がま池 平成11(1999)年 7/25
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麻布十番『がま池』の伝説
2011/05/06 にアップロード
ブラタモリ「三田・麻布 完全版」で紹介されました
成羽藩の江戸屋敷にあった『がま池』の伝説
~今でも発行されている『上の字様』御守の話~
『麻布のがま池伝説』の山崎様は、岡山県の成羽藩の殿様でした。
成羽藩は繁栄していました。
山崎の殿様様が、成羽愛宕大花火をしていたし、庶民は備中神楽で教養を身につけていま
した。
http://www.kawakin.net/a5/page5.htm
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がま池
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%81%BE%E6%B1%A0#cite_note-4
がま池(がまいけ)は、
東京都港区元麻布にある
池。
六本木ヒルズに程近い東京の山の手の丘陵地にある小さな池で、現在はマンションの敷地内に位置しているため、敷地外から見ることはできるものの、池付近への立ち入りはできない。かつては約500坪(1,650m²)の面積があって、どのような日照りでも枯れることがないと言われていたが、現在は大部分が埋め立てられている
[1][2]。
この池は
江戸時代には
備中国成羽の領主であった山崎家の屋敷内にあった。文政4年(
1821年)
7月2日の大火で周りが焼失した際、山崎家の屋敷だけが類焼を免れたが、それはこの池の大がえるが水を吹いて火を消したためであると言われた。そこで、山崎家では「上」の字が書かれた御札を授けるようになり、防火、火傷のお守りとして人気を集めた。この御札は昭和4年(
1929年)からは麻布町内の末広神社で授与されるようになったが、末広神社は
第二次世界大戦中に
建物疎開で竹長稲荷(後の十番稲荷神社)に合併され、御札も途絶えた。しかし、平成20年(
2008年)に十番稲荷神社が御札を復活し、授与するようになった。御札の「上」の字は、社伝の史料にもとづき、がま池で汲んだ水を用いた墨で書かれている
[1][2]。
●麻布本村町のがま池は、旗本山崎治正の屋敷内にあった。かつて火災の折、付近が焼失したのに山崎家だけが無事だった。これは山崎家の池に年経たガマが住み水を噴いて消し止めたためだといわれ、人々はその守り札を求めるようになった。札には上という字が記され「上の字様」と呼ばれた
[3]。
●池のまわりの土地は維新後渡辺国武子爵の所有となったが後に土地会社の管理地になる
[4]。
●1924年3月21日付東京朝日新聞に箱根土地株式会社が麻布区西町3500坪の分譲地の広告を掲載。
最終更新 2014年1月26日
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http://www.deepazabu.com/m1/7fusigi/7fusigi3.html
麻布七不思議
がま池
元麻布二丁目にある天然湧水の池。蟇池・蝦蟇池とも書く。江戸期は備中成羽を所領とする交代与力(旗本)
山崎主税助治正の屋敷であった。
宮村町の奥(町域としては本村町)にあった200坪ほどの池。マンション建設の話が出た1970年代後半、外国人などが中心となって反対していたのを覚えている。私も小さい頃よく釣りをしたり、池の端の木でクワガタを捕まえたりした。特にクワガタを捕まえるのは明け方が多かったので、薄暗い池の端に行くのは、とても恐かった。現在はマンションになってしまったが、裏に池が残っている。この池に残された伝説の中の幾つかを紹介。
江戸時代後期(文政年間)、このあたりに山崎主税助という五千石の旗本の屋敷があり、この池の主の大がまが、よく座敷の菓子をたべにきていた。文政4年古川橋から出火した火がこのあたりまで延焼してきた時、この大がまが水を吹き付けて屋敷を守り、菓子の礼をしたそうな。
池の主の大きな蝦蟇が夜中に、見廻りをしていた仲間(ちゅうげん)を池に引きずり込んで殺してしまった。主人の主税助はお気に入りの仲間を殺された事に大いに腹を立て、池の水を掻い出して蝦蟇を退治しようとした。しかし主税助がその晩寝床につくと、枕元に仙人のような老人が現れ「我は永年池に住む蝦蟇であるが、あの仲間は蛙が生まれる度に殺してしまうので仕方なく子の仇をとったのである。だからどうか池の水を掻い出すのは止めて頂きたい。もし願いを聞いてくれるならば以後このような事は二度としない。そして、当家に火難が降りかかった時は、我の神通力をもって必ず屋敷を守るであろう。」と告げた。
主税助は夢から覚めると今の夢を半信半疑ながら、蝦蟇退治を中止することに決めた。しばらくたった弘化二年の大火の折にこの辺り一帯も猛火に包まれた。そしてこの屋敷にも火が廻ろうとした時、池から大きな蝦蟇が現れて池の水を巻き上げ屋敷一面に吹き付けた。これによって付近は総て焼失したにもかかわらず、山崎家の屋敷だけは難をのがれた。
この噂が世間に広まり、主税助は「上」と書かれた防火のお札(後には火傷のお札)を側用人であった清水家に作らせ「上(じょう)の字様」と呼ぶと、国中から注文が殺到したと言われる。これは当時の大名などがアルバイトとしての収入を得ようとしたもので、芝の金毘羅宮、
赤羽橋の水天宮と同様である。
屋敷は明治になると渡辺国武(大蔵大臣)の所有になったが、お札の販売権?は清水家が継続して任された。清水家は維新後に東町に住む事になったために、本来お札は、がま池の水を八月の決まった日に汲みそれを種に「上」の字を書くのだが、その池が他家の所有となって使用出来なくなってしまった為に、家の近所の井戸水を使用したと言われる。また清水家の御子息は帝大を卒業し銀行の幹部となったが、早世した。この帝大時代の学資は「上の字様」からの収益だったと書かれた本もある。その後昭和になると、末広神社(現
麻布十番稲荷)が授与するようになり、現在も続いている。
別説-2
享保の頃この池の辺に人の良い裕福な百姓が住んでいた。ある日、池に面した座敷でうたた寝をしていると、1匹の蛙が現れて、近いうちに江戸に大火があるが、私がいるからこの辺は大丈夫だ。火事でやけどをした人たちには焼灰をこの水で練ってつければ必ず治る。という夢を見た。不思議に思っていると、二日ほどして赤坂から発した火事は北風に煽られて大火となり、このあたりも火の海になった。すると池から濛々と水蒸気が立ち昇り池の周囲は、一軒も燃えなかったので、人々はがま池の徳を感謝した。先日の夢を思い出した主人は、焼け跡の灰を池の水を清めて練りやけどをした人たちに無料で施した。するとたちまち全快したので江戸中の評判となり遠方からも求めにくるようになったと言われる。
別説-3
ある夏の夕暮れ、山崎主税助の屋敷に来客があって、池に面した縁側で茶を飲みながら話をしていると、置いてある菓子が夕闇の中を池の方に飛んでゆく。不思議に思って菓子が飛んでゆく方を見ると池の中に大きな蝦蟇がいて、菓子を吸っていた。主人の主税助はひどく立腹して明日は池を替え、乾かしてしまうと告げた。するとその晩主税助の枕もとに蝦蟇がやってきて「助けてくれれば、火事の折にはきっと恩返しをするから」と許しを請うた。しかし主税助は、もっと世間の為になる事をするならば助けようと言うと蝦蟇は主税助に火傷のまじないを教え、それが上の字信仰となった。
「上の字」信仰
○東京案内
往時蝦蟇の奇譚ありとて、同藩士清水氏より火傷の守札を出し、其名世に知られたり
○港区史跡散歩
~この事件にちなんで山崎家では、防火のお守りとお札を出したところ、人気に投じ、受ける者が続出した。これを「上の字様」と呼んだのは、その上部にただ「上」の一字が記してあっただけであるからという。明治維新後、山崎家が移転したのちは、同家の家来筋に当る付近の清水家から領布した。同家の子息はこのお札の売り上げによって帝大の学費が出たといっている。~
○幕末明治 女百話
~山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁 ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費がつづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。
モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。『ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄い水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだ』とよく話してでした。
後に鉄ちゃんは大学を卒業して、第百銀行へ入り、大層出世をなさいました。支配人となって夭死をされましたが、蟇池の由来と、上の字さまのお札は、古い方はご存じでしょう。近頃上の字さまのお札を、麻布日ヶ窪の末広神社から出していると聞きました。~
○江戸の化物 岡本綺堂
~麻布の蝦蟇(がま)池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎主税之助(ちからのすけ)という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。 するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。 しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺(おれ)の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷(やけど)の呪(まじない)を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基いて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。 お守りは熨斗形(のしがた)の小さいもので、表面(おもて)に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫(な)でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬がつけてあるということです。~
○十番稲荷神社由緒書
江戸時代、文政四(1821)年七月二日、麻布古川辺より起こった火の手が備中成羽領主山崎主税助の屋敷にまで迫った時、邸内の池から大ガマが忽然と現れて水を吹きかけ、それを退けたという。
以来、大ガマの御利益にあやかろうと大勢の人々が山崎家にお札を求めた。
そこで山崎家では「上」の一字が書かれた御札を万人に授ける様になった。この御札は「上の字様」と称され防火・火傷や毒虫除の御守として、篤い信仰を集めた。
その後、「上の字様」は当社前身である末廣神社に伝えられ、戦前まで絶えることなく授与されていた。
戦後、「上の字様」は途絶えてしまったが昭和50年に至り大ガマに因んだ「かえるの御守」として復活した。この御守は火事・火傷除としてだけでなく「かえる」の語音から転じて、旅行や病院から無事帰る、遺失物が返る、若返る等の御守として尊ばれている。
元の御札「上の字様」は六十年以上の時を経て猶、御札を求める声が当社に寄せられ続けており、当社ではそれに応えるべく、神社に残された記録や故事を訪ね続け、平成二十年に至り漸く元の御札を復元することが出来た。
再度領布するに際し「上の字様」には新たに「家の諸災難除」の御神札としての御利益も有るように十番稲荷の大神様の御神威を仰ぎ、祈祷を捧げた。
○昭和期がま池の遊び
昭和34(1959)年のがま池 (写された港区-麻布地区編)
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昭和40年代前半のがま池図
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がま池は当時から公園ではなく私有地であったため、危険を考えて所有者は一般の立ち入りを禁止していた。そして池の周囲は植栽と鉄条網で守られていた。西側に池の正式な入り口があったがその前には管理人の住居があり、見つかると厳しく怒られた。しかし、周囲の鉄条網は何者かの手によりいつもどこかが破られており、子供達の池への入り口となっていた。ごくたまにすべての鉄条網が補修されている場合は、当時既に使用されなくなっていた南側斜面にある階段を民家のガレージを無断通過して使用し、池に侵入した。しかしうまく池に侵入できても運が悪いとすぐさま管理人の目にとまり、追い出された。しかし、何度追い出されても再び舞い戻っては新たな入り口を探し当て、侵入を繰り返した。
昭和40年代前半のがま池での遊びは何と言ってもザリガニ釣りである。当時私たちはザリガニの成体を「マッカチ」「マッカチン」などと呼び、たこ糸にスルメイカを結びつけた単純な釣り道具で釣り上げた。またハサミが赤くなる前の幼体を「アオタン」と呼んでいたが、アオタンは釣果としての価値が格段に低かった。そして、少し高学年になると竹の一本竿でクチボソ釣りや当時「タフ」と呼んでいた和メダカなどを釣った。今から思えばメダカを釣るとは狂気の沙汰であるが、当時は真剣そのもので、十番の釣り道具屋で極細の「タナゴ針」などを購入し、メダカ釣りを楽しんだ。しかし、時には何かの間違いでこのタナゴ針に体長四十センチ以上の鯉や、かなり大きな鮒が掛かることがある。しかし、所詮竹の一本竿にタナゴ針ではなすすべもなく糸を切られるか、場合によっては竿ごと水中に持って行かれてしまった。
また、釣りで使用するたこ糸、スルメイカなどの購入は当時近隣の駄菓子屋で調達した。駄菓子屋は記憶にあるだけでも、宮村公園そば・本光寺脇・麻布保育園(狸坂下)脇・暗闇坂下・本村町本村公園前・有栖川公園そばなど数多く点在し、調達に困ることはなかった。
釣りの他にも夏場はクワガタ捕りの聖地として密かに語り伝えられた場所でもあった。「密かに」とは当時のクワガタ生息木は先輩から後輩へ一子相伝で伝わったためで、宮村町周辺には麻布山、賢崇寺、本光寺などと並んでがま池にはクワガタが生息する木が多くあった。しかし捕獲には早朝が適しているので、他の子供を出し抜くために夏休みには「ラジオ体操」前の時間帯でなければならない。それにより必然的に早起きをすることとなった(シーズン中だけだが...)。しかしその捕獲時間帯も次第にエスカレートしてゆき、夜が明けきらない御前4時前後となってしまった。そして、クワガタの生息木は墓地やがま池などとても淋しい場所に多かったので、薄暗い墓地やがま池に入り込んで捕獲作業に専念したが、幼児心にも恐怖心でいっぱいであった。特にがま池は麻布七不思議を知っているので、夜も明けきらない水面で鯉などが跳ねようものなら、大ガマかカッパ?か!っと、足がすくみ大急ぎで捕獲作業を終え、逃げるように帰宅したことを昨日のことのように覚えている。ちなみに捕獲には網や虫カゴなどは「幼稚っぽい」として頑として使わず、捕獲には木の根元を掘るか、足で蹴って木を揺らした。そして捕獲したクワガタはそのまま半ズボンのポケットに入れて持ち帰るという、何ともマタギちっくな捕獲方法であった。
夏場はその捕獲したクワガタの保有数と大きさがステータスであった。私たちよりさらに年上の先輩にはカブトムシを捕獲した者も多数いたが、乱獲がたたってか私たちの時代には既に絶滅していたと思われ麻布での捕獲経験は無い。ある夏、例年よりクワガタが不漁で捕獲数が他の子供より少なかった時に一度だけ嘘をついたことがある。当時出来て間もない(1964年開業とのこと)青山ピーコックまでチャリンコを飛ばして、特売の特大クワガタを購入し、友人に見せびらかした。友人はその大きさに驚いたが、自身の虚しかった気持ちは今でも忘れられない。
そしてさらに高学年になるとチャリンコという移動手段を手に入れた私たちはその行動範囲を大きく拡大し、釣りの種類により場所を設定することになる。主だった場所は、
・がま池-ザリガニ・クチボソ・タフ
・有栖川公園-ザリガニ・クチボソ・タフ
・六本木、檜町公園-クチボソ・タナゴ
・赤坂、弁慶橋-クチボソ・タナゴ・手長エビ
・東雲-ハゼ釣り
と、広範囲に及びさらに釣り具も竿意外に「四つ手網」「セロビン」と進化し釣果も倍増したため、一時期の我が家は小型の水族館と化した。余談として、当時私たちの行動範囲を大きく拡大したチャリンコだが、実は小学校から放課後のチャリンコ遊びは禁止されていた。当時この理由を「交通事故の危険から」としか認識していなかったが、10年ほど前に話した幼なじみとの会話の中に、当時東町小学校に転校してきた悪童が仙台坂を猛スピードのチャリンコで駆け下りて老婆と接触事故を起こしてしまった。これにより港区内の各小学校が「自転車遊びの禁止」となったという。その事故を起こした悪童の名前は....元プロレスラーの大仁田厚氏であるという。
高学年になると、がま池や空き地などで爆竹・2B弾(正確には2B弾は社会問題となり禁止となったため「クラッカー」であったが)などの花火遊びをした。これらの場所は大人が入りこめないので火遊びをしても叱責されることがないため、池や空き地では頻繁にそれらの破裂音が聞こえていた。高学年になるとザリガニ釣りも飽きてしまい釣ったザリガニに爆竹を握らせて吹き飛ばすという今から思えば恐ろしく残酷な遊びをしていた。またロケット花火を縦に3段に重ねて飛ばす「アポロごっこ」も私達的には流行った。しかしこれは非常に危険な遊びで、各段のロケット花火を垂直に重ねないと上昇せずに水平に飛び、一度お尻から火を噴いたままの3段ロケットが民家の屋根に乗ってしまい大慌てしたことがあった。幸にもこの時は火災などにはならなかったが、この時ばかりは普段恐れていた大ガマが現れて、口から水を吐いて花火の火を吹き消してくれることを本気で願った事をいまだに覚えている。
がま池水流
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- ○がま池水流
- がま池から流れ出す余水は、昭和期には池北側にあった水門(昭和40年代前半のがま池図参照)から下水道にに落ち込んでいた。この水門は大雨などでザリガニも流れ落ちる「穴場」だったので、私と同年期の少年たちのなかには水門から下水道に入り込んで宮村公園坂上あたりまで探検した猛者もいたという。また昭和40年代前半の宮村公園擁壁は、冬場にいち早く氷が貼る場所だったので冬場の格好の遊びであった。公園脇の住居路地にはいくつかの井戸が掘り抜かれており、いつも水を豊富に湛えていた。この通路は昔は細流であったと思われ、現在も公園脇から狸坂下まで通じている路地は同様にがま池水流の細流であった。そして狸坂下あたりで大隅山方面から流れ出る宮村水流と合流して内田山の麓沿いに現在の更科堀井の西側付近でニッカ池水流や芋洗坂を流れ下る吉野川水流と合流し現在の浪速屋たいやき前あたりまで直進してその後十番大暗渠から一の橋で古川に合流した。このがま池・宮村町水流の昭和初期の様子を「十番わがふるさと」文中で稲垣利吉氏は、
~家の前(安全寺裏手辺か)の四十センチ幅の溝は小川の流れのように清水が四六時中流れていた。この水はがま池の水や周囲の高台から滾々と湧き出る水が流れ込むもので、田舎の小川のように美しい風情があった。今は暗渠になっているが、現在も一ヶ所だけ昔をしのぶ場所が残っている。(奥の三叉道路石屋の前の下水)~
~現在五、六十才位の人の少年時代までは(がま池は)相当大きくて外からも自由に出入りできたのでこの辺の少年達の遊び場であり、皆釣竿を持って小魚を釣りに行ったものである。が大雨でも降ると大変だ。宮村通りの溝は溢れ、道全体が小川のようになる。子供達は俄か漁師となって古スダレを持ち出し、溝に仕かけてどじょうや小魚をとる。
と記して、がま池に豊富な魚類が生息していたことを伝えている。
- ○麻布白亜館
- 1966(昭和41)年から1977(昭和52)年頃までがま池の東側畔(麻布本村町35番地)に存在した伝説の会員制フレンチレストラン。白亜館の名付け親は故保富康午氏。当時絶頂期にあった××軍団のボスを泥酔状態で非会員であったため追い返したことにより業界でも一躍有名となったという。
関連記事:麻布白亜館-その1
二度の保存運動
大正時代頃、麻布周辺の再開発・宅地化がさかんに行われた。これは地方からの労働者がこの時期大量に東京に流入したことと無関係ではないと思われ、好景気による土地取得者の増大、四の橋周辺を含む古川端の小工場などの労働者の住居確保などにより、小規模な住宅やアパートが次々に建てられていった。西町近辺も大手建設会社による分譲・宅地化が行われ、お屋敷が次々と姿を消していった。また宮倉公園脇の住宅や、狸坂下から麻布十番へ続く切り通しの斜面が掘削されたのもほぼ同時期であった。そして開発に伴いそれまで屋敷地内であった通路が公道となって宮村坂・内田坂など多くの坂や道路が貫通し、庶民の利便性が向上したことによりさらに住民が増えていったものと思われる。同時期にがま池周辺の宅地化が始まり、池の周辺が次々に分譲されて住宅となっていった。
その後関東大震災では地盤の堅牢さから大きな被害が少なかった麻布地域は昭和期の太平洋戦争による空襲で大きな被害を出しつつも、被災を免れた建物も多く存在した。そして時代は下って1970年代、麻布各地でも建物の老朽化から木造住宅のビル化が始まる。
●1972(昭和47)年の保存運動
1972年のガマ池保存運動を伝える 毎日新聞記事
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がま池平成11(1999)年7月
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1972(昭和47)年、当時ハワイ大学教授で渡辺国武の子孫である池の所有者が土地の有効利用からマンション建設を計画した。そしてこの計画にほとんどの周辺住民は池が「民有地」であることから池の存続あきらめてしまった。これに対して池の保存を訴えて保存運動を展開したのは周辺に住む外国人たちであった。この様子を毎日新聞S47・3/4付け朝刊の「問いかける群像14」の「ガマ池が消える 怒った、立った 外人が...」と題した記事は克明に伝えている。
・ドイツ大使館 ゼーマン一等書記官と婦人
・タイムライフ誌 ニックル東京総局長、
・フランクフルター・アルゲマイネ ロス極東特派員、
・海運会社社長夫人 アイアーズ婦人、
・ブランズウィック社 フリント日本代表、
など50人余りの外国人が当時の大石環境庁長官、美濃部東京都知事に池の保全を陳情し、さらに池の歴史を調べ周辺住民へ回覧板による保存運動を展開した。この時の外国人活動家の心情を記事では、
それにしても不思議でならないのは、いま日本では、自然保護が叫ばれ、緑化運動が各地で進められているのに、一方で、こうした現にある美しいオアシスが平気で破壊され、しかも、だれも、それを守ろうとしないことだ。どうしてでしょう。なぜなんでしょう.....
がま池はエピソードの多い、由緒のある池だった。日本人がなぜこのようなエピソードを忘れはて、目の前で大切な自然が破壊されようとしているのに、どうして無関心でいられるのか、不思議に思った(アイアーズ婦人)
と記している。
この問いかけに遅ればせながら周辺住民の山崎幸雄千葉大教授なども保存運動に参加し、また宮村町会長斉藤氏なども運動とは別に3800人におよぶ地域住民の署名を集め港区議会に「ガマ池保存の請願書」を提出した。これら地元日本人の活動に外国人活動家の間でも「池は助かるだろう」と期待をふくらませた。しかし.....
陳情を受けた当時の小田清一港区長(当時)は自身の少年期にガマ池で遊んだ経歴などを披露しつつも、
「私の孫たちはもう知らんでしょうな。だれも教えてやらんから」
っと、まるで他人事のようなコメントを発している。 さらに池の保全についても、
「できれば残しておきたいのだが区には買い上げるだけの財源がない。都や国が買ってくれればねー」
と責任転換。都は池の面積が小さすぎて都立公園向きではない。としつつも首都整備局長談話として、
「区が将来、公園にすると約束するなら先行取得してもいいのだが、区にはその気もないようだ」
と重大な発言を掲載して、港区は当初から池保全の意志が全くなかったことを記事は裏付けている。 そして環境庁も官房参事官の発言として
「所管外でどうしようもない。都で善処してほしいものです」
と、いかにも「お役人」らしいコメントを発している。
これに対して記事は建設主渡辺氏がハワイ在住であるため代理の弁護士談話として
「なにがなんでもマンションを建てようというのではない。都や区が池を買い上げてくれるなら応じるが、買ってくれない以上、地主だって生活がかかっている。池の景観を壊さないよう細心の注意を払って、ガマ池をより美しくするような立派なものを建てる。ガマ池を守ろうとしているのは私たちだ」
とのコメントを掲載している。
その後工事は着工され、現在とほぼ同位置にマンションは建設された。そしてマンションは堅牢な壁面に守られガマ池に忍び込んで釣りなどを楽しむ少年の姿は皆無となり、それによりガマ池は真に伝説の池となってしまった。 しかし、この建物は池には全く手を付けずに建設されており、建物の一部分はフローティング状態で池に張り出していただけで池自体は100%残され、ほぼ完全な状態を保っていた。
●2001(平成13)年の保存運動
旧マンション解体時のがま池
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2001年がま池保存運動
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池の保全を訴える看板
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池の保全を訴えるポスター
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前回のマンション建設から30年余りが経過した2000年、池の所有権は森ビル系列の子会社「株式会社サンウッド」のものとなりマンションの立て替えが申請された。これにともない翌2001年池周辺の住民ら750人が池の景観と保全を求めて「旧跡がま池を守る会(以下守る会)」を結成、建築家の団紀彦氏(父は音楽家の団伊玖磨氏)が会長となった。守る会は署名運動・区議会への誓願・陳情など積極的な活動を行い。さらにインターネットで「守る会」サイトを立ち上げ、池の由来、湧水、野生動物の生息状況などを掲載すると共にサイト上からも池保全の電子署名が出来るなどの仕組みを作った。 また「守る会」は港区を仲介としてで業者と周辺住民の協議会を設け解決の糸口を探った。
この協議会は土地所有者・周辺住民・港区・教育委員会の四者によるものであったが当初行政側は「四者協議会」ではなく、「土地売却問題についての説明会」であるという認識から教育委員会が会議に出席せず、周辺住民・港区・土地所有者(株式会社サンウッド)の三者による会議となった。 さらに次の協議会では「守る会」側の要請により土地所有者(株式会社サンウッド)が早くも転売を決めた転売先業者も出席し、協議の場がもたれた。しかし、協議は平行線をたどり区、都、管轄省庁は1972年とほぼ同様の対応を取ったために工事は何事もなく開始され、池の面積(約700㎡)のうち埋め立ては約4分の1の175㎡に及んで「ウィンザーハウス元麻布」が完成した。
○ウィンザーハウス元麻布
・竣工:2002年8月
・用途地域:第一種中高層住居専用地域
・容積率:200% 建蔽率:60%
・鉄筋コンクリート造・地上6階
・戸数:10戸
・駐車場収容台数:7台
・敷地面積:1901.52㎡(575.21坪)
・延床面積:2993.17㎡(905.43坪)
・設計:入江三宅設計事務所
・施工:佐藤工業株式会社
・デベロッパー:株式会社サンウッド
完成後も「守る会」は池の一般公開を求めて活動し、 平成15(2003)年2月28日に区建設委員会に提出された「がま池の公開実施に関する請願書」には港区議16名の紹介が添付されているが、議員は党派を超えて自民・公明・民主クラブ・共産・他など多岐にわたっている。
その後、残念ながら建物はさらに転売され、協議会で転売時には公開規約を継承するとしたにもかかわらず、それが守られた形跡は無い。また「守る会」も署名支援者などへの説明・報告もないまま突然活動を中止し、オフィシャルサイトも閉鎖されたままとなっている。多少なりとも「守る会」を通じてがま池の保存を念じてきた筆者は、会がNPO設立まで画策しながらも結果的には挫折したことから、これら一連の活動目的が真に自然保護・史跡保存運動であったのか、単に周辺住民の私的な景観保護・環境保全による固有資産の保護、保障問題の優位性確保であったのか.....未だに総括が出来ていない。
追記
伝説の「がま」が山崎邸に現れたのは麻布区史によると文政4年(1821年)4月2日との事であるが、このように日付まではっきりさせているのは、「上(じょう)の字」信仰の効能を強調するにあたり、その過程で詳細な話が出来ていったとの事。ちなみに屋敷の主山崎主税助は、備中成羽を領する大名の分家で明暦3年、家が無嗣断絶となりその後交代寄合として存続する。
屋敷は現在の本光寺と境を接し、西町インタ-ナショナルスク-ル、安藤記念教会を含んだ広大な敷地であり安政年間から明治にいたるまで11396坪を有した。それ以降昭和初期までは池の広さが約500坪ほどもあった。また池は、明治35年の「新選東京名所図会」にも登場し、その幽玄さが記されている。しかし、大正頃から開発が進み一帯が分譲地となり、池周囲も石垣などで囲まれ旧観を失っていった。
マスコミなどで麻布の名所として幾度も取り上げられてきたがま池だが、勘違いされやすいのはこの池は誰でもが入れる公共の施設ではなく、いつの時代にも「立ち入り禁止の私有地」であったことである。私を含めて多くの近隣の少年たちはこの池で遊んだ少年期の体験を有しているが、それは土地所有者の目を盗んで「忍び込んだ」ためで、池の前には土地の管理人の家(現在教育委員会の解説板がある場所))があり厳しく人の出入りを監視していた。そして見つかると厳しく叱責されて追い返された。よって子供の目の前で親が叱責されるという危険を冒してまで侵入する親子連れというのは考えられない。また、大人同士の侵入も不法侵入と見なされ警察に突き出される恐れもあったので、ほとんどみかけなかった。よってがま池で遊んだ経験を有するのは、そのほとんどが少年のみである。また最近NHKの番組内で紹介された池から気泡があがっている画像を見て湧水といって喜んでいる周辺住民もいたが、回水ポンプ機の気泡であることは明らかである。そして、平成14(2002)年の湧水調査(港区みどりの実態調査)によると、池の湧水は不明という曖昧な表記で明言を避けている。また同番組では池の撮影を許可されたようだが、一方でローカルTV制作スタッフが公共番組作成のために撮影を申し込んだ際にはマンション管理会社により拒否されているという現実も忘れてはならない。
地元住民の中でも頻繁にがま池で遊んだ経験を本当に有するのは、周辺で少年期を過ごした者のみかと思われる。後年、数度のがま池保存運動が行われたが、地元住民の中でも池への思いに温度差があるのは、少年期のがま池遊び経験を有しているか否かがあったことは否定できない。また、現在のマンションが建設される前の建物は池はそのままで基礎を打ち池の面積はそのままであったが、現在の建築物は池を埋め立てて地下駐車場まで建設してしまったのでもはやその部分には水脈も存在しない。しかし、今でも早朝などに池横の道路を歩いていると元排水溝(私たちは水門と呼んでいた)があった付近のマンホールからは水流の音が聞こえている。「生活排水の音」との区別は難しいが、少年期の夏休み、まだ夜も明けきらない静まりかえったがま池にクワガタ捕獲で忍び込んだときにいつも聞いていた水門に流れ込む音と酷似している。わずかな望みではあるが、池の南側といわれる湧水噴出地点は細々と生きているのかもしれない.....と思いたい。
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今も残る大蝦蟇伝説 - 麻布がま池 -
http://www.kaeruclub.jp/report/gamaike/gamaike3.html
出典ははっきりしませんが、今現在もその所縁の地が残る「大蝦蟇」の伝説があります。場所は港区元麻布。
この、大使館や高級住宅が立ち並ぶ一角に今も、「がま池」と呼ばれる池が残っています。 |
伝説は、一つではなく、様々なバリエーションがありますが、どれも共通しているのは、(1)この池に大蝦蟇が住んでいて、(2)防火に効験を現した、という点です。いろいろな本に載りながら、その内容は一定しませんし、何が出典になっているのかも明らかではありませんが、港区の教育委員会が出版した、「麻布-その南西部- 港区の文化財 第4集」という本によりますと、大きく2つのパターンに分けられるようです。
一つは長者伝説の流れで、
むかし池のほとりに長者が住んでいた。ある日暮れに1人の小坊主が訪れ、どんな天災地変をも免れるように、池ばかりは埋めないでくれと乞うた。長者は奇妙なことをいうと思いながらも坊主にそばをふるまってやって帰したが、その後、池の底にたまった泥をさらいあげたとき、大きながまが現われた。このがまを下男たちがいじめると、苦しまぎれに、がまはそばを吐き出した。
長者はこのことを知って、あの小坊主ががまの化身であったことに気づき、そのまま池へ放してやった。
それから間もなく、風の強い日に近所に火災が起こり、長者の屋敷へ迫ったが、この池のなかから大がまが、はい上がり、その口から烈しく水をふき出して、鎮火させることに成功した。
以来この池に、蟇ヶ池の名がついて、今日に至っているが、ふしぎと付近には火災が少なくなったという。
(湯浅晃一、細川啓三、中村鎌次、俵元昭「名所旧跡・坂」麻布-その南西部- 港区の文化財 第4集 昭和43年?)
もう一つは、ちょっと怪談じみた雰囲気が漂う旗本屋敷バージョンで、がま池を紹介する本のほとんどは、こちらを採っています。
この土地は江戸時代には、備中(岡山県)川上郡成羽に5千石を領した旗本で、江戸城中で交代寄合役を勤め柳間詰であった山崎氏の屋敷うちであった。代々主税助治正を称したようで、その何代めのときであったか、同家の中間が屋敷内の夜回りに出たとき、池のほとりに大がまが現われ、中間を二人もくい殺した。治正は大そう怒ってがま退治を決意して寝た晩、がまは白衣の老人となって夢枕に立ち罪をわびた上、謝罪の証拠に今後当家の防火に尽くすことを誓った。はたしてその後、文政4年4月2日のことというが、高台下の古川岸に火災が起こって、山崎家あたりまで延焼して来たとき、くだんの大がまが池中から出現して、口から水を吹き、ついに山崎家を守りおおせた。
(前述 港区の文化財)
ほとんどの本が後者を紹介するのは、怪談っぽさもその原因ではあるでしょうが、旗本山崎家の家来であった清水家から、「上の字様」という防火、火傷のお守りを頒布していた時期があり、これが、火を消し止めた蝦蟇の伝説と結びついて、お守りへの信仰が逆に伝説に真実味を持たせるような、相乗効果があるからでしょう。日付等、妙にディテールがはっきりしているのもそのせいかと。
調べた限りで、この伝説がもっとも記された本の中で一番古かったのは、明治35年に出版された「新撰東京名所図会」。
傳へいふ、往年火災あり、此邊類焼、全土烏有に帰せり、獨山崎家恙なし、當時同家の池中に年経たる蝦蟇公の栖むあり、口に水を噴て、猛焔を撲滅せり、蓋し池精なりと、人々奇瑞の思ひを為し、守札を乞ふもの多し、荒唐笑ふべし。
(新撰東京名所図会 第三十六編 麻布区之部二 ;明治東京名所図会 上巻 1992.7.10 朝倉治彦 槌田満文編 東京堂出版)
ここではまだ、大きな火事があって、近隣のほとんどの家が焼ける中、山崎家の屋敷だけは無事であったのは、同家の池の中に年を経た蝦蟇がいたおかげである、とされているだけで、家来が殺されたり、白衣の老人になって出てきたりはしません。
この大筋に、家来が犠牲に、という話や、老人が登場するのは、例えば、篠田鉱造『幕末明治 女百話』なんかがあります。これは、昭和7年に出版されたものですが、幕末、明治を体験した女性にインタビューをして、聞き書きしたものなので、幕末当時、言い伝えられていた内容を比較的正確に反映しているのではと思います。
アノ御池が、俗に『蟇池』といって、蟇の主が棲んでいたと申します。古く江戸時代に、青山火事といって、大火事がありました時まだその頃は旗下の山崎さんの御屋敷で、既に火焔がこの御屋敷をも一舐めと、赤い火焔が、烈風に煽られて、アワヤ焼けんとしたのを、コノお池から、霧雨のように、水を噴き出して、さしもの火事を喰止めてしまったといいます。ソレから誰いうともなく、山崎さんの池には蟇がすんでいる、蟇池だといってしまったんです。
ソレから後、この蟇池で、一年に人が一人ずつ、引込まれてしもう。蟇の人身御供にあがるものと評判されましたから、山崎の殿様が、恐しく御怒りになって、コノ蟇池の水を乾して、蟇退治をしてくれんと、人夫を雇い、大袈裟にポンプで、池水を干すこととしました。
しますると、その夜殿様の夢枕に、白髪の翁があらわれて『自分は蟇の精であるが、年々人を殺したことは、何とも申訳のない次第で、これからは決してそうしたことはせず、かえって人助けの火防のお札を、この池水でおかきになれば、きっと火事を防いでごらんにいれます。掻堀の儀はお許し下され』といって消え失せてしまったそうです。
(篠田鉱造『幕末明治 女百話』1932年(昭和7年):岩波文庫『幕末明治女百話(下)』1997.9.16)
火事は「青山火事」だとしていて、青山火事が安政元年の火事であることを考えると、文政4年4月2日という日付は怪しくなってきます。蝦蟇が火事を消し止めるのと、家来が殺され、老人が夢枕に立つのと順番が逆になってますし。
もうちょっとほのぼのした、山崎家バージョンもあります。
半七捕物帖で有名な岡本綺堂の「風俗江戸物語」というエッセイには、こんな話が載っています。
麻布の蝦蟇池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎主税之助という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。
するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。
しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷の呪を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基づいて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。
(岡本綺堂「風俗江戸物語」大正十一(一九二二)年二月 贅六堂:河出文庫 1986.9.4)
菓子を取られたくらいで腹を立てる主税之助も主税之助ですが・・・。ここには、家来が殺された話も、火事を防いだ話すら出てきません。
これらを読んで想像するに、(1)山崎家には古い池があって、大きな蝦蟇が主だと信じられていた (2)何らかの火事で山崎家が無事だったことがあった (3)火事に遇わなかった山崎家がお守りを出すと、結構な人気になった (4)徐々に池の主とお守りとが結び付けられて、尾鰭をつけて語られるようになった、という流れなのではないでしょうか。まあ、伝説は尾鰭がついていた方が話として面白いものです。
しかし、この麻布の伝説の最も重要なポイントは、この山崎主税之助屋敷内にあった「がま池」と、防火・火傷のお守り「上の字様」の痕跡が、今現在も残っているというところにあります。我がかえるクラブとしては、これを無視するわけには行きません。まず、「がま池」の歴史を見てみましょう。
[ ⇒次を読む ]
http://www.kaeruclub.jp/report/gamaike/gamaike4.html
■ がま池の歴史 ■
山崎主税之助屋敷にあった「がま池」は、その後どうなっていったのでしょうか。
明治維新後、山崎家の屋敷は、第二次伊藤博文内閣のもと、大蔵大臣になった諏訪藩士、子爵渡辺國武の邸になりました。
前のページでも紹介した、「新撰東京名所図会」には、明治時代のがま池の様子が絵と文で記されています。
俯して窺へば柳條攅元、固く池面を封じて、風物凄其、陰寒の氣人を襲ふて、境地の寂寞に冥契するものあらむとす。
(前掲「新撰東京名所図会」)
文章は難しくて、様子はよくわかりませんが、何やら深遠な池のようです。絵を見ると、かなり広々とした、大きな池であったことがうかがえます。
この、渡辺邸時代の「がま池」の様子を伝えるもう一つの文章があります。これも、既にご紹介した「幕末・明治 女百話」。
麻布本村町の渡辺国武--大蔵大臣までなすったその渡辺さんの御屋敷は、御門から覗きますとズット低く、御庭の底が、大きな御池となって、柳の大きな樹が、池の面に垂れて、船などが繋いである風情は、好い御屋敷で、古い御池だと、いつも思い/\したものですが、アノ御池が、俗に『蟇池』といって、蟇の主が棲んでいたと申します。
(篠田鉱造・前掲)
邸自体がかなり窪地にあったようですね。門から見下ろすような場所に邸があって、その窪地の一番低い所が大きな池になっていたと。大きな柳の木があったということですが、柳と蛙の取り合わせは、小野道風の故事っぽくて、まさに「がま池」にぴったりです。
この、柳と蛙の取り合わせを、見た人がいます。それも、現代。
その人こそ、カメリア・マキという占い師(?)。なんだか、“カメリヤダイヤモンド”と“銀座じゅわいおくちゅーるまき”が合わさった、派手なお名前ですが、この人が、「がま池」について霊視しています。
由緒あり気な大名屋敷の一角が目の前に広がる。木立ちに囲まれた「がま池」は、現在のものよりもっと大きく、魚や鳥の姿もちらほら。この場所も震災や空襲にあっている様子だが、周辺の木々は速やかに命を吹き返した。火災を防ぐというがまの伝説が生まれたのは、そのあたりからきているのだろうか。
霊的ポイントは、池のほとりにある大きな柳の樹付近。緑色の精霊、緑色の蛙の残像。この樹には、かつて精霊の住まいだった霊気がかすかに残っている。
(中略) 東京の超高級住宅街の真ん中に、21世紀の現在までこれだけの緑と精霊の残像を残した池が残っていたことは、それだけでも奇跡に近い。時代が変わって、この緑地帯の開発が避けられないことになっても、池の辺り、柳の樹の傍に近隣の神様を歓請しておけば、この地域の精霊はすべてそこに集まったはず。伝説の名を借りたパワースポットを保存するには、『聖地』として史跡に残すのが一番良い方法だったと思える。
(カメリア・マキ「不可思議スポット巡歴譚」散歩の達人2001年9月号)
緑色の蛙の精霊ね・・・。あんまり蝦蟇っぽくないですね。のっけから「大名屋敷」だしね。旗本の屋敷だってば。
関係ありませんが、このカメリヤ・“ダイヤモンド”・マキさんの経歴、自分の知識の範囲外のことばかりで、非常に興味深いものでした。
'70年頃より占術の道に入る。水晶球透視術、タロットカードなどジプシー占いのほか、風水学、西洋占星学など、占い全般に精通。アメリカで魔女学をマスター。全米魔女協会認定の称号を持つ公認の「魔女」。
前半はまあ良いんですけどね。占いの勉強というのもありかな、とは思います。「アメリカで魔女学をマスター」。魔女学。どこで教えてるんでしょうか。もしかして、「おじゃ魔女どれみ(関係ないけど「魔女ガエル」も出てくる。)」みたいなやつでしょうか?全米魔女協会??公認???何か試験はあるんでしょうか。公認の条件なんか結構気になります。全米魔女協会公認の魔女って、世の中にどれ位いるもんなんでしょう?そもそも全米魔女協会って何?
脱線脱線。
がま池はその後もずっと渡辺家の所有地内にありました。詳細はよくわかりませんが、池は徐々に埋め立てられ、宅地化して分譲されていったようです。
昭和30年代ぐらいまでは、「この池で遊んだ」という思い出を語る麻布出身者も多く、子供の遊び場になっていたことが窺えます。
昭和30年代のがま池を描写した本に、有名な映画評論家、山口瞳の息子さんで、エッセイストの山口正介が、小説現代に連載した「麻布新堀竹谷町」という自伝的小説があります。
話の中に、「六月十六日。テレビ映画『スーパーマン』で主役を演じていた俳優のジョージ・リーブスが自殺した。」という一文があるので、1959年、昭和34年であることが分かります。かなり長くなりますが、がま池を描写した箇所を引用しましょう。
氷川神社を通りこしてしばらく歩き、左に曲がると今度は下り坂になっている。まがり角に白いペンキを塗った細い案内標識が立っていて、横木にアダムスとかジョーンズなどと片仮名と英語で書かれている。その他の英語だけの表示は読めるはずもなかったが、それは彼らにとって、この辺りが何か特別な場所であることをしめしていた。
坂を下るとすぐに突き当たりになり、道は左に曲がっている。道に沿って朽ちた板塀があり、こんもりとした樹木がその上に枝をのばしていた。
(中略)
慎重を期して順番に秘密の抜け穴をくぐり、生い茂る潅木やからみつく蔓をかき分けて進むと、踏み固められた狭い道はさらに下っている。まわりの建物の様子からすると、この先は大きな窪地になっているようだった。
むんむんする草いきれに圧倒され、泥がぬかるんでつるつる滑る坂道に足をとられながら、両手で背よりも高い草を払いのける。
突然、視界が開け、その特別な場所が全貌をあらわす。
緑の濃いよく繁茂した樹木に囲まれた原っぱの中央に、学校のプールの何倍もある池がたっぷりとした水をたたえていた。
頭上には、そこだけ木々が枝をのばせない、明るい空がぽっかりと丸く広がっていた。霞町から三田に抜ける車の音も、麻布十番から上ってくる車の音も、ここまでは届かない。
辺りはシーンとして静まりかえり、対岸にいる子供たちの哄笑だけがこだましている。
池の中央には小さな島があり、その近くに何世代も前の少年たちが苦労して建造した、木製の筏が半分沈んだまま、放置されている。その進水式はどんなにか華やかだったことだろう。
“がま池”。噂には聞いていたが、周助がここに来るのは、今日がはじめてだ。
近所の子供たちのあいだでは、すでに伝説となっている、幻の遊び場だった。
ある者は、もうがま池はないのだと言った。またある少年は入口が閉ざされているだけだと解説した。べつの子供は入口はあるのだが、そこへたどり着けないのだと証言する。一度、遊びにいったことはある、しかし、この間もう一度行こうとしたら、どうしても場所が分からなかった。いつも遊んでいるから、絶対にある、と意見はまちまちだった。
周助たちがこのとき知るよしもなかったが、“がま池”は江戸時代から今にいたるまで、確かにそこに存在している。
しかし、周囲はことごとく私有地に囲まれ、改築、増築のたびに敷地を狭められて、往時の面影をとどめないほどやせ細っていた。
歴代の子供たちが造る秘密の通路は所有者に発見されるたび、その都度、固く閉ざされ、新築の建造物があたりの景観を一変させる。
こうして少年たちは成長とともにその存在を忘れ、新しい冒険者たちは改めて“がま池”を発見しなければならなくなる。
周助にしたところで、“がま池”のことをはじめて聞いたのは、同じ小学校を卒業している叔父からだった。「子供のころはよく遊びにいったけれども、まさか今はもうないだろう」
周助がこの日、迷わずに真っ直ぐ行けたのは、ツトムが兄さんに最近、連れてきてもらっていたからだった。
池の水は汚れて白濁していた。うす青色のしじみちょうが一匹、とんでいる。羽虫が飛び交い、かすかに腐敗臭がただよっている。草むらから小さなバッタがヒスイ色のしずくとなって飛び出す。
(山口正介「麻布新堀竹谷町」1994.3.20 講談社)
当時からもう、私有地に囲まれて、「そんな池、まだあったのか」というような伝説の場所になっていたようです。でも、まだ子供に開放されていて(開放というか、隙間を見つけて入り込める所になっていて)、遊び場所になっていたんですね。
この状況が大きく変るのは昭和40年代。当時の渡辺家は、國武の孫の渡辺慧の代になっていました。渡辺慧という人は、理論物理学者、科学哲学者、認知心理学者と多彩に活躍していた方で、「醜い家鴨の子の定理」などでも有名。昭和40年当時はハワイ大学の講師をしていて日本にはいませんでした。
昭和46年、麻布の一等地を遊ばせておいてもなんだと思ったのかどうなのか、この地に急遽3階建てのマンションが建設されることになりました。しかも、建物の一部は、がま池の中に柱を立て、池の上にせり出すようになる構造。池を囲うようにコンクリートの塀が張り巡らされ、工事が始まったのにびっくりしたのが、近所に住んでいた外国人たちで、「景観が損なわれる」などと、反対運動を展開、新聞記事になりました。
一つ目は昭和46年(1971年)9月9日、朝日新聞夕刊に「ガマ池ノ美観コワシマス~マンション反対~外人が署名の音頭とり」という記事が掲載されています。
東京・麻布の住宅地の一角に、ひっそりとスイレンを浮かべた小さな池がある。伝説から「ガマ池」と呼ばれ、かつてはうっそうとした森に囲まれていた古い麻布の面影をわずかにとどめるところ。この池のはしに、地主がマンション建設を計画したことから、周囲に住む外人たちが「せっかくの景観がそこなわれ、魚や鳥のすみかがこわされるのは惜しい」と、建設中止の署名活動に乗りだした。日本人の側にも、運動に参加する人がふえて、運動は大きく広がりそう。火付役となったアメリカ人G・M・フリント夫妻らは、九日午後、環境庁で大石長官に会い、実情を訴えて国の協力を要請することになった。
この記事では、池の持主が「ドロテア・W・ダウエル」となっていますが、これは、渡辺慧の奥さんです。
区、都、国等に陳情した結果が、どんな風だったかは、次の記事で大体わかります。
昭和47年(1972年)3月4日の毎日新聞、「問いかける群像」という連載記事の14回目に「ガマ池が消える 怒った、立った外人が・・・」という題で、反対運動の記事が載っています。
がま池の様子について書かれた部分を引用します。
東京の住宅街にも、こんな美しい所が残されていたのか、とびっくりするような場所がある。港区元麻布にある「ガマ池」一帯。湧水池は一面が睡蓮でおおわれ、緑の茂みに囲まれる。さまざまな渡り鳥がいこい、小鳥が一年中、飛びかい、ウグイスの鳴声が耳をくすぐる。子供たちは、ジャングル遊びに興じ、魚釣りやザリガニとりに時を忘れる。
ベタボメですね。で、この記事のいいところは、陳情を受けた、行政側のコメントが載っているところにあります。
例えば、
港区長「できれば残しておきたいのだが、区には買い上げるだけの財源がない。都や国が買ってくれればねー」
東京都「ガマ池は面積(全体で1200平方メートル)が小さすぎて、都立公園向きではない。区が将来公園にすると約束するなら先行取得しておいてもいいのだが、区にはその気もないようだ。あのへんには有栖川宮公園や児童遊園があり、東京一緑の濃いところ。優先度からいってもまずムリだねー」
環境庁「所管外でどうしようもない。都で善処してほしいものです。」
どうにもならなそうでしょ。結局3800人集めた署名も役に立つことはなく、マンションは建設され、がま池は完全にマンションの敷地内に囲い込まれ、周辺から覗くことはまったくできない池になってしまいました。
事実、こうなってしまってからは、「がま池はもうなくなった」と思い込んだ人も結構いました。
例えば、東京にある池の由来等を紹介して集めた「東京の池」という本は、
池は私が知る限り昭和四十年代になってもあった。かなりくたびれた感じで水景としては衰えてはいたが間違いなくあった。おそらくその数年後に廃れたのだろう。四十年代の半ばには消滅していた。
(小沢信男 冨田均「東京の池」1989.12.20 作品社)
となっています。この本を書いた人は、ちょうど、マンション建設頃を境に、がま池が見つからなくなってしまったため、「なくなった」と思ったのでしょう。
マンションが建った、40年代末以降、がま池に関してあまり大きな動きはなかったと思われます。昭和50年に、港区が、区文化財の標示板を立てているぐらいでしょうか。
それから15年以上たって、時代は平成になります。平成3年(1991年)10月30日の朝日新聞東京版に、「がま池アップアップ 江戸の名残の湧水地、15年で半減 樹林地消え雨水も不足」という記事が出ています。
がま池はもともと、湧水によって水量を保つ池で、昭和51年(1976年)に、港区の防災課が行った、井戸湧水調査の時点では、まだ湧水が確認されていました。
しかし、この記事によれば、平成3年に実施した港区の「みどりの実態調査」の結果、がま池の湧水はすでに枯れていることが明らかになったとのこと。
そして、なぜかタイミングを合わせたように、この平成3年のがま池の様子を伝える記事が、11月30日の読売新聞都民版に掲載されていました。みどりの実態調査とは何の関連もなく、「江戸切絵図 わが街今昔」という連載の、麻布絵図編で、「大火を防いだ大ガマ伝説」と題して、山崎主税之助の伝説を中心に、がま池を紹介したものです。
がま池の所有者、渡辺慧さんも出てきます。当時81歳で、池の縁の問題のマンションに住んでいました。いつ頃ハワイからお戻りだったのかはわかりませんが、渡辺慧、ドロテア著「時間と人間」のはしがきには、
「一九七八年八月二十日、麻布蟇池にて」
と書いてあるところをみると、昭和50年代はじめにはもうこちらに住んでいたようです。
・・・このがま池、ここ二十年ほどの間に、ぐるりを(と?)建物に囲まれてからは、地元の人でさえ「いまでもまだあるんですかね」という具合で、すっかり存在感が薄れている。そこで、がま池を見せてもらおうと、マンションを訪ねた。
池を所有し、そのふちに立つマンションで暮らしているのは、物理学者の渡辺慧さん(八一)。量子力学の理論家で、科学哲学者としても活発に発言し、東京大学など国内外の大学で教べんを執ってきた。渡辺さんの祖父、伊藤博文内閣の蔵相も務めた国武氏の代から、がま池の主でもある。
渡辺さんは気安く求めに応じてくれた。池の周りは、マンションを覆い隠すように竹が茂り、中央の小さな島には赤い橋がかかって、池はそこだけ、ぽっかりと過去の姿をとどめていた。
「残念ながら、いまはカエルは住んでいないようだね」といいながら、渡辺さんが見やった池に、ゆったりとコイが泳いでいる。池に面したバルコニーには、カエルの置きもの。
半生を海外で暮らしてきた渡辺さんは「やはりここの環境はすばらしい。申し訳ないぐらいです。」と漏らす。
ほんと、一度でいいから「申し訳ないぐらいです」という気持ちになるような生活をしてみたいなあ。別世界ですね。これは。
それはともかく、渡辺慧さんは、この記事の2年後、平成5年に亡くなりました。
[ ⇒次を読む ]
http://www.kaeruclub.jp/report/gamaike/gamaike5.html
■ がま池の現在 ■
歴史は繰り返すというか、二度あることは三度も四度もあるというか、現在(2002年4月)、がま池はさらに縮小されています。
渡辺家の所有であった、がま池とマンションの敷地は、どういう経緯かは確認できていませんが、「サンウッド」というマンション開発会社の所有になりました。
2001年2月、この会社は、3階建てであったマンションを取り壊し、がま池の30%を埋め立て、その敷地を合わせて6階建てのマンションを建設する方針を、付近住民に説明しました。
例によって、反対運動が展開され、「がま池を守る会」、「旧跡がま池を守る会」等運動母体が設立され、2001年4月には、住民が、東京地裁に工事差し止めの仮処分申請をする騒ぎ。
この仮処分申請の前後に、4月27日の朝日新聞東京版を初めとして、各誌にこの反対運動が紹介されました。
その後、区も加わっての3者会合が重ねられたようですが、双方の主張が平行線のまま(区も具体的には何もしないまま)、10月頃から工事が始まり、がま池の埋め立ても始まりました。
今年(2002年)に入っても、協議は続いているようですが、工事の方は着々と進んでしまっているようで、30年前の反対運動と同じような終焉を迎えそうな気配になっています。
詳しい経緯等については、運動の中心になっている「麻布山の水系を守る会」のページをご覧下さい。
⇒http://www.beat4u.co.jp/gamaike/
一応断っておくと、「かえるクラブ」としては、別に反対運動を支持しているわけではありません。(反対運動に“反対”というわけでもありません)
もちろん、埋め立て工事そのものが好ましいものだとは思っていませんが、もともとこの池は、外部からまったく見えないようになっていて、がま池を囲んでいるごく一部の人たちの庭池のように存在していたわけで、「憩いの場」だとか「文化財的価値」などという理由には今ひとつ首をかしげざるを得ません。地下水脈への影響といっても、既に湧水は枯れているし、マンション建設会社が、がま池の残った部分を開放する、としていることを考え合わせてみると、部外者として言うべきことはない、と思います。
さて、その紛糾する「がま池」に行ってまいりました。
2002年3月20日。新宿から都営大江戸線に乗って麻布十番駅へ。パキスタン大使館を目標に歩きます。麻布にはやけに坂が多く、「暗闇坂」のように名前が付いた急勾配のものがあったりして、難儀します。
大使館周辺は、高級住宅が並び、日常会話における外国語率が急激に高まります。
場違いな所にいる居心地の悪さに気まずくなりながら、パキスタン大使館の裏にまわると、「←がま池」とある手作り風の張り紙がある、急坂があるので、そこを降りて左手にいくと、マンションの建築現場が見えてきます。
これこそ、サンウッドが建設する6階建てのマンションに違いありません。すべてシートに覆われ、もちろんここからがま池が見えるはずもなく、周りをまわって行くと、周辺に建っている家のあちこちに、「マンション建設反対」の立看板が置いてあります。 |
結構大きいものです。 | | 英語のメッセージが多いのも、この辺りならでは。 | | ストレートなものも |
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しかし、肝心のがま池が覗けるポイントは皆無。現在の状況はよくわかりませんでした。
建設会社の言い分を信じれば、そのうち見る影もなく小さくなったものにせよ、がま池を拝むことが出来るでしょうから、そのときに再度出かけてみることにして、この日はもう一方の痕跡、「上の字様」のお守りの現在を見に行くことにしました。
この文章も、がま池から離れ、蝦蟇が教えた防火のお守り「上の字様」を追いにいきましょう。
[ ⇒次を読む ]
http://www.kaeruclub.jp/report/gamaike/gamaike6.html
■ 上の字様の由来と効能 ■
さて、麻布がま池の大蝦蟇伝説には、防火、火傷のお守り「上の字様」が登場することは、前に見たとおりです。その起源は、蝦蟇の精が教えてくれた、という話と、蝦蟇のおかげで類焼を逃れた山崎家がお札を出したら人気になった、という話と特に一定していません。
なぜ、「上の字様」といわれるかというと、お札にただ一字「上」と書いてあったからだということです。
その効能は・・・
●山崎家火傷の神符
幕府交代寄合山崎主税助の家より出す所の神符あり。上に上の一字を書するを以て、俗に上の字様といふ。過て火傷せる者此神符にて其局部を撫すれば。傷み立處に去り。明治以後山崎家他に移轉の後は當町三十一番地に住する元同家の側用人たりし清水鐡太郎氏の家に於て之を施與する事となれり。今に至るも之を乞ふものあり。
(前掲「新撰東京名所図会」)
火傷をしたところをお札で撫でると、傷みが去る、という薬のようなお札になっています。山崎家で出していたこのお札は、明治維新後、側用人だった清水家から出すことになった、とあります。
その夜殿様の夢枕に、白髪の翁があらわれて『自分は蟇の精であるが、年々人を殺したことは、何とも申訳のない次第で、これからは決してそうしたことはせず、かえって人助けの火防のお札を、この池水でおかきになれば、きっと火事を防いでごらんにいれます。掻堀の儀はお許し下され』といって消え失せてしまったそうです。これが火防のお札、上の字さまの初りです。山崎の殿様も、蟇の精が、夢枕に立った上は、無理にも掻堀をするには及ばないと、御取止めになって、蟇の精がいった火防の御札(後に火傷の御札)をこしらえさせたものです。
御自分がこしらえる訳にはいかないから、御家来の清水さんへやらした、これが清水家々伝の上の字さまとなって、全国から注文が殺到したものです。
(前掲・篠田鉱造「幕末明治 女百話」)
これを持っていると火事にならない、という防火のお札だったんですね。がま池の水で書くと効果を発揮するものだったようです。ここでは、当初から清水家が出していたことになっています。
すなわち山崎家では、この奇事にちなんで防火のお守りと火傷にきく護符を出したところ、非常に人気に投じた。そのお守りやお札は、上部にただ「上」の1字が記してあるのみで、人々は「上の字様」と呼んで、珍重したものという。明治維新ののち山崎家が移転したのちは、同家の家来筋にあたる付近の清水家で頒布することになった。
(前掲・港区の文化財)
「防火のお守り」と、「火傷にきく護符」の二種類を出していることになっています。
お守は熨斗形の小さいもので、表面に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬が付けてあるということです。
(前掲・岡本綺堂「風俗江戸物語」)
具体的に形が書いてあって、興味深い記述ですが、火傷のお守りというより、これは完全に薬ですね。ここまでくるとちょっと眉唾かと。
[ ⇒次を読む ]
http://www.kaeruclub.jp/report/gamaike/gamaike7.html
■ 上の字様のその後 ■
当初、山崎家から出していたのか、清水家から出していたのかはわかりませんが、明治に入ってからは、清水家が出していたのは間違いないようです。ただ、もともとがま池の水を使うところが効能の基本であったはずなのに、がま池が渡辺家の所有になり、清水家がここの水を使えなくなってからは、上の字様もただの井戸水で書かれるようになったとか。そうなってからも売り上げはかなりあったようです。
この辺りの事情は、先ほどから何回も引用しています、篠田鉱造「幕末明治 女百話」に詳しく出ています。
上の字さまの繁昌
この上の字さまについて、お話がありますんで、山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の、山崎さんのお長家だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうにもしようがない。本統をいえば、蟇池の水を、八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札をかくんですが、蟇池を身売されて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を貰いにいけないンですから、井戸水で胡魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰しゃって、帝大へ入った仁ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費がつづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。
モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって、火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が癒るといわれるようになって、大変用い手が殖えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。『ありがたいことにこのお札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業ができるが、ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄い水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これでも大したものだ』とよく話してでした。
後に鉄ちゃんは大学を卒業して、第百銀行へ入り、大層出世をなさいました。支配人となって夭死をされましたが、蟇池の由来と、上の字さまのお札は、古い方は御存知でしょう。近頃上の字さまのお札を、麻布日ヶ窪の末広神社から出していると聞きました。
清水の鉄ちゃんの大学の学資になるくらいですから、結構な額が売れていたわけです。引用した最後の部分で「近頃上の字さまのお札を~」という近頃は、篠田鉱造が聞き書きした当時のことでしょうから、おそらく大正末期か昭和の初めだと思われます。前掲の「港区の文化財」では、お札を末広神社で扱うようになった年を昭和2年としています。
末広神社は、太平洋戦争中に、竹長神社というところに合併され、お札もその頃には既につくっていなかったとのこと。上の字様は戦前でなくなってしまったのでした。
この竹長稲荷が現在の「十番稲荷神社」です。
十番稲荷は、昭和50年代に、地元の人の要望等から蛙のお守りを復活させています。ただ、今は火傷等のお守りではなく、無事カエル系語呂合わせお守りになっているよう。
上の字様の現在を確認しに、麻布の十番稲荷へ行ってまいりました。
十番稲荷は、がま池と同様、都営大江戸線の麻布十番駅からすぐのところにあります。大通りに面して、ビルの谷間にある近代的な佇まいの神社。
七福神巡りといって、七福神のそれぞれが祀ってある堂を巡る巡礼がありますが、ここ十番稲荷は、普通は七福神巡りに入らない、「宝船」の巡礼場所となっています。 |
ちょっと分かり難い場所に、石でできた二体の蝦蟇像があります。「十番稲荷神社」の標識の裏、階段脇のところ。まだまだ新しそうな色合いですが、その姿は非常に堂々としていて、ご利益がありそう。
由来の看板もありました。
昔ある年、古川辺から燃え出した火事に此辺りすべて烏有に帰してしまった時、「がま池」のほとり山崎主税助の屋敷のみ類焼を免れたのは、池中にいた大蛙が口から水をふいて、さしもの猛火を吹き消したとの故事により、山崎家から万人に「上の字」様のお守が授けられました。
その後末広様(当社の前の御社名)を経てわけられていました。
その故事に因んだ「かえる」お守は火防・やけどのお守・無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれております。 |
「何でもかえるお守」というのはちょっと節操がなさすぎるような気がします。が、蛙の御利益は広くて深い!かえるのお守りを手に入れて、幸福をつかもう!ということで、社務所に行ってみると、あるはあるは。かえるのお守りがざくざく。残念ながら財布の都合で、頂くのはつぎの三点のみにしました。
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「六福かえる守」
蛙型の鈴のお守り。幸福かえる、円満かえる、金福かえる、寿福かえる、開福かえる、安福かえる、で六福かえるということだそうです。 |
「かえる文鎮」
これはお守りではありません。文鎮として立派に役を果たしそうなずっしりとした重量感があって、背中には「十番稲荷神社」の文字が浮かび上がっています。 |
「かえる御守」
オーソドックスな形のお守り。かえるの絵がいいなあ。
お守りを入れてくれた袋も一緒に撮影。 |
3点ともそれぞれ袋に入れてくれるのですが、その袋には、赤字で「上 十番稲荷神社」と書かれています。
麻布の大蝦蟇伝説。現在もしぶとく生き残っている、ということを確認した所で、今回のレポートは終了。長々とお付き合い、ありがとうございました。 |
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http://tokyoriver.exblog.jp/13955876
六本木、麻布十番、元麻布の川跡(1)がま池からの流れ
2010年 03月 17日
六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れて古川(渋谷川)に注いでいた小川の痕跡を再訪してきました。東京の水2005revisitedで、5年前にすでに詳しく記事にしていますが、なかなか面白いエリアですので、最新の写真をメインに2005年の写真、1997年の写真も織り交ぜて、何度かに分け、再度紹介してみます。六本木のところは、先日ちょうどブラタモリ最終回でも取り上げられていました。
まずは元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた小流を追ってみよう。
麻布十番から枝上に分かれる谷の一つに、有栖川宮記念公園の南側、谷頭の窪地には江戸時代より有名な「がま池」(「蝦蟇ケ池」)が残っている。「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされており、いくつか伝説が残っている。がま池の由来やその変遷については、
こちらのサイトが詳しい。
明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれている。この時点で池の広さは1600平方メートル。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いている。
「五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より
麻布がま池
現在の池の姿は、googlemapの空中写真で確認できる。池の広さはおよそ600平米。池の北側が埋め立てられ、池の上にせり出すかたちでマンションが建っている。中島はおそらく明治の地図に描かれているのと同じものだ。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまい、現在は、循環水で水面を維持しているようだ。
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山崎治正
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E6%B2%BB%E6%AD%A3
山崎 治正(やまざき はるまさ、文政4年10月1日(1821年10月26日)- 明治9年(1876年)3月6日)は、備中国成羽藩の初代藩主。大和交代寄合表御衆田原本領主平野長興の次男。母は山崎義徳の娘。正室は上杉斉定の娘(離婚)。継室は細川行芬の娘。子に治祇、織田信親(織田信民養子)、治敏、京極寿吉(京極高典養子)、徳子(平野長裕室)。幼名は寿丸。初名は義厚。
山崎氏ははじめ5000石の交代寄合であり、天保6年(1835年)、外伯父山崎義柄の養子となり、その家督を継いだ。同年3月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。天保8年6月18日、初めてお国入りする許可を得る。慶応元年(1865年)2月、農兵隊などを結成し、領内の治安維持をはかった。
明治元年(1868年)閏4月、領内の開拓などで所領が1万2000石に増加したと新政府に申し立てた。同年6月20日、明治新政府はこれを認め、成羽藩の立藩を許可する。明治2年(1869年)正月晦日、隠居し、長男治祇に家督を譲った。以後、竹翁と称した。明治9年(1876年)3月6日に56歳で死去した。墓所は岡山県高梁市の桂巌寺。法号は芳春院殿光岳瑞馨大居士。
治正の屋敷は現在の元麻布二丁目にあり、大きな池があった。文政4年(1821年)の大火では治正の屋敷のみが類焼を免れたが、これはこの池に住むという大ガマが水を吹きかけて類焼を防いだからであるという言い伝えが残っている[1]。これ以降江戸市中の人々は、山崎家に火除けのお守りを乞うようになった。明治維新以降は、近所の末広神社でお札の発給を引き継いだ。
旧山崎邸のガマ池は、明治以降東京の名所の一つに数えられる名所となったが、昭和8年(1933年)にほとんどが埋め立てられ、現在はマンションの敷地内に一部残っている。
最終更新 2014年4月19日
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山崎治祇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E6%B2%BB%E7%A5%87
山崎 治祇(やまざき はるよし、安政2年4月12日(1855年5月27日)- 明治42年(1909年)12月5日)は、備中国成羽藩の第2代藩主。父は初代藩主・山崎治正(治祇は長男)。母は細川行芬の娘。官位は従五位下。志摩守。幼名は寿丸。
明治2年(1869年)正月晦日、父治正の隠居により、家督を継ぐ。同年2月8日、従五位下志摩守に叙任する。同年6月23日、版籍奉還により藩知事となる。同年7月4日、明治天皇に拝謁する。明治4年(1871年)4月10日、藩知事を辞職する。同年4月12日、隠居し、弟の山崎治敏に家督を譲った。明治42年(1909年)12月5日に55歳で死去した。
最終更新 2013年10月27日
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成羽藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%BE%BD%E8%97%A9
成羽藩(なりわはん)は、備中国成羽郷(現在の岡山県高梁市成羽町)周辺を領有した藩。江戸時代の大半は交代寄合(旗本)領であった。藩庁は成羽城(後期は成羽陣屋と呼ばれる)に置かれた。
元和3年(1617年)因幡国若桜藩より山崎家治が3万石で成羽城に入り立藩。寛永15年(1638年)家治は肥後国富岡藩に1万石加増の上、転封となった。
代わって寛永16年(1639年)常陸国下館藩より水谷勝隆が5万石で入封。寛永19年(1642年)勝隆は備中松山藩に移り、成羽藩は廃藩となった。
万治元年(1658年)初代藩主・山崎家治の次男で分家の山崎豊治が交代寄合として5千石で入封し、明治4年(1871年)の廃藩置県までこの地を治めた。幕末の慶応4年(1868年)、義厚(大名となり治正と改名)の代に12746石に高直しがあり、再び立藩した。
廃藩置県で成羽県となり、後、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。山崎家は明治17年(1884年)の華族令で男爵に列している。
山崎家 5千石 (1658年 - 1868年)
- 豊治(とよはる)
- 義方(よしかた)
- 尭治(たかはる)
- 信盛(のぶもり)
- 義俊(よしとし)
- 義苗(よしたね)
- 義徳(よしのり)
- 義高(よしたか)
- 義柄(よしつか)
- 義厚(よしあつ)
山崎家
外様 1万2千石 (1868年 - 1871年)
- 治正(はるまさ)
- 治祇(はるよし)〔従五位下、志摩守〕
- 治敏(はるとし)〔従五位下〕
最終更新 2014年6月24日
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渡辺国武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%9B%BD%E6%AD%A6
渡辺 国武(渡邊 國武、わたなべ くにたけ、1846年3月29日(弘化3年3月3日) - 1919年(大正8年)5月11日)は、日本の官僚、政治家。子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵 渡辺千秋。
1846年(弘化3年)3月3日、信濃国諏訪郡東堀村(後の長野県岡谷市)に諏訪高島藩士の家に生まれた。父政徳は、武士の子が桃の節句に生まれたのでは具合が悪いということで藩庁に端午の節句の5月5日生まれと届けている。両親と早く死別したため、兄の千秋とともに祖母の手によって養育された。10歳の時にコレラにかかるが一命を取り留める。その後、藩校長善館に入り読書や武芸に精進する。当初、同じ信州出身の兵学者佐久間象山に学ぼうと考えたが、象山が暗殺されたため江戸藩邸に勤務しながらフランス語などを学ぶ。1868年(明治元年)京都御所の警備のため藩主諏訪忠礼に従い上洛する。たまたま渡辺が門の警衛に当たっていたときに大久保利通が鑑札無しで御所に入ろうとしたことを拒否したことが機縁となり、その職務忠実ぶりで目をかけられるようになる。
1871年(明治4年)廃藩置県の後、伊那県出仕となる。大久保は当時伊那県知事で同郷の永山盛輝を通じ、千秋、国武兄弟を東京に呼び出して民部省勤務とする。1873年(明治7年)大蔵省租税寮7等、ついで6等出仕となる。渡辺は大蔵卿大隈重信、租税頭松方正義、地租改正局総裁の大久保の下、地租改正に取り組む。
征韓論をきっかけに自由民権運動が全国に澎湃とすると、1876年(明治9年)渡辺は高知県に権県令として派遣される(当時の高知県は現在の徳島県域も含む)。渡辺は内務卿となった大久保にあえて細かい現地の情報を伝えることはせず、1877年(明治10年)西南戦争が勃発し高知県も西郷軍に呼応して挙兵する動きを押さえることに成功する。1878年(明治11年)高知県令に昇るが、翌1879年(明治12年)高知県内の郡合併が内務卿の許可なく行われたとして責めを負って辞任する。
渡辺は京都に引きこもり、その間、英語、フランス語、ドイツ語を学ぶとともに一切経を読破する。1881年(明治14年)明治十四年の政変によって渡辺に期待をかけていた松方正義が参議大蔵卿になり、そのこともあって福岡県令に就任し官界に復帰する。1882年(明治15年)松方によって大蔵省に戻り、調査局長、1886年(明治19年)主計局長を経て、1888年(明治21年)大蔵次官に就任する。
1892年(明治25年)品川弥二郎内相による選挙大干渉によって第1次松方内閣は総辞職した。その後を襲って第2次伊藤内閣が成立する。伊藤博文首相は、組閣に当たり維新の元勲の総出で内閣を組織したが、大蔵大臣には松方前首相の就任が有力視される中で、下馬評を覆す形で渡辺が起用された。1892年11月、第4帝国議会に政府は予算案を提出する。総選挙に勝利した野党は予算案に反対し、軍艦新造費全額削減と予算案の11パーセント減額修正を求め対立する。このときは明治天皇が6年間御内帑金30万円を下賜し建艦費に充てるという和協の詔勅を発布されたため、政府野党ともに矛を収めた。
1900年(明治33年)伊藤博文が立憲政友会を結成すると渡辺は政友会創立委員としてこれを助けた。同年第4次伊藤内閣の蔵相に就任する。渡辺は緊縮財政のため、官業中止、事業の延期、酒税、砂糖税増税を実施しようとする。衆議院は大隈重信の憲政本党の賛成で通過するが、貴族院の反対にあい、明治天皇の詔勅で危機を脱した。しかし、明治34年度および明治35年度予算案編成に当たり、緊縮財政を主張して現在行われているものも含めた全ての公債発行事業の停止を提案した。政府・政友会は緊縮予算の必要性については認めていたが、そのために地方から政友会の代議士に寄せられていた陳情を星亨と原敬が必死に押し留めて現在行われている公債発行事業の完成を優先すると言う党内合意を取り付けた直後の提案であった事から、これに対しては旧憲政党系閣僚だけではなく、西園寺公望や金子堅太郎、末松謙澄ら官僚系閣僚からも非難を受けて閣内で孤立した。第4次伊藤内閣は閣内不統一で総辞職することとなった。このとき渡辺は辞表を奉呈を拒否し、伊藤に辞表撤回を求めたが、衆寡敵せず。内閣総辞職後に諭旨免官となった。
閣内不統一を引き起こしながら、辞表を拒否したことで渡辺は失脚し、事実上政界引退を余儀なくされた。それでも欧米を外遊後、日露戦争前後では対露強硬論を主張、戦争後もポーツマス条約反対を主張した。その後脳卒中の発作を起こし一命を取りとめ、以後麻布の屋敷や伊豆の別荘で静謐な晩年を送った。1919年5月11日死去。73歳。
渡辺は生涯独身を通したため、兄・千秋の三男・千冬を養子に迎えた。千冬は衆議院議員、貴族院議員、司法大臣を歴任している。因みに、孫・武は初代財務官を務めた。
渡辺が独身であった理由として、鳩山和夫の夫人で鳩山一郎の母親、鳩山春子に失恋したためと伝えられている。
最終更新 2013年12月5日
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渡辺慧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%85%A7
渡辺 慧(わたなべ さとし、1910年5月26日 - 1993年10月15日)は、日本の理論物理学者、情報科学者。
●1910年5月26日、東京に生まれる。学習院中等科、東京高等学校を経て、1933年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。在学中に理化学研究所で寺田寅彦の指導を受ける。
●1933年、フランス政府留学生として渡仏、パリでド・ブロイに師事し、熱力学の第二法則と波動力学の研究を始める。
●1937年、ライプツィヒに移り、ハイゼンベルクに原子核理論を師事する。同年、後にドイツ文学者でハワイ大学教授となるドロテア・ダウアーと結婚する。
●1939年、第二次世界大戦の勃発とともにドイツを離れ、コペンハーゲンのボーアの許にしばらく滞在した後、同年12月に家族とともに帰国する。
●以降、理化学研究所員、東京帝国大学第二工学部助教授、立教大学理学部教授を歴任し、第二次世界大戦後の1950年に渡米。
●1956年、IBMワトソン研究所員となり、量子力学を基礎とする独自の情報理論の構築とその応用研究を行う。以降、イェール大学教授、ハワイ大学教授等を歴任するほか、国際時間学会会長、国際科学哲学アカデミー副会長等をつとめる。
●1993年10月15日、東京にて病没する。
なお、父・渡辺千冬は浜口内閣、第二次若槻内閣の司法大臣、兄・渡辺武は大蔵省財務官、アジア開発銀行総裁、子・渡辺元はカリフォルニア大学サンタバーバラ校哲学科教授である。
量子力学の勃興期に渡欧した渡辺は、ド・ブロイ、ハイゼンベルク、ボーア等と直接交わり、処女作『Le deuxième théorème de la thermodynamique et la mécanique ondulatoire(熱力学の第二法則と波動力学)』(1935年)において、熱力学と量子力学の関係を解明し、熱力学におけるエントロピー概念の一般的な定式化を行う。熱力学的な物理現象の不可逆性に対する渡辺の強い関心は、ベルグゾンの哲学等の影響もあって、哲学的視野を含んだ時間の本質に対する探究へと進み、時間論の初期の名著とされる『時間』(1948年)、『時間の歴史 : 物理学を貫くもの』(1973年)、『時間と人間』(1979年)等の一連の著作に結実する。1980年の『生命と自由』では、こうした物理学的・哲学的思索を生命現象にまで推し進め、生命とは自由の追求であると主張する。
一方、エントロピー概念の情報理論への応用可能性に早くから着目した渡辺は、1969年の『Knowing and guessing(知識と推測)』において、人間の知的活動の基本要素である「知ること」と「推測すること」を数理的・定量的手段を用いて分析・再構成し、「認識学(epistemometrics)」を提唱する。また、1985年の『Pattern recognition(パターン認識)』では、知覚を中心とする人間の認識過程を機械と比較し、人間のパターン認識はエントロピー最小化原理に基づく情報の圧縮であることを明らかにする。2つの与件を区別する有限個の述語が与えられたとき、その2つの与件に共通する述語の数は与件の選び方によらず一定であることから、すべての事物は同等の類似性を有することを証明した「みにくいアヒルの子の定理(Theorem of the ugly duckling)」は、述語の重要性を決定するのは人間の価値体系であることを示した点で重要である。
こうした理論的活動にとどまらず、実践的な著作も少なからず発表しており、戦時中においてもリベラリズムを貫き、『科学日本』、『帝大新聞』、『科学人』等の各誌で、戦争に協力した科学者を批判する。また、戦後は『思想の科学』の創立同人に加わるとともに、『中央公論』、『文藝春秋』、『婦人公論』等の各誌で、社会問題・女性問題についても積極的な発言を行った。敗戦直後において、マルクス主義から独立した社会主義論を構想した初期論文集が晩年に出版されている。
語学に堪能で、積極的に海外に活躍の場を見出した渡辺は、「頭脳流出組の初期の一人」とされる一方、「学は一つなり」をモットーとし、哲学、物理学、心理学、情報理論、認知科学、コンピュータ科学等、広汎な領域でコスモロジカルな思索を展開したことから、「ルネサンス人の最後の一人」とも称される。例えば鶴見俊輔のはじめた思想の科学研究会が1946年に発足した当初の、オリジナルメンバー7名の一人でもあった。その知的営為の独創的な先駆性は、今日なお、村上陽一郎等によって高く評価されている。また、家庭生活においては、戦中戦後の困難な時代に、慣れない土地で大変な苦労を強いられながらも、渡辺を支え続けた妻ドロテアを終生愛し、とても子煩悩であったことが知られている。
最終更新 2013年7月19日
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渡邊千冬
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/W/watanabe_chi.html
1876.5.1(明治9)~ 1940.4.18(昭和15)
明治・大正・昭和期の政治家、実業家、子爵
長野県松本出身。父は宮内大臣を務めた伯爵の渡邊千秋、その三男として生まれる。後に叔父で大蔵大臣を務めた子爵の渡邊国武(同墓)が生涯独身で跡取りがいなかったため、養子となり後を継いだ。
幼少の頃は実父の千秋の赴任先について行っていたため、父が鹿児島県令の時には鹿児島の幼稚園に通い過ごした。その後、滋賀、北海道、東京と転々とする。 高校時代は不勉強で成績が悪く、退学問題まで起こしたが、東京帝国大学に入るや、一転し一年で一番となり父親を驚かせたという。 父の千秋、叔父の国武と役人であったため、それを嫌い、大学卒業後、フランスへ留学した。帰国後、電報新聞社主筆や日本製鋼所、北海道炭鉱汽船などの各取締役を務め、日仏銀行東京支店支配人となった。 この頃、養父の国武は大蔵大臣だったが、予算編成を巡って閣内が対立、首相の伊藤博文が内閣不統一を理由に内閣を投げ出し、各閣僚もこれに追随して辞するも、国武だけが反対、このため西園寺公望(8-1-1-16)が臨時首相となり、国武を論旨免官したため、大蔵省を追われ、失意のどん底にあった。 これをみた千冬は、養父の国武の窮状を救うため、実業界を捨て、政界に転進する決意を固めた。
1908(M41)衆議院議員選挙に出馬。四千三百七十三票で三位当選した。満30歳、日本一若い代議士となる。政友会に入党。 しかし、'12総選挙で膨張した政友会が、千冬が地盤として頼みにしていた地域から、地元人を擁立したため、再選への道が断たれ、一期限りで衆議院への出馬をとりやめ、一端、政界から離れた。
千冬は養父の国武が子爵であったため、貴族院での政界復帰の道を考えた。当時の貴族院は(1)皇族、(2)公侯爵、(3)伯子男爵、(4)勅選議員、(5)学士院会員、(6)多額納税議員の六分野から選出され、その定数は350人。 庶民に頭を下げなければ当選出来ない衆議院と違って貴族院は政治力さえ発揮すれば華族議員はたやすく当選できた。'19(T8)国武が没し、後を継いで子爵を襲爵。 翌年、貴族院議員に選ばれ再び政界に乗り出した。衆院の経験を持つ貴族院は数えるほどであったため、千冬はたちまち会派の研究会では幹部におさまった。 '23清浦内閣が誕生したが、軍部大臣以外の閣僚が貴族院で占めたため、「特権内閣」「貴族内閣」と呼ばれた。 これに対し、衆議院は、政友会から分裂した政友本党が内閣を支持したが、それ以外の憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派は組閣の途中から広範な倒閣運動に乗り出した。 この倒閣運動には新聞記者団も加わり、抗議のため貴族院研究会へ乗り込んだことがあった。これに応対したのが幹部の千冬であり、二院制度を認めている日本の憲法をタテにして貴族院の立場を一歩も譲らない対応が、「貴族院の野武士」と評された。 一方、貴族院の中では、階級社会の絶対性、正副議長は公侯議員、会派の幹部もこれらの議員で占めて重要事項を決定、決議拘束主義で他の議員に発言の機会を与えない。 この幹部専制を批判し、院内に貴族院革正運動を起こした。また、清浦内閣を支持した政友本党と連携、政友会に不満を持つ憲政会、新正倶楽部も糾合する政界再編の影武者の役割も演じた。 これが、'27(S2)民政党結成へとこぎつける原動力ともなった。千冬は民政党結成に手をかしたものの、貴族院議員という立場から民政党に加入しなかった。
'29(S4)浜口雄幸が首相となり民政党内閣が発足する際、首相直々にどこの党にも属していない千冬に司法大臣としての入閣を談判した。 当時は昭和恐慌による経営不安定、汚職事件の問題等を抱えており、浜口内閣はこれらをいかに処理するかが政治課題であった。 そこで、どの政党にも所属しておらず、何者にも恐れずに厳正公正に事件処理に当たれる立場を期待して、千冬を司法相に起用し、世の批判を浴びていた汚職・疑獄の徹底的究明を託された。 千冬は期待通り徹底捜査を検察当局に命じ解決していく。司法相在任中に検挙した事件は次のものがあげられる。売勲汚職、私鉄疑獄、越鉄疑獄、毛識疑獄、東京市疑獄事件、朝鮮疑獄。 文相を務めていた小橋一太(16-1-2-2)は越鉄疑獄で検挙され辞職している。浜口首相が凶弾に倒れ総辞職するも、'31第2次若槻内閣が組閣されるも司法相を留任、引き続き汚職の徹底究明に当たった。
'36(S11)現在の国会議事堂が完成したとき、千冬は貴族院の各会派を代表して新議事堂初の記念演説をした。軍国主義の台頭によって編狭な国家主義が横行するなかで、堂々と「知識尊重」をテーマに知識の重要さを述べた。 晩年は、承久の乱(1222)によって19年間にわたり隠岐島に幽閉された後鳥羽上皇の遺跡が荒れ果てているのをみて、隠岐神社の創建を主唱して、完成させた。 また、養父の国武が開発した栃木県太田原市の渡邊農場70ヘクタールを小作人のために全て解放した。'39平沼騏一郎(10-1-1-15)首相より、枢密顧問官に任ぜられた。 同年.10.26勲一等瑞宝章授章。この間、大阪毎日新聞社取締役、関東国粋会総裁を歴任。享年64歳。戒名は大観院殿正法無剣大居士。 子に子爵を継いだ大蔵官僚の渡邊武、理論物理学者の渡邊慧(14-1-3)がいる。
渡邉 武 わたなべ たけし
1906.2.15(明治39)~ 2010.8.23(平成22)
昭和期の大蔵官僚、子爵
東京出身。父は政治家の渡邊千冬。その長男として生まれる。弟は理論物理学者の渡邊慧。祖父は伯爵の渡邊千秋。 大叔父(千冬の養父)は渡邊国武。従弟の渡邊昭はボーイスカウト日本連盟総長。従甥に今上天皇の侍従長を務めた渡邉允がいる。
学習院初等科、東京府立一中、一高を経て、1930(S5)東京帝国大学法学部卒業し、大蔵省に入省した。'40父の千冬が没したため、子爵を授爵した。
戦前は対満事務局への出向、戦後は主に経済・国防政策に携わり、大蔵省企画課長、渉外部長を歴任。 '48.9.24~'49.6.1大蔵省官房長に就任。 '49初代の財務官となった。 '52特命全権(駐米)公使、'56国際通貨基金理事、世界銀行理事。'65大蔵省顧問、'66アジア開発銀行の初代総裁となる。 '68東京銀行顧問、'73日米欧委員会(Trilateral Commission)委員長、'85債券格付け機関の日本格付研究所の初代社長などを務めた。 享年104歳189日。
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