2014年7月29日火曜日

羅生門の鬼 // 現代的酒呑魑魅魍魎 羅生門=首相官邸


羅生門の

http://www2.tokai.or.jp/yayoi/e_night/e_night_ra/e_night_ra.htm


朝の来ない夜に抱かれて-第一章で展開される『羅生門の鬼』に関する情報をまとめてみました。
私の情報収集が浅く、間違った事を書いてあったらゴメンナサイ。
ホント、伝承が残る地へ実際に行って調べてきたいものです。


おはなし


時は平安、京の都の朱雀大路の南の端の羅生門に人々を苦しめる悪鬼が現れました。
この噂を聞いた天皇はただちに源頼光に鬼退治を命じ、
勅命を受けた頼光は、四天王と呼ばれている勇将の一人『渡辺綱』を羅生門に向かわせます。

勇猛豪胆で知られる渡辺綱は悪鬼に戦いを挑み、見事その右腕を切り落としました。
悪鬼は切り落とされた腕をその場に置いたまま逃げてしまいました。

後日、伯母が渡辺綱の元に現れます。
伯母は「鬼の右腕を見せて欲しい」と執拗にせがんできました。
実はこの伯母、自分の右腕を取り返すために悪鬼が化けたものだったのです。
最初こそ断っていたものの、その熱意に折れて渡辺綱は伯母に鬼の右腕を見せてしまいます。
これ絶好の機とばかりに叔母は鬼に姿を変え、右腕を奪って逃げてしまいました。


悪鬼の正体


羅生門の鬼に出てくる悪鬼は、茨木童子と呼ばれています。

ただ、茨木童子に関しては『羅生門の鬼』とされる話と『一条堀川の橋の鬼』とされる話があるようです。
どちらも渡辺綱と対峙する部分と最後に右腕を取り返すという部分は共通していますので、
話の展開的にはさほど変わりがありません。
なお、茨木童子と渡辺綱の話は「御伽草子」「平家物語」「源平盛衰記」など、沢山の書物に残されています。

ちなみに『一条堀川の橋の鬼』とされるバージョンはこんな感じです。

 ある夜、源頼光は渡辺綱を一条大宮の方へ使者に出した。
渡辺綱が役目を終え、一条堀川の橋にさしかかった時、
たもとに20歳くらいの雪のように白い肌をした美女が紅梅のうちかけをふわりと身にまとい、
艶やかな風情で佇んでいるのを見かけた。
夜中に共も連れずにいるのを不審に思い、声をかけると
「五条あたりまで参りたいのですが、送って頂けませんか?」と返事が帰ってきた。
渡辺綱は馬から降り、女を馬に乗せて五条に向かった。
五条につくと女は「私の住居まで送って頂けないでしょうか?」と言ってきた。
渡辺綱が了承すると、女はたちまち恐ろしい鬼に姿を変え、
「我が行く先は愛宕山ぞ!!」と言って渡辺綱の髻を掴み、愛宕山の方向へ飛んで行こうとした。
しかし、渡辺綱は慌てず頼光から借りてきていた寶剣「髭切」で鬼の手を切りつけた。
腕を切り落された鬼は愛宕山の方へ飛び去り、渡辺綱は北野神社の回廊の屋根に落下した。

渡辺綱は鬼の腕を持ちかえり、頼光に見せたところ、大変驚いて陰陽師の安倍清明に相談した。
安倍清明に「鬼の腕を唐櫃に納めて厳重に封印して、7日間仁王経を唱えるとよい」と教えられた。
そして言われた通りすること6日目、突然叔母が訪ねてきた。
「7日が終るまで人に会えないのでもう1日待って欲しい」と渡辺綱は丁重に断ったが、
叔母は聞き入れず、しまいには泣き出してしまう。
仕方なく家の中に入れてやると、今度は櫃の中を見せて欲しいと言い出した。
望み通り封を解くと叔母は鬼に姿を変え、櫃の中にあった腕をつかんでいずこかへと飛び去って行った。
※太刀を鬼切丸とする諸説もあり
なお、茨木童子に関してはその後も話が続いております。
大江山の鬼の一味として京の都を荒らしまわりましたが、
源頼光の大江山の鬼退治のさい頼光に首を切り落とされ絶命したとされています。


渡辺綱と言う人物


嵯峨源氏出の平安中期の武人。
源頼光の四天王の一人で、数々の伝説を残した剛毅の勇将です。
洛北の市原野で鬼同丸を、大江山で酒呑童子を殺し、また羅生門の鬼を退治したと言われています。
(953~1025)

なお、源頼光の四天王は渡辺綱の他、占部季武、碓井貞光、坂田金時の四名。
御存知の方は多いと思いますが、坂田金時はあの有名な金太郎の御方です。


茨木童子の生い立ち


茨木童子にも立派な(?)生い立ちがあります。

茨木童子は摂津国の水尾村の農家で妊娠期間16ヶ月の難産の末に産まれました。
しかし、産まれた時から既に歯が生え揃い、ヨチヨチと歩き出し、
更には母親を見て不気味に笑い、それを見た母親はショック死してしまいました。
童子は親戚にも気味悪がられ、茨木村の九頭神の森の近くにある床屋の前に捨てられ、
その床屋に拾われて育てられました。
(茨木村で拾われたことが所以で茨木童子と呼ばれる)
床屋の仕事を手伝うようになって数年後のある日、剃刀で客の頭を誤って傷つけてしまいました。
流れた血を何気なく舐めてみると、それが思いのほか美味でした。
なんとその後はわざと客の頭を傷つけて血を舐めるようになってしまいました。
そんなある日、顔を洗おうと覗き込んだ小川に鬼の相になっている自分の顔が映りました。
驚いた童子はそのまま丹波の山奥に入り、大江山に住む酒呑童子の家来になったと伝えられています。

なかなかダークな生い立ちで、これが自分だったらと思うとゾッとしますね。
単なる服好きの普通の人間に生まれて良かったですわ。


酒呑童子


上で酒呑童子が出ましたので、ついでにこの御方の紹介も。
「御伽草子」「大江山絵詞」「酒呑童子絵巻」などに話が残されています。

酒呑童子の物語はこんな感じです。

 都で若君や姫君が失踪する事件が相次いだことを受け、朝廷は陰陽師の安倍晴明に占わせました。
占いの結果、この事件が大江山に棲む鬼王の仕業である事が判明。
朝廷は源頼光とその四天王及び藤原保昌に討伐を命じました。
源頼光と藤原保昌は、石清水八幡宮・日吉大社・住吉大社・熊野大社に鬼退治の成就を祈願します。
意気揚々と大江山に向かう一向でしたが、なかなか鬼の棲家が見つかりません。
仕方なく、山中に住む三人の老人達に道案内を頼みました。
その老人達は道案内ばかりか、山伏姿に変装することを助言し、
更には、鬼が呑めばその神通力が失われ眠くなる効果をもたらし、
源頼光たちが呑めば力がみなぎるという、便利な「神便鬼独酒」という酒をくれました。
(実はこの老人たち、出発前に詣でた石清水八幡宮・住吉大社・熊野大社の神でした)

大江山に着いて酒呑童子に会うと、
「一夜の宿を御借り願いたい」
と言って、神便鬼独酒を差し出しました。
鬼達は喜んで呑み、やがて横たわって寝てしまいます。
それを見計って、源頼光は酒呑童子の後ろに廻って刀を抜きました。
その気配に気がついた童子は、起き上がろうとしたが手足を鎖に縛られていて動けません。
鬼を縛ったのは先程道案内をした神々です。
動けない童子に対し、6人がかりで斬りつけ首をはねました。
はねられた首は一旦天高く舞い上がると、頼光をめがけて襲いかかってきましたが、
頼光は神の化身から授かった兜を被っており、童子の首は頼光に近づくことすらできませんでした。

酒呑童子の首を討つと茨木童子を始めとする鬼達が襲いかかってきます。
しかし、ことごとく返り討ち。
そして囚われの人々を救い出して都に戻ることにしました。
その途中、老ノ坂で一休みしていると道端の地蔵が
「鬼の首という不浄の物を、都に持ち帰っても良いものか・・・」とつぶやきました。
するとどうでしょう、首は岩のように重くなりまったく動かせなくなってしまったのです。
仕方なくそこに首塚を作り、首をその場に埋めてしまいました。

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芥川龍之介   小説 「羅生門」 朗読 近藤サト  



2013/07/13 に公開
名作を旅してみれば   芥川龍之介


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渡辺 綱

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1

渡辺 綱(わたなべ の つな[1])は、平安時代中期の武将源宛の子。嵯峨源氏源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。

武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏源満仲の娘婿である仁明源氏源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべ の つな)、あるいは渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次綱(げんじ つな)と称し[2]渡辺氏の祖となる。
摂津源氏源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。大江山酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上での腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。
その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。
先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。また、大阪市北区梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天神社(『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家は渡辺綱の子孫である。

最終更新 2014年5月1日

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大江山



2013/10/12 に公開

丹波国大江山の鬼退治の勅命を受けた源頼光の一行は、山伏に扮して酒呑童子の隠れ家に­一夜の宿を求める。「私が酒呑童子と呼ばれるのは酒が好きなためで、酒ほど好いものは­ない」と言っては上機嫌で一行に酒を勧め、重代の住家としていた比叡山を追われて、国­々山々を転々とめぐり、この地に隠れ住むようになった次第を語る。やがてこの隠れ家を­他言してくださるなと固く約束し、酒に酔い伏しそのまま寝床へ行ってしまった。
頃を見計らい、頼光がその閨の中をうかがうと、酒呑童子は恐ろしい鬼神の正体を露呈し­ながら眠っていた。頼光は独武者とともに鬼神に斬りかかり、ついには首を打ち落とし、­都へ帰るのである。

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源頼光

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89

以下抜粋

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏近江源俊女。はしばしば「らいこう」と有職読みされる。
満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏源頼信がいる。

生誕地は不明だが本拠地の多田であるか、父の満仲が天延元年(973年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。若年の経歴は不明。同時代の中級貴族と同じく20歳前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て財力を蓄えていたと考えられている。
寛和2年(986年)頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に春宮権大進に任じられる。正暦3年(992年)には備前に任官しているが、都に留まっており遙任であったと思われる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には関白藤原兼家が新邸を造営した宴において30頭を送っている。
正暦元年(990年)、関白兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられる。長保3年(1001年)には美濃守を兼任、このときは遙任であったことを示す記録も無く任国へ赴いていたと思われる。同時期には大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており親交があったと思われる。また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残している。
但馬伊予摂津970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築く。
寛仁元年(1018年)3月、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。
また、歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首の和歌が入集している。
没年は68、あるいは74。

父の満仲は摂津国多田に源氏武士団を形成し頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にある。
一方で後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。説話では、母の一族の嵯峨源氏渡辺綱を筆頭にした頼光四天王(渡辺綱坂田公時碓井貞光卜部季武)や藤原保昌などの強者の家臣がいたと言われ頼光が実際に郎党を従えていたことを反映しているとも考えられている。また、古典『平家物語』では精兵の1人として頼光の名が挙げられているなど頼光に武勇的人物像を求める傾向もある。

最終更新 2014年5月15日

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源義家

以下抜粋

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将伊予源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝室町幕府足利尊氏などの祖先に当たること等から後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。
比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。
その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。

生涯

出生と没年
生没とも諸説あってはっきりしないが、68歳で死去とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』1106年(嘉承1)7月15日条から逆算し、1039年(長暦3)の生まれとする説が有力である。
源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。幼名は不動丸、または源太丸。七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。

九年の役から下野守まで
鎮守府将軍陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定する。
しかし、『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原家衡乳母の千任に、「なんぢが父頼義、貞任宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり。」といわれて激怒したことが載っているが、「名簿」(みょうぶ)を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。1063年(康平6)2月25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。
しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌年朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。ただしそれが承認されたかどうかは不明である。この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。
1070年(延久2)義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶桑略記』8月1日条に見える。当時の陸奥守は大和源氏源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服(延久蝦夷合戦)自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。

白河帝の爪牙
1079年(承暦3)8月に美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗清和源氏満政流4代)を官命により追討。
1081年(永保1)9月14日に検非違使とともに園城寺悪僧を追補(『扶桑略記』)。その年の10月14日には白河天皇石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。
同年12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。のちの「北面武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。

後三年の役
1083年(永保3)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。朝廷では1087年(寛治1)7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定した事実も有る事から、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。
後三年の役において動員した兵は、石井進の国衙軍制の概念[1]にそって分類すれば、国守軍の「館の者共」、つまり受領国守の私的郎党として動員した近畿から美濃国、そして相模国の武者(大半は側近、または京でのコネクションを思わせる辺境軍事貴族)と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国吉彦秀武の軍からなると思われる。
最終局面での主要な作戦が吉彦秀武から出ていること、及び前九年の役の例を勘案すれば、最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。
1087(寛治1)11月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡清原家衡を破り、12月、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年1088年(寛治2)正月には陸奥守を罷免される。
何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととの」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る(『中右記』1096年(永長1)12月15日条、1097年(永長2) 2月25日条)。当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。

後三年の役の恩賞
なお、後三年の役で勝利したにもかかわらず恩賞が与えられなかった点に関しては、本来朝廷の命令(官符)無しに合戦を起こすことは当時でも違法行為であり、合戦の途中においても「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりしている。従って追討の事後承認を求めたのに対して、これを拒否したのは不思議ではない。
更に当時は「財貨」であるより以前に、朝廷の諸行事の装飾の貴重にして重要な材料であり、ほとんど陸奥からしか手に入らなかった砂金の「不貢金」を起こしている。これは租税未収以上の、朝廷の諸行事に支障をきたす大問題であり、そのために朝廷の公卿議定で議題にあがっている。
受領の勤務評定である受領功過定を10年も通らなかったのは当時の制度にそった処置であり、義家だけがそうであった訳ではない。白河院が院近臣であった国守を、受領功過定を経ずに同じ国でそのまま重任(他国に転ずるより利益は大きい)させようとしたのを藤原師通が猛反対して諦めさせたことまである。
その官物未進の決着に10年がかかるが、それがやっと完済できたのかどうかは記録が無いが、その合格は内大臣藤原宗忠の日記である中右記承徳2年正月23日条には「件事依有院御気色也」、つまり白河法皇の意向であったことが記されている。


最終更新 2014年4月11日

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現代的酒呑魑魅魍魎 羅生門=首相官邸
人々を苦しめる悪鬼の館



 



 
羅生門の鬼 安倍晋三


羅生門の鬼 安倍晋三
 
 
 
 
 
 
 
 
現代的酒呑魑魅魍魎 羅生門=首相官邸
人々を苦しめる悪鬼の館



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Rashomon / 羅生門 (1950)



2014/01/02 に公開
Rashomon / 羅生門 (1950)
http://www.imdb.com/title/tt0042876/
http://www.amazon.com/gp/product/B004...

Directed by Akira Kurosawa


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Rashomon - Completo - Legendado em português



2012/10/23 に公開
Rashomon (羅生門 Rashōmon?) é um filme japonês de 1950 escrito e dirigido por Akira Kurosawa, trabalhando em estrita colaboração com o diretor de fotografia Kazuo Miyagawa.
O filme estrela Toshirō Mifune, Machiko Kyō e Masayuki Mori. O filme é baseado em dois contos de Ryūnosuke Akutagawa ("Rashomon fornece a ambientação, enquanto Yabu no Naka determina os personagens e a trama). Pode-se dizer que Rashomon introduziu Kurosawa e o Cinema do Japão às platéias do Ocidente, sendo este filme considerado uma de suas obras primas.
O filme tem uma estrutura de narrativa não-convencional que sugere a impossibilidade de obter a verdade sobre um evento quando há conflitos de pontos de vista. Tanto no inglês como em outras línguas, "Rashomon" se tornou um provérbio para qualquer situação na qual a veracidade de um evento é difícil de ser verificada devido a julgamentos conflitantes de diferentes testemunhas. Na psicologia, o filme emprestou seu nome ao chamado "Efeito Rashomon".



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