2013年11月19日火曜日

白村江の戦い

白村江の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、新羅連合軍との戦争のことである。

日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ[2]。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す[2]。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった[2]。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。
漢語では白江之口と書く(旧唐書[2]

朝鮮半島と中国大陸の情勢
6世紀から7世紀朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていた事が『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津(くまなり)への遷都によって復興し、538年には泗沘(しび)へ遷都した。当時の百済は倭国の属国となっており倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている[3]
一方、581年に建国されたは、中国大陸を統一し文帝煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。同年に建国されたは、628年に国内を統一した。唐は二代太宗高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服する事になる。

唐による新羅冊封
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対的したことで、唐は新羅を属国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、度々朝見して唐への忠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[4]649年、新羅は朝貢の使者として金多遂を倭国へ派遣した。

百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大旱魃による飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[5]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[6]。657年4月にも旱魃が発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[7]。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた[7]
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[7]

倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。

新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。

遣唐使
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。

百済の役
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[8]

百済滅亡
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[9][10]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[10]。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった[1]
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[10]。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[10]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた[10]
 

黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯(かいはく)将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子法敏(のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した[10]。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を赦された[11][12]
唐軍は白江を越えたが、泥濘が酷く手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸、熊津口の防衛線を破り王都に迫った[13]。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した[13]
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否した[13]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した[13]
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘(しび、サビ)城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した[14]熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた[7]。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている[2]

百済復興運動
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かう[15]と、百済遺民鬼室福信黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。忠南大興郡大興面)を防衛した[16]。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[16]。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた[16]。熊津都督王文度も着任後に急死している[16]
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[17]。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した[17]
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった[17]

倭国による百済救援
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり)。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
 


唐軍
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[1]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[2]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。日本書紀によれば、白村江の戦いの663年から666年にかけて、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌杜爽、元百済太子の扶余隆
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師劉仁原、新羅王の金法敏(文武王)。

倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした[18])。

倭国軍の戦闘構想は、まず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。

戦いの経過
661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
663年天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。

海上戦
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『日本書紀』)。

陸上戦
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

戦後・影響
この戦いは唐の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。白村江の戦いでの敗北は、日本史上でも第二次世界大戦後のアメリカ合衆国による占領をのぞけば、日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であった[19]。この敗戦により倭国は領土こそ取られなかったものの、朝鮮半島での権益を失い、国防体制・政治体制の変革がなされ、急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令法令群が策定、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。
戦の3年後、唐は高句麗侵攻を開始し、668年に高句麗は滅亡した。
 
高句麗滅亡
一方、朝鮮半島では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡によって、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった[20]
698年に靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に、満州南部で渤海国を建国した。渤海の建国当初は唐と対立していたが、後に唐から冊封を受け従った。また日本は、新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。

新羅による半島統一
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏を多数殺害した。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受けて属国となる事を赦され、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)がなされた。

戦後交渉
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた[21]
天智天皇は唐との国交正常化を図り、669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される[22]。 670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている[23]

防衛体制
天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。さらに667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成させた。

壬申の乱
671年に天智天皇が急死[24]すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳~686年)として即位した。
皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築してゆき、新たな国家建設を進めた。天武天皇は、遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。
内政面では、天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、それまでの倭国(ヤマト王権)は「日本」という国家へと生まれ変わることとなった。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。
701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。[要出典]

百済遺民
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。
百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。
朝鮮半島に残った百済人も新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の種は絶滅した[25]

捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)[26]の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた[27]。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らも帰還した[28]

異説
7世紀まで九州北部に日本列島を代表する王朝があったとする古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。しかし、日本古代史の学界からは史料批判などの歴史学の基本的な手続きを踏んでいないととみなされている[29]

外部リンク
 
 
 

『舊唐書』東夷傳 百濟
舊唐書卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 百濟
日本書紀 卷廿七 天智紀
鬼室集斯/鬼室神社
夜久正雄 拙著『白村江の戦』史料摘要 Notes on the Historical Material Used in My Book The Battle of Paekchon River アジア研究所紀要 1, 215-242, 1974

最終更新 2013年9月30日

裴世清

裴世清

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E4%B8%96%E6%B8%85

裴 世清(はい せいせい、生没年不明)は、7世紀前半に中国王朝煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者。

隋書

隋書』によれば、俀王多利思北孤大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業4年(608年)、文林郎である裴清(世については太宗朝の二代目皇帝李世民)の世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、そして東に進み、秦王國(辰王国?)に着いたという。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、蛮族と言われるのは理解出来ないとしている。竹斯國から東はすべて俀であるという。俀王は小徳(冠位十二階の位)阿輩臺が数百人で迎え、10日後に大礼の哥多が200騎で警護した。王と会った清は王の歓迎のことばに皇帝の命を伝えた。その後清は使者とともに帰国した。

明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹嶋南望(身に再)羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞 既至彼都 其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國 故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不即相見 今故清道飾館以待大使 冀聞大國惟新之化 清答曰皇帝德並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引清就館 其後清遣人謂其王曰朝命既達 請即戒塗 於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物

『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國[1][2]

三国史記
三国史記』卷第27 百済本紀第5 武王9年3月によれば「九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路[3]」とあり裴清は百済南部を経由したことが記述されている。

日本書紀
日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。「鴻臚寺掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の上においた。9月5日に難波大都に、11日に帰った。

即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等 為唐客更造新館於難波高麗館之上(中略)六月壬寅朔丙辰 客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘 迎客等于江口 安置新館 於是 以中臣宮地連烏磨呂 大河內直糠手 船史王平為掌客 (中略)秋八月辛丑朔癸卯 唐客入京是日 遣飾騎七十五匹 而迎唐客於海石榴世衢 額田部連比羅夫以告禮辭焉 壬子 召唐客於朝廷 令奏使旨 時阿倍鳥臣 務部依網連抱 二人為客之導者也 於是大唐之國信物置於庭中 時使主裴世清親持書 兩度再拜 言上使旨而立之 其書曰 皇帝問倭皇 使人長吏大禮蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別 時阿倍臣出進 以受其書而進行 大伴囓連迎出承書 置於大門前机上而奏之 事畢而退焉 (中略)丙辰 饗唐客等於朝 九月辛未朔乙亥 饗客等於難波大郡(中略)使主裴世清親持書 兩度再拝 言上使旨而立之(中略)辛巳 唐客裴世清罷帰
『日本書紀』推古天皇条


1. 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國
2. 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
3. 三國史記 卷第二十七 百済本紀第五 武王

最終更新 2013年5月19日 (日)

磐井の乱

磐井の乱

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1

磐井の乱(いわいのらん)は、527年継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱または王権間の戦争。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。
磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。
なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。

経緯
真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。
527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国肥後国)と豊の国(豊前国豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇大伴金村物部麁鹿火許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。
乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。
以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、『古事記』は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。

意義
磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎藤間生大門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。
これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただし、それらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったため、乱の意義に着目した研究が続けられ、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける考えが、多くの研究・検証の結果、通説となった。
1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は、古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。
1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったものとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する評価は必ずしも一致していない。
一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が次第に判明するに従って、それらの九州広域文化圏を磐井の乱と関連づける議論がなされるようになっている。

異説
当時、北九州にはすでにヤマト王権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)があった。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説(九州王朝説)がある。この説は、当時の日本においてヤマト王権が九州を含む統一王朝であったことを疑問視し、むしろヤマト王権よりも磐井政権の方が日本における有力政権だったと見なすものである。

ただし、古田武彦はこの説を取り下げた。そのため、多元王朝説ではこの乱自体を造作とする。


関連項目
日本の合戦一覧
筑紫君磐井
ヤマト王権
継体天皇
物部麁鹿火

最終更新 2013年6月28日



靺鞨

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8

靺鞨(まつかつ、拼音:Mòhé)は、中国の時代に中国東北部(現在のロシア連邦沿海地方)に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって朝,朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。

ファイル:Map of The east barbarian 4.png

6世紀頃の中国大陸東北部



【日本史】古墳11磐井の乱  



公開日: 2013/06/26
【日本史】古墳11磐井の乱
(ぱんだの日本史、センター試験対策、覚え方、国造、県主、高句麗、新羅、百済、ヤマ­ト政権、大伴金村、加耶、筑紫、磐井の乱、屯倉)

津波について思った事(安倍一族、平泉)

津波について思った事(安倍一族、平泉)

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「東日流三郡誌5(文化・地誌 編)」の【十三湊町史】には、こう書き記している。
「興国二年に大津波起りて一挙に海の底に埋まり、その昔影を遺すに至らず、今は住む人ぞ二十一軒なり。湖底に眠る幾千人の霊魂は唐崎の地蔵尊に崇まるとも、その縁ずる者もなく、今は無縁なり。」興国二年とは南朝暦であり、西暦1341年。要は、南北朝時代真っただ中だ。和田喜八郎著「知られざる東日流日下王国」では「東日流三郡誌」で書かれている日本海での津波などあり得なく、でたらめも甚だしいと講演した某大学教授への批判が書かれているが、実際にその後、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57秒に秋田沖日本海中部地震が起き、津波が押し寄せた。新聞やテレビで知ったところによると、砂浜を歩いていた小学生が津波に呑み込まれたなどと、津波の恐ろしさを伝えていたのを記憶している。

ところで文献上、東北を襲った地震と津波で一番古いのは、「貞観の大地震」貞観11年(869年)であるが、ここでフト三陸のリアス式海岸を思い出した。小学の地理の授業で習うには、ノコギリ状のギザギザな地形という事だが、これは海水面の上昇によってこの地形が現れた…という考えが一般的のようだ。しかしこのリアス式海岸の地形を作ったのは、やはり水の力だろうと思う。もしかして人類が東北に住む以前から、何度も津波が押し寄せてリアス式海岸を作り上げた可能性も否定できないのかもしれない。

気になるのは安倍一族であり、奥州藤原氏だ。安倍一族を調べると、どうも本来は海の民では無かったのか?と思う節がある。しかし安倍一族は、海の面していない奥六郡を本拠地としていた。また安倍一族の血を引く奥州藤原氏は十三湊で大陸との交易をしていたようだが、十三湊から平泉まで交易の品々を運ぶには、かなりの距離がある。いくらでも十三湊寄りに近づいた方が、輸送の不安は拭えた気もするのだが、北東北の丁度中央に位置する平泉という地に金色堂などを築いたのは、黄龍の思想もあったのでは無いかと考える。要は東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武で、その中央に位置するのが黄龍であり、支配の位置であるからではなかろうか?

そしてもう一つ、津波に対する警戒心から沿岸域には都の建設をしなかったのではなかろうか?本当の事実はどうかはわからんが、1341年の地震による大津波が起きたにしろ、史書には記録されていないのは十三湊が辺境の地であった可能性からであろう。

史書でわかっている古い津波の歴史は、日本最古の書物である「古事記」の編纂を命じた天武天皇13年(684年)10月14日土佐に津波が来襲し、船多数沈没とあるのが最も古い。天武年間には伊豆の地震に対する不安を書き記してはいるが、それより更なる北…東北に関する記述はない。しかし今回の3月11日の三陸大津波の余波はニュースで注目を浴びなかったがやはり土佐をも呑み込み、三陸ほどの被害は無かったものの、かなり深刻なダメージを与えたようだ。つまり天武年間の津波の記述も、もしかして土佐という局地的なものではなく、広く太平洋沿岸域に起きた地震と津波であった可能性もあるのではなかろうか?

こうして古代史を調べていて気付くのは、海人族が海を捨てて、内陸に移住して文化を築いている事。安曇族しかり、何故に海の民が山へと進出して、海の文化をもたらしたのかと不思議だった。何故なら山の中でありながら、竜宮に繋がる伝承は数々ある。「遠野物語」を一つ一つ紐解いていっても、海の民の文化に繋がるのである。何故海の民は、海を捨てたのか?それはやはり、歴史の知らない津波が、今まで住んでいた海の民の町を壊滅させた可能性に心惹かれてしまう。

何故に海幸彦が海で溺れなくてはならなかったのか?もしかしてだが、海を捨てた民が山幸彦となり、海を捨てない海幸彦を溺れさせた隠された背景があったのではなかろうか?などと、今回の三陸大津波がいろいろ心に語りかける。

そして最初に戻るが、本来は海の民であったらしい安倍一族が何故海に面していない奥六郡に拠を構えたのかも、沿岸域の津波の恐ろしさを知っていたからではなかろうか?と考える。そして何故に奥州藤原氏が内陸の中央に極楽浄土の思想によって平泉を築いたのも、津波によって流離う海の民を意識してのものではなかったのか?と。つまり津波という恐ろしさを知っていたからこそ、居住も含め精神的信仰の拠点としての平泉では無かったのか?一般的に知られる極楽浄土とは、補陀落渡海。つまり海の彼方にあると信じられた。しかし奥州藤原氏は、その極楽浄土を東北の内陸の中心に築いたのは、津波の不安が無い地であった可能性。そして奥州藤原氏の築いた文化には、安倍一族から受け継がれたものが多大に含まれている可能性はあるだろう。つまり妄想を広げれば、安倍一族は津波によって故郷を捨て、東北に流れ着いた海の民では無かったのかと…。


鳥海(とみ)



上郷村字細越のあたりと思うが、トンノミという森の中に古池がある。
故伊能先生は、鳥海とあてるのだと言われ、よくこの池の話をした。

ここも昔から人の行くことを禁ぜられた場所で、ことに池の傍らに行
ってはならなかった。これを信ぜぬ者が森の中に入って行ったところ
が、葦毛の駒に跨り衣冠を著けた貴人が奥から現れて、その男はた
ちまち森の外に投出された。

気がついて見れば、ずっと離れた田の中に打伏せになっていたという。
もう今ではそんなことも無くなったようである。  「遠野物語拾遺36」




このトンノミと呼ばれる地には画像の様な池があり、白山神社が鎮座し、白山姫が祀られている。そしてこのトンノミは、伊能嘉矩曰く「鳥海」とあてるのだという。ここで単純にイメージできるのは水辺の鳥となるのだろう。

この鳥海を調べると「トンノミ、トリウミ、トミ、トビ、トオノミ、チョウカイ…。」などと読む。どれにしろ「鳥」に関するものなのかとイメージしてしまう。

このトンノミの南側には鳥海舘跡があり、安倍一族の関係が深い。その中でも特に鳥海三郎と呼ばれた安倍宗任との結び付きを意識してしまう。また鳥海といえば秋田県に鎮座する鳥海山があるが、やはりそこにも安倍宗任の伝説は伝わる。鳥海と安倍宗任の繋がりとは、なんであろうか。



古代において鳥の印象が強いのは、ヤマトタケルが死んで白鳥となり飛び去って行くシーンもあるが、もう一つ「神武前記」の記される金色の鵄(トビ)の逸話だろう。
「皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰けて氷雨ふる。乃ち金色の霊しき鵄有りて、飛び来り皇弓の弭に止れり。其の鵄光り曄煌きて、状流電の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒皆迷ひ眩えて、復力る戦はず。長髄は是邑の本の号なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍の、鵄の瑞を得るに及りて、時の人仍りて鵄邑と号く。今鳥海と云ふは訛れるなり。」この一節には、鵄が鳥海に転訛した事を伝えている。つまり鳥海三郎は鵄三郎でも同じであるのだろうか?ところで黄金色に輝く鵄だが、似た様なものに「伊勢風土記逸文」の一節がある。

「神武は時に、金の烏の導きの随に中洲に入りて、兎田の下県に至りき。」

八咫烏が神武天皇を導いた話は有名だが「伊勢風土記逸文」においては、それは金色に輝く八咫烏であったようだ。「神武前記」の金色の鵄を一般的に太陽の象徴であり、日の神の使いと見ている学者が殆どのようだ。ただここで考えてみたいのは「古事記」や「日本書紀」が、太陽神であろう天照大神を中心とした信仰体系を作り上げた書物であるという事。そこには太陽に関するものがいくつも散りばめられている可能性はある。長燧彦が登場する金色の鵄の逸話など、まさに太陽には逆らえないものと捉える事ができるが、果たしてそれは本当なのだろうか?古代は、太陽暦ではなく太陰暦が中心であった。そして晴れて太陽暦を導入したのは、天照大神と同一視された持統天皇時代からであった。それでもその頃は、完全に太陽暦となったわけでは無く、太陰暦を合わせて日々の運行を考えていたようだ。確かに太陽は尊い存在ではあるが、それ以外にも尊いものはいくつもあっただろう。恐らく金色の鵄も単純に太陽の象徴と考えていては、迷宮から抜け出せない可能性があるかもしれない。

ところで「日本書紀(神武前記)」には「頭八咫烏」とある。本居頼長「古事記伝」では、八頭烏で頭が八つあるとしているが、この説にはいろいろ反論があるようだ。頭が八つでは無く、頭そのものが大きいと判断する説もあるが、「頭」を「おつむ」とも言う事は本来「つむ・つむり」が語源となる。実は「つむ・つむり」の古くは銅鐸を意味していた節がある。



三浦茂久「銅鐸の祭と倭国の文化」によれば、紡錘形をしたものを古代では「ツミ」と呼ばれていたとある。となれば頭もまた紡錘形のようなものであり「御つむ」と呼ぶのには、何等可笑しくは無いだろう。ところがこの「つむ」が「とび」に変化したのではないかと説いている。先ほどの「頭八咫烏」もまた銅鐸を暗示するものであろうとしているのは、その八咫のサイズがもしも銅鐸なら現実味を帯びるであろうとしているが、確かにそれは納得してしまう。銅鐸には「鳴る銅鐸」と「照る銅鐸」があるというが、まさしく金色に光る鵄も、金色に光る烏も照る銅鐸であれば、光の象徴として弓の先にも付けられるだろう。



先に記した「神武前記」において、鵄に対し「トビ」と仮名を振り「鳥海」に対し転訛し「トミ」となっているが、どうも「トミ」の読みが実は古いようである。つまり「トミ」が「トビ」に転訛したのが正しいようだ。その「トミ」は「ツミ」からの変化である可能性がある。例えば「和名抄」によれば、小型の鷹を「ツミ」と言い、ハシタカを「ツブリ」というのも、鷹や鷲が木の枝などに止まっている姿勢が紡錘形の銅鐸をイメージしていたようだ。

ただし「鳥海(トミ)」がそのまま銅鐸を表すのではなく、「トミ」の更なる語源「ツミ」の意味を引きずってのものだろう。ちなみに「ミナカタトミ」の「トミ」も「ツミ」の転訛としている。「ツ」は乙類の「ト」に、あまり無理なく変化するものとされている。そして「ツミ」ですぐに思い出すのが「ワタツミ」や「ヤマツミ」の神々だ。そして気になるのは「海」と書かれたものは「海洋」を意味している場合が多いという事から「鳥海」が「トミ」であり「ツミ」であるなら、その「鳥海」を冠した安倍宗任とは、やはり海人族であった可能性は高いだろう。安倍一族を調べると海の習俗を感じるのだが、その安倍一族が海の無い奥六郡に封じ込められたのは、安倍一族の力を恐れ、それこそ翼をもがれた鳥のように仕向けた為ではなかったのか。鳥海三郎という名は、海人族の名残を表した矜持であったのかもしれない





安倍貞任・宗任の形見

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オシラサマ…未だ謎とされる信仰の神だ。様々な学者が、このオシラサマを紐解こうと試みているが、これといった確固たるものがわかっているわけではない。明治時代に発刊された柳田國男の「遠野物語」によって有名になったオシラサマであった為、明治時代から沢山の学者が遠野を訪れ調査してきた。その性質が多面性を持つオシラサマであるが、ある古老は「オシラサマは安倍貞任が作ったものであると昔から教わってきたがどうなのでしょう?」と、遠野を訪れる学者に聞いたところ全て否定されてきたという。その為か、オシラサマと安倍貞任との結び付きを調べる学者は皆無と言って良いだろう。しかし、オシラサマが安倍貞任が作り伝えて来たと信じるものがいるのだ。

遠野市の先代の財産として、菊池春雄氏と荻野薫氏が調査しまとめた遠野市の館の報告書は、偽書と呼ばれる「東日流外三郡誌」に安倍貞任にからんでオシラサマや遠野の地の記述"日高見国閉伊郷貞任山の事…。"というものに触発されて調査したものである。

「東日流外三郡誌」の記述の中に「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というものに谷川健一は、これは福沢諭吉の言葉を下敷きにしたもので、明らかに偽書であり、一顧にも値しない!と一刀両断した書物である。しかし、その福沢諭吉も、自らの娘の婚姻相手を「身分が低い!」と否定している事から「天は人の上に人を作らず…。」という言葉も実は、本来の福沢諭吉に根付いている思想ではないのかもしれない。案外、内密に「東日流外三郡誌」の言葉を拝借して作った言葉なのかもしれない…。

とにかく「東日流外三郡誌」の記述にあるように、遠野の2カ所の貞任山には、それらしき跡がある事が判明している。つまり「東日流外三郡誌」は完全な偽書では無いという事だろう。その他の伝承も含めて、貞任・宗任は伝説と共に遠野に生きているものと感じている。



菊池山哉の別所の調査から全国に蝦夷が配され住みついた場所が判明しているが、東北内でも岩手県を除く東北に別所は存在しているが、秋田と青森の別所は性格が異なるのだという。ただし南東北と呼ばれる、宮城・福島・山形はかなり以前から朝廷に帰属した地であり、文化的にも蝦夷文化だけというわけにもいかないようだ。ここで強調したいのは、東北6県の中で、何故に岩手県に別所が無いのか?それは現在の岩手県が蝦夷の本拠地であり聖地であったのだと思う。伝承では安倍貞任の一族は、独自にタタラをしていたようだ。タタラ筋は、後に伝承では"鬼"と呼ばれる存在となる。現在まかり通っている鬼退治の殆どは朝廷側、つまり勝者側の視点に立ち語り継がれたものとなっているのが実情だ。しかしだ、鬼の伝承が蔓延るこの岩手県内において、遠野に何故か鬼の伝承が無いというのはつまり、過去の歴史上に置いて、精神的にも征服されていない地であった証拠であると自分は考えたい。その理由として早池峯があるものと信じている。ここで多くを語る気も無いし、また証拠となるものも揃ってはいない状態でもあるのだが、早池峰に守られた地である遠野であるから、安倍貞任・宗任は鬼として語られていないのだと考えている。自分はそれらを裏付ける為に、今後も取り組んでいく予定である。



荒川の道

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荒川高原へ続く道と、川が流れる。ところで荒川の語源を遠野では確認していないが、吉野裕著「風土記世界と鉄王神話」によれば、全国にいくつか荒川なるものがあるが、荒とは粗金(あらかね)、つまり砂鉄から発生しているようで、当然この遠野市の荒川も砂鉄に由来した名前なのだと思う。また遠野市には例えば"アラヤ"と付く地名があるが、やはり砂鉄に絡む地名のようだ。



遠野市観光で有名な、田んぼの中の荒神様は「コウジン」と読まずに「アラガミ」と読む。これは出雲などの中国地方ではタタラ師の屋敷神として祀られている為、この写真の「荒神」もまた製鉄神の一面を持っている可能性がある。とにかく、アラは砂鉄を意味する。今度、確認する事にしよう。





話を荒川に戻すが、この荒川の渓流沿いに不動明王を祀る祠がある。山伏が山を開発するにあたり、その軌跡として、巨石には不動岩、滝には不動の滝と命名する場合が全国に広がっている。この遠野の荒川沿いの不動明王の祠も、その名残であるのだろう。荒川が砂鉄を意味する川であるなら、山伏は、砂鉄…広義的に"金"を探してこの荒川沿いの道を辿りながら開発していったのだと理解できる。





ところでその不動明王の祠を真っ直ぐ登っていくと、安倍貞任の館跡云われる地に辿り着く。この館跡の地を万畑(ヨロズバタ)と云い、館跡と共に御前釜と呼ばれる場所がある。遠野には御前沼と呼ばれる地はいくつかあるが、御前釜というのは、この地くらいだろう。ヨロズバタだが…万畑、もしくは万旗という地名は遠野に2カ所。一つは薬師岳に連なる山で、もう一つがここだ。早池峰の山懐深い地に2カ所のヨロズバタとは?おそらく栲機千々姫…その別名は万畑豊秋津師比売命から付いた地名ではないかと感じる。実はその万畑は、早池峰の姫神である瀬織津比咩の異称とも伝えられるが、まだ詳しい事は解っていない。

画像は、大萩の釜淵だが「遠野物語拾遺22&24」には、淵にまつわる釜の話が紹介されている。ところで綾織に釜石という地があり、その地名の語源は沢の上流に釜形の巨石があり、そこから水が湧き出ているように見える。その釜形の巨石が、地名となったという。また沈んだ釜の伝説に、湯立て神事の釜が沈んだとか、もしくは粥を煮る釜が沈んだとか様々である。しかし釜は窯でもあり、火と水に関連する。阿曽沼氏は下野国から来たのだが、下野国には室八嶋神社というのがある。八嶋とは釜を意味しているのだが、室の釜で竃の意味であると。その室八嶋神社の祭神は、コノハナサクヤヒメ火中出産を果たしたので、竃の神と信仰されたようだ。ところで遠野だけなのかどうかわからないが、樺の木を「木の花(コノハナ)」という。樺はつまり桜の木でもあるが、桜の女神と伝えられるコノハナサクヤヒメであるから当然「木の花」と称して問題は無いだろう。しかし「コノハナ」は別に「粉の花(コノハナ)」とも呼ばれる。その意は"火の粉"の意も含むと云う。

しかし釜という言葉が、頭から離れない。釜、もしくは窯には、また別の意味が込められているのではないだろうか?だからこそ、遠野を調べると"釜"にぶつかるのは、古代の人々が何かを託し、隠語として伝えてるのではないかと考えてしまう。いずれ"釜"についても、調べる予定だ。



画像は、早池峰神社に奉納されている鉄を溶かした絵馬だが、これを「鉄滓(ノロ)」といい、俗に「初花」と称す。やはり吉野裕著「風土記世界と鉄王神話」では、コノハナサクヤヒメが火中で出産した、ホデリ・ホスセリ・ホオリとは、鉄の精製の過程だと述べている。つまりコノハナサクヤヒメの火中出産で…つまり鉄を精製する過程において火の粉が飛び散る様はまるで「粉の花(火の花)コノハナ」が飛び散る様でもある。その過程の中で産まれたホデリは初花といい、画像の鉄滓となるが、また別にこの鉄滓を"馬鹿鉄"と称するのは、隼人阿多君の祖を蔑視した為だという。そういえばコノハナサクヤヒメの別称は神阿多都比売(カムアタツヒメ)であるから、ホデリを蔑視するというのはやはりコノハナサクヤヒメも蔑視されたという事であろうか?



遠野における館跡には必ず桜の木があり、水神に関係する伝承が付随するようだ。安倍貞任の館跡周辺にはタタラ跡もある事から、独自に武器を精製していたものだと云われている。その信仰に繋がるのが、やはり早池峰であるよう。安倍貞任が山に築いた館跡には巨石があり、そこからは早池峯が見える。つまり早池峰を意識して館が築かれただろうと、館の調査をした菊池春雄氏&荻野薫氏は述べている。ただし狼煙の伝達手段の一環で、最終的に狼煙の行き着く先が早池峯であった可能性は高い。つまり遠野地方の情報を、更なる奥へと伝達する山が早池峯であったのだろう。この記事で記した安倍貞任の館跡は、その狼煙の過程の一つであろうと云われる。しかしそこには実質的な手段としての製鉄、もしくは狼煙とは別に、信仰的なものが全て早池峰に行き着いているかのようだ。つまり安倍貞任一族は、早池峰の神を信仰していたのだと考える。



貞任への道

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現在、遠野・釜石・大槌の三地区にまたがって風車が建てられている風力発電の施設は、遠野側から向うと、貞任山・五郎作山・石仏山と連なって新山へと行き着く。ところでこの新山だが気になるのは、新山神社というものが岩手県にいくつも存在するのだ。この新山神社の殆どは早池峯を信仰する神社であるのが一般的になっている。



新山からの早池峰&薬師



大槌湾と、ひょっこりひょうたん島のモデルとなった弁天島が僅かにわかる。



大槌に属する新山牧場からの展望は、北に早池峰と薬師を遠望し、東に大槌湾。そして釜石に聳える仙盤山や片羽山に、六角牛山をも見渡すできる事のできる見事な展望地となっている。この一連の山々の麓に、安倍貞任の末裔が逃げ延び、移り住んだと云われる。初神に住んでいた貞任の末裔と云われる及川氏に話を伺うと、現在の初神には誰も住んでおらず、安倍貞任が祀っていた星の宮神社も、今では祭事は行われていないとの事。星の宮神社御神体も定かでは無いとの事だが、ただ昔から伝えられている事は、星の宮神社は星を祀っているというよりも、"空・山・川・石・大地・海"の自然を祀っていたのだという。






新山では、桜の木を愛でているかのようだ。全てを紹介できないが、いくつもの桜の木に、名前が添えられ保護されている。写真の石割桜は、北を背にした山の神を祀る鳥居を潜った中に、巨石と共に並んでいる。室町時代に成立した「日本書紀纂疏」に、星に関してこう記述されている。

然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と
為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と
曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、
春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為
す。日分かれて星となる。

故に其の字日生を星と為すなりと。諸説を案ずるに星の石たること
明らけし。また十握剣を以てカグツチを斬るは是れ金の散気なり。


桜は"コノ花"とも云い、火の粉でもあったようだ。巨石の傍に、もしくはタタラ跡に桜が植えられるのも、金の精製の過程の象徴であるからかもしれない。ところでこの貞任山から新山にかけて気付くのは、早池峰&薬師が見事に見えるという事だ。





貞任山(886m)の頂きに立って、開けた方向にはやはり早池峰&薬師が聳えている。まあ他にも展望は開けているのだが、特に早池峯と薬師が仲良く並んでいる姿が印象的だ。遠野の伊豆神社からは薬師と早池峯が一直線上に重なっているのだが、この地からはその両山の姿が完全に観る事ができるのだ。この展望を眺めて気付くのは、安倍貞任の末裔である及川氏の言葉…星の宮神社の祭祀の内容だ。つまり星の宮神社で祀られている信仰の根幹が、この貞任山から新山にかけての地から感じられるという事。そしてその中心にくるのはやはり早池峰では無かろうか?「陸奥抄史」には、こう書かれている。「…猿ヶ石南北に存在せる貞任山の二山これに解くべきかぎありとも曰ふ遠野村に今亡き西法寺は日下将軍の建立せし古寺なりと曰ふ荒覇吐神社社貞任山二山にありと曰ふも定かならずと地住の人曰ふ…。」「陸奥抄史」より抜粋。




「夜の大槌湾」貞任山には荒覇吐神社があるという事だが、ここで考える。貞任の祭祀とは、自然崇拝であったようだ。つまり朝廷側が普及させた木造の社を持つものではなく、自然祭祀であったのだと思う。遠野の西にある種山もまた貞任の遺跡を確認できるのだが、巨石を二つ並べた間に早池峰が見える。神社とは"神の社"の意であるが、これは何も木造で建てなくてもいい筈だ。つまり石を並べたものでも、じゅうぶん神社として成り立ったのではないだろうか?つまり種山の頂きの巨石を考えた場合、その巨石から見えるものが信仰の対象であり、その信仰の対象を枠取った巨石こそが神社そのものであったのだと思う。そして安倍貞任は、その巨石の中に何を見たのか?という事になるのだが、やはりそれは早池峯であろう。新山(しんざん)は音読みであり、近代になってそう読まれたのだろう。つまり新山の本来は「にいやま」か「あらやま」であったと思う。「荒川の道」で記したが、荒は山伏などの用語では、砂鉄などの金を表す意でもあった。つまり新山神社の殆どが早池峰を祀る神社である事から、新山とは"あらやま"であり、早池峰とは金の山の中心であったのだと思う。だからこそ、安倍貞任の祭祀や伝説には早池峰が付随する。安倍貞任の築いた文化や歴史の中心が早池峯であったのではなかろうか?つまりだ…この貞任山でいう荒覇吐神社とは、早池峰を祀る神社の意ではなかったろうか?






「北上川流域の歴史と文化を考える会」主催のシンポジウムで工藤雅樹氏が発表した一部に、丹内山神社があった。御神体はアラハバキの岩とも呼ばれる巨石である。その丹内山神社の仁王像には応永19年(1412年)の胎内銘があって、それには「和賀郡種内郷」とあった古くは「タネナイ」と発音していた事がわかり、そこで工藤氏は"タネナイ"とはアイヌ語の「長い沢」の意であると説明している。しかし"種(タネ)"とは山伏用語で「山を母胎と考え、隕石を子種としたものであり、鉱物をいう。」となる。となれば"タネナイ"とはすなわち、山そのものであり、山に内胞されるものを信仰するものだろう。そしてこの丹内山神社の背後の遠くには早池峰が聳える。伊能嘉矩によれば、丹内山神社の大神は地神であり、それは滝ノ沢神社に現れたとあるが、その滝ノ沢神社に祀られている神は、早池峰の姫神である瀬織津比咩となる。どうも岩手県内の神社や信仰を辿ると早池峰にぶつかり、それが中心であるのがわかる。荒覇吐とは謎ではあるが、それが早池峰に結び付くものであるというのは理解できるのだ。安倍貞任の伝説の地に付随する信仰には、結局のところ早池峯が結び付くのがわかる。安倍貞任を理解する為には、やはり早池峰とそこに祀られている姫神を理解しなければ、その道の先へと進む事ができないようである。




安倍の血

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遠野には安倍貞任伝説が、かなり存在する。故鈴木久介氏は、北東北の蝦夷の為、中央権力と戦って滅ぼされた安倍一族への讃仰と哀憐の現われから、遠野の人々は滅亡後も安倍一族を遠野に住まわせ、起き伏しを共にし、運命を共有したかったのである…と語ってはいたが、実際はどうなのであろう?

安倍貞任は、日高見の国の勇者というイメージだ。日ノ元将軍という呼び方もある。多賀城以北を日高見と言い、遠野はキタガメとも呼ばれたが実は、日高見(ヒダカミ)の転訛でキタガメとなったという。少々苦しい転訛であるが…となれば、この遠野の地にも当然安倍貞任の伝説が根付くのは当然で、もしかして事実として、遠野に安倍貞任が行き来していたのである可能性はある。

河童淵の東に、安倍貞任の末裔であるという、安部家歴代の墓石が連立する区画がある。墓碑銘は磨耗して読み取る事はできないが、家格は感じる。安部家は、江戸時代には安倍姓の肝煎り役を代々務めていたのだという。某氏は、阿部家は館屋敷であり、安倍頼時の六男、北浦六郎重任の屋敷であったという説を唱えた。



また綾織町の胡四王屋号の阿部家も、遠祖を安倍頼時の四男正任としている。写真は胡四王の地に埋められていて発見された、阿部家に伝わる秘仏である阿弥陀如来の仏像。胡四王といえば、綾織の阿部家は元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだという。そう、小友にも安倍貞任の伝説は多い。それと共に胡四王そのものが物部氏との深いかかわりを示すものだ。

阿部家が住む綾織には石神神社があるが、この石上神社には物部氏の匂いが色濃くでている。また物部氏との結び付きを感じる奥州藤原氏には、切実なる安倍の血を望む行動があった。二代目藤原基衡の正室は安倍貞任の弟、宗任の娘である。この婚姻には、清衡の意思が大きく働いている。宗任は敗戦の為大宰府まで娘ともども流されたのだが、清衡は、その宗任の娘をわざわざ太宰府まで迎えに行って、息子である基衡の嫁としている。そこまでさせる安倍の血とは…。



安倍の血を調べるにおいて、必ず出てくるのが胡四王神社だ。胡四王神社は、北に向けられて建立しているのが特徴だ。一般的には、朝廷側の北方鎮護の意味合いであろうという事だ。ただ「北天の魁」の著者菊池敬一氏は胡四王神社について、こう語っている。

「胡四王神社は征服者と征服された者の関係を現した神社だと。花巻市の胡四王神社を見ればわかる。蝦夷を征伐した田村麻呂が建てたというが、北向きに建てられている。殺されて、追われて北へ逃げた蝦夷達が拝む為に建てられているんだ。そうでなかったら、国を守る四天王を祀る神社だから、南から来た征服者達が拝む為には、南向きに建てるべきだと思うがな。」と…。

例えば、早池峰神社は、その御神体そのものが早池峰山である為、本殿は南を向き、参拝する場合は本殿と共、その後ろに聳える早池峰山をも拝むという形になる。つまり北向きに建てられているという事は、背後の南を拝むという事にならないだろうか?

秋田市の胡四王神社は「日本書紀」の斉明天皇4年4月に安倍比羅不の蝦夷征伐の時に、齶田の蝦夷の恩荷が官軍に降服し、その際恩荷の誓った「齶田浦神」は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在したという。この在地の神が胡四王神社ではないかという事である。さらに現在の北陸、新潟地方の「越」の在来神が日本海沿岸地域で広く信仰され、北進して出羽の国に及んだものとして、胡四王は「高志王」「越王」に通ずるとも云う。その後、秋田城が遷置され、場内に四天王寺が置かれると、それが結びついたのではという事らしい。

天長7年に秋田城の付近で大地震が発生し、四天王寺と四王堂舎などが倒壊したとある。ただ四天王寺よりも古くに四王堂舎があったとされ、この四王堂舎には、蝦夷の信棒する神、もしくは越の国の在地神が祀られており、この地震の後に結びつき、性格を複雑怪奇にしたのだろう。つまり四王堂舎は元々齶田浦神の後身で、安倍氏との関係で越の国の神である越王と結合し胡四王となったようだ。

齶田浦神は秋田城内で祀られる以前は、男鹿の赤神神社に祀られていたようで、この赤神神社は安倍貞任をはじめとする、その子孫と称する安藤水軍で有名な安藤氏が崇拝保護を加えてきた歴史が16世紀半ばまで続いていたそうである。

また、この齶田浦神を祀っていた赤神神社には、奥州藤原氏が三代に渡って寄進してきたという歴史もある。これから齶田浦神というのは、安倍氏の先祖を祀ってきた神社であり、それけが後に胡四王神社へと移行したものであるようだ。

では、胡四王神社の北向きの造りをどう捉えるかだが、齶田浦神と四天王が結びついた事を考えると、南に位置する朝廷との結合を蝦夷に訴える為では無かったのか?北の鎮護と考えれば、南向きで後ろにいる筈の蝦夷を睨むという形の方が無難だ。また菊池敬一氏の考えの通りなら、北へ逃げた蝦夷達が拝むというのなら、一緒に朝廷側も拝んでしまうというパラドックスに陥る。ここは懐柔策としての、朝廷と蝦夷の統合を現しての北向きの造りではと考える。


(注) この文章は、以前に書き綴っているもので、現在の考え方とは違っている事をご了承ください。



蝦夷と和歌

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伊能嘉矩「遠野史叢」を読むと、不思議な伝承が紹介されている。猿ヶ石川の語源となる伝承であるのだが、古代の遠野では容貌麗しい14,15歳の少女を官女の教育を施す為に3年の間、和歌などを習わせていたという。その時に、現在でいう岩手県山田町から来た左内という男と、官女候補の清滝姫が恋に落ちての歌が記されている。

【左内と清滝姫の歌】

雨ふらで植えし早苗もかれはてん清滝落ちて山田うるおせ(左内)

及びなき雲の上なる清滝に逢わんと思う恋ははかなし(清滝姫)

かけはしも及ばぬ雲の月日だに清きけがれのかげはへだてぬ(左内)

よしさらば山田に落ちて清滝の名を流すとも逢うてすくわん(清滝姫)



何が不思議かと言うと、一般的に東北はズーズー弁であり、清音では無く濁音が多い。しかしこれはあくまでも声を出して発音する場合なのだろう。言葉が訛っていても、書に記す時は"清音"となるのが普通なのだから。また、田舎と認識する遠野に於いて、官女を養成するなど考えられない。また文化的な和歌を教える地などある筈が無いだろうという先入観もある。しかしここで思い出したのは、安倍貞任が衣川の戦いに於いて敗走する安倍貞任を、源義家が馬で追いながら歌を投げつけたシーンだ。


「衣のたて(館)はほころびにけり」


と歌の下の句を貞任に投げつけたところ、安倍貞任は振り返り、にっこり笑い上の句を返した。


「年を経し糸の乱れの苦しさに」    


義家は貞任の返歌を聞いて、唖然としつつも感動したという。当時の蝦夷は、無知で卑しいというイメージがあったのが、この返歌により払拭されたのだった。ところでだ、言葉の統一は明治時代になってからだ。それも学校教育が徹底され、ラジオ放送が普及してやっとだ。現代においても、訛りが酷い場合、まったく理解できないのだが、不思議に手紙や…今であれば、メールで言葉を伝える事かができる。また訛りが酷い人間がカラオケで普及している歌を歌ったとして、そこには訛りは介在しない。つまり古代において和歌とは、そういうものではなかったのか?

今から100年以上前、会津と薩摩が同盟しようとしたが、言葉が通じない為に和歌を通して会話したという逸話がある。筆談でも出来たであろうが、確かに和歌の方が手っ取り早い。ただし、和歌の教養が無ければ出来ない事であった。

話しを貞任の時代に戻すが、何故に安倍貞任は和歌の教養があったのかという事だ。源義家は、日本の中央から…つまりある意味"都会"から来たという自負があり、その都会で受けた教養に、田舎者は答える事が出来ないだろうと思っていたに違いない。しかし、貞任は答えたのだが、それは何故か?

ここで少し前に書いた「大和国のアイヌ語」を思い出した。応神天皇の時代、吾君(アギ)という言葉がアイヌ語を通して、やっと理解できたと云う話だ。

この応神天皇であるが、気になる伝説がある。応神天皇は贈られた8頭の馬を主力とし、旧王朝を倒したという伝説だ。しかし、この8頭の馬が、どこから贈られてきたのかわからない。ここに騎馬王朝説が被るのであるが、それは無理と言う証明も成されている。ただ、可能性があるならば蝦夷の地から陸路で運ばれ贈られたという事になるだろう。

崇神天皇以来ずっと日高見国を攻めていた大和朝廷が、何故か応神天皇の時代になってから雄略天皇の即位するまでの250年間、一度も日高見国に軍を差し向けていないのは、和平協定があったのではないか?また雄略天皇を省けば、応神天皇の時代から約450年もの間、日高見国…蝦夷国を攻めていない理由が定かではない。ここで気になるのは、東北の神功皇后伝説だが、ここでは省こう。ただし、神功皇后時代から応神天皇の時代にかけて、日高見国であり蝦夷国との何かの密約があったのかもしれない。また蝦夷国といっても東北だけではなく、出雲夷もいた事から、蝦夷国は、もっと幅広く考えて良いだろう。

ところで話を戻そう。応神天皇時代の言葉…「日本書紀」に出て来るアイヌ語であろう吾君(アギ)という言葉が、何故に応神天皇時代以前に使われていないのか?それはつまり、神功皇后&応神天皇の時代から蝦夷国との繋がりを持ったからではなかろうか?となれば伝説の馬8頭は、応神天皇に対し蝦夷国が敬意を表する為に寄贈したものだと解釈すれば納得できる。

また文字であるが、渡来系の人種は、その習慣に則って文章を書き表す場合、漢文で表していた。ところが「万葉集」などでの「防人の歌」は漢文では無いのは何故か?例えば、聖武天皇の時代に蝦夷国で黄金が発見されたのだが、それに対する歌が詠まれた。

天皇の御代栄えん東なる 陸奥山に黄金(こがね)花咲く

実はここにダウトがある。黄金を「こがね」と読むのはアイヌ語であった。黄金(こがね)銀(しろがね)鉄(まがね)と読むのも全て蝦夷の使う言葉であった。聖武天皇時代以前に、日本で黄金は産出されていなかったのに、大量の黄金が陸奥から贈られた時に、その呼び名も伝わったものなのだろう。つまり「吾君」や「黄金」だけではなく、蝦夷の言葉の影響と融合は、応神天皇時代から、ふつふつと伝わっていたのだと感じる。

また和歌に関してだが調べると、どうも朝廷内では長い間「和歌は淫歌」であると軽蔑していたきらいがある。ところが宮中で公然と和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇時代からであるのは、やはり蝦夷の文化が入り込んだと考えて良いのかもしれない。何故なら考謙天皇は、蝦夷である安倍の血筋であるからだ。単純な話…例えば岩手県に何故、新幹線の駅が沢山あるか、それは当時の総理大臣が岩手県の人物であったからだ。時の権力者がトップに立てば、今まで避けて来た文化などを強権的に取り入れる事ができる。であるから宮中で和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇の力であったと考えて良いだろう。極端にいえば、和歌の文化的ルーツは考謙天皇にあったという事になる。

またこれは、あくまでも伝説ではあるが、和泉式部(岩手県)も、小野小町(秋田県)も陸の奥出身であるというのも本来、和歌というものは蝦夷国で栄えた文化では無かったのか?だからこそ、安倍貞任は源義家に対して、あっさりと歌を返した。遠野に伝わる清滝姫の和歌の伝説も、有り得ない伝説では無くなるのかもしれない。


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http://dostoev.exblog.jp/m2011-06-01/

アラハバキ神



遠野には、二つの貞任山があり「安倍文書」には「猿ヶ石と遠野郷の南北の霊山二ヵ処に荒覇吐神社を建立す。此の二山を貞任山と号す。」とある。荒覇吐とはアラハバキと読み、谷川健一「白鳥伝説」ではアラハバキ神の事を、元々土地の精霊であり地主神であったものが後来の神にその地位を奪われて客人扱いを受けたという。全国的にも、その地に祀られていた土着の神が後から祀られた神に主祭神の位置を奪われ、末社に追いやられている場合が多い。

ところで気になるのは、宮城県多賀城市にあるアラハバキ神社だ。「封内風土記」には「阿良波々岐明神社 何時勧請せるや不詳と云い伝う。一宮末社也。之を祈み報賽する者は脛巾を献ず。」とある。この文に登場する一宮とは塩竈神社の事である。つまり従来の理屈に当て嵌めてみれば、塩竈神社に祀られていた神とは本来、アラハバキ神であろうか?



アラハバキ神の正体には、様々な諸説がある。蛇神・塞の神・製鉄の神・などいろいろ言われているが、御神体として男根を模ったものを祀っているのを考え合わせても、全てに共通するものは山の神としてではなかろうか?

本来、山とは信仰の対象であり、遠くから仰ぎ見るものであった。修験が広がり、山伏たちが挙って山に登るようになり、明治時代の西洋のアルピニストの影響により、一般庶民までもが山々に上るようになった。しかし古代の日本では、山に登るという事は、殆ど行われていなかったようだ。

遠野の北に聳える早池峰山に関わる重要な人物として登場するのが始閣藤蔵である。菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」には藤蔵の子孫に伝わっている文書が紹介されている。「来内金山の守り神となって金鉱脈を発見させて下さったなら、お礼に早池峰山頂にお宮を建て、東岳三社権現として祀ると約束…。」とある。古来の山伏は鉱山師でもあったのだが、藤蔵の本来が山伏であったのかは定かではない。ただここで考えられるのは、藤蔵が初めて早池峰山に登ったのは、金脈を発見した後ではないかという事だ。

藤蔵が伊豆から来内の地に来たのは、金山開発が目的であったのだろう。しかし来内の地からは、早池峰はまず見えない。眼前に聳えて目立つ山は、六角牛山であるからだ。その六角牛山には、早池峰と同じ神が祀られている痕跡がある。藤蔵の子孫に伝わる文書には東岳三社権現とあるが、六角牛はその早池峰の分霊が祀られている山であった可能性は高い。おそらく藤蔵は、来内の地で人々から、この遠野の地で一番位の高い、北に聳える早池峰山の話を聞いたのだろう。その早池峰山こそが来内の地から眼前に聳える六角牛山に祀られる神の大元であったからではなかろうか?だからこそ藤蔵は、遠く北に聳える早池峰山の神に願をかけたのだと考える。それから金が発見されて初めて藤蔵は、感謝の意を込めて聖域である誰もが登らない早池峰山に登ったのだろう。







貞任山に連なる山々では現在、山躑躅が満開となっている。この山々では早池峰がどこからでも見る事ができる。早池峰を仰ぎ見る事ができる山…つまり早池峰山の遥拝所としての機能があったのだと感じる。だからこそ、早池峰を信仰したであろう安倍一族のアラハバキ神社も、この地に建立されたのであろう。

アラハバキ神で思い出すのが、東和町の丹内山神社だ。この丹内山神社の御神体はアラハバキの岩であり、また丹内山神社の神は、丹内神社の背後約4キロ先に建立されている滝ノ沢神社の敷地内にある滝に顕現したとある。その滝ノ沢神社に祀られている神は、早池峰の神と同一である。そしてまた、丹内神社に向かって滝ノ沢神社を線で結ぶと早池峰山に繋がるのは、もはや偶然ではないだろう。

アラハバキ神を山の神と捉えると、女神となる。何故なら、アラハバキ神社の御神体としてあるものの中に男根を模ったものがあるが、これは本来、女神であろう山の神に捧げる為に祀られたのであろう。となれば当然、遠野に伝わるコンセイサマという男根を模ったものはアラハバキ神に通じるものであろう。安倍一族の末裔建立した綾織の地の胡四王神社も後に、やはり安倍一族の息のかかった駒形神社に合祀されている。その駒形神社の御神体もまた男根を模ったものである事から、綾織の胡四王神社もまたアラハバキ神を祀っていたのではないか?そのアラハバキ神が女神であり、山の神であるならば、それは全て早池峰に通じる可能性は高い。となれば、安倍氏の息のかかっていた宮城県の一宮である塩竈神社に祀られていた神もアラハバキ神であるならば、本来は早池峰の神と同じであった可能性があるだろう…。

谷川健一

谷川健一

常世論

http://1000ya.isis.ne.jp/1322.html

魔の系譜。無告の民。
出雲の神々。流浪の皇子たち。埋もれた日本地図。
民俗の神。柳田学と折口学。山人と平地人。
祭場と葬所。豊玉姫考。神・人間・動物。
日本神話の風土性。地名と風土。海山のあいだ。海の群星。
琉球孤の世界。火の国の譜。北国の旅人。女の風土記。
青銅の神の足跡。鍛冶屋の母。
そして、常世論。日本人の宇宙観。

日本人が古くから抱いてきた「常世」(とこよ)はクニの観念である。原観念のようなものだ。厳密にいえば、常世は「祖霊が住む場所」のことで、しばしば「妣(はは)の国」とも「根の国」ともいわれた。日本人の根底にあるカントリーがあるとすれば、まさに常世こそがマザーカントリーだった。
日本の政治家たちがいま想定している常世とは何なのかと、ふと思う。かれらのマザーカントリーとは何なのかと思う。「母国」や「祖国」のイメージとはどういうものなのか。たとえば憲法9条をどのようにするかで、そのマザーカントリーの資質が異なってくるというなら、そこを徹頭徹尾するべきである。また格差社会をなくして官僚政治を脱したいというのなら、その変奏ぐあいを徹頭し、徹尾するべきだろう。徹頭徹尾とは、頭と尾とを終始一貫させることをいう。
しかし、そういうものだけで日本人の常世にあたるマザーカントリーのヴィジョンが確立するものなのか、見えてくるのかというと、それだけでは掴めないものがいろいろある。
日本はいつしか「無宗教の国」と言われるようになった。阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』は、そのへんを巧みに炙り出している。山折哲雄(1271夜)の『さまよえる日本宗教』も同断だ。日本人はいつしか「浄土」や「弥勒の世」に対する憧憬をもたなくなった。まことに惜しい。
けれども他方、日本人で縄文土器に日本の原エネルギーのようなものを感じない者はほとんどいない。お米が日本に不要だとか、和風旅館がいらないとかと思う者もほとんどいない。各地の祭りには心が弾み、神社には手を合わせ、寂びた仏像には何かの心情を託したくもなる。
それはそうでもあろうが、そうなると今度は、日本にいまなお続くそういう習慣にすがってマザーカントリーを議論したくなるだろうけれど、これもどうか。さらにまた、こういうことを日本のアニミズムやシャーマニズムの伝統が今日に生きているからだというのは、あまりに虫がいい。それでは性急なのである。そんなふうな繋ぎとめ方では、あまりにも説得力がない。
それにそんな程度では常世はわれわれを相手にしてくれない。では、たとえば、どんなふうに見ていけばいいのか。

かつて日本のシンボルとして折口信夫(143夜)がタブを持ち出したのに対して、柳田国男(1144夜)がクロモジを持ち出したことがあった。タブもクロモジもクスノキ科の木のことだから、そんなに変わりはないのだが、二人は論争こそしなかったものの、タブとクロモジをそれぞれの原郷イメージの代替根拠にしようとした。
折口は『古代研究』の冒頭の口絵にタブの写真を掲げ、これが常世神(とこよがみ)の漂着地である目印なのだと主張した。常世神というのは海流を渡って原日本にやってきた祖先たちのことをいう。その到着点を示すのに依代(よりしろ)としてタブが選ばれた。そしてそのタブがやがて結界を示すサカキ(境木=榊)になったのだろうと推理した。
柳田のほうは晩年の70歳近くになって、クロモジに注目した。依代ではないが、日本人が楊枝(ようじ)にクロモジを選んだのは、そこに永遠の香りがひそんでいるためで、原日本の大過去に去来する記憶を思い出すためではなかったかと『神樹論』に書いた。


漂著神(よりがみ)を祀った杜
折口信夫『古代研究』 口絵より


岬のたぶ
折口信夫『古代研究』 口絵より

折口のタブも柳田のクロモジも、クスノキの常緑性と香りを祖先に結びつけている。なぜ二人の民俗学の巨人がクスノキにこだわったかといえば、そこに日本人の原観念の萌芽の「しるし」があると感じたからだった。二人だけではなく巨魁・南方熊楠も、南の海からやってきた日本人の源流たちは、みんな楠神(くすしん)を崇めたはずだと想像した。
スサノオが自分の国を治めるために最初にしたことは、浮宝(うきたから)をつくること、つまり船を建造することだったと『日本書紀』神代紀には書いてある。スサノオはこれをスギやクスノキでつくろうとした。天岩楠船(あめのいわくすぶね)とよばれる。スサノオは常世を知っていたのだ。いや、スサノオがいたところ、そこが「根の国」とよばれていて、そこがきっと常世であろうと、のちの日本人が憧れたのである。その憧れが代々わたって伝承されたのだ。
では、古代日本人がクスノキを通して常世を伝承したそのことを、スサノオが「根の国」をつくったというその常世を、現在のわれわれはどのように感じたり、考えていったりすればいいのか。沖縄のウタキ(御嶽)にまで行くべきか。近くの鎮守の杜(もり)に佇むべきか。そういう疑問に応えようとして立ち上がったのが谷川健一だった。


タブノキ


クロモジ

谷川健一は常世を日本人の深層意識の原点であるととらえた。浦島太郎が行こうとしたらしい竜宮とは常世なのである。雛流しがどこへ行くかといえば、そこが常世なのである。雛は川に流され海に出て、そしていつしか海辺に戻ってくるものだ。ということは、波打ち際には常世からの寄せる波がとどいているということだ。古代人はそういうふうに夢想した。
そういう波打ち際から、中世の日本人は熊野をあとに補陀落(ほだらく)渡海に船出した。死出の旅路ではあるけれど、行く先の「むこう」に常世があって、それはいつしか生まれ育った「ここ」につながってくると信じていたからだ。近世、そうした感覚は浄瑠璃や歌舞伎の「道行」(みちゆき)につながっていく。
明治になって神風連をおこした林櫻園に、「常世べにかよふと見しは立花のかをる枕の夢にぞありける」という歌がある。常世に行ったと思ったのは枕元に橘が香ったせいで見た夢だったという意味だ。無念におわった桜園のヴィジョンが行きたかったところ、それもまた橘香る常世だったのである。
このようなことを行きつ戻りつしながら、谷川は常世を考えるようになったという。常世を実感するようになったという。本書はその航跡を辿った。辿ったものではあるが、その“民俗語り”はけっして堅くない。学者の立場にこだわらず、仮説力と実証力が綯い交ぜになっていて興味尽きないものがある。
70年代前半に「流動」という雑誌があって(当時は「現代の眼」に対抗していただろうか)、そこに「海彼の原郷」「若狭の産屋」「ニライカナイと青の島」「美濃の青墓」などが連載されていた。いずれも常世をめぐっていたが、いつも興奮させられたし、気がかりだった。その「若狭の産屋」(本書所収)には、こんなことが書いてある

谷川はあるとき、敦賀湾に面した常宮(じょうぐう)という海村で、ある老人から自分の子供3人を集落の産屋(うぶや)で生ませたという話を聞いた。
産屋は屋敷の片隅にあって、隣りには煮炊き用の竈(かまど)がしつらえてある。産気づいた妊婦がそこに入ってから出産まですることはよくある光景なのだが、この地の習慣では母子は赤児が生まれてからも、その部屋を出ない。それが1カ月も続く。そこまで母子が時をすごす産屋はどんな部屋なのかと聞いてみると、その産屋には畳がなく、海から採ってきた砂を敷いてあるという。その上に藁を敷きつめ、筵(むしろ)を重ね、いちばん上に茣蓙(ござ)を置く。しかし妊婦が代わるたびに、砂はすっかり取り替えるらしい。そこで谷川が、「砂まで変えるんですか」と尋ねると、「ウブスナだからね」と言ったというのだ。
えっ、それをウブスナと言うのか。谷川は、そうか、それをこそ産土(うぶすな)と言うのだと粛然としたという。腑にも落ちた。
そこから谷川の推理がいろいろ飛んでいったのである。芭蕉(991夜)が『おくのほそ道』で気比神宮に参拝したときの「遊行の砂持」とは産土であろうと思えたのは、まだしもたやすい推理のほうだ。斎部広成の『古語拾遺』(571夜)にあった次の話の謎の解き方は、かなり谷川らしい飛びである。それを紹介しよう。

ヒコホホデミが海神の娘のトヨタマヒメを娶ってヒコナギサを生んだとき、海浜に室をつくって、「掃守」(かにもり)の遠祖といわれるアメノオシヒト(天忍人命)がそこに仕えた。そのとき掃守が箒(ほうき)をとって蟹を払ったという奇妙な故事が伝わっていて、その故事ゆえに舗設(しきもの)を司っている職掌を「蟹守」(かにもり)と名付けるようになった。
これが、『古語拾遺』のくだんの記述のあらましだ。が、谷川はかつてはその意味がわからなかった。そのころ流布していた神話学や民俗学の一般的な解釈では、蟹は脱皮して成長するので、それに肖(あやか)って新生児の誕生に立ち会う者が蟹守とよばれ、それが音韻転化して箒守になったというのだが、これではどうも説得力がない。なぜ蟹が箒になったのか。
そこで谷川は、産土には海浜の砂にまじって蟹も動いていて、産屋に砂を入れるにあたってはそこに交じっていた蟹を実際に箒で払い出したのではないか、と推理した。さらには、そもそも産屋での出産に海浜の砂が敷かれるのは、日本人の古い出産の観念のどこかに海亀や蟹と同様の海の動物たちの砂浜での出卵に何かを託したようなものがあったのではないか。それは結局は海に去来する常世の観念を抱くことではなかったか。そういう海民たちの観念がさまざまに姿を変えて今日にとどいているのではないかと、そんなふうに推理していった。
ぼくは、こういう谷川的推理が大好きなのである。当たっているか当たっていないかはべつとして、そんなことは後の世が決めればいいことで(柳田も折口もそうだったわけで)、それより言説や現象や習慣や地名の断片を、いまそこでどのように組み合わせていけるかが、谷川の真骨頂だったのだと思われる。

 ヒコホホデミが海神の娘のトヨタマヒメを娶ってヒコナギサを生んだとき、海浜に室をつくって、「掃守」(かにもり)の遠祖といわれるアメノオシヒト(天忍人命)がそこに仕えた。そのとき掃守が箒(ほうき)をとって蟹を払ったという奇妙な故事が伝わっていて、その故事ゆえに舗設(しきもの)を司っている職掌を「蟹守」(かにもり)と名付けるようになった。
これが、『古語拾遺』のくだんの記述のあらましだ。が、谷川はかつてはその意味がわからなかった。そのころ流布していた神話学や民俗学の一般的な解釈では、蟹は脱皮して成長するので、それに肖(あやか)って新生児の誕生に立ち会う者が蟹守とよばれ、それが音韻転化して箒守になったというのだが、これではどうも説得力がない。なぜ蟹が箒になったのか。
そこで谷川は、産土には海浜の砂にまじって蟹も動いていて、産屋に砂を入れるにあたってはそこに交じっていた蟹を実際に箒で払い出したのではないか、と推理した。さらには、そもそも産屋での出産に海浜の砂が敷かれるのは、日本人の古い出産の観念のどこかに海亀や蟹と同様の海の動物たちの砂浜での出卵に何かを託したようなものがあったのではないか。それは結局は海に去来する常世の観念を抱くことではなかったか。そういう海民たちの観念がさまざまに姿を変えて今日にとどいているのではないかと、そんなふうに推理していった。
ぼくは、こういう谷川的推理が大好きなのである。当たっているか当たっていないかはべつとして、そんなことは後の世が決めればいいことで(柳田も折口もそうだったわけで)、それより言説や現象や習慣や地名の断片を、いまそこでどのように組み合わせていけるかが、谷川の真骨頂だったのだと思われる。

あの本は銅鐸の謎を追い、その背景にひそむ青銅の神々の消息と、鉄の一族にかかわる鍛冶神の消息を解明しようとしたものだった。そこには本来は青銅と鉄の記憶にもとづいていたはずの観念が、いつしか記紀神話のなかで稲魂(いなだま)の成長の精神史におきかえられていった秘密も暴かれていた。
そのようなおきかえに積極的だったのが柳田国男だったので、谷川はこのときいきおい柳田批判にまで言葉をすすめたものだった。
しかし、あの本はぼくを変えたのである。のちに『フラジャイル』で議論することになるぼくの「欠けた王」の仮説のルーツは、さかのぼればこの『青銅の神の足跡』と、同じ年に出版された『鍛冶屋の母』(思索社1979)とに発していた。あのころぼくは、天目一箇神をルーツとする「片目の王」の伝説や、ヤマダノソホドなどをルーツとする「足が萎える王」の伝説に夢中になっていた。そのため福士孝次郎の『原日本考』にまで手を出していて、そこにいつも鉄神や青銅神がちらちらするのが気になっていたのだが、そのうずうずとした靄々を快刀乱麻のごとく切り刻んでくれたのが谷川健一だったのだ。
この人は「推理の歩行者の目」をもった民俗学者なのである。歩く学者はいくらもいるし、宮本常一(239夜)のように歩いてはとどまり、そこにわれわれが忘れきった日本人を蘇らせる民俗学者もいるが、谷川は歩きながら推理して、推理の中でまた歩く。そのたびに厖大な読書遍歴が加わって、また歩く。そんなふうに読んだり、歩いていくうちに、ふいに飛んでみせるのだ。そうなると、そこには、谷川的想像力による日本観念の王国があらかたできあがっていて、いったんその王国観念の飛沫に感染したら、そのウィルスはわれわれの観念をここを先途と駆けめぐるという結構なのである。
谷川的想像力にウィルスがまじっているかのような言いっぷりをしてしまったが、いやいや、その感染こそ日本的免疫力の発端である。谷川ワクチンの創製だ。だったら、そういう観念ウィルスに出会わないままにいて、何が日本がわかるものか。何がマザーカントリーであるものか。ぼくは早くに谷川の観念ウィルスに感染したことを、おおいに誇りとしていたい。

話をまた常世に戻すことにするが、常世がクスノキやタチバナなどの常緑樹に関係するのだろうことはさっきも述べたけれど、それが転じるといろいろなものになるという話をしておきたい。そのひとつに、常世神というのは実は「常世の虫」だったという話がある。
この話は『日本書紀』の皇極紀に記載されている。富士川のほとりに住んでいた大生部(おうべ)の多(おう)が、村人に虫を祀ることをすすめた。多はこの虫は「常世の神」なのだから、これを祀れば金持ちになり、長生きもできると説き、これに同調する者たちがふえていった。効果はてきめん、やがて各地で常世神を橘や山椒の枝に祀って騒ぐようになるのだが、なぜかこれを都の秦河勝が知って怒り、大生部の多を懲らしめた。
そういう話なのだが、ここには常世の虫が橘に寄生して、山椒の木についているという現象が語られているように見える。そうだとすればこの虫は蝶々や蛾の幼虫であろうけれど、それを秦河勝が懲らしめたというのが、わからない。そこで、秦氏は生糸の管轄者だったから、この「常世の虫」というのは蔑称で、実は秦氏の系譜のカイコではない別のカイコによる養蚕が大井川あたりに始まったことに対する、秦氏の鉄槌だったのではないかというふうに解釈されるようになった。
ぼくもこの説でいっとき満足していたことがあった。けれども谷川はここからもっと別な推理の羽をのばして、またしても飛んだのである。その飛んだ先は常陸の鹿島だった。この話、ぼくの身近な者の出自ともちょっと関係がありそうなので、『常世論』のなかの「東方の聖地――常陸」にしたがって、以下、少々の順を追っておく。

城県大洗には、こんな伝承がある。
斎衡3年(856)の12月の朝廷に、鹿島郡の大洗磯前に神が新たに降りたという知らせが届いた。国使の報告では、塩炊きの男が夜半に沖を望んでいると、光り輝くものがあり、その翌日には高さ一尺ばかりの二つの石が波打ち際に立っていた。その翌日、今度はさらに二十あまりの石が、その二つの石の左右にちょんちょんと並んでいた。まるでお供の格好のようだったという。
そのうち村のある者が、この石神めいたものが「自分はオオモチスクナヒコナである。昔、この国を作り終えて東海に去ったが、いままた民を救うためにやってきた」と託宣していたと言ってきた。
スクナヒコナといえば、『古事記』では海の彼方からガガイモの舟に乗ってやってきた神で、誰もその正体がわからなかったのだが、カミムスビの母神がこれは自分の子だと言い、私の手の指から生まれたのだと言ったというふうになっている。『日本書紀』一書では、出雲の相見郡にあるらしい淡島(粟島)から粟茎(あわがら)にのぼってはじかれ、そのまま常世に渡っていったとされている。
いずれにしても、それほどの「ちいさこべ」であったわけで、それゆえこの記述ではスクナヒコナは芋や粟に関係する神になっている。この伝承はその後は、海民たちが芋の酒や粟の酒をスクナヒコナに奉じて祀り、それにスクナヒコナが海辺の立石として応えたという呼応の物語になった。そう、跡付けたくもなる。
そういうことからすると、大洗に立ったスクナヒコナもこの手のプロットがたんに変形したのだろうとも思われてくる。ところが、ここにはもうちょっとおもしろい推理が成り立ちうるということを、谷川ワクチンが放ったのである。

大洗は鹿島台地に続いている。ここには古墳群があって、そのひとつ、直径100メートル近い車塚は仲国造(なかのくにづくり)の墳墓だとされている。仲国造は那賀国造でもあって、その名はタケカシマノミコト(建借間命)であると『常陸国風土記』は書いている。
タケカシマは崇神天皇の時代に、東の一族を平定するために東方に遣わされた族長だった。反逆する者を追って潮来(いたこ)の近くにまで来たとき、賊たちが土窟に逃げこんだので、一計を案じて海に舟を浮かべ、音楽を奏して誘惑し、首尾よくこれを平定した。
このタケカシマからカムヤイミミ(神八井耳)の一族が出た。そのカムヤイミミには19の子孫の系譜が連なった。その筆頭に立っているのは、実は多氏であった。系族にはそのほか、常道(ひたち)氏、石城(いわき)氏などがいる。
一方、鹿島信仰で最も有名なのは、なんといってもミロク踊りである。なぜ鹿島に弥勒が踊るのか。そこにはおそらくちょっとした変遷がある。
柳田国男は『海上の道』に、弥勒の出現を海から迎えるという信仰が八重山群島に見られるとして、それは琉球一帯のニライカナイ信仰のヴァージョンであって、つまりは常世信仰のひとつであると考えた。そこまでは、いい。ただし、谷川はそのようなニライカナイを弥勒浄土とみなす信仰をもった一群が、その後は分派して琉球から本土の方へ向かったにちがいないと考えた。そしてこのことが、海人たちの東上につれて紀伊半島、渥美半島、房総半島をへて常陸にとどき、そして鹿島で弥勒下生のミロク踊りになったのだろう。そう、推測した。
ようするに、常世の信仰はときにスクナヒコナの、ときに弥勒下生(1313夜)の姿をとりながら、海流とともに西から東へ運ばれてきたのである。そして、いくつかの地で、その根をはやしたのだ。鍵が海流に乗って動いてきて、どこかで鍵穴にはまったのだ。西から東に鍵が動けば、これを待ち構える鍵穴もなければならない。それが、大洗や鹿島や潮来あたりだとしたら、そこに待っていた鍵穴とは、では何なのか。谷川は大場磐雄の仮説をもとにしながら、さらに羽を広げていった。
タケカシマの根拠地と推定される潮来に、大生原(おうはら)というところがある。その中心は旧大原村の大生(おう)である。
『常陸国風土記』には、ヤマトタケルが食事を煮炊きする小屋を海辺にかまえて、そこから行宮(あんぐう)に通ったとある。そこで大炊(おおい)の意味をとって、大生の村と名付けたと書いている。いまも大生神社がのこっていて、タケカシマとカムヤイミミが祀られている。






潮来市の大生地区にひっそりとたたずむ大生神社。
いまの神域は広くはないが、社叢は県天然記念物の指定を受けている。
付近には大小の古墳が多い。
写真提供:太田保春氏

当時は海民がこのへんを頻繁に往来した。鹿島の国に入るには、ほとんどが海路で行方台地の岬を通って大生から舟で入っていった。それならどうやら、ここらあたりに鍵穴があったはずである。そうだとすると、大生神社から鹿島神宮へのコースにも、何かがひそんでいなければならない。
おそらくこの地方に来た先駆者たちは、大生から入海を下っていったん大海(太平洋)に出て、常陸の明石の浜に上陸し、沼尾をめざして鹿島に入っていったのであろう。ということは、沼尾がもうひとつの鍵穴だ。ここには沼尾神社があって、天の大神(おおかみ)の社、坂戸の社、沼尾の社の三処が合わされている。調べてみると、トップの天の大神とは、天(あま)のオホの神、あるいは海(あま)のオホの神のこと、すなわち多氏の一族の氏神なのである。
これでだいたいの推理が組み立ってくる。多氏こそが、きっとスクナヒコナの伝承を語ったか、語り伝えた一族だったにちがいない。鍵穴は多氏が持っていた。ところが、大和朝廷が強大になってくると、多氏の一族にはなんらかのしわ寄せがきたのであろう。
そこで一族の跳ねっ返りが、今度は東から西に向かい、大井川あたりにさしかかったのだろう。大井は大炊でもあった。大生部(おうべ)の多(おう)とはそのことだ。けれども、ここで都からの秦氏の制止を食らった。そこで「常世の神」の伝承が「常世の虫」の伝承に切り替えられたにちがいない。ざっとはそういうことではなかったか。
谷川はそんなふうに鍵と鍵穴の話を結んでいる。急いで合い鍵をつくった一派の話をたくみに組み込んで‥‥。

こんな話をやや詳しく紹介したのは、さきほどもちょっと書いたように、この昔語りの経緯には、ぼくが多少の因縁を感じるからだ。
実はいま、ぼくの最も近いところで活動してくれている太田香保と太田剛は姉と弟なのだが、その名のオオタはなんともオホ氏めいている。そればかりでなく、いまはその実家は潮来(!)になっている。これは谷川ワクチンを借りてでも、この因縁を常世に結びつけたくなるわけだった。
いやいや、谷川健一のすぐれた研究をこんな身近な因縁話でおわらせるのは申し訳ないかもしれないが、けれども、ときにはこういう本の読み方もあってもいいはずで、何も古代中世の一族を訪ねるだけが歴史語りとはいえないはずなのだ。今夜はそんな気分であったので、あえて「多氏」と常世と来訪神を結びつけた話の紹介に徹してみたわけだ。
とはいえやっぱり、谷川健一の壮大な業績も紹介しておきたい。せめて冒頭のイントロ・フレーズだけでも見ていただきたい。これは三一書房の『谷川健一著作集』全10巻のメインタイトルからの抜粋である。「魔の系譜」「無告の民」「流浪の皇子たち」‥‥。「祭場と葬所」「海の群星」「火の国の譜」‥‥。いずれも気になるものばかり。ともかくもこれだけのサブジェクトを書き続けた人だったのだ。ほんとうはこれらのいちいちを少しずつでも紹介したいのだが、今夜はそれは控えたい。
そのかわり第8巻『常世論・日本人の宇宙観』の、その「日本人の宇宙観」のサワリだけをちらつかせておくことにする。こんなふうなのである。谷川さんの声を想像して、耳で読まれたい。






沖縄本島玉城村 海神に祈る
第3巻 民俗学篇3 口絵

伊雑宮の御田植祭
第4巻 古代学篇1 口絵





神倉山のゴトビキ岩
第5巻 古代学篇3 口絵

 宮古島狩俣の祖神祭
第6巻 沖縄学篇口絵

あのね、日本に世界と共通の神話や伝説があったかどうか、そんなことを考えるのは愚の骨頂なんですよ。日本には日本勝手な世界山があり、日本勝手な洪水伝説があったというふうに見たほうがいい。
たとえば天香具山はね、天山(あめやま)が二つに分かれて降ったのですよ。記紀の冒頭の神世七代に、宇比地邇(ウヒジニ)神、妹須比智邇(イモスヒジニ)神のあと、角杙(ツノクヒ)神、妹活杙(イモイクグヒ)神が出てくるでしょう。あれは洪水のあとにその地を治水した王が杙(杭)を打ったからなんですよ。
これじゃ、まだ不満? ムリにでもユダヤ・キリスト教に比較したいというなら、それなら楽園喪失の観念の違いを強調しておくとね、日本の神話では、楽園喪失や楽園追放は洪水以前の社会にあるのではなくて、スサノオが追放された「根の国」のほうにあるんです。しかもそこをこそ「妣の国」としたところに特色があるんだな。われわれのマザーカントリーは、墜落したり、喪失したりした者が高所をふりあおぐものとして位置づけられたのではなかったんですよ。
だからね、人間がどこから生まれたのかという説明がないじゃないかなどと思ってもらっても困るんだ。東アジアや東南アジアには瓢箪からも卵からも人類創世がおこっているけれど、なるほど日本には卵生神話は宮古島くらいにしかないけれど、それって、何も見てないんですよ。実は各地に無数にのこる「むろ」や「うつほ」の伝承こそ、日本的世界卵の母型たりうるものであるはずなんだねえ。
かくして日本の常世を思うにあたって重要なのは、つまりはタマとカミなんですよ。その姿や形ではなくて、そのプロフィールやフィギュアが観念そのものなんだ。観念がプロフィールであり、観念の動向がフィギュアなんだ。しかも、そこにはね、「ある」がなくて、「ある」はたちまち「なる」に移っていくものなんですよ。

サワリにしては、あまりにサワリにすぎなかったろうが、それにあまりにぼくが我田引水しすぎたかもしれないが、あとは『谷川健一著作集』に自身で遊ばれたい。たとえば、トヨタマヒメ伝説ひとつでも、じっくり渉猟をすることだ。ご本人は、第8巻のあとがきで、こう書いていた。

 「日本人とは何かという問いは、具体的には日本人の意識や行動の根底によこたわっている世界観や宇宙観を問うことにほかにならない。もとより、その世界観や宇宙観の素材は日本だけにあるのではなく、他の民族とも共有している。しかし日本人はその素材の組み立て方、また組み立てた観念の構築物を、長い時間をかけて成熟させ、細部を洗練させていくやり方について、やはり独自のすぐれたものをもっていたと考えざるをえない。その証拠としてトヨタマヒメの神話をあげるだけでも充分であろう」。



谷川健一

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%81%A5%E4%B8%80

谷川 健一(たにがわ けんいち、1921年7月28日 - 2013年8月24日[1])は、民俗学者、地名学者、作家歌人
在野の学者として日本文学や民俗学の研究をおこない多くの研究書を著した。日本文学の源流を沖縄・鹿児島などの謡にもとめた「南島文学発生論」などの業績をあげ、文化功労者に選出されるなど高く評価された。

熊本県水俣生まれ。熊本中学浪速高等学校 (旧制)東京帝国大学文学部卒業(専攻フランス文学)。平凡社の編集者として、『風土記日本』(1957 - 60年)、『日本残酷物語』(1959 - 61年)などを企画編集し、1963年創刊の『太陽』初代編集長を務めた。
その後は執筆活動に重点を置き、1966年、『最後の攘夷党』で第55回直木賞候補になる。1970年代には『青銅の神の足跡』や『鍛冶屋の母』などを発表し、民俗事象と文献資料に独自の分析を加え、柳田國男折口信夫らの学問を批判的に展開した。柳田が提唱した「日本民俗学」がのち組織化が進み善かれ悪しかれ学術化、専門科学化していったのに対し、谷川は、その職業的な背景もあり、在野精神を貫き学会と距離をとった独自の執筆活動を進めた[2]。折口を彷彿とさせる小説家的想像力と、柳田の影響を受けた民俗資料の編纂とがない交ぜになっており、その業績は各界から注目された。従来にない新たな日本像を加えるべく『海と列島文化』(全10巻別巻、小学館、1990-93年)を、日本史の網野善彦文化人類学大林太良、民俗学の宮田登考古学森浩一と共同編集[3]している。
1973年、共編『日本庶民生活史料集成 全20巻』で毎日出版文化賞を受賞。1981年神奈川県川崎市に<日本地名研究所>を設立、所長に就任[1]し、町村合併などに伴う安易な地名変更に警鐘を鳴らすなどした。1986年、共編『日本民俗文化大系 全14巻』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。1987年から1996年まで、近畿大学教授・同大学民俗学研究所長を務める。1991年、『南島文学発生論』で芸術選奨文部大臣賞受賞、1992年、南方熊楠賞受賞、2001年、『海霊・水の女』で短歌研究賞受賞。
2007年秋に文化功労者。2008年、日本地名研究所は神奈川文化賞を受賞。2009年歌会始召人として臨み、『陽に染まる飛魚の羽きらきらし海中(わたなか)に春の潮(うしほ)生れて』が朗詠された。
『日本の地名』(正続)、『常世論』、『青銅の神の足跡』、『魔の系譜』、『神・人間・動物』などのほか、『最後の攘夷党』、『海の群星』等の小説作品も執筆した。『海の群星』は1988年に、NHK緒形拳石田ゆり子織本順吉など出演でドラマ化された。
三一書房で『著作集』全10巻が、2007年より2013年には冨山房インターナショナルで『全集』全24巻が刊行された。また作家論が、前者で『「青」の民俗学 谷川健一の世界』(岡谷公二・山下欣一編、1997年)、後者で『魂の民俗学 谷川健一の思想』(大江修編、2006年)が出版されている。

著書
最後の攘夷党 三一新書, 1966
沖縄 辺境の時間と空間 三一書房, 1970
魔の系譜 紀伊国屋書店, 1971、講談社学術文庫 1984
常民への照射 冬樹社, 1971
孤島文化論 潮出版社, 1972
埋もれた日本地図 筑摩書房, 1972
原風土の相貌 大和書房, 1974
民俗の神 淡交社, 1975
古代史ノオト 大和書房, 1975
神・人間・動物 伝承を生きる世界 平凡社, 1975、講談社学術文庫 1986
私説神風連 新人物往来社, 1975
女の風土記 読売新聞社, 1975、講談社学術文庫 1985
黒潮の民俗学 神々のいる風景 筑摩書房, 1976
出雲の神々 平凡社カラー新書, 1978
青と白の幻想 三一書房, 1979
青銅の神の足跡 集英社, 1979、集英社文庫、1989、小学館ライブラリー 1995
鍛冶屋の母 思索社, 1979、講談社学術文庫 1985
北国からの旅人 沖縄との出会い 筑摩書房, 1980
神は細部に宿り給う 地名と民俗学 人文書院, 1980
海の群星 集英社, 1981、集英社文庫 1987
わたしの「天地始之事」 筑摩書房, 1982
常世論 日本人の魂のゆくえ 平凡社選書, 1983、講談社学術文庫, 1989
失われた日本を求めて 青土社, 1983
白鳥伝説 上・下 集英社, 1986、集英社文庫, 1988、小学館ライブラリー, 1997
南島論序説 講談社学術文庫,1987
私の民俗学 東海大学出版会, 1987
民俗・地名そして日本 同成社, 1989
海の夫人 河出書房新社, 1989
大嘗祭の成立 民俗文化論からの展開 小学館 1990
南島文学発生論 思潮社, 1991
民俗の宇宙 1、2 三一書房, 1993
青水沫 谷川健一歌集 三一書房 1994
海神の贈物 民俗の思想 小学館 1994
民俗の思想 常民の世界観と死生観 岩波同時代ライブラリー 1996
古代海人の世界 小学館, 1995
独学のすすめ 時代を超えた巨人たち 晶文社 1996
沖縄 その危機と神々 講談社学術文庫 1996(再編本)
日本の地名 岩波新書, 1997
海境 谷川健一歌集 ながらみ書房 1998
日本の地名 続 岩波新書, 1998
日本の神々 岩波新書, 1999
うたと日本人 講談社現代新書, 2000
神に追われて 新潮社, 2000
柳田国男の民俗学 岩波新書, 2001
古代人のコスモロジー 作品社, 2003(史話日本の古代 別巻)
心にひびく小さき民のことば 岩波書店, 2004
渚の思想 晶文社, 2004
四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って 河出書房新社, 2006
水俣再生への道  熊本日日新聞社, 2006
甦る海上の道・日本と琉球 文春新書, 2007
谷川健一全歌集 春風社, 2007
明治三文オペラ 巫娼から遊女へ 現代書館, 2007
隠された物部王国「日本(ヒノモト)」 情報センター出版局, 2008
妣(はは)の国への旅 私の履歴書 日本経済新聞出版社, 2009
賎民の異神と芸能 山人・浮浪人・非人 河出書房新社, 2009
古代学への招待 日経ビジネス人文庫, 2010
列島縦断地名逍遥 冨山房インターナショナル, 2010
蛇 不死と再生の民俗 冨山房インターナショナル, 2012
日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の死生観 冨山房インターナショナル, 2012
魂の還る処 常世考 やまかわうみ別冊, 2013
露草の青 歌の小径 冨山房インターナショナル, 2013

最終更新 2013年11月5日