2014/04/12 に公開
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2012年6月熊谷歌舞伎の会 気仙沼復興支援歌舞伎(ナレーション無し・ノーカット版) PART2 直実800年・直宗750年遠忌法要
2012年6月熊谷歌舞伎の会 気仙沼復興支援歌舞伎(ナレーション無し・ノーカット版) PART3 東日本大震災鎮魂祭
2012年6月熊谷歌舞伎の会 気仙沼復興支援歌舞伎(ナレーション無し・ノーカット版) PART4 レセプション
2012年6月熊谷歌舞伎の会 気仙沼復興支援歌舞伎(ナレーション無し・ノーカット版) PART5 オープニング
2012年6月熊谷歌舞伎の会 気仙沼復興支援歌舞伎(ナレーション無し・ノーカット版) PART6 一谷嫩軍記 須磨浦陣門・組討之場
2012年6月熊谷歌舞伎の会 気仙沼復興支援歌舞伎(ナレーション無し・ノーカット版) PART7 一谷嫩軍記 熊谷陣屋之場
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http://www.asahi.com/special/10005/TKY201206240125.html
熊谷歌舞伎、気仙沼で上演 源平時代からの熊谷姓が縁で
「一谷嫩軍記」を演じる「熊谷歌舞伎の会」のメンバー=24日午後、宮城県気仙沼市、日吉健吾撮影
源平時代の武将・熊谷次郎直実(なおざね)のつながりで被災地を応援しようと、埼玉県熊谷市の市民劇団「熊谷歌舞伎の会」などが24日、宮城県気仙沼市で名作「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」を上演した。気仙沼の人々も郷土芸能を披露し、訪れた約1200人が楽しんだ。
直実は、平安から鎌倉の時代にかけて熊谷市周辺を統治した。その子孫が気仙沼市周辺に移り住んだとされ、今も人口の5%の約3550人が「熊谷」姓だ。
震災後、熊谷市民が約1600万円の義援金を気仙沼市に贈り、両市の有志が歌舞伎の上演に向けて準備をしてきた。
直実は、平安から鎌倉の時代にかけて熊谷市周辺を統治した。その子孫が気仙沼市周辺に移り住んだとされ、今も人口の5%の約3550人が「熊谷」姓だ。
震災後、熊谷市民が約1600万円の義援金を気仙沼市に贈り、両市の有志が歌舞伎の上演に向けて準備をしてきた。
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一谷嫩軍記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%B0%B7%E5%AB%A9%E8%BB%8D%E8%A8%98
『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)とは、文楽および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、宝暦元年(1751年)11月に大坂豊竹座にて初演。並木宗輔の作。三段目の切は特に『熊谷陣屋』(くまがいじんや)と通称される。ただし宗輔はこの作の三段目までを執筆して病没したので、浅田一鳥らが四段目以降を補って上演した。版行された浄瑠璃本には、作者として浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六の連名のあとに、「故人」として並木宗輔の名が最後に記されている。
あらすじ
初段
(堀川御所の段)時に寿永三年の二月半ば、平家は源氏に追い詰められ安徳天皇を戴いて西国へと落ち、京の堀川御所にいる源義経は、鎌倉の兄源頼朝から平家追討の命を受け、日夜その事について評議をしていたが、そんななか平家の平大納言時忠が義経のもとを訪れていた。時忠は一門を裏切り自分の娘卿の君を義経の妻とさせ、安徳天皇のもとにあった三種の神器のうち、内侍所すなわち八咫の鏡と神璽をひそかに奪い取って義経に差し出していた。そこへさらに藤原俊成の娘、菊の前が訪れる。菊の前によれば、父俊成のもとに或る旅人が訪れ、いま俊成が撰者となって編纂している『千載和歌集』に自分の和歌を入れてほしいと願い出ており、それを記した短冊を持って来たのだという。義経が見ると、「さざなみや しがのみやこは あれにしを むかしながらの やまざくらかな」という和歌。じつはこれは平家の武将平忠度が詠んだ和歌であり、いま源氏と敵対する平家の者が詠んだ歌を、勅撰和歌集に入れてもよいかどうか源氏の義経に伺いに来たのであった。その場にいた時忠は反対するが義経は、ひとまずこの短冊は自分が預かるといって菊の前を帰らせた。
次に義経の家臣である岡部六弥太忠澄と、熊谷次郎直実が義経の前に出た。頼朝より再三平家追討の軍を出立させるよう義経が催促を受けているので、早く出立するようにと二人は進言するが、義経は今むやみに攻めて平家方に残された三種の神器の一つである十握の剣を失うことがあっては一大事であり、それを取り戻す機会を伺っているのだと言い、また六弥太には件の短冊を桜の枝に付けて渡し、これを忠度に届けるよう命じた。いっぽう熊谷には、「此花江南の所無也、一枝折盗の輩に於ては、天永紅葉の例に任せ、一枝を切らば一指を切るべし」という文言の書かれた高札を渡し、須磨に行き陣所を構え、そこにある若木の桜をこの制札で以って守れと命じた。両人は時忠とともにそれぞれ短冊と高札を手にして義経の前を下がる。
(北野天神の段)北野天神では今を盛りの桜が咲き誇り、その境内に幕を張り腰元たちを連れて花見をしているのは、義経の妻卿の君であった。じつは卿の君は、義経が忍びでこの北野天神に毎日参詣していることを知り、待ち構えていたのである。はたしてそこへ編笠をかぶり、姿をやつした義経が熊谷の息子小次郎直家を供にしてやってきた。卿の君は二人を幕の内へと招き入れる。
だがその隣の幕には卿の君の父である時忠が、源氏の侍梶原平次景高と平山武者所末重を連れてきていた。時忠には卿の君のほかに玉織姫という娘がいたが、これが平経盛の養女となっていた。時忠はこの玉織姫をいずれ経盛のもとから取り返し、平山武者所に嫁がせる約束をする。また時忠は、義経は自分にとって後まで信用することのできる人物ではない、いずれ卿の君も義経の手から奪って、景高に添わせようという。この密談は、義経たちにも洩れ聞えていた。小次郎は怒りのあまり幕を飛び出し、時忠たちを討とうするが義経に止められる。しかしその間に、やはり話を耳にしていた卿の君が自害してしまったのである。父の悪事を悲しんでのことであった。これには義経や小次郎、腰元たちも嘆き悲しむが、義経は小次郎たちに卿の君の死骸を駕籠に乗せ館へ帰るように命じ、自分はひとり別に帰っていった。
駕籠に小次郎が付き添い一行が館に帰ろうとすると、景高と平山が手下を連れてあらわれ、卿の君を奪おうとする。小次郎が応戦するが最後は多勢に無勢、腰元たちとともに駕籠を残して逃げ去る。だが景高と平山が駕籠の中を改めると卿の君は死んでいるので二人ともびっくりする。そこへ時忠も来てさすがに娘の死を悲しみ、その場で野辺の送りをすることになる。
(経盛館の段)平家が拠点としていた福原の御所も、いまでは一門はそこを立ち退き、残っているのは平経盛とその身内だけであった。経盛は養女の玉織姫を、自分の息子である平敦盛といずれ夫婦にしようと決めていたが、折からの源平の争いでまだそれが叶わなかった。そこに都から時忠の使者大館玄蕃が訪れ、主人時忠の意向により玉織姫を引き渡せという。経盛は姫のためを思って玄蕃に姫を渡そうとするが、玄蕃が時忠が姫を呼び戻すのは平山武者所に嫁がせるためだというと、いきなり姫は玄蕃が指している刀を奪い、玄蕃を斬り殺した。これはと経盛は仰天するが、姫は敦盛のほかに夫はないと心に決めていたのである。経盛の妻で敦盛の生母藤の方はよくやったと姫を誉め、敦盛を呼んで姫と祝言の盃をさせるのだった。だがこのとき経盛は、みなの前で思いもよらぬことを語った。
藤の方はもと後白河院に仕えた女房であったが、経盛の妻となる前すでに懐妊しており、そののち産み落としたのが敦盛であった。つまり敦盛はじつは、後白河院の落胤だったのである。しかし平家の命運は尽き、いずれこのままでは敦盛も一門とともに命を落とすことになるであろう。そうなるまえに藤の方と玉織姫を連れてすぐさまここを立ち退き、都に上って身を隠しいずれ院を頼るようにと経盛は敦盛に言い聞かせる。敦盛はいったんはそれを拒むが、経盛に聞き分けなければこの場で切腹するといわれ、致し方なく承知する。敦盛をはじめとする人々はその用意に奥へと入る。
そこにいまは八島に向けて安徳天皇とともに落ち延びている平宗盛から、経盛に宛てて書状が届く。安徳天皇や建礼門院を守護するための援軍として出立せよとの知らせであった。経盛は敦盛や藤の方に告げる暇もなく、その場を立ち去った。だがそのあとで敦盛は緋縅の鎧兜に身を固め、騎馬で出陣しようとする。藤の方はこれを見て驚くが、敦盛は経盛のいうことを聞くようには見せたものの、やはり平家の一門として討死をする覚悟だったのである。その姿を見た玉織姫は自分もともに連れて行ってと頼み、藤の方も姫を連れて行くよう勧めるので、敦盛は姫を連れて一谷へと向うのであった。
ふたりを見送った藤の方は、声をあげて泣いた。じつは幼いころより舞楽を好み、戦のことなど何一つ知らぬ敦盛。それが戦場に出たならばすぐさま討取られるのは知れたこと、それを送り出し姫まで付き添わせたのは、臆病者のそしりを免れさせ、また敦盛と姫をせめて少しでも、夫婦として一緒にいさせてやりたいと思う心からであった。だがそこへ平山武者所の手下どもが玉織姫を奪いに攻め入ってきた。藤の方に仕える奥女中たちはてんでに薙刀や刀を持って応戦し、藤の方は経盛のあとを追って落ち延びてゆく。
二段目
(一谷陣門の段)敦盛は平家方の大将として、須磨の浦を近くにする一谷で陣を構えている。月もない夜、そこに熊谷直実の息子小次郎がひとり先陣に駆けつけ、その陣門の前まできた。すると陣の中から管弦の音が聞える。小次郎は、自分たちのような荒々しい田舎の者に比べ、かかる戦場においても管弦の音を奏でる平家方の優美さよと心を動かされるのであった。そこへ平山武者所も、ひとり先陣を争って馬に乗り駆けつける。平山は小次郎に先陣を譲るので、小次郎は名乗りをあげて陣中へと入り、平家方の手勢と斬りあいとなる。ほどなく熊谷直実も現れ、これも陣中へと切り込むが、やがて小次郎が手傷を負ったといって小次郎を抱え、すさまじい勢いで立ち去った。平山は熊谷親子の手柄を横取りしようと考えていたのだが当てが外れたと思うところ、敦盛が鎧兜に身を固め馬に乗って現れる。平山は敵勢も自分に襲い掛かってくるので、あわててその場から逃げ出し、敦盛はそれを追いかけてゆく。
(須磨浦の段)いっぽう敦盛とは離れ離れになった玉織姫は、敦盛の姿を求めて須磨の浦までさまよい出ていた。だがそこに平山が現れ姫を捕まえ、自分の妻となるよう迫る。しかしあくまでも敦盛を慕う姫はそれを拒み平山を罵るので、ついに平山は怒り姫の胸に刀を突き刺した。そのとき背後に声が上がり、平山は平家の手勢が自分を追ってきたのかと恐れその場を逃げ去る。
(組討の段)平家の軍はほとんどが船に乗り、八島へ向けて退こうとしている。須磨の浜の波打ち際、敦盛もその船を目指し沖に向って馬を走らせる途中、声を掛けたのはこれも騎馬の熊谷直実。引き返して勝負あれとの熊谷の言葉に、敦盛は引き返し、熊谷と一騎討ちの勝負に及ぶ。やがて互いは獲物も捨てて組み合ううちに馬より落ち、最後は熊谷が敦盛を組み伏せた。しかし熊谷は、覚悟を極め自分の首をとれとしおらしくいう敦盛を憐れみ逃がそうとするが、その様子を平山武者所が、離れたところから手勢を率いて見ていた。わざわざ組み敷いておきながら平家方の大将を逃がすとは、熊谷には二心あるに極まったと声高に罵る。敦盛は自分の回向を頼み、熊谷はやむを得ず、ためらいながらも「未来は必ず一蓮托生」と願い、敦盛の首を討ち落とした。
平山に深手を負わされ倒れていた玉織姫は、敦盛を討ち取ったというのを聞き何者が敦盛を討ったのかと弱々しく声をかける。熊谷はそれに気づいて姫のそばに駆け寄る。熊谷は姫が敦盛の妻であるというので、せめてものことに討ったばかりの首を姫に抱かせるが、姫はもはや目も見えず、敦盛の死を嘆き悲しみながら息絶えた。都以外のことを知らぬ貴公子や姫君のかかる最期の無惨さに、敵方である熊谷も涙するのだった。熊谷は敦盛と姫の死骸を馬の背に乗せ、首を片手に抱え馬を曳きながら自らの陣所へと帰った。
(菟原の里林住家の段)菊の前の乳母をしていた林は、菊の前が成長したことにより役目を退き、いまは摂津菟原の里にひとりつつましく住んでいる。そこに黄昏時、薩摩守忠度が供も連れずにひとり訪れ、泊めてほしいという。林はにわかの来訪に驚くが忠度は、自分が和歌の師と仰ぐ都の藤原俊成のもとを訪れ、現在編纂の千載集に自作の和歌を加えてほしいとひそかに願い出ていたのだが、合戦となったのでやむなく須磨にある平家の陣所に帰る途中であると述べる。林は忠度を休ませるため、奥へと通した。
そのあと、この家に頬被りをした男が忍び入り、納戸にしまってあった袋入りの太刀を持ち出そうとするが、気配を察した林に声を掛けられびっくり、逃げ出そうとするも取り押さえられてしまう。ところが頬被りを剥ぎ取って人相を改めると、それは林の息子太五平だったのである。太五平は日ごろの素行の悪さに林が勘当していたのであった。林は親のもとに盗みに入る太五平に呆れるが、太五平は今真っ最中の源平の合戦で手柄を立てて褒美を得ようと、家に伝わる太刀を取りにきたのだという。もちろん林は聞く耳を持たず太五平の手から太刀を取り返そうとするところに、人入れ稼業の茂次兵衛がきて林をなだめる。じつは今度の合戦で旗持ち役の雑兵がいるので、それを太五平にあてがおうというのである。それを聞いて林も機嫌を直し、太五平に太刀を渡し茂次兵衛が持ってきた雑兵用の具足も着せてやって送り出す。林は茂次兵衛に、息子が世話になった礼をしようとて酒肴を用意し奥の納戸へと案内する。
そこにまた駆けつけてきたのは菊の前であった。菊の前と忠度は互いのことを恋い慕う仲であったが、忠度が都を立ったと知り、あとを追いかけたもののその行方がわからず、とりあえず林を頼ろうとやって来たのである。しかし林から、すでに忠度が奥で休んでいると聞いた菊の前は喜んで奥へと入った。だがしばらくして、菊の前は奥より飛び出した。林がどうしたことかと尋ねると、忠度から別れの言葉を言い渡されたという。やがて忠度も出てきて、平家の命運はもはや尽き敗戦を重ね、自分もいずれ討死するであろう。また平家にかかわりあっては菊の前はもとより、その父俊成も源氏に目をつけられ迷惑をかけることになる。だからこのまま自分とは別れるようにと忠度は菊の前に話すが、たとえ討死するとも忠度様にどこまでも付いてゆく、別れるのはいやと菊の前は涙ながらに訴えるのであった。
すると、にわかに鳴り響く陣太鼓とともに手勢を率いて現れたのは、源氏方の梶原平次景高。茂次兵衛が忠度のことを知らせたのである。忠度は菊の前と林を奥へとやり、太刀を抜いて応戦する。景高は多勢で以って忠度を絡めとろうとするが、忠度はひるむことなく手勢をなぎ倒し投げ飛ばして寄せ付けない。その勢いに恐れをなした景高は手勢の雑兵ともども逃げ去った。そこに、忠度卿に見参と烏帽子に大紋の礼装で現れたのは、義経の家臣六弥太忠澄であった。
六弥太は、義経より託された忠度の短冊をつけた桜の枝を差し出し、この短冊の「さざなみや」の和歌が千載集に「よみひとしらず」として入集したことを忠度に知らせる。忠度は本意が果たせたことを喜び、六弥太とは戦場で再会し勝負することを約束する。時もすでに暁、菊の前や林とも別れを惜しみながらも、忠度は六弥太の用意した馬に乗って、須磨の陣所へとは向うのであった。
三段目
(弥陀六内の段)さて須磨には白毫の弥陀六という石屋が住んでいた。日暮れ、その家に同業の石屋たちが訪れ、石屋仲間で法事があるので、弥陀六は皆とともに出かけてゆく。弥陀六には小雪という娘がいたが、それが患って病勝ちである。それというのもこのほど、弥陀六に石塔を建てるよう頼みに来た若衆がいてそれに一目惚れし、未だにその思いを伝えられないという恋わずらいであった。その若衆が石塔のことで、弥陀六の家にやってきた。小雪は下女のお岩にたきつけられ、ついに自分の思いを伝えるが、若衆は仔細あって女を近づけることはできない身の上であるという。それでも納得しない小雪に、若衆は錦の袋に入った笛を出し、かわりにこれを形見にせよと渡す。そこに弥陀六が帰ってきた。注文の石塔はすでに出来ているので、弥陀六は若衆を石塔のあるところまで案内しにふたたび出かける。
(御影の松原の段)夜道を歩む弥陀六と若衆は石塔の前にたどり着く。そこへ在所の百姓たちも通りかかり、小雪も若衆にもう一度会いたいと、最前貰った笛を持ち弥陀六と若衆のあとを追いかけてやってきた。ところが気がつくと、石塔を注文した若衆の姿が見えない。弥陀六と百姓たちは注文主が代金も払わずに消えるとは、何かの騙りであろうと口々に言うところ、身分の高そうな女が走り来たがそれは藤の方であった。
藤の方はその場にいる人々に道を尋ねたが、ふと小雪が持つ笛を目にしてびっくりする。それは敦盛が愛用の、青葉という笛だったのである。さらに藤の方は百姓たちから、敦盛が熊谷次郎という侍によって討たれ、玉織姫も死んだことを聞く。あのとき経盛館で別れたのが最後だったのだと、藤の方は人目も包まず泣き崩れるのであった。しかしその敦盛の形見を小雪が受け取ったことといい、また弥陀六が案内するはずがいつの間にか消えていたことも考え合わせると、石塔を注文しに来た若衆というのは、敦盛の幽霊に違いないと皆は言い合った。
そこへ、藤の方を追っていた梶原景高の家来たちが手勢を率いて現れ、藤の方を見つけて渡せと迫る。しかし弥陀六は藤の方と小雪を逃がし、百姓たちは鋤鍬などをてんでに持って抗った末、ついには家来のひとりを殴り殺してしまう。さすがにまずいことをしたと、皆は誰かひとりを犯人として差し出そうと、それをくじ引きで決めようとする。
(熊谷桜の段)須磨に置かれた熊谷直実の陣屋には花を咲かせた若木の桜があり、その傍らに例の「此花江南の所無也」云々と書かれた制札が立っている。そこに熊谷の妻相模が訪れる。夫熊谷やわが子小次郎の様子を案じて、はるばる鎌倉からやってきたのである。そのすぐ後に、人に追われて難儀しているとひとりの女が陣屋に駆け込んできたが、それは藤の方であった。
相模は藤の方をみてびっくりする。じつは十六年ほど前のこと、相模はまだ後白河院のもとにいた藤の方に仕えていたが、そのとき佐竹次郎と名乗る警護の侍だった熊谷と恋仲になり、それが顕れてふたりとも処罰されそうになった。だが藤の方の口添えによりふたりは助かり、都を落ちていった。そしてその後佐竹次郎は熊谷次郎直実と名を改めて義経に仕え、相模は小次郎を産み落としていたのだったが、藤の方とは長らく音信不通になっていたのである。藤の方は佐竹次郎が熊谷であることを聞いて顔色を変え、わが子敦盛の仇として熊谷を討たせよと相模にいう。困惑する相模。昔助けてもらった恩義があるので、すげなく否ということができない。そこへさらに、梶原景高が弥陀六を縛って連れて来たので、相模と藤の方は一間へと隠れた。
熊谷の家来堤軍次が出て景高に応対するが、景高は連れて来た弥陀六に詮議の筋があり、それについて熊谷に話があるのだという。軍次は、主人熊谷は外出し留守であるというと、では待たせてもらおうと景高は弥陀六を引っ張って奥へと入る。
(熊谷陣屋の段)やがて日も暮れようとするころ、熊谷が戻ってきた。景高のことを聞いた熊谷は、軍次に景高の相手をさせることにし、一方妻の相模には、女の身で戦場に来るとは何事だと叱る。だが熊谷の背後からいきなり斬りつけようとする者があらわれ、熊谷は思わずそれをねじ伏せた。が、それが藤の方だと聞いてびっくりし、手を離して相模ともども平伏する。藤の方と相模は敦盛をなぜ討ったと熊谷に質すが、熊谷は戦場でのことは致し方ないことであると言い、そのかわりにと敦盛を討った様子を、相模と藤の方の前で物語る。そして相模に、藤の方を連れ直ぐにここを立ち退けといって奥へと入った。
相模は藤の方が持っている敦盛の形見の笛を目にし、それを吹いたら経文代わりのよい供養になろうと、笛を吹くのを勧める。藤の方はその勧めに従い、笛を吹いた。ところがそのとき一間の障子に人影が映る。もしや敦盛の幽霊かと藤の方は急ぎ障子を開け放すと、そこには死ぬ直前まで敦盛が着ていた鎧兜が、鎧櫃の上に置かれるばかりである。藤の方と相模は、あまりの切なさに涙した。
再び奥から、敦盛の首が入った首桶を持って熊谷が現れる。それを見た相模はどうかひと目その首を藤の方にと夫を引き止め、藤の方も熊谷にすがりつき嘆くが、あるじ義経に見せるまでは誰にも見せられぬと熊谷は二人を突き放し、義経のもとへと行こうとする。そのとき奥より、熊谷待てと声を掛けてあらわれたのは、ほかならぬ御大将義経公。義経は、熊谷が敦盛を討ったにもかかわらず、すぐさま自分のところにその首を届けに来ないのを不審に思い、自ら出向いてきたのだという。熊谷は義経の前に首桶と義経より託された制札を置き、制札の文言に添って首を討ったと述べた。そして、首桶を開けた。
だが、その首の顔を、ちらりと見た相模は、ヤアその首はと仰天して首に駆け寄ろうとした。熊谷は寄ろうとするのを引寄せて物も言わせず、さらに藤の方もわが子の顔見たさに駆け寄ろうとするがこれも熊谷はお騒ぎあるなと寄せ付けない。
義経は首を検分し、よくぞ討った…縁者にその首を見せて名残を惜しませよという。熊谷は相模に、藤の方に敦盛卿の首を見せるようにと首を渡した。相模は嘆き悲しみながら藤の方に見せる。藤の方は首を見て驚く。それは敦盛ではなかったからである。
義経は敦盛が後白河院の落胤であることを知り、なんとかその命を助けたいと考えていた。そこで小次郎をその身代りに立てろとの意を込めた「此花江南の所無也」云々の制札を熊谷に手渡し、熊谷はその義経の意向に従った。すなわち一谷の平家の陣所で手傷を負ったと称して連れ去ったのは敦盛であり、須磨の浦で熊谷と戦って首を討たれたのはじつは小次郎だったのである。弥陀六に石塔を誂えさせた若衆というのも、また藤の方が笛を吹いたときに障子にあらわれた人影も、じつは幽霊ではない敦盛本人であった。だが相模は、夫の熊谷から何も聞かされてはいなかった。
やがて出陣の合図である陣太鼓が鳴り響き、熊谷はいったんその用意に義経の前から下がった。そこへ景高が飛び出し、敦盛を助けたことを鎌倉へ注進せんと駆け出そうとするが、その背中に石鑿が飛んできて突き刺さり、景高はその場で絶命する。これはと人々が驚くうち、出てきたのは石屋の弥陀六。石鑿は弥陀六が投げたものであった。幽霊のご講釈承ってまずは安堵と、弥陀六はその場を去ろうとする。だが義経は、弥陀六がじつは平家の武士、弥平兵衛宗清であると見破り声を掛ける。最初はとぼけていたものの、ついにはこらえきれずに弥陀六じつは宗清はおのれの正体を明かし、娘の小雪というのもじつは平重盛のわすれがたみであり、そして自分がかつて常盤御前に抱かれていた幼児の義経を助けておかなければ、いまの平家の悲運はなかったものをと嘆くのであった。
すると義経は、石屋の親父に渡すものがあるといって先ほどの鎧櫃を渡した。これを娘に届けよというので、宗清が中を改めようとして蓋を開けるとそこには敦盛、藤の方は思わず駆け寄るが、宗清こと弥陀六が何にもないと押しとどめ、敦盛の命を助けた熊谷に礼をいうのであった。いっぽう鎧兜に身を包み再び義経の前に現れた熊谷は、義経に暇乞いを願い出る。そして兜を脱ぐと、その頭は髻を切っており、鎧も脱ぐとその下は白無垢の衣類に袈裟の姿。熊谷は小次郎の菩提を弔うために武士を捨て名も蓮生(れんしょう)と改め、僧侶となる覚悟をしていたのである。義経もこれを見て熊谷の心根を察し暇乞いを許すと、相模も自分も尼となって小次郎を弔おうと髷を切った。
長居は無用と弥陀六は、鎧櫃を背負い藤の方を連れてこの場を立とうとすると、熊谷と相模も黒谷の法然上人を師とたのまんと京へと向おうとする。そんな様子に義経は堅固で暮らせと声を掛け、人々はおさらばと別れてゆく。
四段目
(道行花の追風)忠度は菊の前と別れてのち、討死したともまたは生捕りにされて鎌倉に送られたとも世上では噂されていた。菊の前はその実否を確かめようと、林を連れて鎌倉へと向う。(鶴岡八幡の段)京の都の傾城菅原は、六弥太忠澄がその妻に迎えるために身請けされ、なじみの幇間も連れてはるばる鎌倉まで下ってきた。いっぽう菊の前と林も鎌倉に到着するが、鶴岡八幡で平家の余類として捕まりそうになるのを、深編笠をかぶった侍に助けられる。だがその侍から、忠度が須磨の浦で六弥太と勝負に及び、最後は六弥太に討たれたと聞かされる。忠度の死を悲しみ自害しようとする菊の前に、侍は忠度の仇を討つ気はないかと言い、さらにその方法について教える。菊の前は林とともに忠度の仇を討とうと決意するが、編笠の侍は名を問う暇もなく二人の前から立ち去ってしまう。
(六弥太館の段)菅原は以前の姿に引き換えて武家風の女房のなりで六弥太の館に入った。館の主六弥太はまだ帰っていないので、菅原はひとまず奥で休息することになる。ところがそこにもうひとり、京の傾城菅原だと称する女が傾城姿で、遣手も従えて現れたが、じつはこれは菊の前と林であった。ふたりは六弥太以外に館の者が菅原の顔を知らないのをいいことに、菅原と称して館に入り込み、六弥太に近づき仇を討とうとしたのである。やがて六弥太が帰ってきた。菊の前は忠度の仇と林とともに討とうとするが、その顔を見て二人は驚く。なんと鶴岡八幡で、自分たちを助けた深編笠の侍ではないか。六弥太は暮六つまで待てと言い奥へと入り、菊の前と林もとりあえず仇を討つのは待つことにしてその場は別れる。
(楽人斎隠居所の段)ところで六弥太は合戦ののち、自分とはさほど歳も違わぬひとりの男を連れてきて大事に扱っていた。この男は隠居楽人斎と称し、六弥太の屋敷内に作られた隠居所で暮らしている。
そこへ菅原が六弥太を探してさまよい出るが、六弥太を討とうと探していた菊の前が菅原と出くわす。菅原は菊の前に何者かと問うと菅原だと答えるので、なにをいう菅原とは自分のことだ、いや自分だと言い争いをしていると、隠居所から楽人斎が姿を見せた。そこに六弥太も出てきて、楽人斎はどちらが本物の菅原か自分が見極めてやるという。ところが楽人斎は本物の菅原を偽者と決めつけたので、菊の前はその場を逃れて奥へと入った。そして本物の菅原のほうは、自分の女房にするから離縁せよと六弥太にいう。菅原がそれを納得するはずもなかったが楽人斎は、あの菅原と偽った女の正体はじつは死んだ忠度の恋人菊の前、その仇を討とうと六弥太に近づいたのでありどうせ六弥太は菊の前に討たれる。だから自分のいうことを聞け、六弥太は菅原に離縁状を書いて渡せという。あまりの言葉に菅原は怒り、そばにあった刀で楽人斎に斬りかかるがよけられる。だが六弥太も楽人斎を捕まえて投げ飛ばし、さらに雑兵用の陣笠と鎧を取出して楽人斎に突きつけた。
楽人斎はじつは、合戦のとき六弥太に従った旗持ちの雑兵であった。六弥太は須磨の浦で忠度と戦ったとき、忠度に組み敷かれ討たれそうになったが、そのとき楽人斎が駆け寄って忠度の右腕を斬り落とした。それで六弥太も忠度を討つことができたのである。その功により六弥太は楽人斎を親とも尊び、自ら引き取って面倒をみていたのだった。だがもう堪忍ならぬと、その着ていた鎧でもって六弥太は楽人斎を散々に殴る。そこへ、これまでの話を聞いていた菊の前が一間より飛び出し、楽人斎こそ忠度の仇と持った刀で楽人斎の右腕を斬り落とした。だがなおも斬りつけようとする菊の前を楽人斎は止め、六弥太はその場に林を縛って引き出し、ふたりは意外なことを物語る。それは…
楽人斎とはじつは林の息子太五平であり、菅原はその実の妹であった。そして兄妹の父親とは、平重衡の家来でその重衡を裏切った後藤兵衛守長だったのである。太五平は手柄を立てるという口実で雑兵となり、幼少のころ別れた父守長を戦場で探していた。そのとき六弥太が忠度と戦うところに出くわし、平家に味方せんとじつは六弥太を討とうとした。ところが手元が狂い、忠度の右腕を斬ってしまったのである。そして忠度は六弥太に討たれた。その申し訳なさにいったんは切腹しようかとも思ったが、この上は平家の恨みをはらそうと、その折を伺って今日まで生きながらえて来たのだと。
だが一方、六弥太は菊の前の父藤原俊成から頼まれたことがあった。俊成は和歌の弟子である忠度の命を惜しみ、ひそかに六弥太に忠度を救ってくれるよう頼んでいたのである。六弥太はそれを引き受け須磨の浦で忠度と勝負したとき、その命を助けようとしたのだが、太五平が忠度の右腕を斬ってしまった。その深手によりもはや助けられず、やむなく忠度を討ったのだと。また太五平のことについては、六弥太はかねてからその素性に不審を抱いていた。そこで自分のもとに引き取り様子を伺っていたのを、その母の林が鎌倉に来たのを幸い、敵討ちにかこつけて菊の前と林を自分の館へとおびき寄せ、林を捕らえて父親が後藤兵衛守長であることを聞き出していたのである。
語り終えて太五平は、菅原が刀を持っていたのをその手を掴んで自分の脇腹を突かせた。これはと驚く菅原と林。だが太五平は、これは本来敵対する平家の余類である菅原を、源氏の武士である六弥太に添わせるためであり、最前女房になれなどといったのも、菅原の手にかかり兄妹の縁を切らせるためであった。どうか妹を見捨ててくださるなと太五平は六弥太に頼む。これを聞いて菅原や林はもとより、菊の前も今は仇を討つ心も失せ、その心根に涙するのであった。
すると、平家の余類である菅原とは添われぬ、ここを出て行けと六弥太がいきなり言い出す。それはあんまりなと菅原が言おうとすると、六弥太が追い出したのは菅原と名乗った菊の前と林であった。すなわちこれで本物の菅原を妻とすることに、何の障りもないとしたのである。太五平は六弥太の心遣いに感謝する。また六弥太は菊の前に向って短冊を投げ出した。見るとそれは、「ゆきくれて このしたかげを やどとせば はなやこよひの あるじならまし」という忠度が書いた辞世の歌であった。菊の前は涙して六弥太に礼をいう。
やがて暮六つの鐘が鳴り、菊の前と林はその場を立とうとする。深手を負った太五平は、最期を迎えようとするのであった。
五段目
(鎌倉御所の段)平家滅亡後、平大納言時忠は鎌倉に下向して頼朝に対面し、義経が三種の神器の内の神璽と内侍所を奪い、頼朝に背こうとしていると讒言するが、京にいたはずの義経がその場に出てくる。義経もひそかに鎌倉に下り、兄頼朝とともに時忠の悪事を暴こうとしたのであった。時忠は三種の神器の内の十握の剣を隠し持っていたことが顕れ、六弥太に捕縛される。そこへ、平山武者所も扇ヶ谷に陣を構え、頼朝への謀叛を起こそうとしているとの知らせが来る。義経は六弥太をはじめとする手勢を率いて出陣する。(扇ヶ谷平山陣所の段)平山の陣所に六弥太が軍勢を率いて攻め入り、平山の手勢はことごとく討たれる。その勢いに恐れて平山はひとり逃げ出そうとするが最後は六弥太に捕まり、ついに義経の前で首を討たれた。その場に縛って連れて来られた時忠も首を討たれそうになるが、そのとき今は蓮生と名を改めた僧形の熊谷直実が飛んできて、時忠はかりにも大納言という高位の公家なので処断は朝廷に任せることにし、自分に身柄を預けてほしいと義経に願い出る。義経はこれを許し、自らは家臣を率いて再び京へと上るのであった。
最終更新 2014年6月19日
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http://www.360.ne.jp/kumagaya/rekishi/naozane/naozane06.htm
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
三段目 熊谷陣屋 作者 並木宗輔 浅田一鳥 ほか合作 宝暦元年(1751) 大阪・豊竹座で初演された。
熊谷次郎直実。義経に使え、鎌倉幕府を支えた武将の一人ではあるが、武士としては普通の武士。特に大きな所領を持っていたわけでもなく、高い地位についたわけでもない。天皇家の血は引いているが、この当時の武士としては本当に普通の武士である。しかし、歌舞伎の主人公になり現在でも語り継がれているのはどうしてでしょうか。
それでは一谷嫩軍記の話をもう少し詳しく紹介しましょう。
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熊谷直実
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F
以下抜粋
熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫[2]・維時(これとき)の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない[3]。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。『平家物語』「敦盛最期」の章段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性(さが)や世の無常観を表現する題材として後世武士の間で非常に好まれ、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』をはじめ様々な作品に取り上げられている。
生涯
武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。幼名を弓矢丸という。その名のとおり弓の名手である。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。
源平の戦い
源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参陣。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。しかし平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。
『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎打ちを挑む。直実がむんずと取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの齢だった。直家はこの戦いの直前に矢に射抜かれ深手を負っていたので、直実はその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだのである。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えた。これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。
その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥[4]・平敦盛と判明、齢十七[5]だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという[6]。これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。
伯父との相続争い
文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし、「鎌倉の御家人はみな同輩の身分のはず。流鏑馬の射ては騎馬、的立ては徒歩。これは不平等であり、納得できません」と断固的立てを拒否した。頼朝がいくら的立役は名誉な役目である、ということを説いても承知しなかったため、所領の一部を没収された。(当時鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)
建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』[7])。
この争いの背景には、直実が抱えていた立場の弱さがあった。久下直光は孤児となった直実を庇護した上に本来久下氏の支配下にあったとみられる熊谷郷を領したが、それは久下氏の立場から見れば、直実を自己の郎党もしくは客将として捉え、それを前提として預けたものであったとみられる。その弱さは「直光代官」として上洛して大番役と務めていたこと、熊谷氏の系図の中に直実の娘が直光の妻となったとするものがあること(年齢的に直実から直光への進上婚であったとみられる)などから知ることができる。その後、直実は直光から自立して自らの力で自らの所領を支配する武士になることを目指し、平氏との戦いを通じて御家人としての地位と熊谷郷の支配権を認められた。だが、それは直光から見れば、久下氏の所領である熊谷郷を直実に奪われたと強く反発し、直実との衝突につながったと考えられている。[8]
出家
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は[9]出家の方法を知らず模索していた[10]。 法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」[11]について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという[12]。その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという[13]。
家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家した。法名は法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)[14]である。
その後の直実
蓮生は数多くの寺院を開基していることで知られているが、出家後間もなくの、建久4年(1193年)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。
建久6年(1195年)8月10日、京から鎌倉へ下る。蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。出家しても心はなお真俗を兼ねていた。武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている。また同年には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立した。
その後、蓮生は京都に戻り、建久8年(1197年)5月、錦小路東洞院西の父・貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。
建久9年(1198年)、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのが始まりである。後に黒谷にあった法然の墓が安貞2年(1228年)に比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸が暴かれたため、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された。
本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送った。元久元年(1204年、)上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている。
建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われている。その間の法然との書簡が残っている。直実の遺骨は遺言により、粟生の西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置された。直実の墓は現在法然廟の近くにある。また妻と息子・直家の墓は、熊谷寺の直実の墓に並んである。また高野山には直実と敦盛の墓が並んである。金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。
最終更新 2014年6月3日
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一ノ谷の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
以下抜粋
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。
背景
寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。京を制圧した義仲だが、統治に失敗して後白河法皇とも対立するようになった。義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう(水島の戦い)。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう。
情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平氏へ和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶した。寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼、義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。
この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。
合戦の経過
以下は『吾妻鏡』『平家物語』などを基にした巷間で知られる合戦の経過である。
前哨戦
寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。
同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。
2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある(後述)。
迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる(後述)。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。
『平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が道案内を探し、猟師の若者がこれを引き受けた。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。鷲尾義久が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、鷲尾義久は冬場に鹿は越えると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と兵たちを励ました。
難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。
開戦・生田の戦い
2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。
午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ坂東武者をひるませる。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。
生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
逆落とし
精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。
『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。
崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている。
九条兼実の日記『玉葉』では搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。と戦況を書き残している。ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。 なお本項目の経過解説と画像では、逆落しの場所を現在この合戦の説明の際に主流になっている一ノ谷の裏手鉄拐山とする説(一ノ谷説)を採っているが、『平家物語』や上記『吾妻鏡』では義経の戦った場所は鵯越(一ノ谷から東方8キロ)となっており鵯越説も根強く、またそもそも逆落し自体が『平家物語』が創作した虚構であるという見方も有力である(後述)。
平氏敗走
混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。
生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かった。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。
安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。
西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。歌人だった忠度が箙に和歌を残していた逸話が残っている。
合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて「返せ、返せ」と呼びかけた。武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った(『源平盛衰記』による。『平家物語』では名乗らない)。直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。『平家物語』の名場面である。史実でも直実は敦盛を高野山で供養し、その後出家して法然に仕えている。『吾妻鏡』によると出家の直接の理由は所領を巡る訴訟に敗れた際、梶原景時の言動に怒ったためである。
敗走した平重衡は、梶原景季と庄氏によって捕らえられた。『吾妻鏡』では児玉党の武将である庄太郎家長に、『平家物語』では庄四郎高家に捕らえられたとある(研究者の間では、武功に見合うだけの恩賞を与えられている点から家長説が有力視されている)。
この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
最終更新 2013年8月26日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85
平宗清
三段目 熊谷陣屋 作者 並木宗輔 浅田一鳥 ほか合作 宝暦元年(1751) 大阪・豊竹座で初演された。
あらすじ:平家との合戦を前に熊谷次郎直実は源義経から1本の制札を渡された。「一枝を伐らば一指を切るべし」とその制札には書かれていた。
長く続いた平家の栄華も陰りを見せ、源氏は平家を追討する。須磨の浦一の谷で合戦。熊谷次郎直実は、息子小次郎直家と共に手柄を立てるべく先陣を切ったのである。
逃げる平家の大将を須磨の浦の海岸で組み伏せた直実は、まだ年端の行かない若武者に逃げろというが、その若者は早く私を切れという。その若武者は、平敦盛だった。
そうこうしているうちに、平山武者所季重が駆けつけ、「敵の大将を逃がすとは二心なり」と追いたてる。なくなく首を切り落とす直実だった。
熊谷の陣屋に首を持って帰ると、そこには息子小次郎を心配してきた、直実の妻 相模と敦盛が討たれたと聞いて、敵討ちにきた敦盛の母 藤の方。
そこに、義経が登場し首実検を行うことになった。直実は桜の木のそばにあった制札と共に首を義経に見せる。誰もが敦盛の首だと思っていたが、それは直実の息子小次郎直家のものだった・・・。
ポイント:「一枝を伐らば一指を切るべし」という制札に込められた、義経のメッセージとは。どうして、直実は自分の息子の首を敦盛と言ったのか。
現在でも、多くの名優達によって数多く上演されているこの熊谷陣屋。そのドラマチックなストーリーと、直実の人間性を見事に表した作品である。この作品が直実を有名にしたと言ってもいいかもしれない。
熊谷次郎直実。義経に使え、鎌倉幕府を支えた武将の一人ではあるが、武士としては普通の武士。特に大きな所領を持っていたわけでもなく、高い地位についたわけでもない。天皇家の血は引いているが、この当時の武士としては本当に普通の武士である。しかし、歌舞伎の主人公になり現在でも語り継がれているのはどうしてでしょうか。
それでは一谷嫩軍記の話をもう少し詳しく紹介しましょう。
一谷嫩軍記
「どちらを見ても莟の花、都の春より知らぬ身の、今魂は天ざかる、鄙に下りて亡き跡を問う人もなき須磨の浦、なみなみならぬ人々の、成り果つる身のいたわしやなぁ。」とつくづく「もののあわれ」を感じた熊谷は、泣く泣く死骸を馬に乗せ、手綱を取って悄然と引いて行く。
やがて熊谷が戻ってくる。藤の方は我が子の仇と斬ってかかった。是を制した熊谷は須磨の浦で敦盛を討った次第を詳しく物語る。扇を使って強く沈痛な身振りでの物語。前半の見せ場である。藤の方も戦場の常とて是非なく諦め、せめて回向のためにと香を焚き、形見となった青葉の笛を吹いて手向けると障子に写る敦盛の姿。しかし障子を開けて見れば、そこには緋緘の鎧が置いてあるだけだった。
そこへ思いがけなくも大将義経が現われ、その場で敦盛の首実検が行われることになった。熊谷はさくらのそばの制札を引き抜き、首に添えて実検に供する。首桶の蓋を開けてみれば、それは敦盛ではなく小次郎の首であった。驚く相模、藤の方。
序段
平家との合戦を前に、熊谷は大将源義経から一の谷の合戦で平敦盛を討てと命じられ、一本の制札を渡された。
そこには「一枝を伐らば 一指を切るべし」と書いてあった。昔、中国江南にこの地では珍しく梅の花が咲いた。そこで、花を折ったものは指を一本切るという御触れが出た。その故事に倣って鳥羽天皇の御代に、紅葉を折れば罰するという御触れが出た。義経はその二つの禁制になぞって熊谷に制札を渡し、一本の桜の若木を「お前の陣屋に植えよ」と授けたのである。そして、「若木の桜を守護するのは熊谷でなくてはならぬ」と言い添えた。熊谷は、陣屋に桜を植え、一の谷の合戦に出陣した。
そこには「一枝を伐らば 一指を切るべし」と書いてあった。昔、中国江南にこの地では珍しく梅の花が咲いた。そこで、花を折ったものは指を一本切るという御触れが出た。その故事に倣って鳥羽天皇の御代に、紅葉を折れば罰するという御触れが出た。義経はその二つの禁制になぞって熊谷に制札を渡し、一本の桜の若木を「お前の陣屋に植えよ」と授けたのである。そして、「若木の桜を守護するのは熊谷でなくてはならぬ」と言い添えた。熊谷は、陣屋に桜を植え、一の谷の合戦に出陣した。
二段 陣門・組打の場
平家の栄華も夢と醒め果て、源氏の軍勢の猛攻に後退を重ねていた。元歴元年弥生の初め須磨の浦 一の谷の陣門へ真っ先に駆けつけたのは、源氏方で音に聞こえた熊谷次郎直実の一子小次郎直家である。初陣の小次郎は陣門の内から聞こえてくる管楽の音に耳を澄まし、さすが都人のやさしい心根と感慨にふける。「・・・いかなれば我々は、邪見の田舎に生れいで、鎧兜弓矢を取り、かくやんごとなき人々を、敵として立ち向かい、修羅の剣を研ぐことのあさましさよ。」としばし嘆じていた小次郎だが、あとから来た見方の平山武者所李重に扇動され是比なく門内に斬り入った。
父親の次郎直実は、我が子の安否を気遣って駆け来り、同じく陣門へ切り込んだが、すぐに手傷を負った若武者を抱え「倅小次郎、手を負たれば養生を加えて陣所へ送らん」と叫んで去って行く。あとに平山は、平家方の大将無官太夫敦盛と見える公達が討って出たのに斬り立てられ、かなわずして逃げて行く。
海辺では敦盛の許嫁玉織姫が、今朝から合戦で見失った恋人の行方をたずねてさまよっていた。その姿を見た平山は、かねて恋慕していた姫のこととて強引に言い寄り、相手がどうしても意に従わぬと見るや、可愛さ余って憎さ百倍、無残にも手をかけて深傷を負わしてしまう。
ほど近くの須磨の海辺では、最前の公達が一門の兵船を追って馬を波間に乗り入れていたが、後を追って来た熊谷に呼び止められ、馬を返して剣を合わせた。勝負はつかず組み打ちとなり、やがて熊谷は相手を組み敷いた。熊谷が「かく御運の極まる上は、御名を名乗り給え」と促せば「無官太夫敦盛」と滑らかに答える。熊谷は「この君一人助けたとて勝ち戦が負けになるまじ」と、いったん逃がそうとしたが、折しも平山が後ろの山から「平家方の大将を組み敷きながら助けるとは二心」と大きな声で呼ばわるので、いまは詮方なく涙ながらにその首を打ち落とした。「無官太夫敦盛を討ち取った」と呼ばわる声に、深傷の玉織姫は「せめて名残に御首を」と慕い寄り、首に取りすがって息絶える。父親の次郎直実は、我が子の安否を気遣って駆け来り、同じく陣門へ切り込んだが、すぐに手傷を負った若武者を抱え「倅小次郎、手を負たれば養生を加えて陣所へ送らん」と叫んで去って行く。あとに平山は、平家方の大将無官太夫敦盛と見える公達が討って出たのに斬り立てられ、かなわずして逃げて行く。
海辺では敦盛の許嫁玉織姫が、今朝から合戦で見失った恋人の行方をたずねてさまよっていた。その姿を見た平山は、かねて恋慕していた姫のこととて強引に言い寄り、相手がどうしても意に従わぬと見るや、可愛さ余って憎さ百倍、無残にも手をかけて深傷を負わしてしまう。
「どちらを見ても莟の花、都の春より知らぬ身の、今魂は天ざかる、鄙に下りて亡き跡を問う人もなき須磨の浦、なみなみならぬ人々の、成り果つる身のいたわしやなぁ。」とつくづく「もののあわれ」を感じた熊谷は、泣く泣く死骸を馬に乗せ、手綱を取って悄然と引いて行く。
三段 熊谷陣屋
ここは生田の森の熊谷の陣屋。咲き誇る桜の木のそばに、弁慶が書いた「一枝を伐らば一指を切るべし」という制札が立っている。熊谷の妻 相模は、我が子小次郎の身を案じ、はるばるとこの陣屋まで訪ねて来たが、それからまもなく追っ手を逃れてここへ駆け込んできたのは敦盛の母、藤の方であった。相模にとって藤の方には昔熊谷と結ばれた時、その口添えによって不義の罪をまぬがれたという恩義がある。敦盛を熊谷が討ったという噂を聞いた藤の方は、昔の恩を言い立てて相模を詰める。相模も返答に窮する折から、梶原景高が敦盛の石塔を建てたという咎で、石屋の弥陀六を引き立てて奥へ入っていく。
やがて熊谷が戻ってくる。藤の方は我が子の仇と斬ってかかった。是を制した熊谷は須磨の浦で敦盛を討った次第を詳しく物語る。扇を使って強く沈痛な身振りでの物語。前半の見せ場である。藤の方も戦場の常とて是非なく諦め、せめて回向のためにと香を焚き、形見となった青葉の笛を吹いて手向けると障子に写る敦盛の姿。しかし障子を開けて見れば、そこには緋緘の鎧が置いてあるだけだった。
そこへ思いがけなくも大将義経が現われ、その場で敦盛の首実検が行われることになった。熊谷はさくらのそばの制札を引き抜き、首に添えて実検に供する。首桶の蓋を開けてみれば、それは敦盛ではなく小次郎の首であった。驚く相模、藤の方。
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熊谷直実
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F
以下抜粋
熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫[2]・維時(これとき)の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない[3]。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。『平家物語』「敦盛最期」の章段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性(さが)や世の無常観を表現する題材として後世武士の間で非常に好まれ、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』をはじめ様々な作品に取り上げられている。
生涯
武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。幼名を弓矢丸という。その名のとおり弓の名手である。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。
源平の戦い
源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参陣。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。しかし平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。
『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎打ちを挑む。直実がむんずと取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの齢だった。直家はこの戦いの直前に矢に射抜かれ深手を負っていたので、直実はその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだのである。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えた。これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。
その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥[4]・平敦盛と判明、齢十七[5]だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという[6]。これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。
伯父との相続争い
文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし、「鎌倉の御家人はみな同輩の身分のはず。流鏑馬の射ては騎馬、的立ては徒歩。これは不平等であり、納得できません」と断固的立てを拒否した。頼朝がいくら的立役は名誉な役目である、ということを説いても承知しなかったため、所領の一部を没収された。(当時鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)
建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』[7])。
この争いの背景には、直実が抱えていた立場の弱さがあった。久下直光は孤児となった直実を庇護した上に本来久下氏の支配下にあったとみられる熊谷郷を領したが、それは久下氏の立場から見れば、直実を自己の郎党もしくは客将として捉え、それを前提として預けたものであったとみられる。その弱さは「直光代官」として上洛して大番役と務めていたこと、熊谷氏の系図の中に直実の娘が直光の妻となったとするものがあること(年齢的に直実から直光への進上婚であったとみられる)などから知ることができる。その後、直実は直光から自立して自らの力で自らの所領を支配する武士になることを目指し、平氏との戦いを通じて御家人としての地位と熊谷郷の支配権を認められた。だが、それは直光から見れば、久下氏の所領である熊谷郷を直実に奪われたと強く反発し、直実との衝突につながったと考えられている。[8]
出家
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は[9]出家の方法を知らず模索していた[10]。 法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」[11]について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという[12]。その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという[13]。
家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家した。法名は法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)[14]である。
その後の直実
蓮生は数多くの寺院を開基していることで知られているが、出家後間もなくの、建久4年(1193年)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。
建久6年(1195年)8月10日、京から鎌倉へ下る。蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。出家しても心はなお真俗を兼ねていた。武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている。また同年には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立した。
その後、蓮生は京都に戻り、建久8年(1197年)5月、錦小路東洞院西の父・貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。
建久9年(1198年)、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのが始まりである。後に黒谷にあった法然の墓が安貞2年(1228年)に比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸が暴かれたため、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された。
本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送った。元久元年(1204年、)上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている。
建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われている。その間の法然との書簡が残っている。直実の遺骨は遺言により、粟生の西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置された。直実の墓は現在法然廟の近くにある。また妻と息子・直家の墓は、熊谷寺の直実の墓に並んである。また高野山には直実と敦盛の墓が並んである。金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。
最終更新 2014年6月3日
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一ノ谷の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
以下抜粋
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。
背景
寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。京を制圧した義仲だが、統治に失敗して後白河法皇とも対立するようになった。義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう(水島の戦い)。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう。
情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平氏へ和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶した。寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼、義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。
この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。
合戦の経過
以下は『吾妻鏡』『平家物語』などを基にした巷間で知られる合戦の経過である。
前哨戦
寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。
同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。
2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある(後述)。
迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる(後述)。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。
『平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が道案内を探し、猟師の若者がこれを引き受けた。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。鷲尾義久が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、鷲尾義久は冬場に鹿は越えると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と兵たちを励ました。
難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。
開戦・生田の戦い
2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。
午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ坂東武者をひるませる。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。
生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
逆落とし
精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。
『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。
崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている。
九条兼実の日記『玉葉』では搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。と戦況を書き残している。ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。 なお本項目の経過解説と画像では、逆落しの場所を現在この合戦の説明の際に主流になっている一ノ谷の裏手鉄拐山とする説(一ノ谷説)を採っているが、『平家物語』や上記『吾妻鏡』では義経の戦った場所は鵯越(一ノ谷から東方8キロ)となっており鵯越説も根強く、またそもそも逆落し自体が『平家物語』が創作した虚構であるという見方も有力である(後述)。
平氏敗走
混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。
生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かった。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。
安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。
西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。歌人だった忠度が箙に和歌を残していた逸話が残っている。
合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて「返せ、返せ」と呼びかけた。武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った(『源平盛衰記』による。『平家物語』では名乗らない)。直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。『平家物語』の名場面である。史実でも直実は敦盛を高野山で供養し、その後出家して法然に仕えている。『吾妻鏡』によると出家の直接の理由は所領を巡る訴訟に敗れた際、梶原景時の言動に怒ったためである。
敗走した平重衡は、梶原景季と庄氏によって捕らえられた。『吾妻鏡』では児玉党の武将である庄太郎家長に、『平家物語』では庄四郎高家に捕らえられたとある(研究者の間では、武功に見合うだけの恩賞を与えられている点から家長説が有力視されている)。
この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
最終更新 2013年8月26日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85
平宗清
平頼盛の家人[5]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという[6]。
仁安元年(1166年)、正六位上で右衛門少尉となり、同3年(1169年)に左衛門権少尉となる[7]。また、後白河院の北面武士となっており、院領であった大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預を務めたりもしている[8]。
治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の元暦元年(1184年)6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった[9]。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。
子の家清は出家して都落ちには同行せず、元暦元年(1184年)7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。
最終更新 2012年12月6日
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伊賀「霊山寺」
http://homepage2.nifty.com/Hiro-Akashi/htm-mie's3/reizanji.htm
霊山寺のオハツキイチョウ
三重県指定天然記念物
所在地 : 三重県伊賀市下柘植霊山(標高765m)の中腹に再興された「霊山寺」は嵯峨天皇が伝教大師 最澄に勅令して創建された という古い歴史を持った古寺で、山頂には、信長の兵火により焼失した広大な寺院跡があり、霊山山頂 遺跡となっている。霊山寺の縁起によれば、平治の乱で捕えられた幼少の源頼朝が、伊賀国の平宗清に預 けられ、その時に霊山寺に助命祈願をしたのが成就、伊豆に配流された。その後、鎌倉にて兵を挙げて 平家を討伐し征夷大将軍に就いた時、祈願成就した霊山寺に大鐘、伽藍を寄進した。人々はこれを頼朝公 鐘乞観音として信仰を集めたとある。霊山寺境内に高く聳え立っている目通り幹周4.3mの大イチ ョウは葉が二裂して片方が葉、片方が胚珠となる「お葉付きイチョウ」と呼ばれる種で植物学上に於 いてもイチョウの祖型を探る意味で興味を持たれている。
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http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link1-7.htm
宗清と頼朝との関係
前項の頼朝が敵であるべき宗清を鎌倉へ招かんとするには理由がある。頼朝の少年時代 宗清とは深いえにしに結ばれていた。即ち平治の乱(1159年)に十三才で初陣を勤めた頼朝が、父や兄にはぐれて独り近江へ向かう途中、美濃関ヶ原で宗清に捕へられ、京へ連行された時に始まる。
後 清盛の厳命によって頼朝の命断たれんとした時、頼盛の母 池ノ禅尼が清盛に再三命乞いをした結果、頼朝は助命され伊豆へ流されることとなった。 その間 頼朝は宗清の家に預けられ情けを受けたのである。 この経緯(いきさつ)については「平家物語」や「東鑑」にも記述があり、吉川英治氏の「新平家物語」にはかなり詳しくとり上げられているが、「大日本史」記載してある「宗清伝」全文を左に掲げよう。
平宗清 弥平左衛門と称す(或は弥平兵衛に作る)、鎮守府将軍貞盛八世の孫、左衛門尉季宗の子なり。平頼盛に仕う。頼盛 尾張守たるに及びて宗清を以て目代(国守の代理役)となす。 永暦元年(1160年) 源義朝誅に伏す(平治之乱)。其の子 兄朝長死し 弟頼朝逃ぐ。宗清尾張より京師に入らんとして路上に頼朝に遇う。就いて之を擒にし青墓駅に至りて朝長(討死した頼朝の兄)の墓を掘りて其の首を獲し、併せて 之を六波羅に送る。清盛 頼朝を宗清の家に囚えしむ。刑を行う日あり、宗清 頼朝に向いて曰く「郎君 死を免れんと欲するか」対て曰く「保元以来 父兄宗族夷滅して将に尽きんとす。冀くば僧となりて冥福を修せん」と。宗清 意之を愍む。己にして宗清 池の禅尼に抵り告るに頼朝の意を以てす。 禅尼測然として 之を哀れみ乃ち平重盛に嘱して(依頼し)清盛に説き、その死を宥めしむ。清盛 聴かず 尚刑期を緩む。会々 義朝の 五十七日忌 至る。頼朝 卒塔婆を作らん事を請う。宗清 為に百枚を製して之に与う。 頼朝 手づから仏名を写し、衣を解き僧に施す。禅尼 聞きて益々之を哀れみ、営救備に至る。遂に死を免る事を得たり。是を以て 頼朝 深く宗清を徳とし平氏を撃つに及びて、毎に将士に誡めて宗清を害する勿らしむ。平氏の西奔するや、宗清 頼盛に従いて京師に留る。頼朝 池の禅尼の恩を思い、頼盛 宗清を鎌倉に招致せんと欲す。宗清 往くを欲せず、頼盛之を強う。宗清固辞し、且つ曰く「公 鎌倉に至らば必ず臣を問わん。請う、為に辞するに疾(やまい)を以てせよ」と。乃ち頼盛を送り近江野路に至りて辞し帰る。直に屋島に往きて宗盛に仕う(東鑑)。 頼朝 宗清を召し見て 之に荘園を予へんと欲して予め充文(あてぶみ)を書し、鞍馬 絹帛を備へて以て其至るを□ち、又将士三十人に命じ各々鞍馬□馬及び絹帛を以て宗清に贈らんとす。己にして頼盛 鎌倉に至りて曰く「宗清 疾を以て来らず」と。頼朝 以て遺憾となし乃ち其の擬する所の給物(それ相応の宛てがい物)を以て 悉く頼盛に贈る。平氏 滅ぶるの後、宗清 遁れて終わる所を知らず。
《注》右稿中にある『目代(もくだい)』とは太守の代理として任地に居る者の称で、宗清は尾張国太守に代る重要な役目を勤めたのである。又『青墓駅』とは関ヶ原に近い岐阜県不破郡青墓村で現在は赤坂町に合併した。
頼朝が昔の恩を忘れず宗清に報いんとしたことは流石に立派である。然し頼盛が味方の戦列にも加わらず、敵側であるべき頼朝の招きに応じたのに反し、断固としてこれをしりぞけた宗清の態度は、武士として実に見上げたものと言うべきであろう。
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恨みは無辺:
徒然草(下)
第211段 万の事は頼むべからず。
万の事は頼むべからず*。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ*。財多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。才ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇はず*。徳ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき*。君の寵をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり*。奴従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信ある事少し。
万の事は頼むべからず:何事も何かに頼ってはならない。
勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ:権勢があるからといって、それを鼻にかけてはならない。強い者ほど先に滅びるから。
才ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇はず:才能があるからといって頼るな、あの孔子ですら不遇をかこったではないか。
徳ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき:徳があるといってそれを頼むな。顔回だって不幸であったではないか。
君の寵をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり:主君の寵愛を当てにしてはならない。いつ何時誅罰を受けるか分からない。
是なる時は喜び、非なる時は恨みず:うまくいったときにはうれしいし、駄目であっても恨み言を言うことは無い。狭き時は拉げ砕く:狭く窮屈だと、ひしゃげて壊れてしまう。
人は天地の霊なり:天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
天地は限る所なし:転地は広大無辺だ。
寛大にして極まらざる時は、喜怒これに障らずして、物のために煩はず:寛大で窮屈でないのであれば、喜怒の情はそこに障らないがゆえに、外界によって煩わされることがない。
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Yoshitsune (義経) - Episode 1/第一回 [English Subbed]
2013/03/24 に公開
(2005) Episode 1 of the NHK Taiga Drama, "Yoshitsune" (義経), with English subs.
英語字幕付きNHK大河ドラマ"義経"のエピソード1(第一回) 。
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Also, disclaimer: The content of this video is NOT mine.
"義経"のエピソードは、共有の目的のためにのみアップロードさ れ、営利または商業目的のために使用されるべきではない。
また、免責事項:このビデオの内容は私のものではない。
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「平家物語」 朗読 平幹二郎
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