Operation Tomodachi .
We'll never forget your kindness.
Thank you USA! Operation "TOMODACHI".
2011年3月11日の東北大地震及び福島原発事故は米国第35代ジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy) が就任演説した1961年1月20日から、ちょうど50年後であった。
第44代アメリカ合衆国大統領 Barack Hussein Obama, Jr. は1961年8月4日生まれである。
バラク・オバマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E
バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(Barack Hussein Obama, Jr.[2] /bəˈrɑːk huːˈseɪn oʊˈbɑːmə/、1961年8月4日 - )は、アメリカ合衆国の政治家である。民主党所属。上院議員(1期)、イリノイ州上院議員(3期)を歴任。2009年1月20日、第44代アメリカ合衆国大統領に就任した。現職アメリカ合衆国大統領として、2009年にノーベル平和賞を受賞[3]。
アフリカ系[注 1]としてアメリカ合衆国史上3人目となる民選上院議員(イリノイ州選出、2005年 - 2008年[注 2])。また、アフリカ系、1960年代以降生まれ、ハワイ州出身者としてアメリカ合衆国史上初となる大統領である。
President John F. Kennedy, Inaugural Address, 20 January 1961
公開日: 2013/11/24
In the long history of the world, only a few generations have been granted the role of defending freedom in its hour of maximum danger. I do not shrink from this responsibility -- I welcome it. I do not believe that any of us would exchange places with any other people or any other generation. The energy, the faith, the devotion which we bring to this endeavor will light our country and all who serve it. And the glow from that fire can truly light the world.
And so, my fellow Americans, ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.
http://www.jfklibrary.org/JFK/Historic-Speeches/Multilingual-Inaugural-Address/Multilingual-Inaugural-Address-in-Japanese.aspx
Inaugural Address, 20 January 1961
ジョン・F・ケネディ大統領就任演説
米国連邦議会議事堂
ワシントンD.C.
1961年1月20日
ジョンソン副大統領、下院議長、最高裁判所長官、アイゼンハワー大統領、ニクソン副大統領、トルーマン大統領、聖職者諸賢、そして国民の皆さん。
今日のこの日を、政党の勝利ではなく、自由を讃える機会として祝福しましょう。これは終わりと始まりの象徴であり、再生と変革の兆しです。なぜなら、私が先ほど皆さんと全能の神の前で誓った言葉は、我々の父祖がおよそ175年前に定めた厳粛な誓いと同じものだからです。
世界は大きく様変わりしました。今日の我々は、あらゆる形の貧困を撲滅する力と、あらゆる形の人間の生命を根絶させる力の両方を、神ならぬこの手に持っています。しかしながら、かつて我々の父祖がそのために戦った革命的な信条、つまり、人間の権利は国家の寛大さによって与えられるものではなく、神から授けられたものであるという信条は、今もなお世界各地で争点となり続けています。
我々は、その最初の革命の継承者であることを忘れてはなりません。今このとき、この場所から、敵味方の区別なく、すべての人に伝えましょう。たいまつはアメリカの新しい世代に渡されました。20世紀に生まれ、戦争で鍛えられ、苦しく困難な平和に身を置き、古来の伝統に誇りを持つ我々は、人間の権利が徐々に奪われていくのを見過ごすことはできません。人権こそ、この国の変わらぬ関心の対象であり、今日の我々が国の内外を問わず力を注いでいるものです。
すべての国々に知らせましょう。アメリカに好意を持つ国にも、そうでない国にも。我々はあらゆる代償を支払い、あらゆる重荷を担い、あらゆる困難に耐え、すべての友を支え、自由の存続と繁栄を妨げるすべての敵と戦う覚悟であるということを。
我々はこれを固く誓います。そして、それだけにとどまりません。
文化的・精神的な源を共有する古くからの盟友に対し、我々は誠実な友として忠誠を誓います。団結しましょう。我々が何度も協力して取り組めば、できないことはないはずです。分裂していれば、できることはほとんどありません。対立し、ばらばらに分裂した状態では、難しい課題に立ち向かうこともできません。
これから新たに自由主義世界に迎える国々に対しては、植民地支配という1つの形が終わり、その代わりにもっと過酷な鉄の専制が始まるという事態にはならないことを約束します。我々の考えがいつも支持されるとは期待していません。ただ、彼らが自らの自由を強く求めること、そして、虎にまたがって権力を握ろうとする者は結局虎に喰われるという昔からの教訓を忘れないことを願っています。
世界の人口の半分を占める、集団的困窮から抜け出そうと懸命にもがいている人々に対しては、彼らの自助努力を支援すべく最大限の努力をすることを誓います。どれだけ長い期間かかるとしてもです。これは共産主義者がそうしているからでも、票集めを狙っているからでもなく、ただそれが正しいことだからです。もし自由な社会で多数の貧困者を救うことができなければ、少数の富裕者を救うこともできません。
国境の南に位置する同朋諸国に対しては、特別な誓いを立てましょう。有言実行を実践すべく、発展のための新しい同盟を結び、自由な民衆と自由な政府が貧困の連鎖から抜け出せるように尽力することを誓います。しかし、この平和的革命の希望が敵対勢力によって絶たれるようなことがあってはなりません。 すべての近隣諸国に伝えねばなりません。我々は南北アメリカ大陸のどこで侵略行為や政権転覆の企みがあったとしても、それに一致協力して対抗する心構えであるということを。そして、他の大国すべてに知らしめましょう。この大陸は自らの領土を自ら支配するのだということを。
世界中の主権国家の集まりである国連は、戦争の手段が平和の手段をはるかに凌駕しているこの時代において、最後に残された希望の光です。我々は国連をただの罵り合いの場にするのではなく、新しい国や弱い国の盾とするべく努め、国連憲章の及ぶ地域が増えるように力を尽くすことを改めて誓います。
最後に、我々に敵対する国家に対しては、誓約ではなく要請をしたいと思います。双方で新たに平和への道を進もうではないかと。科学によって解き放たれた破壊的な力が、意図的にせよ偶発的にせよ、人類を自滅に追い込む前に。
これは弱さからの要請ではありません。我々の軍備が十分であると確信しているからこそ、どうしても軍備を使用すべきでないと確信できるのです。
しかし現在のあり方では、二大陣営のどちらも安心することはできません。どちらの陣営も近代兵器の費用負担に苦しみ、核兵器の着実な拡散に恐れを抱きながらも、人類の最終戦争を食い止めている不安定な恐怖の均衡を崩そうと競争しているのです。
共に新しく始めようではありませんか。礼儀正しい振る舞いは弱さの証しではなく、誠実さは証明すべきものだということを共に心に刻みながら。 恐怖ゆえに交渉してはなりません。しかし、交渉することを恐れてはなりません。
共に考えましょう。我々が団結できる問題は何かを。互いに意見の異なる問題にいつまでもこだわるのではなく。
共に作り上げましょう。兵器の査察と規制に関する初めての本格的かつ詳細な提言を。そして、他国を破壊できる絶対的な力を、すべての国々の絶対的な管理下に置きましょう。
共に努めましょう。科学の恐怖ではなく科学の素晴らしさを呼び覚ますために。互いに力を合わせ、宇宙を探査し、砂漠を征服し、病気を根絶し、深海を開発し、芸術と商業を奨励しましょう。
共に手を取りましょう。預言者イザヤが語った、「くびきの結び目をほどいて虐げられた人を解放し」という言葉が地球上のあらゆる場所で聞かれるように。
そして、もしも双方の協力を足がかりとして不信感を拭うことができたら、新たな勢力均衡を図る代わりに、共に新しい試みに取り組みましょう。それは、法に基づく新しい世界、つまり強い者が法を守り、弱い者が保護され、平和が維持されている世界を作ることです。
このすべてを、最初の100日間で達成することはできないでしょう。1000日でも難しいでしょうし、この在任期間中、あるいはこの地上に我々が生きている間には達成できないかもしれません。それでも、始めようではありませんか。
国民の皆さん、我々の進む道が最終的に成功するか失敗するかは、私自身よりも皆さんにかかっています。建国以来、アメリカの各世代の人々は国家への忠誠の証しとして召集を受けてきました。この召集に応えた若者たちの墓が世界各地に点在しています。
今、我々を召集するラッパが再び鳴り響いています。これは、武器を取れという合図ではありません。戦いの合図でもありません。ただ、我々は武器を用意し、陣容を整えておく必要があります。これは、長く先の見えない戦いの重荷を担えという呼びかけなのです。来る年も来る年も、希望をもって喜びとし、苦難を耐え忍びながら、人類共通の敵である虐政、貧困、病気、そして戦争そのものとの戦いを貫く覚悟が求められています。
これらの敵に対し、世界の東西南北にわたる大同盟を組んで当たり、すべての人の暮らしをいっそう実り豊かなものにすることはできないでしょうか。この歴史的な試みに、皆さんもご参加いただけないでしょうか。
世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機に晒されているときに、それを守る役回りを与えられた世代というのは多くありません。私はこの責任を恐れず、喜んで受け入れます。おそらく皆さんも、この役目を他の誰かや他の世代に譲りたいとは思わないでしょう。我々がこの取り組みに注ぎ込む精力と信念、そして献身的な努力は、この国とこの国に奉仕する人々を明るく照らし、その情熱の光は世界を輝かせるはずです。
そして、同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。
また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。
最後に、アメリカ市民の皆さんも世界市民の皆さんも、どうぞ我々が皆さんに求めるのと同じ水準の熱意と犠牲を我々に求めてください。良心の喜びを唯一の確かな報酬とし、歴史が我々の行いに正しい審判を下してくれることを信じて、この愛する世界を導いていこうではありませんか。神の祝福とご加護を願いつつ、この地上で神の御業が真に我々のものになることを念じて。
Inaugural Address, 20 January 1961
http://www.jfklibrary.org/Asset-Viewer/BqXIEM9F4024ntFl7SVAjA.aspx
Governor Stevenson, Senator Johnson, Mr. Butler, Senator Symington, Senator Humphrey, Speaker Rayburn, Fellow Democrats, I want to express my thanks to Governor Stevenson for his generous and heart-warming introduction.
It was my great honor to place his name in nomination at the 1956 Democratic Convention, and I am delighted to have his support and his counsel and his advice in the coming months ahead.
With a deep sense of duty and high resolve, I accept your nomination.
I accept it with a full and grateful heart--without reservation-- and with only one obligation--the obligation to devote every effort of body, mind and spirit to lead our Party back to victory and our Nation back to greatness.
I am grateful, too, that you have provided me with such an eloquent statement of our Party's platform. Pledges which are made so eloquently are made to be kept. "The Rights of Man"--the civil and economic rights essential to the human dignity of all men--are indeed our goal and our first principles. This is a Platform on which I can run with enthusiasm and conviction.
And I am grateful, finally, that I can rely in the coming months on so many others--on a distinguished running-mate who brings unity to our ticket and strength to our Platform, Lyndon Johnson--on one of the most articulate statesmen of our time, Adlai Stevenson--on a great spokesman for our needs as a Nation and a people, Stuart Symington--and on that fighting campaigner whose support I welcome, President Harry S. Truman-- on my traveling companion in Wisconsin and West Virginia, Senator Hubert Humphrey. On Paul Butler, our devoted and courageous Chairman.
I feel a lot safer now that they are on my side again. And I am proud of the contrast with our Republican competitors. For their ranks are apparently so thin that not one challenger has come forth with both the competence and the courage to make theirs an open convention.
I am fully aware of the fact that the Democratic Party, by nominating someone of my faith, has taken on what many regard as a new and hazardous risk--new, at least since 1928. But I look at it this way: the Democratic Party has once again placed its confidence in the American people, and in their ability to render a free, fair judgment. And you have, at the same time, placed your confidence in me, and in my ability to render a free, fair judgment--to uphold the Constitution and my oath of office--and to reject any kind of religious pressure or obligation that might directly or indirectly interfere with my conduct of the Presidency in the national interest. My record of fourteen years supporting public education--supporting complete separation of church and state--and resisting pressure from any source on any issue should be clear by now to everyone.
I hope that no American, considering the really critical issues facing this country, will waste his franchise by voting either for me or against me solely on account of my religious affiliation. It is not relevant. I want to stress, what some other political or religious leader may have said on this subject. It is not relevant what abuses may have existed in other countries or in other times. It is not relevant what pressures, if any, might conceivably be brought to bear on me. I am telling you now what you are entitled to know: that my decisions on any public policy will be my own--as an American, a Democrat and a free man.
Under any circumstances, however, the victory we seek in November will not be easy. We all know that in our hearts. We recognize the power of the forces that will be aligned against us. We know they will invoke the name of Abraham Lincoln on behalf of their candidate--despite the fact that the political career of their candidate has often seemed to show charity toward none and malice for all.
We know that it will not be easy to campaign against a man who has spoken or voted on every known side of every known issue. Mr. Nixon may feel it is his turn now, after the New Deal and the Fair Deal--but before he deals, someone had better cut the cards.
That "someone" may be the millions of Americans who voted for President Eisenhower but balk at his would be, self-appointed successor. For just as historians tell us that Richard I was not fit to fill the shoes of bold Henry II--and that Richard Cromwell was not fit to wear the mantle of his uncle--they might add in future years that Richard Nixon did not measure to the footsteps of Dwight D. Eisenhower.
Perhaps he could carry on the party policies--the policies of Nixon, Benson, Dirksen and Goldwater. But this Nation cannot afford such a luxury. Perhaps we could better afford a Coolidge following Harding. And perhaps we could afford a Pierce following Fillmore. But after Buchanan this nation needed a Lincoln--after Taft we needed a Wilson-- after Hoover we needed Franklin Roosevelt. . . . And after eight years of drugged and fitful sleep, this nation needs strong, creative Democratic leadership in the White House.
But we are not merely running against Mr. Nixon. Our task is not merely one of itemizing Republican failures. Nor is that wholly necessary. For the families forced from the farm will know how to vote without our telling them. The unemployed miners and textile workers will know how to vote. The old people without medical care--the families without a decent home--the parents of children without adequate food or schools--they all know that it's time for a change.
But I think the American people expect more from us than cries of indignation and attack. The times are too grave, the challenge too urgent, and the stakes too high--to permit the customary passions of political debate. We are not here to curse the darkness, but to light the candle that can guide us through that darkness to a safe and sane future. As Winston Churchill said on taking office some twenty years ago: if we open a quarrel between the present and the past, we shall be in danger of losing the future.
Today our concern must be with that future. For the world is changing. The old era is ending. The old ways will not do.
Abroad, the balance of power is shifting. There are new and more terrible weapons--new and uncertain nations--new pressures of population and deprivation. One-third of the world, it has been said, may be free- -but one-third is the victim of cruel repression--and the other one- third is rocked by the pangs of poverty, hunger and envy. More energy is released by the awakening of these new nations than by the fission of the atom itself.
Meanwhile, Communist influence has penetrated further into Asia, stood astride the Middle East and now festers some ninety miles off the coast of Florida. Friends have slipped into neutrality--and neutrals into hostility. As our keynoter reminded us, the President who began his career by going to Korea ends it by staying away from Japan.
The world has been close to war before--but now man, who has survived all previous threats to his existence, has taken into his mortal hands the power to exterminate the entire species some seven times over.
Here at home, the changing face of the future is equally revolutionary. The New Deal and the Fair Deal were bold measures for their generations--but this is a new generation.
A technological revolution on the farm has led to an output explosion--but we have not yet learned to harness that explosion usefully, while protecting our farmers' right to full parity income.
An urban population explosion has overcrowded our schools, cluttered up our suburbs, and increased the squalor of our slums.
A peaceful revolution for human rights--demanding an end to racial discrimination in all parts of our community life--has strained at the leashes imposed by timid executive leadership.
A medical revolution has extended the life of our elder citizens without providing the dignity and security those later years deserve. And a revolution of automation finds machines replacing men in the mines and mills of America, without replacing their incomes or their training or their needs to pay the family doctor, grocer and landlord.
There has also been a change--a slippage--in our intellectual and moral strength. Seven lean years of drouth and famine have withered a field of ideas. Blight has descended on our regulatory agencies--and a dry rot, beginning in Washington, is seeping into every corner of America--in the payola mentality, the expense account way of life, the confusion between what is legal and what is right. Too many Americans have lost their way, their will and their sense of historic purpose.
It is a time, in short, for a new generation of leadership--new men to cope with new problems and new opportunities.
All over the world, particularly in the newer nations, young men are coming to power--men who are not bound by the traditions of the past--men who are not blinded by the old fears and hates and rivalries-- young men who can cast off the old slogans and delusions and suspicions.
The Republican nominee-to-be, of course, is also a young man. But his approach is as old as McKinley. His party is the party of the past. His speeches are generalities from Poor Richard's Almanac. Their platform, made up of left-over Democratic planks, has the courage of our old convictions. Their pledge is a pledge to the status quo--and today there can be no status quo.
For I stand tonight facing west on what was once the last frontier. From the lands that stretch three thousand miles behind me, the pioneers of old gave up their safety, their comfort and sometimes their lives to build a new world here in the West. They were not the captives of their own doubts, the prisoners of their own price tags. Their motto was not "every man for himself"--but "all for the common cause." They were determined to make that new world strong and free, to overcome its hazards and its hardships, to conquer the enemies that threatened from without and within.
Today some would say that those struggles are all over--that all the horizons have been explored--that all the battles have been won-- that there is no longer an American frontier.
But I trust that no one in this vast assemblage will agree with those sentiments. For the problems are not all solved and the battles are not all won--and we stand today on the edge of a New Frontier--the frontier of the 1960's--a frontier of unknown opportunities and perils-- a frontier of unfulfilled hopes and threats.
Woodrow Wilson's New Freedom promised our nation a new political and economic framework. Franklin Roosevelt's New Deal promised security and succor to those in need. But the New Frontier of which I speak is not a set of promises--it is a set of challenges. It sums up not what I intend to offer the American people, but what I intend to ask of them. It appeals to their pride, not to their pocketbook--it holds out the promise of more sacrifice instead of more security.
But I tell you the New Frontier is here, whether we seek it or not. Beyond that frontier are the uncharted areas of science and space, unsolved problems of peace and war, unconquered pockets of ignorance and prejudice, unanswered questions of poverty and surplus. It would be easier to shrink back from that frontier, to look to the safe mediocrity of the past, to be lulled by good intentions and high rhetoric--and those who prefer that course should not cast their votes for me, regardless of party.
But I believe the times demand new invention, innovation, imagination, decision. I am asking each of you to be pioneers on that New Frontier. My call is to the young in heart, regardless of age--to all who respond to the Scriptural call: "Be strong and of a good courage; be not afraid, neither be thou dismayed."
For courage--not complacency--is our need today--leadership--not salesmanship. And the only valid test of leadership is the ability to lead, and lead vigorously. A tired nation, said David Lloyd George, is a Tory nation--and the United States today cannot afford to be either tired or Tory.
There may be those who wish to hear more--more promises to this group or that--more harsh rhetoric about the men in the Kremlin--more assurances of a golden future, where taxes are always low and subsidies ever high. But my promises are in the platform you have adopted--our ends will not be won by rhetoric and we can have faith in the future only if we have faith in ourselves.
For the harsh facts of the matter are that we stand on this frontier at a turning-point in history. We must prove all over again whether this nation--or any nation so conceived--can long endure--whether our society--with its freedom of choice, its breadth of opportunity, its range of alternatives--can compete with the single-minded advance of the Communist system.
Can a nation organized and governed such as ours endure? That is the real question. Have we the nerve and the will? Can we carry through in an age where we will witness not only new breakthroughs in weapons of destruction--but also a race for mastery of the sky and the rain, the ocean and the tides, the far side of space and the inside of men's minds?
Are we up to the task--are we equal to the challenge? Are we willing to match the Russian sacrifice of the present for the future--or must we sacrifice our future in order to enjoy the present?
That is the question of the New Frontier. That is the choice our nation must make--a choice that lies not merely between two men or two parties, but between the public interest and private comfort--between national greatness and national decline--between the fresh air of progress and the stale, dank atmosphere of "normalcy"--between determined dedication and creeping mediocrity.
All mankind waits upon our decision. A whole world looks to see what we will do. We cannot fail their trust, we cannot fail to try.
It has been a long road from that first snowy day in New Hampshire to this crowded convention city. Now begins another long journey, taking me into your cities and homes all over America. Give me your help, your hand, your voice, your vote. Recall with me the words of Isaiah: "They that wait upon the Lord shall renew their strength; they shall mount up with wings as eagles; they shall run and not be weary."
As we face the coming challenge, we too, shall wait upon the Lord, and ask that he renew our strength. Then shall we be equal to the test. Then we shall not be weary. And then we shall prevail.
Thank you.
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Thank you USA! Operation "TOMODACHI".
Operation Tomodachi
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Tomodachi
Operation Tomodachi (トモダチ作戦 Tomodachi Sakusen?, lit. "Operation Friend(s)") was a United States Armed Forces assistance operation to support Japan in disaster relief following the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami. The operation took place from 12 March to 4 May 2011; involved 24,000 U.S. servicemembers, 189 aircraft, and 24 naval ships; and cost $90 million.[1]
Bases and commands
Yokota Air Base in Fussa, western Tokyo, is the Operational Command center, and furthermore functions as the aviation hub due to the washout of the Sendai Airport by the tsunami.
Kadena Air Base, Okinawa is the hub of airpower in the Pacific.
Marine Corps Air Station Futenma
Marine Corps Air Station Iwakuni, operated as an aviation hub for many aircraft traveling to northern installations.
Camp Fuji
Misawa Air Base, Aomori Combined services and JDF
Naval Air Facility Atsugi, Kanagawa Prefecture home of CVW-5 and Fleet Air Wing 4 of the JDF
Camp Zama is the home of U.S. Army Japan and I Corps (Forward)
Sasebo Naval Base in Nagasaki Prefecture, USS Essex (LHD-2) and its Expeditionary Strike Group
Yokosuka Naval Base inside of Tokyo Bay, is home to the 7th Fleet, comprising 11 War Ships, Including the USS George Washington (CVN-73) and Command Ship USS Blue Ridge (LCC-19).
Task Force Fuji Camp Fuji Marines and Sailors
Camp Courtney, Okinawa, operated as the communications post between Okinawa and mainland Japan
Joint operations
Col. Stephen Bissonnette, deputy commander of the 353rd SOG stated that "[T]he devastation caused by the earthquake is truly heartbreaking...As part of coordinated relief efforts, the group will work tirelessly with our Japanese counterparts and other relief organizations to help the people affected by the earthquake recover..." The US aid efforts are conducted under the direction of Japanese government or military authorities.[2]
The United States Navy quickly moved 10 naval vessels closer to Japan to provide aid.[3] Aircraft from two VR (Navy Transport Squadron) units were already in theatre during the earthquake at NAF Atsugi. These aircraft a C-130, and a C-40 were ready at the exact moment of need. VR62's C-130 delivered 127 tons of material to aid in relief efforts, VR58's C-40 delivered 366,000 pounds of food and water as well as moving 1400 passengers.[4][broken citation] Fleet Logistics Support Wing Surged aircraft from eight more squadrons that also assisted (VR52, VR53, VR54, VR55, VR56, VR57, VR61, VR64).[5][not in citation given] The aircraft carrier USS Ronald Reagan (CVN-76) and its battle group were moved to the east coast of Honshu. As well as the group's own helicopters, the Ronald Reagan served as a refuelling platform for Japan Self-Defense Forces helicopters.[6] C-2 Greyhound aircraft assigned to VRC-30 and attached to CVW-14 and CVW-5 ferried over 100 tons of food, water, blankets, clothing, and medical supplies from NAF Atsugi to USS Ronald Reagan for distribution by helicopter to local sites in Japan.[7]
Yokota Air Base was used in the aftermath of the earthquake as a landing field for commercial flights as Tokyo Narita Airport was closed.[8] The Navy helicopters based at Naval Air Facility Atsugi and elsewhere were made available for search and rescue immediately after the tsunami, including searching off-shore debris fields[8] and later assisted with food drops.[9] P-3 Orion aircraft were used to do damage surveys.[8] Amphibious landing craft and utility landing craft (LCUs) were used to deploy U.S and Japanese troops and supplies to areas where docks were damaged. Japan electrical company trucks were also moved by U.S. LCUs from USS Essex (LHD-2), notably to Oshima Island.[10]
Japanese citizens form a human chain to unload supplies from a U.S. helicopter.
USS Blue Ridge (LCC-19), which had just arrived in Singapore at the time of the earthquake, was loaded with relief supplies and prepared to sail for Japan.[12]
USS Tortuga (LSD-46), an amphibious dock ship embarked two MH-53E Heavy Lift Helicopters assigned to HM-14 DET 1 stationed in Pohang South Korea. The entire Det was on board Tortuga less than 18 hours after the earthquake and tsunami hit. Tortuga transported 800 Japanese civil defense workers from the island of Hokkaido to Honshu with 90 vehicles.[13][not specific enough to verify]
Military Sealift Command ships also took part in the operation by transferring relief supplies and fuel to other supporting ships. The ships that took part in the operation were: USNS Carl Brashear (T-AKE 7), USNS Pecos (T-AO 197),USNS Rappahannock (T-AO 204), USS Matthew Perry (T-AKE 9), USNS Bridge (T-AOE 10)[14]
USNS Safeguard (T-ARS-50), which was stationed at U.S. Fleet Activities Sasebo, arrived at Hachinohe, Japan with Explosive Ordnance Disposal Mobile Unit 5 and Underwater Construction Team 2 to clear wreckage from a local commercial channel.[15][16]
During the operation the 7th Fleet flew 160 search and relief sorties for 1,100 flight hours, delivered 260 tons of relief supplies, and helped clear the ports of Hachinohe, Aomori, Miyako, Iwate, and Kesennuma, Miyagi.[17]
In total 130 aircraft, 12,510 personnel and over 16 American naval ships took part in Operation Tomodachi, including USS Ronald Reagan (CVN-76), USS Chancellorsville (CG-62), USS Cowpens (CG-63), USS Shiloh (CG-67), USS John S. McCain (DDG-56), USS Fitzgerald (DDG-62), USS McCampbell (DDG-85), USS Preble (DDG-88), USS Mustin (DDG-89), USS Germantown (LSD-42), USS Tortuga (LSD-46), USS Harpers Ferry (LSD-49), USS Essex (LHD-2), USS Blue Ridge (LCC-19), USNS Safeguard (T-ARS-50).[18][19]
Radiologic incidents
The US Navy dispatched aircraft carrier USS Ronald Reagan and other vessels which flew a series of helicopter operations. A spokesman for U.S. 7th Fleet naval personnel stated that monitoring equipment indicated that the warship had been exposed to radiation. Separate hand-held equipment also picked up the contamination on 17 crew members, who had participated in rescue operations. Commander Jeff Davis said that the exposure was low enough that after the crew washed with soap and water, follow-up tests were negative. Davis characterized the exposure as comparable to routine civilian activities and reiterated the US Navy's commitment to the relief operation.[20] As a precaution, the aircraft carrier was repositioned farther offshore, away from the downwind direction of the plant and decontaminated. Several helicopters were also decontaminated after returning from flights. One helicopter made a landing at Fukushima Airport after experiencing rotor icing and exposed some Australian and New Zealand search and rescue team members to low levels of radiation.
Radiation precautions were taken at U.S. bases, including USS George Washington leaving port at Yokosuka after very low levels of radiation were detected there. Part of its air complement moved to Misawa Air Base to support relief operations.[21]
Years after the incident, servicemen who were part of the operation reported various types of radiation sickness, including cancers, thyroid disease, uterine bleeding and other ailments. 51 crew members are suing the Tokyo Electric Power Co., which operates the Fukushima Daiichi energy plant. [22]
Marine Corps
United States Marine Corps facilities in Japan escaped major damage, with no reported casualties.[23][24] This intact infrastructure allowed Marines from III Marine Expeditionary Force and Marine Corps Base Camp Smedley D. Butler to mobilize aid quickly.[25][26][not specific enough to verify]
Marines based at Marine Corps Air Station Futenma moved command and control teams and systems to NAF Atsugi.[3] Eight KC-130Js from VMGR-152 and eight CH-46E and four CH-53 Super Stallions transport helicopters from HMM-265, all from MCAS Futenma, were made available to transport rescue teams and equipment, as well as provide search and rescue.[3]
The 31st Marine Expeditionary Unit responded to Northern Japan from Malaysia and Indonesia, where the unit was conducting Theater Security Cooperation exercises. The 31st MEU delivered relief supplies to five cities, one island and one Japanese ship. More than 164,000 pounds of food and relief supplies were delivered, along with thousands of gallons of water. Elements of the 31st MEU, including Combat Logistics Battalion 31, 2nd Battalion 5th Marines went ashore on Oshima Island to deliver critical supplies and assist in debris removal.
MV Westpac Express, a civil-registered fast ferry chartered by the Marine Corps, was made available to transport equipment from Okinawa to Honshu.[3] Westpac Express made two sorties in support of Operation Tomodachi. The ship moved 450 tons of cargo, including 7-ton trucks, fuel tankers, generators and water tanks from Okinawa to Iwakuni, Japan, arriving 15 March. On 20 March, Westpac Express loaded 226 pallets of bottled water at Pohang, ROK, off-loading at Iwakuni the next day.[14]
Marines move from Okinawa aboard a KC-130
Air Force
A United States Air Force KC-135 Stratotanker arrived at Misawa Air Base on 14 March with the first batch of relief workers and 50 civil engineers from Kadena Air Base.[27]
Two C-17A Globemaster cargo aircraft from Joint Base Lewis-McChord were made available to transport rescue teams and equipment.[3] A Global Hawk unmanned aerial vehicle was deployed from Guam for damage assessments.[8]
Air base
Yokota Air Base is the hub for air operations from which cleanup crews were dispatched to clean up Sendai airport. At a Town Hall meeting, the Commander of the 374th Air Wing USAF presented an overview of joint forces operations in support of the Japanese and emphasized teamwork between various players. He stated that "we are very blessed" to be in the nation of Japan because it has a highly sophisticated set of technologies to minimize the damage but that the personnel, logistic and financing problems were formidable.
He repeatedly asserted that the situation is "eminently controllable" in part due to highly experienced personnel available for various contingencies. US military personnel stationed at the Air Base expressed interest in making cash donations – in dollars or yen – to the American Red Cross and other organizations working in the Japanese relief effort.[28]
Cub Scouts
Cub Scout Pack 49 of Yokota Air Base has a brotherhood with a local Japanese pack called Kiyose. The boys of Kiyose have asked Pack 49 to gather donations to help out the children impacted by the tsunami, needing simple school supplies, pencils, rulers, scissors etc.[citation needed]
Army
Several Sikorsky UH-60 Black Hawk helicopters from the U.S. Army Japan Aviation Detachment have been made available for relief efforts. A disaster assessment team from I Corps (United States) Forward departed Camp Zama and arrived in northeastern Japan on 14 March to assist in relief and humanitarian operations as well as set up a forward logistics base for supplies.[29] A 59-member logistics team from Sagamihara General Depot helped reopen Sendai Airport.[8]
Operation Pacific Passage
Over 7,000 family members of U.S. service members in Japan were voluntarily evacuated in March to Seattle Tacoma Airport and Travis Air Force Base in the U.S. during Operation Pacific Passage.[30] Concerns over the uncertainty of the radiation situation and reducing the burden of supporting families while conducting relief operations and the related troop movements lead to the relocation program.
Interagency collaboration
With Yokota Air Base available, US Office of Foreign Disaster Assistance sent Urban Search and Rescue California Task Force 2 and Virginia Task Force 1.[31] Two urban search and rescue teams arrived at the pending merger with a 60 member/two-dog team from the UK. On 3/16, a RAAF C-17 Globemaster III landed on Kadena's flight line. USAF personnel assisted Royal Australian Air Force and Japan Ground Self Defense Force to load supplies and fly to mainland Japan.[32][not specific enough to verify]
Timeline
11 March 2011
Four Marine KC-130J Aircraft from VMGR-152 deployed from MCAS Futenma to the Japanese Mainland to support relief operations. About a hundred airmen and three MC-130P Combat Shadows, with 19 maintenance personnel, from the 353rd Special Operations Group deployed on 12 March, one day after the earthquake. Col. Stephen Bissonnette, deputy commander of the 353rd SOG stated that "[T]he devastation caused by the earthquake is truly heartbreaking...As part of coordinated relief efforts, the group will work tirelessly with our Japanese counterparts and other relief organizations to help the people affected by the earthquake recover..."[33]
13 March 2011
Four additional Marine KC-130J aircraft from VMGR-152 deployed from MCAS Futenma along with nearly 80 maintainers, effectively relocating the squadron to the Japanese Mainland. Eight Marine CH-46E helicopters from HMM-265 deployed to NAS Atsugi to begin relief operations. A USAF KC-135 Stratotanker arrived at Misawa Air Base on Sunday with the first batch of relief workers and 50 civil engineers from Kadena Air Base.[27]
Two US urban search and rescue teams arrived from Fairfax County, Virginia and Los Angeles County, California with a total of 140 rescuers and 14 rescue dogs. The teams merged with a 63 member search and rescue team from the UK. The combined US-UK operation deployed to the town of Sumita, Iwate to set up a base of operations.[34] The teams performed daily search and rescue missions in the cities of Ofunato and Kamaishi for five days until departing for home.
Members of the U.S. Navy Reserve Detachment 105 were joined by six members of the Defense Threat Reduction Agency (DTRA) Liaison (LNO) and Consequence Management Advisory Team (CMAT). These two elements formed the initial core of the United States Forces Japan (USFJ) Radiological Consequence Management Team (RCMT) whose mission was to advise Lieutenant General Burton Field Commander USFJ on matters related to the nuclear fuel cycle, potential hazards, and potential mitigation of a radiological incident. DTRA Liaison and CMAT personnel were among the first U.S. personnel to visit the TEPCO response site (J-Village) located a few kilometers from the Fukushima Diachi reactor. DTRA personnel also established relationships TEPCO engineering and management deconflicting information for the U.S. Ambassador and United States Forces Japan Commander.
HM-14 DET 1 rapidly deploys to assist in relief efforts on board USS Tortuga. The 18th Civil Engineer Squadron also arrived at Misawa Air Base for Operation Tomodachi.
14 March 2011
The Yokota Town Hall Meeting was conducted in which personnel and their families were reassured that the problems, though formidable, were manageable given the highly qualified Japanese, US, and international personnel on the scene. There was an assurance that there would be daily monitoring of radiation levels. Many of the service men and women expressed interest in making financial contributions through the Red Cross.[28]
15 March 2011
Work continued to re-establish a workable landing strip at Sendai Airport. Kadena AFB personnel restored minimal power at Misawa to Air Force personnel, still pending Navy power restoration.[35] The USS George Washington was docked for maintenance in Yokosuka, about 175 miles (280 kilometers) from the plant, when instruments detected the radiation at 7 am Tuesday (6 p.m. ET Monday).
16 March 2011
Rear Admiral Wren, the Commander, US Naval Forces Japan, sent out a letter advising personnel to limit outdoor activity at Fleet Activities Yokosuka and Naval Air Facility Atsugi due to newly developing, low level radiation.[36]
17 March 2011
The Pentagon said Thursday that it was sending more specialized aircraft to evaluate nuclear contamination at and around the Fukushima site, including a WC-135, Constant Phoenix from Offutt Air Force Base to take air samples, which aircraft had formerly been used as a sniffer with regard to North Korean nuclear weapons testing.[37][38]
Carrier Air Wing-5 was relocated from NAF Atsugi to Andersen Air Force Base in Guam temporarily, what the Navy calls a "force posture adjustment" for Operation Tomodachi. The air wing's SH-60 helicopters from HS-14 and HSL-51 and C-2 Greyhound from Fleet Logistics Support Squadron 30 Det. 5 remained behind in support of the operation.[39][40][41] As a precaution, the navy has also stopped moving its personnel to Japan as well.[42]
According to NPR, unmanned Global Hawk drones and old U-2 were also deployed and along with a planning team from the U.S. Northern Command in Colorado.[43]
23 March 2011
Navy officials halted air operations from USS Ronald Reagan temporarily on Wednesday so they could decontaminate the ship from the radiation the ship received. While the radiation did not pose any significant health risk, "it needed to go away," Cmdr. Ron Rutan, chief engineer for the Reagan.[44][45][46]
25 March 2011
Mississippi and Alabama National Guard forces joined those from Kentucky and Guam to assist with Operation Tomodachi.[47][48]
500,000 gallons of fresh water has been provided from the US Navy to support cooling efforts at the Fukushima Daiichi nuclear power plant.[49]
1 May 2011
US troops will begin to withdraw from the Tohoku coastline and return to their bases, and the US-Japan Joint Cooperation Center in Sendai has closed down.[50] While it will continue to airlift personnel and supplies as needed, the work on the ground will be handed over to the Japanese Self-Defence Forces.[51]
4 May 2011
Marines from the Consequence Management Support Force return to Okinawa from mainland Japan 4 May, representing the departure of the last major element of the III Marine Expeditionary Force deployed to mainland in support of Operation Tomodachi.[52]
4 September 2012
United States Department of Defense releases location-based radiation dose estimates for U.S. personnel involved in Operation Tomodachi on the Environmental Health Surveillance Registries website.[53][54]
Clean-up efforts
US troops assisted Japanese government workers in cleaning up debris and rubble left by the tsunami.[55]
Effect on Japan–US relations
The disaster may have also brought a diplomatic opening to Japan. The support provided by the US illustrated the value of the relationship between the two countries.[56][57] It was commented that the level of support provided by the US for relief operations will probably assuage tension over base relocation disputes between the governments of the two nations.[58] The Yomiuri Shimbun reported that the "coordinated relief activities at the disaster sites are expected to deepen the Japan-U.S. alliance."[59][60]
On 4 April 2011, Japan's minister of defense, Toshimi Kitazawa, accompanied by US ambassador to Japan John Roos, visited the Ronald Reagan to thank its crew for its assistance as part of Operation Tomodachi. Said Kitazawa, "I have never been more encouraged by and proud of the fact that the United States is our ally."[61]
On 10 April 2011, Japan's Prime Minister, Naoto Kan, visited Camp Sendai to talk to U.S. service members. The prime minister spoke of the immediate response of the U.S. military and expressed his belief that the joint efforts between the U.S. military, and the JGSDF will only strengthen the bonds between the Japanese people and the United States.[62]
A nationwide survey conducted in Japan from September to October 2011 found that an all-time high of 82 percent felt friendly feelings towards the US. Japan's Foreign Ministry attributed the number to the effects of Operation Tomodachi.[63]
See also
Humanitarian response to the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami
Fukushima I nuclear accidents
International reaction to Fukushima I nuclear accidents
External links
Amidst Trial, Ties That Bind: Enduring Strength in the U.S.-Japan Alliance – An updated account of U.S. Armed Forces activities currently supporting Japan in disaster relief.
The Military Foundations of U.S. Disaster Assistance in Japan, an interview with Admiral Thomas B. Fargo on U.S. military aid to Japan
Q+A: What's the U.S. military doing in Japan?
This page was last modified on 2 January 2014
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Humanitarian response to the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami
http://en.wikipedia.org/wiki/Humanitarian_response_to_the_2011_T%C5%8Dhoku_earthquake_and_tsunami
以下抜粋:
Following the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami, Japan received messages of condolence and offers of assistance from a range of international leaders. According to Japan's foreign ministry, 116 countries and 28 international organizations had offered assistance to Japan. The magnitude of the earthquake was estimated at 9.0.[1] This article is a list of charitable and humanitarian responses to the disaster from governments and non-governmental organizations. As of March 2012, donations to areas affected by the disaster totaled ¥520 billion and 930,000 people have assisted in disaster recovery efforts.[2]
The list of the top 20 donating countries
1. United States – 2.99 billion yen (approx. $30.3 million)
2. Taiwan – 2.92 billion yen ($29.6 million)
3. Thailand – 2.05 billion yen ($20.8 million)
4. Oman – 1.07 billion yen ($10.8 million)
5. China – 910 million yen ($9.2 million)
6. Algeria – 830 million yen ($8.4 million)
7. Vietnam – 780 million yen ($7.9 million)
8. United Kingdom – 780 million yen ($7.9 million)
9. Hong Kong – 720 million yen ($7.3 million)
10. France – 610 million yen ($6.2 million)
11. Switzerland – 550 million yen ($5.6 million)
12. Malaysia – 510 million yen ($5.2 million)
13. India – 480 million yen ($4.9 million)
14. Brazil – 480 million yen ($4.9 million)
15. Papua New Guinea – 320 million yen ($3.2 million)
16. Singapore – 310 million yen ($3.1 million)
17. Australia – 300 million yen ($3 million)
18. Mongolia – 290 million yen ($2.9 million)
19. Philippines – 290 million yen ($2.9 million)
20. Italy – 270 million yen ($2.8 million)[3]
Governmental responses
Afghanistan city of Kandahar donated $50,000 to Japan.[7]
Albania Prime Minister Sali Berisha announced in a cabinet meeting that his government was sending US$100,000 in aid.[8]
Armenia The Government of Armenia donated $500.000 in humanitarian assistance[9] and offered to send a rescue team of 25 people from the Ministry of Emergency Situations.
Australia prepared the frigate HMAS Sydney, and heavy landing ship HMAS Tobruk to carry helicopters, Australian Army engineers and medical teams to Japan if this is requested by the Japanese Government.[10] Fire and Rescue NSW service sent a 76-member Urban Search and Rescue team, some of which had recently been rotated through the Christchurch earthquake recovery effort, and 20 tonnes of rescue equipment.[11] This team was transported to Japan by a Royal Australian Air Force C-17 Globemaster III transport aircraft, which subsequently remained in the country to contribute to the disaster relief effort. Two other RAAF C-17's were deployed to Japan to transport supplies and equipment, all three moving over one million pounds of cargo.[12]
Azerbaijan Government of Azerbaijan donated $1 million aid to Japan for elimination of the consequences of the natural disaster.[13]
Bangladesh sent a search and rescue team consisting of a medical wing to Japan.[14] Bangladesh also gave medicines, 2,000 blankets, 500 rubber boots and 1,000 rubber gloves.[15]
Bulgaria has sent blankets, food and bottled water, and offers housing in its countryside for homeless Japanese citizens.[16]
Cambodia Prime Minister Hun Sen ordered the Cambodian government to donate US$100,000 in aid.[17]
Canada initially offered a 17-member disaster victim identification team and chemical, biological, radiological and nuclear decontamination equipment.[18] Prime Minister Stephen Harper offered Canadian Forces airlift, medical and engineering capabilities.[19] On March 16, 2011 Canada announced it will send further aid.[20] Canada has readied staff with nuclear expertise. Canadian Red Cross alone has collected over $6 million in aid.[21] Canada also put on standby members of the Canadian military DART team in order to offer a continuous supply of fresh drinking water.
China, sent US$167,000 in aid along with a 15-member rescue team which left Beijing on Sunday, 13 March 2011,[22] with an additional pledge of RMB 30 million Chinese yuan (US$4.57 million) of humanitarian supplies announced by China's Ministry of Commerce the following day.[23] The Chinese government decided to donate 20,000 tons of fuel to consisting of 10,000 tons of gasoline and 10,000 tons of diesel.[24] The Chinese navy hospital ship Peace Ark was standing by to assist whilst awaiting approval from Japan, but Japan declined the offer.[25][26] The northeastern Chinese city of Changchun, a sister city of Sendai, sent 10 tonnes of drinking water to Japan. The provincial government of Jilin also said it will donate 100,000 U.S. dollars to the Miyagi prefecture government while the municipal government of Changchun, capital of Jilin, pledged 500,000 Renminbi to the municipal government of Sendai.[27] A super-sized 62-meter long mechanized water-pump arm was donated by China's Sany group, along with an accompanying team of 5 engineers and consultants destined for the effort to quell the overheating and radiation problems of the crippled Fukushima nuclear power plant on 23 March 2011.[28]
Croatia The Croatian government donated €500,000 as a financial aids and offered medical capacities and hospitality for injured in the disaster.[29][30] On March 18, the Croatian Red Cross transferred €520,000 to the Japanese Red Cross. From March 12 more than €700,000 have been raised of which €630,000 by public and private donations and more than €65,000 by telephone calls made by Croatian citizens.[31] The Croatian Mountain Rescue Service put itself at service if necessary, as well as the National Protection and Rescue Directorate.
East Timor offered to send a hundred men to remove the debris.[32]
Estonia The Estonian government donated €200,000.[7]
France sent rescue teams[33] consisting of 134 members. The French nuclear accident response organization Groupe INTRA has shipped some of its radiation-hardened mobile robot equipment to Japan to help with the Fukushima Daiichi nuclear accident.[34] So far, 130 tonnes of equipment has been shipped to Japan.[34]
Georgia donated US$1 million via the Red Cross to the relief efforts in Japan.[35]
Germany sent search and rescue specialists from the Technisches Hilfswerk.[36] Furthermore, the German Aerospace Center provided TerraSAR-X- and RapidEye-satellite imagery of the affected area.[37]
Hungary: According to the MTI, the Hungarian National Disaster Management sent a rescue team to the area, consisting of eight technical rescue team members and a specialist officer. The team is expected to travel to the disaster site on Friday, March 12.[38]
India is sent woolen clothing and blankets, with additional plans being to send 22 metric tons of woolen blankets.[39]
Indonesia sent rescue workers, medical assistance and supplies. Indonesia's Government also donated US$2 million.[40]
Israel sent members of the humanitarian aid organizations, IsraAID and ZAKA, which consist of first responders, search and rescue specialists, logistical, emergency medical personnel and water specialists to the devastated regions of Japan.[41][42] Israel also established a field hospital near Minamisanriku, 290 miles north of Tokyo. An initial team of five set up the surgery in preparation for a larger team once needs are assessed.[43] Israel also provided tons of aid including mattresses, blankets, coats, gloves and chemical toilets for those left homeless by the disaster.[43] On March 27, a 53 member delegation of medical personnel from the Home Front Command and the IDF’s Medical Corps arrived and opened a clinic on March 29. The clinic includes surgical, pediatric and maternity wards, and an intensive care unit, pharmacy and laboratory. The delegation also brought 62 tons of medical supplies.[44]
Kuwait contributed a large resource contribution with a total of US$550,000,000 in crude oil and other humanitarian aid supplies.
Laos donated US$100,000 in aid.[45]
Macedonian government has decided to help Japan with 100,000 Euros. The decision has been made on 15 March 2011 that the funds would be allocated to reconstruction of damage caused by the earthquake. Additionally, the Macedonian authorities announced they were in contact with the Japanese embassy in order to provide any future assistance if required.[46]
Malaysia sent a search and rescue team, with doctors and medical assistants.[47][48]
Maldives shipped 90,000 cans of Tuna to feed the people in the worsted effected areas.[32]
Mexico sent eight search and rescue specialists, five search dogs, and two specialists in structural evaluation.[49]
Monaco sent eleven search and rescue specialists, seven search dogs, and attentional equipment. The unit was part of the Force Publique's Corps des Sapeurs-Pompiers.[50]
Mongolia government announced the country sent rescue teams composed of 12 members from the National Emergency Management Agency of Mongolia[51][52][53] to Japan after it had donated US$1 million and relief supplies.[54] And the People of Mongolia from workers to the President donated their wages.[55][56]
Netherlands donated US$1,000,000 in emergency relief funds.[57]
New Zealand sent an urban search and rescue team which had spent the previous three weeks searching buildings following the February 2011 Christchurch earthquake, and 15 tonnes of rescue equipment.[58] The government donated $2m to the Japanese Red Cross to support relief efforts.[59][60]
North Korea donated US$100,000 to the relief fund,[61] with North Korean leader Kim Jong-il personally donating US$500,000 to Chongryon Korean residents in Japan.[62]
Pakistan Government of Pakistan sent two Pakistan Air Force C130 cargo airplanes carrying 24 tons of relief goods containing high energy biscuits, milk packs and drinking water[63] for the affected areas effected by the earthquake.[64][65] Pakistan embassy in Tokyo send a team to Sendai in Miyagi Prefecture on March 15 to assess the situation and welfare of affected residents. A volunteer team organized by the Pakistani community in Japan also sent to Sendai with food supplies.[66]
Philippines The Philippine government made ready to deploy a joint rescue mission composed of 41 members from three of its best search and rescue teams. It was to be complemented by a Philippine Air Force C-130 cargo plane and its crew. The Philippine Government also donated US$1 million to Japan.[67][68] A 2-man team has been sent in advance to assess the situation.[69] Due to the overwhelming response by the global community its search and rescue teams where not deployed. Instead it offered relief goods with the AFP's six-man advance team being in charge of distribution.[70]
Poland The Polish government has offered to help rescue trapped Japanese citizens in effected areas.[71] Polish firefighters comprised the team sent by the European Union to render aid to Japan.[72]
Russia State-controlled gas giant Gazprom provided additional liquefied natural gas supplies, the company divert two tankers of 150,000 tons to the effected area.[23][73] Russia's Emergencies Ministry official Irina Andrianova confirmed that Russia will send one Mi-26 helicopter along with a team of 50 Russian rescuers to search for survivors, and promised more aid.[74] A team of Russian rescuers will join the search for survivors. According to Russia’s Emergencies Ministry spokesperson Irina Andrianova, "An Il-76 plane of the Russian Emergencies Ministry sent 50 rescuers, three relief and rescue vehicles and the necessary equipment which later arrived and covered by RT news media.”[75] The Russian emergency services agency EMERCOM offered 40 people with three search and rescue dogs.[76] Russia has sent to Japan liquidators of the Chernobyl disaster.[77] The Russian relief group were among largest to r arrive in Japan to render aid and consists of 161 personal.[78]
Serbia First Deputy Prime Minister and Minister of the Interior Ivica Dacic ordered a Division of Emergency Situations rescue team, part of the Serbian Ministry of the Interior, to ready for deployment to Japan.[79] Many cities announced sending supporting financial aid, among first, city of Prokuplje sent $10,000.[80] There is a Serbian Red Cross,[81] mobile operators and other independent fundraising initiatives. The Red Cross raised US$850,000.[82]
Singapore The Singapore Red Cross (SRC) appointed by the Ministry of Foreign Affairs coordinated Singapore’s relief efforts to Japan.[83] The Government of Singapore donated S$500,000 and sent a search and rescue team.[84] The SRC sent 2 consignments of relief goods consisting of 10,000 bottles of drinking water (500 ml), 6,200 blankets, 200 mattresses and 4,000 collapsible water containers. The SRC raised a total of S$4.1 million(excluding the S$500,000 by the Government of Singapore) thus far for the relief efforts.[85][86]
South Africa sent the 'Rescue South Africa Disaster Response' team to help with rescue and relief activities in the city of Ishinomaki, Miyagi Prefecture.[87]
South Korea were among the first foreign emergency rescue team consisting of 5 rescuers and 2 rescue dogs who arrived in Japan on March 12, while another team of 102 rescuers arrived 2 days later.[88] In total, private donations originating from Korea amounted to 2.97 billion Japanese Yen (37.1 million US dollars in March 2011), the 5th largest foreign donation following USA, Taiwan, Canada and Germany.[89] In addition to human aid, Korea sent boric acid to weaken nuclear reactions and power sources for electricity.[90] Many provinces have offered aid as well. Gyeonggi-do offered US$1 million, and raised additional aid.[91] The South Korean consulate staffs in Sendai were crucial in escorting a Croatian citizen, Vinko Hut Kono, safely to the Akita Airport.[92] However, some government organizations in South Korea halted their fund drives and instead donated the money to nationalist organizations for political reasons.[93]
Sri Lanka which was recovering from the 2004 Indian Ocean Tsunami, announced US$1 million in aid, as well a team of medical and rescue workers.[94]
Switzerland sent The Swiss rescue team consist of 25 rescuers and nine sniffer dogs to Japan. Also two specialists from the Swiss Humanitarian Aid Unit in Beijing were also flying into the country.[95][96]
Taiwan provided over US$252 million in combined aid, were among the largest contributors in monetary aid.[97][98][99][100][101] President Ma Ying-jeou asked the Ministry of Foreign Affairs to donate NT$100 million (approximately 300 million Japanese yen or US$3.3 million) to Japan two days after the disaster.[102] On the third and the fourth day respectively, two rescue teams, a 35-member civilian-organized team and a 28-member Ministry of the Interior team, were dispatched to Sendai and other affected areas.[103][104][105] Besides the central government's actions, major political parties, many local governments, schools, companies, and charities arranged fundraising concerts and events.[106][107][108] The Speaker of Congress, Wang Jin-pyng, and other officials visited Japan on April 20 to give a donation.[109] By the end of 2011, the Government, Red Cross Society of Taiwan, Tzu Chi Foundation, and the Chi Mei Corporation, among other civilian organizations and celebrities, collected more than NT$7,364 million (approximately 20,000 million Japanese yen or US$252 million) from the public.[110][111] Among them, Mr. Chang Yung-fa, Chairman of the Evergreen Group, donated 1 billion Japanese yen (approximately US$12,350,000).[112][113] Starting March 14, the Government and other organizations sent about one-thousand tons of generators, sleeping bags, blankets, clothes, foods, and other daily essentials to Japan.[114][115] In particular, tens of volunteers of the Tzu Chi Foundation advanced to the disaster areas to offer hot food, drinks, materials, and shelters for victims.[116][117][118][119] In addition, the Taiwanese government also assisted more than one-thousand Taiwanese, Japanese, American, European, and other foreign nationals in relocating to Taiwan during the nuclear emergency.[120] Speaker Wang and the mayor of Tainan, William Lai, led hundreds of Taiwanese tourists to visit Japan in May and June to show support.[121][122] The Tourism bureau, the Tainan City Government among other institutions also provided opportunities for victims in the affected regions free tours to Taiwan for relief and to demonstrate how Taiwanese recovered from the 1999 921 earthquake.[123][124]
Thailand The Thai government made an initial offer of 5 million baht (around $167,000), with an additional donation of 200 million baht (or about US$6.6 million),[125] accompanied by 15,000 tons of rice, tinned food, as well as other necessities such as blankets and clothing. Search-and-rescue teams consisting of 35 specialist medic crews proficient in Japanese, officials and sniffer dogs were also dispatched.[126][127] Aside from this, the Thai public through massive fund-raising campaigns spearheaded by major local television stations, private firms, banks and other charitable organizations, including the Thai Red Cross, also donated more than 400 million baht (or more than US$12 million) in relief funds.[128]
Turkey Disaster and Emergency Management Presidency of the Republic of Turkey offered humanitarian assistance: 52 tonnes of humanitarian aid, valued at US$360,000, were shipped to Tokyo. Aid materials consisted of 5,000 blankets, 10,000 cans of tuna, 20,000 cans of peas, 12,000 cans of pike, and 10,000 iodine tablets to prevent radiation absorption.
Ukraine sent a Cargo aircraft full of relief supplies, including gas masks, radiometers, 2,000 blankets. A rescue team were also dispatched to Japan to provide assistance. The government of Ukraine also stated that they would be ready to provide more aid if requested.[129]
United Kingdom sent 70 rescuers to Japan, including two search dogs, a medical support team and 11 tons of specialized rescue equipment.[130][131]
United States designated its military response to the earthquake and tsunami as Operation Tomodachi (Japanese for "Friend").[132] The United States was the largest contributor in monetary aid.[133] Various branches of the military participated, notably the USS Ronald Reagan carrier group, and aviators based at Yokota Air Base, among several other personal.[134][135] The US Agency for International Development's Office of Foreign Disaster Assistance sent Urban Search and Rescue California Task Force 2 and Virginia Task Force 1, some of whom will worked with Canadian SARS teams in Miyagi Province.[136][137] US personnel were dispatched to restore the Sendai airport, which sustained extensive damage and flooding.[138][139] The State Department moved its embassy operations, set up contact information systems and issued travel advisories and later evacuation orders for American civilians.[140]
Uzbekistan Carlsberg Uzbekistan produced beer in bottles with notes that read Yaponiyani qoʻllab-quvvatlaylik! (Let's support Japan!).
Vietnam Vietnam Red Cross National Headquarter launched Official Appeal on March 16, 2011 to call the donation from all ministries, governmental agencies, Fatherland Front, organizations, corporations, enterprises, and people all over of Vietnam to assist people affected by tsunami and earthquake in Japan. On June 17, 2011, Vietnam Red Cross organized the evaluation meeting of the Appeal. In total, the Government and people of Vietnam have donated with the amount of VND 161,303,484,931 equivalent of US$7,783,393, contributing to the assistance of people affected by tsunami and earthquake in Japan.[141]
This page was last modified on 13 February 2014
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International reactions to the Fukushima Daiichi nuclear disaster
http://en.wikipedia.org/wiki/International_reaction_to_Fukushima_I_nuclear_accidents
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Operation Tomodachi
アップロード日: 2011/03/21
アメリカによる日本の東北地方太平洋沖地震と津波による被害の支援作戦に感謝
Thank you for United States Armed Forces and all American from Japan.
Thank you for United States Armed Forces and all American from Japan.
Operation Tomodachi Tsunami Damage Assessment
アップロード日: 2011/03/24
Courtesy: 374th Airlift Wing Public Affairs. Video by Staff Sgt. Jeffry Howerton.
Tsunami damage taken from an HH-60 Pave Hawk as it surveys damage of coastal towns north of Sendai, Japan.
Click to subscribe! http://bit.ly/subAIRBOYD
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Operation Tomodachi
アップロード日: 2011/04/01
The first few weeks of the Disaster Relief of the worlds greatest disaster. It wouldnt be possible without the combined efforts of the team on USS Mustin.
Video and editing by LT Vuolo
AWR2 Leisenring (pictures)
AWR2 Morris (pictures)
AWR3 Guenther (pictures)
So Others May Live
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AWR2 Leisenring (pictures)
AWR2 Morris (pictures)
AWR3 Guenther (pictures)
So Others May Live
Operation Tomodachi
アップロード日: 2011/03/31
Kuji was one of the cities destroyed by massive tsunami that pounded the northeastern coast of Japan on March 11, 2011. We had the opportunity to join US Airmen, US Marines, and J-Soldiers to help clear tsunami from a neighborhood that was supposed to have been protected by an 80 foot sea wall.
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Operation Tomodachi: Misawa Responds
公開日: 2012/03/16
This documentary recalls the events of March 11, 2011, when an earthquake and subsequent tsunami took the lives of thousands in Japan. The film highlights the multiple agencies at Misawa Air Base that helped provide disaster relief.
Misawa Air Base is home to the U.S. Air Force's 35th Fighter Wing, as well as a U.S. Naval Air Facility.
Although production credits go to Bruce Bender of SMC/PA, Dr. Richard Clark of the 35th Fighter Wing Historian office and TSgt Burgos-Ortiz of the 35th Fighter Wing Public Affairs office, the REAL credit goes to everyone in the Misawa community who did whatever they could to help others.
Misawa Air Base is home to the U.S. Air Force's 35th Fighter Wing, as well as a U.S. Naval Air Facility.
Although production credits go to Bruce Bender of SMC/PA, Dr. Richard Clark of the 35th Fighter Wing Historian office and TSgt Burgos-Ortiz of the 35th Fighter Wing Public Affairs office, the REAL credit goes to everyone in the Misawa community who did whatever they could to help others.
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Operation Tomodachi 110316-M-LM626-001
アップロード日: 2011/04/27
Special Show depicting the efforts in support of Operation Tomodachi
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The Post Signal - Operation Tomodachi Special
アップロード日: 2011/04/27
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大船渡市赤崎町【米軍トモダチ作戦】
公開日: 2012/03/12
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Operation Tomodachi. オペレーション友だち。Thank you very much
アップロード日: 2011/03/30
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Operation Tomodachi トモダチ作戦
アップロード日: 2011/07/05
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Operation Tomodachi USA 気仙沼大島での支援活動を終えた
公開日: 2012/03/26
Farewell ceremony for U.S. military assistance activities completed in Kesennuma Miyagi Prefecture.トモダチ作戦で気仙沼大島での支援活動を終えた米軍へ別れのセレモニー。
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Thank you USA! Operation "TOMODACHI". HIGASHINIHON DAISHINSAI
公開日: 2012/03/20
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【震災】オバマ大統領「不屈の精神」と日本を賞賛(12/03/10)
公開日: 2012/03/09
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【APEC】オバマ大統領鎌倉で抹茶アイス、お土産も(2010/11/14)
アップロード日: 2010/11/14
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高徳院
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%B3%E9%99%A2
English:
Kōtoku-in
http://en.wikipedia.org/wiki/K%C5%8Dtoku-in
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。
2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。
現在の住職は慶應義塾大学教授でもある佐藤孝雄。
歴史
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている[1]。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である。
大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000 - 2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とするが、『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年)9月20日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている[2]。平成12年から13年(2000 - 2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった[3]。
鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある[4]。北条氏の庶流の中には大仏流北条氏があり、執権を出したこともある。
文化財
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)。重量約121トン。角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されている。また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとう。浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかる[5]。
像の原型の作者は不明。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友がかかわっていることが以下の史料から判明する。久友は、文永元年(1264年)に鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘(鐘自体は現存せず)において「新大仏鋳物師丹治久友」と名乗っており、同年鋳造の東大寺真言院鐘の銘にも「鋳物師新大仏寺大工」とある。鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。昭和34年から36年(1959 - 1961年)にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、本像の金属組成は銅が少なく、鉛の含有量が多いことが判明した。採取部位によって差異があるが、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっている[6]。この成分比率から、本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されている[7][8]。なお、本像の重量(121トン)は、上述の1959年から1961年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて実際に2度計量された数値の平均である[9]。鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。
像内は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる(一度に30人以上は入場できない)。内部から見ると首のくびれに相当する場所が変色している(画像参照)が、これは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックによるものである。
鎌倉大仏殿跡(国の史跡)
最終更新 2014年2月14日
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明応地震
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E5%9C%B0%E9%9C%87
English:
1498 Nankai earthquake
http://en.wikipedia.org/wiki/1498_Nankai_earthquake
明応地震(めいおうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)に発生した地震である。南海トラフ沿いの巨大地震と推定される。 記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており[1]、震源域は東海地震・東南海地震と思われるものであった[3]。一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が発見され、また発掘調査から同時期の南海地震の存在が浮き彫りになり、東海・東南海・南海連動型地震の一つとされる。
東海地震の記録
明応7年8月25日辰刻(ユリウス暦1498年9月11日8時頃、グレゴリオ暦1498年9月20日)、東海道沖に大地震が発生した。 『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『実隆公記』、『言国卿記』および『大乗院寺社雑事記』等に京都や奈良など畿内付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には閏10月まで、『実隆公記』には11月7日まで余震と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある興福寺と見られる地蔵堂の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、遠江や駿河で記された記録も確認されるようになる[4]。
紀伊から房総にかけて太平洋側で震動が強く、『王代記』に「金山クツレ(崩れ)」の記述があるなど甲斐でも強い揺れであったことは安政東海地震や宝永地震に共通するが震害の記録は少ない。熊野本宮の社殿が倒壊、那智の坊舎の崩壊、遠江では山崩れに地割れがあった。『熊野年代記』の記録によれば紀伊湯の峯温泉の湧出が10月8日まで42日間停止した。
河角廣により規模MK = 7.5 が与えられ[5]、マグニチュードはM 8.6 に換算されている。またM 8.3[6][7]前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから地震モーメントはM0 = 7 × 1021N・m[8] (Mw 8.5[9])と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、江戸時代の地震より記録が少ない歴史地震であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は低い[8]。
津波
津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった。津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた。
南海トラフから東よりに津波の波源域が拡大している可能性があり、震源域を銭洲断層に仮定すると、志摩半島から御前崎、伊豆半島、房総半島に至る波高が説明できるとする説もある[10]。
津波の被害状況
以下抜粋:
相模鎌倉 水勢入大佛殿破堂舎屋『鎌倉大日記』
津波は鎌倉の鶴岡八幡宮参道にも襲来し、また高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある[16](後述、異説有)。
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている。
仁科では海岸から十八九町(約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)。八木沢の妙蔵寺(現・伊豆市)には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内の杉に海草がかかったとも伝えられている[17]。この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる[13]。沼津市戸田地区の平目平にはヒラメが打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている[14]。
『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の志太郡付近で水死2万6千とされるが[6]、明治時代の志太郡の人口も2万6千人には満たず、信憑性は不明であるとされ[2][4]、あるいはこの数はこの地震全体の犠牲者数を林叟院が纏めたものであると考えるのが妥当とされる[18]。また安政東海地震では焼津付近は隆起しているが、この記録は本地震で沈降したことを示唆している[15]。
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した[3]。かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永津波により今切が拡大し再び移転を余儀なくされた[4][19][20]。
湊町として栄えていた安濃津(現・津市)は遺跡の発掘から16世紀初頭から18世紀初頭頃まで空白期が見られ、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受けて荒廃し、宝永地震以降に復興が始まったと推定されている。また大永2年(1522年)に安濃津を訪れた宗長は『宗長日記』で「この津、十余年以来荒野となりて四五千軒の家、塔あとのみ」と記している[4][20]。 『内宮子良館記』には「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」とあり、伊勢大湊で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされ[2][6]、宮川河口付近にあったと推定される塩屋村では塩浜が被害を受け塩業が成立しなくなったとされる[4][20]。
紀伊では紀ノ川は、かつて河口付近で南流し現在の和歌川が本流で和歌浦に注いでいたが、『紀伊続風土記』の記述から現在の河口位置に変化したのは明応から寛永年間の間と考えられ、明応年間に住民や寺社が和田浦(現・和歌山市)から湊村に移転したとする伝承があり、明応津波で被害を受け、紀ノ川が現在の河口位置に移ったとされる[20]。ただし『紀伊続風土記』の記事は「明応ノ比津浪」、また『和歌山県神社寺院明細帳』では「明応ノ海嘯」とあるのみで具体的な年月日の記述はない。熊野本宮の社殿が倒れた[21]。
日本最古の高台集団移住
志摩半島の三重県鳥羽市国崎町[22]は最大波高15mに達したとされ[23]、大津集落は明応地震津波で死者1万人という壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった。漁師は高台から浜に通うのが普通だという[24]。1707年の宝永地震津波や、1854年の安政東海地震津波では溺死者を少数に抑えた。特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津波流失塔」の碑文によれば7丈5尺(22.7m)にも達したと記録されている[25]。
地震痕跡 静岡県磐田市、元島遺跡[26] 浜名湖岸 : 津波堆積物 湖西市、長谷元屋敷遺跡 : 津波堆積物[27] 愛知県稲沢市、尾張国府跡 三重県紀伊長島町 : 津波堆積物
明応4年8月15日の地震
『鎌倉大日記』には明応4年8月15日(ユリウス暦1495年9月3日、グレゴリオ暦1495年9月12日)に大地震が発生し、由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある。
明応四年乙卯八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢入大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘
『大日本地震史料 増訂』では、この記録は明応7年8月25日の地震の誤記の可能性有としている[28]。宇佐美(2003)も、この記事は疑わしく明応7年8月25日の地震との混同の可能性有としている[2]。
一方で同日、『御湯殿の上の日記』に「地しんゆる」、『後法興院記』にも「十五日乙丑晴、酉刻地震」との記録もあり、少なくとも京都においてこの日、有感地震があったとされ[2]、また、古代・中世には未だ巨大地震が隠されている可能性があり、1495年の地震は相模トラフ巨大地震の検討候補とされている[29]。『熊野年代記』にも同日に「鎌倉大地震」とあり、複数の史料からこの日の地震の存在が裏付けられている。 静岡県伊東市教育委員会の金子浩之主査を中心とした宇佐美遺跡の発掘調査で見出された砂層が15世紀末頃の津波堆積物であることが判明している。この堆積物は標高約7.8m付近に存在し、南海トラフの地震津波では説明できないことから、明応関東地震のものである可能性が高いとされた。また、878年の元慶地震と887年の仁和地震、1703年の元禄地震と1707年の宝永地震を例に相模トラフと南海トラフが震源と推定される巨大地震が連続しており、1495年と1498年の地震も同様に連動した可能性が示唆される[30]。
北条早雲が小田原城を奪取した時期には諸説あるが明応4年9月とする説が有力であり、明応4年8月に発生した地震津波によって小田原が壊滅的な被害となり、その混乱に乗じて小田原城を奪取した可能性も考えられるとされる。さらに早雲は明応7年の東海地震後に伊豆半島西岸も占領した可能性があるという[30][31]。
明応7年6月11日の地震
『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『続史愚抄』など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)、畿内付近における大地震の記録がある。ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる[4]。一方、1854年の安政地震については京都付近は東海地震と南海地震は同程度の揺れであったと記録され、京都における震度は共に4 - 5程度と推定されている[2]。
同日の巳刻(10時頃)に日向灘が震源とされる地震があり、宇佐美(2003)は別の地震と考えるとし[2]、『九州軍記』には以下のように記されている[32]。
戊午六月十一日卯ノ中刻ヨリ九國ノ大地震隙ナク震フ巳ノ刻ニ至テハ天大ニ鳴渡リ地夥フ弥增ニ震フ山崩テハ海川ニ入リ地裂テハ泥湧出ル神社仏閣ノ鳥居石碑過半ハ顛倒セリ民屋ハ一宇モ全カラス (中略) 今度ノ地震ハ九國ノミニ不限四國中國畿内東海北國奥州ノ果迄モ殘ル所ナシ
詳細は「日向灘地震 (1498年)」を参照
南海地震連動の可能性
明応地震の歴史記録は、東海・東南海地震のみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高い南海地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は応仁の乱以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性が高いとされる[33]。
1988年、高知県中村市(現・四万十市)四万十川支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から15世紀末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。徳島県板野町の吉野川沖積低地では14世紀後半から16世紀初頭までに存続した集落跡の調査で、液状化現象による噴砂の痕跡が発見された[34]。加えて、愛媛県新居浜市の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、四国における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている[35]。
また、明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)には九州において家屋倒壊被害の記録があり、伊予では陥没などの地変を筆頭に日向灘地震と推定される地震の記録があったが、同日には畿内でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている[36]。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海地震の可能性が高く、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、蘇州で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり[37]、中国の江蘇省、浙江省では揚子江を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や安政南海地震でも観測されていることから、上述の日向灘地震は南海地震に含まれる、あるいは南海地震と連動した可能性も指摘されている[6][38][39]。これが事実ならば、南海地震が東海・東南海地震に73日先行して発生したことになる。
一方で6月11日の地震を南海地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海地震および南海地震が連動した可能性もあるとされる[40]。
参考文献
『大日本地震史料 上巻』 震災予防調査会編、丸善、1904年。 pp.151-157 国立国会図書館サーチ
『大日本地震史料 増訂 一巻』 武者金吉、文部省震災予防評議会、1941年。 pp.446-459 国立国会図書館サーチ
『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1981年。 pp.109-124
『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1989年。 pp.44-56
『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1994年。 pp.19-20 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺』 東京大学地震研究所、1999年3月。 pp.6-8 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺二』 東京大学地震研究所、2002年3月。 pp.8-31 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺三』 東京大学地震研究所、2005年3月。 pp.15-29 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』 東京大学地震研究所、2008年6月。 pp.7-26
最終更新 2013年11月7日 (木)
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オバマ大統領も訪れた鎌倉大仏は謎だらけ
http://www.owners-style.com/2011/01/post-246.html
こんにちは。 オーナーズ・スタイル編集長の上田です。 金曜日は「鎌倉大家日記」です。 昨年の11月、 横浜でAPECの首脳会議が開かれました。
その帰り、オバマ大統領が訪ね、 抹茶アイスクリームを食べた場所が、 鎌倉・長谷の高徳院です。 大仏が鎮座する、 言わずと知れた鎌倉を代表する観光スポットです。
この有名な鎌倉の大仏ですが、 完成以来、 大がかりな修復はされていないといいます。
ほぼ、鎌倉時代のままなのだそうです。
しかし、実は、 それら以外はわからないことだらけ。
謎だらけの大仏だということを ご存知でしょうか?
造られたのは、13世紀のこととされています。
当時の最高の鋳造技術を駆使し、 莫大な費用をかけて造られたであろうにもかかわらず、 記録がとても少なく、 誰がつくったのか・・・?など、 すべてが、「説」までにとどまっています。
「吾妻鏡」、「東関紀行」、「太平記」などの資料を 総合すると、 大仏造立から今日に至るまでの歩みについては、 以下の「説」が有力なのだそうです。
・浄光という僧侶が諸国を勧進して浄財を集めて歩き、 1238年から大仏殿の建立が始められ、 5年後の1243年に大仏の開眼供養が行われた。
・この時、造られた大仏は木造であった。
・4年後の1247年にこの大仏は暴風雨で倒壊。
・5年後の1252年にあらためて今の大仏が造られ始めた。
・その後、大仏殿は1335年と1369年の台風で倒壊。 二度再建されたものの、1495年の大津波で押し流され、 それ以降は再建されず、 大仏は現在のような露座となって、515年程が経過した。
以上のとおり、 最初の大仏造立・大仏殿建立のための勧進は 浄光という僧が行なったといわれていますが、 この浄光がどんな人だったのか、 記録は残っていません。
国家プロジェクトだったと考えてもおかしくはない この大事業が、 さほど有名でもない一僧侶の力でなされたと考えるのも、 やや難しいところです。
当時は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の時代でした。 彼が莫大な援助をしたような記録はありません。 鎌倉幕府の公式記録書である「吾妻鏡」には、 大仏造立の開始について記述があるだけで 完成については何も記述がありません。
幕府と浄光の関係、大仏を造った目的など、 まったくわかっていないのが実情です。 そもそもの発案者は源頼朝だったという説もあるそうです。
奈良の大仏を見た頼朝が、 鎌倉にも巨大な仏像を造ろうと考えたことが発端で、 それが北条泰時の時代にやっと実現したのだといいます。 しかし、これも一説にすぎません。
鎌倉の大仏は、一体誰が造ったのでしょうか。
大仏だけではありません。
高徳院自体も、いつ、誰が、何の目的で作ったのかが わからないお寺なのです。
開山、開基は不明。 創建の事情も定かではありません。 初めは真言宗で、のち臨済宗に属し、建長寺の末寺に。
江戸時代には江戸・増上寺の祐天上人が再興して 浄土宗に属し、 材木座の光明寺の末寺に。 「高徳院」という名前になったのはその頃と言われています。
そして、 鎌倉の大仏をもともと管理していたのが 今の高徳院でないことだけは、確実のようです。 つまり、鎌倉の大仏は初期の頃、一体だれが管理して いたのか・・・ これも、よくわかっていないのです。 ところで、与謝野晶子が鎌倉の大仏を詠った有名な 短歌があります。
「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」 ご存知の方も多いと思います。 境内には歌碑もあります。 しかし、鎌倉大仏は実際には「阿弥陀如来」です。 「釈迦牟尼」というのは与謝野晶子の間違いです。
間違っているのに、境内に歌碑があります。 高徳院さんの懐の深さを感じます。
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http://www.zc.ztv.ne.jp/kiikankyo/newpage30%20Risk1-IsewanTsunami.html
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The Post Signal - Operation Tomodachi Special
アップロード日: 2011/04/27
Special Show depicting the efforts in support of Operation Tomodachi
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大船渡市赤崎町【米軍トモダチ作戦】
公開日: 2012/03/12
2012.3.11
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Operation Tomodachi. オペレーション友だち。Thank you very much
アップロード日: 2011/03/30
Operation Tomodachi. Thank you very much !! U.S.A. !!
オペレーション友だち。 被災地への直接の物資の救援をありがとう !! U.S.A. !!
今回のアメリカの行動力は凄いです。 大変大きなものを感じます。
この比較的初期での被災地直接救援物資にどれだけの被災者が助かった事か。
オペレーション友だち。 被災地への直接の物資の救援をありがとう !! U.S.A. !!
今回のアメリカの行動力は凄いです。 大変大きなものを感じます。
この比較的初期での被災地直接救援物資にどれだけの被災者が助かった事か。
Operation Tomodachi トモダチ作戦
アップロード日: 2011/07/05
This is Operation Tomodachi Photo Slideshow by HQ U.S. Forces Japan.
Operation Tomodachi USA 気仙沼大島での支援活動を終えた
公開日: 2012/03/26
Farewell ceremony for U.S. military assistance activities completed in Kesennuma Miyagi Prefecture.トモダチ作戦で気仙沼大島での支援活動を終えた米軍へ別れのセレモニー。
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Thank you USA! Operation "TOMODACHI". HIGASHINIHON DAISHINSAI
公開日: 2012/03/20
Dear USA
We sincerely appreciate your kind support and cooperation.
We'll never forget your kindness.
From JAPAN
この度の東日本大震災に際し、米軍の支援に心から感謝します。
また、米軍だけでなく世界各国から多大なるご支援を日本に頂いたこと、併せて感謝致し ます。 有り難うございます。
使用していた音楽に関して著作権の問題が発生しましたので、Youtubeからの指示 により音楽を入れ替えました。
We sincerely appreciate your kind support and cooperation.
We'll never forget your kindness.
From JAPAN
この度の東日本大震災に際し、米軍の支援に心から感謝します。
また、米軍だけでなく世界各国から多大なるご支援を日本に頂いたこと、併せて感謝致し
使用していた音楽に関して著作権の問題が発生しましたので、Youtubeからの指示
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【震災】オバマ大統領「不屈の精神」と日本を賞賛(12/03/10)
公開日: 2012/03/09
アメリカのオバマ大統領は、震災1年に際して声明を発表し、日本人の不屈の精神をたた えました。
【APEC】オバマ大統領鎌倉で抹茶アイス、お土産も(2010/11/14)
アップロード日: 2010/11/14
APEC=アジア太平洋経済協力会議の閉幕後、オバマ大統領は、少年時代に訪れた鎌倉 を訪問しました。オバマ大統領は大仏を見学し、売店で娘のマリアさんとサーシャさんへ のお土産を購入。さらに、思い出の抹茶アイスクリームに舌鼓を打ちました。
・・・記事の続き、その他のニュースはコチラから!
[テレ朝news] http://www.tv-asahi.co.jp/ann/
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高徳院
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%B3%E9%99%A2
English:
Kōtoku-in
http://en.wikipedia.org/wiki/K%C5%8Dtoku-in
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。
2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。
現在の住職は慶應義塾大学教授でもある佐藤孝雄。
歴史
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている[1]。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である。
大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000 - 2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とするが、『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年)9月20日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている[2]。平成12年から13年(2000 - 2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった[3]。
鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある[4]。北条氏の庶流の中には大仏流北条氏があり、執権を出したこともある。
文化財
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)。重量約121トン。角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されている。また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとう。浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかる[5]。
像の原型の作者は不明。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友がかかわっていることが以下の史料から判明する。久友は、文永元年(1264年)に鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘(鐘自体は現存せず)において「新大仏鋳物師丹治久友」と名乗っており、同年鋳造の東大寺真言院鐘の銘にも「鋳物師新大仏寺大工」とある。鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。昭和34年から36年(1959 - 1961年)にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、本像の金属組成は銅が少なく、鉛の含有量が多いことが判明した。採取部位によって差異があるが、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっている[6]。この成分比率から、本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されている[7][8]。なお、本像の重量(121トン)は、上述の1959年から1961年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて実際に2度計量された数値の平均である[9]。鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。
像内は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる(一度に30人以上は入場できない)。内部から見ると首のくびれに相当する場所が変色している(画像参照)が、これは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックによるものである。
鎌倉大仏殿跡(国の史跡)
最終更新 2014年2月14日
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明応地震
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E5%9C%B0%E9%9C%87
English:
1498 Nankai earthquake
http://en.wikipedia.org/wiki/1498_Nankai_earthquake
東海地震の記録
明応7年8月25日辰刻(ユリウス暦1498年9月11日8時頃、グレゴリオ暦1498年9月20日)、東海道沖に大地震が発生した。 『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『実隆公記』、『言国卿記』および『大乗院寺社雑事記』等に京都や奈良など畿内付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には閏10月まで、『実隆公記』には11月7日まで余震と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある興福寺と見られる地蔵堂の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、遠江や駿河で記された記録も確認されるようになる[4]。
紀伊から房総にかけて太平洋側で震動が強く、『王代記』に「金山クツレ(崩れ)」の記述があるなど甲斐でも強い揺れであったことは安政東海地震や宝永地震に共通するが震害の記録は少ない。熊野本宮の社殿が倒壊、那智の坊舎の崩壊、遠江では山崩れに地割れがあった。『熊野年代記』の記録によれば紀伊湯の峯温泉の湧出が10月8日まで42日間停止した。
河角廣により規模MK = 7.5 が与えられ[5]、マグニチュードはM 8.6 に換算されている。またM 8.3[6][7]前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから地震モーメントはM0 = 7 × 1021N・m[8] (Mw 8.5[9])と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、江戸時代の地震より記録が少ない歴史地震であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は低い[8]。
津波
津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった。津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた。
南海トラフから東よりに津波の波源域が拡大している可能性があり、震源域を銭洲断層に仮定すると、志摩半島から御前崎、伊豆半島、房総半島に至る波高が説明できるとする説もある[10]。
津波の被害状況
以下抜粋:
相模鎌倉 水勢入大佛殿破堂舎屋『鎌倉大日記』
推定波高・遡上高 8-10m |
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている。
仁科では海岸から十八九町(約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)。八木沢の妙蔵寺(現・伊豆市)には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内の杉に海草がかかったとも伝えられている[17]。この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる[13]。沼津市戸田地区の平目平にはヒラメが打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている[14]。
『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の志太郡付近で水死2万6千とされるが[6]、明治時代の志太郡の人口も2万6千人には満たず、信憑性は不明であるとされ[2][4]、あるいはこの数はこの地震全体の犠牲者数を林叟院が纏めたものであると考えるのが妥当とされる[18]。また安政東海地震では焼津付近は隆起しているが、この記録は本地震で沈降したことを示唆している[15]。
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した[3]。かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永津波により今切が拡大し再び移転を余儀なくされた[4][19][20]。
湊町として栄えていた安濃津(現・津市)は遺跡の発掘から16世紀初頭から18世紀初頭頃まで空白期が見られ、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受けて荒廃し、宝永地震以降に復興が始まったと推定されている。また大永2年(1522年)に安濃津を訪れた宗長は『宗長日記』で「この津、十余年以来荒野となりて四五千軒の家、塔あとのみ」と記している[4][20]。 『内宮子良館記』には「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」とあり、伊勢大湊で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされ[2][6]、宮川河口付近にあったと推定される塩屋村では塩浜が被害を受け塩業が成立しなくなったとされる[4][20]。
紀伊では紀ノ川は、かつて河口付近で南流し現在の和歌川が本流で和歌浦に注いでいたが、『紀伊続風土記』の記述から現在の河口位置に変化したのは明応から寛永年間の間と考えられ、明応年間に住民や寺社が和田浦(現・和歌山市)から湊村に移転したとする伝承があり、明応津波で被害を受け、紀ノ川が現在の河口位置に移ったとされる[20]。ただし『紀伊続風土記』の記事は「明応ノ比津浪」、また『和歌山県神社寺院明細帳』では「明応ノ海嘯」とあるのみで具体的な年月日の記述はない。熊野本宮の社殿が倒れた[21]。
日本最古の高台集団移住
志摩半島の三重県鳥羽市国崎町[22]は最大波高15mに達したとされ[23]、大津集落は明応地震津波で死者1万人という壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった。漁師は高台から浜に通うのが普通だという[24]。1707年の宝永地震津波や、1854年の安政東海地震津波では溺死者を少数に抑えた。特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津波流失塔」の碑文によれば7丈5尺(22.7m)にも達したと記録されている[25]。
地震痕跡 静岡県磐田市、元島遺跡[26] 浜名湖岸 : 津波堆積物 湖西市、長谷元屋敷遺跡 : 津波堆積物[27] 愛知県稲沢市、尾張国府跡 三重県紀伊長島町 : 津波堆積物
明応4年8月15日の地震
『鎌倉大日記』には明応4年8月15日(ユリウス暦1495年9月3日、グレゴリオ暦1495年9月12日)に大地震が発生し、由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある。
明応四年乙卯八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢入大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘
『大日本地震史料 増訂』では、この記録は明応7年8月25日の地震の誤記の可能性有としている[28]。宇佐美(2003)も、この記事は疑わしく明応7年8月25日の地震との混同の可能性有としている[2]。
一方で同日、『御湯殿の上の日記』に「地しんゆる」、『後法興院記』にも「十五日乙丑晴、酉刻地震」との記録もあり、少なくとも京都においてこの日、有感地震があったとされ[2]、また、古代・中世には未だ巨大地震が隠されている可能性があり、1495年の地震は相模トラフ巨大地震の検討候補とされている[29]。『熊野年代記』にも同日に「鎌倉大地震」とあり、複数の史料からこの日の地震の存在が裏付けられている。 静岡県伊東市教育委員会の金子浩之主査を中心とした宇佐美遺跡の発掘調査で見出された砂層が15世紀末頃の津波堆積物であることが判明している。この堆積物は標高約7.8m付近に存在し、南海トラフの地震津波では説明できないことから、明応関東地震のものである可能性が高いとされた。また、878年の元慶地震と887年の仁和地震、1703年の元禄地震と1707年の宝永地震を例に相模トラフと南海トラフが震源と推定される巨大地震が連続しており、1495年と1498年の地震も同様に連動した可能性が示唆される[30]。
北条早雲が小田原城を奪取した時期には諸説あるが明応4年9月とする説が有力であり、明応4年8月に発生した地震津波によって小田原が壊滅的な被害となり、その混乱に乗じて小田原城を奪取した可能性も考えられるとされる。さらに早雲は明応7年の東海地震後に伊豆半島西岸も占領した可能性があるという[30][31]。
明応7年6月11日の地震
『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『続史愚抄』など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)、畿内付近における大地震の記録がある。ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる[4]。一方、1854年の安政地震については京都付近は東海地震と南海地震は同程度の揺れであったと記録され、京都における震度は共に4 - 5程度と推定されている[2]。
同日の巳刻(10時頃)に日向灘が震源とされる地震があり、宇佐美(2003)は別の地震と考えるとし[2]、『九州軍記』には以下のように記されている[32]。
戊午六月十一日卯ノ中刻ヨリ九國ノ大地震隙ナク震フ巳ノ刻ニ至テハ天大ニ鳴渡リ地夥フ弥增ニ震フ山崩テハ海川ニ入リ地裂テハ泥湧出ル神社仏閣ノ鳥居石碑過半ハ顛倒セリ民屋ハ一宇モ全カラス (中略) 今度ノ地震ハ九國ノミニ不限四國中國畿内東海北國奥州ノ果迄モ殘ル所ナシ
詳細は「日向灘地震 (1498年)」を参照
南海地震連動の可能性
明応地震の歴史記録は、東海・東南海地震のみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高い南海地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は応仁の乱以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性が高いとされる[33]。
1988年、高知県中村市(現・四万十市)四万十川支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から15世紀末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。徳島県板野町の吉野川沖積低地では14世紀後半から16世紀初頭までに存続した集落跡の調査で、液状化現象による噴砂の痕跡が発見された[34]。加えて、愛媛県新居浜市の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、四国における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている[35]。
また、明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)には九州において家屋倒壊被害の記録があり、伊予では陥没などの地変を筆頭に日向灘地震と推定される地震の記録があったが、同日には畿内でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている[36]。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海地震の可能性が高く、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、蘇州で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり[37]、中国の江蘇省、浙江省では揚子江を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や安政南海地震でも観測されていることから、上述の日向灘地震は南海地震に含まれる、あるいは南海地震と連動した可能性も指摘されている[6][38][39]。これが事実ならば、南海地震が東海・東南海地震に73日先行して発生したことになる。
一方で6月11日の地震を南海地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海地震および南海地震が連動した可能性もあるとされる[40]。
参考文献
『大日本地震史料 上巻』 震災予防調査会編、丸善、1904年。 pp.151-157 国立国会図書館サーチ
『大日本地震史料 増訂 一巻』 武者金吉、文部省震災予防評議会、1941年。 pp.446-459 国立国会図書館サーチ
『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1981年。 pp.109-124
『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1989年。 pp.44-56
『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1994年。 pp.19-20 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺』 東京大学地震研究所、1999年3月。 pp.6-8 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺二』 東京大学地震研究所、2002年3月。 pp.8-31 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺三』 東京大学地震研究所、2005年3月。 pp.15-29 宇佐美龍夫
『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』 東京大学地震研究所、2008年6月。 pp.7-26
最終更新 2013年11月7日 (木)
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オバマ大統領も訪れた鎌倉大仏は謎だらけ
http://www.owners-style.com/2011/01/post-246.html
こんにちは。 オーナーズ・スタイル編集長の上田です。 金曜日は「鎌倉大家日記」です。 昨年の11月、 横浜でAPECの首脳会議が開かれました。
その帰り、オバマ大統領が訪ね、 抹茶アイスクリームを食べた場所が、 鎌倉・長谷の高徳院です。 大仏が鎮座する、 言わずと知れた鎌倉を代表する観光スポットです。
この有名な鎌倉の大仏ですが、 完成以来、 大がかりな修復はされていないといいます。
ほぼ、鎌倉時代のままなのだそうです。
しかし、実は、 それら以外はわからないことだらけ。
謎だらけの大仏だということを ご存知でしょうか?
造られたのは、13世紀のこととされています。
当時の最高の鋳造技術を駆使し、 莫大な費用をかけて造られたであろうにもかかわらず、 記録がとても少なく、 誰がつくったのか・・・?など、 すべてが、「説」までにとどまっています。
「吾妻鏡」、「東関紀行」、「太平記」などの資料を 総合すると、 大仏造立から今日に至るまでの歩みについては、 以下の「説」が有力なのだそうです。
・浄光という僧侶が諸国を勧進して浄財を集めて歩き、 1238年から大仏殿の建立が始められ、 5年後の1243年に大仏の開眼供養が行われた。
・この時、造られた大仏は木造であった。
・4年後の1247年にこの大仏は暴風雨で倒壊。
・5年後の1252年にあらためて今の大仏が造られ始めた。
・その後、大仏殿は1335年と1369年の台風で倒壊。 二度再建されたものの、1495年の大津波で押し流され、 それ以降は再建されず、 大仏は現在のような露座となって、515年程が経過した。
以上のとおり、 最初の大仏造立・大仏殿建立のための勧進は 浄光という僧が行なったといわれていますが、 この浄光がどんな人だったのか、 記録は残っていません。
国家プロジェクトだったと考えてもおかしくはない この大事業が、 さほど有名でもない一僧侶の力でなされたと考えるのも、 やや難しいところです。
当時は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の時代でした。 彼が莫大な援助をしたような記録はありません。 鎌倉幕府の公式記録書である「吾妻鏡」には、 大仏造立の開始について記述があるだけで 完成については何も記述がありません。
幕府と浄光の関係、大仏を造った目的など、 まったくわかっていないのが実情です。 そもそもの発案者は源頼朝だったという説もあるそうです。
奈良の大仏を見た頼朝が、 鎌倉にも巨大な仏像を造ろうと考えたことが発端で、 それが北条泰時の時代にやっと実現したのだといいます。 しかし、これも一説にすぎません。
鎌倉の大仏は、一体誰が造ったのでしょうか。
大仏だけではありません。
高徳院自体も、いつ、誰が、何の目的で作ったのかが わからないお寺なのです。
開山、開基は不明。 創建の事情も定かではありません。 初めは真言宗で、のち臨済宗に属し、建長寺の末寺に。
江戸時代には江戸・増上寺の祐天上人が再興して 浄土宗に属し、 材木座の光明寺の末寺に。 「高徳院」という名前になったのはその頃と言われています。
そして、 鎌倉の大仏をもともと管理していたのが 今の高徳院でないことだけは、確実のようです。 つまり、鎌倉の大仏は初期の頃、一体だれが管理して いたのか・・・ これも、よくわかっていないのです。 ところで、与謝野晶子が鎌倉の大仏を詠った有名な 短歌があります。
「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」 ご存知の方も多いと思います。 境内には歌碑もあります。 しかし、鎌倉大仏は実際には「阿弥陀如来」です。 「釈迦牟尼」というのは与謝野晶子の間違いです。
間違っているのに、境内に歌碑があります。 高徳院さんの懐の深さを感じます。
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http://www.zc.ztv.ne.jp/kiikankyo/newpage30%20Risk1-IsewanTsunami.html
紀伊半島地域における地震などの様々なリスクを考える
明応地震による伊勢湾沿岸の津波による被害
紀伊半島の東側に位置する伊勢湾は、伊良湖水道で外海に通じる閉鎖的海域であり、太平洋に面した地域と比べて、海溝型地震に伴う大津波からは、比較的安全と思われるかもしれません。
しかし、過去に海溝型地震に伴う大津波により大きな被害が出ているので油断禁物です。約5百年前の明応地震(1498年;明応7年)に伴う津波では、甚大な被害を受けました。
1498年という時代は、戦国時代の初期であり(応仁の乱;1467年、明応の政変;1493年)、伊勢の国では、南勢地域を支配する北畠氏、中勢地域を支配する長野氏、亀山・鈴鹿地域を支配する関氏、北勢には多くの地方豪族が割拠する状況でした。1949年には北条早雲が小田原城を奪取しています。ちなみに、北条早雲は伊勢平氏の末裔とされる関氏と同族であるという説が有力です。
現在の三重県津市にあった「安濃津」の港は、室町時代末期に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に、日本の十大港湾として記されている三津・七湊の港湾都市の中に挙げられています。三津とは、安濃津、博多津、堺津です。また、中国明代の歴史書『武備志』には、日本三津・三箇の津(さんがのつ)として安濃津、博多津、防津(現在の鹿児島県南さつま市)が記されています。このように、既に、室町時代に安濃津は繁栄した港街として内外に知られており、数千戸が軒を連ねていたとされています。
しかし、明応地震に伴う大津波が安濃津の港街を襲い、これを壊滅させ、街の繁栄は一瞬の間に消滅してしまいました。その有様は、今回の東日本大震災に襲われた宮城県沿岸地域のような有様であったと推察されます。
当時、津市の岩田川は海岸にそって南行し、海側には海岸砂丘があり、河口から入ったところに天然の防波堤のある波静かな安濃津の港があったとされています。しかし、明応地震にともなう大津波が平野部を襲い、岩田川をさかのぼり、津波が引き返す力によって海岸砂丘が破壊され、その結果、岩田川が現在のように海に直角に注ぐように流路が変わったと推察されています。
明応地震は、東海・東南・南海の3連動地震とされ(推定マグニチュード8.6)、地震に伴う大津波は、各地で大きな被害を発生させました。①神奈川県では由比ヶ浜から鎌倉の大仏殿にまで押し寄せてこれを破壊し、②静岡県沼津市の沿岸では36mの高さにまで達し、②静岡県浜松市・湖西市では、それまで砂丘によって遮られていた場所が津波によって破壊された結果、低湿地であった内陸部に広大な浜名湖が出現し、③静岡県の駿河湾一帯で2万6千人を水死させ、③伊勢湾内では安濃津の港街を壊滅させ、④伊勢市の大湊では波の高さが8~10mに達して「倒壊家屋1000軒、水死者5000余人」(大湊由来記)の被害を出し、⑤鳥羽市の国崎では津波高が15mに達し、伊勢志摩地域だけで1万人を超える被害を出し、⑥熊野灘でも8mを超える高さに達して多くの人命を奪い、⑦和歌山県でも海岸砂丘を突き破り、紀ノ川の流路を流れを変えるほど激しく襲い、和歌の浦にあった橋本港を壊滅させ、⑦四国においても、津波考古学的研究で明応地震の痕跡があちこちで発掘され、愛媛県新居浜市の黒島では津波が島の6~7割を破壊し、神社も破壊し、住民を四散させたと記録されています。
明応地震から28年後に安濃津を通り過ぎた連歌師の宗長は、「此の津、十余年以来荒野となりて、四、五千軒の家、堂塔のみ」(宗長手記)と記しています。
<筆者意訳>繁栄していた安濃津の港街は、明応地震の大津波によって壊滅し、10余年を超える年月を経た今も荒野のままであり、4~5千軒もあった人家の陰はなく、ただ寺の堂塔だけがぽつんとあるだけだ。
このように明応地震とその津波は、関東から四国にかけての各地に大きな被害をもたらしました。伊勢湾沿岸の平野部にも津波が襲い、繁栄していた安濃津の街が破壊されましたが、津波が内陸のどこにまで達し、どの高さにまで達したのかは必ずしも明確ではありません。できれば、津波の到達が想定された地域で、ボーリング調査などを行って、今後、発生が予測される3連動地震に伴う大津波への備えの参考にするとともに、住民への安全意識を高める情報とすべきでしょう。隣の愛知県では歴史的な地震と津波の発生状況を明らかにするための地層調査を行うとのことです。
コラム
明応地震に関係して、上記の①で「鎌倉の大仏殿にまで津波が押し寄せてこれを破壊した」と書きましたが、平成24年8月21日の朝日新聞の記事によりますと、明応地震の3年前(明応4年)に相模トラフ(伊豆半島の伊東市の北側付近から相模湾・太平洋を南東方向に走る)起源の大地震が相模湾内で発生した可能性があるということです。1498年(明応7年)の明応地震は、南海トラフに沿って、駿河湾以西で起こっていますので、明応地震による津波が、伊豆半島の反対側にある鎌倉を8mの高さで襲うということは考えにくく、明応4年に関東で大地震があったので、この時の津波と混同された可能性があるということです。記録的には、明応4年の大地震について古文書(鎌倉大日記)に書かれているようです。
ところで、1703年には相模トラフ起源の巨大地震である元禄関東地震が起こりましたが、その4年後の1707年には南海トラフによる宝永地震が起こり、この時は富士山が噴火しました。相模トラフを起源とする関東の大地震の3~4年後に、南海トラフを起源とする大地震が起こったという歴史的事実には、注意が必要と思われます。東京大地震が近いうちに発生するという予測がある中で、これが南海トラフ地震の引き金となる可能性が否定できないと思われるからです。(この項、平成24年8月21日に記載)
コラム
明応地震に関係して、上記の①で「鎌倉の大仏殿にまで津波が押し寄せてこれを破壊した」と書きましたが、平成24年8月21日の朝日新聞の記事によりますと、明応地震の3年前(明応4年)に相模トラフ(伊豆半島の伊東市の北側付近から相模湾・太平洋を南東方向に走る)起源の大地震が相模湾内で発生した可能性があるということです。1498年(明応7年)の明応地震は、南海トラフに沿って、駿河湾以西で起こっていますので、明応地震による津波が、伊豆半島の反対側にある鎌倉を8mの高さで襲うということは考えにくく、明応4年に関東で大地震があったので、この時の津波と混同された可能性があるということです。記録的には、明応4年の大地震について古文書(鎌倉大日記)に書かれているようです。
ところで、1703年には相模トラフ起源の巨大地震である元禄関東地震が起こりましたが、その4年後の1707年には南海トラフによる宝永地震が起こり、この時は富士山が噴火しました。相模トラフを起源とする関東の大地震の3~4年後に、南海トラフを起源とする大地震が起こったという歴史的事実には、注意が必要と思われます。東京大地震が近いうちに発生するという予測がある中で、これが南海トラフ地震の引き金となる可能性が否定できないと思われるからです。(この項、平成24年8月21日に記載)
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