2014年7月21日月曜日

倍賞千恵子 波浮の港 他

波浮の港



  1. 磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る
    波浮の港にゃ夕焼け小焼け
    明日の日和はヤレホンニサなぎるやら
  2. 船もせかれりゃ出船の仕度
    島の娘たちゃ御神火暮らし
    なじょな心で、ヤレホンニサいるのやら
  3. 島で暮らすにゃ乏しゅうてならぬ
    伊豆の伊東とは郵便だより
    下田港とはヤレホンニサ風だより
  4. 風は潮風、御神火おろし
    島の娘たあちゃ出船の時にゃ
    船のとも綱ヤレホンニサ泣いて解く
  5. 磯の鵜の鳥ゃ沖から磯へ
    泣いて送らにゃ出船もにぶる
    明日も日和でヤレホンニサなぎるやら



城ヶ島の雨 倍賞千恵子.flv



北原白秋作詞 梁田 貞(やなだ ただし)作曲

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ



倍賞千恵子/さくら貝のうた



さくら貝の歌

作詞:土屋花情(C)
作曲:八洲秀章(C)

(1)
美(うるわ)しき 桜貝ひとつ
去り行ける  きみに捧げん
この貝は   去年(こぞ)の浜辺に
われ一人   拾いし貝よ

(2)
ほのぼのと うす紅染むるは
わが燃ゆる さみし血潮よ
はろばろと 通う香りは
きみ恋うる 胸のさざなみ

ああなれど
わが想いは儚(はかな)く
うつし世の渚に果てぬ

http://www13.big.or.jp/~sparrow/yashimahideaki-den.html
八洲秀章は独学の作曲家で、音楽学校のいわゆる正式な教育を受けたり、有名作曲家に師事したりすることなく、自らの持つ感性で音楽の道を切り開いてきた。教わったのは、故郷北海道真狩村の尋常高等小学校の音楽の先生のみと。いわば、秋田から突然出現した天才バッター落合博満のようなものである。昭和15年にすでに「さくら貝の唄」を作曲していたが、これが世に出たのは戦後の昭和24年「さくら貝の歌」としてのことで、山田耕筰に見出されたのがキッカケである。ここで八洲秀章は山田耕筰に作曲の手ほどきを受けて、初めて師と言えるものを持ったのであった。「あざみの歌」がNHKの<ラジオ歌謡>でリリースされたのが、翌年の昭和25年8月8日のことであるから、山田耕筰流の薫陶が入っているかも知れない。
作曲家としての曲が最初に世に出ることとなったのが、また作曲家としてやっていけると決心したのが、昭和12年東海林太郎の歌った「漂白の歌」だった。昭和11年に作曲家を目指して上京した翌年のことだから、素人としてはかなり早く発芽したといえよう。以後、作曲活動を続けるうち、「さくら貝の唄」は時節柄日の目を見ることがなかったが、完全に花開いたのが同年伊藤久雄をスターダムに送り出した「高原の旅愁」のヒットである。この曲は後年の八洲秀章の曲と比べるとかなり異質である。わたしは、八洲としてはこの作曲は不本意でなかったか、と思っている。純情な令嬢が面影の君を追い求めるという、「影を慕いて」「君恋し」「湖畔の宿」「並木の雨」「旅の夜風」などが相前後して全盛で、関沢潤一郎のゴテゴテの歌詞もあって、無視するわけにもいかなかったのだろう。
鈴木義光(八洲秀章の本名)は、大正3年北海道真狩村(歌手細川たかしと同村)の開拓農家のニ男として生まれた。昭和7年17歳の時農作業で事故に遭い、当時若者の憧れであった軍人にもなれず、農業を継ぐこともできず悶々とするうち、小さい頃から夢想していた音楽家になろうと決心する。小学校の先生に作曲の基礎を習い、独学で勉強して、4年後の昭和11年、一人の乙女に想いを残しながら上京するのである。乙女の名前は横山八重子。義光は完全に片思いと信じて旅立った。「漂白の歌」がヒットした翌年昭和13年のこと。作曲に疲れた義光が夢とうつつの中をさまよっていると、故郷に居るはずの乙女が枕元に立っているではないか。片思いのはずなのに、一通の恋文も出さなかったのに、打ち明けたこともなかったのに・・・乙女の想いこそが自分のところへ来たのではなかろうか? そう思った瞬間、義光は乙女が亡くなったことを確信したのである。逗子海岸で桜貝の一片を見たとき次のような歌を残して、<わが恋の如くかなしやさくら貝かたひらのみの寂しくありて>と死別して取り残されたものの悲しみを詠っている。後になって、乙女が枕元に立った時間が、ちょうど亡くなった時間だったと知った鈴木義光は、乙女の本名<横山八重子>から<八>を、戒名<誓願院釈秀満大師>から<秀>の一字を借りて【八洲秀章】と名乗ることにしたのである。
昭和14年、鈴木義光は、亡くなった横山八重子を偲んで歌を作ろうと思い立ち、時に同じ湘南に公務員として勤めながら作詩活動をしていた土屋花情のもとに赴き、先の句 ♪わが恋の 如くかなしや さくら貝・・・♪ を示して作詞を依頼した。土屋花情も何度も逗子海岸を散策して想を練り、義光の短歌の中にあった<さくら貝>をモチーフとして「さくら貝の唄」を作り上げたのだった。歌詞をよく見ると、死別した人への思い、というよりは失恋の歌の趣も濃い。これは、土屋花情自身の失恋の思いが強く反映されていると言われている。かくして昭和15年「さくら貝の唄」はレコーディングされ完成をみた。しかし時節柄、レコード会社の判断でこのレコードはお蔵入りとなり、陽の目を見ることはなかったのである。このレコードに鈴木義光が<八洲秀章>を名乗ったかどうかは定かではない。
奇妙なことに、同じ昭和15年レコーディングの「高原の旅愁」原盤の作曲者は鈴木義光でも八洲秀章でもなく【鈴木義章】となっている。時間的に「高原の旅愁」が作られたのは【八洲秀章】を名乗ると決めた後のようだから、その名前は「さくら貝の唄」のためのもので、「高原の旅愁」には使用しない―――使用するのは不本意だ、即ち「高原の旅愁」は八洲秀章にとって不本意だった、と私が推察する根拠の一つである。「港に赤い灯がともる」や「流れの三人旅」「赤色エレジー」のノリの悪さもその根拠となっているが・・・
戦後、NHKの<ラジオ歌謡>が一世を風靡するにつれ、八洲秀章の「さくら貝の歌」「あざみの歌」「山の煙」「毬藻の歌」「チャペルの鐘」などの抒情歌謡は、戦争に疲れた人々の心に染み込んで行った。かくして、鎌倉に住んで作曲を続けた八洲秀章は、生涯に校歌、童謡などを含め3,000曲以上を作曲したと言われている。21歳の時から作曲を開始して、昭和60年に70歳で亡くなるまで続けたとして、一年に60曲、月5曲以上のハイペースで作曲したとは驚きである。

父 八洲秀章氏  ←八洲秀章氏のご子息沢木順氏のサイトです




あざみの歌  倍賞千恵子  (album version)



2009/02/22 にアップロード


歌唱:倍賞千恵子(album version)
作詞:横井弘
作曲:八洲秀章

あざみの歌

山には山の 愁いあり
海には海の 悲しみや
ましてこころの 花園に
咲きしあざみの 花ならば

高嶺の百合の それよりも
秘めたる夢を 一筋に
くれない燃ゆる その姿
あざみに深き わが想い

いとしき花よ 汝はあざみ
こころの花よ 汝はあざみ
さだめの径は 果てなくも
香れよせめて わが胸に



倍賞千恵子「忘れな草をあなたに」






オホーツクの舟唄(知床旅情) 倍賞千恵子  



2014/01/30 に公開
オホーツクの舟唄」(1960年)
歌:倍賞千恵子
作詞/作曲:森繁久彌

映画「地の涯に 生きるもの」(1960年)の打ち上げ時、地元の人の為に 森繁久彌さんが即興で作った「さらば羅臼」が元歌になっています。その後「知床旅情」­として 加藤登紀子さんが歌って大ヒットしました。




倍賞千恵子「旅の夜風」High resolution



2014/07/06 に公開
倍賞千恵子「旅の夜風」High resolution

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