2013年12月8日日曜日

『仏説無量寿経』四十八願

四十八願
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98

四十八願 (しじゅうはちがん)とは、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩[1] が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。

『仏説無量寿経』のサンスクリット原典[2]である『スカーバティービューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。

浄土宗浄土真宗などの浄土教系仏教諸宗では、特に「第十八願」を重要視する。

第一願
願名 - 無三悪趣の願
原文 - 設我得佛 國有地獄餓鬼畜生者 不取正覺

第二願
願名 - 不更悪趣の願
原文 - 設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺

第三願 
願名 - 悉皆金色の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不悉眞金色者 不取正覺

第四願 
願名 - 無有好醜の願
原文 - 設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺

第五願 
願名 - 宿命智通の願・令識宿命の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺

第六願
願名 - 令得天眼の願・天眼智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得天眼 下至不見百千億那由他 諸佛國者 不取正覺

第七願 
願名 - 天耳遥聞の願・天耳智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得天耳 下至聞百千億那由他 諸佛所説 不悉受持者 不取正覺

第八願 
願名 - 他心悉知の願・他心智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得見他心智 下至不知百千億那由他 諸佛國中 聚生心念者 不取正覺

第九願 
願名 - 神足如意の願・神足智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不得神足 於一念頃 下至不能超過百千億那由他 諸佛國者 不取正覺

第十願 
願名 - 不貪計心の願・漏尽智通の願
原文 - 設我得佛 國中人天 若起想念 貪計身者 不取正覺

第十一願 
願名 - 必至滅度の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覺

第十二願 
願名 - 光明無量の願[3] 
原文 - 設我得佛 光明有能限量 下至不照百千億那由他 諸佛國者 不取正覺

第十三願 
願名 - 寿命無量の願
原文 - 設我得佛 壽命有能限量 下至百千億那由他劫者 不取正覺

第十四願
願名 - 声聞無量の願
原文 - 設我得佛 國中聲聞 有能計量 下至三千大千世界 聲聞縁覺 於百千劫 悉共計挍 知其數者 不取正覺

第十五願
願名 - 眷属長寿の願
原文 - 設我得佛 國中人天 壽命無能限量 除其本願 脩短自在 若不爾者 不取正覺

第十六願
願名 - 離諸不善の願
原文 - 設我得佛 國中人天 乃至聞有 不善名者 不取正覺

第十七願 
願名 - 諸仏称名の願諸仏称揚の願諸仏称讃の願諸仏咨嗟の願往相廻向の願選択称名願・往相正業(略文類)
原文 - 設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者 不取正覺

称讃・称名・咨嗟はともに讃歎の意味であり、名前を称える称名ではない。

第十八願 
願名 - 念仏往生の願選択本願本願三心の願至心信楽の願往相信心の願 
原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法 
訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。 / たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようとと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)[4]わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国[5] に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。[6] 

法然はこの願を最も重要な願ととらえ、『選択本願念仏集』において、「故知 四十八願之中 既以念仏往生之願[7] 而為本願中之王也」と解釈したことから、「王本願」とも呼ばれる。

親鸞は『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」の真意を、「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。としている。

派生…歌舞伎などで「得意とする部分」の意味で用いられる「十八番」(おはこ)は、十八願から出来た言葉との説がある。[8]

 
唯除の文
親鸞は『教行信証』「信巻」や『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」についての了解を述べている。第十八願の願文のうち、「唯除五逆誹謗正法」の文言を「唯除の文」と呼ぶ。 「信巻」では「唯除の文」について、曇鸞の『浄土論註』と善導の『観無量寿経疏』から引用している。

教行信証』「信巻」[9]

 それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今『大経』には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人」[10]と言えり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。
報えて道わく、『論の註』に曰わく、問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。
(中略)
問うて曰わく、かくのごときらの計は、ただこれ己が事なり、衆生において何の苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんや。答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。[11]
(中略)
光明寺の和尚云わく[12]、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。今この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。[13]
—『教行信証』「信巻」



『尊号真像銘文』

 「大無量寿経言」というは、如来の四十八願をときたまえる経なり。「設我得仏」というは、もしわれ仏をえたらんときという御ことばなり。「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえとなり。「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。

—『尊号真像銘文』


第十九願
願名 - 至心発願の願・修諸功徳の願・臨終現前の願・現前導生の願・来迎引接の願・至心発願の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺

第二十願
願名 - 至心廻向の願・植諸徳本の願・係念定生の願・不果遂者の願・欲生果遂の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心回向 欲生我國 不果遂者 不取正覺
果遂について、親鸞は一生果遂の義。この果遂の願のままに、第十九願の仮門から第二十願の真門に入り、第十八願の弘願に転入する三願転入を説く。

第二十一願
願名 - 具足諸相の願
原文 - 設我得佛 國中人天 不悉成滿 三十二大人相者 不取正覺

第二十二願
願名 - 還相廻向の願・必至補処の願・一生補処の願
原文 - 設我得佛 他方佛土 諸菩薩衆 來生我國 究竟必至 一生補處 除其本願 自在所化 爲衆生故 被弘誓鎧 積累德本 度脱一切 遊諸佛國 修菩薩行 供養十方 諸佛如來 開化恆沙 無量衆生 使立無上正眞之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之德 若不爾者 不取正覺

第二十三願
願名 - 供養諸仏の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 承佛神力 供養諸佛 一食之頃 不能徧至 無數無量那由他 諸佛國者 不取正覺

第二十四願
願名 - 供養如意の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 在諸佛前 現其德本 諸所欲求 供養之具 若不如意者 不取正覺

第二十五願
願名 - 説一切智の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 不能演説 一切智者 不取正覺

一切智によって諸法を演説する。

第二十六願
願名 - 得金剛身の願・那羅延身の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 不得金剛那羅延身者 不取正覺

第二十七願
願名 - 万物厳浄の願・所須延身の願
原文 - 設我得佛 國中人天 一切万物 嚴淨光麗 形色殊特 窮微極妙 無能稱量 其諸衆生 乃至逮得天眼 有能明了 辯其名數者 不取正覺

第二十八願
願名 - 道場樹の願・見道場樹の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 乃至少功德者 不能知見 其道場樹 無量光色 高四百万里者 不取正覺

第二十九願
願名 - 得弁才智の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 若受讀經法 諷誦持説 而不得辯才智慧者 不取正覺

第三十願
願名 - 弁才無尽の願・智辯無窮の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 智慧辯才 若可限量者 不取正覺

第三十一願[編集]願名 - 国土清浄の願
原文 - 設我得佛 國土清淨 皆悉照見 十方一切 無量無數 不可思議 諸佛世界 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺

第三十二願[編集]願名 - 妙香合成の願・宝香合成の願
原文 - 設我得佛 自地已上 至于虚空 宮殿樓觀 池流華樹 國土所有 一切万物 皆以無量雜寶 百千種香 而共合成 嚴飾奇妙 超諸人天 其香普薫 十方世界 菩薩聞者 皆修佛行 若不如是者 不取正覺

第三十三願
願名 - 触光柔軟の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 蒙我光明 觸其身者 身心柔輭 超過人天 若不爾者 不取正覺

第三十四願
願名 - 聞名得忍の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 聞我名字 不得菩薩 無生法忍 諸深總持者 不取正覺

第三十五願
願名 - 女人成仏の願・女人往生の願(法然・大経釈)・変成男子の願(親鸞『浄土和讃』)・転女成男の願、聞名転女の願(存覚『女人往生聞書』)
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 其有女人 聞我名字 歡喜信樂 發菩提心 厭惡女身 壽終之後 復爲女像者 不取正覺
第18願の別願。

第三十六願
願名 - 聞名梵行の願・常修梵行の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 常修梵行 至成佛道 若不爾者 不取正覺

第三十七願
願名 - 作礼致敬の願・人天致敬の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸天人民 聞我名字 五體投地 稽首作禮 歡喜信樂 修菩薩行 諸天世人 莫不致敬 若不爾者 不取正覺

第三十八願
願名 - 衣服随念の願
原文 - 設我得佛 國中人天 欲得衣服 隨念即至 如佛所讚 應法妙服 自然在身 若有裁縫 擣染浣濯者 不取正覺

第三十九願
願名 - 常受快楽の願・受楽無染の願
原文 - 設我得佛 國中人天 所受快樂 不如漏盡比丘者 不取正覺

第四十願
願名 - 見諸仏土の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨意欲見 十方無量 嚴淨佛土 應時如願 於寶樹中 皆悉照見 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺

第四十一願
願名 - 聞名具根の願・諸根具足の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 至于得佛 諸根闕陋 不具足者 不取正覺

第四十二願
願名 - 聞名得定の願・住定供仏の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 清淨解脱三昧 住是三昧 一發意頃 供養無量 不可思議 諸佛世尊 而不失定意 若不爾者 不取正覺

第四十三願
願名 - 聞名生貴の願・生尊貴家の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覺

第四十四願
願名 - 聞名具徳の願・具足徳本の願
原文…設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 歡喜踊躍 修菩薩行 具足德本 若不爾者 不取正覺

第四十五願
願名 - 聞名見仏の願・住定見仏の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 普等三昧 住是三昧 至于成佛 常見無量 不可思議 一切諸佛 若不爾者 不取正覺

第四十六願
願名 - 随意聞法の願
原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨其志願 所欲聞法 自然得聞 若不爾者 不取正覺

第四十七願
願名 - 聞名不退の願・得不退転の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 不退轉者 不取正覺

第四十八願
願名 - 得三法忍の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 第一第二第三法忍 於諸佛法 不能即得 不退轉者 不取正覺

分類
慧遠・憬興
中国の慧遠と憬興(きょうごう)は3つに分類している。其々の名と分類は以下の通り。
  1. 摂法身願・求仏身願 仏が自らの仏身を完成すること…第十二願第十三願第十七願
  2. 摂浄土願・求仏土願 衆生を往生せしめる仏土の完成…第三十一願第三十二願
  3. 摂衆生願・利衆生願 正しく衆生の救済を願うもの…その他の43願


親鸞
親鸞は、「浄土三部経」と七高僧の論釈章疏に依り『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著し、「真実」と「方便」を顕かにしている。また、『教行信証』を注釈した存覚の『六要鈔』では「真実というのは、これ仮権に対す」としている。仮権はすなわち「権仮」(ごんけ)である。

最終更新 2013年11月15日

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如来の本願
親鸞聖人は、『教行信証』の中に、

「如来の本願を説きて経の宗致とす。」と説かれています。
阿弥陀仏(如来)の本願を説いているのが、『無量寿経』であり、

この経を浄土真宗はかなめとしています。
『無量寿経』には、

如来の本願をお釈迦様が48個の願として説き明かしています。
(代弁して解るように解き明かしています。)
当山住職の研修を兼ねて、諸師の解説を参考にして、

上記の願を味わった結果をまとめてみました。
1願
無三悪趣の願
26願
得金剛身の願
2願
不更悪趣の願
27願
万物厳浄の願
3願
悉皆金色の願
28願
道場樹の願 
4願
無有好醜の願
29願
得弁才智の願 
5願
令識宿命の願
30願
弁才無尽の願 
6願
令得天眼の願
31願
国土清浄の願 
7願
天耳遙聞の願
32願
妙香合成の願 
8願
他心悉知の願
33願
触光柔軟の願 
9願
神足如意の願
34願
聞名得忍の願 
10願
不貪計心の願
35願
女人往生の願 
11願
必至滅度の願
36願
聞名梵行の願 
12願
光明無量の願
37願
作礼致敬の願 
13願
寿命無量の願
38願
衣服随念の願 
14願
声聞無量の願
39願
常受快楽の願 
15願
眷属長寿の願
40願
見諸仏土の願 
16願
離諸不善の願
41願
聞名具根の願 
17願
諸仏称名の願
42願
聞名得定の願 
18願
至心信楽の願
43願
聞名生貴の願 
19願
至心発願の願
44願
聞名具徳の願 
20願
至心廻向の願
45願
聞名見仏の願 
21願
具足諸相の願
46願
随意聞法の願 
22願
還相回向の願
47願
聞名不退の願 
23願
供養諸仏の願
48願
得三法忍の願 
24願
供養如意の願
 
 
25願
説一切智の願
 
 
  
 

如来の本願
(NO.3)
経の漢文現代語和文内容住職の味わい
第11願:必至滅度の願
  設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚 わたしの国の天人や人々は正定聚に入り、必ずさとりを得ることができる。 自らの人格を高め、人生を創造することができる人が正定聚であり、人生ジンセイ目標モクヒョウでしょう。このヒトはもう後退コウタイすることなく、カナラず必至滅度(涅槃)の境地キョウチ到達トウタツできるのです。
第12願:光明無量の願
  設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚 光明に限りなく、数限りない仏がたの国々を照らすことができる。 ここからは、阿弥陀仏アミダブツ自身ジシン決意ケツイ表明ヒョウメイガンです。一切衆生の上に諸仏を見出して、一人ひとりの世界を理解する。また、身放の光明を働きかけて、その徳に帰依させ、感化させる。十方衆生を助けたいという願です。
第13願:寿命無量の願
  設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚 寿命に限りなく、はかり知れない遠い未来にまで尽きることがない。 現在ゲンザイツネ未来ミライから過去カコナガれている。この現在は、無限の過去をもち無限の未来をもっている。どこまでさかのぼればいいのかわからない罪悪とどこまでいけば尽きるかわからない執念のワタシタチを、阿弥陀如来は一貫して見護り、抱きしめつづけてくださるのです。
第14願:声聞無量の願
  設我得仏国中声聞有能計量下至三千大千世界声聞縁覚於百千劫悉共計校知其数者不取正覚 わたしの国の声聞の数に限りがない。世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算しても、その数を知ることができない。 たった一つの能力や経験だけで、人間を選別することのない世界、みんなが一つの場で、如来のみ教えを聞くことのできる世界を実現ジツゲンしよう。そして、自己本来の仏性に眼ざめさせよう。声聞とは、如来の声を聞く人です。すべての人を選別することなしに受け入れる世界を実現しようというガンです。
第15願:眷属長寿の願
  設我得仏国中人天寿命無能限量除其本願修短自在若不爾者不取正覚 わたしの国の天人や人々の寿命には限りがない。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、ノゾく。 信心そのものが長生の法であり、不死の法である。信心の人になれば、年齢ネンレイや此の世の命ということに頓着なくなって、自分の心持ちは、長生不死の身の上になったと喜ぶことができるのです。
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浄土教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99   
浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏極楽浄土往生成仏することを説く教え。「浄土門」、「浄土思想」とも。
また「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰をいう。「浄土信仰」とも。
阿弥陀信仰について
日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つが、ともすれば偶像崇拝や、阿弥陀如来のみを尊び、他の仏を排する一神教的信仰思想に陥りやすい側面もある。



浄土について
「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原義であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし中国・日本においては、浄土教の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。

関連経典
日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。

『仏説無量寿経』
『無量寿経』の漢訳のひとつである『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)には、法蔵菩薩という名で修行していた時に「世自在王仏」の教えを受け、ほとんど無限とも言える間、思惟して四十八願を誓い、その後、修行を積み誓願を完成させ仏(阿弥陀如来)となったと説かれる。

日本において、単に『無量寿経』といえば『仏説無量寿経』を指す。

法華経には阿弥陀如来の名前が出てくるほか、『薬王菩薩本地品』には、この経典をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろうと書かれている。

歴史
インド
浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代である。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。
 
浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹150年 - 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」[1]天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある。
 
なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。

中国
中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山慧遠334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる。
 
やがて山西省玄中寺を中心とした曇鸞476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。 その曇鸞の影響を受けた道綽562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。
道綽の弟子である善導613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。

こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。
その後慧日680年 - 748年)、善導の浄土教を基盤に、「浄土」と「禅」を並行して修法することを主張する。その影響で中国では浄土教をなどの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。
その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。
法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類[2]する。

日本
飛鳥時代・奈良時代
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。

平安時代
平安時代初期
円仁
承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧[3]に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。

良源  良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。 こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる    

平安時代中期
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「」(ひじり)という。

空也 
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。   また、空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。

源信 
源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。    『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。    986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。  源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行し

慶滋保胤 
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。 後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。  この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。 こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。 平安時代末期「末法」の到来   「

末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。 

本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある[4]              

天台以外でも三論宗永観1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。

 鎌倉時代
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)

また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。

末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新興宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。[5]

法然
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。

1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)  

法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。

また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。

親鸞
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
[6]

1181年に比叡山に登る。

1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。

宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。

一遍
一遍は(1239年-1289年)は、時宗

の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗浄土宗浄土真宗時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。

 蓮如
本願寺は、親鸞の曾孫である覚如1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如1415年-1499年)によって再興する。

寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。

文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。

信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。

蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)

その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。) 
関連項目
阿弥陀三尊 

最終更新 2013年9月24日

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仏説無量寿経

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E4.BB.8F.E8.AA.AC.E7.84.A1.E9.87.8F.E5.AF.BF.E7.B5.8C

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大乗仏教

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、マハーヤーナ, : महायान, : Mahāyāna Buddhism)は、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。
 
概要

大乗(Mahā偉大な yāna乗り物)という語は、『般若経』で初めて見られ、摩訶衍まかえんと音写され、一般に大乗仏教運動は『般若経』を編纂護持する教団が中心となって興起したものと考えられている。般若経典の内容から、声聞の教え、すなわち部派仏教の中でも当時勢力を誇った説一切有部を指して大乗仏教側から小乗仏教と呼んだと考えられているが、必ずしもはっきりしたことは分かっていない。なお思想的には、大乗の教えは釈迦死去の約700年後に龍樹ナーガールジュナらによって理論付けされたとされる。

一方、釈迦の教えを忠実に実行し、涅槃(輪廻からの解脱)に到ることを旨とした上座部仏教に対し、それが究極においてみずからはどこまでも釈迦の教えの信奉者というにととどまるもので、自身が「ブッダ」(如来)として真理を認識できる境地に到達できないのではないかという批判的見地から起こった仏教における一大思想運動という側面もある。釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。この傾向は『般若経』には希薄だが、明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。

自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは大乗以前の仏教界で行われていたものではない。紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応えることができなくなっていたとされるが、出家者ではない俗世間の凡夫でもこの利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において成仏できる(ブッダに成れる)と宣言したのが大乗仏教運動の特色である。声聞縁覚は人間的な生活を否定して涅槃を得てはいるが、自身はブッダとして新しい教えを告げ衆生の悩みを救える、というわけではない。が、大乗の求道者は俗世間で生活しながらしかも最終的にはブッダに成れると主張し、自らを菩薩摩訶薩と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創りだしていった。

発展の諸相
ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えはすでに大乗以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは時空間を別にしたそれぞれの世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の薬師如来などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。

この思想運動が古代から続くタントリズムと結びつき、ブッダとは非歴史的な「物自爾」ともいうべき存在(法身)の自己表現であるという視点が生まれ、その存在を大日如来と想定した。それ以前の、歴史としておもてに表れた部分(顕教)の背後に視座を置くことからこの仏教を顕教から区別して「密教」という。密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされる。心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ三密加持を行じ、みずからこの非歴史的存在を象徴することで成道できるとする「即身成仏」を唱えた。

そのほか、釈迦が入滅してから1500年が経過すると仏教はその有効性を失うとする末法思想を背景に、末法の世において娑婆世界で成道すること(自力聖道門)の困難を主張し、それを放棄することでいったん阿弥陀仏の極楽浄土へ往生してから成道すること(他力浄土門)を提唱する浄土教も起こった。

上座部仏教と大乗仏教、顕教と密教、自力門と他力門など互いに相容れないように見える教義がひとつの宗教にあることは不思議なようであるが、もちろんすべての宗派に共通しているのは仏教の証しとされる三法印である。

伝播

紀元前後より、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国朝鮮日本ベトナムに伝わっている(北伝仏教)。またチベットは8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアにまで拡大されていった(チベット仏教)。

7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教神秘主義の一潮流であるタントラ教Tantra または Tantrism)と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができとなること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベットブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。

考古学的には、スリランカ、そして東南アジアなど、現在の上座部仏教圏への伝播も確認されている。スリランカでは東南部において遺跡が確認されており、上座部仏教と併存した後に12世紀までには消滅したようである。また、東南アジアではシュリーヴィジャヤなどが大乗仏教を受入れ、その遺跡は王国の領域であったタイ南部からスマトラジャワなどに広がっている。インドネシアのシャイレーンドラ朝ボロブドゥール遺跡なども著名である。東南アジアにおいてはインドと不可分の歴史的経過を辿り、すなわちインド本土と同様にヒンドゥー教へと吸収されていった。

紀元前5世紀頃 : インドで仏教が開かれる(インドの仏教
紀元前3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教
紀元後1世紀 : 中国に伝わる(中国の仏教
4世紀 : 朝鮮半島に伝わる(朝鮮の仏教
538年 : 日本に伝わる(日本の仏教
7世紀前半 : チベットに伝わる(チベット仏教
11世紀 : ビルマに伝わる(東南アジアの仏教
13世紀 : タイに伝わる(東南アジアの仏教
13-16世紀 : モンゴルに伝わる(チベット仏教)
17世紀 : カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
18世紀 : 南シベリアに伝わる(チベット仏教)
 
 関連項目
唯識
六波羅蜜

最終更新 2013年3月7日

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阿弥陀如来

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教如来の一つである。梵名は「アミターバ」(अमिताभ Amitābha)、あるいは「アミターユス」 (अमितायुस् Amitāyus)といい、それを「阿弥陀」と音写する。「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。

梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏無量寿仏ともいう。無明現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。

三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種字)はキリーク(hriiH)。
 
ファイル:小野浄土寺三尊.jpg
阿弥陀三尊(浄土寺)

典拠と信仰

浄土三部経

浄土三部経」の内、『無量寿経』と『阿弥陀経』の成立時期については、無量寿経の成立時期と編纂者を参照。

観無量寿経』については、サンスクリット原典が2011年現在発見されていない。中央アジアで作成されたと考えられる。

佛説無量寿経
一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五思惟[1]し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。

特に浄土教諸宗においては、「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。


佛説阿弥陀経
「極楽」のありさまと、阿弥陀仏の徳が説かれる。東方・西方・南方・北方・下方・上方世界のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されていると説かれる。そして「極楽」に生まれる方法[2]が説かれる。

浄土真宗

浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力[3]にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。

末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力[4])では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力[5]」によってのみ救済されるとする。

釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。

チベット仏教

チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。また、ゲルク派第二位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされる。チベット死者の書によれば、(大日如来阿閦如来宝生如来に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされる。

その他の経典における阿弥陀如来

浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。 法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されている。 仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されている。 大乗離文字普光明蔵経[6]においても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれている。

成立年代
阿弥陀仏信仰の成立年代とその地域については、仏像にせよ、文献にせよ、特定の手がかりとなるものが少ない。しかし、浄土系経典に用いられる仏教用語は部派仏教のそれを下敷きとしており、少なくとも部派仏教確立より以後の成立と考えられる。また浄土系経典の漢訳者の出身地は西域および北インドが多いことから、これらの地域で阿弥陀仏信仰が盛んであったことがうかがえる。

また、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア系のインド・グリーク朝やイラン系のクシャーナ朝などの支配のもと、北インドと西方世界の交流があったことを背景に、ゾロアスター教ミトラ教、あるいはキリスト教などが阿弥陀仏信仰の成立に影響したとの説も一部で見られるが、いまだ客観的根拠に乏しい。

碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。記銘によると、クシャーナ朝のフヴィシカ王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。

阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。

西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。

日本語への影響
鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。

十八番(おはこ)
前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指す。(市川家の家の芸歌舞伎十八番の台本を箱入りで保存したことからともいう。)

あみだくじ
あみだくじの形は元々線を中心から周りに放射状に引いたものであり、それが阿弥陀如来像の光背に似ていたことから[7]

あみだ被り
帽子やヘルメットを後頭部にひっかけるように浅く被ること。上記と同じく見た目が光背に似ていることから。

他力本願
前述のとおり努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意味を誤解・誤用した語である。




真言・陀羅尼

小咒は、オン・アミリタ・テイセイ(新義真言宗等一部宗派では『テイゼイ』と読む)・カラ・ウン。
 
大咒(無量寿如来根本陀羅尼)は、ノウボウ・アラタンノウトラヤーヤ・ノウマク・アリヤーミターバーヤ・タタギャタヤアラカテイ・サンミャクサンボダヤー・タニャタ・オン・アミリテイ・アミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイ・アミリタギャラベイ・アミリタシッテイ・アミリタテイセイ・アミリタビキランデイ・アミリタビキランダギャミネイ・アミリタギャギャノウキチキャレイ・アミリタドンドビソワレイ・サラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウキャレイ・ソワカ。

垂迹神
 最終更新 2013年12月3日

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上座部仏教

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99


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Gold nugget 砂金

https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/70833/1/18804330_59_07.pdf

砂金の成長についての一考察( fulltext )

Author(s) 本間, 久英
Citation 東京学芸大学紀要. 自然科学系, 59: 49-53
Issue Date 2007-09-00
URL http://hdl.handle.net/2309/70833
Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会
Rights

東京学芸大学紀要 自然科学系 59 pp.49~53,2007

砂金の成長についての一考察
本 間 久 英*
自然科学系宇宙地球分野
(2007年 5 月25日受理)
HONMA, H.: A Consideration on Growth of Placer Gold. Bull. Tokyo Gakugei Univ. Natur. Sci., 59: 49-53 (2007) ISSN 1880-4330
Abstract
Our understanding of the physico-chemical details on the accumulation or formation of gold in alluvial placer is still poor, especially
with respect to the formation of nuggets as Boyle (1979) has mentioned. In this paper, the change, growth or formation of placer
gold, namely the keystone that “gold grows in placer”, and the formation of nuggets are discussed and considered on the basis of the
experimental results on the dissolution and precipitation of gold and/or silver in previous papers of the author and coworkers.
(in Japanese)
Key words: placer gold, morphology, dissolution and precipitation of Au
Department of Astronomy and Earth Science, System of Natural Science, Tokyo Gakugei University, 4-1-1 Nukui-kita-machi, Koganeishi,
Tokyo 184-8501, Japan

Ⅰ.はじめに
Boyle(1979)の著書に,「There is an adage that “gold
grows in placer”」と書かれている。また,武井(1982)
の著書の中にも,砂金掘り仲間の間で「砂金は土の中で
おがる」という言葉があることを記している。「おがる」
とは成長するという意味である。これらの言葉の一般的
な意味は,大雨や洪水の後に新たに砂金が現れたりする
ことを表現したものと言われている。しかし,彼らも述
べているように,扁平な形をした砂金や鱗片状の砂金は
普通に見られるが,砂金の珍しい形として,金の結晶,
針金状のもの,葉片状のもの,羽毛状のもの,毛髪状の
もの,樹枝状のもの,網状のもの,繊維状のもの,こけ
状のもの,スポンジ状のものなどが知られている。これ
らの珍しい形態を示す砂金の一部のものはまさにその場
でおがる(成長する)ものがあるのではないだろうか。

すなわち,金はある溶液に溶け,おそらく錯イオンとし
て運ばれ,ある場所で還元・沈殿し,結晶成長している
ことは十分に考えうる。しかし,Boyle(1979)も言ってい
るように,砂金の生成・集積等に関してはまだ不明の点
が残されていることも事実である。
そこで,今回は,筆者と共同研究者が行った金の溶
解・沈殿の実験データから,砂金の生成や成長,沈殿な
ど,所謂砂金が「おがる」ことなどについて考察して行
きたいと思う。
なお,ここではアメリカのブラック・ヒルや南アフリ
カのウィットウォータースランドのような所謂埋没砂金,
すなわち,古い時代の砂金については議論しない。
II.砂金の定義及び本邦のゴールドラッシュ等について
砂金は一般的にはエレクトラムと言う金―銀の合金で

あるが,ここでは天然産のものについての記載には全て
砂金または金と表現する。
砂金は学術的に次の様に定義されている。すなわち,
含金鉱床の露頭が風化・浸食を受けて,金粒が多少とも
現地を離脱し,砂礫土層部に集積したものである。一般
的には,金粒が砂や礫とともに堆積したものであり,普
通は丸みを帯びた扁平状の小粒または鱗片状などを呈
するが,時として,数kgから数十kgの大きな塊(金塊)
として産することもある。
一方,砂金の濃集部,すなわち,砂金漂砂鉱床は,そ
の産状,特に砂金の生成時期によって大きく二つのタイ
プに分けられている。すなわち,第四紀(一部第三紀末
を含む場合がある)に形成された浅在砂金(鉱床)であ
り,他は先カンブリア時代から第三紀にかけて形成され
た埋没砂金(鉱床)である。例えば,前者には本邦の多
くの砂金鉱床がそれにあたる。その他,アメリカ・アラ
スカ州のクロンダイクやノーム海岸の例が挙げられる。
後者の例としては,アメリカ・シェラネバダの一部は第
三紀砂金(鉱床)であり,クラマト山のものは中生代砂
金(鉱床)であり,ブラック・ヒルのものは古生代砂金
(鉱床)であり,南アフリカのウィットウォータースラン
ドの含金礫岩層は原生代砂金(鉱床)である。
なお,世界の砂金漂砂鉱床に関する研究史,産状,生
成過程などについては,Boyle(1979)の著書に端的にま
とめられているのでそれを参照されたい。
本邦において,江戸時代以前,すなわち,佐渡金山発
見(17世紀前半)以前は,金と言えば砂金から採取して
いたと言っても過言ではない。そして,砂金や金は恩賞
として,通貨としてのみならず,装飾品や大仏を含む仏
像などに利用された。更に,マルコポーロの東方見聞録
に黄金の国ジパングと言わしめた一つには,奥州藤原清
衡による中尊寺金色堂建立などの話もあったのだろう。
その後は,足利義満による鹿苑寺金閣や豊臣秀吉による
大阪城の金の茶室などといろいろなものに多量の金が利
用されてきた。そのような金をまかなったのが,前述の
様に所謂砂金である。特に平安時代から鎌倉時代にかけ
て,北上山地などで広く採取された砂金は古来から柴金
と称され,浅在砂金(鉱床)の中の現地砂金(鉱床)と
言われるものである。おそらく当時,北上山地はまさに
本邦における第一期のゴールドラッシュと呼ぶにふさわ
しい状況であっただろう。その金などを利用した結果,
奥州藤原三代(清衡,基衡,秀衡)の繁栄を見たといっ
てもよいであろう。

江戸時代に入り,その初頭に野菜についた泥に混じっ
ていた砂金をたどって行き,つまるところ佐渡金山が発
見されるが,一方において,「蝦夷に関する耶蘇士の報
告」(武井より引用)によれば,蝦夷(北海道)で,元
和元年(1615年)から盛んに砂金の採取が行われた。そ
して寛永年間(1624-1643年)には最盛期を迎えたと言
う。ちなみに,武井によれば,元和5年(1619年)には
5万人,同6年(1620年)には8万人もの人々が砂金採
取に従事したと言う。最盛期の寛永年間にはその数を上
回った人数であったろうと推察される。なお,元和年間
当時の松前での和人の数が1万人と言うから,いかに砂
金採取に多くの人々が群がったかが伺える。まさに,第
二期のゴールドラッシュという時代であった。さらに,
元文4年(1739年)の「北海随筆」(武井より引用)に
は羽幌砂金について,「春秋の大洪水にあたり翌日は砂
浜は黄金色に変われり」と記されており,場所によって
は,砂金が「おがり」,それなりの量が採取されていた
ものと思われる。その数十年後,平賀源内は,武蔵国の
荒川で砂金を採取し,その起源を突き詰めて秩父鉱山に
たどり着いた。しかし,彼はこのときの鉱山開発には失
敗をしている。

そして,明治時代から大正時代にかけて,北海道,特
に北見国枝幸地方で第三期と言ってもよいゴールドラッ
シュ現象が起こった。それは,明治33年(1900年)9月,
枝幸のウソタンナイ川上流で握りこぶし大の金塊が採取
されたことが端緒となった。その他には同じ北海道の石
狩川や鵜川流域などでも砂金が採取された。大正年間に
書かれた谷孫六の「ガンバリズム」には,「金儲けをす
るには,北海道天塩国トイカンベツ川の上流に行けば,
砂金,砂白金がゴロゴロしている」(武井より引用)と記
されている。また,石狩川,鵜川流域の砂金には,珍し
い形態の羽毛状のものや樹枝状のものが産出することで
も知られている。

一方,金沢や金砂郷など金のついた地名があるという
ことは,その付近で砂金が採取されたり,金を加工する
ような場所であったことを表しているものと思われる。

III.金,合成エレクトラムの溶解実験
鹿園ほか(1990)は,150℃で金を塩酸と反応させた
結果を報告している。彼らによれば,3 N塩酸(反応
期間60日,以下同様)で83ppm,6 N塩酸(100日)で
24,382ppmの金が溶解したことを述べている。単一の酸
において,これだけの金が溶解した例はいまだかって
報告がない。また,臭酸―水( 1:1 ),沃化水素酸―
あるが,ここでは天然産のものについての記載には全て
砂金または金と表現する。

砂金は学術的に次の様に定義されている。すなわち,
含金鉱床の露頭が風化・浸食を受けて,金粒が多少とも
現地を離脱し,砂礫土層部に集積したものである。一般
的には,金粒が砂や礫とともに堆積したものであり,普
通は丸みを帯びた扁平状の小粒または鱗片状などを呈
するが,時として,数kgから数十kgの大きな塊(金塊)
として産することもある。

一方,砂金の濃集部,すなわち,砂金漂砂鉱床は,そ
の産状,特に砂金の生成時期によって大きく二つのタイ
プに分けられている。すなわち,第四紀(一部第三紀末
を含む場合がある)に形成された浅在砂金(鉱床)であ
り,他は先カンブリア時代から第三紀にかけて形成され
た埋没砂金(鉱床)である。例えば,前者には本邦の多
くの砂金鉱床がそれにあたる。その他,アメリカ・アラ
スカ州のクロンダイクやノーム海岸の例が挙げられる。
後者の例としては,アメリカ・シェラネバダの一部は第
三紀砂金(鉱床)であり,クラマト山のものは中生代砂
金(鉱床)であり,ブラック・ヒルのものは古生代砂金
(鉱床)であり,南アフリカのウィットウォータースラン
ドの含金礫岩層は原生代砂金(鉱床)である。

なお,世界の砂金漂砂鉱床に関する研究史,産状,生
成過程などについては,Boyle(1979)の著書に端的にま
とめられているのでそれを参照されたい。

本邦において,江戸時代以前,すなわち,佐渡金山発
見(17世紀前半)以前は,金と言えば砂金から採取して
いたと言っても過言ではない。そして,砂金や金は恩賞
として,通貨としてのみならず,装飾品や大仏を含む仏
像などに利用された。更に,マルコポーロの東方見聞録
に黄金の国ジパングと言わしめた一つには,奥州藤原清
衡による中尊寺金色堂建立などの話もあったのだろう。
その後は,足利義満による鹿苑寺金閣や豊臣秀吉による
大阪城の金の茶室などといろいろなものに多量の金が利
用されてきた。そのような金をまかなったのが,前述の
様に所謂砂金である。特に平安時代から鎌倉時代にかけ
て,北上山地などで広く採取された砂金は古来から柴金
と称され,浅在砂金(鉱床)の中の現地砂金(鉱床)と
言われるものである。おそらく当時,北上山地はまさに
本邦における第一期のゴールドラッシュと呼ぶにふさわ
しい状況であっただろう。その金などを利用した結果,
奥州藤原三代(清衡,基衡,秀衡)の繁栄を見たといっ
てもよいであろう。

江戸時代に入り,その初頭に野菜についた泥に混じっ
ていた砂金をたどって行き,つまるところ佐渡金山が発
見されるが,一方において,「蝦夷に関する耶蘇士の報
告」(武井より引用)によれば,蝦夷(北海道)で,元
和元年(1615年)から盛んに砂金の採取が行われた。そ
して寛永年間(1624-1643年)には最盛期を迎えたと言
う。ちなみに,武井によれば,元和5年(1619年)には
5万人,同6年(1620年)には8万人もの人々が砂金採
取に従事したと言う。最盛期の寛永年間にはその数を上
回った人数であったろうと推察される。なお,元和年間
当時の松前での和人の数が1万人と言うから,いかに砂
金採取に多くの人々が群がったかが伺える。まさに,第
二期のゴールドラッシュという時代であった。さらに,
元文4年(1739年)の「北海随筆」(武井より引用)に
は羽幌砂金について,「春秋の大洪水にあたり翌日は砂
浜は黄金色に変われり」と記されており,場所によって
は,砂金が「おがり」,それなりの量が採取されていた
ものと思われる。その数十年後,平賀源内は,武蔵国の
荒川で砂金を採取し,その起源を突き詰めて秩父鉱山に
たどり着いた。しかし,彼はこのときの鉱山開発には失
敗をしている。

そして,明治時代から大正時代にかけて,北海道,特
に北見国枝幸地方で第三期と言ってもよいゴールドラッ
シュ現象が起こった。それは,明治33年(1900年)9月,
枝幸のウソタンナイ川上流で握りこぶし大の金塊が採取
されたことが端緒となった。その他には同じ北海道の石
狩川や鵜川流域などでも砂金が採取された。大正年間に
書かれた谷孫六の「ガンバリズム」には,「金儲けをす
るには,北海道天塩国トイカンベツ川の上流に行けば,
砂金,砂白金がゴロゴロしている」(武井より引用)と記
されている。また,石狩川,鵜川流域の砂金には,珍し
い形態の羽毛状のものや樹枝状のものが産出することで
も知られている。

一方,金沢や金砂郷など金のついた地名があるという
ことは,その付近で砂金が採取されたり,金を加工する
ような場所であったことを表しているものと思われる。

III.金,合成エレクトラムの溶解実験
鹿園ほか(1990)は,150℃で金を塩酸と反応させた
結果を報告している。彼らによれば,3 N塩酸(反応
期間60日,以下同様)で83ppm,6 N塩酸(100日)で
24,382ppmの金が溶解したことを述べている。単一の酸
において,これだけの金が溶解した例はいまだかって
報告がない。また,臭酸―水( 1:1 ),沃化水素酸―
水( 1:1 )の液と金を150℃,60日間反応させたところ,
各々,4,618ppmと12,210ppmもの溶解をしたことを報告
した。この結果を一般的に見れば,溶液中に存在する塩
素イオンよりも臭素イオン,沃素イオンの存在下かつ同水
( 1:1 )の液と金を150℃,60日間反応させたところ,
各々,4,618ppmと12,210ppmもの溶解をしたことを報告
した。この結果を一般的に見れば,溶液中に存在する塩
素イオンよりも臭素イオン,沃素イオンの存在下かつ同

一条件においては,この順により多くの金が溶解するで
あろうことを示している。更に,Shikazono et al(. 1992)
は150℃で6N塩酸に金が22,000ppm以上も溶解したこと
を報告している。この結果,塩素イオン系酸性溶液が従
来のデータに比べてかなり多量の金を溶かしうることを
証明した。中田ほか(1996)は,150℃で金を塩酸の濃
度を変えた系で反応させた結果を報告している。彼らに
よれば,0.1N塩酸(59日)で34ppm,1N塩酸(273日)
で1.667ppm,3N塩酸(70日)で1.538ppm,6N塩酸(60日)
で986ppm,9 N塩酸(79日)で34ppm,12N塩酸(296日)
で72ppmという結果を得ている。このデータからは,塩
素イオン濃度と金の溶解量とは比例せず,金の溶解は1
~ 3 Nと言う比較的低濃度領域の塩酸溶液によく溶解し
ていることが伺える。

一方,Honma et al(. 1991a)は,金銀比率を変えた合成
エレクトラムと6 N塩酸を150℃,120日間反応させた結
果を報告している。彼らによれば,金銀の原子比(以降,
金銀比と記す)が10:90の系では,溶液中に金が2.8ppm
(0.47%),銀が508ppm(17.16%),金銀比25:75の系で
は金0.3ppm(0.02%),銀110ppm(3.13%),金銀比50:
50の系では金171ppm(5.94%),銀89ppm(5.62%),金
銀比75:25の系では金532ppm(12.05%), 銀212ppm
(26.3%),金銀比90:10の系では金367ppm(8.65%),銀
452ppm(20.1%)の溶出が見られた。この実験結果か
ら,金の溶出は金銀比25:75以下ではほとんど見られな
いが,銀の溶出はある程度はある。それに比べ,金銀比
50:50以上の系では多量の金を溶出している。また,銀
は量的には少ないが比率的にはかなり溶出していること
がわかる。

また,大沢ほか(1993)や中田ほか(1994)は各々,
合成エレクトラムと水硫化ナトリウム溶液及び硫化ナト
リウム溶液との反応結果を報告している。彼らによれば,
金銀比に応じて金の溶出が見られるが,最大で13ppmで
あった。銀は全ての系で0ppmであった。すなわち,銀
は硫化物として合成エレクトラムの外縁に沈殿している
ためである。また,彼らは,金銀原子比10:90の合成エ
レクトラムが金,銀の溶解・溶出により小さくなった状
態のものを分析し,最大で金銀比約60:40のエレクトラ
ムにまで変化したことを報告している。
これらの結果から,塩素イオン種を含む酸性溶液は金
や銀を,硫黄イオン種を含む溶液はエレクトラムの銀を
溶解・溶出することに寄与していることが言える。

IV.金の沈殿実験
本間・藤井(1981)は,常温で塩化金酸溶液とシリカ
ゲルあるいは炭酸カルシウム粉末における塩化金イオン
の金還元・沈殿実験をしている。その結果,シリカゲル
系では酸性領域でのみ塩化金イオンの還元・沈殿(シリ
カゲル中には赤味や青味を帯びた微細な金のバンドが見
られ,シリカゲル上には肉眼的な金の結晶が生成した)
が認められた。炭酸カルシウム系では弱~微アルカリ領
域でわずかな金の還元・沈殿が認められた(青味を帯び
た微細な金のみの生成)ことを報告している。シリカゲ
ルによる塩化金イオンの還元・沈殿機構について,Fujii
et al(. 1977)は実験系内に生じたわずかな過酸化水素の
発生を暗示し,それによる還元機構を述べている。また,
本間ほか(1983)は,シリカゲル系では細かいシリカゲ
ルほど塩化金イオンの金還元能力があることを示してい
る。炭酸カルシウム系では本間・藤井(1981)と同様,
金還元能力の低いことを示している。また,活性炭を用
いた系においては,実験開始から1~3日で全ての塩化
金イオンの金を還元・沈殿してしまった。つまり,活性
炭にはかなりの還元能力があることを示した。
一方,大沢ほか(1998)は,水酸基,アルデヒド基及
びカルボキシル基などを含む物質と塩化金イオンの還元
との関係を調べた。その結果,酢酸(カルボキシル基)
―エタノール(水酸基)―蟻酸(カルボキシル基+アル
デヒド基)の順に塩化金イオンの金還元能力が高いこと
を示した。更に,分子量の大きいフミン酸では反応時間
の増加や反応温度の高温化に従って塩化金イオンの金還
元量が増えることを報告している。
V.考  察
Boyle(1979)に引用されているように,多くの文献に
よれば,それぞれの砂金の産地における金品位は,通常
それがもたらされたであろう元の鉱床中の金の金品位よ
りも高いことが述べられている。更に,金の露頭(元の
鉱床)から遠くなればなるほど,そして,砂金粒の大き
さが小さくなるほど金品位は高くなる傾向にあることも
知られている。それらの原因としては,元の金粒に含ま
れる銀成分が抜け出すような都合のいい条件下での酸化
作用の結果として考えられている。このことについて,
筆者等の実験データから,一つの可能性として次のよう
なことが考えられる。すなわち,さほど濃度の高くない
塩素イオンを含む溶液にしても,また,硫黄イオン種を
含む溶液にしても,すなわち,言い換えれば,第四紀の
火山性酸性熱水(温泉水)と見なしていいような溶液と
(砂)金粒との長期間の反応によって,前述の実験結果
のように金に比べ銀の溶出率が高いことなどから,より
金品位の高い砂金粒になること,更に,元の金粒に比べ,
溶出の結果,その大きさが小さくなると言う実験結果と
前述の天然での産状がよく一致する。また,これらの溶
液が砂金粒との反応期間が短ければ,砂金粒の周縁部
がより金品位に富む状態になることも実験結果から推察
できる。ただし,この場合のもう一つの考え方は,元の
砂金粒の外側に新たに金が沈殿して,周縁部の金品位が
高くなったこともあり得るだろう。このような場合には,
元の金粒より大きな砂金粒として産することもあるだろ
う。金の沈殿のみならず,Honma and Nakata(1986)によ
れば,常温でもエレクトラムの生成が報告されているの
で,そのようなものの沈殿も考えられる。

また,結晶,樹枝状や羽毛状などの珍しい形態を示
す砂金については,元の鉱床中にあったそのような形態
の金粒が,多少なりとも溶解され,運搬されたものと解
釈すれば,その運搬過程で,砂粒や礫などとの衝突や
摩擦などの影響が考えられる。すなわち,結晶や樹枝状
などの形態を示すものは,溶解したり,摩耗したり,つ
ぶされるため,元のきれいな形態を保っていることは考
えにくい。しかし,現実には,それら繊細な結晶形態を
示すものの中には,きれいな形態を示すものがある。こ
のことは,元の鉱床から運ばれてきたのではなく,上述
の溶液などによって金粒が溶かされ,金錯イオンとして
運ばれてきたものがその場で金が還元・沈殿したした
もの,すなわち,その場で「おがった」ものとして理解
した方がよいと思われる。実験結果から推察すると,そ
のような場には,丸みを帯びた砂や礫や滑らかな露頭で
はなく,プラスのチャージを持つ角ばった石英粒や岩片
などの砂利の存在が考えられる。そのような場所で緩
やかな流れの中でゆっくりと「おがった」ものと思われ
る。樹枝状結晶は,実験的にも急激な成長をしなくとも
十分に形成されることが認められている。また,Honma
et al(. 1991b)は熱水条件で3mm以上の金の結晶を得て
いる。それらの若干変形したものは,その後の移動によ
るものと理解される。その他の可能性としては,腐食層
を経てきた表層水中に腐食酸などの有機酸が含まれた溶
液と金錯イオンを含む溶液との混合によって金錯イオン
の金還元もあり得る。更には,炭化した化石などによる
金錯イオンの金還元もあり得るだろう。炭化した葉の化
石に金が附着していたりする金などはまさにその場で金
が「オガッタ」ものと理解される。大規模な例としては,
黒色頁岩中の金鉱床などが上げられる。一方,金錯イオ
ンの還元集積は上述の化学的な反応ばかりではない。生
物の関与した集積も考えられる。即ち,植物などに寄生
するバクテリアの一種 Pseudomonas putida などは金錯イ
オンを金として生体内に取り入れる事ができる(本間ほ
か,1997)。長期間を考えれば,バクテリアによる金の集
積も十分考えうる事である。
金塊(nugget)に関しては,実験からは,写真a に示
したように,含金溶液から還元・沈殿した金粒の一部に
樹枝状をしたものが見られる。それらが,移動時に互い
に接することによって,機械的な連結が起こることは実
験的に確かめられている。筆者等は写真b に示すような
幾つかの小さな金粒をシリカゲルの上で転がして互いに
ぶつけてやることによって連結し,最終的には写真c の
ような約5mmの大きさの金塊を作った。これは水分を
のぞくと約5mmの扁平なものになってしまう。しかも,
機械的な連結をした金の塊にはその空間に石英粒やシリ
カゲル粒が認められなかった。つまり,金塊は実験的に
は金のみが集まるような状況であった。しかし,天然の
ものではしばしば金以外の不純物,例えば,石英粒,岩
片,硫化鉱物などを混在する場合もある。これは,その
不純物は砂金の移動中に偶然機械的に取り込まれた場合
と,元々金と共生していて分離しなかった場合があるこ
とは考えておかねばならない。しかし,金塊の中には希
有な例ではあるが,数kgから数十kgのものが発見され
ている。鹿児島県の東山が野鉱山の様に,元々大きな金
塊として産したものが砂金として発見される場合もある
であろう。しかし,これは一般的でないと思われる。し


写真 a  還元沈殿した金(透過光)

写真 b  シリカゲル上に析出した還元金の小集合体

写真 c  b)の試料を転がすことによって造った金塊
(写真a, b, c は、本間ほか(1976)より引用)

からば,大きな金塊は単に,上述のような樹枝状部分に
よる連結によって大きくなったとは考えにくい。これは
同じ機械的といってもかなり大きな力が加わって,砂金
同士を強引に結びつけたような感じがする。
V.引用文券
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とAgの溶解と沈殿物について.学芸大紀要,第4部門,45,
83-95
大沢正人,本間久英,中田正隆(1998):低温熱水溶液中でのフ
ミン酸及び単純有機物による金(III)イオンの還元.地球化
学32,139-147
鹿園直建,本間久英,中田正隆(1990):酸溶液における金の溶
解と鉱液化学.浦島幸世教授退官記念論文集,233-237
Shikazono, N., Honma, H. and Nakata, M. (1992): Dissolution of Gold
in Hydrochloric Acid Solution at 150˚C. Hiyoshi Reviews of Nat.
Sci., Keio Univ., No. 11, 1-4

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Gold nugget

http://en.wikipedia.org/wiki/Gold_nugget



A gold nugget is a naturally occurring piece of native gold. Watercourses often concentrate nuggets and finer gold in placers. Nuggets are recovered by placer mining, but they are also found in residual deposits where the gold-bearing veins or lodes are weathered. Nuggets are also found in the tailings piles of previous mining operations, especially those left by gold mining dredges.


Gold Nugget Patch - Easter Saturday 2013


公開日: 2013/04/03
Proud supporters of.... http://www.prospectingaustralia.com.a...
When the GOLD keeps flowing, the fever keeps growing. A great day on the nuggets.



2012 SEASON - THE GOLD PROSPECTOR MINER



公開日: 2013/02/26
Well the 2012 seasons prospecting is over but it has also lead to greater insight to the gold paths and next season will be even better......so let's reflect on last season and dream about the one to come.

Video includes all the sampling holes and plant wildlife and yes lot's of gold.


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How to find gold Using a blow tube



公開日: 2013/10/20
A quick and efficient method of checking Gold values in dry Creek beds.


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V2 177 ounce Gold Nugget Ballarat  



公開日: 2013/02/02
Voice and video, wide format, 177 ounce gold nugget found near Ballarat.

Posted by The Mining Exchange Gold Shop, Ballarat. (Cordell Kent)

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井川砂金採り



アップロード日: 2011/12/04

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荒川で砂金堀り


アップロード日: 2010/12/15
長瀞は採集禁止なので下流域でやりました。でも、ちゃんと採れます。

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砂鉄擦り取り、砂金叩き出し



公開日: 2012/08/16
砂金掘り大会練習映像 砂鉄擦り取り、砂金叩き出し部分
 
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自然金



アップロード日: 2010/12/08
古い鉱山跡付近見つけたもの

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2013年12月7日土曜日

Crimean Tatars クリミア・タタール人

Crimean Tatars クリミア・タタール人

Кримські татари - Crimean Tatars of Ukraine - Qırımtatarlar  



公開日: 2012/09/07
Crimean Tatars of Ukraine. Qırımtatarlar. Кримські Татари, корінне населення Криму. В Україні живе 260.000 Кримських Татар. Crimean Tatars are native population of the Crimean pensinsula in southern Ukraine. They number 260.000 and confess Islam. Crimean Tatar language is western Turkic tongue, the closest to Turkish.

Музика - "Мейдан гайтарма" (Радіо Мейдан, перша незалежна кримсько-татарська радіостанція в Україні). Music: Meydan haytarma. Radio Meydan, (the first independent Crimean-Tatar radio station in Ukraine) Crimea, Ukraine - http://www.meydan.fm/
 
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クリミア・タタール人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA

クリミア・タタール人クリミア・タタール語: Qırımtatarウクライナ語: Кримські татариロシア語: Крымские татары)は、クリミア半島に起源もつテュルク系民族である。 クリミア・タタール語を母語とし、スンニ派ムスリムが大半を占める。

クリミアの原住民族であることを強調して「クルムル」(クリミア・タタール語: Qırımlıロシア語: крымцы;意訳:「クリミア人」「クリミア出身者」)という名称で言及されることもある。

Crimean Tatars
(Qırımtatarlar)
ファイル:Крымские татары. Мулла.jpg

人口

現在では、ウクライナクリミア自治共和国内に25万人のクリミア・タタール人が居住しているとみられる。
また、トルコ共和国には、アンカラエスキシェヒルを中心に、旧クリミア・ハン国からの移住者の子孫が数百万人居住しているとされ、ルーマニアブルガリアにも同様の住民が約2万7千人住んでいる。
また、スターリンによる強制移住政策の結果、ウズベキスタンを初めとする中央アジア諸国にも約15万人の住民がいる
 
歴史

クリミア・タタール人は、13世紀から18世紀にかけてクリミア半島を中心に南ロシアを支配したクリミア・ハン国のテュルク系ムスリム住民を起源とする。

15世紀から18世紀にかけてほぼ毎年、リトアニア大公国ポーランド王国の支配下に置かれたウクライナへ来襲し、ウクライナ人奴隷狩りを行った。

1768-1774年の露土戦争の結果、1783年に、クリミアはロシア帝国に併合され、旧クリミア・ハン国の有力者層の多くは、オスマン帝国領内に亡命した。また、ロシア人、ウクライナ人をはじめとする移民がクリミアに押し寄せたため、19世紀の初めには、クリミア・タタール人はクリミア半島での少数派となる。

19世紀末には、旧ハン国の貴族階級出身のイスマイル・ガスプリンスキーが、クリミアのバフチサライで、西洋式教育の普及運動(ジャディード運動)を開始し、クリミア・タタール人から多くの民族知識人が輩出された。

1917年のロシア革命時には、ノーマン・チェレビジハンや、ジャフェル・セイダフメトら民族派知識人により、1921年に「クリミア共和国」の設立が宣言されるが、ソビエト政権がこれを解散させてクリミア自治ソビエト社会主義共和国を設立させた。

第二次世界大戦中、クリミアタタール人の多くが赤軍に参加させられたが、1944年には、スターリンによりクリミア・タタール人は対独協力の嫌疑をかけられ、全住民が中央アジアに強制移住を余儀なくされた。強制移住の過程で、住民の多くが命を落とした。この出来事は「クリミア・タタール人追放(Sürgün)」として、現在でも、クリミア・タタール人の間で広く記憶されている。

スターリンの死後、1967年にクリミア・タタール人への追放措置は解除され、クリミアへの帰還運動が始められた。1991年には、ムスタファ・ジェミーレフら民族活動家の運動により、ソ連邦内の全クリミア・タタール人から代議員が選出され、最高意思決定機関であるクリミア・タタール民族大会(クルルタイ)が開催され、クリミアへの帰還に向けての努力が進められた。

現在、約25万人のクリミア・タタール人がクリミアへの帰還を果たし、クリミアの全人口の1割を占めるまでになったが、移民の生活基盤の整備、ウクライナでの政治参加の方法等、移住後の問題は残っている。
 
関連項目
 
外部リンク
 
最終更新 2013年9月11日

参考リンク
http://www.rada.crimea.ua/

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
 
クリミア自治共和国(クリミアじちきょうわこく)は、ウクライナクリミア半島のほとんどを占める、自治共和国である。
首都はシンフェロポリで、人口は約255万人、面積は2万6140平方キロメートル。主な都市はヤルタシンフェロポリケルチバフチサライなど。半島最大の都市セヴァストポリは自治共和国に含まれない。
ウクライナの国内でも特にロシア人及びロシア語母語とするウクライナ人が多数を占める地域で、ロシア人は現在では全人口のおよそ5割を占める。このためソビエト連邦解体直後に独立が図られ、独立問題が終息した後も自治共和国になっている。

 
ファイル:Map of Ukraine political simple Krim alternative.png
 
国名

自治共和国の国名は、ウクライナ語で Автономна Республіка Крим (Avtonomna Respublika Krym)、ロシア語でАвтономная Республика Крым (Avtomnaia Respublika Krym)、クリミア・タタール語でQırım Muhtar Cumhuriyeti といい、いずれも同じ単語をそれぞれの言語で表現しているのみで、まったく同義である。
現在のウクライナでは、ウクライナ語のみが公用語として定められているが、クリミア自治共和国では公的な場合を除き使用される機会は少ない。自治共和国の住民の大多数が母語とするロシア語が広く用いられており、そして先住民であり、全人口の一割程度を占めるクリミア・タタール人の言葉であるクリミア・タタール語も用いられている。
 
歴史
 
ソ連以前

クリミアの地にはもともとテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の国家クリミア・ハン国があったが、ロシア帝国はハン国を18世紀末に併合して以来、国策としてスラヴ人ロシア人ウクライナ人キリスト教徒のクリミア移住を進めてきた。この政策の結果、クリミアはロシア帝国の末期にはすでにウクライナ周辺の中でも特にロシア人の占める割合が多い地域であった。
 
ソ連時代

ソビエト連邦の発足後、ここにはクリミア自治ソビエト社会主義共和国が置かれたこともあったが、すでにクリミアの中では人口的に少数派になっていたクリミア・タタール人には十分な自治権は与えられず、第二次世界大戦中のクリミア・タタール人の中央アジア追放、自治共和国の廃止に終わっている。
自治共和国の廃止によりクリミアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州となったが、1954年ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管された。この移管は、行われた時点ではソ連の解体は想定されていなかったため問題とならなかったが、40年後のソ連崩壊により、クリミアのロシア人たちは再びロシアへの帰属を求めるようになった。
 
ウクライナ時代
1992年5月5日、ウクライナ共和国クリミア州議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国を宣言した。ウクライナ議会は5月15日に独立無効を決議したが、黒海艦隊の基地として戦略的に重要なクリミアへの関心を持つロシアは独立の動きを支持し、5月21日にクリミアのウクライナ移管を定めた1954年の決定は違法とする議会決議を行った。しかし、ロシアで独立を宣言していたチェチェン共和国に対し、1994年にロシアが武力鎮圧を開始(チェチェン紛争)すると、一方で自国からのチェチェンの独立を禁圧しながらウクライナからのクリミアの独立を支持するのはダブルスタンダードであるとの国際的批判が高まり、ロシアはクリミア独立運動への支援を取りやめた。
その結果、クリミア内での独立運動も後ろ盾を失って急速に沈静化し、またウクライナ側でもロシアに敵対的な民族主義政党の活動が和らいだため、クリミア議会もウクライナ共和国内の自治共和国であることを認めるようになり、1998年にクリミア自治共和国憲法が制定された。
このように、ロシア人とウクライナ人の対立は終息に向かったが、クリミア自治共和国ではクリミア・タタール人の故郷帰還と権利回復に関する問題が残されている。ペレストロイカとソ連崩壊によってクリミアへの帰還を許されたクリミア・タタール人は徐々にクリミア自治共和国に還流しており、1990年代には全人口の1割から2割に達した。彼らの先祖の土地返還の訴えや、イスラムへの回帰は地元のロシア人らとの間に軋轢を生み出しており、第2のチェチェン化を懸念する声すらもある。
 
政治

クリミア自治共和国は、「クリミア自治共和国最高会議」と呼ばれる議会(議員数100名)を最高機関とする。かつて自治共和国大統領が置かれていたが、短期間で廃止された。 行政は閣僚会議がつかさどっており、最高会議によって任命される首相がこれを代表する。
 
行政区画
 
人口

総人口&00000000020337000000002,033,700人[1]
都市人口&00000000012743000000001,274,300人(63%);農村人口:&0000000000759400000000759,400人(37%)[2]
性別人口:男性&0000000000937600000000937,600人(46%);女性&00000000010961000000001,096,100人(54%)[3]
 
 
民族構成[4]
ロシア人
  
118万0400人 (58.3%)
ウクライナ人
  
49万2200人 (24.3%)
クリミア・タタール人
  
24万3400人 (12.0%)
ベラルーシ人
  
2万9200人 (01.4%)
タタール人
  
1万1000人 (00.5%)
アルメニア人
  
8700人 (00.4%)
ユダヤ人
  
4500人 (00.2%)
ポーランド人
  
3800人 (00.2%)
モルドヴァ人
  
3700人 (00.2%)
アゼルバイジャン人
  
3700人 (00.2%)



経済

クリミア自治共和国の主要な産業は、農業観光業である。ヤルタなどのクリミア半島南端の黒海沿岸はロシア帝国以来の保養地として、国際的な観光地になっている。

一方、工業は主に自治共和国の北部に集中している。
 
外部リンク

(ロシア語)(ウクライナ語)(クリミア・タタール語)(英語) クリミア自治共和国最高議会の公式サイト
(ロシア語)(ウクライナ語)(クリミア・タタール語)(英語) クリミア自治共和国政府の公式サイト

 
最終更新 2013年12月4日

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Kırım Tatarlar. Qırımtatarlar. Кримски татари. Crimean Tatars  



アップロード日: 2010/11/20
Crimean Tatars (sg. Qırımtatar, pl. Qırımtatarlar) or Crimeans (sg. Qırım, Qırımlı, pl. Qırımlar, Qırımlılar) are a Turkic ethnic group originally residing in Crimea. They speak the Crimean Tatar language. They are not to be confused with the Volga Tatars.

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CRIMEAN TATARS RETURNING TO THE CRIMEA.  



公開日: 2012/11/28
CRIMEAN TATARS RETURNING TO THE CRIMEA.
On May 18, 1944, Joseph Stalin deported 218,000 Crimean Tatars to Central Asia. Using personal testimonies, this film tells the story of the Tatars' expulsion from their homeland and their long struggle to return. It was only in 1989, with the opening up of the Soviet Union, that they were able to come back in large numbers. Most, finding Russians living in their former homes, built shacks in which to live. Today, 300,000 Tatars live in Crimea - 5,000 of them still in shacks. Even those with houses suffer because they only have minority status. Despite this, 150,000 more are still hoping to return home.


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Volga Tatar Folk Song - 'Sak-sok' bäete (Сак-сок бәете)  



公開日: 2012/11/16

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KIRIM TATAR BELGESELI - Crimean Tatar Documentary -татарский



公開日: 2012/09/08
Crimean Tatar Genocide May 18 , 1944 Kırım Tatar Soykırımı May 18, 1944 Крымскотатарский армян 18 мая 1944

KIRIM TATAR BELGESELI Crimean Tatar Documentary Крымскотатарский Документальный

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