までをポーランド政府に与え、これを既成事実として認めるよう主張した。チャーチルはナイセ川の西までポーランド国境を広げることに反対したが、これは大規模なポーランド領拡大で数百万に及ぶドイツ人追放が起き、さらにイギリス占領地域に避難民が押し寄せることでその給養の負担が生まれること、さらにドイツ人の復仇心が造成されるとした。ポーランド代表団の一人で、戦争中にはイギリスと協力関係を持っていたスタニスワフ・ミコワイチク元亡命政府首相はソ連の国境提案に賛成し、スターリンに感謝の意を述べた[12]
スターリンはさらにポーランド亡命政府の解散とその支配下にあるポーランド軍の帰国を求めた。元来ポーランド亡命政府とソ連の関係はカティンの森事件の発覚以降極度に悪化しており、1944年1月、ソ連は亡命政府がポーランドを代表していないという姿勢を明確化した[13]。1944年11月24日のミコワイチク首相辞任以降、亡命政府は西側諸国の積極的な支持も失い、これを見たソ連とルブリン政府も亡命政府支持者への弾圧を強めていた[14]。チャーチルは亡命政府の解散にも強く反対し、ポーランドにおける公正な自由選挙開始の言質を求めた。国境の大幅な移動と親ソ連政権の確立はポーランドのソ連への依存を生み出し、ソ連の東欧における覇権が拡大されることは明らかであった[15]
7月21日には西側諸国が亡命政府と関係を絶ち、その財産がポーランド政府に引き渡されることで合意されたが、その他の事項では合意に達しなかった [12][15]。米英が要求した無干渉な自由選挙開催の言質も、結局得られないままであった。バーンズ提案によりポーランド国境に関しては最終決定は講和条約締結後に行うとしながらも、事実上ソ連側の主張を認めた形となり、多くの批判を受けることとなった[16]
 
賠償
ドイツの賠償問題においてはヤルタ会談において「200億ドル」相当の現物による賠償が合意され、ソ連はそのうち半分を受領することが合意されていた[17]。しかし戦争によって荒廃したドイツにその支払能力はないと考えられており、英米は戦後復興のためドイツに支援する事態を望んではいなかった。ヤルタでの合意に基づいてモスクワに設置された賠償委員会は賠償総額や支払方法について討議したが、結論は出なかった。ポツダムではアメリカが軍需工場設備からの現物賠償を提案し、一般市民の生活に影響を与えるべきではないと主張し、イギリスもこれに同意した。しかしソ連側はヤルタでの合意どおりの賠償を要求し、減額する場合でも賠償総額の決定を求めた。7月30日、バーンズの提案により、ソ連は自らの占領地域からの徴収のほか、西側占領地域から平時に必要の無い工業設備の25%が引き渡され、ソ連からは西側から引き渡された25%の半分の額に相当する食糧や資材が西側に渡され、またポーランドに対する賠償はソ連が徴収したものから支払われることとなった[7]。しかしスターリンは賠償総額決定を放棄する代償として無償引渡し額増加を要求し、結局ソ連は引き渡し額の6割を無償で引き受けることとなった[7]
 
旧枢軸国政府問題
ヤルタ会談において枢軸国やその占領地域に対しては、自由な選挙を通じた政府を設置することが合意されていた。しかしソ連はその占領地域に影響下の政府を樹立し、影響力を拡大していた。7月21日、トルーマンは三国から共同派遣する使節がイタリア・ギリシャ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアの選挙を監視するという提案を行ったが、スターリンは話題をそらした。トルーマンは自由選挙が行われるまでソ連占領地域の各政府を承認できないとし、チャーチルも同調した。スターリンはソ連がイタリア王国政府やフランス共和国臨時政府に承認を与えているとし、英米も東側の各政府を承認するべきと主張した。この議題は一旦外相たちによって討議されることになったが決着は見られず、7月24日から再び首脳たちによって討議された。
スターリンは英米の委員を東側政府に招くとした上で、英米主導の占領政策がイタリアにおいて行われていると英米を批判した。チャーチルは激昂し、イタリアにおいては自由が実現しているが、ソ連占領地域ではイギリス代表が「鉄の垣」の中に監禁されているとした。スターリンは「すべておとぎ話だ」と反論した[18]。バーンズの提案ではまず対イタリアの講和条約を策定し、ブルガリア・ハンガリー・ルーマニアについては民主的政府が成立するまで講和条約を締結しないというあいまいな決定が行われ、事実上ソ連占領地域の政府承認問題は先送りされた[9]
 
対日降伏勧告
ソ連の対日戦への勧誘は、フランクリン・ルーズベルト大統領時代から何度も行われており、ソ連側も対独戦終了後に態度を明確にすると回答していた。またアメリカは日本本土上陸作戦を検討していたものの、予想される損害があまりにも大きかったため、日本に対して明確な降伏勧告を行うことが必要であると考えられていた。日本への降伏勧告案は、事前にアメリカ陸軍長官ヘンリー・スチムソンアメリカ海軍長官ジェームズ・フォレスタル、元駐日大使ジョセフ・グルーらの三人委員会で策定されていた。
7月15日、会議の始まる前の正午ごろ、トルーマンはスターリンから対日戦参加の確約を得た[5]。しかし翌日には原子爆弾実験の成功が伝えられ、トルーマンはソ連の参戦がかならずしも必要ではないと考えるようになった。また、日本のソ連を仲介とした和平工作が進展中であるという情報を得たスチムソンは、対日降伏勧告をこの会議で行い、ソ連の懐に日本が飛び込むことを防ごうとした[19]。バーンズはこの段階での声明は時期尚早であると反対したものの、ウィリアム・リーヒ最高司令官付参謀長が支持し、トルーマンのこの意見に同意した。
三人委員会の案をベースとしてポツダムにおいても修正作業が行われ、天皇制維持条項が削除されている[20]。24日にはイギリスに声明案が渡され、25日、チャーチルは声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に変えるなどの修正を加えて回答した。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。7月26日、「ポツダム宣言」が発表された[19]。当時日本と抗戦していなかったソ連側の介入はほとんど無かった。宣言文に署名した蒋介石など中華民国関係者は宣言文策定や発表の場に参加しておらず、チャーチルも一時帰国していたため、宣言発表時にポツダムにいた署名者はトルーマンのみであった。
 
その他の議題
ドイツ降伏時にドイツ国籍船舶の大半は英米に引き渡されているが、ソ連はその3分の1の引き渡しを要求した。会議では結論が出ず、対日戦の終了後に外相間で討議されることとなった[21]
 
ソ連はイタリア領であったイタリア領リビア英語版の信託統治への参加を要求していた。ソ連はダーダネルス海峡付近でソ連軍艦が損傷した時のため、アフリカ北海岸に寄港地が必要であると主張したが、この要求はほぼ独力でアフリカのイタリア軍を駆逐したイギリスを驚かせた。トルーマンの調停により、この議論は9月の外相理事会で討議されることとなった[22]
 
スターリンはスペインのフランコ政権がドイツ・イタリアによって強制されたものであると主張し、英米による政府承認を取り消すよう主張した。チャーチルは現在フランコは支持を失いつつあり、英米の非承認がかえって国民をフランコ支持に傾かせかねないとしてこの提案に否定的であった。またアメリカは再び内戦状態に陥ることを懸念していた。会議の議定書では「スペインが現政府である限り、国際連合への参加を支持しない」と明記された[23]
 
アフリカの国際管理都市タンジェは、戦時中スペインによって占拠されていた。戦争終結後にスペインはタンジェから撤退することを表明し、アメリカ・イギリス・フランス・スペインでタンジェの管理問題について討議することになっていた。ソ連はこの会議への参加を主張したが、スペインはソ連の参加を拒否していた。会議の議定書ではソ連の会議参加権についてはフランスの参加しないこの会議では協議しないとされたが、同時に英米ソの三国はタンジェを国際管理都市のままにすることを同意し、近い将来に英米仏ソの4カ国がパリで討議するという合意が行われた[23]
 
シリアレバノンはフランスの植民地であったが、シリア・レバノン作戦において連合国が奪回して以降、1943年に選挙を行って独立を宣言した。しかしフランス臨時政府はこれを認めず、両国が暴動状態となって英米が介入する事態となった。以降両国には英仏軍が駐屯し、現地政府との合意後に撤退することとなっていたが、交渉は進展していなかった。スターリンはこの事態を解決するためにフランス政府と討議することを提案したが、チャーチルはすぐに会議を開いて撤兵することは危険であると主張したため、スターリンはこの提案を撤回した[24]
 
イランには1941年の英ソ両軍による占領以来、米英ソの兵士が駐屯していた。イギリスはソ連軍兵士が長く駐屯すればイランが共産化するおそれがあると見、即時撤退を主張した。ソ連は対日戦終了の6ヵ月後に撤兵することを提案し、合意された[25]
 
ソ連はバルト海における不凍港を求めており、東プロイセンのケーニヒスベルクとその隣接地域の領有を要求した。米英は特に強く反対せず、ケーニヒスベルクはカリーニングラードとしてソ連領となった[26]
 
ソ連はダーダネルス海峡ボスポラス海峡の通行権を定めたモントルー条約が時代遅れになったとし、新たな協定の締結を求めた。この中でソ連は黒海をかかえるため、特に優越した地位が与えられるよう主張した。議定書ではモントルー条約が時代遅れであるということは明記されたものの、通行権についてはトルコ政府と三国がおのおの協議を行うということになった[27]
 
ナチス・ドイツ戦犯訴追についてはすでに合意され、ロンドンに置いてその訴追手続きの作成が行われていた。スターリンはこの会議において首謀者の名前を挙げることを提案したが、取り上げられなかった。議定書では戦犯訴追の方針が再確認され、早い段階でのロンドンにおける合意を希望することが表明された[27]
 
すでにチェコスロバキアポーランドなどで大規模なドイツ人追放が行われていたが、議定書においてこの措置は承認された。ただしその措置は人道的な方法に限るとした上で、ドイツ占領当局の受け入れ態勢が整うまでその措置を中断することを希望すると表明された[27]
 
当時ユーゴスラビアのメディアは、ギリシャのマケドニアにおいて、スラブ人の迫害が進展していると報道し、ギリシャ政府側はユーゴスラビア側が反乱の動きを支援していると非難していた。ソ連はギリシャを、イギリスはユーゴスラビア側を批判する声明を用意していたが、トルーマンの調停によってこれらの提案は両方とも撤回された[28]
 
関連項目
 
 
最終更新 2013年8月10日

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