2013年3月27日水曜日

NEXT Mozambique

Maputo The Beautiful Capital of Mozambique.wmv 



アップロード日: 2011/04/16
Maputo means in local language, Sea of the Portuguese,until 1975 was been called Lorenço Marques and his inhabitants nicknamed as Coca Colas.

カテゴリ 旅行とイベント
 
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Landscapes of Mozambique • Moçambique




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In Mozambique, Signs of Growth Seen Amid Rampant Poverty 



アップロード日: 2010/11/22
Read the Transcript: http://to.pbs.org/hAbaAE

In the first report of a three-part series, Ray Suarez reports on the southern African nation Mozambique, which has a growing economy but still remains one of the poorest nations in the world.

カテゴリ ニュースと政治

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UNCDF: Local Development in Mozambique 


アップロード日: 2007/01/29 Widespread poverty and a lack of functioning infrastructure present formidable challenges to Mozambique on its path to sustainable development. The country emerged from nearly 500 years of colonial rule and plunged straight into a devastating civil war that debilitated much of the infrastructure and undermined development efforts. This short video presents an overview of the UN Capital Development Fund's work to support development efforts in Mozambique, working from the bottom up and top down to empower local authorities to make their own decisions and set their own priorities. Filmed, edited and produced by Adam Rogers, UNCDF Head of Communications and Public Information.

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Mozambique 



アップロード日: 2011/06/10
説明はありません。

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Mozambique 2011.wmv 



アップロード日: 2011/06/15
Mozambique Maputo Xai-Xai Tofo Inhambane Vilankulos Magaruque Island slideshow

カテゴリ 旅行とイベント

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Misioneros por el Mundo, Misión Mozambique 



アップロード日: 2012/02/03
Programa Misioneros por el Mundo, Misión Mozambique, elaborado por Sandra Várez

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CALLEJEROS VIAJEROS en MOZAMBIQUE



アップロード日: 2011/03/19
説明はありません。

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Tourism in Mozambique.VOB



アップロード日: 2011/05/24
説明はありません。

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Safari in Mozambique

 

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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 1 - Mega Projects and Mining



アップロード日: 2009/10/22
When Mozambique emerged from a 17 year civil war in 1992, its economy was in tatters, infrastructure had been destroyed and there was no industry to speak of.
A peace deal between Frelimo and Renamo, put an end to the conflict. At the same time there were some important developments going on next door. The release of Nelson Mandela from 27 years of imprisonment and the ensuing democracy provided the impetus for further regional stability. And it set the stage for sound macroeconomic reform and rapid growth Mozambique would experience over the next decade.

カテゴリ  ニュースと政治

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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 2 - Bio-fuel and Diversifying the Economy



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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 3 - Financial Sector and Accessing



アップロード日: 2009/10/21
Mozambiques growth has been driven by political stability, foreign direct investment and aid inflows. But to make a d
omestic growth base for businesses there needs to be a sound and active financial industry. At the moment, Mozambiques financial sector is still decidedly small and dominated by foreign banks.

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Doing Business in Africa - Mozambique - Part 4 - Tourism and Property



アップロード日: 2009/10/21
Since the end of the civil war, Mozambique has increasingly become a popular holiday destination, in particular, for South Africans. Its just a 6 hour drive from Johannesburg, just close enough for a long-weekend away. This in turn has prompted growth in property development.

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 Mozambique's president, Armando Guebuza


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF

モザンビーク

以下抜粋

モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家である。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバブエ、北西にザンビアマラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルコモロが存在する。首都マプト
ポルトガル植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1977年から1992年までモザンビーク内戦英語版が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV/AIDSの蔓延が問題となっている。ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国である。隣接国が全て英語圏の国家であるため、1995年からイギリス連邦に加盟している。

国名

正式名称は、ポルトガル語でRepública de MoçambiqueIPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ プーブリカ・デ・ムサンビー)。通称、Moçambiqueムサンビー)。
公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambiqueモウザンビー)。
日本語の表記は、モザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。

歴史


1683年のソファラ
この地域には約300万年前から人類が居住し生活していた。紀元前後には、サン(ブッシュマン)が居住していたが、バントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人・ローマ人が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。 この地域での歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称した、モノモタパ王国にさかのぼる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は現在のモザンビーク領のソファラを拠点にアラブ商人と香辛料象牙などの交易を行っており、中国陶磁器インド綿製品も手に入れていた。

ポルトガル植民地時代

1498年ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ英語版ポルトガル語: Estado da África Oriental、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)の首都モザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。
19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により事実上の奴隷労働制度が続いた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図ポルトガル語版」計画を発表したが、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルはザンビアジンバブエマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された[2]。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク英語版総督はイギリスフランス資本の勅許会社モザンビーク会社英語版ニアサ会社英語版ザンベジア会社ポルトガル語版に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも関わらず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対し、1894年ロウレンソ・マルケス襲撃など先住民による抵抗運動が頻発したが、それらは全てポルトガル軍により鎮圧された。1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。


モザンビーク解放戦線(FRELIMO)に対するポルトガルのプロパガンダ。
その後、第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は1951年にモザンビーク等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3,800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められたが、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。
しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連の援助を受けていたFRELIMOは冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以て解放軍に対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたが、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続し、約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。

独立と内戦

独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って白人国家ローデシアの国境を封鎖したが、この措置はモザンビークとローデシア双方の経済に大打撃を与えた。1977年にポルトガル領時代の元秘密警察PIDE英語版を母体としてローデシア諜報機関によって結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)は政府軍と衝突し、モザンビーク内戦英語版が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず[3]、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。
1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家ジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共の砦を自認していた南アフリカ共和国はローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を発動した。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは農村部で略奪、暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定英語版が締結され、南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはANCに対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた[4]。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死した。
内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、1989年東側諸国の勢力低下と合わせてモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年複数政党制自由市場経済を規定した新憲法を制定した。さらに、1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年ローマ和平協定英語版ローマで締結され、内戦は終結した。

内戦終結以降

内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。内戦終結に至ったのは、シサノ大統領の現実的外交(西側寄りに転換し、南アフリカとの交渉を進展させた)と経済政策の転換によって和平の道が開けたことが要因のひとつである。
1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結びつきを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結びつきを深めるためにポルトガル語諸国共同体に加盟した。内戦終結後のモザンビークはシサノ大統領の下で、1998年に南アフリカと日本の主要な投資で誕生したモザール社が経済発展の原動力となり、同時期に和平協定締結後も内戦が再燃したアンゴラのような失敗には陥らず、安定した政治と年率8%に及ぶ高度な経済成長を実現した。シサノの温厚な調整力や、モザンビークを安定に導いたリーダーシップは国際社会からも認められ、2003年にシサノはアフリカ連合の第2代総会議長に選出された。他方、HIV/AIDSの蔓延や、慢性的な医師不足の改善は進まず、国民の教育水準も低いままに留まった。
2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。

政治

大統領国家元首とする共和制国家である。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。
立法府たる共和国議会一院制であり、全250議席はすべて直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。
主要政党としては、モザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、モザンビーク民主運動(MDM)の名が挙げられる。

司法権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。

これまでの選挙
  • 1998年6月、地方選挙が実施された。投票率はきわめて低く、33自治体の平均投票率が15%に満たなかった。この背景には、教育水準の低位と環境の不整備などが挙げられる。
国際関係

独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシア南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。
ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルブラジルカーボ・ヴェルデアンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。
周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。
隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため[6]、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。

地方行政区画
モザンビークは、10の(província,プロヴィンシア)、及び、州と同格の1つの(cidade,シダーデ)に分かれる。北から順に、

ザンベジア州グルエー付近ののプランテーション。
通貨は新メティカルであり(2009年現在、1USドルはほぼ27メティカルである)、1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行によって償還される見込みである。USドル南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。
第一次産品の生産が主だが、鉄鉱石マンガンチタン(重砂)などの鉱産資源も多い。日本向け輸出はエビが多い。1980年代は内政の失敗に加え、内戦旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した[7]
日本三菱商事も出資したアルミ精錬事業のモザール社(主たる出資は南アフリカのBHPビリトン)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアアルミナを原料として輸入した上で、南アから供給される豊富・安価な電力のもとに精錬の後にアルミニウムとして輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダム水力発電(植民地時代にポルトガルが建設。つい最近までポルトガル所有であった)が、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。
2010年9月1日、首都マプトで、パンの値段が30%引き揚げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子ども2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府は、デモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVは、10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している。因みに、この国は国民の70%が貧困ライン以下で、世界で最も貧しい国の一つであるといわれており、失業率も54%に達している。[8]

鉱業

石炭や天然ガスなど有機鉱物資源には比較的に恵まれている。石炭の埋蔵量は約7億トンでモザンビークの主要鉱産物の一つである。2003年には南アフリカ企業による陸上ガス田が生産開始し、南アと輸出用ガスパイプラインで結ばれるなど、同国からの投資が近年増えている。

言語
公用語ポルトガル語である。その他、バントゥー諸語マクア語ツォンガ語ニュングウェ語英語版チェワ語ショナ語ロムウェ語マコンデ語等)やスワヒリ語も使われる。
モザンビークの言語状況は複雑である。1997年のセンサスによれば公用語のポルトガル語を第一言語とする人々は国民の8.8%であり[5]、第二言語とする人々の27%[5]を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず[5]、諸言語が混在する状態にある。

教育

ナンプーラの学校の生徒たち。
1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦英語版(1977-1992)の後、戦後の就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質は煽りを受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年には、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学率は2002年に300万人だったのが2006年には410万人に増加し、一方修了率は31,000人から90,000人に増加し、修了率の著しい低さを証明した[11]。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受けねばならず、中等学校は8年から10年までである[要出典]。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強を進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に開ける準大学である。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は47.8%(男性:63.5% 女性:32.7%)である[5]。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった[5]
主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。

保健

出生率は女性一人につき、約5.5人である[12]。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった[12]。2004年の一人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった[12]。2000年代初頭には、人口100,000人に対して医者が3人だった[12]。2005年の乳幼児死亡率は新生児1,000人に対して100人だった[12]。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える[12]
モザンビークのHIV感染率は高く、2007年のHIV感染者は約150万人であり[5]、感染率は12.5%である[5]

文化

モザンビーク島 - (1991年、文化遺産)。
イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響にもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られたアートの様式としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と、言語的影響を今も強く受けている。

著名な出身者

最終更新 2013年3月23日

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8A%A9

弥助

以下抜粋

生涯
黒人男性で、現在のモザンビーク出身とされる[2]天正9年2月23日1581年3月27日)に、イタリア人の宣教師(伴天連アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れてこられた[3]
信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26~27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される[4]
天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重症者が出るほどで、初めて黒人を見た信長は肌に墨を塗っているのではとなかなか信用せず、着物を脱がせて洗わせたという[5][6]
本当に肌が黒いことに納得がいくと信長はこの黒人を珍重し、自身に譲ってもらい「弥助」と名づけて士分に取り立てて身近に置くことにした。天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの『松平家忠日記』には、「名は弥助、身の丈六尺二寸(約187cm)、黒人男性、身は炭のごとく」とその容貌が詳細に記述されている。信長の甲州征伐の完了に伴う帰国途上での出来事で、弥助も従軍した。
天正10年6月2日1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと二条御所に行って戦った末、明智軍に捕縛された[3]。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、南蛮寺に送った[5]。この処遇は光秀のこの黒人に対する蔑視を現していると考えられる一方、弥助を殺すことが忍びないと思った光秀が生かすための方便であったとの意見もあるが[6]、真実は不明である。弥助の以後の消息は不明[3]

最終更新 2013年3月24日 (日)

2013年3月25日月曜日

Bremerhaven - WeserWind Offshore Foundations - Neues Produktionszentrum 



公開日: 2012/04/16
http://www.interfacegroup.de Die Filmproduktion zeigt den Bau der neuen Werkhalle für Offshore-Gründungsstrukturen der WeserWind GmbH in Bremerhaven am Lunedeich. Im Frühjahr 2011 wurde die Halle fertiggestellt und zur Offshore Windenergie Konferenz 2011 eingeweiht. Eine Produktion der interface.group GmbH.
http://www.interfacegroup.de

Offshore Wind Technology : U.S.Department of Energy

http://www1.eere.energy.gov/wind/offshore_wind.html

EERE » Wind Program » Research & Development

U.S.Department of Energy

Energy Efficency & Renewable Energy 

  • Large Wind Technology
  • Offshore Wind
  • Distributed Wind
  • Wind Turbine Manufacturing
  • Resource Assessment & Characterization
  • Renewable Systems Interconnection
  • Environmental Impacts & Siting
  • Outreach & Education


  • Offshore Wind Technology

    The Wind Program funds research nationwide to develop and deploy offshore wind technologies that can capture wind resources off the coasts of the United States and convert the wind out at sea into electricity. Offshore wind resources are abundant, stronger, and blow more consistently than land-based wind resources. Data on the resource potential suggest more than 4,000,000 megawatts (MW) could be accessed in state and federal waters along the coasts of the United States and the Great Lakes, approximately four times the combined generating capacity of all U.S. electric power plants.
    The DOE Wind Program is working with the Department of the Interior's Bureau of Ocean Energy Management to advance a national strategy for offshore wind research and development. The DOE Wind Program is leading market analysis, technology development, and deployment projects that will overcome key barriers including the relatively high cost of energy, the mitigation of environmental impacts, the technical challenges of project installation, and grid interconnection.
    Read a National Offshore Wind Strategy: Creating an Offshore Wind Industry in the United StatesPDF.

    Research Project Highlights

    In 2012, the Department announced funding to seven Advanced Technology Demonstration projects totaling $168 million over six years. In 2011, the Department of Energy allocated $42 million dollars to 42 research and development projects in the Great Lakes, along the Atlantic Coast, and the Gulf of Mexico. These projects are defined under two categories: Technology Development and Market Barrier Removal.


    DOE Awards Over $200 Million Dollars in Offshore Wind Research, Development, and Demonstration Grants

    Enlarge imagePDF

    Advanced Technology Demonstration

    The program recently announced seven technology demonstration partnerships with broad consortia that are developing breakthrough offshore wind energy generation projects. The primary goals of these projects are to achieve large cost reductions over existing offshore wind technologies and develop viable and reliable options for the United States. The demonstrations will help address key challenges associated with installing utility-scale offshore wind turbines, connecting offshore turbines to the power grid, and navigating new permitting and approval processes.
    Each project will receive up to $4 million to complete the engineering, site evaluation, and planning phase of their project. Upon completion of this phase, the DOE Wind Program will select up to three of these projects to advance the follow-on design, fabrication, and deployment phases to achieve commercial operation by 2017. These projects will be eligible for up to $47 million over four years, subject to congressional appropriations.
    The seven projects selected for the first phase of this six-year initiative are:
    • Baryonyx Corporation, based in Austin, Texas, plans to install three 6-megawatt direct-drive wind turbines in state waters near Port Isabel, Texas. The project will demonstrate an advanced jacket foundation design and integrate lessons learned from the oil and gas sector on hurricane-resistant facility design, installation procedures, and personnel safety.
    • Fishermen's Atlantic City Windfarm plans to install up to six direct-drive turbines in state waters three miles off the coast of Atlantic City, New Jersey. The project will result in an advanced bottom-mounted foundation design and innovative installation procedures to mitigate potential environmental impacts. The company expects this project to achieve commercial operation by the end of 2014.
    • Lake Erie Development Corporation, a regional public-private partnership based in Cleveland, Ohio, plans to install nine 3-megawatt direct-drive wind turbines on "ice breaker" monopile foundations designed to reduce ice loading. The project will be installed on Lake Erie, seven miles off the coast of Cleveland.
    • Seattle, Washington-based Principle Power plans to install five semi-submersible floating foundations outfitted with 6-megawatt direct-drive offshore wind turbines. The project will be sited in deep water 10 to 15 miles from Coos Bay, Oregon. Principle Power's semi-submersible foundations will be assembled near the project site in Oregon, helping to reduce installation costs.
    • Statoil North America of Stamford, Connecticut plans to deploy four 3-megawatt wind turbines on floating spar buoy structures in the Gulf of Maine off Boothbay Harbor at a water depth of approximately 460 feet. These spar buoys will be assembled in harbor to reduce installation costs and then towed to the installation site to access the Gulf of Maine's extensive deep water offshore wind resources.
    • The University of Maine plans to install a pilot floating offshore wind farm with two 6-megawatt direct-drive turbines on concrete semi-submersible foundations near Monhegan Island. These concrete foundations could result in improvements in commercial-scale production and provide offshore wind projects with a cost-effective alternative to traditional steel foundations.
    • Dominion Virginia Power of Richmond plans to design, develop, and install two 6-megawatt direct-drive turbines off the coast of Virginia Beach on innovative "twisted jacket" foundations that offer the strength of traditional jacket or space-frame structures but use substantially less steel.

    Technology Development

    The program invests in projects to develop the engineering modeling and analysis tools required to lower overall offshore facility costs and to design the next generation of innovative large-scale turbines optimized for installation and operation in the marine environment.
    Offshore wind turbines are frequently located far from shore, face greater potential for corrosion from exposure to seawater, are only accessible by helicopter or boat, and therefore must be designed more robustly (i.e., requiring less maintenance) than land-based turbines due to the high costs of transporting maintenance crews to and from shore.
    Projects awarded funding in 2011:
    • Eight projects received $6.7 million to advance the current state-of-the-art modeling and analysis tools for the design, performance assessment, system modeling, and cost assessment of offshore wind systems.
    • Seven projects received $3.4 million to develop conceptual designs and assessments of offshore wind plant systems that enhance energy capture, improve performance and reliability, and reduce the cost of energy from integrated wind plant systems.
    • Four projects received $15.3 million to research and develop innovative rotor and control systems designs for advanced components and integrated systems to reduce capital costs of these systems by up to 50%.

    Market Barrier Removal

    The program invests in projects to remove market barriers that limit the deployment of offshore wind in the nation's coastal and Great Lakes regions.
    Projects awarded funding in 2011:
    • One project received $510,000 to reduce financing costs and increase investor confidence by supporting an offshore wind market analysis to inform stakeholder decision making regarding individual projects, industry issues, and energy policy. Read the reportPDF resulting from this grant.
    • Three projects received $5.7 million to expedite the permitting process by performing ecological studies and predictive modeling and validating innovative technologies for avian and bat studies. Read the reportPDF resulting from this grant.
    • Two projects received $650,000 to assess the current domestic supply chain infrastructure and recommend strategies for national manufacturing infrastructure development to support offshore wind deployment.
    • Four projects received $2.5 million to study and plan for the integration of offshore wind energy into the electrical transmission and grid interconnection, thereby increasing technical viability of commercial-scale offshore wind integration.
    • Four projects received $1.2 million to support the assessment of ports, vessels, and operations that will be involved with offshore wind energy efforts.
    • Eight projects received $5.8 million to develop an accessible network of information on subjects including U.S. offshore wind resources, design requirements for offshore wind turbines, and environmental conditions affecting offshore wind energy systems.
    • One project received $500,000 to evaluate the potential effects of offshore wind energy facilities on electronic navigation, detection, or communication equipment such as airborne radar, Global Positioning Systems (GPS), shipboard radios, and SONAR (Sound Navigation and Ranging).
    Building on advancements that have brought tens of thousands of jobs to the nation's land-based wind industry, as well as the technological and market advancements being made by the DOE Wind Program and its partners under the National Offshore Wind StrategyPDF, these offshore wind research, development, and demonstration projects will catalyze the development of a new offshore wind industry in the United States while increasing our domestically-sourced power supply.



    Featured Publications


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    参考リンク:

    2011 Wind Technologies Market Report

    PDF 1~93

    http://www1.eere.energy.gov/wind/pdfs/2011_wind_technologies_market_report.pdf

    ======================================================

    U.S. Offshore Wind Manufacturing and Supply Chain Development

    PDF 1~191

    http://www1.eere.energy.gov/wind/pdfs/us_offshore_wind_supply_chain_and_manufacturing_development.pdf

    ======================================================

    Large-Scale Offshore Wind Power in the United States

    PDF 1~240

    http://www.nrel.gov/wind/pdfs/40745.pdf

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    2013年3月24日日曜日

    モザンビークで暮らす日本人女性ボランティア




    なんにもないけどやってみたの画像
    栗山 さやか【著】
    岩波書店(2011/10/20 出版)


    https://twitter.com/matuoka7ocean
    matuokaisenokamikaze ‏@matuoka7ocean
    モザンビークで暮らす日本人女性ボランティア http://blog.goo.ne.jp/takimoto_2010/e/6ca3f0038389fddf13e61b203535afc4 …

    matuokaisenokamikaze ‏@matuoka7ocean
    宝珠の如くにモザンビークで活躍する日本人女性ボランティア


    https://twitter.com/ka2saori
    saori‏@ka2saori
    ★栗山さやか さんのブログ=プラ子旅する。---まだアフリカです▼温かいコメント本当にありがとうございます。 2013.02.17  
     
    saori‏@ka2saori
    観終わりました  さん、栗山さやか さん お強い方ですね。★NPO団体「アシャンテママ」を設立したさやかさん。たった1人で政府と交渉し、2年がかりで立ち上げた=

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    モザンビークで暮らす日本人女性ボランティア



    公開日: 2013/02/18
    2013.2.11 地方でボランティア活動をする栗山さんを父が訪ねる

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    参考リンク:

    http://purako.jugem.jp/

    プラ子旅する。 まだアフリカです。




    以下抜粋:

    ゴミ山のこと。
    2013.02.24 Sunday

    モザンビークにはたぶん、しっかりドラマとか映画を作る会社とか
    ないみたいで(ここの州で放送してないだけかもしれませんが)
    外のマーケットでナイジェリアやアンゴラの映画のDVDが売っています。
    かなり前に買ったとき一枚240円?ぐらいだったと思います。
    ハリウッドの海賊版?(字幕が中国語だった)も
    途中で見れなくなったりしますが、買えます。
    テレビ今は3チャンネルも見れますが、
    ポルトガルや、メキシコ、ブラジルのドラマがやっています。
    ときどきモザンビークのドキュメンタリーみたいなのもやっています。
    前にもドキュメンタリーがやっていて、
    首都でごみを漁って暮らす人々の生活が流れていました。
    漁ったごみを映していたのですが、
    大量のハエに囲まれながら、
    大きな大ぶりのチキンを拾っておいしいーってほうばる若い男の子が
    写っていて、あまりにもそのチキンの足の部分が立派で私も
    おいしそう。。と思ってしまいました。
    ネットで写真が載っていたので載せますね。
    (ポルトガル人の写真家さんが撮られたそうです。)

    写真を撮ったかたが、腐った犬の頭を食べてた人もいて
    とても心が痛んだとCNNのニュースでも言っていました。
    インタビューに答えていたゴミ漁ってた子が、
    拾ったゴミを売っていい日は1日で3000MTs稼いだりもするって。。。
    3000MTS= 9000円!!! です。
    ここの人たちの政府が定めた最低の1か月のお給料は8250円です。
    この仕事につける人は本当に一握りでほとんどの貧しい人たちは

    自分で小さな畑を鍬一本で耕してそれを食べてなんとか暮らしています。

    薪やわらを奥に行って切ってきて路上で売ったりもしています。
    子どもがたくさんいる女性は1日一人あたり、20円以下とかで暮らして
    いたりもします。1か月に1000円を稼ぐことも
    難しいかたがたくさんいます。
    物価もここで採れるかぼちゃの葉、さつまいもの葉とかは
    まだ安いけど
    普通のちょっといいものは値段、
    日本より高かったりします。
    工場で作られた、粉ミルク1缶(400g)660円とかコーヒーの粉(250g)
    1330円とか
    チーズ、1200円! コーラ1缶90円から120円。
    全然可愛くない一番安い自転車7800円。
    全部首都や南部の工場で作られていたり、モザンビークにはなくて
    隣の国の南アフリカから陸路でローリーなんかで運ばれてくるので
    運搬費がかかるためここではとても高くなってしまいます。
    一度、この町までの道が大雨で悲惨な状態になって
    ローリーとかトラック、車が通れなくなってしまって
    その時、町中の砂糖が品薄になりふつう1K120円で買えるのに
    この時は一気に240円にまで値上がりしました。
    このゴミを漁って生計を立てている人たちの映像、
    新しいごみを載せたトラックがやってくるとわーってみんな群がって
    我先にとまだ走ってるトラックの荷台のごみに飛び乗って漁っていて
    たまたま一緒に見ていたここの町に住む友人は、
    じーと見ていて、
    「こんなゴミ山あったらここの人たちももっと生活楽になるのにね。
    食べるものや売れるものが探すだけで毎日手に入るなんて首都はいいね。
    ここのゴミだめは、食べ物なんて落ちてないもんね」って。
    日本にいたとき、どこかの貧しい国でゴミ山で暮らしながら
    生活している家族のテレビがやっていて
    なんて悲惨でかわいそうなんだろうって
    思ったの思い出しましたが、臭いもすごいだろうし、
    衛生上の問題、細菌感染等々問題は大ありですが、
    それでもうらやましいっていう発想があることにまた考えさせられました。
    人が食べ終わって捨てた地面に落ちている
    マンゴのたねの部分とか、さとうきびのかすとか拾って
    さらに吸ったり
    腐ったおいも集めて
    空腹を満たそうとする子達がいること、
    それはここでは珍しいことじゃないこと。
    あと何年経ったらこういう状態は変わっていくのかなと
    思います。。
    私ももっと頭を使って考えていきたいです。
    写真。
    レタスはここでも売られていますが、
    高価な野菜です。
    1個で売られているんじゃなくて、
    数枚がちぎって15円からで売られています。
    貧しいみんなにはもちろん買う余裕はないです。
    勉強小屋の前の年の終わりの会でも
    レタスを買わせていただきましたが、
    予算、けちってしまって、
    小さいくしゃってなったレタスの葉
    1人一枚ずつしかあげれなくて、
    去年の終わりの会には奮発して
    1200円分ものレタスの葉を買わせていただいて、
    みんなで食べました。みんな大興奮でした。
    みんなのレタス付きのご飯を食べている嬉しそうな
    写真を撮ろうと思ってカメラ持ってうろうろしてたら
    写真の女の子、私が地面に落ちたものは食べちゃダメーっていつも言っているので
    落ちていた腐りかけの部分をばれないようにこっそり拾って
    自分のコップにいれて、勉強小屋の隅で食べていました。
    あとで「レタスおいしいよね。 でもこれはもう食べれない部分だから
    おかわりもらおうね」って言って
    おかわりをあげたらとても喜んでいました。

    ご寄付についてのご質問いただき本当にありがとうございます。
    日本には協会の受け皿がないため、ソニーデジタルさんが
    ボランティアでご協力してくださっています。
    毎月、月末にいただいたご寄付の全額を
    送ってくださっています。

    また詳細ゆっくり書かせてください。
    本当にご支援、コメントもありがとうございます。。

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    『壮絶プラ子のアフリカボランティア、「なんにもないけど、やってみた」』

    http://blogs.yahoo.co.jp/senda3/52971018.html

    http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4005006965.html

    2012/1/16(月) 午後 0:47


    (今日は少し長いです。プラ子とは、栗山さやかさんのこと。)
    アルマズは、19歳くらいで、エチオピアの施設の二階の小さな部屋、体のひどい損傷、腫瘍等、外見からその醜さがわかってしまう子たちがいた部屋にいました。彼女の右の肩から腕にかけて、大きな大きな本当に大きな腫瘍がありました。子供の頭くらいの大きさで、その腫瘍は、黒い緑色のただれた膿のような塊で、膿とどす黒い血がいつまでも大量に流れ出ていて。腫瘍の皮膚が腐ってしまっていたので悪臭が酷く、何十匹もの大量のハエが、いつもはらってもはらってもたくさん腕の腫瘍にたかっていました。

    私が彼女の手当をしている間に、手伝ってくれようとしたその腕を初めて見る新しいボランティアの子、現地のワーカーの子、他の患者、みんなショックを隠しきれず、オランダから来た初老のボランティアは、へなへなと床に座り込んでしまい、ドイツから来た16歳の女の子ははき出してしまって。それから彼女の手当の最中は、その部屋に一緒にいた患者たち以外、誰にも見られないように部屋の扉も閉めて、私一人ですべてをやるようにしました。

    治療は、彼女の腫瘍が大きすぎて普通のTシャツは着れず、片方の肩と腕の部分は切り取ったシャツをゆっくり脱がすところから始めます。それからぐちゅぐちゅになった腫瘍がガーゼにくっついてしまうので、慎重に薬品を使いながら何十巻きにもなった血と膿だらけになった包帯、ガーゼを痛くないようにゆっくりはがして、腐ってしまった腫瘍の部分を神経が通っていないか確認しながらメスで少しづつ慎重に切り取っていくため、いつも手当に1時間半以上かかっていました。

    彼女の腫瘍に、ハエが止まって卵をたくさん産みつけて、すぐ数日後には、ウジ虫がぐちゅぐちゅの腫瘍の中で動き回ります。その動きで生じるかゆみは相当なもので、このときから彼女は痛みだけでなく、腫瘍の中で動き回るウジ虫のかゆさも我慢しなければならなくなりました。

    時間を見つけて、片手ではむくことが出来ないアルマズの大好きなオレンジをむいてあげたり、他の患者さんのように体を洗うことは腕の腫瘍のせいで出来なかったので、全身を暖かいお湯でタオルを使って拭いてあげたり、体の垢をとってあげたり。排泄は、体を少し傾けながらベッドの上で洗面器を使えたので、おしりを持ち上げたりして手伝いました。

    考えたくなかったけど、日に日に成長していく腫瘍、すべて手遅れだから、とだけ言って診察にも来てくれない外科医の先生。飲んでいる薬も、本当は痛み止めとビタミン剤だけ。塗っている薬も、ただ消毒するだけの、腫瘍とは全く関係ない薬。アルズマの亡くなってしまう日がそこまで遠くないのは信じたくなかったけど、私にも分かっていました。

    ある日の夕方、外が暗くなり始めた時に、アルマズ、もう意識がなくなって、口から泡を吐いて、なぜか脚を一生懸命動かしていて、毛布をずらして見ると、失禁していました。いつもお尻を持ち上げてしっかり洗面器を使っていたから、失禁してしまうことは今まで一度もなかったアルマズだから、気持が悪かったのでしょう。急いで穿いていたズボンを替えて、暖かいタオルでお尻、拭いてあげながら、一度だけ『チャラカ、最期は絶対一緒にいてね』と悲しそうな目で私をじっと見て言ったときのことを思い出して。だんだん白目になって、苦しそうな彼女の反対側の腕をなでて、ベッドの横に座り込んで、大丈夫、大丈夫って声をかけることしか出来ませんでした。それから彼女は大きな息を最後にして白目のまま亡くなりました。

    この施設は主にアフリカに蔓延するHIVやその他の重疾病で、末期症状になった人達を収容しています。せめて最後の看取りだけは人間らしく、という思いを寄せて活動しました。どうしてこんなに若い子たちが、こんな風に苦しんで亡くなっていってしまわないといけないのか、私より若い女の子たちを看取る度、この世に本当に神様はいるのかなって呆然としながら、いつもそう思っていました。  
    (参考: 栗山さやか=プラ子著『なんにもやっていないけど、やってみた』岩崎ジュニア新書)

    短大卒業後、渋谷109ではたいていた筆者『栗山さやかさん』。幼なじみが25歳で亡くなるという事態に遭遇し、また坂上洋子著『犬も歩けば英語にあたる』というエッセイを読んで、自分でもびっくりするくらい感動し、津波に押されるような形で海外貧乏旅行に。出発後1ヶ月、一緒に旅していた友達とインドの施設で2週間くらいボランティアをし、精神障害の男の子が汚した下着を洗いながら、幼なじみの死について考えました。この汚れ物よりも自分の心には汚いものがこびりついていた気を持ちました。

    一緒に旅していた友達とコルカタで別れ、バングラディシュに。それからアジア、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、中東、一人で貧乏な旅行を続けました。色んな国ですれ違うたくさんの現地の人たちや、その生活を何となく見て、みんなそれぞれの生活があり、色んな日常があり、みんな悩んだり、夢を持ったり。どこの国に生まれても、どんな環境に育っても、みんな一緒なんだなあって当たり前の事を思ったり。

    アルマズの話はエチオピアのHIVエイズの施設での実体験話。エチオピアは栗山さんの旅の中の一つの目標だった国です。HIVの施設で働くのが目的で。首都アディスアベバにあるこの施設は、1,000人以上もHIVや奇病、末期癌、アフリカ独特の病気で苦しんでいる人がいる施設で、栗山さんはここで一緒に寝泊まりし毎日朝から晩まで働きました。病の末期患者のための施設で、入院者はひどく体が犯され、体の奇形、喪失、腐りかけた肌、悪臭、大きな腫瘍、血と膿、骨の見えてウジ虫やハエがたかった肌、汚物だらけの体、一日中吐いている子、たくさんの遺体。末期患者のため、体力が消耗し、排泄する力もない病人。その病人の排泄口に手を突っ込み、排泄物を掻き出したりする作業。あまりの衝撃に栗山さんの中でも整理ができませんでした。それでも栗山さんは頑張って、この施設で7ヶ月ボランティアをしました。

    私が栗山さんの話しを見たのは、朝日新聞の記事。栗山さんがエチオピアの後南下し、ケニア、タンザニア、ザンビア、マラウィ、ジンバブエ、スワラジンド、南アフリカへ。通過した国は60を超えて。時々病院、孤児院、施設などを見せてもらいながら一人旅を続けました。南アの北東にある『モザンビーク』を訪れた際、栗山さんはここでも子ども達、若い人たちが病気でたくさん亡くなったり、貧困、栄養失調、孤児のあまりの多さ、強盗は殺人、道徳心の低さ、人の信用力の低さ、医者の少なさと貧困から病気になっても診察が受けられない多くの人たちの現実を見て、栗山さんは決心します。一番弱い立場にある生活に困窮した女性や子ども達にせめて、読み書きや栄養についての知識を、そして正しい情報や道徳心を、さらには色んな知識の共有活動のため、『協会アシャンテママ』を立ち上げました。

    10日出席し、口頭問題をパスしたら、蚊帳、水の消毒剤、油1㍑、塩500mg、砂糖1㎏、乾燥したトウモロコシの粉バケツ半分、干した魚1コップ分、鶏の頭と手足の部分、棒石鹸1本、合計600円相当。または安全のためのドア、カギがない家には南京錠を、と。これらの資金は日本のボランティアグループや個人による支援。彼女は特にHIVへの正しい知識、コンドームの使用などには力を入れます。

    私も少額の寄付を1回しただけですが、これからも定期的な寄付をしようと思っています。とにかく、若い日本女性一人がモザンビークで悪戦苦闘し、現地の人たちに生きる喜びと人間としての尊厳を植え付けようという、崇高な行動に感激していますので。しかも現地はとても大変な様子です。『プラ子ブログ』をご一読ください。そして、出来れば何千円かの少額寄付をお願いします。恵まれた国、日本に生まれたことに感謝し、恵まれないモザンビークの人たちに支援の手をさしのべませんか。

    この本を読んで、強い刺激と驚きを感じました。これまでこのようなインパクトを受けた本は2冊あります。一つは、犬養毅首相の孫、国連機関に努める犬養道子さんがアフリカについて書いた『乾く大地』。この中で、犬養さんは、アメリカの奴隷はまだいい、子孫を残す環境(夫婦)を与えたから。それはとりもなおさず、大西洋を渡るうちに奴隷の1/3が死亡し、奴隷の値段が高かったから、と。欧州では奴隷は安かったため、奴隷に子孫は残させませんでした。なんたる不道義、非人道=欧州人、と私は思いました。

    もう一つは、山崎朋子さんの『サンダカン八番娼館』。明治から大正にかけて九州を中心に貧乏な家庭の少女たちが買われ、またはさらわれ、だまされて東南アジアの娼婦『からゆきさん』として売られたレポートです。これをベースに、栗原小巻、高橋洋子、伊藤絹代による映画『サンダカン八番娼館 望郷』が制作されました。この本にも映画にもショックを受けましたね。

    ★プラ子ブログ: 
    http://purako.jugem.jp/  寄付窓口は、このブログ右手に案内があります。または、支援団体ソニーの口座に振り込む方法も。
    私も、2回目の些少なる寄付を銀行送金で行います。是非ブログを訪問してください。きっとあなたの善意を待っているアフリカの女性、子ども達の悲喜こもごもの情景が浮かび上がります。幸せな日本に生まれ育った私たちは、不幸な国に生まれた人たちに、一歩乗りだし、救いの手を伸ばす気概を持ちたいですねえ。それにしても、プラ子=栗山さやかさん、健康に気をつけて活躍してくださいませ。(*.^)

    ◆今日の画像は、イタリアで座礁した『現代版タイタニック号』と、『協会アシャンテママ』に集まり、行動する子供や女性たち、です。栗山さんの活動が大きな山となってアフリカ全体を動かすことを期待しています。3枚目の多くの人たちの真ん中にプラ子さんが見られます。ガンバレ、プラ子(*.*)

    <栗山さやかさん=プラ子の略歴>
    1980年 3月 静岡県生まれる
    1999年 8月 短大行きながら東京109渋谷ココルルショップ研修生として働く。
    2000年 3月 東京の短期大学卒業         
    2000年 4月 同店 準社員をへて社員になる。就職。
    2001年 3月 東京他店舗 店長になる。
    2002年 4月 同退職
    2002年 4月 フリーター、OLになる。
    2006年 2月 貯金でバックパッカー世界旅行に出る
    アジア、中東、ヨーロッパ、アラブ50カ国ぐらいうろうろする。
    2006年 9月 アフリカ エチオピアの施設でボランティアを始める。
    ビザ更新し、7ヶ月施設に住み込む。
    2007年 4月 ケニア タンザニア ザンビア マラウィ 
    モザンビーク 南アフリカ スワジランド ジンバブエ
    旅をしながら、時々施設や病院でお手伝い。
    2009年 1月 モザンビーク北部に家を借りてボランティアしています。
    2009年 10月 新しい協会を現地の子2人と作りました。


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    http://sonydes.jp/blog/2011/01/-2006.html

    2011年1月27日

    プラ子のボランティア団体【アシャンテママ】がJustGiving Japanに団体登録されました!



    purako_JustGiving.jpg
    2006
    年に単身アフリカに旅立ち、一人でボランティア活動を続ける渋谷系ガングロギャル・プラ子
    彼女はアフリカ・モザンビークで貧窮に苦しむ女性たちに、教育・衛生・病気・モラルなどを教えてきました。
    それから5年、プラ子の念願が叶いNPO団体【アシャンテママ】が設立されました。
    今もなお、プラ子はアフリカ・モザンビークで頑張っています!
    そして、この度ついに「アシャンテママ 日本支部」は"JustGiving Japan"に団体登録されました。
    詳細ページはこちら↓
    JustGivingのご紹介…
    世界最強のファンドレイジング・ツールと呼ばれる、オンライン上で寄付を募る&寄付ができる仕組みのこと。
    2010年に、7歳の少年(チャーリー・シンプソンくん)がハイチ地震の被災者を救おうとロンドン市内をサイクリングして約2880万円を集め話題になったのでご存知の方は多いかも。
    JustGivingの活用法…
    ○チャレンジャーになって寄付を募る!
     ①支援したい団体を選択する
     ②何かにチャレンジをし、賛同者=寄付 を募る。
     ③寄付が支援したい団体に贈られる。
     (チャレンジは、どんなことでもOK!例えば…老犬の健康ために毎朝ゆっくりさんぽします!、毎日1駅歩きます!、マラソンに参加します!、近所の海を毎日5分間ゴミ拾いします!、などなど)
    ○サポーターになってチャレンジャーに寄付をする!
    (もちろん!チャレンジャーを通さなくても、支援団体に直接寄付するのもOK!)
    まだまだ団体登録したばかりで、寄付もチャレンジもこれからです!
    プラ子の為に何かしたい!とお考えだった方も、今回興味を持っていただいた方もぜひぜひアクセスしてみてください。
    「アシャンテママ」への寄付、応援のためのチャレンジ企画(自分が頑張る→賛同者が寄付する)、募集中です!

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    参考リンク:

    http://www.mdig.com.br/index.php?itemid=20400





     

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    世界の子どもたちから日本へ応援メッセージ



    WorldVisionJapan
    アップロード日: 2011/05/11
    東日本大震災の未曾有の被害状況は、世界各国へも瞬く間に伝えられ、ワールド・ビジョ­ン・ジャパンの事務所には、連日のように、世界各国のワールド・ビジョンの事務所から­、日本への応援メッセージが届けられました。そのほとんどは、これまでチャイルド・ス­ポンサーシップを通して、支援を受けてきた国のチャイルドたちからです。ぜひご覧くだ­さい。

    http://www.worldvision.jp/news/news_0...
     
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    モザンビークのアデリアちゃん



    WorldVisionJapan
    アップロード日: 2008/11/07
    一日に三回、遠い井戸まで水を汲みに行くモザンビークのアデリアちゃん。貧困の中を懸­命に生き抜いている途上国の子どもたち、その国の未来を担って立つ子どもたちが夢をか­なえ、希望ある人生を歩めるよう、世界の現状に関心を寄せていただき、チャイルド・ス­ポンサーシップにご参加いただきたいと願っています。

    カテゴリ 非営利団体と社会活動

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    ワールド・ビジョン・ジャパン20年の歩み



    WorldVisionJapan
    アップロード日: 2009/07/12 ワールド・ビジョン・ジャパンは、皆さまの温かいご理解、ご支援に支えられて、200­7年10月、20周年を迎えることができました。

    カテゴリ 非営利団体と社会活動

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    モザンビーク 1 教育



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    モザンビーク 3 医療 



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     Access to Energy for the Base of the Pyramid(日本語字幕) 



    アップロード日: 2010/05/01
    説明はありません。

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    Maputo The Beautiful Capital of Mozambique.wmv



    アップロード日: 2011/04/16
    Maputo means in local language, Sea of the Portuguese,until 1975 was been called Lorenço Marques and his inhabitants nicknamed as Coca Colas.
     
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    2013年3月22日金曜日

    核の警鐘 問われる原発の安全性

    核の警鐘 【前編】 問われる原発の安全性 1/4



    アップロード日: 2011/03/19
    今回の東日本大震災時に起こった福島第一原発の問題もそうですが、そもそも原子力発電­所は本当に安全なのか?という本質に迫ったフランス制作のドキュメンタリーです。ちな­みにフランスは国内電力の80%を原発で賄っています。

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    核の警鐘 【前編】 問われる原発の安全性 2/4



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    核の警鐘 【前編】 問われる原発の安全性 3/4




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    核の警鐘 【前編】 問われる原発の安全性 4/4



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    核の警鐘 【後編】 問われる原発の安全性 1/4



    アップロード日: 2011/03/28
    今回の東日本大震災時に起こった福島第一原発の問題もそうですが、そもそも原子力発電­所は本当に安全なのか?という本質に迫ったフランス制作のドキュメンタリーです。ちな­みにフランスは国内電力の80%を原発で賄っています。

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    核の警鐘 【後編】 問われる原発の安全性 2/4



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    核の警鐘 【後編】 問われる原発の安全性 3/4



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    核の警鐘 【後編】 問われる原発の安全性 4/4



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    不都合な主権者国民を排除する下種なる経済産業省の役人は公僕に値しない。

    不都合な主権者国民を排除する下種なる経済産業省の役人は公僕に値しない。

    排除すべきは下種行政官僚役人である。
    主権者国民の声を聴かない経済産業省を解体せよ。

    無責任な原子力行政に対する反省の表明もせず。 主権者国民の必至な抗議活動等を門前払いにする横暴・傲慢さは、どこからそのような発想が出てくるのか。

    主権者国民から、国家行政を負託されている責任を全く無視して、放置している有様だ。

    このような国家行政の不全的な運営を、主権者国民は、黙認、黙過してはいけない。

    行政権力収奪の国家的犯逆罪として断罪すべきである。


    ================================

    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013031402000233.html

    東京新聞

    経産省前の脱原発テント 占有解除を命令
    2013年3月14日 夕刊

    経済産業省の敷地内でテントを張り、脱原発を訴える市民グループに対し、東京地裁は十四日、国の申し立てに基づき、テントなどの占有の解除を命令する仮処分を執行した。市民グループは国が今後、立ち退きを求めて裁判を起こすとみている。
     市民グループによると、十四日午前七時四十分ごろ、執行官ら数人が来て、テントなどの占有の解除を命令する公示書を張った。
     公示書にはただし書きで「債務者ら(市民グループ)に限り、使用を許した」とあり、執行官も「使用することはいい」と説明したという。
     市民グループは「弁護士と協議して対応を決めるが、敷地を利用し続けることを裁判所に求めたい」と説明。経産省の担当者は「訴訟中なので仮処分の目的を話すことはできないが、政権交代とは関係ない」とコメントした。
     テントは東京電力福島第一原発事故から半年後、庁舎前の敷地内に設置された。経産省は民主党政権時代から文書や口頭で撤去を求めてきたが、裁判所への仮処分申し立ては初めて。

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    経産省前 《脱原発テント》 強制撤去のおそれ
    昨年9月から経済産業省わきに設置されている、いわゆる「脱原発テント」が強制撤去されるおそれが出て来た。

     関係者の話をまとめると、8月28日の午前4時半過ぎ、10数名の経産省職員らが「脱原発テント」を訪れ、【写真1】~【写真3】に見られるようなプラスチックボードを固定して行ったという。
     同じく28日の午後2時過ぎ、やはり経産省の職員が来て、早朝に設置したボードを確認し、布などがかかって隠れているものについてはその布を剥ぎ取る等をした。その際は、職員らは「脱原発テント」にいる人たちに一切名乗ることはなく、名前を尋ねる質問に対しても終始無言で、ボードの確認作業や「脱原発テント」の人たちの様子をビデオカメラに収めるとそのまま庁舎内に帰って行った。

    【写真1】 8月28日の午前4時半、まだ日の出ていない中でチェーンにくくりつけられたプラスチックボード。「~禁止します」ではなく「~禁止致します」の書き方が何とも「いんぎん無礼」である。 (撮影・三上英次 以下同じ)

    【写真2】 特注のプラスチックボードは全部で2種類。これらが横一列にくくりつけられた。(→【写真3】参照)
     午前4時半過ぎと言えば、まだ電車の動いていないところもあるから、27日の夜から10数名の職員がボード設置のために庁舎内に息をひそめて明け方の時間帯を待っていたのであろう。また、チェーンにつけられたプラスチックボードを見てわかるように、これらのボードはきのう今日に油性マジックで作ったものではない。しかも、その大きさも「脱原発テント」の手すりにジャストフィットするように作られた“特注品”である。
     このような突然の、しかも水面下で周到に準備された行動に「脱原発テント」側の人たちも不安を隠さない。テントにいた男性は言う。
     「今日のやり方は、明らかにこれまでと違い、強硬な姿勢を感じます。私たちは、経産省側に、敷地の一部利用のために書面で申し入れをし、その返答に対しても穏やかに書面でのやりとりを続けているところなのです。職員が、テント近くで作業している様子をビデオ撮影する等して“証拠”固めをして、あとは有無を言わせずに…ということなのでしょうが…原発に関して全国民が関心を持って見守っている中で、強制撤去するということになれば、これはかなり問題ではないでしょうか。」
     所属や名前も言わずに、黙々と作業をする経産省職員のふるまいにテントの女性も半ばあきれ顔だ。
     「市役所もどこだって、公務員が公務時間中に仕事をするのだったらIDカードを下げて、名前や所属をわかるようにするのがふつうでしょ?それを、そういうものをわざわざ外して来て、しかも、こちらが名前を聞いても一切無視ですからね…、おかしいと思いませんか?」
     いずれにせよ、これまでも政府の方針に反対するような国民(=主権者)の行動に対しては、政府はある時期を過ぎると、強制撤去・強制排除の方針を採って来た。今回、プラスチックボードを“特注”し、多くの職員らが午前4時半、言わば「寝込みを襲う」かたちで行動に出たということは、おそらく経産省トップ(=政府)が考えているのは、強制撤去だろう。今ある「脱原発テント」ぐらいの規模であれば1時間もあれば、つまり今回のように午前4時半ぐらいから撤去にかかれば、朝の5時半には現場をあとかたもなく“更地”にすることは可能だ。では、どうして今の時期にそこまでするのか、理由はいくつか考えられる。
    (1)来月の9月で「脱原発テント」が設置されて1年になること。この間、同テントは、「反原発」の象徴的役割を担って来た。毎週金曜日の官邸前抗議行動でも、同テントは「塩あめ」や「麦茶」を参加者らに配る等している。官邸前から環境省への途中にあり、テントは抗議活動に参加する人々の中継点にもなっている。
    (2)原子力規制委員会の人事を強行する上でも、霞ヶ関の“一等地”に「脱原発」を訴えるテントがあることは、「目の上のたんこぶ」である。
    (3)「ふくしま集団疎開裁判」でも明らかにされているように、福島の子どもたちへの健康被害が現に進行しており、そのことが隠しにくくなって来ている。事故から1年半が経とうとしているのに、何ら事故が収束せず、むしろ被害の甚大さが今後ますます露見することを考えると、なりふりかまわず、目に見える物理的な「反原発」アイテム(例 テント)だけでも排除したいのだと推察される。
    (4)「反原発テント」を強制撤去し、強圧的な態度を一時的にでも見せつけることで、そのような運動に参加する人たちに心理的プレッシャーをかけることも、テント排除のねらいと思われる。

    【写真3】 ご覧の通り、ボードは横一列につるされている。
     強大な国家権力が、何の実害も無く、高齢の人たちも参加しているような「脱原発テント」を、今後有形力を用いてでも撤去しようとするのは、それだけ政権の原発推進勢力が追い詰められている証拠でもある。
     もし、自分たちの掲げるエネルギー政策に絶対の自信を持ち、門戸を開いて対話を続けようとするなら、あるいは、記者が経産省のトップであったなら、反原発の人々にワンフロアーとまではいかないが、空いている庁舎内の会議室、1つや2つを提供したかもしれない。政府にとって都合の悪い立場の人たち、反対意見を述べる人たち、――そういう人たちにも積極的に対話の機会を与えてこそ、健全な民主主義社会が可能になるからである。
     おそらく経産省の言い分としては、「国の敷地の一部を不法に占拠している」ことを強制撤去の理由に挙げるだろうが、それだけで機動隊を使ってテントや人々を強制排除することの根拠になるだろうか。
    【1】「脱原発テント」の設営によって、何か具体的に経産省の業務が妨害されたり、滞ったりしたことがあるだろうか。むしろ、同テントの活動により、より多くの主権者が、経産省や広く政府のやることのおかしさに気づくことができた。その意味では、経産省側の言う「不法占拠」のデメリットが、せいぜい10か20とするならば、テント設営のメリットは少なくとも1000か2000程度はありそうである。
    【2】「脱原発テント」は、ごく一部の限られた人たちの関心事のために設営されたのではない。国の原子力政策の是非を問うために、市民運動の中で設営されたものである。全国民の関心事についての意見交換の場にもなっている同テントが、経産省にとって苦々しい存在であることは、じゅうぶん理解できるが、設営の趣旨を考えても、強制撤去は好ましくない。現に、今も書面でのやりとりは続いているわけだから、粘り強く経産省側も話し合いを続けることが期待される。
    【3】これまでも霞ヶ関の役人、政治家らの不正はあり、その摘発に市民活動が大きな役割を果たしてきたことは、公害問題、薬害問題、沖縄基地問題など、過去のいろいろな問題を見ても明らかである。だとすれば、経産省は、単に形式的な「不法占拠」などという理由だけで、「反原発テント」やそこに集う人たちを撤去・排除すべきではないだろう。

    「脱原発テント」には、さまざまな来訪者があるが、午前4時半の訪問は、ちょっと早いのではないか。写真は8月28日、同テントを訪れた、いわゆる右翼のお兄さまがた。「みんなは、そうやってテントの設営をやっているけど、ぼくら右翼がやったら、すぐに逮捕されちゃうよ。いいな、いいなぁ~」ということを、オッサン口調で力説していた。
     それにしても、原発事故が起きれば、その後始末には下請けの作業員を充てて、東電社員らはエアコンの効いた部屋で涼しい顔でくつろぐ。「脱原発」のテントが張られれば、高級官僚は、その強制撤去を若い警察官や機動隊員らに命じる。警察官、機動隊員らにとって、テントに集う人たちは、彼らの親や祖父母の世代である。命じられれば、若い機動隊員らは重装備で、そういう高齢の人たちをごぼう抜きにして排除するのかもしれない。しかし、そういう光景を見て、陰でほくそえむのは、霞ヶ関の高級官僚らと、経済界の黒幕、そして原子力ムラの連中ぐらいだろう。
     もし、たかだか「敷地の一部不法占拠」を理由に、高齢の人たちを〈強制排除〉させるなら、その前に、主権者の生活を破壊し、子どもたちに「がん死」のリスクを負わせるような、原発推進派の連中をこそ、〈強制排除〉させるべきではないだろうか。
     ――警視庁の若いおまわりさん、そして、機動隊員のみなさん、ソコントコ…どうぞよろしく!
    (了)

    機動隊の装備も、ずいぶんと洗練されて来た。しかし、機動隊は暴動鎮圧などのためにあるのであって、「脱原発テント」の強制撤去・排除は本来の彼らの仕事ではないはずだ・・・。写真は8月15日、都内にて。
              
    《脱原発テント・関連記事》
    例1 【Occupy経産省】撤去期限日、市民が脱原発テントを守った(田中龍作記者)
     http://www.janjanblog.com/archives/61250
    例2 【Occupy経産省】「脱原発テント撤去問題」 山場はバレンタインデー(田中龍作記者)
     http://www.janjanblog.com/archives/61697
         
      《参考記事》
    ◎「原発いらない、福島の女たち」
    ◎「牛飼いとしての意地 ~吉沢さんの苦悩~」
    ◎「国は自ら作った法律を守らない」(小出裕章氏)
    ◎「原発差止判決を書いた元裁判官、官邸前で訴える」