津波について思った事(安倍一族、平泉)
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「東日流三郡誌5(文化・地誌 編)」の【十三湊町史】には、こう書き記している。
「興国二年に大津波起りて一挙に海の底に埋まり、その昔影を遺すに至らず、今は住む人ぞ二十一軒なり。湖底に眠る幾千人の霊魂は唐崎の地蔵尊に崇まるとも、その縁ずる者もなく、今は無縁なり。」興国二年とは南朝暦であり、西暦1341年。要は、南北朝時代真っただ中だ。和田喜八郎著「知られざる東日流日下王国」では「東日流三郡誌」で書かれている日本海での津波などあり得なく、でたらめも甚だしいと講演した某大学教授への批判が書かれているが、実際にその後、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57秒に秋田沖日本海中部地震が起き、津波が押し寄せた。新聞やテレビで知ったところによると、砂浜を歩いていた小学生が津波に呑み込まれたなどと、津波の恐ろしさを伝えていたのを記憶している。
ところで文献上、東北を襲った地震と津波で一番古いのは、「貞観の大地震」貞観11年(869年)であるが、ここでフト三陸のリアス式海岸を思い出した。小学の地理の授業で習うには、ノコギリ状のギザギザな地形という事だが、これは海水面の上昇によってこの地形が現れた…という考えが一般的のようだ。しかしこのリアス式海岸の地形を作ったのは、やはり水の力だろうと思う。もしかして人類が東北に住む以前から、何度も津波が押し寄せてリアス式海岸を作り上げた可能性も否定できないのかもしれない。
気になるのは安倍一族であり、奥州藤原氏だ。安倍一族を調べると、どうも本来は海の民では無かったのか?と思う節がある。しかし安倍一族は、海の面していない奥六郡を本拠地としていた。また安倍一族の血を引く奥州藤原氏は十三湊で大陸との交易をしていたようだが、十三湊から平泉まで交易の品々を運ぶには、かなりの距離がある。いくらでも十三湊寄りに近づいた方が、輸送の不安は拭えた気もするのだが、北東北の丁度中央に位置する平泉という地に金色堂などを築いたのは、黄龍の思想もあったのでは無いかと考える。要は東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武で、その中央に位置するのが黄龍であり、支配の位置であるからではなかろうか?
そしてもう一つ、津波に対する警戒心から沿岸域には都の建設をしなかったのではなかろうか?本当の事実はどうかはわからんが、1341年の地震による大津波が起きたにしろ、史書には記録されていないのは十三湊が辺境の地であった可能性からであろう。
史書でわかっている古い津波の歴史は、日本最古の書物である「古事記」の編纂を命じた天武天皇13年(684年)10月14日に土佐に津波が来襲し、船多数沈没とあるのが最も古い。天武年間には伊豆の地震に対する不安を書き記してはいるが、それより更なる北…東北に関する記述はない。しかし今回の3月11日の三陸大津波の余波はニュースで注目を浴びなかったがやはり土佐をも呑み込み、三陸ほどの被害は無かったものの、かなり深刻なダメージを与えたようだ。つまり天武年間の津波の記述も、もしかして土佐という局地的なものではなく、広く太平洋沿岸域に起きた地震と津波であった可能性もあるのではなかろうか?
こうして古代史を調べていて気付くのは、海人族が海を捨てて、内陸に移住して文化を築いている事。安曇族しかり、何故に海の民が山へと進出して、海の文化をもたらしたのかと不思議だった。何故なら山の中でありながら、竜宮に繋がる伝承は数々ある。「遠野物語」を一つ一つ紐解いていっても、海の民の文化に繋がるのである。何故海の民は、海を捨てたのか?それはやはり、歴史の知らない津波が、今まで住んでいた海の民の町を壊滅させた可能性に心惹かれてしまう。
何故に海幸彦が海で溺れなくてはならなかったのか?もしかしてだが、海を捨てた民が山幸彦となり、海を捨てない海幸彦を溺れさせた隠された背景があったのではなかろうか?などと、今回の三陸大津波がいろいろ心に語りかける。
そして最初に戻るが、本来は海の民であったらしい安倍一族が何故海に面していない奥六郡に拠を構えたのかも、沿岸域の津波の恐ろしさを知っていたからではなかろうか?と考える。そして何故に奥州藤原氏が内陸の中央に極楽浄土の思想によって平泉を築いたのも、津波によって流離う海の民を意識してのものではなかったのか?と。つまり津波という恐ろしさを知っていたからこそ、居住も含め精神的信仰の拠点としての平泉では無かったのか?一般的に知られる極楽浄土とは、補陀落渡海。つまり海の彼方にあると信じられた。しかし奥州藤原氏は、その極楽浄土を東北の内陸の中心に築いたのは、津波の不安が無い地であった可能性。そして奥州藤原氏の築いた文化には、安倍一族から受け継がれたものが多大に含まれている可能性はあるだろう。つまり妄想を広げれば、安倍一族は津波によって故郷を捨て、東北に流れ着いた海の民では無かったのかと…。
鳥海(とみ)
上郷村字細越のあたりと思うが、トンノミという森の中に古池がある。
故伊能先生は、鳥海とあてるのだと言われ、よくこの池の話をした。
ここも昔から人の行くことを禁ぜられた場所で、ことに池の傍らに行
ってはならなかった。これを信ぜぬ者が森の中に入って行ったところ
が、葦毛の駒に跨り衣冠を著けた貴人が奥から現れて、その男はた
ちまち森の外に投出された。
気がついて見れば、ずっと離れた田の中に打伏せになっていたという。
もう今ではそんなことも無くなったようである。 「遠野物語拾遺36」
このトンノミと呼ばれる地には画像の様な池があり、白山神社が鎮座し、白山姫が祀られている。そしてこのトンノミは、伊能嘉矩曰く「鳥海」とあてるのだという。ここで単純にイメージできるのは水辺の鳥となるのだろう。
この鳥海を調べると「トンノミ、トリウミ、トミ、トビ、トオノミ、チョウカイ…。」などと読む。どれにしろ「鳥」に関するものなのかとイメージしてしまう。
このトンノミの南側には鳥海舘跡があり、安倍一族の関係が深い。その中でも特に鳥海三郎と呼ばれた安倍宗任との結び付きを意識してしまう。また鳥海といえば秋田県に鎮座する鳥海山があるが、やはりそこにも安倍宗任の伝説は伝わる。鳥海と安倍宗任の繋がりとは、なんであろうか。
古代において鳥の印象が強いのは、ヤマトタケルが死んで白鳥となり飛び去って行くシーンもあるが、もう一つ「神武前記」の記される金色の鵄(トビ)の逸話だろう。
「皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰けて氷雨ふる。乃ち金色の霊しき鵄有りて、飛び来り皇弓の弭に止れり。其の鵄光り曄煌きて、状流電の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒皆迷ひ眩えて、復力る戦はず。長髄は是邑の本の号なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍の、鵄の瑞を得るに及りて、時の人仍りて鵄邑と号く。今鳥海と云ふは訛れるなり。」この一節には、鵄が鳥海に転訛した事を伝えている。つまり鳥海三郎は鵄三郎でも同じであるのだろうか?ところで黄金色に輝く鵄だが、似た様なものに「伊勢風土記逸文」の一節がある。
「神武は時に、金の烏の導きの随に中洲に入りて、兎田の下県に至りき。」
八咫烏が神武天皇を導いた話は有名だが「伊勢風土記逸文」においては、それは金色に輝く八咫烏であったようだ。「神武前記」の金色の鵄を一般的に太陽の象徴であり、日の神の使いと見ている学者が殆どのようだ。ただここで考えてみたいのは「古事記」や「日本書紀」が、太陽神であろう天照大神を中心とした信仰体系を作り上げた書物であるという事。そこには太陽に関するものがいくつも散りばめられている可能性はある。長燧彦が登場する金色の鵄の逸話など、まさに太陽には逆らえないものと捉える事ができるが、果たしてそれは本当なのだろうか?古代は、太陽暦ではなく太陰暦が中心であった。そして晴れて太陽暦を導入したのは、天照大神と同一視された持統天皇時代からであった。それでもその頃は、完全に太陽暦となったわけでは無く、太陰暦を合わせて日々の運行を考えていたようだ。確かに太陽は尊い存在ではあるが、それ以外にも尊いものはいくつもあっただろう。恐らく金色の鵄も単純に太陽の象徴と考えていては、迷宮から抜け出せない可能性があるかもしれない。
ところで「日本書紀(神武前記)」には「頭八咫烏」とある。本居頼長「古事記伝」では、八頭烏で頭が八つあるとしているが、この説にはいろいろ反論があるようだ。頭が八つでは無く、頭そのものが大きいと判断する説もあるが、「頭」を「おつむ」とも言う事は本来「つむ・つむり」が語源となる。実は「つむ・つむり」の古くは銅鐸を意味していた節がある。
三浦茂久「銅鐸の祭と倭国の文化」によれば、紡錘形をしたものを古代では「ツミ」と呼ばれていたとある。となれば頭もまた紡錘形のようなものであり「御つむ」と呼ぶのには、何等可笑しくは無いだろう。ところがこの「つむ」が「とび」に変化したのではないかと説いている。先ほどの「頭八咫烏」もまた銅鐸を暗示するものであろうとしているのは、その八咫のサイズがもしも銅鐸なら現実味を帯びるであろうとしているが、確かにそれは納得してしまう。銅鐸には「鳴る銅鐸」と「照る銅鐸」があるというが、まさしく金色に光る鵄も、金色に光る烏も照る銅鐸であれば、光の象徴として弓の先にも付けられるだろう。
先に記した「神武前記」において、鵄に対し「トビ」と仮名を振り「鳥海」に対し転訛し「トミ」となっているが、どうも「トミ」の読みが実は古いようである。つまり「トミ」が「トビ」に転訛したのが正しいようだ。その「トミ」は「ツミ」からの変化である可能性がある。例えば「和名抄」によれば、小型の鷹を「ツミ」と言い、ハシタカを「ツブリ」というのも、鷹や鷲が木の枝などに止まっている姿勢が紡錘形の銅鐸をイメージしていたようだ。
ただし「鳥海(トミ)」がそのまま銅鐸を表すのではなく、「トミ」の更なる語源「ツミ」の意味を引きずってのものだろう。ちなみに「ミナカタトミ」の「トミ」も「ツミ」の転訛としている。「ツ」は乙類の「ト」に、あまり無理なく変化するものとされている。そして「ツミ」ですぐに思い出すのが「ワタツミ」や「ヤマツミ」の神々だ。そして気になるのは「海」と書かれたものは「海洋」を意味している場合が多いという事から「鳥海」が「トミ」であり「ツミ」であるなら、その「鳥海」を冠した安倍宗任とは、やはり海人族であった可能性は高いだろう。安倍一族を調べると海の習俗を感じるのだが、その安倍一族が海の無い奥六郡に封じ込められたのは、安倍一族の力を恐れ、それこそ翼をもがれた鳥のように仕向けた為ではなかったのか。鳥海三郎という名は、海人族の名残を表した矜持であったのかもしれない
安倍貞任・宗任の形見
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オシラサマ…未だ謎とされる信仰の神だ。様々な学者が、このオシラサマを紐解こうと試みているが、これといった確固たるものがわかっているわけではない。明治時代に発刊された柳田國男の「遠野物語」によって有名になったオシラサマであった為、明治時代から沢山の学者が遠野を訪れ調査してきた。その性質が多面性を持つオシラサマであるが、ある古老は「オシラサマは安倍貞任が作ったものであると昔から教わってきたがどうなのでしょう?」と、遠野を訪れる学者に聞いたところ全て否定されてきたという。その為か、オシラサマと安倍貞任との結び付きを調べる学者は皆無と言って良いだろう。しかし、オシラサマが安倍貞任が作り伝えて来たと信じるものがいるのだ。
遠野市の先代の財産として、菊池春雄氏と荻野薫氏が調査しまとめた遠野市の館の報告書は、偽書と呼ばれる「東日流外三郡誌」に安倍貞任にからんでオシラサマや遠野の地の記述"日高見国閉伊郷貞任山の事…。"というものに触発されて調査したものである。
「東日流外三郡誌」の記述の中に「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というものに谷川健一は、これは福沢諭吉の言葉を下敷きにしたもので、明らかに偽書であり、一顧にも値しない!と一刀両断した書物である。しかし、その福沢諭吉も、自らの娘の婚姻相手を「身分が低い!」と否定している事から「天は人の上に人を作らず…。」という言葉も実は、本来の福沢諭吉に根付いている思想ではないのかもしれない。案外、内密に「東日流外三郡誌」の言葉を拝借して作った言葉なのかもしれない…。
とにかく「東日流外三郡誌」の記述にあるように、遠野の2カ所の貞任山には、それらしき跡がある事が判明している。つまり「東日流外三郡誌」は完全な偽書では無いという事だろう。その他の伝承も含めて、貞任・宗任は伝説と共に遠野に生きているものと感じている。
菊池山哉の別所の調査から全国に蝦夷が配され住みついた場所が判明しているが、東北内でも岩手県を除く東北に別所は存在しているが、秋田と青森の別所は性格が異なるのだという。ただし南東北と呼ばれる、宮城・福島・山形はかなり以前から朝廷に帰属した地であり、文化的にも蝦夷文化だけというわけにもいかないようだ。ここで強調したいのは、東北6県の中で、何故に岩手県に別所が無いのか?それは現在の岩手県が蝦夷の本拠地であり聖地であったのだと思う。伝承では安倍貞任の一族は、独自にタタラをしていたようだ。タタラ筋は、後に伝承では"鬼"と呼ばれる存在となる。現在まかり通っている鬼退治の殆どは朝廷側、つまり勝者側の視点に立ち語り継がれたものとなっているのが実情だ。しかしだ、鬼の伝承が蔓延るこの岩手県内において、遠野に何故か鬼の伝承が無いというのはつまり、過去の歴史上に置いて、精神的にも征服されていない地であった証拠であると自分は考えたい。その理由として早池峯があるものと信じている。ここで多くを語る気も無いし、また証拠となるものも揃ってはいない状態でもあるのだが、早池峰に守られた地である遠野であるから、安倍貞任・宗任は鬼として語られていないのだと考えている。自分はそれらを裏付ける為に、今後も取り組んでいく予定である。
荒川の道
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荒川高原へ続く道と、川が流れる。ところで荒川の語源を遠野では確認していないが、吉野裕著「風土記世界と鉄王神話」によれば、全国にいくつか荒川なるものがあるが、荒とは粗金(あらかね)、つまり砂鉄から発生しているようで、当然この遠野市の荒川も砂鉄に由来した名前なのだと思う。また遠野市には例えば"アラヤ"と付く地名があるが、やはり砂鉄に絡む地名のようだ。
遠野市観光で有名な、田んぼの中の荒神様は「コウジン」と読まずに「アラガミ」と読む。これは出雲などの中国地方ではタタラ師の屋敷神として祀られている為、この写真の「荒神」もまた製鉄神の一面を持っている可能性がある。とにかく、アラは砂鉄を意味する。今度、確認する事にしよう。
話を荒川に戻すが、この荒川の渓流沿いに不動明王を祀る祠がある。山伏が山を開発するにあたり、その軌跡として、巨石には不動岩、滝には不動の滝と命名する場合が全国に広がっている。この遠野の荒川沿いの不動明王の祠も、その名残であるのだろう。荒川が砂鉄を意味する川であるなら、山伏は、砂鉄…広義的に"金"を探してこの荒川沿いの道を辿りながら開発していったのだと理解できる。
ところでその不動明王の祠を真っ直ぐ登っていくと、安倍貞任の館跡云われる地に辿り着く。この館跡の地を万畑(ヨロズバタ)と云い、館跡と共に御前釜と呼ばれる場所がある。遠野には御前沼と呼ばれる地はいくつかあるが、御前釜というのは、この地くらいだろう。ヨロズバタだが…万畑、もしくは万旗という地名は遠野に2カ所。一つは薬師岳に連なる山で、もう一つがここだ。早池峰の山懐深い地に2カ所のヨロズバタとは?おそらく栲機千々姫…その別名は万畑豊秋津師比売命から付いた地名ではないかと感じる。実はその万畑は、早池峰の姫神である瀬織津比咩の異称とも伝えられるが、まだ詳しい事は解っていない。
画像は、大萩の釜淵だが「遠野物語拾遺22&24」には、淵にまつわる釜の話が紹介されている。ところで綾織に釜石という地があり、その地名の語源は沢の上流に釜形の巨石があり、そこから水が湧き出ているように見える。その釜形の巨石が、地名となったという。また沈んだ釜の伝説に、湯立て神事の釜が沈んだとか、もしくは粥を煮る釜が沈んだとか様々である。しかし釜は窯でもあり、火と水に関連する。阿曽沼氏は下野国から来たのだが、下野国には室八嶋神社というのがある。八嶋とは釜を意味しているのだが、室の釜で竃の意味であると。その室八嶋神社の祭神は、コノハナサクヤヒメ。火中出産を果たしたので、竃の神と信仰されたようだ。ところで遠野だけなのかどうかわからないが、樺の木を「木の花(コノハナ)」という。樺はつまり桜の木でもあるが、桜の女神と伝えられるコノハナサクヤヒメであるから当然「木の花」と称して問題は無いだろう。しかし「コノハナ」は別に「粉の花(コノハナ)」とも呼ばれる。その意は"火の粉"の意も含むと云う。
しかし釜という言葉が、頭から離れない。釜、もしくは窯には、また別の意味が込められているのではないだろうか?だからこそ、遠野を調べると"釜"にぶつかるのは、古代の人々が何かを託し、隠語として伝えてるのではないかと考えてしまう。いずれ"釜"についても、調べる予定だ。
画像は、早池峰神社に奉納されている鉄を溶かした絵馬だが、これを「鉄滓(ノロ)」といい、俗に「初花」と称す。やはり吉野裕著「風土記世界と鉄王神話」では、コノハナサクヤヒメが火中で出産した、ホデリ・ホスセリ・ホオリとは、鉄の精製の過程だと述べている。つまりコノハナサクヤヒメの火中出産で…つまり鉄を精製する過程において火の粉が飛び散る様はまるで「粉の花(火の花)コノハナ」が飛び散る様でもある。その過程の中で産まれたホデリは初花といい、画像の鉄滓となるが、また別にこの鉄滓を"馬鹿鉄"と称するのは、隼人阿多君の祖を蔑視した為だという。そういえばコノハナサクヤヒメの別称は神阿多都比売(カムアタツヒメ)であるから、ホデリを蔑視するというのはやはりコノハナサクヤヒメも蔑視されたという事であろうか?
遠野における館跡には必ず桜の木があり、水神に関係する伝承が付随するようだ。安倍貞任の館跡周辺にはタタラ跡もある事から、独自に武器を精製していたものだと云われている。その信仰に繋がるのが、やはり早池峰であるよう。安倍貞任が山に築いた館跡には巨石があり、そこからは早池峯が見える。つまり早池峰を意識して館が築かれただろうと、館の調査をした菊池春雄氏&荻野薫氏は述べている。ただし狼煙の伝達手段の一環で、最終的に狼煙の行き着く先が早池峯であった可能性は高い。つまり遠野地方の情報を、更なる奥へと伝達する山が早池峯であったのだろう。この記事で記した安倍貞任の館跡は、その狼煙の過程の一つであろうと云われる。しかしそこには実質的な手段としての製鉄、もしくは狼煙とは別に、信仰的なものが全て早池峰に行き着いているかのようだ。つまり安倍貞任一族は、早池峰の神を信仰していたのだと考える。
貞任への道
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現在、遠野・釜石・大槌の三地区にまたがって風車が建てられている風力発電の施設は、遠野側から向うと、貞任山・五郎作山・石仏山と連なって新山へと行き着く。ところでこの新山だが気になるのは、新山神社というものが岩手県にいくつも存在するのだ。この新山神社の殆どは早池峯を信仰する神社であるのが一般的になっている。
新山からの早池峰&薬師
大槌湾と、ひょっこりひょうたん島のモデルとなった弁天島が僅かにわかる。
大槌に属する新山牧場からの展望は、北に早池峰と薬師を遠望し、東に大槌湾。そして釜石に聳える仙盤山や片羽山に、六角牛山をも見渡すできる事のできる見事な展望地となっている。この一連の山々の麓に、安倍貞任の末裔が逃げ延び、移り住んだと云われる。初神に住んでいた貞任の末裔と云われる及川氏に話を伺うと、現在の初神には誰も住んでおらず、安倍貞任が祀っていた星の宮神社も、今では祭事は行われていないとの事。星の宮神社御神体も定かでは無いとの事だが、ただ昔から伝えられている事は、星の宮神社は星を祀っているというよりも、"空・山・川・石・大地・海"の自然を祀っていたのだという。
新山では、桜の木を愛でているかのようだ。全てを紹介できないが、いくつもの桜の木に、名前が添えられ保護されている。写真の石割桜は、北を背にした山の神を祀る鳥居を潜った中に、巨石と共に並んでいる。室町時代に成立した「日本書紀纂疏」に、星に関してこう記述されている。
然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と
為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と
曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、
春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為
す。日分かれて星となる。
故に其の字日生を星と為すなりと。諸説を案ずるに星の石たること
明らけし。また十握剣を以てカグツチを斬るは是れ金の散気なり。
桜は"コノ花"とも云い、火の粉でもあったようだ。巨石の傍に、もしくはタタラ跡に桜が植えられるのも、金の精製の過程の象徴であるからかもしれない。ところでこの貞任山から新山にかけて気付くのは、早池峰&薬師が見事に見えるという事だ。
貞任山(886m)の頂きに立って、開けた方向にはやはり早池峰&薬師が聳えている。まあ他にも展望は開けているのだが、特に早池峯と薬師が仲良く並んでいる姿が印象的だ。遠野の伊豆神社からは薬師と早池峯が一直線上に重なっているのだが、この地からはその両山の姿が完全に観る事ができるのだ。この展望を眺めて気付くのは、安倍貞任の末裔である及川氏の言葉…星の宮神社の祭祀の内容だ。つまり星の宮神社で祀られている信仰の根幹が、この貞任山から新山にかけての地から感じられるという事。そしてその中心にくるのはやはり早池峰では無かろうか?「陸奥抄史」には、こう書かれている。「…猿ヶ石南北に存在せる貞任山の二山これに解くべきかぎありとも曰ふ遠野村に今亡き西法寺は日下将軍の建立せし古寺なりと曰ふ荒覇吐神社社貞任山二山にありと曰ふも定かならずと地住の人曰ふ…。」「陸奥抄史」より抜粋。
「夜の大槌湾」貞任山には荒覇吐神社があるという事だが、ここで考える。貞任の祭祀とは、自然崇拝であったようだ。つまり朝廷側が普及させた木造の社を持つものではなく、自然祭祀であったのだと思う。遠野の西にある種山もまた貞任の遺跡を確認できるのだが、巨石を二つ並べた間に早池峰が見える。神社とは"神の社"の意であるが、これは何も木造で建てなくてもいい筈だ。つまり石を並べたものでも、じゅうぶん神社として成り立ったのではないだろうか?つまり種山の頂きの巨石を考えた場合、その巨石から見えるものが信仰の対象であり、その信仰の対象を枠取った巨石こそが神社そのものであったのだと思う。そして安倍貞任は、その巨石の中に何を見たのか?という事になるのだが、やはりそれは早池峯であろう。新山(しんざん)は音読みであり、近代になってそう読まれたのだろう。つまり新山の本来は「にいやま」か「あらやま」であったと思う。「荒川の道」で記したが、荒は山伏などの用語では、砂鉄などの金を表す意でもあった。つまり新山神社の殆どが早池峰を祀る神社である事から、新山とは"あらやま"であり、早池峰とは金の山の中心であったのだと思う。だからこそ、安倍貞任の祭祀や伝説には早池峰が付随する。安倍貞任の築いた文化や歴史の中心が早池峯であったのではなかろうか?つまりだ…この貞任山でいう荒覇吐神社とは、早池峰を祀る神社の意ではなかったろうか?
「北上川流域の歴史と文化を考える会」主催のシンポジウムで工藤雅樹氏が発表した一部に、丹内山神社があった。御神体はアラハバキの岩とも呼ばれる巨石である。その丹内山神社の仁王像には応永19年(1412年)の胎内銘があって、それには「和賀郡種内郷」とあった古くは「タネナイ」と発音していた事がわかり、そこで工藤氏は"タネナイ"とはアイヌ語の「長い沢」の意であると説明している。しかし"種(タネ)"とは山伏用語で「山を母胎と考え、隕石を子種としたものであり、鉱物をいう。」となる。となれば"タネナイ"とはすなわち、山そのものであり、山に内胞されるものを信仰するものだろう。そしてこの丹内山神社の背後の遠くには早池峰が聳える。伊能嘉矩によれば、丹内山神社の大神は地神であり、それは滝ノ沢神社に現れたとあるが、その滝ノ沢神社に祀られている神は、早池峰の姫神である瀬織津比咩となる。どうも岩手県内の神社や信仰を辿ると早池峰にぶつかり、それが中心であるのがわかる。荒覇吐とは謎ではあるが、それが早池峰に結び付くものであるというのは理解できるのだ。安倍貞任の伝説の地に付随する信仰には、結局のところ早池峯が結び付くのがわかる。安倍貞任を理解する為には、やはり早池峰とそこに祀られている姫神を理解しなければ、その道の先へと進む事ができないようである。
安倍の血
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遠野には安倍貞任伝説が、かなり存在する。故鈴木久介氏は、北東北の蝦夷の為、中央権力と戦って滅ぼされた安倍一族への讃仰と哀憐の現われから、遠野の人々は滅亡後も安倍一族を遠野に住まわせ、起き伏しを共にし、運命を共有したかったのである…と語ってはいたが、実際はどうなのであろう?
安倍貞任は、日高見の国の勇者というイメージだ。日ノ元将軍という呼び方もある。多賀城以北を日高見と言い、遠野はキタガメとも呼ばれたが実は、日高見(ヒダカミ)の転訛でキタガメとなったという。少々苦しい転訛であるが…となれば、この遠野の地にも当然安倍貞任の伝説が根付くのは当然で、もしかして事実として、遠野に安倍貞任が行き来していたのである可能性はある。
河童淵の東に、安倍貞任の末裔であるという、安部家歴代の墓石が連立する区画がある。墓碑銘は磨耗して読み取る事はできないが、家格は感じる。安部家は、江戸時代には安倍姓の肝煎り役を代々務めていたのだという。某氏は、阿部家は館屋敷であり、安倍頼時の六男、北浦六郎重任の屋敷であったという説を唱えた。
また綾織町の胡四王屋号の阿部家も、遠祖を安倍頼時の四男正任としている。写真は胡四王の地に埋められていて発見された、阿部家に伝わる秘仏である阿弥陀如来の仏像。胡四王といえば、綾織の阿部家は元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだという。そう、小友にも安倍貞任の伝説は多い。それと共に胡四王そのものが物部氏との深いかかわりを示すものだ。
阿部家が住む綾織には石神神社があるが、この石上神社には物部氏の匂いが色濃くでている。また物部氏との結び付きを感じる奥州藤原氏には、切実なる安倍の血を望む行動があった。二代目藤原基衡の正室は安倍貞任の弟、宗任の娘である。この婚姻には、清衡の意思が大きく働いている。宗任は敗戦の為大宰府まで娘ともども流されたのだが、清衡は、その宗任の娘をわざわざ太宰府まで迎えに行って、息子である基衡の嫁としている。そこまでさせる安倍の血とは…。
安倍の血を調べるにおいて、必ず出てくるのが胡四王神社だ。胡四王神社は、北に向けられて建立しているのが特徴だ。一般的には、朝廷側の北方鎮護の意味合いであろうという事だ。ただ「北天の魁」の著者菊池敬一氏は胡四王神社について、こう語っている。
「胡四王神社は征服者と征服された者の関係を現した神社だと。花巻市の胡四王神社を見ればわかる。蝦夷を征伐した田村麻呂が建てたというが、北向きに建てられている。殺されて、追われて北へ逃げた蝦夷達が拝む為に建てられているんだ。そうでなかったら、国を守る四天王を祀る神社だから、南から来た征服者達が拝む為には、南向きに建てるべきだと思うがな。」と…。
例えば、早池峰神社は、その御神体そのものが早池峰山である為、本殿は南を向き、参拝する場合は本殿と共、その後ろに聳える早池峰山をも拝むという形になる。つまり北向きに建てられているという事は、背後の南を拝むという事にならないだろうか?
秋田市の胡四王神社は「日本書紀」の斉明天皇4年4月に安倍比羅不の蝦夷征伐の時に、齶田の蝦夷の恩荷が官軍に降服し、その際恩荷の誓った「齶田浦神」は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在したという。この在地の神が胡四王神社ではないかという事である。さらに現在の北陸、新潟地方の「越」の在来神が日本海沿岸地域で広く信仰され、北進して出羽の国に及んだものとして、胡四王は「高志王」「越王」に通ずるとも云う。その後、秋田城が遷置され、場内に四天王寺が置かれると、それが結びついたのではという事らしい。
天長7年に秋田城の付近で大地震が発生し、四天王寺と四王堂舎などが倒壊したとある。ただ四天王寺よりも古くに四王堂舎があったとされ、この四王堂舎には、蝦夷の信棒する神、もしくは越の国の在地神が祀られており、この地震の後に結びつき、性格を複雑怪奇にしたのだろう。つまり四王堂舎は元々齶田浦神の後身で、安倍氏との関係で越の国の神である越王と結合し胡四王となったようだ。
齶田浦神は秋田城内で祀られる以前は、男鹿の赤神神社に祀られていたようで、この赤神神社は安倍貞任をはじめとする、その子孫と称する安藤水軍で有名な安藤氏が崇拝保護を加えてきた歴史が16世紀半ばまで続いていたそうである。
また、この齶田浦神を祀っていた赤神神社には、奥州藤原氏が三代に渡って寄進してきたという歴史もある。これから齶田浦神というのは、安倍氏の先祖を祀ってきた神社であり、それけが後に胡四王神社へと移行したものであるようだ。
では、胡四王神社の北向きの造りをどう捉えるかだが、齶田浦神と四天王が結びついた事を考えると、南に位置する朝廷との結合を蝦夷に訴える為では無かったのか?北の鎮護と考えれば、南向きで後ろにいる筈の蝦夷を睨むという形の方が無難だ。また菊池敬一氏の考えの通りなら、北へ逃げた蝦夷達が拝むというのなら、一緒に朝廷側も拝んでしまうというパラドックスに陥る。ここは懐柔策としての、朝廷と蝦夷の統合を現しての北向きの造りではと考える。
(注) この文章は、以前に書き綴っているもので、現在の考え方とは違っている事をご了承ください。
蝦夷と和歌
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伊能嘉矩「遠野史叢」を読むと、不思議な伝承が紹介されている。猿ヶ石川の語源となる伝承であるのだが、古代の遠野では容貌麗しい14,15歳の少女を官女の教育を施す為に3年の間、和歌などを習わせていたという。その時に、現在でいう岩手県山田町から来た左内という男と、官女候補の清滝姫が恋に落ちての歌が記されている。
【左内と清滝姫の歌】
雨ふらで植えし早苗もかれはてん清滝落ちて山田うるおせ(左内)
及びなき雲の上なる清滝に逢わんと思う恋ははかなし(清滝姫)
かけはしも及ばぬ雲の月日だに清きけがれのかげはへだてぬ(左内)
よしさらば山田に落ちて清滝の名を流すとも逢うてすくわん(清滝姫)
何が不思議かと言うと、一般的に東北はズーズー弁であり、清音では無く濁音が多い。しかしこれはあくまでも声を出して発音する場合なのだろう。言葉が訛っていても、書に記す時は"清音"となるのが普通なのだから。また、田舎と認識する遠野に於いて、官女を養成するなど考えられない。また文化的な和歌を教える地などある筈が無いだろうという先入観もある。しかしここで思い出したのは、安倍貞任が衣川の戦いに於いて敗走する安倍貞任を、源義家が馬で追いながら歌を投げつけたシーンだ。
「衣のたて(館)はほころびにけり」
と歌の下の句を貞任に投げつけたところ、安倍貞任は振り返り、にっこり笑い上の句を返した。
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
義家は貞任の返歌を聞いて、唖然としつつも感動したという。当時の蝦夷は、無知で卑しいというイメージがあったのが、この返歌により払拭されたのだった。ところでだ、言葉の統一は明治時代になってからだ。それも学校教育が徹底され、ラジオ放送が普及してやっとだ。現代においても、訛りが酷い場合、まったく理解できないのだが、不思議に手紙や…今であれば、メールで言葉を伝える事かができる。また訛りが酷い人間がカラオケで普及している歌を歌ったとして、そこには訛りは介在しない。つまり古代において和歌とは、そういうものではなかったのか?
今から100年以上前、会津と薩摩が同盟しようとしたが、言葉が通じない為に和歌を通して会話したという逸話がある。筆談でも出来たであろうが、確かに和歌の方が手っ取り早い。ただし、和歌の教養が無ければ出来ない事であった。
話しを貞任の時代に戻すが、何故に安倍貞任は和歌の教養があったのかという事だ。源義家は、日本の中央から…つまりある意味"都会"から来たという自負があり、その都会で受けた教養に、田舎者は答える事が出来ないだろうと思っていたに違いない。しかし、貞任は答えたのだが、それは何故か?
ここで少し前に書いた「大和国のアイヌ語」を思い出した。応神天皇の時代、吾君(アギ)という言葉がアイヌ語を通して、やっと理解できたと云う話だ。
この応神天皇であるが、気になる伝説がある。応神天皇は贈られた8頭の馬を主力とし、旧王朝を倒したという伝説だ。しかし、この8頭の馬が、どこから贈られてきたのかわからない。ここに騎馬王朝説が被るのであるが、それは無理と言う証明も成されている。ただ、可能性があるならば蝦夷の地から陸路で運ばれ贈られたという事になるだろう。
崇神天皇以来ずっと日高見国を攻めていた大和朝廷が、何故か応神天皇の時代になってから雄略天皇の即位するまでの250年間、一度も日高見国に軍を差し向けていないのは、和平協定があったのではないか?また雄略天皇を省けば、応神天皇の時代から約450年もの間、日高見国…蝦夷国を攻めていない理由が定かではない。ここで気になるのは、東北の神功皇后伝説だが、ここでは省こう。ただし、神功皇后時代から応神天皇の時代にかけて、日高見国であり蝦夷国との何かの密約があったのかもしれない。また蝦夷国といっても東北だけではなく、出雲夷もいた事から、蝦夷国は、もっと幅広く考えて良いだろう。
ところで話を戻そう。応神天皇時代の言葉…「日本書紀」に出て来るアイヌ語であろう吾君(アギ)という言葉が、何故に応神天皇時代以前に使われていないのか?それはつまり、神功皇后&応神天皇の時代から蝦夷国との繋がりを持ったからではなかろうか?となれば伝説の馬8頭は、応神天皇に対し蝦夷国が敬意を表する為に寄贈したものだと解釈すれば納得できる。
また文字であるが、渡来系の人種は、その習慣に則って文章を書き表す場合、漢文で表していた。ところが「万葉集」などでの「防人の歌」は漢文では無いのは何故か?例えば、聖武天皇の時代に蝦夷国で黄金が発見されたのだが、それに対する歌が詠まれた。
天皇の御代栄えん東なる 陸奥山に黄金(こがね)花咲く
実はここにダウトがある。黄金を「こがね」と読むのはアイヌ語であった。黄金(こがね)銀(しろがね)鉄(まがね)と読むのも全て蝦夷の使う言葉であった。聖武天皇時代以前に、日本で黄金は産出されていなかったのに、大量の黄金が陸奥から贈られた時に、その呼び名も伝わったものなのだろう。つまり「吾君」や「黄金」だけではなく、蝦夷の言葉の影響と融合は、応神天皇時代から、ふつふつと伝わっていたのだと感じる。
また和歌に関してだが調べると、どうも朝廷内では長い間「和歌は淫歌」であると軽蔑していたきらいがある。ところが宮中で公然と和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇時代からであるのは、やはり蝦夷の文化が入り込んだと考えて良いのかもしれない。何故なら考謙天皇は、蝦夷である安倍の血筋であるからだ。単純な話…例えば岩手県に何故、新幹線の駅が沢山あるか、それは当時の総理大臣が岩手県の人物であったからだ。時の権力者がトップに立てば、今まで避けて来た文化などを強権的に取り入れる事ができる。であるから宮中で和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇の力であったと考えて良いだろう。極端にいえば、和歌の文化的ルーツは考謙天皇にあったという事になる。
またこれは、あくまでも伝説ではあるが、和泉式部(岩手県)も、小野小町(秋田県)も陸の奥出身であるというのも本来、和歌というものは蝦夷国で栄えた文化では無かったのか?だからこそ、安倍貞任は源義家に対して、あっさりと歌を返した。遠野に伝わる清滝姫の和歌の伝説も、有り得ない伝説では無くなるのかもしれない。
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アラハバキ神
遠野には、二つの貞任山があり「安倍文書」には「猿ヶ石と遠野郷の南北の霊山二ヵ処に荒覇吐神社を建立す。此の二山を貞任山と号す。」とある。荒覇吐とはアラハバキと読み、谷川健一「白鳥伝説」ではアラハバキ神の事を、元々土地の精霊であり地主神であったものが後来の神にその地位を奪われて客人扱いを受けたという。全国的にも、その地に祀られていた土着の神が後から祀られた神に主祭神の位置を奪われ、末社に追いやられている場合が多い。
ところで気になるのは、宮城県多賀城市にあるアラハバキ神社だ。「封内風土記」には「阿良波々岐明神社 何時勧請せるや不詳と云い伝う。一宮末社也。之を祈み報賽する者は脛巾を献ず。」とある。この文に登場する一宮とは塩竈神社の事である。つまり従来の理屈に当て嵌めてみれば、塩竈神社に祀られていた神とは本来、アラハバキ神であろうか?
アラハバキ神の正体には、様々な諸説がある。蛇神・塞の神・製鉄の神・などいろいろ言われているが、御神体として男根を模ったものを祀っているのを考え合わせても、全てに共通するものは山の神としてではなかろうか?
本来、山とは信仰の対象であり、遠くから仰ぎ見るものであった。修験が広がり、山伏たちが挙って山に登るようになり、明治時代の西洋のアルピニストの影響により、一般庶民までもが山々に上るようになった。しかし古代の日本では、山に登るという事は、殆ど行われていなかったようだ。
遠野の北に聳える早池峰山に関わる重要な人物として登場するのが始閣藤蔵である。菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」には藤蔵の子孫に伝わっている文書が紹介されている。「来内金山の守り神となって金鉱脈を発見させて下さったなら、お礼に早池峰山頂にお宮を建て、東岳三社権現として祀ると約束…。」とある。古来の山伏は鉱山師でもあったのだが、藤蔵の本来が山伏であったのかは定かではない。ただここで考えられるのは、藤蔵が初めて早池峰山に登ったのは、金脈を発見した後ではないかという事だ。
藤蔵が伊豆から来内の地に来たのは、金山開発が目的であったのだろう。しかし来内の地からは、早池峰はまず見えない。眼前に聳えて目立つ山は、六角牛山であるからだ。その六角牛山には、早池峰と同じ神が祀られている痕跡がある。藤蔵の子孫に伝わる文書には東岳三社権現とあるが、六角牛はその早池峰の分霊が祀られている山であった可能性は高い。おそらく藤蔵は、来内の地で人々から、この遠野の地で一番位の高い、北に聳える早池峰山の話を聞いたのだろう。その早池峰山こそが来内の地から眼前に聳える六角牛山に祀られる神の大元であったからではなかろうか?だからこそ藤蔵は、遠く北に聳える早池峰山の神に願をかけたのだと考える。それから金が発見されて初めて藤蔵は、感謝の意を込めて聖域である誰もが登らない早池峰山に登ったのだろう。
貞任山に連なる山々では現在、山躑躅が満開となっている。この山々では早池峰がどこからでも見る事ができる。早池峰を仰ぎ見る事ができる山…つまり早池峰山の遥拝所としての機能があったのだと感じる。だからこそ、早池峰を信仰したであろう安倍一族のアラハバキ神社も、この地に建立されたのであろう。
アラハバキ神で思い出すのが、東和町の丹内山神社だ。この丹内山神社の御神体はアラハバキの岩であり、また丹内山神社の神は、丹内神社の背後約4キロ先に建立されている滝ノ沢神社の敷地内にある滝に顕現したとある。その滝ノ沢神社に祀られている神は、早池峰の神と同一である。そしてまた、丹内神社に向かって滝ノ沢神社を線で結ぶと早池峰山に繋がるのは、もはや偶然ではないだろう。
アラハバキ神を山の神と捉えると、女神となる。何故なら、アラハバキ神社の御神体としてあるものの中に男根を模ったものがあるが、これは本来、女神であろう山の神に捧げる為に祀られたのであろう。となれば当然、遠野に伝わるコンセイサマという男根を模ったものはアラハバキ神に通じるものであろう。安倍一族の末裔建立した綾織の地の胡四王神社も後に、やはり安倍一族の息のかかった駒形神社に合祀されている。その駒形神社の御神体もまた男根を模ったものである事から、綾織の胡四王神社もまたアラハバキ神を祀っていたのではないか?そのアラハバキ神が女神であり、山の神であるならば、それは全て早池峰に通じる可能性は高い。となれば、安倍氏の息のかかっていた宮城県の一宮である塩竈神社に祀られていた神もアラハバキ神であるならば、本来は早池峰の神と同じであった可能性があるだろう…。