2013年12月5日木曜日

内モンゴル独立運動

内モンゴル独立運動

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95

内モンゴル独立運動(うちもんごるどくりつうんどう)は、中華人民共和国の実効支配下にある内モンゴル南モンゴル)における先住民族であるモンゴル人の独立運動のこと。モンゴル人による独立運動には全権独立を求めるものから高度自治を求めるものがある。
 
ファイル:China Inner Mongolia.svg
 
歴史
 
大清帝国からの独立
1636年満州人が建国した大清帝国満洲モンゴルチベット東トルキスタン中国本土朝鮮におよぶ大帝国であった。満州人はモンゴル帝国玉璽をモンゴル王族から受け継ぎ大清帝国を建国するという形をとり、モンゴル人と血縁関係を結ぶとともにモンゴル人を優遇していた。1906年漢民族孫文が「駆除韃虜、回復中華」を提唱し[1]1911年に漢民族によって「駆除韃虜、恢復中華」をスローガンに辛亥革命が行われ、大清帝国は崩壊した。崩壊直前の1911年12月に外モンゴルではロシア帝国を後ろ盾としたモンゴル人諸侯によってチベット人活仏ボグド・ハーン皇帝とする独立国家が樹立された(ボグド・ハーン政権)。1912年1月1日に漢民族によって中国本土中華民国が建国されると臨時大総統に就任した孫文漢人満州人モンゴル人ウイグル人チベット人を一つに合わせて一国とする旨を宣言した[1]
1913年1月11日モンゴル人チベット人チベット・モンゴル相互承認条約を締結してチベットモンゴル清王朝から独立するとともに外部からの侵略に対して相互防衛を図ることとした[2]。外モンゴルのボグド・ハーン政権内モンゴルにも勢力を伸ばしモンゴルは一時的に統一状態となったが、ロシア帝国が内モンゴルからモンゴル軍を撤退するよう圧力をかけたため、再びモンゴルは南北分裂に陥った。1915年にロシア帝国と中華民国によって外モンゴルのみの自治を認めるとした取決めがなされた。1917年ロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、1919年に中華民国は外モンゴルに軍を進めて占領した。1920年ソビエト連邦に抵抗するロマン・ウンゲルンが外モンゴルに白軍を進駐させて中華民国軍を追い出したことによってボグド・ハーン政権が復権したが、外国軍である白軍に反感を持つものたちの間に共産主義が浸透するようになり、モンゴル人共産主義者によってモンゴル人民党が設立されると、1921年ソビエト衛星国としてモンゴル人民共和国が外モンゴルに建国された。
1921年に孫文は漢民族を中心として、満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族の四民族を全て漢民族に同化させて中華民族を形成することにより単一民族国家を組織する旨を『三民主義ノ具体的方策』で発表した[1]1925年に孫文は中国民族の総数は4億人であるが外来民族である満州人モンゴル人ウイグル人チベット人は一千万人に過ぎないから中国人の大多数は全て漢人であり、同血統、同言語文字、同宗教、同風俗習慣を持つ完全な単一民族であるとする旨の『三民主義』講演を行った[1]1929年、内モンゴル東部にロシア帝国が敷設した北満鉄道の権益をめぐってソビエト軍中華民国軍が全面衝突する(中ソ紛争)。
 
満州国・蒙古聯合自治政府
1932年清朝皇帝であった溥儀関東軍の協力のもとで満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王族によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍ru)と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて蒙古聯合自治政府を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。満州国と蒙古聯合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。
1941年4月13日日ソ中立条約ソビエト日本の間で締結され、満州国(内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国(外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された[3]。ところが、1945年2月11日ソビエトアメリカ合衆国大英帝国ヤルタ会談を開き、満州を中華民国のものとし、北満鉄道南満州鉄道をソビエト・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみをソビエト・中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した[4]
1945年8月9日に突如としてソビエト軍が満州国と内モンゴルに侵略してきたことによって満州国・蒙古自治邦政府(1941年に蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊した(ソビエト参戦)。内モンゴル東部はソビエト軍の占領下におかれ、それを引き継いだ中国共産党の支配下に入った。内モンゴル中部は、ソビエト兵から難民を守るために根本博中将揮下の駐蒙軍が終戦日を過ぎた8月21日までソビエト軍の進撃を食い止めた後、中華民国軍に引き渡したことによって中華民国政府の支配下に入った。
 
中華人民共和国

1945年8月以降、中華民国政府と反政府勢力の中国共産党との間で国共内戦が起きた。国共内戦のさなかである1947年5月1日、中国共産党員のウランフは内モンゴルに内蒙古自治区を設置し、自分はその主席に就任した[5]1949年中華人民共和国が建国された後もウランフは主席として君臨していたが、1966年7月12日鄧小平がウランフを「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は内モンゴル人民革命党粛清事件と呼ばれるモンゴル人への大粛清を行った。これにより数十万人が粛清された[5][6]。さらに中国共産党は漢民族数千万人を内モンゴルに移入させることによってモンゴル人の割合を人口の20%余りにした。これによりモンゴル人は内モンゴル自治区における少数民族になり[1][7]、漢民族は人口の80%を占めるにいたった[7]。このような漢民族による移入政策は古くから行われている。古くは苗族が先住していた揚子江以南への移入によって苗族を西南部の山間部に追いやっており、現在はチベットや東トルキスタンでも行われている[8]

1989年天安門事件以降、内モンゴル独立運動も再び活発になり、1995年に内モンゴルではハダ等によって中国からの独立を目指す南モンゴル民主連盟が設立された[9]。しかし1995年12月10日、代表のハダと連盟員は中国政府によって逮捕され、ハダはスパイ、国家分裂主義者として刑務所に送られた[10][11]。このため、これ以降のモンゴル人は国内よりも海外で活動を積極化させていった。1997年には内モンゴル人民党アメリカ合衆国で設立し、2006年にはモンゴル自由連盟党日本で設立された。同時に南モンゴル人権情報センターはメディアに南モンゴルの人権情報を発信している[7]内モンゴル人民党モンゴル自由連盟党ヨーロッパにも支部を設置するなどしてヨーロッパ人とともに中国政府による人権抑圧への抗議活動を行っている[6]。独立を目指す団体は共同して抗議活動や声明文を出すなど協力関係を保っている[10][6]

2010年には内モンゴル人民革命党粛清事件における民族浄化を描いた楊海英静岡大学教授の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』が司馬遼太郎賞を受賞した[12]2010年12月10日ハダの刑期満了日以降、ハダとその家族が行方不明となっており、アムネスティ・インターナショナル日本などから中国政府に対する非難が上がっている[13]。このハダ失踪事件が国際的に報道されたことでチベット東トルキスタン同様に内モンゴルの人権問題に注目が集まっている[7][14][15][9]

現在、内モンゴルは東トルキスタン・チベットと並んで中国におけるレアメタル等の鉱物資源の主要産地となっていることや中国政府による漢民族移入政策によって、中国からの独立を図ることが困難になりつつある。

日本での活動
日本国内では日本人、チベット人、ウイグル人たちが協力して中国大使館へのデモや抗議書の投かんなどを行っている[16][17][18]。中国の脅威と戦うという立場からモンゴル自由連盟党田母神俊雄空幕長が代表を務める‎頑張れ日本!全国行動委員会主催の「自由と人権アジア連帯集会」に参加している[19][20]。また、モンゴル人は維新政党新風などの保守系の政治団体とも交流を深めるようになっている[21]2011年以降はハダの釈放を求める活動をウイグル人、チベット人、日本人と共同で行っている[10]
 
関連項目
外部リンク
モンゴル自由連盟党(日本語)(中国語)(モンゴル語)
南モンゴル人権情報センター(英語)(中国語)(モンゴル語)
内モンゴル人民党(英語)(中国語)(モンゴル語)
最終更新 2013年7月16日

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