2013年11月17日日曜日

牛島稔太のblog 製鉄・精銅地名: 高良/香春/川原(河原)/郡浦: かわら、こうら、こら



牛島稔太のblog
民俗・古代史及び地名研究の愛好家

http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33742201.html

製鉄・製銅地名: 高良/香春/川原(河原)/郡浦:かわら、こうら、こら 福岡県田川には香春(かわら)、久留米には高良(こうら)、熊本県宇土半島には高良(こうら)、川原(こうら)、郡浦(こうのうら)、鹿児島県の南薩摩地方の南さつま市金峰町には高良(こうら)神社、また、お隣の南九州市川辺町には河原(こら)の地名がある(下図の赤丸にしめした)。

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図1

これらは古代九州の黎明期における国産精銅・製鉄関連地名ではないかと漠然と私は思ったのです。 福岡県田川市の香春には、古代採銅が行われていたことが遺跡や文書ならびに香春岳三の岳付近には採銅所という地名としても残っておりますが、谷川健一先生は、昔、新羅の神がやってきて、ここでさまざまな鉱物資源を採取・精錬を行ったと述べられています。あからさまには述べられることはないようですが、皆さんもなんとなくここが日本国内の古代精銅発祥の地と認識されるかたも多いことと思います。
(参考:
香春岳と新羅の神が住む http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html#新羅 
(参考:香春神社と日置氏 
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html#日置氏の役割 )
 一方、久留米の高良山には神護石があり、山麓の三井町清水から弥生時代の広矛が出土している。この高良山の近くの瀬高町女山にも神護石があり、同じく広矛が出土しています。また、高良山は近世の銅鉱山でした。谷川健一先生は、香春(かわら)或いは高良(こうら)の地名は金属精錬の民の頭目(かしら、ごうら)が住んだ場所ではないかとも述べておられます。


 その他、熊本県宇土半島の付け根には不知火町高良の地名があり、宇土半島の中ほど、大岳の中腹には川原(こうら)製鉄遺跡があります※。この付近に八朔の日の不知火見物で有名な永尾(えいのう)剣(つるぎ)神社があります。ここから更に宇土半島を西に進むと蒲池姫を祀る郡浦(こうのうらと呼ばれているが、こうらとも読める)神社があります(図2)。

※参照Webサイト:http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/koura.html
 
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図2

 また、鹿児島県の南薩地方、南さつま市金峰町にも高良神社があり、青屋昌興氏の著書『川辺町風土記』2006年南方新社によると南九州市川辺町及び鹿児島市平川町にまたがる火の河原(こら)という場所で製鉄が江戸時代に営まれていたといいます(図1)。
 従って、これら、『かわら、こうら、こら』の地名は製鉄・精銅関連地名ではないかということを、殊に、田川の香春(かわら)及び久留米の高良(こうら)、宇土半島の川原(こうら)製鉄遺跡などの例から、漠然と考えたわけですが、そのことを遺跡の発掘調査報告書や鉱物学の科学調査報告などから改めて検証してみたいと思います。
● 九州新幹線開通建設に伴う発掘調査報告書(熊本県教育委員会2010年) より
 宇土半島付け根の不知火町高良にある高良柳迫遺跡から銅剣と鉄製の釣り針などが出土しています。時代は、古墳時代~古代とされていますが、銅剣と鉄製の釣り針、小刀或いは銛?などが出土しています(表1、図3)。
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表1

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図3

熊本県内における九州新幹線開通建設に伴う発掘調査報告書(熊本県教育委員会2010年)において、そのほかに鉄器が出土したのは、熊本県玉名郡玉東町の稲佐津留遺跡(弥生後期~古墳前期:表2、図4)と玉名平野条理跡(弥生~中世)でした。

 面白いことにこの玉東町の稲佐には木葉山という石灰岩の山があり、石灰鉱山として現在も稼業中です。田川の香春岳と似ています。この稲佐には稲佐廃寺跡に熊野座神社がありますが、この御神体(木造女神像、平安時代)がすばらしい現代的な美女なのです(図5-1)。どうですか、皆さんのご感想は?おっと、横道にそれてしまいました。

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表2

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図4

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図5-1

● 熊本県玉名市(旧玉名郡も含む)付近の遺跡について
熊本玉名 疋野長者と鉄ー玉名市近郊塚原遺跡の古墳より出土した甕棺人骨約1900年前~2000年前(図5-2)

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図5-2
 
玉名市近郊岱明町の古墳甕棺より出土した貝輪約2000年前(図5-3)
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図5-3玉名市近郊(旧玉名郡)天水町斉藤山貝塚出土鉄斧約2200年前、弥生前期(図5-4)

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図5-4

☆疋野長者伝説:玉名市疋野神社(図5-5)
『砂鉄7里に炭3里』、砂鉄が取れるところよりも炭が取れるところで鍛冶製鉄を行えとの諺。燃料の確保が大変であり、それで炭焼き長者伝説がうまれたといいます。

 
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図5-5疋野神社の神、はびき神の説明☆古代肥後国玉名郡日置郷(図5-6)
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/jinjya-tamana.htm#ヒキ野 

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図5-6玉名市の古墳出土の鉄製、金メッキ馬具 約1500年(図5-7)
 
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図5-7
 
● 南さつま市金峰町高良神社付近の遺跡について(「先史・古代の鹿児島:鹿児島県教育委員会 より)左記のWebサイトで参照できます:http://www.jomon-no-mori.jp/sensikodai_hondo.html
 鹿児島県南さつま市(日置郡)金峰町には、縄文土器と弥生土器が同じ地層より出土した高橋貝塚と甕棺式墓制の南限とされる下小路遺跡が、特筆すべきものとして挙げられます。
 古代遺跡の年代鑑定は、旧来、土器偏年法といって、日本古代史学会では世界標準の理理化学的年代測定法を採用せずに、主に土器編年方式で年代決定をしていた(最近はいくらなんでも世界標準法を無視できないということで、国博は理化学法を重視するようになっているようです)。
 理化学的年代測定法をきちんと採用して、科学的に年代測定を実施しないとお話にならない実例がこの高橋貝塚です。
遺跡所在地:鹿児島県南さつま市金峰町高橋(下小路遺跡も高橋貝塚も約300mの位置に近接した遺跡)(図6)。
 


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図6
高橋貝塚: 
 出土遺物は、5層の堆積層より出土している(図7)。縄文土器と弥生土器が同じ階層の出土層(Ⅰ~Ⅴ層)より、共存する形で出土している。このことを資料の記載に従って、以下に、引用します。『土器について言えば、縄文土器が終わりを告げ、続いて弥生土器が現れるのではなく、縄文土器が使われていると同時に、弥生土器が平行して使われて、両者は重複して使われる。高橋貝塚では、6層から1層まで縄文晩期の夜臼式土器と、弥生前期の高橋の土器が共存して出土するのである。
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図7
高橋貝塚出土層別縄文土器(全層で出土)
(縄文土器:図8のⅢ層の26の土器は、奄美大島笠利町手広遺跡及び宝島の浜坂貝塚からも同類が出土している)。
 
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図8
高橋貝塚出土層別弥生土器(全層で出土)
土器の編年は、従来の形式論にしたがって、分類・編年を行い、高橋Ⅰ~Ⅳ式とし、高橋Ⅰ・Ⅱ式を弥生前期、高橋Ⅲ・Ⅳ式を弥生中期とし、夜臼式土器は縄文晩期として分類した。この編年は板付遺跡と見合うものであるが、高橋貝塚の層位に基づく土器出土の序列(実態)とは整合性がないことが判明した。』(図7,8,9参照)
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図9

 高橋貝塚と周辺地域とのネットワークについて
(1)中国:高橋では中国から入ったものに鬲(れき)【三脚の土器で、脚は中空で、水を煮て水蒸気を作り、上に甑をのせて穀物を蒸す容器である。灰陶でも作られ、戦国時代初めまで及んでいる】のほかにわが国で最も早く鉄器が(熊本県玉名市小天町斉藤山貝塚も同時)もたらされている(写真1)。
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(2)奄美の隆帯丸底土器(縄文土器:図8のⅢ層の26の土器は、奄美大島笠利町手広遺跡及び宝島の浜坂貝塚からも同類が出土している)ほかに、
(3)瀬戸内の甕形土器(図10)ももたらされており、周辺地域との交流が盛んであったことを示している。
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図10

下小路遺跡: 甕棺式墓制の南限とされている。
弥生中期・須玖式土器甕棺、甕棺内に南海産貝輪(ゴウボラ貝)をはめた埋葬人骨出土がある(図11)。
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図11
南さつま市(旧、日置郡)金峰町の遺跡の発掘調査報告から、縄文土器、弥生土器、そして鉄器が一緒に出土しているユニークな土地柄で、縄文と弥生のワープ?、北部九州と西南列島、琉球との交流点でもあることがわかった。なお、太宰管内志によると、延喜式に薩摩国日置郡、和名抄に日置郡合良郷とあり、この合良の読みをなんと読むべきかと、『詳らかならず、姶:ハアフの音なるをアヒに転(うつ)したるものなりさればここなるも合は姶の略字にて“
アヒラ”なるべきかされども今さる郷名もきこえざらば定めがたし、又、合:ハカフの音なるをカハに転して“カハラ”ともすべきかなほよく考ふべし。』とある。現在、この地に高良という名の方々(高良酒造さん)がおられ、高良神社があるってことは、後者が正解だったのではないかと思います。


● 日本の鉱山関連科学調査報告書からみる『かわら、こうら、こら』地名の検証
 まず、金属の精錬には、①鉱物資源(銅鉱石、湖沼鉄、砂鉄)、②燃料(薪、木炭)、③燃料から強力な火力を得るための風(送風)、④溶鉱炉を作るための粘土、⑤火口や坩堝として利用するための石材(例えば、結晶片岩、滑石製石鍋:石鍋を坩堝或いは溶鉱炉の底材として用いたとの説は宮崎康平先生の『まぼろしの邪馬台国』による)の要素が必要であったと思います。 この中で、概ね、①から④については、どなたも異存はないかと思います。 最初に①の鉱物資源について日本の鉱業関連の科学文献を探してみました。第二次世界大戦中から戦後のある時期まで相当長期間、日本は鉱物資源の輸入が大きく制限されていました。一方で、朝鮮戦争特需及びその後の高度経済成長時代を目前にしたこの時期、日本の鉱業界は戦時中にもまして盛んに国内鉱物資源調査を行っています。 その一例ですが、竹田英夫氏(地質ニュース 1962年6月号 No.94)は、『わが国の層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)について(1)』と題して、日本の中央構造線(図12)と重なるように、層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)が走っており、さらに、この鉱床は、北は北海道から南は九州まで全国いたるところに分布し(図13)、1960年当時稼動していた160の銅鉱山のうち、キースラーガー鉱床は30(19%)に過ぎないものの、産銅量(銅含量)でみると、銅鉱脈40.3%、層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)35.2%及びその他の鉱床(接触鉱床、交代鉱床、クロコー)が残り24.5%、また、採鉱された含硫化鉄量はキースラーガー鉱床が22.5%と最も多く、それに対して、銅鉱脈は13.6%であった。更に、1960年当時稼業していた日本の10大銅鉱山のうち、1位の別子、3位の日立,7位の下川、10位の佐々連鉱山がキースラーガー鉱床によるものあると述べています。このように日本各地いたるところに豊富に存在するキースラーガー鉱床については、1960年当時、銅資源、硫酸原料、そして鉄資源としての有用性が期待されていました。要するに、高い含量の銅及び鉄ならびに硫酸原料が同時にえられる鉱床であるからです。
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図12


キースラガー図13geologicunitJ
図14 

私は、この層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)に関するいくつかの鉱床調査記録を見ているうちに興味深いことに気が尽きました。
 まず、上述の竹田英夫氏(地質ニュース 1962年6月号 No.94)の報告では、キースラーガーの分布を日本の地質構造区分(山下昇1957年:中生代、地質調査所編纂1959年:日本鉱産誌A総論)と関連付けて述べられているので、以下に引用する報告文言の用語を理解しやすくするため、地質構造区分図をしめします(図14)。
 キースラーガーの分布:北は北海道から南は九州までキースラーガーは全国的に分布し、その鉱山数は現在稼業中のものから休山しているものまであわせると約350に達する。日本列島の地質構造区分という観点から検討すると、北海道地域の日高帯、本州地域の三波川帯、本州中軸深成帯、秩父累帯、三郡変性帯、丹波帯、および四万十帯に分布している(図13、図14)。
 九州地方のキースラーガーの分布地域について、稲井信雄氏が判りやすく表にして報告(地質調査所月報第14巻第3号)しているので、その表を以下に掲載します(表3及び表4)。
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表3

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表4 

興味深く思ったことの第一は、福岡県久留米の高良、熊本県の津森、蘇陽、宮崎県では石上、速日など、神社のあるところや記紀に出てくるような地名と重なるキースラーガー鉱山が散見されることである(図13、表3、表4)。また、三波川変成岩帯の熊本県のキースラーガーは表3では、上益城町の津森の記載しかありませんが、図13では不知火海の宇土半島の付け根から八代・水俣にかけても存在しているのがわかる。従って、不知火町の宇土半島の付け根にあたる高良という地名も、キースラーガーの一端にあると考えても良いかもしれません。
 大町北一郎氏(地質ニュース 1962年8月号 No.96)は『日本の鉄鋼資源(第2部)わが国の鉄鉱資源と開発状況』と題する報告書の中で、鉄資源鉱床をA接触交代鉱床、B化学的沈殿鉱床、C露天化残留鉱床などと成因別に分類し、日本全土の関連鉱床(鉱山)名を略述されている。これは、鉱山地名研究という意味で大変興味深い資料ですが、すべてを記載すると膨大となり、更に今回の主題からも脱線してしまうので改めてご紹介することとし、A接触交代鉱床、B化学的沈殿鉱床については九州内の鉱床(鉱山)についてのみ以下に引用紹介します。
A 接触交代鉱床:
1)磁鉄鉱を主とする鉱床、2)赤鉄鉱を主とする鉱床、3)銅・鉛・亜鉛鉱を主とするがこれに磁鉄鉱を伴うものとがある。1)、2)については従来から利用されてきたので省略する。3)は、従来、鉄鉱床としての価値に注目していなかった。しかし、近年(1962年当時)の探査により、銅・鉛・亜鉛鉱床に随伴して磁鉄鉱が生成されていることがわかり、今後、鉄資源として重要なものになるであろう。そこでこの種の鉱床を略述する。
A 接触交代鉱床の3)銅・鉛・亜鉛鉱を主とするがこれに磁鉄鉱を伴うもの
Ⅶ 九州地方
 ①門司・小倉鉱床区(大里 白野江 柳ヶ浦(門司))
 ②吉原鉱床区(丸山 竜生(蛇谷鉱床) 呼野 吉原(坑口 大道 杉ノ谷 宝台)
 ③三ノ岳鉱床区(竜田 大和(磁石山) 床屋 水昌 竜神(春岳))
 九州地方においては中国地方と同様に鉱床上部の酸化帯における褐鉄鉱が開発されたのみで、下部の鉱床は銅鉱を主とするところから鉄鉱床としては注目されなかったが、近年これらの鉱床の一部(吉原鉱床)に多量の磁鉄鉱を伴うことがわかり開発されつつある。

B 化学的沈殿鉱床(褐鉄鉱)
1)火山性起源褐鉄鉱鉱床
Ⅷ 九州地方
大山火山帯
 ①彼杵鉱床区(川棚・彼杵・宇久島・梶原)
琉球火山帯
 ②阿蘇鉱床区(阿蘇・鷹松・湯谷・湯布院)
 ③人吉鉱床区(一勝地・黒白・辛神)
 ④真幸鉱床区(真幸・大勝・大亜・加藤・宮田)
 ⑤霧島鉱床区(栗野岳・牧園)
 西南日本でもっとも期待される地域である。まず①の地域は九州地方で最も初期に開発され、戦時中も開発されたが最近の調査で低品位鉄鉱の埋蔵鉱量が若干確認されている。②の地区は戦時中に稼業され、その後は放置されている。その原因は鉄品位(Fe47%±)と低く、K分の多いこと、他の褐鉄鉱にくらべて水分が多いことなど鉱石の性状から見て難点があるため開発されていない。しかし、残存鉱量は相当量に達している。
非火山性起源(沼)褐鉄鉱鉱床
Ⅲ 九州地方
 ①佐賀鉱床区(三里)
 これらの鉱床には製鉄用資源としてよりは黄土資源として利用されるべきものが多い。すなわち、この型の鉱床から産出する鉄鉱石は水分が多く、いわゆる非晶質な針鉄鉱によって構成されているので、一般に粉鉱石となるものが多く利用されていない。また、鉱量的にも余り期待できない。

C 露天化残留鉱床(褐鉄鉱)・・・・全国分を記載
石灰岩上のテラ・ロッサ型褐鉄鉱鉱床
 石灰岩上の凹地に生成された褐鉄鉱鉱床で一部に加水赤鉄鉱を精製している場合がある。
 中部地方①赤坂鉱床区(赤坂)
 中国地方②秋吉鉱床区(秋吉・第二秋吉・美祢・新竜玉)
 九州地方③平尾台鉱床区(平尾台・ヨコズリ)
硫化鉄・硫化鉱物鉱床の上部が2次的に変化して酸化帯(褐鉄鉱化する)を形成したもの
 主として戦時中に稼業された鉄鉱床の多くはこの型のものが多い。鉱石は主として硫化鉄、磁硫鉄鉱から2次的に派生したものであるから硫黄分とか、銅分を若干含有する場合があるので注意を要する。
 ①黒鉱鉱床(上北)
 ②接触交代鉱床(赤金・秩父・喜多平・大嶺・大和・福重・美祢・小川・植山・大長・絵堂・呼野・円山・三の岳
 ③含銅硫化鉄鉱床=キースラーガー(田老・柵原・田中・高良内・梶原・中谷・深田)
以上引用終わり。
 このように竹田・稲井・大町氏らの報告書によって、福岡県田川香春も久留米の高良も銅鉱床或いは含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)の上部酸化帯に褐鉄鉱が存在する鉄鉱山でもあったことがわかった。また、宇土半島の付け根の高良もその可能性は否定できない。従って、田川の香春にも久留米の高良にも銅鉱床の上部の褐色鉄を用いた製鉄が行われた可能性は否定できなくなった。
 さて、上述のように、鉄器の材料となる鉄鉱資源として、国内には磁鉄鉱(鉄鉱石、砂鉄、褐鉄鉱)、赤鉄鉱が存在していたのですが、実際に古代の鉄器の製鉄材料は何であったのか。


 そこで日本の遺跡から出土した鉄器の化学成分分析結果を見てみたい。
● 古代の出土鉄器の化学成分分析結果
1)弥生時代から中世の出土鉄器の化学成分分析結果
 なお、以下の資料は『古代鉄と国内鍛冶刀剣』(http://ohmura-study.net/404.html)というWebサイトより引用させて頂いた。
1.弥生時代中~後期の鉄戈及び鉄斧:銅含量のきわめて低い鉄鉱石(又は砂鉄)が原料と推測されている(図15、図16)。


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2.古墳時代の鉄剣 
 浅井壮一郎氏の『古代製鉄物語「葦原中津国」の謎』彩流社2008年に紹介されている記事では、『日本では6世紀以前の古代刀は大陸から来たか少なくともその鉄鉱原料は大陸から来たとされていること、及び「稲荷山鉄剣」について新日鉄グループがその僅かな錆について化学分析したところ、銅とマンガンが多く(表5)、砂鉄精錬ではなく、更に銅が異常に多いことから赤鉄鉱でもなく、含銅磁鉄鉱の炒鋼と推定された。また、明治時代の日本の製鉄冶金の泰斗、俵国一博士は「古墳出土の鉄剣には含銅鉱石を原料にしていることを示す分析例が過半を占め、従来から鉄地金は山東省から揚子江沿岸にかけての江南地方の含銅磁鉄鉱を精錬した」と推定されていた』※とある。
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表5
※ ここで誤解を招かないようにお断りしておくが、浅井壮一郎氏の上述著書の主題は日本の古代製鉄は、国内産の“みずべの鉄(褐鉄鉱)”を利用していた可能性があるというものである。氏の論考は非常に科学的であり民俗学、世界史の知識も深いので是非、ご一読されることをお勧めします。3.茨城県高根古墳出土 蕨手刀(7世紀中前葉)
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表6

 原料鉄鉱は銅含量ガ0.1%を越えているの含銅磁鉄鉱とされている(表6)。4.中世(鎌倉~室町末)鉄刀類(14~16世紀)
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表7 
上の表7のNo.1~4の原料鉄鉱は、銅含量が高く含銅磁鉄鉱である。N0.5は、銅、その他の不純物含量の低い鉄鉱石(又は砂鉄)、No.6~7は、銅含量こそ低いがややりん含量が高い。
 このように古代から中世にかけて、鉄製武器に利用された原料鉄鉱は多様であったことが推測される。また、当然のことながら鉄器の用途によって原料鉄鉱を使い分けていた可能性もある。その中でも、とりわけ、含銅磁鉄鉱が頻繁に利用されていることをどうとらえるか。本当に、明治時代の日本の製鉄冶金の泰斗、俵国一博士のいうとおり、山東省から揚子江沿岸にかけての江南地方の含銅磁鉄鉱を精錬していたのだろうか?
●キースラーガー鉱山(別子鉱山)の銅精錬工程:住友別子鉱山鉱業案内(明治32年)より

参照Webサイト:① http://www.ne.jp/asahi/lapis/mine/column/besshi/kogyo4.html
         ② http://www.geocities.jp/e_kamasai/shiryou.html
製錬事業
製錬事業は鉱山と新居浜の二箇所で行っている。
鉱石の最初の焙焼は鉱山のみで行い、新居浜では角石原選鉱所で選鉱・焙焼したものを運搬して製錬している。鉱山で製錬するものは東延で選鉱し、鉱山所在の焼鉱窯で焙焼し、荒銅まで精錬してから、これもまた新居浜へ運搬する。
■別子鉱山での製錬の方法
 鉱山での製錬法には乾式・湿式の二種がある。大略は、次の通り。
◆乾式製錬法
 この方法は、鉱石焙焼 、焼鉱溶解、銅鈹熔解の三段階に区分することが出来る。
1.鉱石焙焼
 選鉱した鉱石を焙焼するための火炉はごく簡単な石壁の炉で、長さ7.2~12m、内幅13.5m、深さ13.5m。内側に粘土を塗り、前面1.5~2mごとに30センチ四方の空気孔を空ける。炉底に薪木(鉱石100に対し3、40くらいの重量比)を敷いて、その上に鉱石を充満させる。点火は風孔から行い、火が鉱石に移るときは風孔を閉じる。こうして5、60日~7、80日を経過すれば、硫黄は過半遊離し、鉄は酸化し、硫化銅は塊の中央に仁核※のように集まって紫色を呈する。焼鉱の含銅量は平均6%である。
※補足: 富心焙焼(ふしんばいしょう)、別称:仁核焙焼、集中焙焼、カーネル焙焼
 含銅硫化鉄鉱の焙焼で、鉱粒の中心部に銅硫化物が濃縮し、外周部には鉄酸化物が生じる現象を利用した焙焼方法。この方法は硫黄分の多い低品位の鉱石が対象で、比較的低温で長期間にわたって焙焼する。焙焼後、外殻層と内核層を分離しての富心部を選鉱し鉱石品位を上げる。 (②の参照Webサイトより)

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2.焼鉱熔解
 この段階の目的は、先に得た焼鉱を熔解し、酸化鉄を分離し、硫化銅つまり銅鈹(マット)を得ることである。円形直立水套炉を用い、最初木炭を焚いて炉を乾燥させ、その後コークスを投入して緩慢に送風する。やや赤熱となったら、焼鉱375Kg、雲母250Kg、スラグ(銅鈹熔解で得た滓)75Kg、コークス約7Kgの割合で装入して熔解させる。このとき酸化鉄はスラグとなり、銅はすべて硫化銅、つまり銅鈹となる。スラグは銅鈹より軽いので浮流する。銅鈹が前炉に充溢するときは熔解を止め、鋭利な鉄棹で前炉を穿ち、砂土の窪みに流導する。こうして冷却した後、細塊となす。一昼夜の熔解量は3000トンになる。銅の含有量は40%に上がっている。
3.銅鈹熔解
 この段階では、銅鈹を分解して硫黄とする。硫黄を亜硫酸ガスとなって飛散する。銅はほとんど純銅に近いものが得られる。これを荒銅という。銅鈹熔解に使う炉は、鉱山開闢以来今日まで連続して使用されているもので、径3.6m、深さ5.4mの壺形炉中に装入して噴気を導き、コークスがやや燃え加減になったときに、銅鈹500Kgを装入して噴気を強くすると、すぐに鈹が熔解する。更にコークスと銅鈹とを交互に装入し、炉中がいっぱいになったら止める。このときの装入量は1200Kg前後である。こうして鈹は1~2時間かけてすべて熔解し、炉の表面に浮遊する鉱物と他の酸化不純物を除いて、炉の前半を粘土で覆う。木炭を投入するための孔を一箇所残す。木炭は還元作用が必要なときに装入してゆく。13~14時間を経過すると反応がすべて完了するので、不純物を取り、銅の表面に温水を注意深く注いで凝結するのを待つ。固まったら鉄具で剥ぎ取り、更に新しい表面に温水を注いで固め、また剥ぎ取る。こうして6,7層剥ぎ取ることが出来る。この荒銅はほとんど純粋で、銅を96%含む。
以上、参照Webサイト①より。
 これを読んだ時、背筋がぞっとして身ぶるいしました。上述の別子銅山の荒銅工程の1.鉱石焙焼という工程(富心焙焼、別称:仁核焙焼、集中焙焼、カーネル焙焼)によって、含銅硫化鉄鉱石から比較的容易に酸化鉄を焙焼外殻として得る事ができるのです。そして、この工程の化学反応は発熱反応であるので、粘土の炉の底に薪木を敷いて、その上に鉱石を積んで火をつけて待てばよいだけです。このようにキースラーガー鉱石を用いれば、鉄器原料と精銅用原料の両者が得られることです。
 
もうひとつ、久留米の高良山周辺地図を見ていて、面白いなと思うことがありました。高良山の高良川の下流には、現在、陸上自衛隊前河原(まえがわら)駐屯地となっています☆。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.5491417&latitude=33.29529722
そこからから高良川を高良内町側へと山手の方にさかのぼってゆくと、北は高良山、耳納山、南は明星山に挟まれた幾筋かの谷の支流が高良川へと合流している様が良くわかります。そして、ちょうど地図の明星山の真北の高良川に水車谷という地名がみられます。ここで、水車の動力で焙焼した含銅硫化鉄鉱石を叩き割って、製鉄材料となる焙焼外殻〔図17)と銅鉱石となる仁核部(焼鉱)(図17)を分離していた。或いは、焼鉱熔解時の送風動力にしていたこと、にちなむ地名かもしれません。これはあくまで推測の話です。
 日本では古代の製鉄を日本刀作りのタタラ製鉄及び砂鉄という概念にとらわれすぎて、日本に豊富に存在する銅鉱床或いは含銅硫化鉄鉱床の上部に生成される褐鉄鉱や含銅硫化鉄鉱石の焙焼外殻を古代製鉄の材料に用いたとすることが見落とされていたのではないかと思うのです。それは、明治時代になって、近代製鉄を行う際、極めて不純物の少ない優秀な鉄鋼〔スチール)を作るため、その原料についても不純物の少ない鉄鉱石の確保に的が絞られており、わざわざ銅含量の高い原料を使うことを一顧だにしなかったことが、明治時代の日本の製鉄冶金の泰斗、俵国一博士をして含銅磁鉄鉱は、日本には存在しいかのごとき推測を語らしめたのだと思えます。なんといっても、日本には砂鉄をはじめとする純度の比較的良好な鉄資源があったからこその発想かもしれません。ところが、第二次世界大戦によって日本は鉄資源の欠乏の危機に直面した時、さまざまな国内鉱物資源の再探索を行った。それは、古代、大陸或いは半島の騒乱に追われ、追われて、日本列島にたどり着いた人々が生き残るために必死で鉱物資源を探索したのと同じであったのかもしれません。
 もし、古代日本人が日本の銅山起因性の鉄資源を利用したのだとすれば、古墳時代の出土鉄の銅含量が高いことも容易に説明できると思います。そして、何より、これらの銅鉱床あるはキースラーガー鉱床のある鉱山地名には福岡県では香春、高良、熊本県では高良、津森、蘇陽、宮崎県では速日、石上というように、古い由緒ある神社や記紀にでてくる神社名、地名にも重なるようにも思えることです(表3、表4)。要するに古代日本にやって来た人々が重要視し、神聖視した場所だったのではないでしょうか?

 
●シンポジウム「中国西南地域の鉄から古代東アジアの歴史を探る 鉄の起源を求めて」愛媛大学 村上恭通教授ら(2007 年 10 月 27 日 愛媛大学)http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron02.pdf より(以下、『』内に引用部分を示します)。『中国・朝鮮半島では、5世紀後半 日本で始まる「たたら製鉄」のような小形炉による「塊錬鉄」製鉄法の痕跡を示す製鉄遺跡は見つかっておらず、この間で、日本に伝わった製鉄技術「たたら・塊錬鉄製鉄法」のルーツはぷっつりと切れ、ベールに包まれている。「たたら製鉄」は日本で生まれた独自の製鉄法といわれる所以である。
 朝鮮半島では 三国時代の4世紀初頭の鍛冶工房遺跡 慶州隍城洞遺跡(鍛冶工房)で塊錬鉄と小形銑鉄塊が出土、塊錬鉄・銑鉄の2種類の鉄塊が共存。また、鋳造・精錬・鍛冶が行われていた。又、忠清北道石帳里遺跡では、形態・構造・規模の異なる製鉄炉 2 種の製鉄法が試みられていた痕跡と見られるなど、この時代 朝鮮半島で 2 つの製鉄法が揺れ動いていたと推察される。しかし、製鉄炉の構造は大型羽口による大方竪型炉が主流で日本の箱型のたたら炉の系譜を見ることはできない。
 日本に紀元前 2 世紀頃に伝わった鉄器 中国・朝鮮半島と交流しながら、当初は 豪族たちの威信材であったが、農工具・武器として広く使われ、日本がひとつに統一されてゆく原動力となる。しかし、そんな時代が来ても、どうしても日本では作れず、朝鮮半島から移入し続けた鉄。そして、5世紀の後半800年も経過して、日本で鉄の生産が始まる。中国大陸や朝鮮半島で消えてしまった「塊錬鉄」の製鉄法が日本で蘇った。そんな大陸で消えてしまった塊錬鉄の系譜が中国南西部に残っている。
 中国に鉄が伝来するごく初期の鉄はこの塊錬鉄。それが、黄河流域・中原に興った大国が青銅器製造の技術を基に溶融銑鉄法を編み出して、大量生産を可能にし、この鉄技術を国家統制して展開し、初期の塊錬鉄の技術はこの中に埋没してしまう。
 このごく初期の時代の塊錬鉄の技術が周辺の地に伝播し、それが細々と息を潜めて 生き延びたのであろう。巨大な国家支配による人・物の統制は厳しく、中原を中心とした広大な支配を考えると旧の技術は人・物ともに寸断され、中央部ではもはや残れなかったのであろう。そんな構図が見えてくる。
 四川に残るこの塊錬鉄の技術が、朝鮮半島も含め、中国の中でどのように伝播したのか その系譜をもとに、東アジアの交流を眺めることで、「たたら製鉄の謎」が解けるかもしれない。』    
 以上、長々とシンポジウム記録より引用させて頂いた。本当に5世紀の後半まで日本国内で製鉄がなされなかったかどうかは別として、日本のタタラ製鉄に繋がる塊錬鉄の技術が四川省に残っているということに、これまた、読んでいてぶったまげた。
 百嶋由一郎先生の日本人はどこからやってきたかによると、日本列島には大きく分けて、①朝鮮半島経由、②上海(かつての呉の国)から直接日本へ渡航、③中国西南部の四川省から雲南省より海南島、および琉球列島経由でやって来た人々の3種類があるという(図18)。このうち、③のグループのご先祖は、約4700年前、中国の中原でいわゆる漢民族の祖先となる人々に敗れ、中国中を2700年間戦っては、負け、戦っては負け(たまに勝つこともあったが)、あっちに逃げ、こっちに逃げと最終的には四川省・雲南省へ逃れ、そして約2000年前に海南島まで逃れ、そこから船出して、そして、日本にやってきたという。百嶋由一郎先生のフィールドワークによる古代史研究が日本の古代製鉄のルーツの解明により、実証される可能性も見えてきた。


peopling to Japan
図18

以上。終わり。
改定0版  2013年11月8日
改定1版 2013年11月17日

参考サイト
日本列島の地質と構造
https://www.gsj.jp/geology/geomap/geology-japan/  
『わが国の層状含銅硫化鉱床(キースラーガー)について』竹田1962年
https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1962-06.html 
https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1962-09.html 
https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1962-11.html 
『九州におけるキースラーガーについて』 稲井1963年
https://www.gsj.jp/publications/pub/bull-gsj/geppou14-03.html  
『日本の鉄鋼資源(第2部)わが国の鉄鉱資源と開発状況』大町1962年
https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1962-08.html
『久留米地名研究会:百嶋由一郎講演集2011~2012年:もうひとつの神々の系譜』牛島テキスト化実施中(2013年開始)
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/momoshimaworld.html