細川 「存亡をかけた戦い」小泉「政治が決断すればできる」原発ゼロ
公開日: 2014/01/23
東京都知事選挙2014告示~細川もりひろ候補演説 渋谷ハチ公前
公開日: 2014/01/23
東京都知事選挙2014告示~細川もりひろ候補演説 渋谷ハチ公前
細川護煕元首相・小泉純一郎元首相 街頭演説第二声 渋谷ハチ公前 2014年01月23日
http://okos.biz/politics/hosokawamorihiro20140123/
細川護煕元首相
みなさんこんにちは、どうもたくさんの方々に耳を傾けていただきましてありがとうございます。私は15年ほど前に政治の世界から身を引きまして、田舎に引っ込んで本を読んだり、庭いじりをしたり、あるいはろくろを回したり、絵を描いたり。のんびりと過ごしてまいりました。もう政治の世界には二度と立ち戻るまい。そう思っていたんですが、どうも最近の世の中の傾向を見ているといろいろと気になることがありすぎる。
西郷さんは、西郷隆盛さんは「政府に尋問の筋これあり」と言って城山に帰りました。私もある意味でそういう、同じ気持ちを持って今回決意を固めた次第です。いろいろ幅広い問題について尋問しなければならないことがある。例えば経済の枠組みについても、枠組みというか経済社会のあり方についても。
私は、日本はずっとこのところ経済成長至上主義、大量生産、大量消費という流れの中でやってきました。しかしこれから、50年先になると、日本の人口は、今の1億3000万人が9000万人になる。それからまた50年経った100年後には日本の人口はなんと4000万人、4000万人というのは江戸の人口よりちょっと多いぐらいですが、そういう状況になってしまう。
そういう状況の中で、経済成長至上主義というもので、他の国に原発を売りつけたりなんかするような、一生懸命、欲張りな資本主義というか経済の発展を強引に進んでいく路線の中で、果たしていいんだろうかと。もっと心豊かなそういう経済の枠組みというものを考えていかなければ間違うんじゃないかということを考えるようになりました。それは、経済社会のあり方というか、1つの価値観の問題と申し上げていいかと思います。それが1つの大きな問題。
もう1つは平和ということです。平和な社会、平和な暮らし、大きく言えばそういうくくりの中に入ることだと思いますが、東京もいつ直下型地震に襲われるか分からない。ですからこういう駅の建物にしても、あるいは帰宅者の対策にしても。地震が起きた時の帰宅者の避難対策にしても、あるいは幼児たちの、乳幼児たちの待機児童問題とかいろいろありますが、そういう問題にしても、私は今度の政策提言の中でも4年間で待機児童をゼロにするということを公約として申し上げておりますが、そういうことも積極的に進めていきたいと思っております。
あるいは、特に問題になっている高齢者の方々への対策。高齢者の方々が1人住まいで困らないように、地域でサポートをするシステムを充実をしていかなきゃなりません。あるいは1人住まいのアパートを、もっと増やしていかなければなりませんが、そのためのいろいろな規制の緩和とか、支援策とか、そういうことにも積極的に取り組んでいきたいと思っています。
もう1つ、平和なオリンピック、平和の祭典としてのオリンピックをどうするかという問題がありますが、私はこの震災がありました後、オリンピックの東京での開催が、オリンピック・パラリンピックの開催が決まるまで、私はこれだけ多くの方々が、30万人を超える方々が今東北から、東北で今避難をしておられる。小さな狭い家に避難をしておられる。仮設住宅ですね。
そういう方々がおられる中で、また福島からも5万人ぐらいの方々が県外に避難しておられるわけですが、それだけの方々が苦しんでおられる中で、もろ手を挙げてオリンピック・パラリンピックの誘致に賛成をするということは、ちょっとこれは私としてはたいへん気の重いことでありました。しかし、オリンピックの東京開催が決定しましてからは、私は考え方を改めて、むしろ7年後のオリンピックというものを、東京を、1つの、新しく発展していくための、これを契機として、目標の年として捉えたらどうかということで、考え方を改めたところです。
東京を自然エネルギー、再生エネルギーの、あるいは分散型システムの、新しいモデルの都市として、それを新潟とか、あるいは福島とか、東北の方にも広げていく。そういう1つの牽引的な自然エネルギーのモデル都市東京、世界の最先端を行くモデル都市としての東京というものを、それを目指して作っていくということにも、1つ大きな意味があるんじゃないかと考えるようになりました。
再生エネルギー、自然エネルギーを使って、選手村とか、あるいは競技の施設とか。そういうものも整備していくことができるでしょう。日本のこれだけの技術があるんです。ですから、そういう形の、高度成長の頃のような。ただやたらと施設の方にお金ばかり掛けるということではなくて、もっとソフトな面に、おもてなしの心とか、いろいろソフトな面で力を入れていくことがあると思いますが、そういう簡素な、コンパクトな、またその、心の豊かなオリンピックというものを目指していくべきではないか。私は、それはきっと素晴らしいオリンピックにできるだろうと思っております。
もう1つは、原発の問題です。私は今日、わざわざ忙しい中をかけつけていただき、マイクを握っていただく小泉さんと共に。これからは再稼働を認めない。原発即ゼロということで、再生エネルギー、自然エネルギーに切り替えて、日本の新しい未来を築いていく。そういう路線で進んでいこうということで話をしております。これは、今すでにヨーロッパの先進諸国では、未来エネルギーや再生エネルギーを使って、もうその割合が20%、30%になってるところもある。
そういう先進的な取り組みというものを、積極的に取り入れて、これだけの、日本は技術的な能力があるわけですから、それを生かして産業や雇用の確保を図っていく。必ずそれは日本で実現できると、私は確信をしているところです。オリンピックは、いやオリンピックはでなくて、脱原発ということは、原発をゼロにするということは、東京の選挙の関係ないじゃないかという人たちもおられます。
しかしどうでしょうかみなさん。この前の福島の事故の後、一体どういうことが起こったか。停電になりました。水が止まりました。東京の一部です。そういうところでは工場も電気も止まり、ペットボトルで水を配った。お年寄りの方々はずいぶん苦労された。工場の労働者の方々もたいへんでした。それが東京の問題じゃないというんでしょうか。私はとんでもない話だと思います。エネルギーの多くを福島から持ってきて東京は使っている。そういうことも考えなければならない。
東京の知事選挙に、原発の問題はふさわしくないんじゃないかという人たちもおりますが、知事の第一の任務はなんだと思われますか。知事の第一の任務は、都民の生命と財産を守ることです。他に、それはいろんな問題があるでしょう。TPPの問題もあるだろうし、いろんな問題がある。しかし、そういうものは他の候補者もみんな言ってることです。福祉の問題でも、高齢者医療の問題でも、いろんなことはみんな横並び。それは誰が知事になっても当然手掛けていくことで、そんなに大きな差はないと思います。
しかし原発をすぐ止めるかどうか、再稼働しないかどうか。再稼働しないことで、原発即ゼロということで、日本の新しい未来を築いていく。そのことについてはっきりしてる人はあまりいないじゃないですか。ですから、私たちは日本の輝かしい未来をここから、この東京から今すぐ始めていく。ぜひみなさんの厚い支援を、お願いをしていただいて、お願いをして、1人でも多くの方に、この脱原発社会の、脱原発日本の、この新しいエネルギーでもって日本の未来を作っていこうという、同士の方々の輪を広げていただきたいと、強くお願いを申し上げる次第です。
私は、昨日記者会見をしました。14日に立候補表明、決断をしたものですから、小泉さんと会って、初めて私は決断をしたんです。ですから、たった1週間、きょうで8日目かな、9日目かな。だから、もう事務所を作らなきゃならない。政策もいろいろ整合性のあるものを作らなきゃならない。たいへんな慌ただしさの中で今日までやってまいりました。今日も朝から政見放送、いろんなことがあった。
しかし、立ち上がる時、今立ち上がった以上は、これはもう後戻りはできません。アホだとかバカだとか言われても、私は日本新党を起こした時、今から20年前ですけれども、その時もたった1人で旗揚げをしました。誰も国会議員の仲間もいなかった。都会議員の人たちもいなかった。そういう中で、たった1人で記者会見をして、新党を立ち上げる。アホじゃないかと。そんなドンキホーテみたいなことをして何ができるんだ。
確かに巨大な自民党という政党を相手にして、巨大な霞が関の官僚群を向こうに回して、常識的に考えればそういうことでしょう。気が狂ったんじゃないか。私は、殿さまご乱心となにかで書かれていましたが、昨日の記者会見でも聞かれました。そうだ、ご乱心です。乱心しなきゃこんなことできるわけないんだと、今頃こんなところで座ってられないんだと私は言ったんです。少し、気違いになって走らなければそんなことはできない。いい歳してこんなところに出てくることはできないんです。
だけれども、今世の中を見てると、若い人たちはどうも少し、覇気が足りない。昨日も、あなたいい歳してこんなところに出てきてという類の質問もありましたが、私はその時にウルマンの、サミュエル・ウルマンの詩を引いてこう言いました。サミュエル・ウルマンはご承知かと思いますが、歳をとっても人は老いない、その人が理想を持っている限りは。そういう趣旨の話をしておりますが、私はそれに加えてこう言いました。
私はもう1つ、世の中のおかしなこと、間違っていると思うこと、そういうものに対して断固として身体を張って戦う意思を持っているものは、まぎれもなくこれは青年である。しかし、そういう覇気のない者は、これは老人といってもいい。18歳の青年でも、そういう覇気のない者もいる、気力のない者もいる、戦う意思を持たない者もいる。しかし90歳でも、厳として戦う意思を持っている人もたくさんおられます。そういう人は若い人です。小泉さんなんか、その最たるもの。
ですから、私は小泉さんと共に、小泉さんに励まされて最終的に決断をしたんですが、これから困難な戦いが続くと思いますが、まさにこの、今回の選挙は国の存亡をかけた戦いです。日本の文明のあり方を問う選挙です。東京だけの選挙じゃないんですこれは。全国に訴えて、世界が注視をしている選挙です。どうかみなさん、そういう意味で、先ほどとの繰り返しになりますが、1人でも多くの方に声をかけていただいて、この日本の国のあり方を、ご一緒に変えていこうじゃありませんか。どうぞよろしくお願いいたします。
細川護煕元首相・小泉純一郎元首相 街頭演説第二声 渋谷ハチ公前 2014年01月23日
http://okos.biz/politics/hosokawamorihiro20140123/2/
小泉純一郎元首相
いいんですか。小泉純一郎です。細川さんにぜひとも都知事になってもらいたい。みなさんに応援してもらいたいと思って今日やってまいりました。3年前の3月11日、地震、津波、原発事故、あの悲惨な状況を見ていてもたってもいられなくなりました。なにかやらなければいけない、自分にも何かできることがあるはずだ。これは、日本にとって大ピンチなんだけども、日本国民は歴史をみるといつもピンチをチャンスに変えて発展してきた。まさに、あの東北大震災、原発事故は日本を変えるチャンスである。また変えられるのだ。
変えるのに、変えることができるのになぜ立ち上がらないんだという、強い憤りの念が私の胸に燃えてきたんです。やれることはやろう、このピンチをチャンスに変えよう。歴史的な大転換期だ。そういう思いがあったから、私は今回、その意気に感じて俺も立つという人が出てきた。それが細川さんですよ。
歳をとってる、70過ぎてる、私も細川さんも。しかしながら、やらなければならないことがあると思ったとき、歳とっても老人ではない、若返るんですよ。使命感がある限り燃えるんですよ。夢を見ているんじゃないか、理想ばかり言って、ドンキホーテじゃないかといってますが、この夢は原発ゼロで東京は発展できる。原発なくても日本は経済成長できるという、夢かもしれない。しかしこの夢はやろうと思えばできる夢なんです。実現できる夢だと私は確信持ってる。
原発ゼロなんて言ってるけども、代案を出さないで無責任だと言ってるが、この原発の問題、原発ゼロにしてどうなるかという問題を、一人で代案出せるわけがないじゃないですか。廃炉にするにしても、40年、50年かかるんですよ。今原発で潤ってる町、原発ゼロになったらどうするのか、原発に代わる自然再生エネルギーを発展させるにしても、様々な考えがある。金もかかる、努力もいる。
安全対策でも、地域の発展においても、一人で代案など出せる、そんな問題じゃないです。また一人で代案を出すべき問題でもない。政治が決断すれば、日本には優れた人がたくさんいる。そういう英知を結集して、原発ゼロで発展できる道を考えるためには、トップが変わらなきゃ駄目だと思った。政治が動かなきゃ駄目だと思ったんです。その政治を動かす原動力がみなさん一人ひとりですよ。
確かに都政ではいろんな問題がある。原発は争点にするなといってるけども、都市の防災問題においても、福祉の問題においても、雇用の問題においても、私は都知事になれば大して違いはないと思う。一番違いがあるのがこの原発の問題じゃないですか。他の候補者と細川と違いがあるのは。何を重視して投票するか。それは評論家が決めることじゃない。1人1人が何を重視してることは全部違うはずだ。私は原発の問題を最重視している1人です。その中で、一番はっきりした考えを打ち出してるのが細川さんだ。
原発ゼロでやっていける。なぜやればできることをやらないんだという歯がゆい思いがしてる。今再生可能エネルギー、わずか数%だよ。原発30%の、原発が出す電気に依存していた日本が、ゼロにしたら何ができるんだという、小泉を批判する原発推進論者の多くの声です。しかしながら、今原発ゼロですよ。やっていけてるの。
これから仮に、何基か再稼働させたとしても、そのわずかな電気ならば、自然再生エネルギー、太陽光、風、地熱、あるいはバイオガス、様々な自然の世界にあるエネルギーを電気に変える技術が進んでるじゃありませんか。いまや、太陽が陰ったら電機は起こらないよ、風が吹かなかったら電機は出てこないよ。しかし、そう言ってる最中にも、今や太陽光、風力、様々な電気を蓄電する技術が開発されてるじゃありませんか。日本の技術、日本の企業の技術の、また国民の、良い環境を保ちたい。自然環境を大事にしたいという気持ちは、実に強い。
こういう国民の持っている潜在力を生かすのが、いい方向に持っていくのが政治家の役目だと私は思う。細川さんも私も、もう70を過ぎて引退した身ですよ。しかし、このやればできる、自然を資源にした国づくりができる、社会づくりができるという、やりがいのある仕事。これに全力を注ぐというのは夢のある仕事だ。壮大な事業である。これを国民と共に進めていきたいと強く思ったから、今日ここで細川さんの応援に立ってるんです。これからも、あちこちで私は細川さんの応援に立ちますよ。
引退して、今本読んだり、歌舞伎を見たり、音楽会行くよりも今燃えてるんです。それは、新しい、世界にない、原発ゼロで東京は発展できる。その東京が、日本の最大のエネルギー消費地の東京が原発ゼロでやっていけるならば、日本のエネルギーがもう変えることができると思うからです。東京オリンピック・パラリンピック、原発ゼロでできるのか。無責任だっていう、そういう人がいた。
しかしながら、昨年、東京オリンピック招致委員会はIOCに向かって、世界に向かって原発なしでのオリンピックはできると言って宣伝してたんじゃないか。どっちが無責任だ。しかも、今まで私どもも不明の至り、原発は安全で、しかも他のエネルギー源に比べて最もコストが安いと専門家の意見を信じていた。あの事故が起こって、私は原発の問題、歴史的経緯から、アメリカで起こったスリーマイル島の事件、ソ連で起こったチェルノブイリ事件、しかもフィンランド行って、あの最終処分場のオンカロを見て、様々な自分なりに勉強、聞き、識者の意見を聞いてきた。
今はっきり確信している。原発は安全でもない。コストは最も安い、とんでもない。いかなるエネルギーよりも一番コストかかってるのが原発だ。しかも、原発の電気で利益を受ける、恩恵を受ける人は現在いるだけでも、その原発を起こしている費用を負担するのはこれからの若い世代じゃないですか。しかも一度事故が起こったらどれだけの被害が起こるか分からない。地域がなくなっちゃう。ふるさとが消えちゃう。人体だけじゃない、農産物、畜産物、水産物、山や川や海、途方もない、甚大なる被害を与える。
しかもその費用を負担するのはこれからの国民ですよ。そうだったらば、今原発にかけている資金を、エネルギー、人材も、自然に、無限にある太陽とか、風とか、地熱とか。牛のフン、馬のフンまでも電気に変えるという、そういう技術開発に資金を向けた方がよほどやりがいがある仕事じゃないですか。しかも各地で今始まってるんですよ。ただちに原発ゼロはできないっていうけれども、今ゼロなんですよ原発。
そういうことを考えて今回の選挙、他の政策は都政にたくさんありますが、一番候補者で違いがあるのがこの原発の問題なんです。原発ゼロでもやってる姿を、東京が示すことによってこれから国政に大きな影響を与えることができる。オリンピックもパラリンピックも、原発なしで成功させたならば、世界が注目する。原発ゼロでも、あの日本がやっていけるんだ。世界も原発を考えますよ。
現に昨年11月、国連の事務総長潘基文さん、世界銀行のキム総裁が共に、これからは国連の資金、原発の関連する国に一切資金は使わないと記者団に表明したじゃないですか。原発ゼロで、日本は今やってる。これを6年後には原発なしでおりピックを成功させる。さらに、今後様々な、自然にあるエネルギーを大事に使う、まさに自然と共に生きる。自然を大切にする。
そういう国作りに、みなさんと共に進むことができるかどうか大事な都知事選挙だ。どうか、この厳しい選挙でありますが、最後はみなさんが一息で判断してくると思う。原発は都政の問題じゃないのか、いや、大きな問題だ。都知事が細川さんならば、日本を変えることができる。東京が変わったら、日本も変わるし世界も見直す。日本をモデルにまた、世界が日本を見つめてくれるのではないか。
そういう壮大な夢に向かって、今歩むことができるかどうかの、大事な選挙でありまあす。どうか最後まで、何を重視するかはみなさん自身ですが、私はそのような、国を変えることができる、自然を大切にすることができる。資源戦争に日本は加わらないで済む。様々な、日本にある自然のエネルギーを社会の発展に役立たせることができる、その都知事を選ぶ選挙にぜひともみなさんのご支援を細川さんに与えていただきたい。心からお願い申し上げまして、応援の言葉に変えます。寒い中本当にありがとうございました。
細川護熙・小泉純一郎 「原発ゼロ」 1/23@渋谷
公開日: 2014/01/23
【全→】
http://www.youtube.com/watch?v=YoPPi9...
http://www.ustream.tv/channel/iwj-tokyo4
1/23 細川護熙・小泉純一郎 「存亡をかけた戦い」渋谷街頭演説 細川 西郷隆盛から話を始める オリンピック 知事の第一の任務 原発ゼロ ご乱心と言われるが(続く)
【写真↓】小泉の応援演説中に、細川が思わず涙する一幕も カタジケナイ
https://twitter.com/ld_blogos/status/...
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細川 護熙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E7%86%99
以下抜粋
細川 護熙(ほそかわ もりひろ、
1938年〈
昭和13年〉
1月14日 - )は、
日本の
政治家、
陶芸家。
公益財団法人永青文庫理事長、
東北芸術工科大学学園長(初代)、
京都造形芸術大学学園長(初代)。
参議院議員(3期)、
熊本県知事(第45・46代)、
日本新党代表(初代)、
衆議院議員(2期)、
内閣総理大臣(
第79代)、
フロム・ファイブ代表(初代)などを歴任した。
概要
肥後熊本藩主だった
肥後細川家の第18代当主。
上智大学法学部卒業後、
朝日新聞社記者を経て
第9回参議院議員通常選挙に
全国区から立候補し初当選。その後、
熊本県知事に転じ、2期8年務めた。知事退任後、
日本新党を結成して
代表に就任し、
参議院議員として再び国政に戻る。
1993年7月の
第40回衆議院議員総選挙に鞍替え立候補し、
衆議院議員に初当選。非自民
連立政権の首班となり、38年ぶりに
自由民主党からの政権交代を実現させた。内閣総辞職後、
新進党の結党に参加するものちに離党、
フロム・ファイブを起ち上げた。以降、
民政党を経て
民主党に合流。還暦を機に議員辞職し、政界引退後は
陶芸家として活動する。
生い立ち
関ヶ原の戦いなどで活躍した
戦国大名・
細川忠興の子孫で、旧
熊本藩主
細川家第17代当主・
細川護貞と、
近衛文麿元
内閣総理大臣の娘である温子との間の長男として
東京府東京市(現在の
東京都千代田区)に生まれる(
本籍地は
熊本県熊本市)。
清泉女学院小学校から
栄光学園中学校、
学習院高等科卒業。学習院高等科での同級生に
菅孝行がいる。大学入試では
京都大学を受験するが失敗。一浪して再び京大を受験するがまたも失敗し、
上智大学法学部を卒業後、
朝日新聞社に入社。
政界へ
その後、朝日新聞社を退職。かねてから政界進出の意志を持っていたが、
松前重義(
日本社会党)に「自分は次の選挙に出ない。いい機会だから、胆(はら)を決めて出たらどうか」と勧められ、
1969年に行われた
第32回衆議院議員総選挙に
旧熊本1区から
無所属で出馬した。しかし父の護貞は政界入りに反対し、「そんな
ヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と
勘当を言い渡した。文芸春秋での実弟・忠煇の発言によれば、護煕は細川家次期当主と言えど、当時三笠宮家の長女
甯子内親王と結婚したばかりの忠煇より知名度が低く、忠煇自身も政界進出には否定的だったという。
細川自身は
保守系無所属としての出馬を選んだ(社会党は松前の後継に
藤崎久男を擁立したが落選)。
首相の
佐藤栄作に面会すると、
田中角栄に会うよう勧められ、田中には「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、
戸別訪問しろ」といわれ、
どぶ板選挙を行った。しかし細川家の末裔とはいえ、家の支援は望めず、有権者にとっては無名に近い存在だった。結果、戸別訪問も目標の半分しかできず38,632票で落選したが、戸別訪問で回った地域は、不思議なくらい票が伸びたという
[2]。
1971年の
第9回参議院議員通常選挙では
全国区から
自由民主党公認で出馬し、
石原慎太郎などの支援を得て当選するが、後に石原とは袂を分かち田中角栄の
七日会(田中派)の旗揚げに参加する。2期目は
熊本県選挙区から出馬し当選、官職では
大蔵政務次官などを歴任。党職では自由民主党の参議院副幹事長を務めている
[3]。
地方自治へ
その後、
熊本県知事選挙への出馬を表明。現職の
沢田一精と自民党の公認を争った末に調整で公認候補となり、
1983年に当選、2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「
くまもとアートポリス」などを推進。
NHKアナウンサーを退職した
鈴木健二を
熊本県立劇場館長として迎えた。
また、知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例は話題になった。
新党結成
熊本県知事3選も確実視されていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、2期8年で知事を退任。1991年2月に活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。
1992年、文藝春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自由民主党)と革新政党(日本社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年、第16回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得した。
宮澤内閣の下で政治腐敗防止のために政治資金規正や政権交代を容易にする小選挙区制度導入といった政治改革実現の目途は立たず、1993年5月、ついに首相の宮澤喜一がテレビの特別番組で「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と断言し、決意を示したものの党内の根強い反対論を覆せず、再び断念に追い込まれた。その結果、宮澤内閣に対する不信任決議案が政治改革を推進する羽田派の賛成により衆議院で可決され、宮澤は解散総選挙を決断。羽田孜、小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また不信任決議案には反対票を投じた武村正義、鳩山由紀夫らも離党し、新党さきがけを結成した。
この間、細川は日本新党代表として全国を遊説して政治改革・地方分権を訴え、無党派層の支持を集めていった。6月、総選挙の前哨戦と位置付けられた1993年東京都議会議員選挙で、一気に20議席獲得と大躍進した。またこの頃、武村正義や田中秀征が主導した、行政の制度改革を勉強する会である「制度改革研究会」に運営委員として参加している。
細川内閣
詳細は「
細川内閣」を参照
衆議院の解散による
第40回衆議院議員総選挙で日本新党は躍進、細川は
小池百合子と共に衆議院に鞍替えし、旧熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選した(小池も
旧兵庫2区で当選)。この選挙で野党第1党の社会党は大敗し、与党で第1党の自民党も過半数に達していなかったため、日本新党と新党さきがけが
キャスティングボートを握る。新党さきがけ代表の武村正義は、細川とは
滋賀県知事時代以来のつきあいがあり、その縁で日本新党を引き込み自民党との連立政権を模索したが、
新生党代表幹事の
小沢一郎がこれに対抗して「細川首相」を提示。細川は「自民党を政権から引きずり下ろすためには悪魔とも手を結ぶ」と述べ、
非自民連立政権の首班となることを受諾した。
1993年8月9日、政治改革を最大の使命として掲げる
細川連立政権が誕生した。公選知事経験者の首相就任は史上初であり、2014年現在も唯一の例である。また衆議院議員当選1回での首相就任は1948年の
吉田茂以来45年ぶり、閣僚を経験していない政治家の首相就任としては1947年の
片山哲以来46年ぶりである。細川政権の誕生により1955年から38年間続いた所謂
55年体制が崩壊した。日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・
公明党・
民社党・
社会民主連合の7党に、参議院院内会派の
民主改革連合を加えた8党派からなる連立では政策の調整に困難が予想され、「8頭立ての馬車」「ガラス細工の連立」などと皮肉られることもあった。その一方で、内閣発足直後に行われた世論調査では
内閣支持率が軒並み70%を超え、これは当時としては空前の高支持率となった。
1993年8月15日に、
日本武道館の「戦没者追悼式典」で首相として初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた。この年は極端な
冷夏で
記録的な米不足が発生したことを背景に、
食糧管理法を改正してヤミ米を合法化し、自民党政権下でも長年の懸案でもあったコメ市場の部分開放を決断した。ただし米糧のブレンド米の緊急輸入に関しては、就任直後には慎重な姿勢を見せていたのにも関わらず結局認めて、記者会見で「断腸の思いだ」とコメントしたものの、一部からは批判を浴びた。11月にはアメリカでの
APEC首脳会議に参加した。
その一方で
政治改革四法案の成立は難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、当初の小選挙区250、比例代表(全国区)250、計500議席を、小選挙区274、比例代表(全国区)226と自民党へ譲歩したものの受け容れられず、小選挙区制の導入に民意を正確に反映しないとして反対する社会党の一部参議院議員も造反したため、1994年1月に廃案となる。ここで細川は、一度否決されたにもかかわらず、自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、再び改革案成立への意欲をアピールした。細川は、
自民党総裁・
河野洋平との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い小選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の
小選挙区比例代表並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。こうして長年にわたり何度も頓挫してきた新たな選挙制度を実現させた。結果的には、
羽田孜や小沢一郎が自民党を割って出てまで推進してきたこの政治改革の成就が、9か月の細川内閣におけるほとんど唯一の実績だが、ここで成立した選挙制度改革や政党交付金制度は、後の政治のあり方を大きく変えていくことになる。
1994年2月、冷戦終結後の日本における
安全保障のあり方の見直しを提起し、防衛問題懇談会を設置した。
政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、高い内閣支持率もそのまま維持した。2月3日、これに意を強くした小沢一郎と
大蔵事務次官の
斎藤次郎のラインに乗った細川は、
消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる
国民福祉税構想を発表した。しかし、これは深夜の記者会見で唐突に行われたもので連立与党内でも十分議論されていないものであったため、世論はもとより
内閣官房長官の武村正義や社会保障を所管する
厚生大臣で民社党委員長の
大内啓伍、社会党委員長の
村山富市ら、与党内からも反対の声が沸き上がり、結局翌2月4日に連立与党代表者会議で白紙撤回に追い込まれた。
その後、政権を支える
新生党代表幹事の小沢一郎と、内閣官房長官の武村との対立が表面化。細川は内閣改造による武村の排除を図るがこれも実現できず、さらに細川自身が
佐川急便からの借入金を未返済のままとしているという疑惑を野党となった自民党に追及されることになる。細川は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済している(現在ではこの際の「借用書」
[4]も公開されている)と釈明したが、返済の証拠を提出することが出来ず、国会は空転し、細川は与党内でも四面楚歌の苦境に陥った。4月5日、参議院議員の
コロムビア・トップ及び
西川きよしとの会食の席で「辞めたい」と漏らしたことが報じられ、一旦は否定したものの政権はもはや死に体となってしまい、8日に退陣を表明。総予算審議に入る前に予算編成時の首相が辞任するのは極めて異例の事態である。こうして国民の大きな期待を背負って誕生した細川内閣は、1年に満たない短命政権に終わった。細川の退陣に伴い、かねてから細川との関係が悪化していた武村が率いる新党さきがけは、将来的な合流を見据えて組んでいた日本新党との統一会派を解消し、連立内閣からも離脱して次期政権では閣外協力に転じる意向を早々と表明した。
首相退陣後
28日には、細川内閣で
外務大臣兼副総理を務めていた羽田孜を首班とする
羽田内閣が発足。このとき社会党と公明党を除く連立与党が新選挙制度への対応と政権安定化のために院内統一会派「
改新」を結成した(公明党は遅れて参加を表明)が、これに社会党が猛反発し、連立政権からの離脱を表明。与党第1党であった社会党の離脱により、羽田内閣は少数与党政権に転落し、不穏の船出となった。与党が少数となった国会は借入金未返済についての細川の
証人喚問を決定、6月に喚問を受けた。羽田内閣は社会党に連立政権への復帰を促し、社会党内にも連立復帰に前向きな意見があったものの実現しなかった。
1994年6月、羽田内閣総辞職・
村山内閣誕生により、統一会派「改新」に参加する日本新党・新生党・公明党・民社党などは野党に転落したが、新選挙制度の下では中小政党は不利になることに鑑みて、12月、
新進党を結成した。
1995年7月の
第17回参議院議員通常選挙では、細川は党首
海部俊樹、羽田孜とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピール(三総理作戦)、勝利に導いた。しかし、この選挙で新進党比例候補として当選した
友部達夫が
オレンジ共済組合事件で逮捕されると、その比例名簿順位の決定に関わった細川は追及を受けることとなる。
新進党では12月に新たに党首に就任した小沢一郎の党運営が強権的であるとの不満が大きくなり、
1996年の
第41回衆議院議員総選挙前には
鳩山邦夫・
船田元・
石破茂らが離党し、敗北後はさらに離党者が続出。細川も
1997年6月に離党、新進党解党直前の同年12月には新党「
フロム・ファイブ」を立ち上げた。
さらに
1998年1月には、旧
民主党、
新党友愛、
太陽党、
国民の声、
民主改革連合とともに野党共闘を目指す勢力として院内会派「
民主友愛太陽国民連合(民友連)」を結成。それからまもなく同じ民友連を構成する羽田孜らの太陽党、国民の声との三党合併により
民政党を結成。その後も、新進党解党後の二大政党の一翼を担いうる新党の結成を目指し、
旧民主党、新党友愛、民主改革連合との新党設立を協議する政権戦略会議の議長を務める。協議は難航したが、4月、「民主党」の名称を受け入れることでとりまとめ、面目を保った。
新民主党の結党を見届けた後の
1998年5月7日、
還暦(60歳)を迎えたことを区切りとして衆議院議員を辞職した。
政界引退後
引退後は主に陶芸家、茶人として活動し、祖母の住まいがあった神奈川県足柄下郡湯河原町宮上の邸宅に、工房と茶室「不東庵」を設えている。茶室の設計は建築史家の藤森照信がした。陶芸の師は辻村史朗[5]。
創作・執筆活動をしながら、2001年から、主に春から秋にかけ茶器・書・画等の「作品個展」を開いている。また、1999年10月から2002年9月までの間、TBSラジオの『細川護煕・この人に会いたい』でパーソナリティを務めたこともある。
細川家当主として公益財団法人永青文庫の理事長を務めている。また、母の姉が活元運動の提唱者・野口晴哉の妻である縁から社団法人整体協会会長理事に就任している。
現在唯一政治に関わる活動としては、「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。2011年2月1日から東北芸術工科大学と京都造形芸術大学の初代学園長に就任することが発表された[6][7]。両大学を運営する学校法人東北芸術工科大学と学校法人瓜生山学園は統合を予定しているが、その統合計画について「誠に時宜を得たもの」[8]と評しており、「両校はこれまでも、『藝術による平和の希求と日本の再生に向けた運動』に取り組んできましたが、今回の法人統合が実現したならば、その運動は更に力を増し、様々な分野で、具体的な展開を図っていく可能性が拓けていく」[8]と主張し、法人統合に寄せる期待を表明している。
2010年5月、首相在任中に書き留めていた日記を、『内訟録 細川護熙総理大臣日記』として日本経済新聞社から出版。
2010年9月に行われた民主党代表選挙に際しては、「(首相を)やれるのは小沢さんしかいない。わたしも一生懸命応援します」[9]と述べ、小沢一郎への支持を表明したが、小沢は現職の菅直人に敗れた。しかし、その後も菅の政権運営に批判的なスタンスを取っており、2011年4月8日には「菅は日本のためにいてはならない。絶対に辞めさせなければならない」[10]と宣言した。2011年8月の民主党代表選挙では、選挙前に行われた小沢と野田佳彦との会談の仲介役を買って出た。細川は今回は小沢を支援せず、野田も細川に支援を要請しなかった[11]。
2012年、一般財団法人瓦礫を活かす森の長城プロジェクトを設立し、理事長となる。これらの貢献により、第6回後藤新平賞を受賞。
最終更新 2014年1月22日
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細川 護熙 公式ホームページ
http://tokyo-tonosama.com/
細川 護熙 政策
http://tokyo-tonosama.com/download/seisaku.pdf
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森の長城プロジェクト
http://greatforestwall.com/
森の長城プロジェクトの課題と展望
公益財団法人 瓦礫を活かす森の長城プロジェクト 理事長 細川護熙
http://greatforestwall.com/files/2013/07/f51dbeeaf451b8.pdf
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森の長城プロジェクト公式動画
公開日: 2013/03/13
「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」設立記者会見 2012.5.25
公開日: 2012/05/26
一般財団法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」の理事長らが設立後に会見を行い、記者の質問に答えた。
登壇者は右から下記の方々。
佐藤 可士和 理事
澁澤 寿一 理事
ロバート・キャンベル 理事
川瀬 修平 監事
細川 護熙 理事長
宮脇 昭 副理事長
倉本 聰 評議員
冨木田 道臣 顧問
新川 眞 事務局長
司会 倉重篤郎 日本記者クラブ企画委員(毎日新聞)
日本記者クラブのホームページ
http://www.jnpc.or.jp/activities/news...
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記者による会見リポート(日本記者クラブ会報2012年6月号に掲載)
細川元首相が「弟子」を本格支援か
細川護煕元首相が久々に会見の場に姿を現した。会見当日発足したばかりの一般財団法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」理事長としてプロジェクトの意義を訴えるためだ。
細川氏がかねてから親交のある横浜国大の宮脇昭名誉教授と温めてきた構想で、東日本の海岸沿いに300キロにわたって高いマウンド(盛り土)を築き、そこに地中に深く根を張る広葉樹を植え、巨大津波から街を守る防潮林にしようというものだ。目標は10年間に9000万本というから壮大である。
計画のミソは、マウンドづくりに大震災被災地の瓦礫を利用すること。毒性のあるものを除いた、木材、コンクリート、レンガなどの瓦礫をマウンドに混ぜることによって地中に適度な空気層が生まれ、森の生長が促進されるそうだ。
細川氏はすでに3月に野田首相と直接会って構想を伝えており、政府も林野庁を中心に瓦礫を利用して盛り土を築くという同様の方法で海岸防災林を整備する計画を立てている。細川氏らは民間から寄付を募るなどしながら、木の苗づくりや植樹などで政府と連携していくことになる。
細川氏は、「日本の文明のあり方を世界の方に知っていただく機会になるんじゃないかと思い、本気でやらせていただこうと思っている」と、首相時代と同様に淡々とした口調で語っていたが、俗世間に身を置く筆者には「弟子」である野田首相を側面から支援したいという気持ちのひとつの表れにも見えた。
なお、野田首相については「しっかり腹を固めておられるから、最終的にはいろいろな局面があると思うが、何とかやられるんじゃないかとかなり期待を込めてそう思っている」とエールを送った。
フジテレビ解説副委員長 山本 周
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小泉純一郎 J.Koizum @J_Koizumi_Japan