2014年7月22日火曜日

『東日本大震災とどう向き合うか?』関西学院大学災害復興制度研究所 所長室崎益輝//『東日本大震災と宗教の役割』東京大学大学院 人文社会系研究科 教授島薗進

国際宗教同志会 平成23年度第2回例会 記念講演

『東日本大震災とどう向き合うか?』
関西学院大学災害復興制度研究所 所長
室崎益輝
6月9日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において国際宗教同志会(村山廣甫会長)の平成23年度第2回例会が、各宗派教団から約70名が参加して開催された。記念講演では、内閣府中央防災会議専門委員も務められる関西学院大学災害復興制度研究所の室崎益輝所長を招き、『東日本大震災とどう向き合うか?』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。  
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen42.htm
 


室崎益輝教授
▼ 巨大で広域
ただ今ご紹介いただきました関西学院大学災害復興制度研究所の室崎でございます。本日は国際宗教同志会にお招きいただき有り難うございます。皆様のお叱りを受けるかもしれませんが、実は、私自身は神職の息子として生まれてきたのですが、宗教心はまったくございません。現在勤務している大学はキリスト教系の大学ですから、人よりは聖書を読む機会がありまして、「聖書にはすごく良いことが書かれているなあ」と思うのですが、だからといって世の中に神様が居るとはとても信じられません。そのため、日頃はあまり宗教と関わりがないので、このような場にお呼びいただき、ちょっと気恥ずかしい気がいたしております。
ただ、後ほど話の中で出てくるかもしれませんが、被災地の復興の現場では、常に宗教者の皆様が非常に献身的な働きをされており、そういった出会いがたくさんあります。古くは天理教災害救援ひのきしん隊の皆さんの様々な活動に始まり、曹洞宗ボランティア会(現シャンティ国際ボランティア会)も昔から非常に熱心に取り組んでおられます。それだけではなく、キリスト教の皆さんや今日この会にお越しの皆様も、いろんな形でご尽力いただいていることはよく存じております。今回の東日本大震災につきましては、非常に大きなお力添えをいただいたことに心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。では、早速内容に入りたいと思います。
ご承知と思いますが、まず今回の地震がどのような地震だったかについて簡単にお話させていただきます。簡単に説明する場合、私は4つのキーワードで整理させていただいています。1番目は「巨大」、2番目は「広域」、3番目は「複合」、4番目は―日本語として不適切かもしれませんが―「欠援」です。第1番目の「巨大」については、後で少し地図が出てまいりますが、地震とは、地球上の地面がズレるといいますか、断層が動く構造のものを指しますが、今回は長さ南北500キロにわたって東北地方の太平洋沖の断層面が動いた訳です。日本の歴史上における「最大」を変えることになった地震です。

南北500kmに及んだ震源域
3年前に中国の四川省で起きたのも巨大な地震でしたが、この時に動いた断層の距離は300キロです。さらに言いますと、阪神淡路大震災の時は30キロであります。それらに比べると如何に広大な範囲で地面が動いたか、お判りいただけると思います。その結果としてマグニチュードは9.0でした。マグニチュードで言っても、そのエネルギーの巨大さは、一般の方にはなかなか解らないと思いますが……。マグニチュード(M)9.0というのは、これまで地球上で観測されたすべての地震の中で史上4番目に大きなエネルギーが放出されたことになります。その結果、30メートルを超える大津波が発生した訳です。巨大性で申しますと、かつてなかった大きなものが来た訳です。
2番目の「広域」というのは、われわれが被災地の支援をする際に一番大変な状況でございます。北は青森の八戸から南関東―東京都も含めまして―を通り越して、長野県の栄村(震度6強)というところまで被害が及んでいます。こういった大きな災害が起きた場合は「災害救助法」という法律がありまして、国として特別な支援を行う自治体を指定する訳ですが、阪神淡路大震災の時は兵庫県と大阪府下の4自治体を加えて25市町村でしたが、今回は300を超える市町村に災害救助法が適応されるほど、広大な地域が壊滅的な被害を受けた訳です。
この規模をイメージしていただくために、いくつか例を挙げますと、18年前の北海道南西沖地震では、奥尻島の南半分が津波で大きな被害を受けましたが、この時、人口4,700人のこのひとつの町(奥尻町)を行政機能を維持するために北海道から200名の職員が応援に入りましたが、それでもなかなか大変でした。
そうしますと、300もの市町村に対して、仮に1日200人の職員の応援が必要だとした場合、毎日6万人もの自治体職員が全国から被災地の応援に入らなければ地方行政システムを動かすことができないことになりますね。しかし、実際はなかなかそういう状況は難しく、大阪府下からも多くの自治体職員が応援に駆けつけていますが、3カ月が経過した現在でも1万人程度の職員しか現地に入りきれていないということです。あまりにも被災地域の数が多いため、人的支援、物的支援が隅々まで行き渡らない状況が生まれています。
「広域」ということで―こういう表現は不適切かもしれませんが―、われわれは「行けども行けども瓦礫の平原が続いている」と表現するんですが、岩手県南部の野田村から福島県のいわき市まで、太平洋岸はどこまで行っても流された跡しか残っていないという悲惨な状況が続いています。その面積は500平方キロメートルに上りますが、これは東京の山手線の内側の面積の8倍が瓦礫の山になったに等しいです。また、阪神淡路大震災の時に焼失した面積が0.7平方キロメートルですので、その約700倍もの面積が跡形もなく消えた訳です。そのあまりにも広い地域において、当然、そこに居た人々のいのちもが失われ、家屋をはじめ、ありとあらゆるものが失われたのです。

▼ 複合災害
3番目の特徴である「複合」はよく話題になっていますが、これは地震と津波だけではなく、原発事故の問題が非常にクローズアップされていますし、加えて風評被害が経済に大きな打撃を与えています。私は、今回の東日本大震災の被害の規模を例えるために、阪神淡路大震災にスマトラの大津波、さらにそこにチェルノブイリの原発事故が起きて、金融大恐慌が同時に起きたぐらいの甚大な被害が折り重なって起きたようなものだと言えると言っています。
2番目の「広域」と3番目の「複合」は関係しています。日本政府の力量も「所詮、この程度なのか…」と思ってしまうほどに、とにかくすべてに手が回らない。基本的に災害直後は―今でもそうですが―原発事故のほうに知恵も目も行ってしまい、被災地の瓦礫の中で多くの人が苦しんでいる姿がなかなか国には見えてなかった現状があり、それは4番目の「欠援」とも関係してきますが、結果的に「援助の遅れ」という形で現れています。
後ほどあらためて数字が出てくるかもしれませんが、被害の規模でいいますと、ものによっては2倍程度の違いもあれば、10倍違うものもありますが、おおむね阪神淡路大震災の5倍程度の被害になります。しかし、これに対して、現地に応援に入るボランティアの数にしても、水、薬、防寒具が届けられるスピードにしても、阪神淡路大震災の時の5分の1程度です。これらのさまざまな要素をまとめて比較しますと、支援の相対的な比率は、阪神の20分の1程度と言えます。
細かく言い過ぎると専門的になってしまいますが、先ほど「南北500キロ、東西200キロにわたって」と申しましたが、500キロという距離は、東京・大阪間が一気に動いた。あるいは、東京から大阪までの沿岸部にある諸都市が全部津波にさらわれたというイメージを持っていただいたら判りやすいと思います。その中で一番特徴があるのが、大津波によって非常に多くのいのちや財産が奪われてしまったことです。これは気象庁のデータですが、例えば大船渡ですと「8.0メートル以上」と書かれています。実は、津波の高さを測る計器というのは、海中に設置されているんですが、ある一定の限度を超えてしまうと、壊れてしまうんですね。ですので、壊れた瞬間の数値がこれ(8.0メートル以上)だった訳です。では「8.0メートル以上」だから、8.2メートルくらいだったかというと、実際は30メートルだった……。それと同じことが地震が起きた時に―私はたまたま外国に居てたのですが―、日本では最初、M7.9や8.0と報道されたと思いますが、実は、それ以上の揺れを測る地震計が置いてなかったからで、後から計算し直した結果、M9.0ということが判りました。実は、アメリカの研究機関は、地震直後に日本でM8.9レベルの地震が起きたことを把握していましたが、日本は津波と地震いずれの計測計も壊れてしまいました。これは今後の課題になるでしょう。

北海道から沖縄まで全国に到達した津波
30メートルの津波というのは、だいたい10階建ての高層ビルの高さです。現地で津波を目の当たりにした人は、「大きな島を越えるようにして津波がやってきた」と言っていました。私は現在、学生と共に気仙沼の大島というところへ支援に入っているんですが、大島というところは、両方から湾が迫っているので右と左から津波が来るんです。その津波と津波が斜面を駆け上がって、島の真ん中の丘の上でぶつかったと言っていましたから、30メートルの津波とは、それぐらい凄い高さということです。
「津波による破壊力は、平米当たり5トンから8トン」とありますが、これは凄い力で、コンクリートの建物も横倒しにする力があります。力はどうしてできるかというと、力(運動量)とは「質量×速度」ですから、津波がやってくる映像を解析しますと、だいたい速度は陸上では、時速50キロから80キロです。津波というのは、深い海(水深5,000メートル)を伝わる時はジェット機が飛ぶような速度(時速800キロ)で、陸に近づく(浅い海)と新幹線並みの速度で、陸に上がるとややスピードを出した自動車並みの速度になります。
しかし、岩手県の宮古では、上陸後も時速100キロを超えていました。100キロといいますと、高速道路を走っている自動車の速度に相当しますが、単なる自動車(重量約1トン)ではなく、その高さが30メートルに達する訳ですから、その力を先ほどの「(水の)重さ×速度」で考えますと、縦、横、高さが1メートル×1メートル×1メートルの水の固まりの重さが1トンですから、巨大で非常に重いものが―極端に例えるならば、コンクリートの塊のようなものが―時速100キロでぶつかってくるような状況ですから、コンクリートの建物ですら引き倒されてしまう訳です。津波の高さと速度のところは、「いかに津波が巨大で大きな力を持っていたか?」ということの説明です。

▼ 津波てんでんこ
一番上に「第一波、14時46分」とありますが、これは地震が起きたほぼ瞬間です。最初は小さな津波がチョロチョロとやってきて、それを見た人たちは皆「大したことはないな」と思い込んでしまった訳ですが、必ずしも、最初に来た津波が一番大きいとは限りません。今回は、第二波、第三波の波が、先ほどの20メートル、30メートルの巨大な津波でありました。この巨大な津波がやってきた時刻が、大船渡では15時20分ということですので、逆に言えば、大津波の襲来は、地震が発生してから30分間程度の猶予があったことになります。NHKで映されていた宮城県の名取市というところは、約1時間後に大きな津波がやってきています。これは今、まだ議論すべきではないかもしれませんが、地震が起きてから破壊的な波が来るまでに30分から1時間かかっているので、この間に高い場所に避難しようと思えば、多くの人は逃げることができました……。
話が少し脱線しますが、「科学技術の限界と責任の問題」と、「防災教育の限界と責任の問題」の2つがあります。まず「科学技術の限界と責任の問題」とは、先ほどの震度や津波を計測するセンサーが想定値を超えたことが原因で壊れてしまった話とも関係しますが、少なくとも地震計が壊れた時点でも、M7.9ということは判った訳です。そうすると、その時点でも、われわれが従来東北に来ると予想していたよりも巨大な地震が起きたことが判ります。それをきちんとキャッチしてシミュレーションすれば、津波が5メートル、10メートルのレベルのものではなく、もっと大きな津波が来るということは、今の日本の技術だとだいたい判るんです。ですので、大津波が到達する前に判った人はたくさん居られたのでしょうが、そのことが被災者に届かなかった……。
直感的に気が付いたのは、意外にもNHK仙台放送局のヘリのカメラマンでした。NHKのヘリは、2時46分に地震が発生してしばらくしてから飛び立つ訳ですが、何故飛び立ったかというと、「今までの地震とは違う!」と直感したからでしょう。海岸線上空にさしかかると、津波が名取に上がっていく様子が見えた……。その結果、世界初の津波の実況中継ができた訳です。しかし、ヘリといっても危険を察知してすぐさま動ける訳ではありません。「危ないぞ!」と判断してから実際に飛び立つまでに、パイロットを呼んできて機材を積んで飛び上がるだけの時間が必要です。しかし、地震の専門家ではないNHKのカメラマンがキャッチできるのであれば、専門家はもっともっとキャッチできたはずなんです。もし、この大津波の規模をしっかり伝えられたなら、ほとんどの人のいのちを救うことができたかもしれないと思います。これは後ほど「30分の空白」という話で出てまいります。

70名を超える聴衆が集まった室崎益輝教授の講演
もうひとつの「防災教育の限界と責任の問題」ですが、皆様方ご存知かもしれませんが、『津波てんでんこ』という言い伝えが三陸地方にあります。これは明治の三陸地震の大津波で同じ様な被害を受けた結果として、「大きな津波が来たら、取るものも取りあえずてんでバラバラに逃げなさい!」という地域の人々に残る言い伝えです。家族を助けようとか、子供を助けようとか、隣の人を助けて一緒に逃げようと思うな。そんなことをしていると、皆一緒に流されてしまう。それだけ聞くと、非常に悲しい伝承ですが、実は、今回亡くなった大半の人は、むしろ子供たちを誘導しようとか、隣のお祖母さんに声を掛けて一緒に逃げようとした心根の優しい人が犠牲になっているんです。
これは決して「一人で勝手に逃げた人は冷たい人間だ」という訳ではありません。特に、小さな子供さんが、それぞれ教えられた通りに一生懸命逃げて助かっています。この「津波てんでんこ―てんでバラバラに勝手に逃げなさい―」という言い伝えをもう少ししっかり理解すると、決して「自分だけが助かれば良い」と言っているのではなく、皆がてんでバラバラに逃げたとしても、皆が助かるように、一人ひとりが自分自身を守るだけの力をつけなさい。皆が誰かに助けてもらおうと思わずに行動できれば、人の世話をしなくても何とかなるのです。しかしながら、小さな赤ちゃんやお年寄りが一人で逃げられるのか? といった課題はどうしても出てきますから、今回の大津波の経験を通して、これからしっかり考えておかなければいけないと思います。

▼ ヘドロと瓦礫の処理をどうするか
先ほど、被害の状況を、阪神淡路大震災の5倍程度と申し上げましたが、阪神淡路大震災の時の死者行方不明者数約7,000人に比べても、今回は約2万5千人。家屋の損害は、阪神淡路大震災とほとんど変わりません。阪神間は人口密度の高い地域ですが、東北は―過疎という言葉が適切かどうか判りませんが―人口の集中が非常に少ない地域であります。面積的には「延々と被害に遭った」と申しましたが、津波で流された家も含めて、全壊が10万棟、半壊が4万棟、一部損壊が28万棟ということです。ただ、この「一部損壊」の意味が阪神と異なります。阪神の場合は、ちょっと修理をすれば家に戻って暮らすことも可能でしたが、今回の一部損壊は、建物の構造としては残っていても、家屋の1階部分がほとんど津波のヘドロで埋もれています。このヘドロと瓦礫が今もなお厄介で、なかなか撤去が進みません。
避難所での生活もすでに3カ月経ちますが、食事も粗末なままですし、避難所内はプライバシーもなく、トイレも非常に汚れたまま使う状態が今もなお続いています。ですので、小さな子供さんを抱える家族の方はすぐに避難所から出て行ってしまい、現在は、ほとんど行く当てのないお年寄りだけが残って―今日の新聞によると、避難所に暮らす避難者数は9万超と、ようやく10万人を切りましたが―今もなお暮らしています。
では、避難所を出て行った人たちは何処で暮らしているかというと、ヘドロが入った一部損壊の自宅の2階に戻ってひっそりと暮らしているのですが、そういった人たちが十数万人居られます。ボランティアの方々のおかげでかなり瓦礫やヘドロの撤去は進んだんですが、まだまだヘドロが残っているのが現状です。現在は、ヘドロがコンクリートよりも固くなってしまって、乾燥してヘドロの粉塵が巻き上がっています。このヘドロには海の微生物やカドミウムなどの重金属が含まれるので、これを吸い込むと肺炎になるのですが、今、被災地では肺炎の患者さんがどんどん増えてきています。
今、どういう状態が起きているかを判りやすく申しますと、被災地に行ってホームセンターかスーパーに行かれると、最も目立つ入口のところに堆(うずたか)く積み上げられている商品が何かといいますと、殺虫剤です。これが今、奪い合うように売れています。まだ梅雨に入っていないにもかかわらず、すでに蚊と蠅が大量に発生し、他にもウジ虫や蟻がたくさんわいてきています。それらはおそらく瓦礫の山の中から出てきたのですが、これは浸水した津波の水がまだ外に出せていないので、水に浸かったままの瓦礫が発生場所だと思われます。これから東北地方も、梅雨、そして暑い真夏を迎える中、今後も蚊や蠅や蟻の大量発生が続き、感染症も心配されます。ですので、一部損壊の家屋に暮らす人々は、阪神淡路大震災の時と比べても非常に危険な状況の中で暮らしている訳です。
瓦礫の量は約3,000万トンですが、これは阪神淡路大震災の時の1,200万トンと比べて、およそ2.5倍にあたります。阪神淡路大震災の時は1カ月で瓦礫がなくなりましたが、もうすぐ3カ月経つにもかかわらず、まだまだ瓦礫がなくなりません。これは衛生面の問題も投げかけていますが、心理面においても、いつまでも瓦礫が残っていることは人々に展望を持てなくさせます。人間というのは、瓦礫が片付くと「じゃあ、これから復興だ!」という気持ちになれるんです。ですから、未だに非常に暗い光景が続いている。


▼「欠援」とは何か?
直接被害―3月11日に壊れた家屋や流された自動車などを合わせた被害―総額は、阪神淡路大震災の時が10兆円だったんですが、今回は20兆円と言われています。額面だけ見ると2倍ですが、阪神淡路大震災の被災地域と今回の被災地の実質的な生産額や資産を見ると、東北は阪神の何分の一しかありませんから、お金のない(経済規模の小さい)ところでの20兆円と、お金のある(経済規模の大きい)ところでの10兆円とでは、まったく意味が異なります。また、今回はすべてのものが流されています。阪神淡路の時は、壊れた家の中から冷蔵庫を引っ張り出して使うなどといったことができましたが、今回はとにかくすべて―とりわけ自動車が―流されてしまっているため、もともと経済的蓄積がないところに、ほとんどの生活必需品が流されたことが重なり、問題は一層深刻です。
加えて、義援金が被災者のまだ個々人の手元に渡っていません…。阪神淡路大震災の時の義援金の総額が1,700億円で、今回が2,500億円ですから、阪神の時と比べて5割増しの義援金が集まっています。私は少なくとも1兆円の義援金が集まらないと被災者を救えないと思っているのですが…。それでも、すでに集まった2,500億円をすぐに被災者に渡していれば、少なくとも救えるいのちがあるはずなのに、義援金が配分されないことで、せっかく大津波から生きのびた被災者のいのちが再び危険に曝(さら)されているのです(註:6月3日現在、日本赤十字社などに寄せられた東日本大震災の義援金約2,514億円のうち、実際に被災者に届いたのは15パーセントの370億円に留まっていることが、6日の義援金配分割合決定委員会で報告された)。これは、明らかに行政の不作為です。義援金が渡せていない背景にはいろんな理由があるんですが、被災者はとにかく現金を持たないまま、依然として過酷な状況に置かれています。
もちろん、避難所では無料(タダ)で炊き出しは行われていますが、つい1週間前に私が行った避難所では、夕食に温かい味噌汁と温かいご飯、それからサラダが一皿出るのですが、もう一皿は何かというと、ソーセージとちくわと蒲鉾などです。昼食は、3カ月間、毎日カップラーメンの配給です。朝食は前夜のうちにパンと牛乳が配られます。現金があれば、近くにスーパーやコンビニが営業していますから好きなものを買いに行くこともできますが、それを買うお金がない…。陸前高田市や南三陸町などは、それまで住んでいた海辺の地域からかなり離れた高台に仮設住宅が建つんですが、最初は「仮設に入りたい」と言っていた人たちが、実際に仮設住宅ができた今、今度は「仮設にはしばらく入りたくない」と言っています。それは何故かと申しますと、いったん仮設に入ってしまうと食事の配給が受けられないからなんです。先ほど申し上げたような非常に貧相な食事でも、避難所に居れば1日3食タダでもらえます。
しかし、仮設にいったん入居すると、行政側の言い分では―阪神淡路大震災の時もそうでしたが―「ちゃんと住む家ができたのだから、後は自分たちでやりなさい。食事も自分たちで用意しなさい」ですから、高台の仮設住宅に入居しても、当然、それまで何もなかったところに仮設が造られたのですから、近くにお店もなければ、あったとしても品物を買うお金もない。ですから、晩ご飯を自分で作れないんです。だから、せっかく仮設住宅ができても、劣悪な環境でも毎日三度の食事が出る避難所を出ることができないんです。阪神淡路大震災の時も現金がなくて困っておられる方がたくさん居られたことを知っていますが、今回はそれどころの状況ではない。とにかく皆が皆、お金がないのです。だからこそ一刻も早く義援金を配るように、われわれも働きかけているんですが、なかなか動きません…。これが4つ目の「欠援」です。

▼3つの危機をどう乗り切るか?
それでは、援助がどうして入らなかったか? 同じ津波が来て被害に遭ってるんですが、まったく何も残っていないところと、津波によって壊された瓦礫が沢山残っているところがあります。地域によって被害の状況がまったく違います。(スクリーンに映った写真を見ながら)これは気仙沼ですが、ここは津波で建物が全部流されるんですが、壊された瓦礫が被災地の中にたくさん残っています。こちらは陸前高田ですが、きれいに片付いたこの写真の風景は、瓦礫が整理された後という訳ではなく、津波でいっさいのものが海に流されたんです。何が違うかというと、同じように津波で壊滅的な打撃を受けたところでも、立派な堤防があったところは、侵入してくる津波は防げなかったのに、引き波が瓦礫を海へ持ち去るのを留めたため、建物の残骸が地上部に大量に残っているのですが、堤防がないところは、それらも含めて全部海に持って行かれてしまった。復興のためにはどちらが良かったのか判りません…。もちろん、どちらも良くはありませんが…。実は今一番頭を抱えているのは、こういう形で瓦礫が残ったところが厄介で、その処理が大変だろうと言われています。
先ほど瓦礫の量は3,000万トンと申し上げましたが、もし日本中の工務店にお願いしてブルドーザーやダンプカーやショベルカーを持ってきていただいたら、私の計算では約3週間ですべての瓦礫が片付きます。しかし、実際にはまったく片付かない。その原因はふたつあります。ひとつは「国が面倒を見てやる」と言ってくれているものの、国の財布の中にお金がないんです。補正予算が通っていないということもありますが、財政難で本当にお金がないため、業者に瓦礫処理の発注ができないのです。ここは業者に頭を下げて「返済が2年後か3年後になるかもしれないが、ともかく今、現地に行って片づけてくれ」と言えば良いのですが、非常に辛いところです。
2つ目は―本当は丁寧に説明しないと駄目なんですが―津波が来て非常に危険な思いをしたので、かなりの数の被災者が「もうこんなところには住みたくない」と思っていますし、総理大臣や一部の防災専門家は「だからもう海辺には住むな。高台に上がれ」と言い、「高台移転」が基本方針になっていますが、しかし、実はこれらの地域はそもそもあまり高台がないため、これから山を削って高台を造るという話をしています。「高台に移転する」と意思決定したのですから、「海辺には住まない」と一応決めたことになります。そして、めいめいが勝手に海辺に家を建てないように建築制限地域が定められました。その結果、「どうせ海辺には家は建てないのだから、瓦礫は急いで片付けなくても良い」という甘い考え方が出てきています。しかし、先ほど申し上げたように、衛生上の問題があるので、いずれ撤去しなければならないのですが…。今、気仙沼に行かれてもまだこのような景色が見渡す限り続いています。

講演に熱心に耳を傾ける国宗会員諸師
それから、これはあまり指摘されていませんが、今回の大震災では、実は火事がたくさん起きています。阪神大震災の1・5倍ぐらいですが、基本的には海辺の石油コンビナートのタンク類が津波でひっくり返されて油が流れ、そこに何らかの火が点いたようです。(スクリーンに映し出された写真を見ながら)これは、街中に船などが押し寄せてきて、ヘドロの山になって家が倒され、その後に火が点いて焼けた跡。赤茶けた鉄板が見えますね。焼けたのは街中だけではありません。これは気仙沼の港ですが、港に浮かんでいた船もずいぶん焼けました。その火災のひとつが、東北の被災地から遠く離れた東京湾内の千葉県市原市にあるコスモ石油のコンビナートで起きた大規模火災です。これによって何が引き起こされたかというと、ガソリンの供給がストップして、特に東京から東北はまったくガソリンが流通しない状況が生まれました。
これが援助が欠けた理由のひとつですが、ガソリンがないので車も走らない。車が走らないので人も物も運べないという状態が1週間続きました。国が西日本や九州の精油所からガソリンを日本海側の路線経由の列車でいったん青森まで持って行って、そこからタンクローリーに積み替えて、被災地に南下するよう指示が出たのが3月20日ぐらいです。そして、23日ぐらいからようやく被災地にガソリンが行き渡るようになった結果、車はあってもガソリンがなくて支援物資が配送できない状況が解消されるんですが、それまでの1週間は、はっきり申し上げて「全く物が届けられない状況」が続きました。例えば、1日でおにぎり半分とか、1日の飲み水がコップに半分といった状態でした。
皆さん着の身着のままの状態で逃げてきたので、防寒着もなく、避難所になった広い体育館で体が冷え切って低体温症に罹り体を壊した方々が今なお、毎日のように亡くなられています。われわれはこれを「震災関連死」と言いますが―まだ国も統計を取っていませんが―震災直後にせっかくいのちが助かっても、その後の避難所や仮設住宅、あるいは戻った自宅で亡くなられる方が、阪神淡路大震災の時にも大勢居られました。石巻の日赤病院は、割ときっちり統計を取っておられるのですが、ひと月で200人ずつ亡くなられています。これはわれわれのジョークですが、「何人が亡くなられたかは、お寺に聞くのが一番早い」と言われます。公営の火葬場も火葬が追いつかず、仕方なく土葬をやっているところがあったり、亡骸を秋田県など遠くの隣県にまで運んで火葬してもらっている方も居られます。
しかし、役所も建物が潰れているので死亡届もちゃんと出てこない。そこでお寺さんに尋ねて「うちは○○人お葬式を出した」という数字を集計すれば、死亡者数が判る訳です。今なお、最初の1週間に物が届かなかったことがすごく尾を引いています。これは、岩手県大槌町の写真ですが、町長さんをはじめ多くの職員の方々が亡くなられました。巨大な防潮堤の裏側にあった2階建ての町役場から町民に「大津波警報が出ましたので避難してください!」と避難勧告を流したのですが、その避難勧告を出した幹部の方々は、今後何処に避難所を開くかといった対策会議を行っており、逃げなかったため逃げ遅れて、課長以上の幹部が全員流されてしまいました。宮古市の北にある田老町は、住民が「万里の長城」と呼んできた、日本一大きな高さ10メートルの総延長2・4キロの堤防が街中を貫いていて、「世界一津波に安全な町」と言われていました。ところが、10メートルの堤防に対して30メートルの津波が来たため、これが易々と乗り越えられてしまいました。写真はないのですが、この巨大な堤防は津波で破壊されています。津波の酷さや瓦礫がずっと残っている様子を写真でご紹介しました。

▼今日の課題とどう向き合うか
次に、本日の本題である大震災とどう向き合うかについてお話ししていきます。今、私たちが直面している課題は2つあります。ひとつ目の「今日の課題」は、言うまでもなく、今の被災者の救援や被災地の復興を進めて、1日でも早く元の生活に戻っていただけるようにすることです。これは決して疎かにしてはいけないことです。と同時に、「明日の課題」も待ったなしです。東海、東南海、南海の3つの地震が連動することは確実だと言われています。今回の震災も「東日本三連動」と言われ、大きな3つの震源域が同時に動いています。
南海地震は30年以内に起こる確率が60パーセントと言われ、東海地震が起こる確率は80パーセントと言われていますが、「3つ同時に」ということは、東海地震が起きたら、東南海、南海と皆動くということですから、地震の起こる確率はいずれも80パーセントということになります。首都直下で起きる地震も、30年以内に70パーセントから80パーセントと言われています。ということは、首都直下、東海・東南海・南海地震は、30年以内にほぼ確実に起こると考えないといけません。30年後に来てくれればまだ良いですが、これはあくまでも確率の問題ですから、10年後かもしれませんし、ひょっとしたら明日起こるかもしれません。現代の科学は、いつ起こるかを正確に予測することはできませんが、ただ、メカニズムでいえば、確実に起きるということまでは判ってきています。
そうしますと、南海地震などが起きても、今回のように津波でさらわれることのないようにしなければいけない。また、東北地方の復興も何年かかっても良いという訳ではなく、どんなに時間がかかっても、できれば10年以内にしっかりやらないといけない。つまり、復興をする一方で次の予防もしないといけない。日本は同時に2つのことをやらなければならない訳です。言葉で言うのは簡単ですが、おそらく復興だけでも30兆円から50兆円は必要―今、日本にそんなお金はありませんが―と言われています。今、増税や国債で借金をしてでも財源を確保するのだといった論議が出ている訳ですが、東北地方の復興へ全部お金がいってしまうと、次の被災地になるであろう南紀の串本や高知の話は放ったらかしになってしまいます。本当はここにこそお金をかけなければならないのですが…。
もし私が30兆円のお金を持っていたら、東北に何兆、近畿に何兆出すかを考えるのはハムレットの心境だと思いますが、私だったら東北に10兆円、西日本に20兆円使いたいです。要するに、トータルでいのちを救うことを考えた時、次の和歌山、徳島、高知が今回と同じ様なことになることを防ぎたいと思うと、いろんなことをしないといけません。津波が来た時の避難路を作らないと駄目ですし、避難ビルも作らないといけない。これも待ったなしです。ところが、おそらく今、われわれの頭の中は「東北の人々が大変だから…」と、復興支援に全力投球します。しかし、「一生懸命全力投球していたら、今度はこちらで大震災が起こってしまった」という悲劇が起こりかねない。同時にやるということはとてつもなく大変なことです。    
▼借金してでも震災対策を
脅かすようで申し訳ないのですが、こういう状態で首都直下地震と東海・東南海・南海地震の三連動が起きた場合、日本はいろんな意味で必ず沈没します。ですので、単に東日本大震災の復興をどうするかというだけでなく、これから起こるであろう大地震にどう準備してゆくかということを考えていかなければなりません。私も何とかしたいと思っているのですが…。
そういったことを考えますと、「たとえ借金してでも、できるだけのことはやらないといけない」ということになります。小さな声で「少しぐらいの増税は我慢しなければならないのかもしれない」と言わざるを得ないかもしれません。もちろん難しいですよ…。私も本来は「何故、われわれが税金を払わされなければならないのか?」という気持ちが多少あるんです。と申しますのは、日本政府には、今、すでに800兆円というもの凄い借金がありますが、これはいったい誰が借金したのか? これをある家族のシチュエーションに例えると、お父さんが毎晩お酒を飲んで、膨大な借金を作った。そこに子供さんが大怪我をした。子供さんを病院に入院させて手術を受けようと思ったら、手術代を支払うお金がない。銀行に行って「子供の手術にお金が必要だから…」とお願いしても、「お宅は既に破産状態だから、お金は出せない」と断わられた。今、まさに日銀がそう言っている訳です。
政府が国債を追加発行しようとしたら、日銀は、放漫経営でいっぱい借金を作った破産状態の政府に対し、「(新たな国債を)日銀は引き受けない」と言ったんですね。ですので、もしこの放漫経営の結果の大借金がなければ、素直にいっぱい借金をして、次の世代にツケを回しても良いと思います。今回のような超巨大地震は1,000年に1回のものなので、実際にその大地震に直面するのは、前の世代だったかもしれないし、次の世代かもしれない。だから、これはその1,000年間の世代全体で引き受けるべきで、今の世代だけでその借金を背負う必要はない。
しかし、現在の日本政府の借金は、この数十年間の日本国の経営ミスがもたらした。あるいは、その借金の陰にもの凄く儲けた人が居る。本当はその人たちが払うべきだと思いますが、今新たな財源を得ようと思ったら、増税というよりは、借金と同時に、現状お金を持っている人に潔くお金を出してもらうということをしないと足りないという気がします。

▼欠援を生み出した3つの空白
では、何故この大変な状況が起こったのかを、「3つの空白」という言葉で整理してみようと思います。まず「30分の空白」とは、地震が起きた直後に、大津波が発生するということはある程度判ったんですけれども、大津波が襲ってくるということを被災者となる人々に伝えきれなかった。結果的に、人々は「大丈夫だろう」と思い、津波が目の前に来るまで逃げようとしなかった訳です。
「1週間の空白」は、先ほど申し上げたガソリン不足から被災地に物が運べなかったことです。実は、インドネシアやフィリピンで大きな地震が起きますと、日本から緊急援助隊が飛んでゆき―例えば、大阪市の消防局が、ジャワ島の津波災害の際に出動して―ヘリから救援物資を落として、被災地に取り残された人々を助けたのです。ガソリンや道路網の寸断で地上から近づけないなら、これと同じことを日本でもやれば良いじゃないかと私も最初から申し上げたんですが、日本には「民間のヘリから物を落下してはいけない」という法律があり、空から物を落とすのを見送ったのです。ガソリンが駄目、ヘリも駄目、船を使おうにも桟橋が壊れている…。結果的に、最初の1週間は被災地へ救援物資を運べなかったのです。
しかし、ヘリの話にしても、上空から荷を投下させることが法令違反だと言うならば、「うっかり間違って落としてしまいました」と言えば良い訳です。故意に投下すると法令違反ですが、「うっかり落とす」という方法だってある訳です。誰が咎め立てしますか? ですから、うっかり薬などをたくさん落としてくれば良かったんです。しかし、日本ではそういった狡賢い知恵が働かず、非常時でも何事も平時の法令通りにやろうとするため、巧くいきませんでした。
ガソリンはありませんでしたが、実はLPG(液化石油ガス)はあったんです。ですから、LPGのタクシーは震災直後から動いていましたから、タクシーに荷物を積み込めば良かったんですが、そういう知恵が回らなかった。結果として、「空白の1週間」が生まれ、この間、物資が被災地へ行かなかった訳です。
「1カ月の空白」が、さらにこの状態に追い打ちをかけました。これがどういう理由なのか、私は今もって判りません。要するに「ボランティアは被災地に行くな!」というひとつの世論が形成されたことです。これに加えて「被災地に迷惑がかかる」とか、「放射能が漏れているから…」等いろんなことを言われて、情報が錯綜したことにより、ボランティアの最初の出足が止まりました。地震が起きた時、ちょうど大学生たちは春休みでしたから、本当ならば、ボランティアとして即戦力が期待できる大学生が大勢いた訳です。そういった若者たちが、被災地にどんどん人が入っていけば良かったんですが…。
それが、「ボランティアに行ってください」と、少しトーンが変わったのが4月中旬ですから、「行かないほうが良い」とか「行っても混乱する」とか「瓦礫が危険だ」とか言われて、結果的にボランティアは最初の1カ月間足止めを食らった訳です。全国のほとんどの大学が自粛を呼びかけました。「ボランティアに行ってはいけません!」と貼り紙をした大学が山のように出ました。今(6月上旬)もまだこれが尾を引いていて、「被災地へ行っても迷惑になるのでは…」と思っている学生が少なからずいます。結局、この「3つの空白」が、先ほど申し上げた「欠援」の状況を生み出した訳です。

▼日本全体の危機と被災地の危機
そういう中で今、何が起きているかといいますと、被災地に限らず日本全体がいろんな意味で危機に瀕している。ひとつはやはり、「経済の危機」です。ようやく少し改善されましたけれど、一時はJR西日本の列車も間引き運転になりましたが、これは、節電のためではなく、列車の修理部品が届かなかったためです。日本は構造的にあらゆるものが一極集中になっています。
もうひとつは、トヨタの「ジャスト・イン・タイム」という、余計な在庫を作らない産業の考え方です。注文が来た瞬間にそれに応じた量だけが生産されて相手先に届けられるという、アソビのまったくない効率的な社会を作り過ぎていたために、何千とある部品調達先の何処かがひとつ止まるとと、ありとあらゆるものがストップしてしまう訳です。例えば、今回の震災で、被災地から遠く離れた福岡の結構大きなイベント会社が倒産した時も、外国人のアーティストを呼んでいたにもかかわらず、皆に断られて、予定されていたイベントが全部潰れてしまい、ひいては他のイベント会社も連鎖倒産するということが起きました。この他にも、購買自粛や風評被害が重なり、日本経済が沈没しそうになっています。
2番目は「政治の危機」です。こういった災害が起きている時こそ、日本の一番弱いところが表面に出てきます。日本の一番弱い所は何かと言いますと、やはりこういった危機に強いリーダーが意外に少ないということです。今、一般世論は「誰が首相になっても同じだ」という声が多数を占めています。まだ民間にはリーダーが居ますが、政界は本当に救世主のようなリーダーが求められているということでしょう。その意味で、現在は、国内のみならず国際的な信頼回復も含めて、非常に大きな危機に瀕しています。
3番目は「国民の意識の危機」です。先ほど「ボランティアへ行く人がなかなかいない」という話が出ましたが、現在ボランティアに行っておられるのは、最近退職した団塊の世代と、30代から40代で阪神淡路大震災の時にボランティアを経験した人たち、そして一番頑張っているのが20代半ばから30代前半のフリーター、そしてほんの少しの大学生です。私は、若い大学生が被災地に来ていないことが日本全体の危機のように思えてなりません。これらは被災地だけの問題ではなく、日本全体の大きな危機として捉えないと駄目だと思います。
被災地に目を向けますと「被災者の生存の危機」があります。せっかく、大津波の中で生き残ったにもかかわらず、その後のケアが悪くて人がたくさん亡くなっています。いわゆる「災害関連死」というやつです。2つ目は「地域社会の漂流の危機」つまり、地域社会が壊れていっているんです。これは復興が遅れていることとも関連しますが、福島のように立ち入り禁止区域が拡がっているために、そこに住めない人たちがどんどん日本各地にバラけていっています。
現在、全体で40万人ほどの被災者がおられますが、そのうち15万人が既に被災地から他県へ出て行っています。この大半にあたる6割から7割は、福島県の被災者です。大阪にもたくさん被災者の方々が移り住んで来られていますけれど、こういう人々はいったん被災地を出てしまうと、二度と戻って来れない状況が生まれる場合が多い。ですので、そういう人々にとっては、故郷がなくなってしまう訳です。石巻や気仙沼のような大きな町は無くなることはないでしょうが、それでも人口は半分ぐらいになるかもしれません。しかし、大槌町や雄勝町のような小さな町のいくつかは町そのものが無くなるかもしれません。
3番目は「地域産業の消滅の危機」ですが、阪神淡路大震災の時は、いわゆる第二次産業、第三次産業を主体にした地域でしたから、商店街などの自営業の方は大変困られたと思いますが、それでも、サラリーマンの大半は、本社が神戸ではないので給料がもらえました。しかし、今回の地域はありとあらゆるものが潰れてしまっているため、収入が一切ない中で、漁に出られない。農業ができない。酪農ができない。苺の栽培業者やホタテやカキの養殖をやっている経営者―主に若手の自営業者が―どんどん廃業していっています。
お年寄りの漁師さんはまだ「漁師をやりたい」という気持ちになれるのですが、30代、40代のホタテの養殖業をやっている人たちは、あらためて一から設備投資をすると、さらに借金がかさむので、こんなことなら東京へ行ってハイテク産業に就職しようかと考える人が増えています。特に、水産業が壊滅の危機です。三陸は日本の豊かな魚を供給する最大の拠点ですから、この漁業が潰れてしまうということは非常に大変なことです。この「いのち」、「コミュニティ」そして「産業の危機」が、今日被災地において最大の問題になっているようであります。

▼復興構想会議
では、被災地における今日の問題を解決するにはどうすれば良いのか? すでにマスコミ等では―評論家的な表現になってしまいますが―、基本的に「スケール感」と「スピード感」と「寄り添い感」がないと言われています。過酷な環境下にある避難所にこれ以上被災者を置いておけない。「災害救助法」という法律がありますが、ここで定められている避難所での生活は、標準的には2週間で終えて、その後は仮設住宅に移り住む想定になっています。

最悪でも、1カ月以上避難所には居てはいけません。避難期間が長引くにつれて、広い体育館に間仕切りを入れるなどの工夫がなされるようになりましたけれども、プライバシーはないし、食事は粗末ですし、冷暖房の設備もない中に置かれています。
ですから、避難所はあくまでも緊急措置の一環であって、本来、中長期的に生活を支える場所ではなく、2週間から長くとも1カ月後には次の段階へ行くという前提の下で設置されています。そんな中、仮設住宅の建設もようやく「夏休みまでにはなんとか…」という声も聞こえるようになりましたが、その仮設住宅を何処へ建てたら良いのかという決断がなかなか下せないため、被災者たちがいつになったら仮設に入れるのかがはっきり判らない…。ズルズルと先延ばしになっているため、その分だけ被災者の苦しみが増えていっています。これはスピード感の問題なんですね。
私の友人が何人かメンバーに入っているため、あまり具体的に言うと拙(まず)いんですが、五百旗頭真氏を議長に復興構想会議というものができましたが、本気で復興構想を練ろうというのなら、1週間ぶっ通しで毎日議論してほしいと思います。また、毎日議論すれば1週間で結論が出るんです。しかし、実際は忙しい著名人たちを集めて1週間おきに開催するものですから、「来週のその日は私は都合が悪くて…」と日程調整だけで大変です。中間報告が6月末に出て、その際におおよその骨子が出ると思いますが、皆さんご覧いただいたら「こんな骨子なら、キチッと議論すれば3日間で出る」と思われるかと思います。とにかく、これが出ないことには、復興が前に進まないんですが、最終報告が今年の末に出る予定です。しかし、実際の復興はドンドンと進めていかないと駄目ですから、いつまでに復興会議の提案を出すか、そのスピード感が問われるところです。タイムリミットをキチッと決めないと物事は進まないものですが、菅内閣はあらゆることがタイムリミットなしにズルズルと進んでいるため解決されない点が大きい問題です。

▼阪神淡路大震災を教科書にしてはいけない
もうひとつの問題点は、すべてのアプローチで「阪神淡路大震災を教科書にする」とあるのですが、これは結果としては、間違いだろうと思います。「阪神淡路の記憶を活かす」ということで、阪神淡路大震災の時と同じやり方をしようとするのですが、阪神淡路と今回の東日本大震災は、まったく状況が違うので、決して真似をしてはいけないことがたくさんあります。一例を申し上げますと、阪神淡路の時は一挙に救援物資が届いたため、物資が山のようになってしまって仕分けにずいぶんてこずったそうです。この経験から、「被災地に物を送ってはいけない。送るのはお金だけにしよう」というのが日本中のルールになりました。ですから、今回も最初から「お金しか送ってはいけない」ということになり、「防寒具がなくて困っているという」という被災者の声を聞き、オーバーを持ち込んだところ、震災直後、行政は「お金以外は受け付けできません」と断ったんです。
ところが、今回は、たとえお金があっても、スーパーやコンビニが壊れてしまっていて物が買えない状態だったんです─誤解のないように申しますと、今(6月9日)はスーパーやコンビニも徐々に各地域で営業を再開しつつあるので、もう現時点では物資を送るより、お金を送ったほうが良いです─。つまり、東日本の場合は、震災直後に水や食糧や衣類といった物資を先に送らなければいけなかった訳です。また、阪神淡路の時は、全国からボランティアがいっぱい来られたため、受け入れに非常に苦労─本当は助かったんですが─したことから、「ボランティアはいっぺんにたくさん来られたら困る」という固定観念が生まれてしまった。そこで、まずボランティアセンターを立ち上げて、「被災地でボランティアをしたい人は皆、受付で名簿に登録して保険に入った人だけがボランティアとして活動できる」ということを決めたんです。今回もその通りにやろうとしましたが、今回はうって変わって、ヘドロや瓦礫の除去に─この表現は良くないですが─まさに「猫の手も借りたい」状態でした。誰でも来てほしいにもかかわらず、「受け付け態勢ができるまで待て」とか、「自己完結で来い」─つまり「自分で滞在中に必要なものは、すべてリュックサックで持ってこい」といった具合に─という訳です。
これは、阪神淡路大震災の時に、避難所で寝泊まりしたボランティアが居て顰蹙(ひんしゅく)を買ったためなんですけれど…。ボランティアは被災地の人に極力負担をかけないようにするという考えは正しいんですけれど、今回の状況を考えますと、テント生活にも慣れたいわゆるボランティア慣れした人だけでは足りないので、これまでボランティアには行ったことがないような人たちにも来てもらわなければならない。来てもらおうと思うと、例えば、(沿岸部の釜石市から20キロほど内陸へ入った)遠野には空き家の民家がいっぱいあるので「遠野にボランティア村を作ります。新幹線の駅や空港のある花巻からは無料の送迎バスをちゃんと出しますから、是非ボランティアに来てください」ぐらいは言わなければならないと思います。
それをとにかく自己完結で、「リュックサックを背負って歩いてでも来い」と言われると、ボランティアも「そんなに酷い状況じゃ、俺なんかが行ってもとても役には立てそうにもない」と行く気になれません。阪神淡路の時は、(被災地から十数キロしか離れていない大阪の都心部がほとんど無傷でしたので、ボランティアもどこにでも泊まれるため)自己完結でも良かったのですが、今回「自己完結で…」ということは、すなわち「素人のボランティアには来るな!」と言っているようなものです。
ですので、阪神淡路の時の教訓が、今回はまさに裏目に出てしまった訳です。やはり現場を見て、現場に相応しいことをやっていくことが必要です。「法律ではどうだろうか?」とか「阪神淡路の時はどうだっただろうか?」ということではなくて、今必要なことをすぐにしなければならない…。なかなか巧くいきませんが、われわれはあらためて、このことをしっかり頭に入れておかねばならないと思います。

▼非常時の指揮系統は単純かつスピード重視で

3番目が、従来の危機管理のシステムが─今まで小さな災害を繰り返していたので─大災害が起きた時に組織のシステムがどうあるべきかということを十分考えていなかったということです。平常時はピラミッドシステム─「係長がよく判らなかったら課長に聞き、課長がよく判らなかったら部長に聞く」といったような─が有効です。これはどういうことかと言いますと、係長より課長、課長より部長のほうが経験が豊かなので、経験がものを言う社会の実情に合っている。あるいは、じっくり方針を決める時には、社長が部長に意見を聞き、部長が課長に、課長が係長にといった具合に、上が下の意見を聞いて、時間をかけて議論をして意思決定するのが、日本における平常時のシステムです。
しかし、戦争や大災害の時は、このピラミッドシステムではなくフラットなシステムが良いんです。大将(総理大臣)が居たら、それ以外は現場の指揮官だけで良く、中間に妙な組織を作ってはいけないんです。大将は、ビジョン(基本方針)を示したら、あとはお金を山のように出して、責任さえ取れば良いんです。そして、現場の判断はすべて現場の指揮官に任さなければなりません。例えば、目の前で火が燃えている時に、現場の消防隊長が消防署長に「何処からホースを入れれば良いでしょうか?」とか「障害物を取り壊す許可を下してください」などと言っていたら火事は消せない訳です。
今は火災の現場ですぐに消火活動に入る消防隊員のような即応力が求められているのに、中二階のような機関をいっぱい作ってしまった…。しょうもないものもたくさんあります。総理大臣が「復興庁を創る」と言い出したのが3月20日頃です。ところが、いろんな組織を創って議論し出すと、「復興庁など要らない」という議論も一杯出てきた。ズルズルと議論の堂々巡りばかり続くので、じゃあもう創らないのかと思ったら、今度は自民党が「創れ」と言う。最終的に法律は通るんですが、とにかく途中でいろんな意見を言う人がいっぱい居るものですから、ボランティアのこともそうですが、とにかく意見がまとまらないため、何も決定ができず前に進めない…。組織をいっぱい創り過ぎてしまったんですね。本当は、むしろ簡素化しないといけないのですが、平常時より複雑な組織を創ってしまった訳です。
今、仮設住宅などが問題になっていますが、私は基本的に、住宅は元あった場所に建てるのが一番正しいと思っています。津波はそう何回も来ないものです。石巻の人々が次の津波で死ぬ確率と、車にはねられて死ぬ確率を比べると、車にはねられるリスクのほうがはるかに高いです。次の津波で死ぬリスクを考えて、要するに「海辺に住むな」と言っている訳ですが、これは「車にはねられて死ぬかもしれないから家から出るな」あるいは「飛行機が墜ちるかもしれないから飛行機に乗るな」と言っているのも同じです。また、「高台に移転」と言っても、そう場所がありませんから、「じゃあ山を削らないといけない」という議論が始まったのですが、「学校を建てようにも学校の用地がない」などと、いつまでも「用地がないから」と話が進まない。そうではなくて、「元々住んでいた場所に、自由に家を建てなさい。仮設の小学校を造って皆が早く元の場所に戻ってきてから議論しなさい」ということを、例えば総理がひとこと言ってしまえば、バッと進むのですが、未だに「ああでもない、こうでもない」と堂々巡りになるばかりで、一向に議論が進みません。
今、一番困っているのは漁業です。私は、気仙沼しか知りませんが、既に6月に入り鰹の水揚げが始まってるのですが、気仙沼は、鰹の水揚げでだいたい7割の人の雇用に繋がっているんです。鰹を冷やすための氷を作る工場や、鰹の箱を作る工場や、船の油を清掃したり修理をする工場などいろいろありますが、もし鰹が揚がらなかったら、鰹の水揚げにまつわる仕事をする人たちは全部干上がってしまうんです。また、鰹の水揚げをしようと思ったら、仮設でも良いので海辺に水産加工場や桟橋をすぐに造らないといけない。そこへ建築規制がかかって「海辺には何も造るな」と言っている訳です。ということは、今年の鰹船は気仙沼港に入って来れないということですから、結果的に、千葉の勝浦や銚子に行くことになります。こういう仕事は、一度お客さんを逃すともう二度と戻ってきません。ですから、なんでも良いから海辺に街を造って水産業をすぐにでも再開しないと間に合わないのに、そういう意思決定がなかなかできない。この辺は愚痴に近いですが……。仮に、私自身が総理大臣になったらよくできるのかと問われたら判りません。けれども、被災地にとって一番大切なのは、水産業や農業といった地場産業ですから、農業をしている人は一刻も早く土地を耕さないといけません。そのためにも最大限急いで整備をしなければいけないのですが、そういった方針も決まらないまま、時間だけが過ぎています。

▼復興は世直しである
ここから「明日の課題」で、復興に関わる話になりますが、時間もありませんので3つだけ取り上げたいと思います。1番目は、災害とは社会の矛盾を全部炙(あぶ)り出します。例えば、高齢化社会、過疎化問題、地域間経済格差、日本のリーダーシップの不在、医療過疎でお医者さんがいない地域社会があったことなどが挙げられます。そうすると、「復興とは何をすべきか?」というと、今、表に現れてきたそういった社会的矛盾を同時に解決するということなんです。ですので、単に防災上安全な街を作れば良いというのではなく、むしろ社会全体が抱えている問題を解決していく必要があるため、われわれは「復興は世直しだ」と言っています。
2番目は、それでも必要な「安全」ですが、「安全」とは巨大な堤防を造ることや高台に上ることではなく、ソフトウェアやヒューマンウェアと言いますが、人間が自然とどう向き合うか? 自然をどう理解するか? 人と人の繋がりをどう創るか? そういったものを全部含めた安全や安心を考える必要があります。私は、やはり三陸の人たちは海と離れた安全や安心はあり得ないと思います。海と向き合って海と一緒に住んでいくのが三陸ですから、今回みたいに、巨大な堤防でもいったん乗り越えられてしまうと全く為す術がありません。
これは暴論だと言われているのですが、私は「堤防の高さを今までの半分の高さにしてください」と言っています。これはどういうことかと申しますと、100年に1回の津波は堤防で守らないといけません。しかし、1,000年に1回の津波を堤防で守ろうとすると、20メートル、30メートルの堤防といった具合に、キリのない話になります。100年に1回来る地震の確率を計算すると、津波の高さはせいぜい5メートルですので、10メートルの堤防は必要なく、むしろ常に海の傍にいたほうが海の厳しさが見える。そして、向こうから来る津波が見えたほうが良いんです。そこで大きな津波が見えたら、一目散に逃げればよい。海と一緒に暮らすということをもっと考えたほうが良いと思っています。堤防を造るだけが防災ではありませんし、あるいは防災だけで街を作ってはいけないです。われわれは安全だけで生きている訳ではなく、もっといろんな暮らしが必要です。ですので、安全や安心ということを正しく理解しないといけない。
3番目は「皆の思いを形にする」ことです。実は、この「物語復興」を広めたのは私なんですが。1989年にアメリカのサンフランシスコで大きな地震がありました。サンフランシスコの少し南にあるサンタクルーズ市は、とりわけ壊滅的な被害を受けました。阪神淡路大震災の後、私はアメリカの友人から「室崎さん、サンタクルーズの復興の様子を見に行きなさい。あそこの復興の様子を見れば、きっと阪神淡路の復興に役立ちますよ」と言われて現地へ出向き復興がどのように行われたか話を聞きましたが、私も見せていただいたその復興計画は、まるで文学のような計画でした。「古い教会が地震の前と同じ様な形で造られて、教会の鳩時計が12時になりポッポポッポと鳴いています。鳩時計が鳴いている木陰の下では、おばあさんが居眠りをしています。おばあさんが居眠りをしているその先に毛糸玉が転がっていて、猫がじゃれています。そういう街を作りましょう」といったような復興計画です。どういう形でやったかといいますと、小さな街なんですが、小さな子供や大学生も含めてとにかく全員が集まりました。例えば、小さな子供は「私が可愛がっている犬と遊べる公園が欲しい」と言い、大学生は「彼女とデートするにも快適な場所がないので、木陰で美味しいコーヒーが飲めるような場所が欲しい」あるいは「家の前に皆が花を植えた街を作ろう」といった具合です。皆がいろんなことを言った上で、その意見を全部ひとつに連ねて、ひとつの復興計画を創ったのです。結論から言いますと、ほぼその通りになりました。
何が言いたいかといいますと、現在、被災者の声を聞くためと言ってやっているような、アンケートを配って「高台移転希望が何パーセントだから、高台移転に決める」といったことは、被災者の声を聞くことにはならないのです。被災者の声を聞くということは、「皆で決める」あるいは「決める場を創る」ということです。けれども、今はどうも違う。「被災者の声を聞く」と言って、アンケートを取って「7割の人が高台への移転を希望しており、3割の人が海辺を希望している。したがって、高台へ移転する」と言っていますが、これはアンケートの結果の読み方を間違えています。30メートルの津波という、凄い恐怖の中から必死の思いで助かった人のうちの3割もの人が、まだ下に住むということは、もの凄い決意がないと言えないことです。「あの津波を経験した以上、もう恐いので高台に上がる」というのは、ごく普通の決断ですけれども、なお海の近くに住みたいという思いの重みを考えた時に、やはり答えは高台ではないと思います。「被災者の声を聞く」ということは、単にアンケートや投票で聞くということではなく、もっと聞き方をしっかり考えないといけません。そして被災者に寄り添って、今、被災者が何を感じているかを捉えないといけない。それがちゃんとできないと、本当の復興はできないということだろうと思っています。
本当は、今回東日本で起きたことは、今後、日本の何処でも起こり得ることです。先ほど申し上げたように、南海地震や東海地震はまさに「待ったなし」です。そういうことが起きた時に、どうしないといけないかをしっかり考えないと駄目だと思います。本当に東京一極集中で良いのか? 首都機能も現在の一極集中から分散型に切り替えて、石川県や佐賀県にもそれぞれの生産基地があっても良いと思います。少なくとも、日本の政治構造は二眼レフにしたら良いと思っています。
ここからは冗談ですが、私は「首都を2つ作れ」と言っています。ひとつは福島の原発の近くに。もうひとつは、岡山に─大阪が外れたことに怒る方が居らっしゃるかもしれませんが、大阪はすでに経済の中心ですし、京都は文化の中心ですから─作ってほしいと思います。何故、福島かといいますと、あそこに首都を持って行くことが、一番福島を良くすることに繋がります。福島を良くしようと思うと、放射能を片づけないといけないので、あそこに首都を持って行けば本当に素晴らしい福島になると思います。岡山はどうしてかといいますと、私のリスク計算上では、岡山が日本で一番安全なんです。むしろそういった人口の少ないところにしっかりと作っておけば、仮に福島が地震で壊滅的な被害を受けたとしても、岡山が首都としての機能を維持している。
また、電力などももう少し分散型に変わらないといけない。エネルギーもかなり難しい問題も抱えていますが、やはり原発依存は止めないといけない。自然エネルギー─今のところ太陽光しかありませんが─やバイオなどいろんなものを使いながら、エネルギーの絶対量を確保するだけではなく、われわれのライフスタイルも変えていかなければならない。地球環境の中でバランスあるシステムを作らないといけない訳です。また、科学技術が本当にこれで良いのかが厳しく問われていますが、これは私たち自身に投げかけられた問題であります。第2次世界大戦というのは、基礎科学(物理学)のあり方が問われました。物理学が原子爆弾を作ることに加担して、戦争責任を負うことになりましたが、今回の東日本大震災は、応用科学技術─原子力発電所を作ったり、都市計画をしたり、街づくりをしたりといった、市民の生活に密着した科学─が、結構いい加減だったということが判ったんですね。
国民に対してキチッと情報提供しないとか、わざとじゃないと思いますが、科学者自身の思いこみというか、非科学的な世界が入っていたりと、まさに応用技術のあり方が問われています。ではどうするのか? 先ほど申し上げたような、危機管理のリーダーが居ないことや、生活に対する考え方、豊かさの考え方、心の問題─これは皆様方宗教家のご専門だと思いますが─を、もっとしっかり考えないといけない。それを今、しっかりと解決していかないといけません。今、私たちは、東日本大震災を契機にゼロからのスタートを切って、自分たちの国が抱えている問題を正面から見直し、あるべき姿を考えていく局面に立っているのではないかと思います。最後のほうは少し端折ってしまいましたが、今後の皆様のいろんな形の取り組みの中で活かしていただければと思います。ご清聴有り難うございました。
(文責編集部)



国際宗教同志会平成25年度総会 記念講演
『東日本大震災と宗教の役割』
東京大学大学院 人文社会系研究科 教授 
島薗 進
2月14日、神徳館国際会議場において国際宗教同志会(村山廣甫会長)の平成25年度総会が、各宗派教団から約六十名が参加して開催された。記念講演では、東京大学大学院人文社会系研究科の島薗進教授を招き、『東日本大震災と宗教の役割』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen47.htm

島薗 進 教授
島薗 進 教授

▼公共空間における宗教のプレゼンス
皆さん、こんにちは。国際宗教同志会の錚々(そうそう)たるメンバーの先生方の前でお話しさせていただくことを大変光栄に存じております。自己紹介として、お配りいただいた私の経歴に書かれていないことを申し上げますと、私の母方の祖父(註:日本医師会会長を務めた田宮猛雄東京大学医学部教授)は高知の出身で、家の宗教は神道でございます。そして父方の祖父(註:島薗順次郎東京帝国大学医学部教授)が和歌山の出身で浄土宗でございます。そして、私の父(註:国立精神・神経センター初代総長を務めた島薗安雄医師)と伯父は京都で生まれました。伯父が平雄、父が安雄と申しますが、二人合わせると「平安」となります。けれどもウチの父は「名前の字の中に女が入っている」と、冗談で親の名前の付け方に文句を付けておりました。私は東京で生まれました。そして、父の仕事の関係で石川県には8年ほど居りましたので、少し関西弁が解ります。
現在は仕事の関係で、だいたい東日本に居りますが、やはり日本の宗教は関西が中心ですので、いつも東の彼方から仰ぎ見ている「宗教から遠い人間」という感じを持ったりもしております。3年前に亡くなった母はミッションスクールへ行っていましたが、私には春日大社や橿原神宮などのお守りをたくさんくれました。元気な内はずっとカトリックのシスターの悪口を言っていましたが、最期は熱心にカトリックのお祈りをしておりました。そういう家で育って、父が医師だったものですから「医者になりたい」と思っていましたが、どうも現代の医学は立派な研究をすればするほど人間から遠ざかっていくという感じを東京大学に入って持ちました。もともと人間が好きだから医学をやろうと思った訳ですが、どうも医学というのは、「人間をモノから研究するのだ」という気がいたしたものですから、宗教学に変わった事情がございます。
今日は資料のデータが小さい文字で申し訳ございません。私も読めなくなるため、もうひとつ眼鏡を持参しています。こちらのスクリーンもご覧になりながら聞いていただきたいと思います。この題で申し上げたいことは、多分いくらか推測も入っている訳ですが、東日本大震災がひとつのきっかけとなって、日本社会における宗教の役割が大きくなってくるのではないか…。最近「公共空間」ということを言いますが、政治の場に限った話ではありません。皆がお互いの生活について共に考え意見を述べ働きかけ合うオープンな場所が「公共空間」ですが、そこで宗教が果たす役割が大きくなっていく。社会における宗教のプレゼンスが増してくるのではないか。そういう風に思っている訳です。
国宗で熱弁を揮われる島薗進東京大学大学院教授授 国宗で熱弁を揮われる島薗進東京大学大学院教授
日本のマスコミは、宗教をあまり取り上げません。これまで“宗教”が出てくる時はだいたいスキャンダル絡みですが、「今度は少し違うな…」ということであります。これは宮城県仙台市に本社がある河北新報社の2011年4月1日の記事ですが、こういう風に、若い僧侶が読経している場面がテレビや新聞に出てきます。テレビを見ている人は、亡くなった方のことを遠くに居ながらも考えている、あるいは身近な人が亡くなった方たちの気持ちを察している。その時に祈る、念じることなしに見ることはできないでしょうね。
そして「祈る」とか「念じる」といえば、やはり宗教でありますから、どうしても“宗教”が必要になってくる。こちらはお墓の写真でありますが、とにかく宮城、福島、岩手の海岸地域は、すっかり洗い流されてしまいました。三陸に行くと、入り組んだ湾や入り江の中には凄い津波が来た訳ですが、宮城から福島のほうは海岸線が平らですから、そこが全て流されてしまいました。そこには昔はあまり人が住まなかったようですが…。家が残っているところもあり、遠くから見ると「またここで暮らせるのかな」と一瞬思うのですが、近付いてみると、二階はそのまま残っているものの、一階部分が全部流されてしまっている。たいていのお家では、仏壇は一階にありますからね…。したがって、お墓もこのような具合になっており、お墓の中まで洗われて(遺骨が流出)いる状態です。
私は2011年の5月に行ったのですが、ほとんどお墓が片づいていない。お墓の蓋が開いており、骨壺がない。これは流されたのか、いち早く取って行かれたのか判りません。しかし、「ご仏壇はなくなってしまっていても、位牌は見つからなくても、せめてお骨だけは…」というようなことが多かったと思います。関東大震災の時に民俗学者の柳田國男が似たようなことを言っておりましたが、このようなことが起こっております。これは四十九日のニュースですが、この頃はまだ亡くなった方は14,000人と言っています。相馬市で真言宗豊山派の僧侶が合同慰霊祭をするという内容ですが、面白いのがこれが「日刊スポーツ」の記事だということです。スポーツ紙も、この時期は宗教のことに思いを致さざるを得ない。こういうことが起こった訳です。こういうことは新しいと思います。

▼不条理が人を宗教に向かわせる
私たちの世代は、学校では「宗教は古臭いものだ。これからは、どんどんとプライベートなものに矮小化されていくのだ」と教わりました。つまり、「宗教はプライベートなものとしてはこれからも残ってゆくだろうけれども、公的なこととしては、宗教なしに決められてゆくだろう。それが政教分離なんだ」と言われていた訳なのですが、しかし昨今は「果たして皆が参加する公共的な場面に宗教がなくていいのか?」こういうことが自覚されるようになりました。これは日本だけではないのです。政教分離といえば、フランスやアメリカといった「近代制度」を引っ張ってきた国がそういう方向へ進んでいったのですが、そういう国でも同じようなことが起こっている。つまり、「公共空間が精神的に空っぽになっている」それでいいのか? ということです。
しばしば話題になったのは、1775年にポルトガルで起こったリスボン大地震であります。リスボン大地震の時は津波も起こったんです。カントのような哲学者が、それについていろいろ考えました。当時はまだキリスト教の神を疑うことは難しかったのですが、「神が居るなら、どうしてこのような不条理なことが起きるのか?」という疑問が湧いてきた訳です。私の感じは少し違います。そういう風に人に理解できないことが起こった。そして、「神様が居るならどうしてだろう?」という時こそ、人の気持ちは神に向かうといいますか、人間を超えたものに向かうのだと思います。答えられない問題、普通の宗教の言葉で分かりやすく説明できないようなものの時にこそ、宗教心の元になるようなものが揺り動かされる。そういう感じがいたします。
金光教大崎教会長の田中元雄先生とは、かねてから親しくさせていただいておりますが、首都圏の金光教の方たちが気仙沼を中心に活動しておられ、その様子がよく金光新聞に載ったものです。今日は同じ金光教の泉尾教会で話をするからこの記事が出てきたという訳ではなく、私は普段からよく使っている話です。「何を学び、どう改まるべきか」というのは金光教らしい言い方でありますけれども、私はこの記事になかなか考えさせられたという気がします。「金光教には『天地と共に』ということが信心の根幹にあり、自然を征服するという考え方はないです。地震は地球のくしゃみやおならだと子供たちに説明しているのを聞きました」これが私には面白い言い方だと思いました。つまり、教会長なのに「(自然観について)金光教ではこんな風に説明するのだ」と自ら教えてあげるという風ではなく、「信徒のお母さんがこんなことを言っておられたよ」と言っておられる訳です。
今回の大震災に際して、天罰論というのも出たんですけれども、そんな風に「神様なり天なりは、人間を罰したいとか、悪意を持ってるようなものなんだろうか?」と…。そういう風に思う方もいるかと思います。「誰かが悪い、特に被災した人たちが何か悪いことをしたんだろうか? それはおかしいんじゃないか」といったようなことから、天罰論が大変な反響を呼んだ訳です。そこから見ると、自然が人間の思いも寄らない働きをするということは計り知れないことなんです。しかし、それは決して罰してやろうとかこらしめるというようなものではないんじゃないかという感覚を、少なくともこのお母さんは持っておられるということかと思っています。
私も被災地に参りまして、大変な光景を目にしました。ほとんど流されてしまった中に、鉄筋コンクリートの四階建てのビルが残っていて、その屋上に自動車が乗っかっているとか、海岸線からかなり内陸に入ったところに船が道路の横にあるといった光景を見て、大津波の凄まじさをあらためて実感しました。岩手県、宮城県の少し内陸のほうに入っていきますと、本当に美しい大自然が広がっています。首都圏はいたるところ建物だらけですけれども、東北新幹線で北へ行くに従って、だんたん建物が減ってきます。そして、豊かな自然、緑の山、田畑が見えてきます。やはり日本の自然は豊かです。実は、私は震災以後、日本酒を飲むようになったのですが、それは、日本酒を飲むと、やはり日本の自然が私の体の中に入ってくるような気がするということなんですね。
ここでも、「天地の恵みの中に住まわせてもらっているのに、自然を人間の使い勝手の良いように改造してきた。ところが、地球がひょこっと体を震わせたら大津波になったというような子供への物語です。自然災害というけれど、それは人間にとっては災害であっても、天地自然にとっては元来備わっているリズムの運行そのものなんですね」、「ですから災害という見方に立つ前に、まず天地に対する畏敬と謙虚さをもって恵みに感謝する姿勢を取り戻すことが大切だと思います」、「この大震災は我情我欲にふける私たちの生き方や…お金や物に振り回され、科学の力を利用してわが物顔に自然を破壊していく現代人のライフスタイルに対する揺さぶりだったのではないかと思えてなりませんでした。原発に象徴されるように、このままいけばもっとひどいことになるかもしれない、このままではいけない、という天地からの覚醒と受け止めることができるのではないでしょうか。文明のありようそのものが問われたように思いました」これは天罰論とは微妙に違うのですが、やっぱり何かを知らせてもらっている、何かわれわれが気付かなきゃならないことがあるんじゃないか。やっぱり(人間は)傲慢だったんじゃないか。こういう風に受け止めておられます。
これは私自身の感じ方にも近いです。と申しますのは、私たち戦後世代の者は、高度成長の恩恵に浴して参りました。そして、科学技術や経済発展といった、いいものをたくさん味わってきました。それを子供たち、孫たちにうまく受け渡せるかというと、どうもそうじゃない。今回、そのことが強く実感された訳ですが、田中先生のインタビューはそれをよく表していると思いました。

▼苦しんでいる人のもとに行って…
曹洞宗の青年会の方々と何度か支援活動をご一緒させていただきましたが、これはそこが作っておられるパンフレットです。福島辺りでは、大変放射線量の高い所を子供が平気で歩いている一方で、政府はなかなか動きません。去年のある時期から除染活動は大々的に行われるようになりましたが、それより以前は、政府主導の除染活動は、発災後一年以上行われなかった訳です。そういう中で、曹洞宗のお寺の方たちは、かなり熱心に支援活動を展開し、全日本仏教会の方々もこれに協力しました。もうすぐ三回忌ですが、昨年の一周忌の時には、全国曹洞宗青年会の現地支援対策本部がある伊達市の成林寺に私もご一緒させていただきました。伝統仏教の各宗派、そして海外からも仏教徒の方々が来られて共に法要されました。実は、全部の宗派が共通して唱えられるお経はありませんので、仏教界の方が共に法要するのはなかなか難しいんですが、いろんな工夫をされていました。
ご年配の先生方の中には「ボランティア活動や除染活動はわれわれがする必要はない。宗教家は宗教家らしく、宗教本来のことをやればいい」とおっしゃる方も居られますが、若い方たちはどうも違う。人が悩み苦しんでいるところで活動する中でこそ、何か求めているもの、悟りの道に近付いていけると…。つまり、「助けてあげる」というよりも「学ぶ機会を得る」という感じでしょうか…。若い僧侶の方たちが、在家の方たちと一緒に動いておられますが、彼らはこの活動を「縁(よ)り添い」と表現しています。これは要するに、昔から日本の仏教には、山に籠もって修行し(悟りを開くという面と)、下界(娑婆(しゃば))に降りて(人々を救済に)いくという両面がある訳ですが、こういう時にこそ「下界に降りていって、苦しんでいる方たちと共に働きたい」という気持ちがよく表れているパンフレットです。
これを表すものとして、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』がよく唱えられたということです。これは途中からなんですが、「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束を負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ…」宮沢賢治が岩手県の詩人だということもありますが、今回の大震災の後、この『雨ニモマケズ』がよく唱えられ、外国語にも翻訳されました。
この中でひとつ大事なことは、この「行ッテ」というところだと思います。よく「(私が被災地に)行っても何もできないから、行かない」という方には、とにかく一度「行って」みてはどうかと勧めています。今でも福島の方は「来てください」とおっしゃいます。自分たちが忘れられてしまうんじゃないかという危惧もあります。岩手や宮城でも復興が進んでいますが、最後までとり残されてしまう方が居るんですね。今行われているようなことは、阪神淡路大震災の後に行われたことがきっかけとなり、そこから中越大地震や台風被害がある中で、一般の人にとっても大いに関心がある災害支援に、宗教が加わるということは当然であるという風に変わってきています。

▼常不軽菩薩に学べ
もうひとつは「デクノボー(木偶の坊)」というくだりです。支援活動をされる方に能力があるにこしたことはないですが、避難所に行っても仮設に行っても、私など何も芸がないですから、「人の話を聞く」といってもどういう風に相槌を打っていいのかも判らない。曹洞宗の青年会の方たちがお茶とお菓子を持って仮設住宅へ行き話をするのに一緒に行かせてもらったことがあるのですが、曹洞宗ではこれを「行茶」と呼びます。だいたいおばさんたちが多いですから、私なんかが行くよりも若いお坊さんのほうが良いに決まっていますが。私どもが行くしばらく前に有名な歌舞伎役者が来たそうで、その写真が貼ってありました。避難所の方々は、とても期待していたらしいですが、ちょっとがっかりしたそうです。というのも、彼は避難所に来て挨拶をして帰ったそうですが、握手をしなかったらしいんです。
私は何もできないけれども、握手だけはして帰ってきました。握手をするだけでも気持ちは伝わりますよね。そういうようなことはでくの坊でもできるといいますか…。実は、宮沢賢治は大変な天才なんですが、自分自身はでくの坊だと思っていました。それは法華経に関係があります。法華経には常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という菩薩が出てきますが、もともとのサンスクリット語では「常に軽んぜられる菩薩」で、訳は「いつも軽んじない菩薩」。つまりどんな人にも仏性があるので相手に向かって手を合わせる。いつも相手に向かって手を合わせるので、「嫌な奴だ」とか「変な奴だ」といって、石を投げられる。だから軽んじられる。そういうところから来ています。これは、法華経の中のひとつの菩薩の理想でもある訳です。
『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の死後、鞄の中から出てきた手帳の中に書かれていたのですが、その中には、この『雨ニモマケズ』の詩が出てくると共に、常不軽菩薩のことを書いた詩が出てきます。 もう少し仏教教義的に申しますと「増上慢(ぞうじょうまん)」という言葉がありますが、仏教における常不軽菩薩が最も問題にしていたのが「如何にして“慢”を無くすか」ということですが、自分自身が持っており、人が持っている“慢”を無くす。これは六波羅蜜という大乗仏教の修行の中に出てくる「忍辱(にんにく)」の実践なんですね。
いろんな方の支援活動の話を聞く中で非常に印象を受けた話がいろいろあるのですが、中でも「足湯のボランティア」というのがありました。温泉に行くと「足湯」という入湯料を払わなくても勝手に浸かっていられるものがありますが、災害支援の足湯は、お湯を入れたバケツで被災者の足を揉んであげるという行為のことです。これは阪神淡路大震災の時に始まったものです。何処かの業者が始めたのですが、今は学生がやるようになっています。学生は支援活動に行った場合、瓦礫の片付けなどには役立つんですが、こころのケアにはあまり役に立たないかもしれません。けれども、若い学生の方たちが来てくれたら、被災者は嬉しいかもしれませんね。もしかしたら、この中には阪神淡路大震災の被災者の方も居られるかもしれませんが、どうでしょうか…。
もし、若い学生が足湯をやってくれるとなると、少し年配の人も「よく来たね」と心を開いて話をしてくれるんじゃないでしょうか。この足湯を僧侶の方がされる「高野山足湯隊」というのがありますが、これは、金沢の宝泉寺の方が、2007年に起きた能登の地震の時に始められた活動です。今回の東日本大震災の被災地でもやっておられますが、これも常不軽菩薩の修行ととてもよく似ています。
被災者と支援者の関係というのは、支援者が何か良いことを施(ほどこ)す─仏教で言うところの「布施」に当たりますが─布施とは、施すだけでなく、同時に自分自身が恵みを頂くことでもあります。そういう関係がよく表れています。
普通の人の支援活動と宗教者の支援活動にそんなに違いはないかもしれません。どちらにも宗教的なものが基礎にあるのではないか…。支援活動とは、そういうことを感じさせるものになってきていると思います。「支援活動に行ったおかげで人間が変わった」とか「今まで気付かなかった有り難みに気付かせてもらうことができた」こういう方がたくさん居られます。また、身近な人が悲しい死に方をした人が、その悲しみを抱えて支援に行き、支援活動を通して慰められるというのもよく聞く話です。これは、災害を通して共に悲しみ、その中からお互いが変わっていく経験があったということです。以上が支援活動の話です。

▼科学と宗教
今度の東日本大震災は、天災であると同時に人災でもあります。特に、福島第1原発の事故は大いに人災の面があります。何か日本のシステムが巧くいっていなかった。これまで政府と東電がもっぱら非難をされていますが、東電に限らず、電力会社関係の方はずっと肩身の狭い思いをしている。私の家の近くにも東京電力の建物があるんですが、いつも暗い感じがします。こちら側がそう思って見るからかもしれませんが…。
東大に居りますと、大学の構成員の中には、長年、安全神話を振りまいていた人や、国や電力会社と組んで安全宣伝をしていた人がたくさん居られます。私自身は、科学者、研究者に大きな責任があると思っています。こういうことは、これまで大学の中では言わないものだったのですが、私は今はっきりと言っております。と申しますのは、こういう機会にこそ、科学者や専門家が襟を正し、大事なことを学んでいく機会だと思っているからです。
特に震災が起こった後に、テレビで原子力発電の専門家が解説していましたが、この「専門家」というものが、これほど頼りにならないものだったということを思い知った経験は、これまであまりなかったのです。このことと、「何故、宗教というものに人の気持ちが向くのか」ということは、私の中では結び付いております。近代科学によって私たちは幸せになれると考えられてきた。でも、その近代科学の土台とは、いったい何だったんでしょうか。私は最近そういうことを思うのです。
実は、東日本大震災が起こった時、私はイタリアのベネチアにおりました。日本への連絡の方法がなく、テレビもBBCのニュースを視たりしていましたが、ある時期からインターネットでNHKのニュースが視られるようになりました。また、ツイッターをやっているので、そこから情報を得たりしました。そこから入ってくる情報を見ているだけでも、専門家がずいぶんいいかげんなことを言っていたのだなということが判りました。「メルトダウンなんていうことはあり得ない」なんて言っていたのですから…。私は昔、少しでも医学に関わったことがありますし、その後も政府の生命倫理の委員会に加わったことがありました。「人のいのちを預かる」という意味で、宗教者と医学者に共通点があるかもしれません。「いのちを預かる」というのが言い過ぎならば、どちらもいのちの大切な場面に居なくてはならない存在です。ところが、このたびの福島第1原発事故で漏れた放射能の人体への影響についての論議がとてもおかしいと気が付いたのです。
私は10年来、死生学というものに取り組んできましたが、東大の医学部の先生方と癌などで死期が判った方たちのお世話をどうするかという重いテーマを、ホスピスやビハーラやターミナルケアといった緩和医療についてのプロジェクトを通じてやってきましたが、一緒にやってきた中川恵一先生(註:東大病院緩和ケア診療部長)は、どうしたことか─民主党の政府に頼まれたということもあったようですが─「この程度の被曝では、健康被害はほとんど出ない」ということを言い始めました。その根拠は判らないと私は思います。今度の福島の原発事故の規模は、1986年に起こったチェルノブイリ原発の爆発事故に次ぐもので、その規模はチェルノブイリと比較するとだいぶ小さいものですが、他の原発事故と比べれば圧倒的に大きい事故です。
ですので、ソビエト社会主義体制下のチェルノブイリでは、いったいどのぐらいの方が被害を受けたかは、実はよく判っていない。だから、今回の福島の事故でも、これからいったいどれぐらいの被害が出るか判らないというのが科学的な考え方のはずです。ところが、この方は「ほとんど被害はない」と言いきっておられた。山下俊一先生(註:長崎大学医学部の教授として、長年、放射能被曝研究に従事)は、福島県民健康管理調査の責任者をしておられたんですが、今日の毎日新聞でそれを辞めるという記事が出ておりました。事故後に福島支援活動に行って来られた方や多くの福島県の被災者の方々の心情を傷つけた。つまり、科学的根拠のないこと、つまり、「この程度の被曝量なら安全だ」と言ってこられた。
この時は3月19日でしたから私はまだイタリアにいましたが、20日頃に帰ってきたところ、こういう記事がインターネットに出ておりました。私は、人間的にはこの先生は気立ての良い方だと思うんですが、世界の原子力村は(核保有国である)安全保障理事国が中心となって、「(核兵器を製造しつつ平和利用のためだと弁護するために)原発を進める」という利益のために世界的に影響力を行使して、そのために非核保有国の科学者までが動員されている。ですから、科学は世界の原子力権力の言いなりなっている─少なくとも私から見ればそう見える訳ですが─と言えるのです。
山下先生はチェルノブイリ事故の時に、「広島・長崎の経験を持っている日本だからこそ助けに行くんだ」と行かれたのですが、その山下先生までもがこういうことを言っておられたのです。福島県民はいうまでもなく、関東地方に住んでおり幼児を抱えている人たちは「どうしようか?」ということで、うちの娘も子供が2人いて同じ杉並区の家に住んでいたのですけれども、3月20日頃に石川県の妻の実家に疎開させました。多くの方がそういうことをしましたが、その時に政府からは「被害がないので留まれ」ということがほのめかされました。今でも「福島で暮らしていると、健康の被害があるんじゃないか?」ということを言うと「けしからん!」と叱られる状況が続いています。その元締めはこういった─私から見ると御用学者─方々が「安全だ」と言ってきたからです。このへんは皆さんもいろんなご意見がおありでしょうから、後でご質問をいただきたいと思います。

▼人々は疫学調査を求めているのではない
ドイツは、最もこういうことについて敏感で、物理学者であったメルケル首相も「原発を止める」ということも言いました。あるドイツの放射線科学者ですが、この方は東ドイツ出身の方でキリスト教の信仰を持っておられる方です。「社会主義時代の教会のほうが良かった」と言っておられました。つまり、社会主義時代の教会は本当に信仰を持っている方が集まったけれども、東西ドイツが統合された後は、政府に近い意見を言う教会になってしまったそうです。この方は昨年、日本に来て、福島での会議に参加したのですが「こういう所で人は住めないんじゃないか」と盛んに言っておられました。広島・長崎の話は後で申し上げます。
今、福島県が福島県民健康管理調査というものをやっています。このモデルになっているのが広島・長崎の被爆者調査です。これを「いのちの見守り」と言っています。どういうことかと申しますと、要するに数量のデータを集める訳です。これを疫学(えきがく)と言いますが、一人ひとりの人がどれぐらい放射線を浴びたのかは本当のところは判らないのですが、「3月18日は何処に居ました」といった記録を皆に出させて数に変換し、「この人は何ミリ浴びた」といったことを統計で出して、何ミリ浴びるとどういった被害があるかを計算する。そして、その結果(発癌等)が出るのは何十年も先のことです。これが、広島・長崎で行った疫学調査ですが、それと同じことをやろうという訳です。しかし、今そこに居る人たちの健康についてこの人たちは本気で考えているのかというと、非常に危うい。このことを私はずっと言い続けてきております。
だんだんと私どもの言ってきたようなことを受け入れる人が多くなってきまして、この3月で県民健康管理調査は少なくとも体制が変わります。「被爆医療の権威」だった山下俊一氏は座長を辞め─昨日(2月13日)、本人が言ったことですが─長崎へ帰られます。福島県のお医者さんたちも「これでは駄目だ」ということが徐々に判ってきました。何故、山下氏があんなことを言ったのかと思いますが、「これからフクシマという名は世界中に知れ渡ります。フクシマ、フクシマ、何でもフクシマ…。これは凄いですよ。もう、ヒロシマ・ナガサキは負けた。フクシマのほうが世界に冠たる響きを持ちます」、「放射線の影響は、ニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます」などと言ったので、彼は福島県人からまったく信用されなくなりました。彼らは広島・長崎のデータを持っているからこそ、放射能の被害の権威になれたと感じてきた。広島・長崎に原爆を投下された日本こそ、世界の放射能被害についての基本的データを持っている。だから、長崎出身の山下先生がチェルノブイリに行くと「よく来てくれたと歓迎された」ということが書かれていますが、実は、この広島・長崎のデータはアメリカの方針に沿って作られたものです。それを、「今度は福島で作れる。福島は、科学のための素晴らしいデータを作る材料なんだ…」こういうことを無意識のうちに言っていたということです。それがこの調査の中にも入っている訳です。

▼核の恐怖を小さく見せたかった米国
今、盛んに「広島・長崎のデータ」と申しましたが、実は私の父親(島薗安雄医師)は、1945年の8月には東京大学の医学部で勉強しておりました。8月6日に広島に原爆が落ちて、日本の医学者は総動員で原爆の被害の調査に当たろうとしました。東大にいる若手の研究者も動員されて、現地へ行った訳ですが、私の父も何週間か広島に滞在して、死んだ人の脳の標本を作った。実は昨年になって、今回の福島の事故のおかげで、うちの父親が広島の原爆被害についてどういう報告を書いていたかを実際に見る機会を得たのですが、やはり「子供には相当大きな被害がある」と書いてありました。「脳の組織が放射線を浴びると、ひどく変化する」という話です。うちの父はその話は滅多にしませんでしたが…。そもそも医者が被災地へ行ったのに、その目的が、病人を助けに行ったのではなく、標本を採りに行ったということ自体に何か釈然としない思いを持っていたようです。
そのデータ作成は日本軍が計画したものなのですが、その後、アメリカ軍に持って行かれました。ですから、父が広島で作った標本と論文はまだ見つかっていませんが、アメリカにあるはずなのです。アメリカはとにかく、広島・長崎の被害が如何に小さかったかということを世に示したかった。一般市民を無差別に殺傷する原爆という非人道的な兵器を使ったということは、世界中の多くの人が気付いていた訳ですから…。それからもうひとつの理由が、これからもしかするとソ連との間で核戦争が起こるかもしれない。その時に「放射能の被害は怖い」と思っていたら、アメリカの市民はソ連軍と戦争する勇気を持てないかもしれない。だから、「そもそも放射能が来ても大した被害はない。机の下に隠れればいい」といったことを、アメリカは朝鮮戦争が起こっていた1950年代に言っていました(註:高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ』凱風社)
講師の熱弁に真剣に耳を傾ける国宗会員諸師 講師の熱弁に真剣に耳を傾ける国宗会員諸師
そういう流れの中で、広島・長崎の原爆被害調査が進められました。そのために「ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)」いわゆる「原爆傷害調査委員会」というものを作った。「ABCC」と言うと広島・長崎の方は皆よく知っているのですが、どういう風に知っているかというと「ああいうのは、たまらん」という訳です。どういうことかと申しますと「調べるけれども治さない」そういう医学なんです。ABCCに呼ばれて行くと、いろいろと検査されて、原爆症のデータを取られる訳ですが、その人のために治療は何もしてくれない。この調査は1975年に日本と合同になります。現在は「放射線影響研究所」というのですが、未だに半分アメリカが出資しています。そして、その世界に認められるためのデータとして非常に重視されているのですが、アメリカの原子力委員会の管轄の下で作られたものです。
笹本征男氏の『米軍占領下の原爆調査』という本のサブタイトルでは、「原爆加害国になった日本」とあります。その後、核実験がたくさん行われました。あるいは、劣化ウラン弾など、放射能に関わる兵器が使われたりしています。南太平洋ビキニ環礁の大気中核実験(註:終戦直後の1946年から58年まで、米国が行った16回の核実験。1954年以後は原爆の1,000倍近い破壊力のある水爆実験)は、私ぐらいの年齢の方はよく覚えておられると思いますが、当時、「(放射能で汚染された)雨に濡れると頭が禿げちゃうよ」などと言われました。ビキニ実験の時に(遠洋マグロ漁船の第5福竜丸が被爆したこともあって)日本では平和運動が起こり、日本の世界連邦運動(WFM)などは、ビキニの反対運動で大いに活性化したと言ってもいいかもしれません。その時に、世界中で放射能の測定が行われるようになりました。日本では遠洋マグロが食べられなくなり大変な騒ぎになりましたが、ある時から突然、マグロを食べるようになりました。これはもちろん、アメリカの差し金でそうなったのですが…。その時にアイゼンハワー大統領は「これは困った」ということで、「原子力の平和利用」ということを言い出して、原発に力を入れるようになったという訳です。原爆を作って、その被害を世界の人が反対する。それをどうやってごまかすか? それが原発というものの発端にそもそもあるということです。

▼科学が道を踏み外すとき
ビキニ実験の時、日本の科学者は全国で放射能の量を調べて、どうすれば被害が及ばないようになるのか、住民のためによく頑張りました。もちろん、今回もそういった学者も居られますが、私が気になるのは電力会社からお金を貰っているんじゃないかと疑われるような話がずいぶん多かった点です。どうしてそういうことになってしまったんでしょうか?これについて、私は『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社)という本を書いたところです。2月20日に発行されます。ここで調べたことは、日本の科学者は、ある時期からますますスポンサーからお金を貰わないと研究できなくなってくるんですが、その流れの中で、次第に「原発は被害が少ない」、「放射能の被害は少ないから、原発の安全装置はもっと軽くできる」つまり、「原発のコストを安くするためには、私たちの研究が貢献できます。低線量の被曝は、むしろ健康に良い」といったような研究を進めるようになったということです。
日本でも公害事件がたくさん起こりましたが、この『水俣病』という本は原田正純というお医者さんが書かれたんですが、医学者はチッソという化学工業会社が有機水銀を垂れ流していることが原因だということをかなり早くから判っていたのですが、「証拠がない」ということを多くの医学者が言っていました。実は、私の母方の祖父(註:日本医師会会長を務めた田宮猛雄東京大学医学部教授)も「水俣病研究懇談会(通称、田宮委員会)」に関わっていました。そういうことに対しても、原田正純先生は「どこかおかしい」と指摘しておられました。「大学の研究室に居ては判らない。被害者がどういう生活をしているか、どういう人がどういう被害を浴びているかがよく判らなくては、どういう対策を取ったら良いかも判らないでしょう」と、被害者と共に生活をしながら調べるということをされた方です。この方は去年亡くなられたのですが、彼が原発事故以後に言ってきたことも多くの人を元気づけてきました。素晴らしいお医者様です。
この著書の中で原田先生は言っておられます。「市立病院で患者を診察するときに、一様にその母親たちが無口であったのも、心の中をみせなかったのも、その理由がこうしてわかったのであった」。また、「『自分は水俣病の被害者だ』というと差別されるので、被害者は(自らを被害者だと)言わないし、周りの人も言わずに黙っていてほしい」、「残念ながら水俣病は脳全体に変化を起こすのであるから、その結果として、感情や意志の面の症状も無視できない。そのために、ひととおりの社会生活がうまくできなくなるような、さまざまな障害も見られる。ある患者は人を嫌い、閉じこもり、人を見ると逃げ出す。ある患者は感情の動きが激しく、ちょっとしたことで興奮する。あるいは無気力となり、あるいはなかには邪気深く、嫉妬妄想や被害妄想が出てきたりもする」。また、「このようなさまざまな精神の面での障害も、きわめて深刻である。その実態はいまだ十分に明らかにされてはいない。それらの障害は生活の場においてでなければ、なかなかとらえにくいものであることも事実である」とも言っておられます。
先程の宮沢賢治の「行ッテ」ではないですけれども、今の医療の中には患者さんと共にいてこそ初めて解ることを大事にするという動きがあります。一方で、大学の医学部ではそういうことを教えません。最近では、病院の外来に行っても、下手すると医師は患者を最初ちらりと見た後は、ずっと(電子カルテを書くために)コンピューターの画面を眺めているような気がします。人間と向き合っているという感覚がどんどん薄れていっているような感じですが、原田先生は「それでは駄目だ」と言っておられます。私の文章と原田さんの文章を続けて引用しますと、「ところが、チッソ側は患者を分断した上で、補償額をできるだけ低い額に抑えようとし、その意向を受けて厚生省の補償処理委員会が斡旋(あっせん)案を提示した。それに沿って患者は医師との短い面接でその症状の度合いを重症、中等症、軽症などと定められることになる。原田氏はこれについて、次のように述べている」「私は、結論的にはっきりいうと、法律や理屈をかざし、医学的症度で合理性を装ったこの斡旋の内容に、強い不満をもっている。失われたものが金に換算できないことはもちろんであるが、1日やそこらの診察や問診だけで、その障害の深刻さはとてもつかみきれるものではない。私は何も、公害病、水俣病だからという理由から、そういっているのではない。どんな場合においても、人間を、喜び、悲しみ、怒る、生きた人間としてとらえてもらいたいのである」。こういう医学、こういう科学こそが、本当の医学、本当の科学ではないでしょうか。そしてある意味、これは宗教が目指すものとも近いのではないでしょうか。「人が人であることを大事にする」ということは、当たり前過ぎて何を言っているんだと思われるかもしれませんが、そういう当たり前のことがなされない社会になっているかもしれない。そういう中で、宗教は声を上げようとしています。

▼原発問題に声を上げる宗教界
原発問題について、宗教界はいろいろ発言しております。宗教界といっても様々ですから、いろんな発言があり、いろんな立場があります。これは『寺門興隆』─昔は『月刊住職』と言っていましたが─という雑誌ですが、この雑誌も原発問題を盛んに取り上げています。福島県のお寺はとんでもない被害に遭っていますね。要するに、元住んでいた所に帰っていけないのですから、そこにあるお寺はどうしようもないです。福島市や郡山市のお寺でも、どんどん檀家が減ってしまい、幼稚園は子供がいなくなります。現在、東電と盛んに交渉していますが、お金で解決できる問題ではないですよね。そういうこともありまして、原発問題を通して早い時期から浄土真宗本願寺派、そして臨済宗妙心寺派の方などが早くから発言しておられます。
妙心寺派の河野太通管長は、当時、全日本仏教会の会長でもおられたんですが、「誰かがそのために犠牲になっているかを、今一人びとりが責任をもって考え」、「利便性と経済的効果のみを追求せず、自らの足、実地を踏む良き道を選び、歩んでまいりたいと思います」と、全日本仏教会の会長として発言されています。原発の何がおかしいのかということを、河野師が中心になってまとめたものが、次の宣言文です。この宣言文は、良いタイミングで出ましたし、内容的にも立派なものではないかと私は思います。そして政治的なものではないです。もちろん政治的な意味を持っているかもしれませんが、人の心に訴えるようなものになっていると思います。その中には、やはり原発とは人のいのちを脅かすということ、そして、誰かの犠牲を前提にしないと成り立たないという事実があります。
福島県は東北地方ですが、福島原発は東北電力ではなく東京電力の施設ですから、実は福島県の方は受益者じゃないんです。東京のために、福島県や新潟県に原発を置いている訳です。そして、普段から何か漏れている。私の知り合いの学者の方に東海村の出身の方がおられますが、二十代で産んだ子供がダウン症です。ダウン症の子供は可愛いですから、決して言いませんが、もしかしたら放射能の影響なんじゃないかと思うんです。東海村はしょっちゅう何か起きています。あそこは水戸からすぐですが、日本の原子力開発の大事な場所です。もうひとつは若狭湾です。あの辺の住民の方には電力会社の方が大変なお金をばらまいている訳ですが、何か事故が起こったとしても、それによって償われたと感じるでしょうか? 
そういえば、中国に100基ぐらい原発を建設する計画が進んでいるそうです。今、PM2.5も中国から襲ってくるんですが、中国で原発事故が起こった場合、日本はどうなるでしょうか。若狭湾で事故が起こったら、京都府も福井県も石川県辺りもとんでもないことになります。日本上空は偏西風が吹いていますから、今度の事故の放射性物質はかなり太平洋上空へ流れましたが、どういう訳か放射性の灰が降った地域の枠が楕円になっています。ですから飯舘村、伊達市、福島市、郡山市辺りは多いけれども会津の辺りは大したことなく、むしろ千葉県の柏市が多かったりします。その時々の風向き次第でどこが被害に遭うか判らない。とにかく事故があれば、誰かが被害に遭うことは間違いありません。それから、作業員の方たちは普通の人より何倍も放射能を浴びている訳です。
昔、東京タワーを造る時に何人か人が死んだとか、ビルを造ると人が死ぬという話を聞きましたが、とび職の方は常にいのちを危険に晒している訳ですが、そういう仕事をどんどんなくしていくことが人類の向かうべき方向ではないかと思うのですが、原発はむしろそういう仕事を増やすように思います。原発建設により、生活費を得るためにいのちを犠牲にしなければならない人がいる。そして何より、未来の人たちです。今、福島第1原子力発電所の4号機がいつ壊れるかと世界中の人が心配していますが、この危険性は全国にある訳です。つまり、放射性廃棄物ですが、それを受け入れる地域が日本国内にあるかということです。
こんなふうに、たくさんの人の犠牲を前提にしなければ成り立たない。そのことがだんだん判ってきた。専門家は初めから判っていたかもしれませんが、少なくとも国民は初めから判っていた訳ではないと思います。判った人が出てくるに従って、今度は隠す人が出てくる。こういうことがずっと起こってきた訳です。そして、それは何か間違っている…。こういうことが、この宣言文の背後にあると思います。この全日本仏教会の宣言文は2011年12月1日に出たものですが、非常に大きな反響がありました。世界的にもカトリック教会をはじめ、キリスト教会はほぼ原発反対です。仏教界もそういう方向になっています。ダライ・ラマ法王はそうでもないそうですが…。

▼誰のための原発なのか?
インド辺りは、これから原発でなんとかしようというところですが、インドでもロシアの技術援助で原発を造るにしても、今までは事故が起こった時の保険は、原発を造った国がかけていましたが、インドはロシアに対して「ロシアでかけてくれ」と言っているそうです。つまり、原発技術を安く売ることができなくなってくる訳です。例えば、これから先どういう交渉になるか判りませんが、現在、日本の日立や三菱がベトナムに原発を造ると言っています。日本の福島原発はアメリカの技術を使っていますが、事故が起こっても別にアメリカは何も保証してくれません。しかし、将来、ベトナムで事故が起こった場合は、日本が保証しなければならなくなるのではないでしょうか。今、こういう方向へ向かっています。アメリカはスリーマイル島の事故以降、ほとんど原発は造られていません。というのは、アメリカは国が保証してくれる訳ではなく、電力会社が保証しなければならないので、とてもコスト的に成り立たないということです。
チェルノブイリ事故以後、欧米諸国がどんどん撤退していった時に、原発がなくなると核兵器の保有国が困る訳です。そこで、アメリカは日本に圧力をかけて、日本は大喜びで原発を造ってきたという経緯がある訳です。「私たち全日本仏教会は『いのち』を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません」
私はここが肝心じゃないかと思います。特定の立場の人が弱い立場に置かれて犠牲を被り、一方、利益になる人もいる。「計算すると利益のほうが多い」と言う人もいますが、その計算は非常に勝手にできている。こういうことが大いに問題だと思います。全日本仏教会の宣言文は、こういった言葉で結ばれています。「そして、私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現に向けて最善を尽くし、一人ひとりの『いのち』が守られる社会を築くことを宣言いたします」
私がいろんな人を批判しましたので、今日、お話の後、皆さん心がざわついて嫌な気持ちを持たれるかもしれません。
しかし、今引いた言葉の後半のほうは自分の心に言い聞かせていることなので、あまり心がざわざわしないかもしれません。ここでは一致できるかもしれませんね。しかし、この全日本仏教会の宣言文にはその両方の要素が入っております。こういう問題を、できるだけ説得力がある論理に基づいて、そして事実に基づいて言葉にしなくてはなりません。そして、それは学者の役割であり、私は広い意味で哲学者─宗教学者も広い意味で哲学者に含まれると思います─の役割ではないかと思います。

▼リスクを先に考えるべき
『原子力時代の驕り』を書いたドイツのシュペーマンという哲学者は、1970年代から「原子力発電は人の犠牲を前提にしているシステムだ」と言ってきた人ですが、この本はドイツ語で2011年に出版され、去年(2012年)日本語版が出版されました。どこがどう間違っているのか、つまり、科学技術は何か良いことをもたらすということで、科学者は一生懸命新しい技術を開発しています。その善き目的があることを私たちは疑う訳ではないのですが、しかし、それが発展した場合、何が起こるかということまで十分に考えない場合があります。「これが起これば良いことになる」というほうだけを見るということです。その結果、もしかしたら何か悪いことが起こるという場合は、できるだけ隠したほうが良いということになる。
一番判りやすい例は製薬会社でしょうか。あらゆる開発をしていますから、副作用とかいろんな悪いことが起こってきます。最近、ある精神医学者と話していますと、自殺を止める薬があるそうです。つまり、「自殺とは脳の何処かがおかしいから自殺するのだ」と…。この解釈事体、何かおかしいと思うのですが…。けれども、そういう研究に国からお金がドーンと出る訳です。池内了先生は物理学者ですが、去年出版された『科学の限界』は、とても良い本です。科学技術が、本当の意味で人類の役に立つようにするには何が必要なのかということを言っているのですが、そうすると、やはり宗教に出会うということを教えてくれる本です。私は、そういう言葉が学者のほうから出なくちゃならないと思うのですが、なかなか学問のほうもそこまで力がない。こちらは哲学者。向こうは物理学者。自然科学者と人文系の学者が、共通してそういう問題に取り組まなければならない訳ですが、ドイツは、その意味において、先へ進んでいるんじゃないかと思います。
2011年4月に、ドイツ政府は脱原発宣言をした訳ですが、この「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」のリストで一番上に出てくるウルリヒ・ベック氏は社会学者ですが、早くからリスク社会について言及しており、チェルノブイリ事故の年(1986年)に、『リスク社会』という本を出しています。つまり、その本は事故が起こる前に準備ができていたということです。その後、2001年に「9.11」(米国同時多発テロ)が起こり、2011年に福島の事件が起こりますが、ベックはまるで明日の予言者のようですが、彼がこの委員会の中心人物の1人です。
日本の政府委員会では考えられないことですが、この15人の委員会の中には宗教界(キリスト教)の方が3人入っています。私は、政府の生命倫理委員会に入ったんですが、何故私が入ったかと申しますと、とにかく宗教学者を1人メンバーに入れておけば、仏教も神道も新宗教も、いろんなものが間に合うという意味で使われたんじゃないかという疑いを持っています。通常、学者を入れる場合、どうしてもキリスト教の学者の方を入れることが多いです。そういうことから考えると、日本では宗教界の意見がそういう場で反映しにくいという面があると思います。もちろん、キリスト教国で一致しやすい面もあるとは思いますが、ドイツでは、こういった公共的な意思決定の場に宗教の声が反映するようになっています。
こちらは、永平寺で開かれた特別講座に関する掲載記事ですが、何故、高速増殖炉に「もんじゅ」とか「ふげん」といった菩薩の名前が付いているのか、仏教界の方も大いに疑問に思われたと思います。こちらは、先日、玄侑宗久さんなども交えて、増上寺を会場にして行ったシンポジウムですが、こちらにはスリランカのアリヤラトネさんという、サルボダヤ運動をやっている方も来てくださいました。私はアリヤラトネさんのお名前を以前に聞いたことがありますが、この時伺った話は「ああ、そうだな」と心にしみました。この方は学校の先生だったんですが、地域社会でいかに精神的なものが大事かを説いて、それを平和の基礎にしようとしている方です。「日本の社会もそうだったな」と、つくづく思いました。日本の社会が必要だと感じている。ここからは急いでまとめに入りたいと思います。

▼日本の公共社会に宗教を取り入れる
日本の公共社会では、宗教が人間にとって大事な所に見えません。一番判りやすい例は病院です。刑務所には教誨師が居るのに、ほとんどの病院には宗教者が居ません。たしかに、天理教の「よろず相談所病院(憩いの家)」には、天理教の教師の方が常時居られますし、長岡西病院にも地元仏教者のボランティア組織「ビハーラの会」の協力により、宗教者の方が居られます。また、いくつかの病院にはキリスト教のチャプレンが居るんですが、まだまだ少ないです。
臨床医療現場では、今、一生懸命「緩和ケア」について言っていますが、死に逝く人は何処か魂の乾きを持っているでしょう。死んだら自分はどうなるのか? 死を迎えるにはどうすればいいのか? そういう死に臨んで患者と一緒に祈ってあげる人が居なくてもいいんでしょうか? 世界的には宗教者が患者に寄り添うことは当然のことなんですが、日本には居ないということです。マリア・フリーデン・ホスピスはドイツのHIV・エイズの患者さんがおられる所ですが、シスターの顔が見えることからカトリック教会がサポートしていることが伺えます。こちらの写真では「命の木」を作ってます。エイズの人たちは同性愛者であったりするため孤立しやすい面がありますが、そういう人たちが人生の最期を過ごす場所です。キリスト教を思わせるような絵が飾られていますが、こういう所は基本的には無宗教、超宗教、つまりどの宗教、宗教のない人でも受け入れる形ですね。
そういうものを見習って、今、仙台で「心の相談室」という取り組みが始まっています。宮城県宗教法人連絡協議会をはじめとする多くの宗派が入っています。2011年は天理教の方がトップでしたが、最初は皆で大震災犠牲者の追悼(慰霊)をどの宗派の方が来られてもできるようにしていました。そこから「こころのケア」をやるようになりました。現在は、そこから発展しまして、国立大学である東北大学に「実践宗教学講座」というものができて、そこで臨床宗教師研修というものをやっています。災害の時に避難所や仮設住宅に行っても「私は○○宗です」、「私は○○教です」と言うと行政側に断られてしまうけれども、「臨床宗教師です」といえば受けれられると考えたという話です。受講者は訓練を受ける訳ですが、特定の宗派や宗教のことを教える訳ではありません。被災者のニーズに沿って寄り添うことになります。
私が宗教者や宗教研究者の方々と東京でやっている宗援連(宗教者災害支援連絡会)では、こういった活動も支援しています。最初にも申しましたが、日本の公共社会の中に宗教のプレゼンスを持つということ。社会の中に宗教があることが当然であり、人々が必要な時に心の安らぎを得られるようにすること。と同時に、それは社会の大きな方向付け─例えば、原発を増やすのか減らすのかといったような問題─に、宗教の側からだからこそ言えることがあるのではないか。そういうことができるような方向を、今後も目指してまいりたいと思います。ご清聴、有り難うございました。


(連載おわり 文責編集部)

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