2014年5月23日金曜日

松岡正剛の千夜千冊:ユダヤ国家のパレスチナ人

松岡正剛の千夜千冊

http://1000ya.isis.ne.jp/0398.html

ユダヤ国家のパレスチナ人

David Grossman
Sleeping on a Wire 1992
[訳]千本健一郎

プレゼント・アブセンティーズ。

よほど民族と政治の事情に詳しくないかぎりは、聞きなれない言葉だろう。文字どおりは「存在する不在者」という意味だが、「国内に居住する不在者」という意味でつかわれることが多い。

しかも、プレゼント・アブセンティーズは社会学者や政治学者がつくった言葉ではなく、イスラエルの現代史とパレスチナ人の現実の渦中から生まれた。では、誰がプレゼント・アブセンティーズかというと、これがわかりにくい。イスラエルによる"規定"では、1947年11月に国連が決めたパレスチナ分割決定以降に、敵国国民であった者、敵の領土内に移り住んだ者、もともとはイギリス委任統治領の市民で1948年9月以前に居住地を離れてパレスチナ外に向かった者、また、イスラエル国家樹立を阻もうとしてイスラエル内に向かった者などのことをさす。

が、これでは何だかわからない。中東事情やイスラエル現代史やパレスチナ問題をあまり知らない者には、まったく実感がつかめない。けれども、そういう人々がプレゼント・アブセンティーズなのである。

 本書の原題は『鎖の上の眠り』というもので、はなはだ象徴的なのだが、副題は「イスラエルのパレスチナ人との対話」となっている。それを邦題で『ユダヤ国家のパレスチナ人』とした。

邦題が「ユダヤ国家の」となったのは、イスラエルがユダヤ人の"約束の地カナーン"のために建設された国家であるからだが、今日のイスラエルをそのように定義をしたところで、これまた何も説明したことにはならない。

「イスラエルのパレスチナ人」はどんな同一性をももってはいない群像なのである。まさにアイデンティティがない。

そこには、モーセの出エジプトから十字軍のエルサレム奪還をへて、度重なる中東戦争に至る時間と空間の錯綜の流れ、すなわち島国のわれわれには想像を絶する多くの変節と矛盾がひそむ、それゆえにそこには、とてつもなく複雑な国家と民族と宗教の、またその背後に動くユダヤ教とキリスト教とイスラム教の、さらにまた20世紀にあってはアメリカやイギリスや旧ソ連が介入しつづけた、それこそ何重もの"鎖"が絡んでいる。
 
 そもそもイスラエルが建国されたのは、テオドール・ヘルツルが提唱したシオニズム運動がパレスチナにユダヤ人の国家をつくろうとした動きにはじまる。

当時、パレスチナはオスマントルコが領有支配していたのだが、第一次世界大戦にトルコが参戦したのを機に、イギリスは中東の石油資源を吸い上げようとして、さまざまな画策をする。フセイン=マクマホン書簡、サイクス・ピコ条約、アラビアのロレンスの"犠牲"などは、このときのイギリスの3枚舌を象徴する隠れた1ページである。

大戦はイギリスにとっては首尾よいことだった。トルコが敗退し、イギリスはパレスチナを統治することに成功する。が、結局はイギリスは自分の画策に溺れ、第二次世界大戦後にパレスチナの将来の決定を国連に返上する。

国際世論が第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人ホロコーストを知ったことも、大きな後ろ盾になった。2000年以上にわたるディアスポーラ(民族離散)を繰り返してきたユダヤ人になんとか"約束の地"を、すなわち「ユダヤ共同体国家」をつくらせたいという機運が盛り上がったからだった。
 
 こうして1947年11月に誕生したのが「イスラエルという人工国家」である。ここまではよい。
ところが国連は、パレスチナをユダヤ人領とアラブ領と国連統治領に三分して分割統治すると決議した。

たちまちこの国連の三分割案の決議を認めないアラブ人たちが動いたのである。元エジプト国防相サル・ハルブ・パシャがカイロの寺院前を埋めつくした2万人の聴衆の前で、「われわれに残されたものは、この銃とコーランだけだ」とジハード(聖戦)を訴えた。パシャは右手にピストル、左手にコーラン、そして目に涙を浮かべていた。これでアラブ人3300万人が立ち上がった。

すぐさまアラブとイスラエルとのあいだで第一次中東戦争がおこリ、「アラブ対ユダヤ」(すなわちイスラム対イスラエル)の全面対決が開始した。アラブ連盟の事務総長アサム・カンは、「われわれの攻撃はモンゴル人や十字軍の蛮行と並び称されるような徹底的な虐殺と根絶の戦いになるだろう」と宣言した。が、最初の中東戦争はイスラエルの勝利に終わり、パレスチナの75パーセントがイスラエルの支配下に入る。しかし、これが予想のつかない悲劇の始まりだったのである。
 
 悲劇は大がかりな複雑骨折を見せていく。

その連続レントゲン写真の特徴は、とうていこんなところで摘まんで説明できないけれど、ごくおおざっぱにいえば、まずは、アラブ・イスラム側の反撃である。ついでスエズ運河の所有を宣言したエジプト大統領ナセルによって、アラブ・ナショナリズムの高揚が中東にも波及すると、第二次中東戦争がおこる。

さらにアラファトに指導されたゲリラ組織「ファタハ」がパレスチナ解放を掲げて立ち上がり、イスラエルに度重なるゲリラ攻撃を仕掛けた。のちにPLO議長となるアラファトは1965年だけでも35件の破壊活動を仕掛けたテロ戦士であった。

また、このときからのことだが、「ファタハ」がヨルダンを拠点にしてイスラエルを攻撃したため、ヨルダンも中東の嵐に巻きこまれる。1971年、カイロに訪問中のヨルダン首相のワシフィ・アル・タルはPLO傘下のテロ組織ブラックセプテンバーによって暗殺される。ブラックセプテンバーはミュンヘン・オリンピックでもイスラエル代表団11人を人質に、200人の"革命戦士"の解放を要求し、これが断られると、全員を殺した。

かくてテロの国際化が一挙に広まった。もしアメリカが「テロに対する戦争」をしたいなら、このときから宣言すべきなのである。しかし、アメリカはこのあと各地のテロリストを巧みに活用するほうにまわっていった。
 
 ナセルのあとをついだアンワル・サダトはアラブ世界の代表として初めて欧米社会に認められた人物だったが、それを裏返せば、ソ連の中東コントロールに対するアメリカの中東コントロールが浸透しつつあったことを意味していた。

そのことを如実に示したのが第四次中東戦争で、イスラエルはアメリカからの武器空輸作戦によってエジプトと対抗、ここに両者が均衡状態に入っていく。保守派のサダトはよくいえば中東和平を望み、あけすけにいえばアメリカが背中に見え隠れするイスラエルを恐れて右顧左眄する。
そこにすかさずカーター大統領がサダトとイスラエル首相ベギンとの仲介に入り、1978年9月にキャンプ・デーヴィッド合意が成立する。イスラエル軍はシナイ半島から撤退、代わって国連軍がシナイ半島に駐留することになったのである。

しかし、これはアラブ世界から見れば、あきらかにサダトの裏切りだった。大半のアラブ諸国はエジプトと国交を断絶、1981年にはイスラム急進派「ジハード」のテロリストがサダトに数発の銃弾を打ちこみ、暗殺する。

となると、今度はイスラエルの精鋭部隊がパレスチナ・ゲリラPLOへの報復を始めることになる。当時、PLOは南レバノンにいたため、ここにレバノンも巻き込まれていった。レバノン戦争である。このとき2000人から3000人におよぶパレスチナ人が難民キャンプで虐殺される。1982年9月16日からの、たった3日間のことだった。
 
 こうした中東事情はパレスチナ人を苦悩させ、アメリカがテコ入れするイスラエルとの正面対決ではなく、ヨルダン西岸やガザ地区あたりに自分たちの"パレスチナの国"を建設すべきだという"転向の意志"を形成していった。

けれども、その地区もまたイスラエルの占領下に入っている。そこにおこったのが「インティファーダ」(蜂起)である。1987年末、パレスチナの民衆が自身の力だけで、つまりは投石や商店閉鎖や交通ストだけで立ち上がったのだ。が、イスラエル兵は街を走る青少年たちを容赦なく撃ち殺していった。

インティファーダによる民衆蜂起型の反撃は、パレスチナ以外のアラブ人やムスリムを一挙に悲しませ、怒らせた。一部のムスリムたちはついに「ハマス」を組織化し、PLOがイスラエルとの共存を謳う政策に対立し、あえて過激化していった。

今日、アフガニスタン南部に拠点をもつイスラム過激派タリバンやウサマ・ビンラディンのアルカイダなどのイスラムゲリラ組織のルーツは(アメリカは邪悪なテロ組織と呼んでいるが)、おそらくはこのときの「ハマス」にルーツをもっている。
 
 すべての事情にどこかでパレスチナ問題が錐のように突き刺さっていた。

ここで登場してくるのがイラクのサダム・フセインである。フセインは、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退すればイラク軍もクウェートから撤退するという条件を出す。フセインが持ち出したのは、「イラクのクウェート進攻はイスラエルのパレスチナ支配とまったく同種の行動だ」という理屈である。むろんこんな理屈が国際政治に通用するわけはなかったが、フセインはイスラエルに7基のミサイルを撃ちこみ、この理屈を押し通す。

このフセインの突然の暴挙は、父ブッシュ政権に中東和平の必要性(利得性)を感じさせた。ブッシュは慌ててイスラエルのシャミル首相に電話をかけ、「たとえイラクの攻撃が続いても、イスラエルは報復を自重してほしい」という虫のいい申し入れをする。

ところがシャミルは「いったいどれほどイスラエルの国民が命を落とせば、あなたは手を打ってくれるか」と冷たく問いただしたため、もっと慌てたブッシュは、ただちに迎撃ミサイル「パトリオット」をイスラエルに供給することを約束する。

これが湾岸戦争の発端だった。ブッシュは多国籍軍を組んで雨あられのミサイルをバグダッドに落とし、フセインを完膚なきまでに打ちのめすことになったことは、すでに誰もがCNNの実況で知っている。イラクはイスラエルとではなく、アメリカと戦うことになる。
 
 が、ここで言いたいことは、湾岸戦争はパレスチナ問題だったということなのである。

かくて1991年10月にマドリード和平会議になり、これでアメリカ主導の和平が進むかと思われたのだが、どっこい今度はシャミルがこの会議へのPLOの参加を拒んだため、またまたこじれていった(このころのアラファトは湾岸戦争直前にバグダッドを訪問したりして、方向感覚を狂わせていた)。
焦ったクリントンが仲介に入り、ようやく到達したのがイスラエルとPLOの相互承認で、これでいわゆる「暫定自治合意」がスタートした。1993年9月である。けれども、この合意のプランにはまたしても肝心のパレスチナ人は入っていなかった。

またまたプレゼント・アブセンティーズが生まれるばかりだったのである。
 
 パレスチナ問題は、三重の構造になっている。イスラエルの一部にパレスチナが含まれていて、そのパレスチナに聖都エルサレムが含まれる。

そのエルサレムは4つの地区に分かれ、異なる宗旨が分割して日々を送っている。イスラム、ユダヤ人、キリスト教徒、アルメニア人である。ユダヤ人地区には「嘆きの壁」があり、それとまさに背中合わせにイスラムの「岩のドーム」(ハラム・アッシャリーフ)がある。本書の標題にあるパレスチナ人とは、このいずれをもさしている。

そのパレスチナ人の現実を生きる人々をルポルタージュしたのが本書である。著者はエルサレムに生まれ、エルサレムにいまも在住する作家で、代表作に『子羊の微笑』がある。1954年生まれだから、ぼくよりずっと若い。

グロスマンはふつうはイスラエルを代表する作家というふうに言われるが、この言い方自体に、この作家と本書が告示する複雑な問題の暗雲がかかっている。その暗雲をグロスマンは最初は『ヨルダン川西岸』で描いた。暗雲が衝撃的というより、われわれが何も知らなかったことのほうが衝撃的だった。本書はその前著よりずっと静かな口調になっているが、それだけに、民族や国家や宗旨の「深さ」を語りかけてくる。

われわれはパレスチナ問題も、パレスチナ人のことも、まだ何も知っちゃいないのである。ということは、中東のテロリズムについて、当事者たち以外の誰も"正義"などをえらそうに唱えるべきではない、ということになる。

参考¶グロスマンの『ヨルダン川西岸』は同じく晶文社。同社からはイスラエルの悪夢を描いたオズの『イスラエルに生きる人々』とレバノン戦争を描いた『贅沢な戦争』、イェルシャルミの『ユダヤ人の記憶・ユダヤ人の歴史』、ケベルの『宗教の復讐』なども刊行されている。中東事情についての本はどっさりあって何がいいとは勧めにくい。最新のものでは宮田律の『現代イスラムの潮流』(集英社新書)、山崎雅弘『中東戦争全史』(学研M文庫)、山内昌之『イスラムとアメリカ』(岩波書店)、松本仁一『ユダヤ人とパレスチナ人』(朝日新聞社)などが読みやすいだろうか。ジハードがどのように複雑化していったかということについては、全訳ではないが、カレン・アームストロングの『聖戦の歴史』(柏書房)がモーセの出エジプトからサダト暗殺までを一気に綴っている。

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