2013年12月5日木曜日

Chechnya: Republic of Contrasts (RT Documentary)

Chechnya: Republic of Contrasts (RT Documentary)



公開日: 2013/04/19
Russia's Republic of Chechnya has undergone a revival after two military operations in its recent post-Soviet history. Today, the region is home one of the largest mosques in Europe, hosts international celebrities and even is trying its hand at high fashion. RT explores this republic of contrasts to look at how the Chechen people have struck a balance between tradition and modernity.

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チェチェンの歴史

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

現在のチェチェン共和国の主要な住民はチェチェン人で、隣接するイングーシ共和国イングーシ人と非常に近しい関係にある。チェチェン人、イングーシ人は古来北カフカスの山地に住み、両民族の言語(チェチェン語イングーシ語)は、グルジア語などと同じコーカサス諸語のうちのナフ諸語英語版に属する兄弟言語である。そもそもチェチェン、イングーシの民族名は、それぞれの居住地域にあった村の名前から起こった他称なので、もともと両民族は同一であったとみなす人も多い[誰?]
 
古代チェチェン
イスラム化以前のチェチェン人は、自ら歴史記録を残すことはなかったが、地誌の記載や考古学上の遺跡から、古くから北東カフカスに住んでいたことが明らかになっている。チェチェン人とイングーシ人の先祖と思われる民族は、7世紀の地誌に記録されているという。

モンゴル帝国とイスラムによる征服

 
16世紀末頃から東のダゲスタンよりイスラム教イスラーム)が流入し、次第に広まっていった。

ロシア帝国による征服
 
一方、同じ頃にモスクワ大公国を中心に政治的統一を進め、国家形成を行っていたロシアは、17世紀末までに全シベリアを併合し、18世紀には南下を開始、バルト海沿岸、黒海沿岸、カザフ草原マンチュリア(満州)東北部の沿海州)などを次々に併合した。
同世紀には、クリミア・ハン国とその宗主国であるオスマン帝国の勢力下にあった北西カフカスへの侵攻を開始し、チェルケス人トルコ語版の一派であるカバルダ人英語版を勢力下に取り込み始めた。同世紀末にはカフカス支配の拠点として北カフカス中央部のテレク川の河畔にウラジカフカス(現北オセチア共和国)を建設、テレク川以東に住むイングーシ人、チェチェン人の征服を進めた。

反ロシア戦争
ロシアは、1801年にはイランカージャール朝を破って東グルジア(カルトリ・カヘティア)を併合し、南カフカスまで勢力を広げた。こうして1828年までにオスマン帝国領のアジャリア(グルジア南西部)を除くカフカスのほとんど全域がロシアの支配下に入るが、その中で北カフカスにあってロシアの支配に対して激しく抵抗したのが、チェチェン人をはじめとする、ダゲスタンとチェチニア: чечня: Chechnya、現在のダゲスタン共和国西部からチェチェン共和国にかけての一帯)の人々であった。

チェチェン人は19世紀前半までにイスラム教のスンナ派が支配的な宗教となり、イスラム神秘主義ナクシュバンディー教団の導師たちが社会の指導的な地位につくようになっていた。チェチェニアやダゲスタンの人々は、このようなイスラム神秘主義教団の組織力と結束に支えられて、ロシアに対する抵抗を頑強に続けたのである。この運動のことをミュリディズムという。

1785年には、チェチェン人の導師シャイフ・マンスール英語版が行ったロシアに対する組織的抵抗がミュリディズムの先駆となった。ロシアは、1818年にはチェチニアの真っ只中にグロズナヤ要塞(現在のグロズヌイ)を建設し、チェチニヤ支配を進めようとしたが、1830年には東部コーカサス地方のダゲスタンとチェチニヤにイマーム国英語版と呼ばれる政権を建設し、25年にわたって自立を維持し、抵抗した(コーカサス戦争)。 1834年には内部分裂してイマーム(宗教指導者)が暗殺され、親イマームにシャミールが就任したが、クリミア戦争後の1859年に降伏、チェチニヤとダゲスタンは最終的にロシア帝国に併合された。

ロシア帝国支配期のチェチェン
南カフカスのティフリス(現在のトビリシ)にカフカス総督府英語版をおいてカフカスへの支配を強めたロシアは、カフカスの諸民族が再び結集してロシアに抵抗することを恐れ、チェチェン人と、イングーシ人やチェルケス人などのほかのムスリム(イスラム教徒)主体の民族を分割して統治する政策を行った。

1850年代には石油が発見された。

1860年、ロシア帝国は、テレク州ウラジカフカス)を中心に帝国の支配機構を導入し、チェチェン管区、イケチェリア管区、イングーシ管区、山岳地域管区(シャミールのイマーム国家の故地、タゲスタンのこと)を置いた。

一方、併合後もチェチェン人はナクシュバンディー教団を中心に結集し、ロシアへの抵抗を繰り返した。一部のチェチェン人はロシアの支配を逃れてオスマン帝国に移住し、その子孫はトルコヨルダンに離散共同体を形成している。しかし、チェチェン人の抵抗にもかかわらずロシアのカフカス支配強化は進み、1890年代にはグロズヌイまでウラジカフカス鉄道ロシア語版: Владикавказская железная дорога: Vladikavkaz Railway)が敷設されて、グロズヌイを中心にチェチニヤでは石油産業が発達した。

ソビエト連邦時代
1917年ロシア革命が起こり、内戦に勝利したボリシェヴィキ(ロシア共産党)ソビエト連邦を建設すると1921年山岳自治ソビエト社会主義共和国が出来たが、ソ連は指導者ウラジーミル・レーニンの民族自治の方針に従って、1922年11月30日にはチェチェン自治州英語版が、1924年7月7日にはイングーシ自治州英語版が分離された。 1934年にチェチェン自治州とイングーシ自治州が合併してチェチェン・イングーシ自治州となり、1936年チェチェン・イングーシ自治共和国に昇格した。

その後、政権を握ったヨシフ・スターリンは、民族共和国による連邦制を前提とするレーニン主義にかわって、民族自治共和国を中央政府の集権的コントロール下におこうとするスターリン主義をとったので、民族自治の実態はほとんどみられなかった。

スターリン、ミコヤン、オルジョニキーゼを始め多くの共産党幹部がカフカス人であるにも関わらず、チェチェン人はロシアへの併合以来抵抗を繰り返してきた歴史から、スターリン体制にとって危険視される向きもあった。1937年にはチェチェン・イングーシ自治共和国でも大規模な粛清が行われ、多くの殺戮が行われた。

1940年en:1940–1944 insurgency in Chechnya第二次世界大戦中の1942年にはソ連へと侵攻してきたナチス・ドイツ軍の一部が北西カフカスに達するが、スターリン政権はチェチェン人を含む反ロシア的な民族がドイツ軍と結んで反抗することを恐れた(en:Operation Lentil (Caucasus))。ドイツ軍撃退後の1944年2月、スターリンはチェチェン人とイングーシ人に対独協力の疑いをかけ、そのほとんどはドイツ軍とは無関係であったにもかかわらず、全チェチェン人とイングーシ人50万人を中央アジアやシベリアに追放した。多くのチェチェン人とイングーシ人が追放中の劣悪な環境のために命を落としたといわれ、一説には全体の4分の3が犠牲になったといわれる。

1946年、チェチェン・イングーシ自治共和国は廃止され、ウラジカフカスを含む領土の大半は北オセチア自治共和国に割譲される。 1953年にスターリンが死去すると、ニキータ・フルシチョフが政権を獲得し、1956年にはスターリン批判を開始した。スターリンの行ったチェチェン人とイングーシ人の民族追放も批判の対象となり、1957年、両民族は対独協力の疑いを破棄されて名誉を回復され、チェチニヤへの帰還と、チェチェン・イングーシ自治共和国の再建を認められた。

しかし、ウラジカフカスを含む西部は北オセチアから返還されなかった。また、石油産業の利益が地元に還元されず、中央政府に吸い上げられていたのも不満のもとであった。さらに、10年以上に及ぶ追放の最中にチェチニヤにはオセット人ロシア人が大挙して入植していたため、土地を巡る深刻な対立と紛争が起こるなど、問題の根本的な解決ははたされなかった。

ソビエト連邦解体とチェチェン独立の動き
1985年にソビエト共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦の政治体制の改革「ペレストロイカ」に着手した。ゴルバチョフは、従来のソビエト連邦を一旦解体し、「ソビエト主権共和国連邦」(: Союз Советских Суверенных Республик)として再生させようと法整備を進め、また新連邦に加入しない共和国に向けて「ソビエト連邦離脱法」(1990年4月30日)を法制化した。

ロシアを始めチェチェンを含む15構成共和国は1990年2月5日に採択された「ソ連共産党政治綱領」に基づき相次いで主権独立宣言を行った。チェチェンでは11月23日に全チェチェン協議会がグロズヌイで開催され、チェチェン人全民族の代議員が出席した。11月27日には「ソビエト連邦からの独立及びチェチェン人の主権宣言」が全会一致で批准。翌年6月、ジョハル・ドゥダエフ将軍らの全チェチェン協議会はクーデターにより共産党政権を打倒し政権を奪取。以来、チェチェンは事実上の独立状態となる。

1991年8月20日にゴルバチョフは主権ソビエト連邦条約を調印する予定であったが、その前日ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領ら保守派による反改革クーデターにより拘束される。クーデターはロシア共和国大統領のボリス・エリツィンによって失敗し、ゴルバチョフは解放されたもののその求心力を失い8月24日にソ連共産党書記長を辞任、中央委員会に自主解散を求め、ソ連共産党の資産を凍結させた。

ソ連の消滅、ロシアの再生とチェチェンの選択
12月8日にエリツィン・ロシア大統領、レオニード・クラフチュクウクライナ大統領、スタニスラフ・シュシケビッチベラルーシ最高会議議長の3首脳がミンスクで会談し、緩やかな「独立国家共同体」(CIS)の創設を決議する。12月21日には11主権共和国代表からなる国家評議会がカザフスタン共和国の首都アルマトイで開催され、「独立国家共同体(CIS)」憲章と8カ国の加入を承認。またロシア共和国など4共和国による核兵器の統一管理に合意への8カ国の加入を決議した。

ゴルバチョフは12月25日にソ連大統領を辞任し、翌26日ソ連最高会議共和国会議がソ連邦消滅宣言を行う。12月31日深夜、69年間続いてきた「ソヴィエト社会主義共和国連邦」はその歴史を閉じた

1992年1月、グルジアのガムサフルディア政権が打倒される。ドゥダエフはガムサフルディアを難民として受け入れたがガムサフルディアは後日自殺した。

エリツィンは「ロシア連邦条約(新連邦条約)」によりロシア連邦の崩壊防止に当たった。ロシア・ソビエト最高会議議長ルスラン・ハズブラートフは「新連邦条約」への参加を各共和国に促し、「新連邦条約」に21共和国中19国が署名。3月13日に「ロシア連邦」として再生することとなる。一方、チェチェン・イングーシ自治共和国とタタールスタン共和国はロシア連邦に参加しなかった。

6月にロシア連邦大統領令により、チェチェン・イングーシ自治共和国が、チェチェン共和国とイングーシ共和国に分離し、独立する。10月にはイングーシ共和国と北オセチア共和国との間で武力紛争(オセチア・イングーシ紛争)が勃発した。1993年10月、ロシアで10月政変が起こり、エリツィンとハズブラートフが対立。12月、ロシア連邦憲法が国民投票で可決され、成立。1994年2月15日、タタールスタン共和国がロシア連邦に加盟し未加盟国はチェチェンのみとなる。

第一次チェチェン紛争

1994年12月、チェチェンの分離独立を阻止するためにロシア軍が軍事介入、第一次チェチェン紛争に突入する。エリツィンは「憲法秩序の回復」のためチェチェンへの侵攻を開始したと主張した。翌年にはロシア軍が首都のグロズヌイを制圧。ロシア軍が広域に渡って支配権を回復したことで、エリツィンは一方的に休戦を宣言し、軍の撤退を始めた。

1996年4月21日、ドゥダエフ大統領がロシア軍のミサイル攻撃で戦死する。5月に入ると後継のゼリムハン・ヤンダルビエフ大統領代行らがエリツィンと停戦交渉を行い、7月一杯までの短期停戦が実現する。8月にはチェチェン軍がグロズヌイを奪還、同月末に独立派のアスラン・マスハドフ参謀総長がロシア連邦のアレクサンドル・レベジ安全保障会議書記と停戦に合意する。(ハサヴユルト和平合意)その内容はチェチェンの独立を5年間凍結し、国家としての地位は2001年に再度検討するというものであった。

10月になるとロシア連邦ではイワン・ルイプキンが安全保障会議書記及びチェチェン共和国担当ロシア連邦大統領全権代表に就任する。1997年1月にロシア軍は完全撤兵。この紛争で一般市民は約10万人が死亡し、およそ22万人の難民が隣接する三共和国に流出することとなった。

1997年1月28日に大統領選挙が実施され、マスハドフが大統領に選出された。この選挙には日本のNGO、市民平和基金も選挙監視員を派遣している。5月12日モスクワで、マスハドフ大統領とエリツィン大統領の間で「平和と相互関係に関する条約」(: Договор о мире и принципах взаимоотношений между Российской Федерацией и Чеченской Республикой Ичкерия: on peace and the principles of Russian-Chechen relations)が締結される。この条約によって両国間の400年に及ぶ戦争の終結が宣言された。

後にアンドレイ・サハロフの未亡人エレーナ・ボンネルは「この戦争はエリツィン再選のために仕組まれたもの」とアメリカ上院議会で証言した。実際、1992年1月の「経済ショック療法」開始以来、急激なインフレが庶民を襲いエリツィン政権の屋台骨を揺るがしかねない内政問題になっていた。「国民の内政の不満を侵略戦争で逸らす」という古典的な帝国主義の政治理論にエリツィンは依存したのである[要出典]。「ハサヴユルト和平合意」の5年間凍結とは、「ソビエト連邦離脱法」(1990年4月30日)の3要件の中の「5年の移行期間」と同じ要件であった。しかしソ連邦の全ての条約を引き継いだとするロシア連邦は離脱法を遵守せず、民族問題におけるレーニン主義も引き継がなかった。

ダゲスタン介入

1999年2月にマスハドフ大統領はイスラム法を発効させる。8月7日にチェチェンの一部イスラム原理主義勢力が、隣接するダゲスタン共和国をロシアの支配から解放すると称して越境侵入、ロシア軍との間で戦闘が再開する。ロシア政府は8月13日にチェチェンなどのイスラム武装勢力の拠点に対する攻撃を警告する。

ロシア高層アパート連続爆破事件

8月15日にマスハドフ大統領はチェチェン国内に非常事態宣言を発した。9月4日にはダゲスタンで軍人家族用アパートが爆破される。64人が死亡し133人負傷した。 9日にはモスクワのアパートが爆破、94人が死亡し164人が負傷する。13日は9日のテロの犠牲者の「追悼の日」と定められたが、モスクワで再び119人の死亡者を出す爆弾事件が発生した。16日にも南ロシア・ヴォルゴドンスクで爆破事件が発生、17人が死亡し72人が負傷した。モスクワ当局はこれら一連の事件(計5件、死者約300人)はチェチェンのイスラム原理主義者が関わっていたと断定する。エリツィンは全国的な「対テロリズム作戦」開始を宣言し、9月14日から20日にかけて2万から3万人強のロシア軍がチェチェン国境に集結することとなった。

第二次チェチェン紛争

Chechnya03.png

1999年10月1日にロシア地上部隊がチェチェン侵攻を開始する。ウラジーミル・プーチンロシア連邦首相はマスハドフ政権の合法性を認めず、チェチェンの分離独立派排除を試みる。マスハドフは10月5日に全土に戒厳令を発布する。二ヶ月後の12月4日にはロシア軍がグロズヌイを完全包囲したと発表。同月末の25日には本格的な制圧作戦を開始する。 2000年2月にはチェチェンの武装勢力がグロズヌイからの撤退を表明。この時点でロシア軍側の戦死者は1,500名以上に及んでいた。4月にメアリー・ロビンソン国連人権高等弁務官がチェチェンを訪問する。彼女は後に国連人権委員会でチェチェンでの人権侵害はロシア軍によるものとして非難した。欧州評議会議員会議英語版では一時期ロシア代表の投票権が停止され、評議会からの追放も議題に上ることとなった。

後にエレーナ・ボンネルは「エリツィン大統領が自ら指名した後継者のプーチン現首相が世論調査で支持率を上げるために必要」として紛争を開始したとアメリカ上院議会で証言した。
 
現在
 
2002年
9月、イングーシ共和国でチェチェンの独立派武装勢力がロシア軍と衝突、94人死亡。
10月10日、「グロズヌイ警察庁舎爆弾事件」25人以上死亡。
10月23日、「モスクワ劇場占拠事件」チェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠。同月26日、特殊部隊が突入して犯人一味を射殺、人質を解放。その際に使用された特殊ガスの影響により人質が130人死亡。
 
2003年
6月5日、「北オセチア・モズドク、軍用バス自爆事件」16人死亡。
7月5日、「モスクワ・コンサート会場自爆事件」16人死亡。50人以上負傷。
8月3日、「北オセチア、モズドク、軍病院自爆事件」42人死亡。
10月、親露派のアフマド・カディロフが大統領選で初当選。
 
2004年
2月6日、「モスクワ地下鉄爆破事件」240人以上死亡。
5月9日、「チェチェン大統領爆殺事件」カディロフ大統領を含む40人以上が死亡。
8月24日、「ロシア旅客機同時墜落事件」90人死亡。
9月1日、「北オセチア、ベスラン学校人質事件」354人以上死亡。
 
2005年
3月8日、アスラン・マスハドフがロシア連邦保安庁特殊部隊により殺害。
 
関連項目
 
最終更新 2013年3月15日
 
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E9%80%A3%E9%82%A6%E7%AE%A1%E5%8C%BA

北カフカース連邦管区
 
北カフカース連邦管区(きたカフカースれんぽうかんく、北カフカス連邦管区ロシア語: Северо-Кавказский федеральный округ, Severo-Kavkazsky federal'nyj okrug)は、ロシア連邦の地域管轄区分である連邦管区のひとつ。北は南部連邦管区である。

本部はスタヴロポリ地方のピャチゴルスクに置かれる。人口は893万3889人(2002年国勢調査による)である。この内、ロシア民族の占める割合は、298万8,070人で全人口の33.45パーセントである。

2010年1月19日ドミートリー・メドヴェージェフ大統領により南部連邦管区から北カフカース地方の7連邦構成主体が分離して新たに設置された。

北カフカース連邦管区に所属する連邦構成主体は、

ダゲスタン共和国の旗 ダゲスタン共和国
イングーシ共和国の旗 イングーシ共和国
 
の7主体である。

North Caucasian Federal District (numbered).svg



ロシアの旗 ロシア行政区画




最終更新 2013年5月9日 (木)

カザフスタン Kazakhstan

カザフスタン Kazakhstan

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3

カザフスタン共和国
Қазақстан Республикасы(カザフ語)
Республика Казахстан(ロシア語)

カザフスタンの国旗国旗

カザフスタンの国章国章




カザフスタン共和国(カザフスタンきょうわこく)、通称カザフスタンとは、中央アジアに位置する共和制国家である。首都アスタナ、最大都市はアルマトイロシア連邦中華人民共和国キルギスウズベキスタントルクメニスタン国境を接し、カスピ海アラル海に面している。
 
国名

正式名称はカザフ語で、Қазақстан Республикасы(Qazaqstan Respublikasy; カザクスタン・リスプブリカスィ)、ロシア語で、Республика Казахстан(Respublika Kazakhstan; レスプーブリカ・カザフスタン)。
公式の英語表記は、Republic of Kazakhstan。通称、Kazakhstan
日本語の表記は、カザフスタン共和国。通称、カザフスタン。漢字による当て字香佐富斯坦
国名は、カザフ人の自称民族名 Қазақ(Qazaq; カザク)と、ペルシア語で「~の国、~の多い所」を意味する -stān/-estān; スタンの合成語である。「スタン」に関しては、モンゴル語の「部族」を意味する「ястан (ヤスタン)」に由来するという意見もある。カザクは、テュルク語で「独立不羈の者」「放浪の民」を意味する。

歴史
 

 古代ギリシアのヘロドトスアリステアス英語版らによる歴史書では、伝承ではあるものの、最古のカザフステップにイッセドネス人アリマスポイ英語版人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す民族であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいたスキュタイ人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原)にいたキンメリア人を追い出すこととなった。[2]

マッサゲタイ

古代ギリシアのヘロドトスによる『歴史』によれば、もともとアジアの遊牧民であったスキュタイ人がマッサゲタイに追われてアラクセス河を渡河し、当時のキンメリア地方(現在の南ウクライナ)に移ったという。アケメネス朝キュロス2世ヤクサルテス川を越えて中央アジア征服に及んだ際、マッサゲタイの女王トミュリスに殺され、征服は失敗に終わった。

サカイ、ソグディアノイ

古代ローマの地理書にはサカイソグディアノイといった民族が記されている。サカイはスキュタイと同じ遊牧民族であり、ペルシアの史料ではサカと呼ばれ、アケメネス朝の属民であった。アレクサンドロスの侵入時もその存在が確認でき、ヤクサルテス川(シル・ダリヤ)をはさんで対峙した。ソグディアノイは後にシルクロード交易の担い手となるソグド人として有名であるが、この頃はアケメネス朝やアレクサンドロスの属民として歴史に登場する。[3]

康居、奄蔡
紀元前2世紀から4世紀にわたり、中国の歴史書には康居奄蔡といった遊牧民族が記されている。康居は初め、東の匈奴、南の大月氏といった強国に臣従していたが、1世紀になると、栗弋国,厳国,阿蘭聊国といった諸国を支配下に入れるほど強盛を誇る。奄蔡は西方史料のいうアオルソイに比定されたり、後に阿蘭と改名したことから、アランに比定されたりするが、記録が少なく、康居と同俗であること以外わかっていない。[4]

悦般、エフタル
悦般モンゴル高原から追われた北匈奴が行き着いた地で建てた国であり、その場所は康居の北にあったとされる。言語・習俗は高車と同じであり、周辺民族の中でも清潔であったという[5]。この悦般がのちのエフタルであるとする説もある[6]。エフタルはその出自が不明で、アルタイ山脈から南下してきたとも、バダフシャン英語版にいたともいわれている[7]。エフタルはインドではフーナ(hūna)と呼ばれ、ペルシアではヘプタル(heptal)、中国では嚈噠,挹怛とも呼ばれ、中央アジアにあってその周辺国に侵入し、戦争をおこなった。

西突厥
6世紀、エフタルの国家は突厥サーサーン朝の挟撃に遭って滅ぼされ、中央アジア全土は突厥の領土となった。突厥は582年に東西に分離し、カザフ草原は西突厥が支配することとなる。西突厥は内紛が相次ぎ、一時はの支配下に入って共にアラブ・イスラーム勢力と戦うも、741年には王族である阿史那氏が滅び、その帝国はそれぞれの部族に分散してしまう。9世紀から12世紀にかけては西突厥の構成民族であった突騎施英語版(テュルギシュ),カルルクオグズキマクキプチャクカンクリハザールペチェネグなどが割拠した。

カラハン朝、カラ・キタイ
カラハン朝テュルク系初のイスラーム王朝であり、その母体はウイグルともカルルクとも言われている[8]。東西の文化が融合したことで、文化面では大いに発展し、「カラハン朝トルコ語トルコ語版」と呼ばれるアラビア文字を使って記されるテュルク語の文語が生まれてユースフ・ハーッス・ハージブの韻文作品『クタドゥグ・ビリグ英語版』(幸福になるための智恵)や、マフムード・アル・カーシュガリー英語版のテュルク諸語の語彙を集めた辞典『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルクトルコ語版』(テュルク諸語集成)が登場し、テュルク・イスラム文化の先駆けとなった[9]。カラハン朝は1041年に東西に分裂し、12世紀初頭には耶律大石率いる契丹軍によって征服され、カラ・キタイ(西遼)の属国となった。
モンゴル帝国

カザフ草原の西の大部分はテュルク系のキプチャクの領土であり、東の大部分はカラ・キタイの領土であった。カラ・キタイは1211年ナイマンクチュルクによって乗っ取られるが、まもなく東の遊牧民族を統一したチンギス・カンモンゴル軍によって征服され、1236年にはキプチャクもバトゥ率いるモンゴル征西軍によって征服され、中央ユーラシアの遊牧民騎馬民族は全てモンゴル帝国の支配下に入ることとなった。モンゴル第2代皇帝オゴデイが没すると、1242年にバトゥはヴォルガ川下流のサライに都を置いて、カザフ草原(当時はキプチャク草原と呼ばれた)を中心とする自立政権ジョチ・ウルスを築いた。
 
カザフ・ハン国

15世紀末、シャイバーニー朝より分離した現在のカザフ人の祖先が侵入し、カザフ・ハン国を建国し、16世紀初めまでにカザフ民族が形成された。17世紀ごろからカザフ民族は、主として、大ジュズ(東部)、中ジュズ(中部)、小ジュズ(西部)の3部族に分かれて草原に居住していた。
18世紀初め、ジュンガルが襲来したため、1730年代から1740年代に小ジュズと中ジュズは、ロシア国籍を自発的に受け入れた。1860年代、カザフスタン領域はロシアに併合された。
 
カザフ・ソビエト社会主義共和国

ロシア革命後に赤軍の支配下に入り、ソビエト連邦の構成下において、カザフ・ソビエト社会主義共和国が樹立された。その後はソビエト連邦の共産党政権のコントロール下に置かれた。
領内にはソ連の核実験の中心地としてセミパラチンスク核実験場が作られたほか、宇宙開発の中心となるバイコヌール宇宙基地が作られた。
 
カザフスタン共和国

ソビエト連邦崩壊後の1991年12月16日に、カザフスタン共和国として独立し、1991年12月21日独立国家共同体(CIS)に加盟した。


2006年2月野党アク・ジョル」の共同議長アルティンベク・サルセンバエフは運転手とともに、アルマトイで射殺体で発見された。5人の国家保安委員会のメンバーが、サルセンバエフの殺害に関わっているとして逮捕された。バウルツァン・ムハメドツァノフ内務大臣によると、犯人は1人当たり2万5千ドルを受け取っているという。警察官1人も殺人に関わったとして逮捕されている。カザフスタンでは、反対派のアルマトイ前市長のザマンベック・ヌルカディロフも射殺体で発見されている。

2007年8月18日の議会選挙では、与党ヌル・オタン」が、比例代表制による全98議席を獲得、その他9議席を大統領直属の国民評議会が指名するため、与党が107議席をすべて独占することとなった。5月には憲法改正が行われており、改正によってナザルバエフ初代大統領に限り、3選禁止の規定が除外されている。
 
地理
 
 

カザフスタンはユーラシア大陸の中心に位置しており、世界第9位の広大な国土面積(アジアでは、中国インドに次いで第3位)を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。但し、国土の大部分はサルイイシコトラウ砂漠キジルクム砂漠などの砂漠乾燥したステップで占められており、そのため人が住めるところは少なく、人口の大半は首都と一部の地域に偏在している。人口も1600万人程度であり、2010年の統計では、世界第61位となっている。地形は大きく3つに分類されており、中国国境やアルタイ山脈を含むカザフ高原、中部のカザフステップ、西部のカスピ海沿岸低地である。西部低地はウラル山脈より西側でヨーロッパに属する。国の南部は東西にわたり砂漠が発達し、アラル海の縮小に表されるように灌漑が重要な課題である。アラル海東方にはロシアが租借するバイコヌール宇宙基地がある。
 

ファイル:Astana centr.JPG
首都アスタナ



マルカコル湖
ザイサン湖
バルハシ湖
テニズ湖
アラル海
カスピ海


シルダリヤ川
イルティシ川
ウラル川

ファイル:Modern Almaty.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/Modern_Almaty.jpg

中央アジア最高レベルの世界都市であるアルマトイ


政令指定地区
アスタナ
アルマトイ
バイコヌール

ロシア租借地
政令指定地区バイコヌールはロシア連邦がカザフスタンより年間1億1500万USドルの契約で町全体を租借し、事実上の行政区として扱っている。これは、同市にある、ソ連時代の1955年に建設されたバイコヌール宇宙基地がロシアにとって今なお重要な宇宙開発施設であることに起因する。このためバイコヌールの行政権はロシアが握っており、例えば市長は、ロシア大統領が推薦し、カザフスタン大統領が承認することで任命される。また、ロシアの法律が適用され、通貨もカザフスタンのテンゲではなくロシアのルーブルが流通している。この租借契約は1994年に合意され、2050年まで続く見込みである。

政治

詳細は「カザフスタンの政治英語版」を参照

カザフスタンの国家元首は、直接選挙により選出される任期5年の大統領である。大統領は、政府を組閣し、閣僚最高裁判所長、検事総長、国立銀行総裁を任免し、国民投票を実施し、非常事態を導入する権限を有する。1992年5月から軍最高司令官であり、同年7月からは国家保安委員会が直属している。1993年12月、最高会議は解散させられ、1995年3月、憲法裁判所は1994年3月実施の選挙が違憲であったとの決定を下した。その後は議会不在のままである。

首相は、議会の同意により大統領が任命する。閣僚は、首相の提案により大統領が任命する。政府は、大統領の任期満了と共に総辞職し、新大統領により組閣される。閣僚の70%は人口の約65%を占めるカザフ人。


立法府は、下院マジリス)と上院セナト)の二院制である。下院は定数107議席。うち98議席が比例代表制による直接選挙で選出され、9議席はカザフスタン民族会議により選出される。議席を得るには、7%障壁を超える必要がある。上院は定数47議席。各州、旧首都、首都の地方議会から2名ずつ選出され、15名は大統領が個人的に任命する。1995年3月には、民族間関係を調整するカザフスタン民族総会が設置されている。上院が6年、下院が5年に延長された。
 大統領


ソビエト連邦カザフ・ソビエト社会主義共和国共産党第一書記・同共和国大統領(それぞれ1989年1991年に就任)からそのまま1991年12月にカザフスタン共和国大統領に就任したヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が、独立以来一貫して大統領の地位にあり、強力なリーダーシップを発揮している。1995年4月に大統領任期延長し、2000年12までとしたが、同年8月には、新憲法草案が国民投票にかけられ、圧倒的賛成で可決された。この1995年憲法はカザフスタンを大統領制国家であると規定し、大統領に大幅な権限を与えた。そして、最高会議を廃止して二院制議会を新設し、1995年12月に議会選挙を実施したが、反対派はほとんどボイコットした。1998年10月に憲法改正が行われたが、大統領の任期は5年から7年に延長され、65歳までとされていた候補者の年齢制限が撤廃された。2007年には終身大統領となった。
 
 
主要政党
 
与党:ヌル・オタン(輝く祖国)。
野党:アク・ジョル(明るい道)、カザフスタン共産党
 
 軍事



カザフスタンは、旧ソ連軍中央アジア軍管区の部隊を継承した。
 
現在のカザフスタン共和国軍は、一般任務軍(陸軍)、防空軍空軍)、国境警備軍の3軍種から成る。大統領は、3軍の最高司令官であり、空中機動部隊及び空挺部隊、並びに大統領親衛隊を直轄する。軍政単位としては、南部、西部、東部及び中央の4個軍管区が設置されている。一般任務軍は、2個軍、2個師団、5個旅団から成り、46,800人。防空軍は、19,000人。
徴兵制度が存在し、兵役の義務は18歳からの2年間とされている。
 
国際関係
 
全般

隣国であり旧ソ連時代には同じ国であったロシアとは政治的にも経済的にも密接な関係を持つ他、近隣諸国だけでなくアジア各国やヨーロッパ各国とも友好関係を保っている。また中国とも友好関係である。上海協力機構(SCO)に加盟するほか、中央アジア諸国連合を提唱、さらに2010年欧州安全保障協力機構の議長国に選出されているなど、積極的に国際機構への参加を図っている。
 
日本

日本とは互いに大使館を置く他、2006年8月には小泉純一郎首相が訪問するなど友好的な関係を保っている。
1998年、カザフスタン政府によって実施された新首都アスタナの設計についての国際指名コンペにおいて、日本建築家黒川紀章案が1位に選ばれ、その都市計画案に基づき開発が続けられている。[10]
 
経済
 
GDPは1680億ドル、1人当たりGDPは10,820ドル、失業率は5.7%(いずれも2011年)であり、独立直後の経済状況に比べ、著しい飛躍を遂げている。この経済成長は、鉱物資源の輸出によるものであり、天然資源依存型である。また、一人当たりGDPが10,000ドル以上になり(2008年頃)、マレーシアに並ぶ中進国となった。
通貨はテンゲである。
 
石油産業
 
石油が豊富で人口が過剰でないために、中国のウイグル自治区、ウズベキスタン、キルギスと物価で差をつけている。

 
鉱業

カザフスタンは鉱物資源に恵まれている。例えば、採掘量が世界第10位以内に達する地下資源が9つも存在する(2002年時点)。エネルギー資源では石炭ウランが有望。輸出品目も地下資源とその加工品が7割を占める。原油(49.4%)、鉄鋼(12.0%)、(7.5%)という状況である。


有機鉱物資源では、石炭(7218万トン、世界第10位、世界シェア1.9%)が優位である。品質が高いため同国で産出すると組み合わせて鉄鋼を生産している。燃料に向く低品質の亜炭(261万トン)は少ない。原油(3606万トン)の産出量は世界シェア1.1%に達する。天然ガスは453千兆ジュールと多くはない。
 

金属鉱物資源の採掘量、世界ランキング、世界シェアは以下の通りである。
亜鉛鉱(39万トン、世界第7位、世界シェア4.7%)
ウラン鉱(3300トン、世界第3位、世界シェア9.2%)
金鉱(27トン、世界シェア1.1%)
銀鉱(892トン、世界第9位、世界シェア4.5%)
クロム鉱(102万トン、世界第2位、世界シェア17.6%)
コバルト鉱(300トン)
鉄鉱(870万トン、世界シェア1.5%)
銅鉱(49万トン、世界第10位、世界シェア3.6%)
鉛鉱(4万トン、世界シェア1.4%)
ニッケル鉱(3000トン)
ボーキサイト(438万トン、世界第9位、世界シェア3.0%)
マンガン鉱(44万トン、世界第8位、世界シェア5.4%)
このほか、非金属鉱物資源として、硫黄(210万トン、世界第7位、世界シェア3.6%)とリン鉱石(1万7000トン)を採掘している。
 
交通

詳細は「カザフスタンの交通」を参照

鉄道

旧ソ連の一部であったカザフスタンの鉄道は1520mm広軌であるために今でも頻繁に国際列車が運行され、ソ連時代からのエレクトリーチカや客車が各国で使用されており、旧ソ連政府の影響により電化率は高い。カザフスタンの1520mmと中国の1435mmとの間で軌間変換をするために、カザフスタン鉄道は新型車両としてスペインのタルゴの軌間可変車両を導入した。しかし、近年カザフスタンでは2006年より標準軌 (1435mm) への改軌や新線建設の計画が進み、4年ほどで建設が終わるとされていたが、現在は標準軌の計画は既に挫折している。[11
  
国民
詳細は「カザフスタンの人口統計英語版」を参照
 
住民
民族構成(カザフスタン)
カザフ人   65%
ロシア人   21%
ウズベク人   3%
ウクライナ人   2%
その他   8%

カザフ人が63.1%、ロシア人が23.7%、ウズベク人が2.9%、ウクライナ人が2.1%、ウイグル人が1.4%、タタール人が1.3%、ヴォルガ・ドイツ人が1.1%、その他4.5%となっている。(2009年時点)。以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降多くのロシア人が転出し、徐々にカザフ人の割合が増加し逆転した。[12]

言語

憲法ではカザフ語が国家語、カザフ語とロシア語公用語と定められている。現在、カザフスタンにおいてカザフ語を話すことができるのは全人口の64.4%である。一方、ロシア語は95%の住民が使用しており、とりわけ都市部においては、ロシア語を母語とし、カザフ語を全く話せないカザフ人も多い。

政府メディアを通してカザフ語の普及を図っているが、効果は現れていない。ロシア語は異民族間の交流語として、カザフ語と同様の地位を与えられている。そのため現地政府は、外国映画にカザフ語での吹き替えを義務付ける文化法改正法案を議会で審議している。カザフスタンはロシア系住民が約30%であり、ロシア以外では最多であるカザフスタンで今後ロシア映画が原語で上映できなくなる可能性がある。

宗教

2009年の調査では、イスラム教が70.2%、キリスト教が26.2%、無宗教が2.8%となっている[13]
 
教育
義務教育は6歳からの8年間と定められている。国民の識字率は国民全体の98.4%となっている。
 
文化
 


ソ連中央アジアの中でも、もっとも文化的にヨーロッパ化された国と言える。ロシア語話者も多く、イスラム教徒であっても戒律を厳格に守る者は少ない。

食文化
詳細は「カザフスタン料理」を参照

文学
詳細は「カザフスタン文学」を参照

音楽
詳細は「カザフスタンの音楽」を参照


世界遺産

カザフスタン国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。

外部リンク
独立国家共同体
イスラム協力機構加盟国

最終更新 2013年11月21日
 
 


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Welcome to Kazakhstan part 1



アップロード日: 2009/10/23
Come to Kazakhstan and enjoy the beauty of our nature and the hospitality and generosity of our people. Nursultan Nazarbayev President of the Republic of Kazakhstan


Welcome to Kazakhstan part 2


Kazakh people of the great steppes_Қазақ елі

Kazakh people of the great steppes_Қазақ елі



アップロード日: 2011/07/27
Музыка:
фольклорно-этнографический ансамбль "Туран".
Произведение - Казак ели (казахский народ).
Слова песни - стихи Махамбета Отемисулы.

Если кто из вас, узнал авторов художественных картин, то обязательно добавьте, пожалуйста, в комментах.

Я назову тех, кого мне удалось узнать (в основном это художники Казахстана): Анатолий Степанов, Есенгали Садырбаев (картины городов - Тараз, Яссы, Испиджаб, Сюткент а также картины с мотивом охоты), Дашко Анатолий, Айбек Розаков, Акашев Курмангазы.

А также, при подсказке пользователя GVALERONE http://www.youtube.com/user/GVALERONE
дополнительный список художников: А. Дузелханов, К.Ахметжанов, К.Ажибеков, Т,Тлеужанов, М. Нургожин, а также Горбатов и мн. др.Инфу можно узнать в Союзе художников или в любой галерее.

Если найдутся авторы и других картин, буду признателен.